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続;「膠観」

2013-09-16 19:38:25 | アルケ・ミスト
量子論者たちは、非常によく似た赤ん坊理論を主張する。「しかし、心が物理系に作用を及ぼしうるのは、一つの量子飛躍によって、しかもハイゼンベルグの不確定性の枠内においてにすぎない---そしてその不確定性は実に非常に小さいのだ」と。赤ん坊の大きさが特定化されているかぎりにおいて、ここはいささかの前進があることを私は認める。しかし私はなおその赤ん坊を愛さない。

なぜなら、マスター・スイッチがいかに小さいなものであるにせよ、マスター・スイッチ付き増幅器モデルは、すべてのわれわれの決定が即時決定の合成である、と強く示唆するからである。ところで、増幅器メカニズムが生物学的体系の重要な特徴であることを私は認める(なぜなら、生物学的刺激によって触発または起動される反応エネルギーは、通常、起動刺激のエネルギーをずっと上回っているからである。

㊻ これはきわめて重要な点であって、貯蔵されたエネルギーの触発または誘発を含まぬようないかなる過程も典型的に生物学的なものとはほとんどいえない。しかし、いうまでもなく、その逆は成り立たない。多くの非生物学的過程が同じ性質をもっている。増幅器や触発過程は古典物理学では大きな役割を演じなかったけれども、それらは量子物理学や、またいうまでもなく化学の最大の特徴である。(ゼロに等しい誘発エネルギーをもった放射能は、極端なケースである。別の興味あるケースは、信号または刺激の極度の増幅によってもたらされる一定の電波振動数への---原則として断熱的な---同調である)。「原因は結果に等しい」といった定式(および、それと共に、デカルト的相互作用主義への伝統的批判)が久しく廃物になった---保存則の持続的な有効性にもかかわらず---理由の一つがこれである。注43、および以下の第ⅺ節で論じられる言語の刺激的または触発的機能を参照。また私の「推測と反駁」の381頁をも見られたい。


続;「膠観」

2013-09-15 18:50:56 | アルケ・ミスト
Ⅷ 262-65

私はわれわれの二つの中心問題---コンプトンの問題とデカルトの問題---を説明した。

これらの問題を解決するためには、新しい理論が必要である、と私は信じる。事実、新しい進化の理論と有機体の新しいモデルとが必要である。

この必要が生じるのは、既存の非決定論的理論では不満足だからである。
それらは非決定論的ではある。しかし、われわれは非決定論では不十分なことを知っており、またそれらの非決定論がいかにシュリックの反論をのがれるか、あるいはそれらがコンプトンの自由プラス規制の要請にしたがうか否か明らかでない。

さらにコンプトンの問題は、既存の非決定論をまったくこえている。
それらはコンプトンの問題とほとんど関連がない。またこれらの理論はデカルトの問題を解決しようとする試みではあるけれども、それらが提出する解決は十分なものだとは思われない。

私がいっているところの諸理論は、「規制のマスター・スイッチ理論」またはより簡単に「マスター・スイッチ理論」と呼べるであろう。
それらの基礎にある考えは、われわれの身体が一つまたはそれ以上の中心的規制点からテコまたはスイッチによって規制できる機械の一種である、というものである。

デカルトはこの規制点を正確に位置づけるまでにさえいたった。
心が身体に働きかけるのは、松果腺においてである、と彼はいった。
何人かの量子論者たちは、われわれの心はある量子飛躍に影響を及ぼしたり選択することによってわれわれの身体に働きかける、と示唆した(コンプトンはごく暫定的にこの示唆を受け入れた)。

これらの量子飛躍は、電気増幅器と同じような働きをするわれわれの中枢神経系によって増幅される。
増幅された量子飛躍は継電器またはマスター・スイッチのカスケードを動かし、最後には筋肉収縮に効果を及ぼす。

