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続;「膠観」

2013-08-27 13:03:09 | アルケ・ミスト
Ⅱ ➊-①

しかしながら、「開いた社会」についての書物の著者として、私は蚊の社会が開いた社会であることを否定するであろう。
なぜなら、開いた社会の特徴の一つは、民主的統治形態を別にすれば、結社の自由を大切にすること、それどころか異なった意見と信念とを保持する自由な部分社会を保護し奨励しさえすることである、と私は考えるからである。
しかしすべての道程をわきまえた蚊は、自分たちの社会にこの種の多元主義が欠けていることを認めざるをえないであろう。

しかし私は、今日は自由の問題に関連した社会的または政治的論点は一切議論するつもりはない。
そして私は蚊柱を社会全体系の実例としてではなく、雲のような物理的体系の主要例として、きわめて不規則的または無秩序な雲の実例または典型として用いるつもりである。

多くの物理的、生物学的、社会的体系と同じように、蚊柱は一つの「全体」として叙述できる。
蚊柱はその最も稠密な部分が群から余りにも遠くにさまよっている個々の蚊に及ぼす一種の引力によってひとまとまりを保っているというわれわれの推測は、この「全体」がその要素または部分に及ぼす一種の作用または規制さえがあることを示す。
それにもかかわらず、この「全体」は、全体はつねにその部分の単なる合計よりも大であるという広範にいきわたった「全体論的」信条を一掃するために用いることができる。
私は全体が時としてそのようなものでありうることを否定しない。 

⑧ 私の「歴史法則主義の貧困」(1957年およびその後の版)の第23節を参照。そこで私は「全体」(または「ゲシュタルト」)についての「全体論的」基準(「全体はその部分の単なる総和以上のものである」)が石の「単なる堆積」といった全体論者お好みの「全体でないもの」の実例によってさえ満足されることを論証することによって、この基準を批判している。(全体が存在するということを私が否定するものではないことに注意されたい。私はただ、ほとんどの「全体論的」理論の浅薄さに反対を唱えているにすぎない)。

しかし蚊柱は、実にきわめて正確な意味において部分の合計にほかならないところの全体の1例である。
なぜなら、蚊柱は、すべての個々の蚊の運動を叙述することによって完全に叙述されるばかりでなく、全体の運動は、この場合では、正確に成員数によって除された構成成員の運動の(ベクトル的)合計だからである。

諸部分のきわめて不規則な運動にある規則を及ぼす生物学的体系または全体の(多くの点で類似的な)例は、数時間にわたって森を徘徊するが決して自家用車から遠く離れて迷子にならないところの、ピクニックをしている家族----両親と何人かの子供たちと犬であろう。(この場合は、自家用車いわば引力の中心のように作用する)。この体系はわれわれの蚊の雲よりもいっそう雲的だと----つまりその部分の運動において規則性がより少ないと----いえるであろう。

左方に雲と右方に時計のある私の二つの原型または範型と、それらのあいだに多くの種類の事物、多くの種類の体系を配列しうる仕方についての考えを、理解していただけたかと思う。
私はあなた方の概念がなおいささか霧がかかっている、あるいは雲のようであるとしても、あなた方は思い悩む必要はない。


続;「膠観」

2013-08-26 16:36:59 | アルケ・ミスト
Ⅱ (pp235-238)➊

私の講演の中心目的は、これらの古来からの問題を端的に、そして力強く、あなた方の前に提示しようと試みることである。
しかし私はまず、私の講演の主題にでている雲と時計について、いささか述べなければならない。

その雲は、ガスと同じように、きわめて不規則的で無秩序的な、多かれ少なかれ予測不能な、物理的体系を表そうとするものである。
いちじるしくかき乱された無秩序的な雲を左端にした図式または配列がわれわれの前にあると仮定しよう。

われわれの図式の他の端、つまり右端に、規則的で秩序のある、きわめて予測可能な振舞いをする物理的体系を表すものとして、非常に信頼できる時計を置くことができる。

常識的事物観と呼びうるものにしたがえば、天候とか雲の去来といったいくつかの自然現象は、予測が困難である。
われわれは「天候の気まぐれ」ということをいう。これと反対に、きわめて規則的で予測可能な現象を叙述しようとするときに、われわれは「時計のような正確さ」といういいかたをする。

