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the elements④

2011-09-11 09:48:03 | アルケ・ミスト
1493年の終わりごろ、パラケルススはスイス国境近くのアインジデールンに生まれた。
父親はウィルヘルムWilhelm Bombest von Hohenbeinといい、チュービゲン大学で免許を習得した医師であった。母親については一切不明である。



パラCelsusケルススという名前はニュールンベルグで執筆された政治。占星術的な予言に関する1492年の著作においてはじめて使われた。

母親が亡くなったあと程なくして、パラケルススは父親とともにアインジデールンを離れ1502年ごろにフィラッハへと移った。父はこの地で生涯を閉じる。

幼年期のパラケルススの教育が教会関係者(父の他に4人の司教と1人の修道院長・・・・スポンハイムのトリテミウスとも言われている)によってなされたことは注目に値する。

神とその教会についての神学、政治・社会に関する人間の学、さらに後年彼が、達人の哲学philosphia adeptaと呼んだ自然についての学(自然哲学)が統合的に調和のとれた形で学ばれたと考えられる。

彼の錬金術上の経験と技術を考える時に忘れてならないのはシュヴァーツ鉱山の工房主ジークムント・フューガーとの関係である。

しかしながら、誰よりもまずパラケルススにn医学。錬金術あるいは諸学全般の手ほどきをしたのは、医師であった父ウィルヘルムに他ならないだろう。
この父に対するパラケルススの愛情は「父は私をいつも見捨てなかった」という発言に十分に現れている。

パラケルススの1533-4年にかけて書かれた著書に「鉱夫病とその他の鉱山病について」がある。彼はこの著作のなかで、鉱物によって引き起こされる病気の起因や症候の経過を詳細に記述し、この病気の治療にも有益な指示を与えている。

いつどこでパラケルススが学生生活を送ったのかいまのところ分かっていない。しかしながら、彼自身が「大外科学」のなかで名言するところによると、ドイツ、イタリア、フランスの大学で学んだとされている。これが事実であれば、これらの都市の大学で自由学芸(教養七科)を学んだと推測される。
あるいはウィーン大学で1509年から1511年ぐらいまで学んだとも考えられている。


その後フェラーラを離れ、おおよそ1516年から1524年までの間、彼はヨーロッパ中を放浪する。こらが俗にいう大遍歴時代である。
フェラーラ移行の1524年までのパラケルススの足取りは、彼の二つの著作「大外科学」と「病院の書」の言明を通してでしか判断できないのである。

しかしながらここで重要なことは、彼がこの遍歴の時代に様々な医療技術を身につけたという事実である。
「大外科学」のなかで彼は伝統的な大学医学だけでなく、外科学、浴泉法、魔術、産婆の知恵、錬金術などをこの時代に学んだと主張している。
伝統的な医学を飛び越えて民間療法を促進する医療体系がすでにこの遍歴の時代に養われたのである。


参考 「化学史研究」VOL29(2002)69-99 シリーズ評伝 西洋の化学者第6回 「パラケルススにおける著作とテクストをめぐる問題」菊池原 洋平



the elements③

2011-09-10 09:00:45 | アルケ・ミスト
1528年1月スイス  
前年、バーゼルに招かれ市医および大学教授に就任したパラケルスス(35)が、大学での医学講義をラテン語でなくドイツ語で行ったうえ、ガレノスやイブン・シーナーなどの伝統的医学を批判し古来の医学書を火に投じたりしたため、バーゼルから追放されることになった。
                

参考にすべきは「ルネサンス・大航海・宗教改革」であろう。
ドイツでは人文主義運動に二つの潮流があった。一つはコンラート・ケルテイスによって各地にプラトン・アカデミーをまねて設立された学識者団体で新しい精神の代表者たちを糾合した。
他方、「源泉に戻れ」の精神をDesiderius Erasmusエラスムスのように文学・言語の再生の面で受けとり、学問研究に従事した人文主義者たちがいた。
エラスムスは1516年、ギリシャ語の新約聖書のテキストを批判して「校訂 新約聖書」を刊行し、宗教改革運動に大きな影響を与えた。



1517年10月31日ドイツ アウグステイヌス修道会僧で神学教授のMartin Lutherマルティン・ルター(34)が、教会の贖宥状(免罪符)販売に疑問を抱いて、95か条の提題をヴィツテニベルク城付属教会の扉に貼り出した。

