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続;「膠観」

2013-09-06 17:34:12 | アルケ・ミスト
これと対照的に、「すべての出来事には原因がある」という定式は、正確さについては何も述べていない。

そして特に、もしもわれわれが心理学の法則を調べてみるならば、正確さの示唆さえない。

このことは、「内省」心理学または「精神主義的」心理学についてと同様、「行動主義的」心理学についても当てはまる。精神主義的心理学の場合においてさえ、せいぜいのところ所与の条件のもとで、ネズミは迷路を通り抜けるのに20秒から22秒かかるであろうことをあらかじめ決定するだけである。

行動主義心理学者は、いかにして、諸条件を特殊化することによって、ますます正確に---そして原則的には果てしなく正確に---なっていく予測をなしうるか、について何らの考えももっていないであろう。

そうであるわけは、行動主義的「法則」が、ニュートンの法則のように、微分方程式でないからであり、またそのような微分方程式を導入しようとするすべての試みは行動主義をこえて生理学に、究極的には物理学に導くからであり、それゆえわれわれを物理的決定論の問題にひきもどすであろうからである。

ラプラスが注意したように、物理的決定論は、もしわれわれが物理的世界の現状について十分な知識をもっているならば、遠い将来(または遠い過去)におけるすべての出来事を思うがままの正確度をもって予測できる(また推断できる)ということを含意している。

他方、ヒュームのタイプの哲学的(または心理学的)決定論のテーゼは、その最も強力な解釈においてさえ、二つの出来事のあいだの何らかの観察可能な差異は、あるいはまだ知られざる法則によって、世界の先行状態のうちのある相違に関係づけられる、ということを主張するにすぎない。

これは明らかに虚弱な主張であり、ついでにいっておけば、たとえ外見上「まったく等しい」諸条件のもとでおこなわれたわれわれの実験のほとんどが異なった結果を生み出したとしても、支持し続けることができるのであろうような主張である。

このことは、ヒューム自身が非常にはっきり述べたことである。

「これらの反対の諸実験がまったく等しいときですら、われわれは原因および必然性の観念を取り除かず、〔外見上〕偶然は・・・われわれの不完全な知識・・・にのみ存して、事物そのもののうちには存せず、事物はたとえ現象的に等しい恒常性または確実性をもたなくとも、あらゆる場合に等しく必然的である、とわれわれは推断する」。 

㉝ ヒューム、前掲書、403頁以下。これを404頁以下(ここでヒュームは「私は必然性を二つの仕方で定義する」といっている)と、また「必然性と呼ぼうが呼ぶまいが」すべてのものが「意志に(または心のはたらきに)属すると容認しなければならない・あの理解できる性質」を「物質」に帰属するものとしているのと、比較してみるのは興味がある。いいかえれと、ヒュームはここで彼の習性または習慣説と彼の連合心理学を「物質」に---つまり物理学に---適用しようと試みるのである。

ヒューム的な哲学的決定論および特に心理学的決定論が物理的決定論の針を欠いている理由がここにある。

なぜなら、ニュートン的物理学においては、ある系における外見的な不正確さは実際はただわれわれの無知にもとづくものであり、われわれがその系について十分な情報をもつならばいかなる不正確な現象も消えてなくなるであろうといったように、諸事物を実際に眺めるからである。
これと反対に、心理学は決してこの性格をもたない。

回顧してわれわれはこういえるのであろう。

物理的決定論は物理学におけるあらゆる進歩につれてますます現実的になっていくと思われた全知の夢---それが一見して不可避的な悪夢になるまでは---であった。

しかし心理学者のこれに対応する夢は、まったく空中楼閣にすぎなかった。
それは、物理学、その数学的方法、その有力な応用と同等なものを獲得するという、そしておそらくは人間と科学とを鋳型にはめて作り上げることによって優越性をさえ獲得するという、ユートピア的夢であった。(これらの全体主義的夢想は、科学的観点からすれば重大でないけれども、政治的にはきわめて危険である