雲を左方に、時計を右方にしたこれらの二つの極端の中間に位置づけることのできる、非常に多くの事物、自然過程および自然現象がある。変化する諸季節はいささか信用のできぬ時計であり、それゆえ右方に向かってそう遠くないところに位置づけできよう。
動物は左端の雲からそう遠くないとこに、また植物を時計に近いところに置くことにわれわれは容易に同意するだろうと、私は考える。
動物のうちでも仔犬はおとなの犬よりもずっと左の方へ位置づけられなければならないであろ。
もろもろの自動車も、それらの信頼性にしたがって、われわれの配列のどこかに位置づけられるであろう。
キャデラックは、私の思うに、右方に向かってかなり遠くに、ロールス・ロイスはさらにいっそう遠くに位置づけられ、時計のうちで最良のものにごく近い。おそらく右側に最も遠く太陽系が位置づけられるであろう。

⑦ 太陽系の不完全性については、以下の注⑪と⑯を参照されたい。

雲の典型的で興味ある例として、私はここで小さなハエまたは蚊の雲または群を用いようと思う。ガスにおける個々の分子と同じように、一緒になって蚊柱をなしている個々の蚊たちは、驚くほど不規則的な仕方で運動する。たとえそれぞれの蚊がはっきり見えるほど十分大きいとしても、どれか一つの個体の蚊の飛行を追跡することは、ほとんど不可能である。




蚊の速度が非常に広範な分布を示さないという事実を別にすれば、蚊はガス雲における分子の、あるいは嵐雲における微小な水粒の、不規則な運動のすぐれた描像をわれわれに提供する。
蚊柱は分散ないし拡散せず、きわめてよくひとまとまりを保っている。
このことは、さまざまな蚊の運動の不規則な性格を考えれば、驚くべきことである。
しかしそれは、引力によってひとまとまりを保っている十分大きなガス雲(われわれの大気や太陽のような)にその相似物をもっている。
蚊の場合には、それらがひとまとまりになっていることは、個々の蚊があらゆる方向にまったく不規則に飛行するが、群れから離れつつあると気づくや最も稠密な部分に向かって引き返すという仮定をすれば、容易に説明できる。

この仮定は、蚊がいかなるリーダーももたず、いかなる構造ももたない----蚊が無法則的またはランダムな仕方でまったく気ままに行動するという事実ならびに蚊が仲間たちから遠く離れるのを好まないという事実から結果するランダムな統計的分布だけしかもたない---にもかかわらず、ひとまとまりの群を保っているのはなぜだろうかという理由を説明する。

哲学的な蚊は、蚊の社会は想像しうる最も平等主義的で自由な、民主的な社会であるから、偉大な社会であり少なくとも良き社会であると主張するかもしれない、と私は考える。


続;「膠観」

2013-08-25 14:17:22 | アルケ・ミスト
1 ➊-①

後年、第二次世界大戦中に、私はコンプトンが偉大な物理学者であるばかりでなく、正真正銘の、また勇気のある哲学者でもあること、そしてさらに彼の哲学的関心と目的がある重要な点において私自身のそれと一致することを見出し、驚きかつ喜んだ。
私がこのことを知ったのは、ほとんど偶然に、「人間の自由」と題された書物のなかに、1935年に発表されたコンプトンの魅力ある
テリー講演に接したときだった。

⑤The Freedom of Man、1935(第3版、1939年)。この本は主としてコンプトンが1931年にイエールでおこなったテリー講演と、これに加えてテリー講演のあとまもなくおこなわれた他の二つの連続講演にもとづいたものである。

あなた方は、私がコンプトンの書物の標題「人間の自由」と私自身の本日の題目のなかに取り入れたことに気づかれたであろう。
私がそうしたのは、私の講演がコンプトンのこの本と密接に関連していることを強調するためである。
もっと正確にいうと、コンプトンが彼の書物の最初の二つの章で、また彼の別著「科学の人間的意味」の第二章のなかでふたたび、論じたのと同じ問題を論じるつもりでだからである。

⑥The Human Meaning of Science、1940。

しかしながら、誤解を防ぐために、私の本日の講演が主としてコンプトンの書物についてでないことを、私は強調しておかなければならない。
むしろ私の講演は、コンプトンが彼の二著のなかで取り組んだのと同じ古来からの哲学的問題をあらためて考察する試みであり、これらの古い問題に対する新しい解決を見出そうとする試みである。
私がここに略述しようとする概説的できわめて暫定的な解決は、私にはコンプトンの主要目的とよく適合するように思えるし、彼はこれに賛成したであろうと思う----実際、私はそう信じている。