この手書きのラテン語の文書は人々の共感をよび、ただちにドイツ語に訳され出版される。その結果、二週間でドイツ中に流布し、大きな反響をよぶことになる。

1529年2月ドイツ  ルター派のゼクセン選帝候ら6人に諸侯と14の都市代表は、宗教問題は多数決ではなく各自の判断にゆだねられるべきであるとする抗議書を提出した。
これを機に、ルター派を抗議する者(プロテスタント)とよぶようになった。

パラケルススの医学は、医学の世界で抑圧されたものである。それに対抗しうる後ろ盾が必要であり、最も強力な後ろ盾は、君主であった。ルターの宗教改革がザクセン公フリードリッヒの庇護のもとで可能であったとされているが、医学のルターにおいて、それがあったのであろうか?


参考 クロニクル「世界全史」講談社

the elements②

2011-09-09 09:00:28 | アルケ・ミスト
「東洋のルネサンスと西洋のルネサンス」(宮崎市定)は雑誌「史林」に発表された論文において、中国にたいして3世紀おくれ、イスラーム・ペルシャ世界に対しては6世紀も遅れた、最もおくれた西洋の文化だ!と一蹴したのが1940-41年の事であった。
これを翻して読めば、中国とかイスラームからの文化の流入を不可欠としたのだ。


本論は、テオフラストゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム。1493年12月17日に生まれたといわれる。

パラケルススParacelsusという学名をなのることとなるナポリ王国、フェラーラ大学へも父の薦めであったのだが、それが失望へとつながっていく医学界の問題。そこからあの大遍歴の時代へと旅立って、その経験並びに臨床の現場を踏む。

ルネサンスRenaissanceは天文学のastronomy時代ともいえる。明敏なルネサンス人は彗星の目撃者でもあった。

画題として彗星を受け取ったジョットからトスガネリもパラケルススもペトルスアピアも、そしてケプラーも、みな学者たちはこの彗星に異様な関心をしめして観測結果を記述した。
ハレー彗星がおとずれるたびにルネサンスは成熟をかさね。
17世紀にハリーが精密な計算によって周期を特定しえたのは、ひとえにこれら天文学者による観測データの蓄積があったからなのだ。

他方ドイツでは、ルターMartin Lutherの宗教改革が勃発する。その対立から距離をおいたところに意外な協調の場が生まれる。

自然観察とりわけ、天体観測である。
パラケルススがイタリアから自然哲学をもちかえったときには、まだ新プラトン主義の思弁のほうがまさっていた。
占星術や錬金術の魔術が妖しい炎をもやしていた。その炎はとだえないものの、天体運動をより正確にとらえようとする気運がドイツとその周辺に生まれる。
                
ポーランド人コペルニクスがHeliocentrism地動説をとなえており、教会当局の禁止にもかかわらず、そのただしさは覆しかたくなっていた。
デンマーク人ティコ・プラーエが独自で開発した観測機器によって天体運動についてのデータをふんだんに蓄積した。またプラーエはヨーロッパ人としてはじめて新星の出現を確認した。

そこへドイツ人ケプラーがやってきたというわけなのだ。


あの大遍歴は、イタリア、スペインそしてイギリスから北欧へ。いったんデンマークで従軍医師として働くが、すぐ除隊してリトアニア、ポーランド、ドイツからバルカン半島へ。

長じてバーゼルほかの大学に迎えられることもあったが、しばしの安泰ののち紛糾をまきおこして逃げだす。だがどの町でもパラケルススに傾倒する若者にことかかなかない。なににもましてその激烈な攻撃性がおおかたの歓心をかった。
その支えはイタリアで身につけたヘルメス主義Hermeticismだったようだ。すべてを見透かす魔術の眼が、時代の人々を魅了した。

医師にして金属学者であるパラケルススは、人体の機能を金属にかかわらせて説明しようとした。かれは錬金術師として金属の性質について熟知していた。
水銀mercury、鉛、銅、亜鉛、硫黄、アンチモンそれにさまざまな塩をふくめ、いまでいうところの金属元素の働きを実験で観察した。
体内にある金属が、外界んいあるときとおなじように反応したり化合したりして、現象をおこす。それが健康を左右し、疾病を誘発したり鎮静させたりする。

理論をさししめしたのは、イタリア伝来の新プラトン主義やヘルメス主義だったかもしれない。だが説得力は在地の技術によって、いやますものである。もうここでは、ルネサンスははるかな拡散のすえにあった。