㉞ 特に、魅力あり善意に満ちているがきわめて素朴なユートピア的全能者の夢想であるB.F.Skinner、Walden Two、1948を参照(特に246-50頁を見られたい。また214頁をも参照のこと)。Aldous Huxley、Brave New World、1932(またBrave New World Revisited、1959)、およびGeorge Orwell、1984、1948は周知の解毒剤である〔ハックスリ「すばらしい新世界」、オーウェル「1984」、早川書房「世界SF全集10」、1968年〕。私はこれらのユートピア的で権威主義的な考えのいくつかを、私の「開いた社会」1945年、第4版1962年と、「歴史的法則主義の貧困」のたとえば91頁で批判した。(両書における、いわゆる「知識社会学」に対する私の批判をとりわけ参照されたい)。

しかしこれらの危険については私は他のところで論じたので、ここではこの問題を扱わないことにする)。


続;「膠観」

2013-09-05 16:41:11 | アルケ・ミスト
Ⅷ 248-51

私はここで、私が基本的に重要だと考える物理的決定論の問題を、多くの哲学者や心理学者がヒュームに従ってそれにとって代えたところのほとんど重大でない問題と対照づけるためにしばらく横道にそれることにする。

ヒュームは決定論(彼が「必然性の教説」または「恒常的結合の教説」と呼んだもの)を、「似かよった原因はつねに似かよった結果を生む」および「似かよった結果はつねに似かよった原因から生じる」という教説として解釈した。

㉛ ヒューム「人性論」1739年(セルビイ・ビッグ版、1888年およびリプリント)174頁。またたとえば173頁および87頁をも参照。

人間の行為と意志に関して、彼は特にこう主張する。「われわれの行動を外部から観察する者は、普通には、われわれの動機や性格からわれわれの状況や気質の一切の事情とわれわれの・・・・性向の最も秘密な動因とを完全に知りさえすれば、推論できるであろう、と一般的に結論する。
ところで、このことこそ・・・必然性の本質そのものなのである」。

㉜ ヒューム、前掲書、408頁以下。

ヒュームの後継者はこう表現している。われわれの行動または意志、または趣味、または好みは、先行の経験(動機)によって、究極的にはわれわれの遺伝と環境によって、心理学的に「原因づけ」られている、と。

しかし、私が哲学的または心理学的決定論と呼ぼうと思うこの教説は、物理的決定論とは非常に異なったものであるばかりでなく、この問題を理解している物理的決定論者にはほとんど真剣に取り上げることのできないものである。
なぜなら、「似かよった結果は似かよった原因をもつ」とか「すべての出来事は原因をもつ」といった哲学的決定論のテーゼは、きわめて漠然としていてあいまいなので、物理的決定論とも完全に両立しうるからである。

非決定論---もっと正確には、物理的非決定論---は、単に、物理的世界においては必ずしもすべての出来事がそのあらゆる極致の細部にわたって絶対的正確さをもってあるかじめ決定されているわけではない、という教説にすぎない。
この点を別にすれば、それは実際にはあなた方の好むいかなる度合いの規則性とも両立しうるものであり、それゆえ「原因のない出来事」があるといった見解を帰結するものではない。
「出来事」とか「原因」といった語は、すべての出来事には原因があるという教説を物理的非決定論と両立可能にさせるほどあいまいだからである。
物理的決定論は完全で無限に正確な物理的予定といかなる例外も存在しないということ、を主張するにすぎない。

それゆえ、「すべての観察可能な、または測定可能な物理的出来事には、観察可能な、または測定可能な物理的原因がある」という定式でさえも、いかなる測定も無限に正確ではありえないから、なお物理的非決定論と両立しうる。それというのも、物理的決定論に関する顕著な突出点は、それがニュートンの力学にもとづいて数学的な絶対的正確さをもった世界の存在を主張するというところにあるからである。そして、そうすることにおいて物理的決定論は(パースが洞察したように)可能な観察の領域をこえているけれども、それにもかかわらず、任意の精確度をもって原則的にテスト可能である。また実際に驚くほど精確なテストに耐えた。

続;「膠観」

2013-09-04 17:22:29 | アルケ・ミスト
コンプトンからのこれらの引用文は、ハイゼンベルグ〔の理論が提示される〕以前に彼が、物理的決定論者の悪夢と私が呼んだものによって悩まされてきたこと、そして彼が知的分裂パーソナリティのようなものを採用することによってこの悪夢から逃れようと試みたこと、をはっきり示している。