続;「膠観」

2013-08-24 16:13:34 | アルケ・ミスト
1(pp233-235)その➊-①


1年前このホールで第1回アーサー・ホリー・コンプトン記念講演をおこなった私の前任者は、私より幸運であった。
彼はアーサー・コンプトンと個人的な面識をもてた。
私は彼に一度も会うことができなかった。

①1962年2月はじめ私がバークリに来たとき、私は何とかしてコンプトンに会おうとした。彼の生存中に、私は彼に会うことができなかった。

しかし私は1920年代における私の時代から、特にコンプトンとサイモンの有名な実験がボーア、クラーマース、スレイターの美しいが短命だった量子論を反駁した1925年以来、コンプトンについて知っていた。

②Phys.Rev.25、1925、pp309ff.等   ③Phil.Mag.47.1924、pp785ff、and Zeitschr.f.Phys.24、1924、pp.69ff等;
ボーア、クラーマース、スレイターの理論は、光が粒子性と波動性という二重性を具えていることを認めるが、ただし波動としての電磁場は、光子の放出吸収をともなう原子の状態遷移の確率のみをあたえるものと考える。
つまり、エネルギー・運動量の保存則は、個々の輻射過程については成立しないが、多数の輻射過程については統計的に成立するものと考える。
このボーアたちの理論はコンプトン効果の実験によって否定されるが、さらにコンプトンとサイモンは、1925年にウィルソン霧箱の立体写真によって、1次の反跳電子と散乱線であばきだされた2次電子との起点と方向を論ずることにより、両者が直接の因果関係にあって、保存則の適用による計算と一致する結果を確かめ、ボーアたちの理論を決定的に反証した。
しかしボーアたちの理論は初めて確率的な考えを導入した点で、量子力学の形成過程で重要な役割を果たした。


この反駁は量子論の歴史における決定的な出来事の1つであった。それというのも、この反駁がもたらした危機から、いわゆる「新量子論」---が生まれたからである。

コンプトンの実験的テストが量子論の歴史において決定的役割を演じたのは、二度目であった。
第一回目は、いうまでもなく、コンプトン効果の発見、つまりアインシュタインの光量子または光子の理論についての(コンプトン自身がしてきしたように)最初の独立的テストであった。

③にあげたコンプトンとアリソンの著書の第1章、第19節を見られたい。





一般注
欄外注記等は、そのつど簡略に斜字体を以て記す。その適用箇所はアンダーラインを以て示す。

続;「膠観」

2013-08-23 17:00:18 | アルケ・ミスト
夏の甲子園が終わった。

その日のニュースではイチロー、それから圭子のニュースが目にとまった。

イチは時間を語る自身のセンスが光っていた。
勝負の世界に生きてきたその真言とも受け止めえる・・・活字には無い音声には、間合いとか息遣いが、複雑な重層的なネットから絞り出される。
その経験をうまく表象している。

他方、10年を省みる圭子の諦念はartistとしての怨歌とも言うべき何かに気づかせる。
それが録音風景の寸描である。
経験から滲み入ってきた全てを滲み出させるネットの重層構造に託す言霊の日々のおもいが、拒まれたIT化の現場風景。

寂寥感が切って落とされる言葉、「違うでしょう!」

今日は処暑。
合理性の問題と人間の自由----「雲と時計」は1965年4月21日にワシントン大学でおこなわれた第2回アーサー・ホリー・コンプトン記念講演。の収録である。


コンプトン(Arthur Holly Compton1892-1962)はアメリカの実験物理学者。
ワシントン大学(セント・ルイス市)総長。

短い波長のx線を炭素などの原子量の比較的小さい物質にあてると波長の長い線が散乱する事実、いわゆる「コンプトン効果」を発見した。(1923年)。
この現象は、電子に衝突した線が散乱された方向と、この衝突のために減じた振動数とのあいだに一定の関係が成り立つことを示したもので、その量的関係はアインシュタインの光量子仮説によって見事に説明され、同時に、光子と電子との衝突においてエネルギー保存と運動量保存の法則がそれぞれ成り立つことも直接確かめられた。