「楕円ellipse幻想」と題して、ルネサンスの秘密をあばいたのは花田清輝は、天文学者ティコ・プラーエTycho Braheの惑星軌道楕円説のみなもとを評していう。
“ティコの楕円もまた、やはりそれがみいだされたのは、頭上にひろがる望遠レンズのなかの宇宙においてではなく、眼にはみえない頭のなかの宇宙においてであった。・・・・すくなくとも私は、ティコの予言の根拠を、かれの設計したウラニエンボルクの天文台にではなく、二つの焦点focal pointのある、かれの分裂した心に求める。転換期に生きたかれの心のなかでは、中世と近世とが、歴然と、二つの焦点としての役割をはたしており・・・・”


楕円が楕円であるかぎり、それが醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずる。それが人間世界の現実ではないか。

ルネサンスはかれらにとって、万能の妙薬だったのだ!

参考文献「世界の歴史⑯ ルネサンスと地中海」樺山紘一著 中央公論社

the elements①

2011-09-08 09:00:07 | アルケ・ミスト
多くの人々はThomas Samuel Kuhnトーマス・サミュエル・クーン「科学革命の構造」は広く知られているところである。

村上陽一郎「新しい科学史の見方」にパラケルススが登場するのは第5回「科学革命」を検討するにおいてであるが、それは所詮はよそからの借り物であって、ヨーロッパが独自に生み出したものではなかったと言えるのだ。

現在の高等学校の世界史の教科書的な記述に従えば、下記の如くであろうか。


アリストテレスの運動論・・・・・→デカルト、ニュートンの運動力学
それらと並んでガレノスの血液理論・・・・・→ハーヴィの血液循環論も記されている。

これらをもって「科学革命論」とすることには満足できないが故の本論の展開は、「哲学と科学は一枚岩ではないと言明して始まる。

先に見てきたところではあるが19世紀後半に現れた科学者、W.Whewellウィリアム・ヒューエルの造語「scientist」であったことを思い出しておこう。

彼は「physicist」とか「anode」「ion」「cathode」を造ったことでも知られている。
そのころのイギリスでは昔から使われてきた広く大きな知識という概念ではなく、極めて特殊な狭い領域をさす意識が芽生えていたことを窺わせる。
つまり狭い範囲で自立し独立した、世界観だとか人間観あるいは宗教観などとは切り離された断片的な知識としての「科学」を再定義したのだ。

さて本論に戻って、そこでの不満は次のようなものなのだ。
コペルニクス、フランシス・ベイコン、ガリレオ、ケプラー、デカルト、ニュートンだけが生きていたわけではありません。
たとえばパラケルススParacelsus、フィチーノ、アグリッパ、ピーコ・デッラ・ミランドラ、ジョヴァンニバッテイスタ・デッラ・ポルタ、ロバート・フラッド、ジョルダーーノ・ブルーノなどという知識人たちが活躍していた時代でもあります。

先のグループの名前はしばしば登場したとしても、後者の人々はまず登場の機会がない状態です。
前者が近代科学者として称えられ、もう一方は非近代的神秘主義者として否定的に扱われる。
そのような歴史観を正したいという動機からの提案が「大ルネサンス」という概念の提案なのです。

それはルネサンス「プラトン主義 + キリスト教 =ルネサンス哲学」に先立つ、12世紀からをルネサンスと捉えなおして「アリストテレス主義 + キリスト教 =スコラ学」をも含む600年間を大ルネサンスと呼びたいというのだ。



大ルネサンスは、スコラ学の立場からは、それまで異端的として排除されてきたさまざまな思想、例えばヘルメス主義、カラバ主義、魔術、象徴主義・・・・・などが、15世紀後半から、怒涛のようにヨーロッパに流れ込んできた、スコラ学の持つ、極めて明澄で合理的な性質に飽き足らず、もっと動的で、もっと割り切れない性質の学問を求め始めていた人々が、この外来の思想を歓迎し、逆にその流入に手を貸すという事態が生まれていたというわけだ。