㊹ コンプトンはこの理論を、特に「人間の自由」の37-65頁で、かなり詳しく論じた。特に「人間の自由」の50頁でのラルフ・リリーの前掲書への言及を参照。また「科学の人間的意味」の47-54頁も参照されたい。きわめて興味深いのは、「人間の自由」63頁以下と、「科学の人間的意味」の53頁におけるわれわれの行為の個性的性格についてのコンプトンの指摘、ならびに私がジレンマの第二の角(その第一の角は純粋決定論である)と呼ぼうと思うもの---つまりわれわれの行為が純粋の偶然にもとづくという可能性---をわれわれが避けうる理由についての彼の説明である。先の注40を見られたい。



コンプトンの書物には、彼がこの特殊な理論またはモデルをさして好まなかったこと、そして彼がこれを一つの目的のために---つまり人間的非決定論(あるいは「自由」)が必ずしも量子論と矛盾しないことを論証するために---だけ用いたことのいくつかの表示がある、と私は思う。

㊺ 特に「科学の人間的意味」頁以下、54頁、その節の最後の言明を参照。


マスター・スイッチ理論を好まなかったことを含めて、彼はこれらのすべての点において正しかったと私は考える。

なぜなら、これらマスター・スイッチ理論はデカルトのそれであれ、量子物理学の増幅器理論であれ---私が「小さな赤ん坊の理論」と呼ぼうと思うものに属しているからである。
これらのマスター・スイッチ理論は、小さな赤ん坊と同様、私にはほとんど魅力がない。

「だけどそれは非常に小さいだけです」と抗弁した未婚の母の物語りを、皆さんは御存知のことと思う。デカルトの抗弁も私には同じように思われる。「しかしそれは非常に小さなものにすぎない。われわれの心がわれわれの身体に作用を及ぼしうるのは、広がりのない数学的点にすぎない」と。


続;「膠観」

2013-09-14 17:45:11 | アルケ・ミスト
誤解を避けるために指摘しておきたいが、コンプトンは行動主義的用語で彼の問題を定式化したけれども歴とした行動主義に賛成する意図は決してなかった。反対に、彼はわれわれ自身の心または他人の心の存在、熟慮、快苦といった経験の存在を少しも疑わなかった。
それゆえ彼は解決されるべき第二の問題があることを強調しようとした。

われわれはこの第二の問題を古典的な身心問題、またはデカルトの問題と同一視できる。
心の状態---意志、感情、期待---といったものが、われわれの肢体の身体的運動に影響を及ぼし規制を加えうるのはいかにしてであるか。また(われわれの文脈においてはより重要性が少ないが)有機体の身体的状態がその心的状態に影響しうるのは、いかにして可能であるか。

㊸ 私がデカルトの問題と呼ぶものについての批判的議論は、私の「推測と反駁」の第12章および第13章に見出されるであろう。すべての生物有機体(物理系として考えらえた)の物理的完全性のテーゼを私が拒否するかぎりにおいて、つまりある有機体においては心的状態が物理的状態と相互作用しうると私が推測するかぎりで、私はコンプトンと同様にデカルト主義者であるということを、ここでいっておきたい。(しかし、私はコンプトンよりずっと少なくデカルト主義者である。私はマスター・スイッチ・モデルに魅惑されること彼よりずっと少ない。注44、45および62を参照)。さらに、私は心的実体とか思考する実体といったデカルト的語り方に---彼の物体実体とか広がりある実体と同じほど---賛成しない。物的状態と心的状態(そしてこれらに加えて)議論の状態といったらさらにいっそう抽象的なもの)を信じているというかぎりでのみ、私はデカルト主義者である。