コンプトンはそのご宇宙線の研究に従事し、1927年にはノーベル物理学賞を受けた。



続;「膠観」

2013-08-22 19:52:25 | アルケ・ミスト
いま思い出した、その日のメモ。



「こうかん」とは光冠でも光環でもない。
膠竿とも違っている。

『膠観』はわたしの造語であるかも知れない!と気がついて目覚めた。

確かに手元にある辞典類にも、その言葉は見当たらない。

白川静「字通」によりて、改めて見てみる『膠』は、豊饒な言葉だと感じ入ったりする。

簡略にその要点をきす。

「昵ヂツ(のり)なり。之れを作るに皮を以てす」とあり、皮角などを用いる。とある。
さらに「徳音孔はなはだ膠カタし」とあり、堅固の意に用いる。ともある。

① かわ、にかわする。
② つく、ねばる、かたい。
③ まじわる、みだれる、いりくむ。
④ 謬と通じ、いつわる、あやまる。
⑤ 糾と通じ、ただす。

因みに[膠竿]コウカンとは、さし竿。もち竿。とりもちで小鳥の類をとる。使用例として、「膠竿を執りて黄雀を捕ふれば、黄雀従って之れに噪ぐ。略

引用されてる熟語は多いけれども、それらの多くには馴染みがあるわけではない。少し記しておこう。

[膠結][膠固][膠漆][膠柱][膠目][膠牙][膠葛][膠譎][膠言][膠口][膠膠][膠執][膠瑟][膠舟][膠序][膠相][膠譲][膠青][膠船][膠続][膠致][膠緻][膠著][膠泥][膠粘][膠黏][膠皮][膠附][膠蜜][膠戻]・・・

さらにきずくのは〔膠柱鼓瑟〕ような熟語である。

『観』は「諦観するなり」とあって、審らかに視る意とする。
観とはこの鳥占いによって神意を察することであろうと受け止められよう。

こうして『膠観』という字源をなぞってくると何となく浮上してくるかのような、波紋のような広がりが感じられはするが、浮世話のような、もしくは懐疑てきでもある感覚にとらわれているのかも知れない。

漂泊の俳人と言えば松尾芭蕉等が思い出されようが、何も彼に限られたことでもない。
「浮雲」の二葉亭四迷なども、また漂白の人であった。


この席上で余は長谷川君と話す機会を得なかった。
ただ黙って君の話しを聞いていた。その時余の受けた感じは、品位のある紳士らしい男――文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない、あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であった。
そうして、この品位は単に門地階級から生ずる貴族的のものではない、半分は性情、半分は修養から来ているという事を悟った。
しかもその修養のうちには、自制とか克己とかいういわゆる漢学者から受け襲ついで、強しいて己おのれを矯ためた痕迹がないと云う事を発見した。
そうしてその幾分は学問の結果自からここに至ったものと鑑定した。また幾分は学問と反対の方面、すなわち俗に云う苦労をして、野暮を洗い落として、そうして再び野暮に安住しているところから起ったものと判断した。
「長谷川君と余」夏目漱石;「青空文庫」


続;「膠観」

2013-08-21 16:48:11 | アルケ・ミスト
昔の事はよい。

いまでしょう!いまはどうなんですか?

いまの問題はね!システム手帳のメモから再構成されうると思える・・・統合力の問題を見つめていたニュートンだな。

つまりベーコン経験論と古代数学の統合とかケプラーの惑星とガリレオの地球問題もそれ。そしてヘルメス的な錬金術と機械的な粒子論の統合には失敗した事などかな。

もっとも、その失敗が成功の元へと、反転させえたのだが。

三位一体ではなくて二位一体(硫黄-水銀)からの「緑のライオン」・・・・テンテンテンのハンテンで埋め尽くされた新しい力の概念に至った。

よくは解らないけれど、「緑のライオン」ではなくて、そこからしたたり落ちる血、つまり賢者の水銀が鍵となるのだろう。


さらに遡るとフランスの実証主義・ドイツの理想主義・そしてイギリスの経験論。さらにはアメリカの実用主義など。
そこでは育つべくして育つ事となったイギリスであり、ニュートン的な錬金術が垣間見えてくる。


それが「自然哲学の膠質的諸原理」となるはずが、転んでもただでは起きないニュートンの「自然哲学の数学的原理」となったのだったね。

それだ!
それが、いまでしょう!今でもその意思が脈々と受け継がれていると、自身が感じていたのではないのですか?