2060年
2003年の2月から3月にかけて、多くのメディアが確かにIsaac Newton ニュートンによって書かれた無名・未発表の文書に注目した。この文書で、ニュートンは少なくとも2060年までは世界は滅びないと予測していたのである。

 the elements

2011-09-07 09:00:42 | アルケ・ミスト
コラム「単体と元素」
元素elementはもとになるもの、という意味で、この横文字は化学でいう元素だけでなく、電気回路の構成要素にも用いられる。
ボイルRobert Boyleの考えたころには、元素と単体の概念は区別されていなかった。今でも英語では両者を区別しないで用いる傾向が残っている。
単体はフランス語のcorps simple、ドイツ語のeinfacher körperの訳である。英語でもそれを直訳した、simple substanceという語を用いる。単体は具体的な物質で、金属としての鉄や銅、気体としての酸素、黄色固体としての硫黄などがこれにあたる。ボイルのよんだelementは今日の言葉でいえば単体である。単体を正しく定義し具体的に示したのはラボアジェである。
本書で歴史的なことを述べるにあたって当時の書物にどう書いてあったかに関係なく、今日の正しい概念で単体と元素を使い分ける。


「元素の話」斉藤一夫(培風館)
彼は“ものの根源である元素が、多種多様な物資をつくってゆく働きものとは元素の内部に隠されているの違いない”と、はじめに述べている。


化学の話シリーズ 発刊にあたって
興味を失ってしまうよう生徒がおおくなるのはある程度やむをえないようにみえる、現在の理科教育。ますます高度になる抽象性は高等学校にいるとますます人気を失ってしまうという悪循環に対して比較的成功しているのが、副読本とでもいうべき読みものというのが大木道則の言葉。


第1章「元素とは何か」
図1・1 昔の製塩 塩は人の生活になくてはならないものとして、古代から海岸地方で海水を煮つめてつくられ物々交換の重要な材料でも、あった。またその白い結晶はふしぎな力をもつとされ、錬金術師たちは物質の根源の一つと考えた。(東洋文庫130「天工開物」平凡社より)

                『塩の国』
ポーランドの岩塩rock salt 高さ1メートル直径90センチ重量1.4トン純度98%



③「錬金術へ」 
アラビアにおいて元素という考え方がどのように変化したか正しく知ることはむずかしい。錬金術師の間ではギリシャ哲学におけるのとは全く違った意味で元素が考えられていたとみるべきであろう。たとえば9~10世紀の間に活躍したゲーベルは硫黄、水銀、塩を三元素とよんでいる。

今日の化学で使われる多くの言葉が、アラビア語(冠詞ALをもつ)からきているのを見てもそれがわかる。アルカリ、アルコール、アルデヒド、アルキルなどがそれである。


コラム「錬金術alchemyの三元素」硫黄、水銀、塩の3種のうち、今日では硫黄と水銀は単体(1種の元素のみから成る)だが、塩は塩化ナトリウムNaClという化合物である。
したがって表面的に見るとこの三元素は今日あまり重要な意味をもたないように思える。しかし別の見方をすると、水銀は金属で、同種の元素の原子が数多く集まり、金属結合とよばれる結合で結びあったもので、電流を導くなど特色ある性質を示す。硫黄の固体は硫黄原子8個が凹凸のある八角形の分子をつくり、それが集まって生じたものであり分子結晶とよばれる。硫黄原子どうしの結合は共有結合とよばれる化学結合の典型的なタイプの一つである。これに対し塩はナトリウム原子Naが電子1個失った陽イオンNa+ と、塩素原子Clが電子1個余分にもらって生じたも陰イオン Cl−が静電気的な力で引きあって生じたものでイオン結合とよばれる。つまりこの三元素は化学結合の3種のタイプを代表しているともいえる。
今日でも化学結合は金属結合・共有結合・イオン結合の3種を考えられている。(このほか、分子どうしの間に働く分子間力というのを加えることもある。硫黄のS8分子どうしの間に働いて分子結晶をつくらせている力は分子間力である)
こうしてみると、錬金術師の考えた三元素も案外ものごとの本質をついていたともいえるのである。


里山里海⑤

2011-06-12 06:30:30 | アルケ・ミスト
捨てる!!
それが一遍の生涯を賭しての伝言であった。捨聖と尊称された由縁である。


連歌師の心敬が、きずいてきた冬の美。
その冷えさびに汲み取られる美意識に同じ、いきかたの実践であった。
引き算の魅力は枯山水などに限られたものでも、勿論なかった。


あのエネルギー論者たちが大活躍した時代にも、それを自ら捨てさることによってのみ、そのモノ自身を究めていく偉業をなしたのがヴァルター・ヘルマン・ネルンストの仕事であった。


二度にわたる世界大戦のあと、1949年「物質とは何か」を問うた。
朝永 振一郎「原子という概念は、分けられないという以外に、生まれもしないし消えもしないという、もう一つの性質をもっている。ところで現代の素粒子は生まれたり消えたりします。」
下村寅太郎「つまり自己同一性を保持するのは、個々の粒子としてではなくして、一つのシステムとして同一性を保つというわけですね」