あるいは彼自身の言葉でいえば、「われわれ〔物理学者〕は、困難に対して何らの注意も払わぬことを好んで選んだ・・・」。

㉘ 「人間の自由」27頁参照。

コンプトンは、すべてこれらのことから自分を救ってくれた新理論を歓迎した。

真剣に議論するに値する決定論の唯一の形態は、まさにコンプトンを悩ませた問題であると私は考える。
世界を物理的に完全なまたは物理的に閉じた体系として叙述する物理理論から生じる問題である。


㉙ われわれの物理的世界が偶然要素を含んだ物理的に閉じた系であると仮定する。明らかにそれは決定論的なものではないであろう。だが、目的、観念、期待、願望は、このような世界においては物理的出来事にいかなる影響ももちえないであろう。それらのものが存在すると仮定しても、これらは完全に余計ものであろう。それらは「随伴現象」と呼ばれるものであろう。(決定論的物理系は閉じているが、閉じた系が非決定論的でありうることに注意されたい。したがって、以下の第節で説明されるように、「非決定論は十分ではない」。なお、注40をも参照されたい)


物理的に閉じた体系と私がいっているのは、系内の諸要素が系外の何物とも相互作用したり干渉されたりするいかなる余地もないといった明確な相互作用の法則に従って、お互いに---そしてお互いどうしだけで---相互作用しあう原子とか素粒子とか物理的力とか力の場といった、物理的諸実体のセットまたはシステムである。
体系のこの「閉鎖」が決定論的悪夢を生み出すのである。

㉚ カントはこの悪夢に大いに悩まされ、そこから逃げる試みに失敗した。「人間の自由」67頁以下での「カントの逃げ道」についてのコンプトンのすぐれた論述を参照。(68頁2行目の「純粋理性の」という言葉は削除されるべきである)。コンプトンが科学の哲学の分野で述べるすべてのことに(は)私は同意しないことを、ここでいっておきたい。たとえば、私は次のような見解をとらない。ハイゼンベルクの実証主義または現象主義に対するコンプトンの承認(「人間の自由」31頁)、カール・エックハルトの面目をほどこすようなコンプトンのある種の指摘(同書、20頁の注7):ニュートン自身は決定論者でなかったように思われるが(先の注11を参照)、私は物理決定論のかなり正確な考えがいささかあいまいな「因果性の法則」の用語によって論じられるべきだとは考えない。また私は、ハイゼンベルクが1930年代において現象主義者(または実証主義者)であったといわれるうるのと同じような意味でニュートンは現象主義者であったということに、同意しない。

続;「膠観」

2013-09-03 16:36:11 | アルケ・ミスト
Ⅶ 246-8

このことを示すために、私はここにコンプトンの「人間の自由」のきわめて率直な章句を引用しよう。

「道徳の根本問題、宗教における死活問題、そして科学における積極的な研究の主題は、こうである。すなわち、人間は自由な行為者であるか。

もし・・・・われわれの身体の原子が、惑星の運動と同じような不変な物理的法則に従うとすれば、なぜ〔われわれは何とかしようと〕努力するのか。われわれの行為が力学的法則によってすでにあらかじめ決定されているのであれば、いかに大きな努力をすれば何らかの相違が生じうるのか・・・・

㉔ 「人間の自由」1頁を参照。

コンプトンがここで叙述しているのは、私が「物理的決定論の悪夢」と呼ぶものである。
決定論的な物理的時計仕掛けのメカニズムは、特に、一切が完備したものである。

完全に決定論的な物理的世界においては、いかなる外部からの干渉の余地もまったくない。かかる世界において生じる一切のことは、すべてのわれわれの運動、それゆえすべてのわれわれの行為をも含めて、物理的にあらかじめ決定されている。
したがってすべてのわれわれの思考、感情、努力は、物理的世界に生じるものに何らの実際的影響も及ぼしえない。
それらのものは単なる幻想でないとすれば、精々のところ物理的出来事の余計な副産物(「随伴現象」)である。

このおようにして、すべての雲が時計であることを立証しようと希望したニュートン主義者の夢は、悪夢へと転じる脅威にさらされた。そしてこれを無視しようとする試みは、知的に分裂したパーソナリティのようなものにと導いた。