あと知恵からは数多くの、・・・テンテンテンのハンテンで埋め尽くされたチギリ絵。たとえれば山下清の隅田川の花火の如きものを描くことも可能ではあるが。そのような事はここではしない。


多分直接的な引き金は、立入明先生の小論であったと考えられるけれども、それは別の機会に検証してみたい。







続;「膠観」

2013-08-20 15:15:55 | アルケ・ミスト
今朝はずいぶん早く目が覚め、その直後に『膠観』がよぎった。

『膠観』とはわたしの造語であろか?との想いが過ぎったのである。

そうであったとしても勿論、驚きはしないけれども過ぎったのは、そうではなくてもしも、わたしの造語であるならば、それ相応の責務も生じてくるとの意識であった。

それは打ち捨てられる事を惜しむ気持ちと同時に、より大きくは深く馴染んできた自身の愛着のようなものは、然るべき方法で、こうかいされて良いとも、されるべきだとも思える。

その言葉をつかい始めた経緯などは置くとしても、いま、その言葉を以て想起される事には触れておくのが、その淵源を尋ねる早道かもしれないとは思われる。

それが20年以上も前の事であることは確かなことである。その時にはなしたのが「雲と時計」であった。

はなし終わった時に、「雲と時計」何の事だかわかるか?
その問いかけは、静まり返った空間をいっそう静まりかえらせたような反応のなさに、何かが宿ったとは、あとできがついた。

カール・ポパー「客観的知識」を読んだわけでは決してないが、何故か「雲と時計」だけは丁寧に読み込んだあとが残されている座右の書である。

これが『膠観』と何らかの繋がりをもっていることはいま、疑い得ないと思う。



少しピントがボケているような白黒の写真は、やけにその陰影が深くうつっている。
何故か、この一枚が選ばれたのである。

ペイジをめくると客観的知識---進化論的アプローチ---、段差をおいてカール・R・ポパー著そして森 博訳とある。 
出版社は木鐸社である。

さらにめくると、アルフレト・タルスキーに捧げるとあり、それからの序言である。



「人間知識の現象は疑いなくわれわれの世界における最大の奇跡である。
それはおいそれとは解けそうもない問題をつくりあげており、私は本書がこの解決に多少とも寄与するとさえ考えていない。しかし私は、3世紀にわたって、準備段階で泥沼のなかにはまりこみ、動きがとれなくなってしまっていた議論を、救い出し再出発させる手助けをしたいと思っている。

デカルト、ホップス、ロック、および彼らの学派---デーヴィド・ヒュームだけでなく、トーマス・リードを含む----以来、知識の理論〔認識論〕は、きわめて主観主義的であった。知識は特別に確実な部類の人間的信念とみなされ、科学的知識は特別に確実な人間的知識とみなされてきた。

本書の諸論文は、アリストテレスにまでさかのぼりうる伝統----この〔主観主義的な〕常識的知識理論の伝統---ときっぱり手を切っている。
私は大の常識賛美者であり、常識は本質的に自己批判的だと主張するものである。

だが、私は常識的実在論の本質的真理性を最後まで支持する用意があるけれどども、常識的知識理論は主観主義的な大きな誤りだとみなしている。

この大誤りは西洋哲学を支配してきた。
私はこれを根絶し、本質的に推測的性格をもつ知識の客観的理論に取り替えようと試みた。これは大胆な要求かもしれないが、それについては私は弁解しない。

しかし、本書の諸論文に若干の重複がある点については釈明しなければならないと思う。
既発表のものであれそうでないものであれ、私はさまざまな章を、それらが部分的に重複している場合でさえ、ほとんど執筆当時のままにしておいた。
私は現在ではジョン・エクルス卿の「実在に面して」の示唆にしたがって、第2章に見られるように「世界1」、「世界2」、「世界3」という言い方をする方が良いと思っているのであるけれども、第3章と第4章で「第一」、「第二」、「第三」世界といっているのも、このような〔執筆当時なままにしておくという〕理由によるものである。