1951年岩波新書「生命とは何か」が出版された。

その著者であるエルヴィン・ シュレーディンガーとか,「歴史における科学」の著者 J. D. バナール更には「 原子核と素粒子の理論における対称性の発見」でノーベル賞を授与されたユージン・ポール・ウィグナーらが語り合って得たのが、あの負のエントロピー概念であった。
そこからの非平衡開放系は広く知られてきた。

その最終章「生命は物理学の法則に支配されているのか?」、つまり71項目も最後にあたる見出しはこうである。
69;熱力学の第三法則(ネルンストの定理)
70;振子時計は事実上絶対温度にあたる
71;時計仕掛けと生物体との関係
“こんなことはわかりきったことですが、肝腎な急所をついたものと思います。時計が力学的に働きを営むことができるのは、それが固体でつくられて、その固体がハイトラー、ロンドンの力によって、形を保持しているからです。以下略”

たび重なってきた世界大戦からも、百年をこえんとする今、超流動、超伝導等もまた社会基盤の一翼を担わんとして、その科学技術が新たなる舞台を創らんとしていることは慶事というべきであろう。


それにきづくひとは古来稀なのだが、玄関先に古ぼけた色紙がある。
その当時、松山を拠点に活躍された森薫花壇先生である。


       極寒の水あたゝかき深井くむ

里山里海 ④

2011-06-09 08:24:30 | アルケ・ミスト
「兵庫県の歴史」中世文化の諸相には、一遍の廟所がある。
正応二年八月二十三日に兵庫の観音堂で、51才の生涯であった。

七月十八日に明石に渡った。かねて敬慕する沙弥教信の故地、印南町の辺りにて臨終を迎えたいというのが一遍の願いであったが、兵庫から迎えの船がきていたので「いずくとも利益のためなれば進退、縁にまかすべし」と、そのまま兵庫の観音堂に着いたのが、一遍最期の土地となったのであった。

その最期のようすは、そばを去らず看病した聖戒(一遍の弟、京都六条道場歓喜光寺開山)の「一遍聖絵」がくわしく描いているとおりである。

一遍の死を悲しんで七人の弟子が入水して死のあとを追った。死体は沙弥教信のように野に捨て獣に施せと弟子に遺命したが、もし在家の輩が結縁を申し出れば希望に任せよと言い添えた。


その昔となったが、ある日何故か同伴者を誘って「口称念仏」で有名な念仏山教信寺に遊んだ時の事である。
食事の時間でもなかった筈であるが、奥様が菜飯をご馳走してくださり、縁側で住職とともに戴いた。
そのときの箸袋は奥様の手づくりで北米産の三弁の紅紫色の花は、毎朝のように開きながらも半日で萎んでしまうのだとお聞きした。
ワジのお話とか礎石のお話なども今に残る住職のお話。

元享三年といえば「遊行縁起絵巻」が完成した年でもあるが、いわゆる野口の大念仏で知られる湛阿の勧進がなった年でもある。
礎石とは、そのときの事を指しておられたのであろう。さぞ無念であったろうと、今思われる。



身を観ずれば水のあわ、消えぬるのちは人ぞなき、命を思えば月の影、出で入る息にぞとどまらぬ南無阿弥陀仏


里山里海 ③

2011-06-08 09:00:23 | アルケ・ミスト
愛媛県歴史文化博物館 -常設展示図録-によれば、平安時代末期から室町時代までの河野氏をはじめとする武士の動向や瀬戸内海を舞台に活躍した海賊衆の活躍などは「中世武家社会下の伊予」として歴史展示室②に案内がある。
その鎌倉時代の伊予、冒頭には「源平合戦と河野氏」には、次のような記述に目が止まりました。

源頼朝の挙兵からまもないころ、伊予国では河野道清が反平氏方として挙兵しましたが、平氏方に攻められて高縄城で戦死しました。

他方、「山の神古戦場」の案内では、治承三年十月三日付けの源頼朝からの手紙(高野山金剛三味院蔵)に、呼応し治承四年一月十五日に道後館よりの帰城途中の、この地で割腹した。
その首級を持って大栗へ落ちのび、三年後に通信は、仇西寂を討ち、屋島や壇ノ浦の海戦で勇名をはせた。