コンプトンは、これらの二つの問題のいずれかの満足なまたは容認できる解決は、私がコンプトン自由の要請と呼ぶ次のような要請にしたがわなければならないことを示唆する。
すなわち、その解決は自由を説明しなければならない、またそれは自由が単なる偶然でなく、むしろほとんどランダムまたは偶然的なものと(融通のきかぬ制御では明らかにないけれど)規制的または選択的制御のようなもの---目的または規制といったような---とのあいだの微妙な相互作用の結果であることを説明しなければならない。なぜなら、コンプトンをイタリアから引き返させるようにさせた制御が彼に十分な自由を許したことは、明らかだからである。
たとえばアメリカ(か)船とフランスまたはイタリア船との選択の自由、より重要な義務が生じた場合に彼の講演を延期する自由を。

コンプトンの自由の要請は、われわれに二つの問題の容認しうる解決をば、それらが自由と規制を結びつけるという考えに---従うべきであるという要求によって制限づけられているといえる。

コンプトンの要請は、私が喜んでまた自由に容認する制限があり、またこの制限の私自身の(無批判的ではないが)自由で熟慮した容認は、コンプトンの自由の要請の真の内容である自由と規制との結合の一例証と解しうる。



続;「膠観」

2013-09-13 17:17:43 | アルケ・ミスト
Ⅻ 260-2

しかしながら、よく調べてみると、イタリアからイエール大学へのコンプトンの旅行のこの物語りには、二つの問題があることがわかる。
これら二つの問題のうち、私は第一のものをコンプトンの問題と呼び、第二のものをデカルトの問題と呼ぼうと思う。

コンプトンの問題はこれまで哲学者によってほとんど認められず、よし認められることがあったとしても、ただぼんやりとだけであった。この問題は、次のように定式化できる。

講演の依頼を受諾した手紙、意図の公告、公的に表明された目的、一般的道徳的規則といったものがある。これらの記憶や公告や規則のそれぞれは、われわれが翻訳したり再定式化しても不変のままにとどまっている内容または意味をもっている。
したがって、この内容または意味は、まったく抽象的なあるものである。

しかし、それは---おそらくは約束カレンダーのなかに短い暗号のような記入をすることによって---イタリアから〔アメリカ北東部の〕コネチカットにもどらせるようにある人間の物理的運動を規制できる。どうしてできるのか。

これが、私のいうコンプトンの問題である。

このかたちにおいては、われわれが行動主義的心理学をとるか内観心理学をとるかということは、問題に何のかかわりもない点を注意するのが大切である。
ここに与えられ、またコンプトンの文章に示唆された定式化においては、問題はイエール大学に引き返すコンプトンの行動によって表現されている。
しかし、たとえわれわれが意志や、ある考えを理解したとかもったという感情といった心的出来事を含めたとしても、問題はいささかも異ならないであろう。

コンプトン自身の行動主義的用語法をそのまま保持すれば、コンプトンの問題は抽象的意味の世界が人間の行動に(およびそれによって物理的世界に)及ぼす影響の問題だといえる。

ここで「意味の世界」といっているのは、約束、目的、さまざまな種類の規則----文法の、礼儀作法の、論理学の、チェスの、コンピューターの、規則など---といったもの、および科学的刊行物(ならびに他の刊行物)、われわれの正義感とか寛容への、われわれの芸術的理解への、訴えといったもの、等々ほとんど限りなく追加しうるものを包含した簡略語である。

私がここでコンプトンの問題と呼んだものは、ほとんどの哲学者が認めなかったけれども、哲学の最も興味ある問題の一つだと私は信じる。私の意見では、それは真に鍵問題であって、私がここで「デカルトの問題」と呼ぶ古典的なあ心身問題よりずっと重要である。

続;「膠観」

2013-09-12 20:52:00 | アルケ・ミスト
Ⅺ  259-60

こうしてわれわれは、雲を左に時計を右にして動物と人間がそのあいだのどこかに位置するわれわれ以前の配置にたちもどらなければならないであろう。
しかしわれわれがそうしたあとでさえ(そしてそこにはこの配列が現在の物理学に適合するとわれわれがいいうる以前に解決されるべきいくつかの問題がある)、われわれはせいぜいのところわれわれの主要問題のために席をあけたにすぎない。

