Ⅱ ➊-①
しかしながら、「開いた社会」についての書物の著者として、私は蚊の社会が開いた社会であることを否定するであろう。
なぜなら、開いた社会の特徴の一つは、民主的統治形態を別にすれば、結社の自由を大切にすること、それどころか異なった意見と信念とを保持する自由な部分社会を保護し奨励しさえすることである、と私は考えるからである。
しかしすべての道程をわきまえた蚊は、自分たちの社会にこの種の多元主義が欠けていることを認めざるをえないであろう。
しかし私は、今日は自由の問題に関連した社会的または政治的論点は一切議論するつもりはない。
そして私は蚊柱を社会全体系の実例としてではなく、雲のような物理的体系の主要例として、きわめて不規則的または無秩序な雲の実例または典型として用いるつもりである。
多くの物理的、生物学的、社会的体系と同じように、蚊柱は一つの「全体」として叙述できる。
蚊柱はその最も稠密な部分が群から余りにも遠くにさまよっている個々の蚊に及ぼす一種の引力によってひとまとまりを保っているというわれわれの推測は、この「全体」がその要素または部分に及ぼす一種の作用または規制さえがあることを示す。
それにもかかわらず、この「全体」は、全体はつねにその部分の単なる合計よりも大であるという広範にいきわたった「全体論的」信条を一掃するために用いることができる。
私は全体が時としてそのようなものでありうることを否定しない。
⑧ 私の「歴史法則主義の貧困」(1957年およびその後の版)の第23節を参照。そこで私は「全体」(または「ゲシュタルト」)についての「全体論的」基準(「全体はその部分の単なる総和以上のものである」)が石の「単なる堆積」といった全体論者お好みの「全体でないもの」の実例によってさえ満足されることを論証することによって、この基準を批判している。(全体が存在するということを私が否定するものではないことに注意されたい。私はただ、ほとんどの「全体論的」理論の浅薄さに反対を唱えているにすぎない)。
しかし蚊柱は、実にきわめて正確な意味において部分の合計にほかならないところの全体の1例である。
なぜなら、蚊柱は、すべての個々の蚊の運動を叙述することによって完全に叙述されるばかりでなく、全体の運動は、この場合では、正確に成員数によって除された構成成員の運動の(ベクトル的)合計だからである。
諸部分のきわめて不規則な運動にある規則を及ぼす生物学的体系または全体の(多くの点で類似的な)例は、数時間にわたって森を徘徊するが決して自家用車から遠く離れて迷子にならないところの、ピクニックをしている家族----両親と何人かの子供たちと犬であろう。(この場合は、自家用車いわば引力の中心のように作用する)。この体系はわれわれの蚊の雲よりもいっそう雲的だと----つまりその部分の運動において規則性がより少ないと----いえるであろう。
左方に雲と右方に時計のある私の二つの原型または範型と、それらのあいだに多くの種類の事物、多くの種類の体系を配列しうる仕方についての考えを、理解していただけたかと思う。
私はあなた方の概念がなおいささか霧がかかっている、あるいは雲のようであるとしても、あなた方は思い悩む必要はない。
しかしながら、「開いた社会」についての書物の著者として、私は蚊の社会が開いた社会であることを否定するであろう。
なぜなら、開いた社会の特徴の一つは、民主的統治形態を別にすれば、結社の自由を大切にすること、それどころか異なった意見と信念とを保持する自由な部分社会を保護し奨励しさえすることである、と私は考えるからである。
しかしすべての道程をわきまえた蚊は、自分たちの社会にこの種の多元主義が欠けていることを認めざるをえないであろう。
しかし私は、今日は自由の問題に関連した社会的または政治的論点は一切議論するつもりはない。
そして私は蚊柱を社会全体系の実例としてではなく、雲のような物理的体系の主要例として、きわめて不規則的または無秩序な雲の実例または典型として用いるつもりである。
多くの物理的、生物学的、社会的体系と同じように、蚊柱は一つの「全体」として叙述できる。
蚊柱はその最も稠密な部分が群から余りにも遠くにさまよっている個々の蚊に及ぼす一種の引力によってひとまとまりを保っているというわれわれの推測は、この「全体」がその要素または部分に及ぼす一種の作用または規制さえがあることを示す。
それにもかかわらず、この「全体」は、全体はつねにその部分の単なる合計よりも大であるという広範にいきわたった「全体論的」信条を一掃するために用いることができる。
私は全体が時としてそのようなものでありうることを否定しない。
⑧ 私の「歴史法則主義の貧困」(1957年およびその後の版)の第23節を参照。そこで私は「全体」(または「ゲシュタルト」)についての「全体論的」基準(「全体はその部分の単なる総和以上のものである」)が石の「単なる堆積」といった全体論者お好みの「全体でないもの」の実例によってさえ満足されることを論証することによって、この基準を批判している。(全体が存在するということを私が否定するものではないことに注意されたい。私はただ、ほとんどの「全体論的」理論の浅薄さに反対を唱えているにすぎない)。
しかし蚊柱は、実にきわめて正確な意味において部分の合計にほかならないところの全体の1例である。
なぜなら、蚊柱は、すべての個々の蚊の運動を叙述することによって完全に叙述されるばかりでなく、全体の運動は、この場合では、正確に成員数によって除された構成成員の運動の(ベクトル的)合計だからである。
諸部分のきわめて不規則な運動にある規則を及ぼす生物学的体系または全体の(多くの点で類似的な)例は、数時間にわたって森を徘徊するが決して自家用車から遠く離れて迷子にならないところの、ピクニックをしている家族----両親と何人かの子供たちと犬であろう。(この場合は、自家用車いわば引力の中心のように作用する)。この体系はわれわれの蚊の雲よりもいっそう雲的だと----つまりその部分の運動において規則性がより少ないと----いえるであろう。
左方に雲と右方に時計のある私の二つの原型または範型と、それらのあいだに多くの種類の事物、多くの種類の体系を配列しうる仕方についての考えを、理解していただけたかと思う。
私はあなた方の概念がなおいささか霧がかかっている、あるいは雲のようであるとしても、あなた方は思い悩む必要はない。