コンプトンは、私の思うに、この困難な知的状況から彼を救ってくれる点で新理論に感謝した。それゆえ彼は「人間の自由」のなかで、こう書いている。
「物理学者は・・・・もし・・・・完全に決定論者的な・・・・法則が・・・・人間の行動に適用されるならば、自分自身が自動機械であるという事実に、ほとんど思い悩むことがなかった」。

㉕ 「人間の自由」26頁以下を参照。27頁以下(27頁に始まる最後のパラグラフ)をも見られたい。私の見解は引用された章句といささか異なることを指摘しておきたい。というのは、パースと同じように、私は系の法則がニュートン的で(それゆえ一見しては決定論的で)それにもかかわらず系が非決定論的であることは論理的に可能だと考えるからである。なぜなら、法則が適用される系は、たとえばその座標や速度が(無理数でなく)有理数であるといってみたところで何の意味もないという意味で、もともと不正確なものでありうるからである。次の指摘(Schrodinger、op.cit.、p.143を参照)もきわめて適切である。「・・・・エネルギー-運動量定理は、ただ4つの方程式をわれわれに提供するだけであって、それゆえ基本的な諸課程は、たとえその定理に従うとしても、大幅に決定されぬままにとどまっている」。

そして「科学の人間的意味」において彼は自分の安心をこう表明している。

「この死活的問題についての私自身の思考において、私はこれまでのいかなる科学の段階において得たよりもずっと大きな心の平安状態にある。
もし物理学者の法則の言明が正しいものだと想定されたならば、人は(たいていの哲学者がそうしたように)自由の感情は幻想であると考えなければならなかったであろう。あるいはもしい〔自由な〕選択が有効だと考えるならば、物理学の法則の言明は信頼できないとしなければならなかったであろう。このジレンマはやっかいなものであった・・・・」

㉖ 「科学の人間的意味」p.を参照。


本書のあとの方でコンプトンは、事態を次のような言葉で歯切れよく要約している。
「物理学的法則を人間の事由に対する反対証拠として用いることは、もはや正当化できない」。

㉗ 同書、42頁

続;「膠観」

2013-09-02 17:08:44 | アルケ・ミスト
Ⅵ 244-5

アーサー・ホリー・コンプトンは、新量子論と1927年のハイゼンベルグの新物理的非決定論を歓迎した最初の人の1人であった。

コンプトンはハイゼンベルグを連続講義のためにシカゴに招き、ハイゼンベルグは1929年の春にこの講義をおこなった。この連続講義はハイゼンベルグの理論の最初の完全な開陳であった。
そして彼の講義は1年後にシカゴ大学出版局からアーサー・コンプトンの序文を付してハイゼンベルグの最初の著書として発行された。

⑲ Werner Heisenberg. The Physical Principles of the Quantum Theory、1930.〔玉木英彦ほか訳「量子論の物理的基礎」みすず書房、1954年。これはコンプトンの序文は訳出されていない〕
この序文のなかでコンプトンは彼の実験が直接の先行者を反駁することによってその到達に寄与したところの新理論を歓迎した。

⑳ 私がいっているのは、ボーア、クラーマース、スレイターの理論(先の注3〔および訳注〕を参照)に対するコンプトンの反証である。また「人間の自由」7頁(最後の文)および「科学の人間的意味」36頁におけるコンプトン自身のそれとなき言及をも参照。

しかし彼はまた、警告の注意をも発した。
コンプトンの警告は、新量子論---コンプトンはこれを巧みに、また賢明にも、「物理学の歴史のこの章」と呼んだ---を「完全な」ものと考えるべきではないと絶えず主張したアインシュタインによるいくつかの非常によく似た警告を先き取りしたものであった。