なぜなら、われわれが欲することは、明らかに、目的、熟慮、計画、決定、理論、意図、価値といった非物理的諸事物がいかにして物理的世界における物理的変化をもたらすうえで役割を演じうるか、を理解することだからである。

これらのものがそのような役割を演じることは、ヒュームやラプラスやシュリックには失礼ながら、明らかだと思われる。

われわれのペンや鉛筆、ブルトーザーによって絶えずひきおこされるすべてのこれらの巨大な変化が、決定論的物理理論によってであれ、偶然にものづくものとして(確率的な理論によって)であれ、純粋に物理的な用語によって説明できるとするのは、明らかに正しくない。

コンプトンは、彼のテリー講演からの次のような魅力的な章句が示しているように、この問題を十分によく承知していた。

「私がイエール大学〔コネチカット州ニューヘイヴンにある〕の幹事に11月10日の午後5時に講演することに同意する旨の手紙を書いのは、しばらく前のことであった。
彼は私を信じ、私が来学することを公示し、聴衆は彼の言葉を信じて指定された時間に講堂に集まった。
しかし考えてみれば、彼らの信頼が正しいものと証明されたことの物理的蓋然性は、はなはだ乏しいものであったのだ。そのご私は仕事のためにロッキー山脈に行き、また海を越えての光のふりそそぐイタリアに行った。〔私のよな〕陽光性動物は・・・・ここを振り切って去り、冷え冷えするニューヘイヴンに行く〔ことは容易なことではないであろう〕。
私がこの瞬間によそにいる可能性は、とてつもなく大きかったのだ。

一つの物理的出来事として考えれば、私の約束をかなえる確率は、異様なほど小さい。

しからばなぜ、聴衆の信頼が正当であったと証明されたのか。・・・・彼らは私の目的を知っており、そして私がそこにいるべきだと決定したのは、私の目的だったのである」。

コンプトンはここで、単なる物理的非決定論が不十分であることを、きわめて見事に示している。
たしかに、われわれは非決定論者でなければならない。だが、われわれはまた、なぜ人間が、そしておそらくは動物も、目的とか規則とか同意といったものによって「影響」され「規制」されうるのか、を理解すべく努めなければならない。

これが、われわれの中心問題である。



続;「膠観」

2013-09-11 17:12:51 | アルケ・ミスト
コンプトン自身このような一モデルを考案した。
もっとも彼はそれをとりわけ好んだわけではないけれども。それは量子の不確定性と量子飛躍の予測不能性を、人間の重大な意思決定のモデルとして用いている。

※ 量子飛躍---マックス・プランク(Max Planck 1858-1947)はエネルギーの量子、つまりエネルギーに最小の単位があることを見出し、エネルギーはつねに連続的に増えたり減ったりするとは限らず、エネルギーの形---特に、それが振動のエネルギーである場合には、振動の周期あるいはその逆数の振動数---によってきまる、ある単位量のエネルギーがいっぺんに増えたり減ったりすることを明らかにした。これを「量子飛躍」(Quantum jump)という。エネルギー全体は増減しないが、しかしその形の変化は非連続的に起こることをプランクは発見したわけで、なにかそういう非連続的な変化が自然界に起るということを熱輻射の現象が物語っている、とプランクは考えた。物理学者はみな、決定論と、自然現象が連続的に行われるということとは一体不可分なものと考えていたから、プランクの量子飛躍により自然現象の連続性が否定されることは、物理学のみならず科学の歴史のなかでの、非常に重大な出来事であった。

それは単一の漁師飛躍の効果を、爆発の原因となりうるか、さもなければ爆発をもたらすのに必要な継電器を破壊しうるような具合に増幅する増幅器から成っている。
このようにして、一つの単独の量子飛躍が重大決定と等置されうる。
しかし私の意見では、そのモデルはいかなる合理的決定ともいささかの類似性もない。むしろそれは、決心できない人びとが「銭を投げようじゃないか」というたぐいの意思決定のモデルである。