                                            カール・R・ポパー  
                                            ベン、バッキンガム州   1971年7月24日


謝辞
私はデーヴィド・ミラー、アルネ・F・ベーテルゼン、ジョルミ・シェアムール、およびとりわけ私の妻の、たゆまぬ根気強い助力に深い恩恵をこうむっている。


膠観

2013-06-30 09:00:00 | アルケ・ミスト

ルーヴェン大学に赴任後のシュヴァンの研究としては、胆液が生命の維持に不可欠な役割を演じていることを、胆液瘻管を利用して証明しようとする実験である。

これは、彼の最後の生理学的研究であり、それ以外には目ぼしいものはない。

初めての教職で、不慣れな講義の準備に忙殺されたためか、それとも先ほど述べた合理主義の放棄、リービヒの揶揄嘲笑のためか、あるいはエネルギッシュに仕事を展開していくミュラーの許を離れたためであろうか。

フロルカンの批評は手厳しい。「科学者が、教授、発明家、神学者に成り下がってしまった。」
1848年、シュヴァンはリエージュ大学に移った。友人スプリング(J.A.Spring、1814-1872)の招きによるものであった。

シュヴァンは、最初は解剖学講座を担当していたが、1858年には生理学、一般解剖学および発生学を受け持った。

1872年には一般解剖学をやめ、また1877年には発生学もやめて、以後は1880年に退官するまで、生理学だけを教えた。

その間、祖国プロイセンからは、何度かシュヴァンを呼び戻す動きがあった。

1852年にはブレスラウ、54年にはミュンヘンとヴェルツブルク、55年にはギーセン大学からも招聘を受けた。だが、シュヴァンは、2度と祖国の大学に帰ることなく、カトリックの国ベルギーを離れなかった。

ベルギーの鉱工業の中心地リエージュに来てからのシュヴァンの最大関心事は、炭坑で用いられる器具の発明・改良という実用性の強い問題であった。

特に彼が考案した炭坑での救急用呼吸装置は、その後、人間の代謝量を測定する装置や潜水夫によって用いられる装置の原型となった。

こうした発明以外には、彼の時間の大半を占めたのは宗教的瞑想であった。

フロルカンによるシュヴァンの評伝をみると、シュヴァンは彼の「顕微鏡的研究」の続編ともいうべきものの構想を練っていたようである。

第4部で被刺激性と脳の作用を扱い、第5部では「創造の理論」を論じようとしていた。しかしながら、これは未刊に終わった。

リエージュ時代のシュヴァンを巻き込んだひとつの事件があった。

1868年4月、ベルギーのボア・デーヌという所に住むラトー(Lateau、Louise、1850-1883)という信仰心の篤い若い女性の体に、毎金曜日にキリストの聖痕が現われ(stigmatisation)、脱魂状態になる、という出来事であった。

1869年3月、シュヴァンは、彼の弟子ルフェーヴル(F.Lefebvre、)と地区の司祭の依頼を受け、匿名を条件にラトーを診察し、これは奇跡ではないと認めたが、1週間後の新聞には、あたかもこの高名な科学者がそれを奇跡と認めたかのごとき記事として発表された。

これは、医学者としてのシュヴァンにとっては、名誉失墜ともいえる事件であった。

後日、フィルヒョーは、この事件を調べ、おだやかな口調ではあるがシュヴァンを弁護した(1874)。
シュヴァン自身も、真相を明らかにする一文を発表せざるをえなかった。

1878年6月23日、シュヴァンの教職40年記念行事が、リエージュ大学で盛大に行われた。
式典はベネデン(E.Beneden、)によって運営され、参集したベルギー内外の学者の中には、ヴァルダイアー・ハルツの名が見られる。

細胞学は、確実に世代交代を遂げつつあった。シュヴァンは、1880年に教職を退いた。

退職後も彼は、リエージュで静穏に暮らしていた。
以前から彼は、復活祭やクリスマスの休暇は、ラインランドの兄や妹の所で過ごすのを常としていた。
1881年のクリスマス休暇も、ケルンの兄の家に滞在した。

シュヴァンは脳出血に襲われ、約2週間病床にあったのち、1882年1月11日、死去した。享年71歳であった。




あのグラハムに限らずとも、興趣をおぼえるのは、ここからの本論であろう!夏休みに読んでみたい一冊である。
科学の名著「④近代生物学集」朝日出版社 1981年7月25日責任編集佐藤七郎

膠観

2013-06-29 09:00:00 | アルケ・ミスト
シュヴァンの思想的転換には、彼の長兄ペーター(Schwann、Peter、1804-1880)の影響力もあったといわれている。