㉑ ハイゼンベルグの前掲書頁以下におけるコンプトンの序文を参照。また(アインシュタインに言及した)「人間の自由」45頁での量子力学の不完全性についてのコンプトンの注意をも参照されたい。コンプトンは量子力学の不完全性を承認したが、これに対してアインシュタインはそこに理論の弱さを認めた。アインシュタインの批判にこたえてニールス・ボーアは(彼以前のJ.フォン・ノイマンと同じように)その理論は完全である(おそらくは言葉の異なった意味で)と主張した。たとえば、A.Einstein、B.Prodolsly、and N.Rosen、Physical Review、42、1935、pp.777-80〔「物理的実在の量子力学的記述は完全とみなしうるか」『アインシュタイン選集Ⅰ』1971〕、および48、1935、pp.696ff.におけるボーアの返答を参照。また、A.Einstein、Dialectica、2、1948、pp.320-4、および同巻のpp.312-19におけるボーアの論文も参照されたい。さらにP.A.Schilpp(ed)、Albert Einstein:Philsopher-Scientist、1949、pp.201-41および特にpp.668-74.におけるアインシュタインとボーアとのあいだの討論〔ボーア「原子物理学における認識論的問題に関するアインシュタインとの討論」、「世界の名著66」、「現代の科学Ⅱ」、中央公論社、1970年、27頁以下〕、および私の著書「科学的発見の論理」457-64頁に発表されたアインシュタインの手紙を参照。また445-56頁をも見られたい。

この見解はボーアによって拒否されたけれども、われわれは新理論がたとえばチャドウイックがおよそ1年後に発見した中性子の示唆さえも与えることができなかった事実を思い出すべきである。
この発見こそ実に、新量子論によってはその存在を予見されなかった一連の新しい素粒子の最初のものとなったのである。(陽電子の存在がデイラックの理論から導出されたことは事実であるとしても)。

㉒ N.R.Hanson、The Concept of the Positron、1963、chapter によって語られているその発見の歴史参照。

同じ年の1931年に、テリー講演において(先の注5を参照)、コンプトンは物理学における新しい非決定論の人間的意味合い、より一般的には生物的意味合いの検討の最初の人の1人となった。

㉓ 特に「人間の自由」90頁以下での「創造的進化」についての章句を見られたい。「科学の人間的意味」73頁を参照。


そして今では、なぜ彼がきわめて熱烈に新理論を歓迎したかという理由も明らかとなった。
新理論は彼にとって物理学の問題のみならず、また生物学的および哲学的問題、そのうちでも特に倫理に結びついた諸問題をも解決するものであったのだ。



続;「膠観」

2013-09-01 16:19:09 | アルケ・ミスト
Ⅴ 243-244

ここで私はしばらく、このような事態についての、そして科学的流行についての、私自身の見解を述べるために立ち止まりたい。

パースがすべての時計は---最も正確な時計でさえ---かなりの程度まで雲であるということを主張したのは正しかった、と私は考える。
これは、私の思うに、すべての雲は時計であるという誤った決定論の最も重要な転倒である。
さらに、パースがこの見解にニュートンの古典物理学と両立しうると主張したのは正しかった、と私は信じる。

⑯ 私はこの見解を1950年に論文“Indeterminism in Quantum Physics and in Classical Physics British Journal for the Philosophy of Science 1、 1950、No.2 pp.117-33、and No.3 pp.173-95.において開陳した。この論文を書いているとき、不幸にして、私はパースの見解(注12と13とを見られたい)について何も知らなかった。私はこの初期の論文から、私は雲と時計とを対立させる着想を得た、とおそらく私はここで指摘できるであろう。私の論文が出た1950年以来このかた、古典物理学における非決定論的要素の議論は、次第に運動量を増した。Leon Brillouin、Scientific Uncertainty and Information、1964(私が決して十分に同意できない書物)および同署の特に負の曲率をもった「つの状の」曲面の測地線に関するジャック・アダマール〔フランスの数学者、1865-1963〕の偉大な論文Journal de Mathematiques pures et appliquees、5th Series.4、1898、pp.27ff.を加えることができよう。

この見解はアインシュタインの(特殊)相対論とさらにいっそうはっきり両立しうるものであり、また新量子論とさらにいっそうはっきり両立しうるものだと、私は考える。
いいかえると、私は---パース、コンプトンおよび他のほとんどの現代の物理学者と同じように---非決定論者である。
そして私は、彼らのほとんどと共に、アインシュタインが決定論を固持しようとしたのは誤りだった、と信じる。(私はこの問題についてアインシュタインと論じたことがあるが、私は彼ががんこであるとは思わなかったといえると思う)。
しかし私はまた、量子論に対するアインシュタインの批判を旧弊家として鼻であしらった現代の物理学者はまったく誤っていた、と信じる。