事実、量子飛躍を増幅するための全装置は、むしろ不必要に思われる。銭を投げ、その結果によって引き金を引くか否かを決定することが、まったく同じことをするであろう。必要とあれば、ランダムな結果を生み出すための銭投げ装置を内蔵したコンピューターがある。

われわれの決定のあるものは銭投げに似たものであるといえるかもしれない。
それらは熟慮することなしにおこなわれる即時の決定である。それというのも、われわれはしばしば熟慮するための十分な時間をもたないからである。自動車の運転手や飛行機の操縦士は時としてこのような即時決定をしなければならない、そしてもし彼が十分に訓練を積んでいれば、あるいはまさに幸運であれば、その結果は満足なものでありうるのであろうし、そうでない場合は、満足なものでないであろう。

量子飛躍のモデルがこのような即時決定のためのモデルたりうることを、私は認める。
そして、時として量子飛躍の増幅のようなものが、われわれが即時決定をする場合にわれわれの頭脳のなかに実際に生じうることさえ、私は認める。
しかし即時決定は実際にそれほと興味あるものであろうか。それは人間行動に---合理的な人間行動に特徴的なものであろうか。

私はそうは思わない。
そして、量子飛躍でもってさらに多くのものをわれわれが得るだろうとは、私は考えない。量子飛躍は、完全な偶然が完全な決定論の唯一の代替物であるというヒュームとシュリックのテーゼに支持を与えるように見えるたぐいの例にほかならない。
合理的な人間行動---そして実に、動物行動---を理解するためにわれわれが必要なものは、性格上、完全な偶然と完全な決定との中間にあるもの---完全な雲と完全な時計との中間にあるもの---である。

偶然と決定論とのあいだにはいかなる中間物もありえないというヒュームとシュリックの存在論的テーゼは、私にはきわめて独断的(空論的とはいわないが)であるばかりでなく、明らかに不条理であると思われる。
それは、彼らが偶然をわれわれの無知のあらわれ以外の何物でもないとする完全な決定論を信じていた、という仮定のうえにのみ理解可能である。(しかしその場合でさえ、私はそのテーゼは不条理に思われる。と、いうのは、明らかに部分的知識または部分的無知のようなものがあるからである)。
きわめて信頼のおける時計でさえ本当の完全ではなく、また(ヒュームはおくとしても)シュリックはこれが主として摩擦のような要因---つまり統計的または偶然的効果に---もとづくものであることを知っていたはずであるということを、われわれは知っている。そしてまたわれわれは、われわれは、われわれの雲が完全には偶然でないことを、知っている。われわれはしばしば---少なくとも短期的には---天候をまったくうまく予測しうるからである。





続;「膠観」

2013-09-10 15:06:34 | アルケ・ミスト
Ⅹ 256-9

コンプトンと同じように、私は物理学的決定論の問題を真剣に取り上げる者の一人であり、またコンプトンと同じように、私はわれわれが計算機械でないと信じている者である(われわれが計算機械から非常に多くのことを---われわれ自身についてさえ---学びうることを私は認める用意があるけれども)。

それゆえ、コンプトンと同じように、私は物理的非決定論者である。

物理的非決定論者は、われわれの問題のいかなる解決にとっても必然的な前提条件だと私は信じる。われわれは非決定論者たらざるをえない。しかし私は物理的非決定論が十分でないことを論証しようと試みるだあろう。

非決定論では十分でないというこの言明と共に、私は新しい論点にだけでなく、私の問題の核心に到達した。

その問題は次のように説明できるであろう。

もし決定論が真であれば、全世界は、すべての雲、すべての有機体、すべての動物、すべての人間を含め、完全に動いている完璧な時計である。

他方、もしパースやハイゼンベルグやあるいはその他の形態の非決定論が真であるとすれば、まったくの偶然がわれわれの物理的世界において巨大な役割を演じる。
しかし偶然は本当に決定論よりも満足なものなのか