「伊予史精義」で取り上げている一遍上人の略歴では、“伊予の豪族河野通廣の3子にして、四條天皇延応元年に生まれる。其の誕生の遺跡は、現今の道後湯の町宝厳寺なりと伝う”

しかし影浦直孝「伊予精義」においては“一遍上人誕生の地は得能累世一覧などに見える温泉の館にあらずやとも察せられ、さらにまたその父が別所に館し、別所七朗左衛門と称するより察すれば、その地にあらずやとも察せられる。なお研究を要すべきなり”と述べられているが、最近の一遍研究者は多くは拝志郷の別所が正しいと考えられている。


それは兎も角として思い起こされるのは、昔美人で今では背丈もすっかり縮んでしまった墓守の婆さんと話しこんだ時のこと、語り部なるご主人の秘め事をその口元から割り出すことはできなかった。

里山里海 ②

2011-06-07 09:00:29 | アルケ・ミスト
第五講「ヨーロッパと日本をつなげる」、その「サロン文化と負の方法」にも、一遍上人が登場する。

さて、後半はルネサンス、バロックと同時代の日本の人間文化がどうなっていたかということについて話します。そろそろ「世界と日本の見方」をまとめましょう。

前回の講義では室町時代あたり、能が世阿弥によって大成されたところまでを話しましたが、そのあと日本はどうなったか、というこおとです。どうなったかというと、ヨーロッパとちがって、分割しない見方がさまざまな日本文化を生んでいったんですね。

書院造りもお茶もお花も能も、当時のサロン文化のなかで生まれてきたものです。こういうサロンから生まれてきたそうした日本の中世の人間文化を一言でいうと、これまで話してきたのでだいたいわかると思いますが、座の文化といってよいと思います。

一期一会という考えかたも、こういう座の文化のなかから生まれてくるんですね。まさに分割しない文化です。

(将軍家)どういう唐物を選べばよいか、またそれをどうのように会所にデイスプレイするといいのか、といったことをデイレクションする目利き集団が活躍していました。この人たちのことを同朋衆といいます。
初期の同朋衆は、ほとんどが一遍上人が創始した時宗とかかわる僧体の人々でした。


義満を中心とする文化を北山文化といいます。これに対して八代将軍の足利善政を中心とする文化は、東山文化ですね。
そのあいだにおこった大きな戦乱はなにでしたか?



前回見た北条ふるさと館

中世とは、土地開発によって実力をつけた武士たちが争いを繰り返しながら政権を握り武家政治を展開する13世紀から16世紀までの400年間、開発領主としての河野氏。
風早の中世城館ネットワークの本拠地となったのが善応寺。
雄甲城、雌甲城や高穴城のその背後には高縄山が聳え、前面には瀬戸内の島々が指呼に望める。





昭和57年3月22日には浩宮さま(現 皇太子殿下)、善応寺文書などを拝見された。

里山里海 ①

2011-06-07 07:24:17 | アルケ・ミスト
17歳のための「世界と日本の見方」セイゴウ先生の人間文化講義、とのキャッチコピーにみせられて読んでいるうちに、身近な関係性をきずいてみた。

第四講「日本について考えてみよう」もなかば、旅する西行もその終末。

こういうこともあって、西行の生涯は伝説化されていきます。
のちに民衆のあいだに踊念仏を広めた一遍も西行を遊行の先駆者として尊敬しました。世阿弥も西行を主人公とした能をつくっています。江戸時代になると松尾芭蕉が西行を真似して日本中を旅して、そして「奥の細道」のような俳句をつくっていった。


遊行のネットワーク
一遍上人を開祖とする時衆がおこり、さまざまな芸能者たちがこぞって信者になったんですね。
こういう人々のことを時衆といいます。この時衆たちがすばらしいネットワークをつくって、次々に新しい芸能やアートをつくっていった。このころ活躍した芸能者やアーテイストには阿弥とか阿という字をつけた名前がすごく多いんです。
これはみんな時衆の人たちです。

ところで、一遍上人が教えたことは、ひとつはまさに一所に定住せず諸国を回って教えを広めなさい。遊行しなさいということでした。
もうひとつは賦算ということでした。これは極楽浄土を保証する念仏札を、縁ある人に配りなさいということです。
ほかにも一遍は非常にダイナミックな念仏踊りを布教に取り入れました。


このように乱世になると大群衆が踊りまくったんです。
一遍のひらいた時宗も、いわば時代の負のエネルギーを集めに集めて、民衆のあいだに爆発的に広まっていったようなところがあったわけです。