何人といえども量子論を賞賛しえぬものはあるまい。
アインシュタインは心からこれを賞賛した。しかし量子論の流行的解釈---コペンハーゲン解釈---に対するアインシュタインの批判は、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ホーム、ヴィギールによって、またより最近ではランデによって提起された批判と同じように、ほとんどの物理学者によって余りにも軽く無視されてきた。

⑰ 私の著書「科学的発見の論理」、特に新付録※Ⅺを参照。また新付録ⅩⅩにおけるアインシュタインの批判にかんがみ、第77節で叙述した(1934年における)思考実験を私は撤回しなければならないけれども、大体においては妥当である批判を含む同書の第9章をも参照されたい。しかしながら、この実験は、付録※Ⅹで論じたアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの有名な思考実験によっておきかえることができる。また私の論文“The Propensity Interpretation of the Calculus of Probability、and the Quantum Theory”in Observation and Interpretation、ed. by S.Korner.1957、pp.65-70、and 83-9.をも参照されたい。

科学には流行があり、ある科学者たちはある画家や音楽家がそうであるのとほとんど同じくらい待ってましたとばかり時流に乗る。
しかし流行と時流は弱者を魅了するかもしれないが、それらは鼓舞されつべきでなく、抵抗されるべきである。

⑱ 最後の文には、トーマス・クーンの興味ある刺激的な書物「科学革命の構造」1963年に含まれている諸見解のいくつかへの批判の意味がこめられている。そしてアインシュタインの批判のような批判は、つねに価値がある。
人はつねにそれらから何物かを学びとることができる。



続;「膠観」

2013-08-31 14:59:18 | アルケ・ミスト
パースはこの見解を、すべての物理的物体は、時計のなかの宝石でさえも、分子的熱運動----ガス分子の、あるいは蚊柱における個々の蚊の、運動に似た運動----に服するものだということを---疑いなく正しく---指摘することによって支持した。

⑬ C.S.Peirce、op、cit、6、6.47、p.37(1892年に初出)。その章句は短いけれども、きわめて興味がある。それというのも、それはハイゼンベルグの非決定論の拡大から結果するマクロ効果の議論のいくつかを先き取りしているからである。(爆発的混合物におけるゆらぎについての指摘を注意されたい)。この議論は、コンプトンの書物の48頁以下で言及されている論文Ralph Lillie、Science、46、1927、pp.139ff.をもって始まると思われる。(コンプトンはテリー講演を1931年におこなったことに注意されたい)。コンプトンの前掲書の注3、51頁は分子熱運動に由来する偶然効果(パースの念頭にあった不確定性)とハイゼンベルグの不確定性とのきわめて興味ある量的比較を含んでいる。議論はボーア、ヨルダン、フリッツ・メデイクス、ルードヴィヒ・フォン・ベルタランフィー、その他の人びとによって続けられた。より最近では特にまたWalter Elsasser、The Physical Foundations of Biology、1958によって。

パースはこれらの見解は、彼の同時代人によってほとんど関心をもって受け取られなかった。見うけるところでは、ただ一人の哲学者だけがこの見解に注目した。そして彼はこの見解を攻撃した。

⑭ 私がいっているのは〔ドイツ生まれのアメリカ哲学者で、一元論的実証主義を代表し、雑誌《広場》(Open Court〕《一元論者》(Monist)を編集した〕ポール・ケーラス〔1852-1911〕の次の論文である。The Monist、2、1892、pp.68ff.パースはThe Monist、3、1893、pp.526ff.、でこれに答えた。(彼のCollected Papers、6、Appendix A、pp.390ff.参照。


物理学者たちはパースの見解を無視したように思われる。
今日でさえほとんどの物理学者は、もしわれわれがニュートンの古典力学を真として受け入れなければならないとすれば、われわれは物理的決定論およびそれと一緒にすべての雲は時計であるという命題を受け入れざるをえないと信じているのだ。
古典力学の崩壊と共に、そして新量子論の勃興と共に、はじめて、物理学者たちは物理的決定論を放棄する気構えになったのである。