この問題は周知のものである。

シュリックのような決定論者は、その問題をこう表現した。

「・・・・行動の自由、責任、知的正気は、因果性の領域をこえて足を伸ばせない。それらは偶然が始まるところで停止する。・・・・より高度の無規則性は・・・・より高度の無責任性〔を意味するものにほかならない〕」。

㊵ M.Schlick、Erkenntnis、5、p.183(第一パラグラフの最後の行からの抜粋)。

私はシュリックのこの考えを、私が前に使った実例によって言い表せると思う。

すなわち、私がこの講演にそなえて作った白紙の上の黒点はまさに偶然の結果であった、ということは、それらが物理的に決定されていたということよりもほとんど満足なものでない、と。

事実それは、いっそう不満足でさえある。

なぜなら、ある人びとは講演のテキストが私の身体的遺伝や私の養育、私の読んだ本、私が聞いた話を含めての私の物理的環境によって原則的に完全に説明できると信じるかもしれないが、しかし私があなた方に読み上げていることが偶然の結果---まったくいかなる目的、熟慮、計画、意図もなく並べられた英語の、あるいは文字のランダム・サンプル----にすぎないとは、ほとんど誰も信じないであろうからである。

決定論に対する唯一の代替物はまさにまったく偶然であるという考えは、シュリックによって、主題についての彼の多くの見解とともに、ヒュームから引き継がれたものだが、そのヒュームは、彼が「物理的必然性」と呼んだものの「除去」は「偶然と同じもの」をつねに結果せざるをえないといい、「事物は連絡されるか否かのいずれかでなければならず・・・・偶然と絶対的必然性とのあいだに何らかの中間を容認することは不可能である」と主張した。


㊶ ヒューム、前掲書、171頁。また、たとえば407頁「・・・自由は・・・偶然とまったく同じものである」を参照。


決定論に対する唯一の代替物はまったくの偶然であるというこの重要な教説に対する反論は、あとで述べることにする。

しかし私は、この教説が人間的自由の可能性を説明する、あるいは少なくとも例証するために考案された量子論的モデルにうまく当てはまるように見えることを、認めなければならぬ。

これらのモデルがきわめて不満足である理由はここにあると思われる。





続;「膠観」

2013-09-09 11:57:26 | アルケ・ミスト
それというのも、もしわれわれが(ダーウィンの理論のような)進化の理論を受け入れるならば、たとえわれわれが生命は非有機的物質から発生したという説に懐疑的であり続けたとしても、理性と議論とか科学的知識といった抽象的で非物理的な実体や、道徳とかブルトーザーやスプートニクの建設のための規則や、文法や対位法の規則が存在しなかった、あるいは少なくとも物理的世界に影響を及ぼさなかった時代があったにちがいないということを、われわれはほとんど否定できないからである。
物理的世界がいかにして規則といった抽象的実体を生み出しえ、ついでこれらの影響のもとにたち、これらの規則が立ち替わり物理的世界にきわめてはっきりした効果を及ぼしえたかを理解することは困難である。

しかしながた、少なくとも一つのいささか言い抜け的だが、ともあれこの困難を容易に脱する方法がある。
これらの抽象的実体が存在するということ、そしてそれらが物理的世界に影響を与えうるということを、われわれはあっさり否定できる。そして、存在するのはわれわれの頭脳であり、それらはコンピューターのような機械であって、いわれるところの抽象的規則なるものはわれわれのコンピューターを「プログラム」する具体的な物理的パンチカードとまったく同様な物理的実体であり、非物理的ないかなるものの存在もまさに「幻想」で、たとえそのような幻想が存在しなくてもすべてのものはあるようにあり続けるから、少なくとも重要でない、と主張できる。