ペーターは神学者であり、J.F.ミュラーというペンネームで「イエス・キリストのまねび」という著書もある人であった。

1838年11月、さらにもうひとつの出来事がシュヴァンを悩ますことになる。

独立して日も浅い隣国ベルギーのルーヴェン大学より、結核に罹患して解剖学教授の職を続けることが困難になったヴィンデイツシマン(K.J.Windischmann、1807-1839)の後任として、シュヴァンは招請された。
だが彼は、故国や肉親から離れることを躊躇し、同じころ話があったボン大学の生理学教授の地位に望みを託していた。けれども、ボン大学に職を得ることに失敗したシュヴァンは、ついに1839年3月、ルーヴェン大学に赴任することになる。

幸いにもベルギーは、カトリックの国であった。ベルリンを去る前に、シュヴァンは、「顕微鏡的研究」の刊行の最後の手はずを整えなければならなかった。

前にも述べたように、シュヴァン、カニャール・ド・ラ・トウール、キュッツイングは、発酵は生きている酵母によって引き起こされる現象である、と主張した。

しかしながら、この発酵学説は、当時の化学界の大御所たちによって、激しく攻撃されることになる。

スェーデンのベリセーリウス(J.J.Berzelius、1779-1848)は、彼の創始した触媒理論に基づいて酵母説を批判したし、ドイツではギーセン大学に拠って旺盛な研究・教育活動を展開していたリービヒが、発酵とは化学反応を行っている「物質」が、それに接触する物質に同じ反応を伝えたり、自分自身が受けているものと同じ変化を受けさせたりすることである、と主張して、生きている微生物が発酵の原因であるとするシュヴァンたちを激しく攻撃した。

「シュヴァンが1837年にアルコール発酵に関する論文を発表してからというものは、彼は、ドイツ化学の大立て者によって、面汚しとみなされていた。

だが、シュヴァンは、「顕微鏡的研究」の中でこの仕事を完成させ、細胞説と細胞の理論を系統立てて説くことをためらわなかった」
「生物体の形成過程に関する当時の研究は、ことによると、問題となっている発酵の理論を化学者たちの間にもっと広めるのに、多少は貢献するかもしれない。」というシュヴァンの発言は、一連の化学者たちの攻撃に対する精一杯の抵抗であったかもしれない。

1839年の初めごろ、リービヒの主宰する学術雑誌「Annalen der Pharmacie」に、テユルヴァンの論文のドイツ語抄訳に引き続いて、「解明されたアルコール発酵の秘密」と題する匿名の一文が掲載された。


「私はいま、アルコール発酵の新しい理論を展開しようとしている。・・・」で始まるこの短報は、おそらくはリービヒの友人のヴェーラー(F.Wohler、)によって書かれ、リービヒによって潤色されたものと考えられているが、シュヴァンたちの酵母説を相当ひどく虚仮にしたものであった。


「私」が顕微鏡で観察したビール酵母は、「水を加えると、直径800分の1の小球および微細な糸に分かれる。この小球を糖液中に置くと、信じられないくらいの速さ、何とも形容し難い様子で膨張し、分裂し、発展する動物卵の様相を呈する。
この動物は、今までに知られた600種の動物のどれとも異なっており、冷却装置を除いた蒸留器の形をしている。
頂端に開いた孔は吸い込み口であり、内側に2000分の1リーニエの長さの剛毛を有している。
歯も眼もないが、胃や腸、ピンク色をした点状の肛門、それに泌尿器官を有している。孵化するやいなや、この動物は、溶液から糖を呑み込む。
糖が胃に達するのが、はっきりと見られる。糖はすぐに消化され、排便される。
一言でいえば、この滴虫は糖を食らい、腸管からアルコールを排便し、泌尿器官から炭酸を出す。膀胱は、満杯の状態ではシャンパンびんの形をし、排出された状態では小さなボタン状である・・・・」と。

ドイツ有機化学界の文字通りの第1人者から受けたこの嘲弄は、「植物学者だたキュッツツイングや、多く機械の考案で有名だった技師のカニャール・ド・ラ・トウールのキャリアには、何の影響も及ぼさなった。


しかし、小心なシュヴァンにとっては、彼がプロイセンで科学者としての職業を続けていくことができなくなったほどの、残酷な仕打ちであったわけである。」




metabolism代謝現象、および代謝力という新しい概念を提出することによって、その後の生化学の発展に深い影響を与えたとの訳者注を、ここで思い出しておきたい。