今や事態は逆転した。
1927年にいたるまで蒙昧主義と等置されてきた非決定論が、支配的流行になった。
マックス・プランク、エルヴィン・シュレーディンガー、アインシュタインといった決定論の放棄をためらった何人かの偉大な科学者たちは、時代遅れの旧弊家と考えられた。彼らはずっと量子論の発展の最前線にいたのだが。
私自身かつて一人のすぐれた若い物理学者が、当時まだ存命中で一生懸命仕事に打ち込んでいたアインシュタインを「ノアの洪水以前の人」〔つまり極端に時代遅れの人〕と評したのを耳にした。
アインシュタインを一掃し去ったとみなされた大洪水は新量子論であったのだが、それは1925年から1927年のあいだに勃興し、その到達にアインシュタインの寄与に匹敵しうる寄与をしたのは、せいぜい七人の人たちだったのだ。


続;「膠観」

2013-08-30 15:27:30 | アルケ・ミスト
Ⅳ (pp 240-242)

少数の不賛成者のうちに、チャールズ・サンダース・パース----最も偉大なアメリカの数学者で物理学者、そして私の思うにあらゆる時代における最も偉大な哲学者の一人----がいた。


⑪ ニュートン自身は少数反対論者のうちに数えることができる。
それというのも、彼は太陽系を不完全とさえみなし、したがって消滅する可能性のあるものとみなしたからである。
このような見解のゆえに、彼は(ヘンリー・ベムバートンがその著「アイザック・ニュートン卿の哲学的見解」1728年、180頁で報告しているように)「自然の創造主の英知を非難している」という不敬罪な態度のかどで避難された。


彼はニュートン理論を疑問視しなかった。
しかし早くも1892年に彼は、この理論がたとえ真であるとしても、雲が完全な時計だと信ずるべきいかなる妥当な理由もわれわれに与えないことを論証した。
彼の時代のすべての物理学者と同じように、彼は世界がニュートンの法則にしたがって動く時計であると信じたけれども、彼はこの時計はあるいは何らかの他のものがその最小の細部にいたるまで完全であるという信念を拒否した。

少なくともわれわれは、完全な時計のような何らかのものを、あるいは物理的決定論者が想定したような絶対的完全性にきわめて近い何らかのものについてさえ、経験から知っているという主張をなしえない、と主張した。

パースのすぐれた論評の一つを引用しよう。

「舞台の背後にいる人は」(パースはここで実験家として語っている)「・・・・他のあらゆる〔物理的〕測定よりも正確さにおいてはるかにすぐれている・・・量と長さの最も精緻な比較で〔でさえ〕が・・・・銀行勘定の正確さに遅れをとること、そして物理的定数の決定が・・・・カーペットとカーテンの室内装飾品商の測定と同程度であることを知っている」。
ここからパースは、あらゆる測定にはある種のルーズさまたは不完全さがあり、これが偶然の要請の入り込む余地を与える、という推測をわれわれがなしうると結論した。

したがってパースは、世界が厳格なニュートンの法則によって支配されているだけでなく、また同時に偶然の法則、または無規則性の法則、または無秩序の法則によって、つまり統計的確率の法則によっても支配されていると推測した。

これは世界を、雲と時計の連結体系たらしめたので、最良の時計でさえもその分子的構造においてはある程度の雲性を示すであろう。

私の知るかぎりでは、パースはある程度まではすべての時計は雲であるという見解、いいかえれば雲だけが存在する----非常に異なった雲性の度合いをもったもろもろの雲だが----という見解をあえて採用した最初のニュートン後の物理学者であり哲学者であった。


続;「膠観」

2013-08-29 15:44:40 | アルケ・ミスト
もちろんニュートンの理論は雲が時計的なものだとは物理学者に告げはしなかった。

事実、ニュートンの理論は、まったく雲を扱っていなかった。
ニュートンの理論は特に惑星----その運動はいくつかの非常に単純な自然法則にもとづくものとして説明される---、砲弾、および潮汐を扱った。
しかしこれらの分野におけるニュートン理論の巨大な成功は、物理学者たちをうぬぼれさせた。そしてそれはまことに理由のないことではなかった。

ニュートンおよび彼の先行者ケプラーの時代以前には、惑星の運動はそれらを説明しようとする多くの試み、あるいは十分叙述しようとする試みさえを、たくみに逃れた。

明らかに、惑星の運動は恒星の厳正な体系の不変な一般的運動にともかくも関係をもっていた。
しかし惑星の運動は、蚊柱の一般的運動から逸脱している個々の蚊とほとんど同じように、その系の運動から逸脱した。