この脱出法にしたがえば、われわれはこれらの幻想の「心的」身分について思い悩む必要がない。
それらの幻想はあらゆる事物の普遍的性質でありうる。
私が投げる石は、自分が飛んでいるのだという幻想をもつかもしれない。私がその石を投げるという幻想をもつのとまったく同様に。
そして私のペンまたは私のコンピューターは、それが解決しつつあると考えている---そして私が解決しつつあると考えている---問題に関心をもっているがゆえに自分は動いているのだ、という幻想をもつかもしれない。実際は、純粋に物理的な相互作用のほか何らの意義あることも進行していないのだが。

これらすべてのから、コンプトンを悩ませた物理的決定論の問題は実に重大な問題であることがわかろう。
それは単なる哲学的パズルでなく、少なくとも物理学者、生物学者、行動主義者、心理学者、およびコンピューター技師たちに影響を与える。
たしかに、ごく少数の哲学者は(ヒュームまたはシュリックにしたがって)それが単なる言葉上のパズル---「自由」という言葉の使用についてのパズル---であることを論証しようと努めた。
しかしこれらの哲学者たちは、物理的決定論の問題と哲学的決定論の問題との相違をほとんど認識していなかった。
また彼らはヒュームのような決定論者であるか---彼らにとって「自由」が「単なる言葉」であるゆえんである---、さもなければわれわれが直面しているのは単なる言葉上のパズル以上のものであるという印象を彼らに与えたであろうところの物理学やコンピューター技術と密接な接触をまったくもっていなかった。

続;「膠観」

2013-09-08 11:13:19 | アルケ・ミスト
なぜなら、決定論にしたがえば、何らかの理論---たとえば決定論といった---はその支持者の(おそらくは彼の頭脳の)ある物理的構造のゆえに支持されるからである。

したがってわれわれは、決定論をわれわれに受け入れさせる論拠とか理由とかいったものがあると信じるときはいつでも思い違いをしているのである(そして思い違いするように物理的に決定されているのである)。
いいかえると、物理的決定論は、もしそれが真であれば、議論しえない理論である。というのは、それは論拠にもとづいた信念だとわれわれに思われるものをも含めて一切のわれわれの反応を純粋に物理的諸条件によるものとして説明しなければならないからである。
われわれの物理的環境を含めての純物理的諸条件が、われわれが言ったり受け入れたりするいかなることをも、われわれに言ったり受け入れたりさせるのだ。
そして、いかなるフランス人をもしらず、かつて決定論を耳にしたことのない良く訓練された物理学者は、あるフランス人が決定論についてのフランス語の討論においていうであろうことも。
しかしこのことは、ある論拠の論理的力にわれわれが動かされので決定論のような理論を受け入れたのだとも信じるならば、物理的決定論によれば、われわれは思い違いをするようにわれわれを決定づけている物理的条件のうちにあるのだということを、意味する。


ヒュームはこのことをよく洞察していた。
もっとも、それが彼自身の議論にとっていかなる意味をもつかは十分に承知していなかったように思われるが。
というのは、彼は「われわれの判断」の決定論と「われわれの行動」の決定論との比較に限定し、「われわれは一方において他方におけるよりも多くの自由をもつわけではないといっているからである。

㊱ ヒューム、前掲書、609頁(太字は私のもの)。

これらの考察は、物理的決定論の問題をまじめに取り上げるのを拒否し、それを「幽霊」としてあっさり片付けるきわめて多くの哲学者がいるわけを説明しうるであろう。

㊲ 先の注15、およびギルバート・ライル「心の概念」1949年、76頁以下(「機械の幽霊」)を参照。

しかし人間は機械であるという説は、進化の理論が一般的に受け入れられるずっと以前に、ド・ラメトリによって1751年にきわめて力強く、また真剣に論じられていた。そして進化の理論は、生物と無生物のあいだにはいかなる明白な区別もありえないという示唆によって、この問題にさらに鋭い刃をつけた

㊳ N.W.Pirie、“The Meaninglessness of the Terms Life and Living、Perspectives in Biochemistry、1937(ed.j、Needham and D.E.Green)、pp.11ff.を参照