したがって惑星は、生き物と同じように、雲と時計との中間に位置するもののように見えた。
しかしケプラーの理論の成功は、そしてさらにいっそうニュートンの理論の成功は、諸惑星は実際には完全な時計ではないかと疑った思想家たちが正しかったことを立証した。

なぜなら、惑星の運動はニュートンの理論の助けをかりて正確に予測できる----これまで占星術者たちを外見上の不規則性によって困惑させてきた一切のことを詳細にわたって予測できる----ことが判明したからである。

ニュートンの理論は、人類の歴史における最初の現実的に成功的な科学理論であった。

そしてそれは、驚くほど成功的であった。
そこには真の知識があった。最も大胆な精神の最も奔放な夢をこえた知識。
そこには、すべての星の軌道を正確に説明するだけでなく、まったく同じ正確さで、地上の物体の運動----落下するリンゴ、投射物、振子時計といった----をも説明する理論があった。しかもそれは潮の干満さえも説明した。

偏見にとらわれぬ開かれた心をもったすべての人びと----ひたすら学ぼうと努め、知識の成長に関心をもったすべての人びと---は、新しい理論に転向した。
ほとんどの心おおらかな人たち、特にほとんどの科学者たちは、結局ニュートン理論は電気や磁気だけでなく、雲をも、そして生物有機体さえも含めた一切のものを説明するであろう、と考えた。

こうして物理的決定理論----すべての雲は時計であるという説----は、啓発された人びとのあいだの支配的信念になった。そしてこの信念を抱かなったすべての人びとは、蒙昧主義者または反動主義者だとされた。


⑩ 決定論はあらゆる合理的または批判的態度の本質的部分をさすものであるという確信は、(スピノザ、ライプニッツ、カント、およびショーペンハウアーのような「唯物論」の指導的反対者の何人かによってさえ、一般的に容認された。合理的伝統の部分をなしてきた類似の教説は、すべての知識が観察とともに始まり、それから帰納によって進んでいく、というものである。
私の著書「推測と反駁」1963年、1965年、1969年、1972年の122頁以下でのこれら二つの合理主義の教説への私の論評を参照。



続;「膠観」

2013-08-28 14:38:00 | アルケ・ミスト
Ⅲ (pp238-239) ➊

私が叙述した配列は、常識にまったく受け入れられると思われる。
そしてより最近においては、つまり現代においては、物理学においてさえ受け入れられるようになった。
しかしながら、今から250年前にはどうではなかった。

ニュートンの革命----歴史における最も偉大な革命の一つ----は、私があなた方に示そうと努めた常識的配列を拒否した。
それというのも、ニュートンの革命がほとんどすべての人びとの考え方のうちに確立したことどもの一つは、次のような肝をつぶすような命題だったからである。


⑨ ニュートン自身は、彼の理論からこれらの「決定論的」帰結を引き出す人たちのうちには入っていなかった。以下の注11と16とを参照されたい。


すべての雲は時計である。---もっとも雲的な雲でさえもが。

この命題の「すべての雲は時計である」は、私が「物理的決定論」と呼ぶ見解の簡単な定式化とみなせる。

すべての雲は時計であるという物理的決定論者は、またこういうであろう。
すなわち、左方に雲を右方に時計をもったわれわれの常識的配列は誤りに導くものである、なぜならすべてのものは最右翼に位置づけられるべきものだからである、と。

われわれは、あらゆる常識をもって、諸事物をその本性にしたがってでなく単にわれわれの無知にしたがって配列したのだ、と彼はいうであろう。

われわれの配列は、時計の諸部分がどのように動くか、あるいは太陽系がどのように動くかをわれわれがかなり詳細に知っているのに対し、ガス雲または有機体を形づくっている諸分子の詳細な相互作用についてはわれわれが何の知識ももっていないという事実を反映しているにすぎない、と彼はいうであろう。

そして、ひとたびわれわれがこの知識を獲得したならば、われわれはガス雲または有機体が太陽系と同じほど時計的なものであることを見出すであろう、と彼は主張するであろう。