そして新量子論の勝利にもかかわらず、また非常に多くの物理学者の非決定論への転向にもかかわらず、人間は機械であるというド・ラメトリの説は今日、以前よりもいっそう多くの支持者を物理学者、生物学者、哲学者たちのあいだにもっている。特に人間はコンピューターであるというかたちにおいて。


続;「膠観」

2013-09-07 20:07:45 | アルケ・ミスト
Ⅳ  251-255

私は物理的決定論を悪夢と呼んできた。
物理的決定論が悪夢なのは、それが全世界はそのなかのすべての物とともに巨大な自動機械であり、われわれはその内部の小さな歯車、あるいはせいぜい半自動機械にほかならないと主張するからである。

したがってそれは、特に創造性の観念を破壊する。
それは、この講演の準備に当たって私が頭を使い何か新しいものを創造しようとした考えを完全に幻想に変えてしまう。

物理的決定論によれば、そこには、私の身体のある部分が白紙の上に黒い斑点をつけたというだけのものでしかなかった。
十分に詳細な情報をもった物理学者なら誰でも、(私の頭脳はいうまでもなく、私の指をも含めて)私の身体を作り上げている物理的体系と私のペンがそれら黒点を書き記す正確な場所とを予測する単純な方法によって、私の講演原稿を書けたであろう。

もっと印象的な例を使うと、もし物理的決定論が正しいとすれば、まったくのつんぼで、いまだかつていかなる音楽も聞いたことのない物理学者でも、身体の正確な物理的状態を研究し、五線紙の上に黒点が書き込まれるであろう場所を予測する単純な方法によって、モーツアルトやベートーヴェンの書いたすべての交響曲や協奏曲を書けたであろう。

そしてわがつんぼの物理学者は、さらにそれ以上のことをしえたのであろう。
つまり、モーツアルトやベートーヴェンが実際に書かなかった、しかし彼らの生活のある外的事情が異なっていたら---たとえば、もし彼らが鶏肉の代わりに羊肉を食べ、コーヒーの代わりに紅茶を飲んだとしたら---書いたであろう楽譜を書きえたであろう。

もし純物理的諸条件についての十分な知識が与えられるならば、わがつんぼの物理学者によって、すべてのこれらのことはなされたであろう。彼にとっては、音楽理論について何事かを知る必要はまったくなかったであろう---モーツアルトやベートーヴェンが試験条件のもとで対位法の理論についての問題を出されたならばどんな解答を書いたかを彼は予測しえたかもしれないが。

すべてこれらのことは不条理だ、と私は信じる。そしてこの不条理は、われわれがこの物理的予測方法を決定論者に適用するときに、さらにいっそう明白になる。

㉟ わがつんぼの物理学者は、いうまでもなく、ラプラスの魔(注15を参照)に非常によく似ている。そして私は、彼の業績は不条理だと信じる。非物理的側面(目的、意図、伝統、趣味、才能)が物理的世界の発展に役割を演じるただそのことのゆえに。いいかえると、私は相互作用主義を信じる。Samuel Alexander、Space、Time、and Deity、1920、vol.、p.328は、彼が「ラプラス的計算者」と呼ぶものについてこういっている。「叙述された限定的意味以外では、計算者の仮説は不条理である」と。だが、「限定された意味」はすべての純物理的出来事の予測を含むものであり、それゆえモーツアルトやベートーヴェンによって書かれたすべての黒マークの位置の予測を含むであろう。それは心的経験の予測だけを排除する。(物理学者がつんぼであるという私の仮定にぴったりと対応する排除)。したがって私が不条理とみなすものをアレクサンダーは容認する用意があるのだ。(私は自由の問題を、倫理学および倫理的責任との関連においてよりも、音楽や新しい科学的理論または技術的発明との関連において論じる方が望ましいと考える、ということをここでいっておきたい)。