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the elements15

2011-09-25 07:00:29 | アルケ・ミスト
①「動物の普及に及ぼす熱の影響」
②「地下埋蔵植物について」
③「出生から7歳までの子供の体育」
④「ベテルブルグ県のげっ歯類について」
⑤「1854年シベリアで発見されたアンバー(赤褐色から緑褐色までの天然鉱物顔料)の無機分析」
⑥「フィンランド産Silicate褐簾石の化学分析」
⑦「フィンランドのルスキアル産輝石の分析と結晶学的研究」
⑧「他の結晶と組成との関係における同形」
⑨「中国の学校教育」
               


これが、彼の学生時代の研究論文であるが、メンデレーエフ自身にはむしろ限定し、調和したもので、彼の思考の中ではどれも結びついており、決して気まぐれに選んだものではなかったのだ。

学友のエム・パブコフ「在校当時メンデレーエフの学問に対する見識が実に広範囲であることに驚いた」
彼の教え子で有名な化学者エル・チュガーエフ「天才であることを示すすべての徴候のうち・・・・
最も示唆的なのは次の二つである。
すなわち第一は広範な分野の知識を把握し、統一する能力であり、第二は思考を急激に飛躍させ、普通の人間には互いに遠くかけ離れていて無関係のように思われる事実と理念とを不意に近づける能力である・・・・」

学生時代の研究課題の中でメンデレーエフが最も熱心に研究したのは“同形”(異質同像isomorphism)のことであった。→⑥⑦

それが、元素の類似と相違をつきとめ、元素分類の法則を明らかにするには“同形”だけでは不十分である。
これがメンデレーエフの学生時代の研究論文「他の結晶形と組成との関係における同形」の結論でもあった。
この論文こそ、メンデレーエフの将来の研究の芽生えであって、それが発達したのである。

同形物質を統一しているものはなにか、この原子を一つの結晶に集結させているものはなにか・・・・を解明しようとしていた学生時代、メンデレーエフはこれについてヨーロッパの一部化学者が提起した興味ある説明にでくわした。

それによると、同形であるのは比体積の値、メンデレーエフの表現によれば“原子とその雰囲気をふくむ体積”が類似した物質だけだというのである。
メンデレーエフは、この考えを念頭にして自分の研究を続けた結果、元素間の類似と相違を完全に解明するには同形だけではとても不十分であることに確信をもった。
そこでただちに次の措置として、いろいろな物質の比体積の研究にとりかかっている。

同形は、重合物質・・・・塩、酸、塩基、アルコール、炭化水素、アルデヒド・・・・については、比体積(比容)が近いこととは無関係なことがわかった。

ところが、化学元素の比体積を算出してみると、驚くべきことを発見した。たとえば、ハロゲン・・・・塩素、臭素、ヨウ素・・・・のように化学的性質の異常に近い元素では比体積がごく近いが、性質のとても近いアルカリ金属・・・・リチウム、ナトリウム、カリウム・・・・では比体積が1:2;4とほとんど正確な割合となっていた。
メンデレーエフにとってさらに重要な発見は、最も活性な、盛んに反応を起こす元素・・・・ハロゲンとアルカリ金属・・・・の比体積は大きいが、イリジウム、プラチナ、金のような活性の弱い元素の比体積は反対にきわめて小さい、ということである。


こうして思いがけなく、突然に、元素と化学的活性と“原子とその雰囲気の体積”との関係が発見された!
そしてこの、雰囲気そのものが凝集力(分子、原子またはイオン間に働く引力)との関係深いことが明白となった。この凝集力こそ、メンデレーエフが修士論文「比体積」を作成するまでにすでに本能的に感じていたものだったのだ。



CERN Home
“This result comes as a complete surprise,”

“The potential impact on science is too large to draw immediate conclusions or attempt physics interpretations. My first reaction is that the neutrino is still surprising us with its mysteries.”

the elements14

2011-09-24 19:44:03 | アルケ・ミスト
習性には気をつけなければならないけれども、容易な事では正すことが困難でもある。

              
「私は、仕事の性質上、現代科学の発達を注視する義務のある者として、科学が急速に専門化されていくことには、しばしば不満を感じ、呆然としていた。
この絶えず深まりつつある科学専門化の原因を、私ははじめのうち、科学研究範囲の単なる増大によるものと想っていた。そして16、17、18世紀では、さらに19世紀でも、科学知識の範囲が比較的に小さくて、人間1人の頭脳ではそれぞれの科学を全体的にとらえることができたのだ、というふうに想っていた。略

要するに、われわれは計測し、決定し、考量はするが、明白なことと組織的なこと、ロシアの学者中で最も偉大なドミトリー・イワノビッチ・メンデレーエフが100年前に書いている“効果の明確なこと”への意欲に欠けているということである。

大多数の人々の概念では、メンデレーエフの名はその堂々たる化学元素周期表と正しくも結びついていて、それが彼をなによりもまず化学者とみなす理由となっている。

しかし実際のところ、彼の著作全部(460件以上を算える)のうち、化学そのものに関するものは9%しかない。
したがって、ドミトリー・イワノビッチを物理化学者、物理学者もしくは工学者と呼んだほうがよほどふさわしい。というのは、これらの各分野に関する著作が約20%もあり、最後に地球物理学が5%、経済が8%と研究の少なからぬ割合を占めているからである。略


これらの分野にはそれぞれ、メンデレーエフの100倍も知識のある専門化たちがいたが、メンデレーエフはそのつど、研究をはじめて数ヶ月もすると、専門家たちには解決できなかった問題点を解決してやっている。彼の成功は博識でも、単なる幸運によるものでもなかった。
その秘密は、調査や資料集めや計算の仕事にあくせくすることではなく、困難なことを解決し、問題を検討して解明し、結論を出し、よい結果をもたらすことに努めたことである。

ロシアの学士院会員パーヴェル・ワリデンは次のように述べている。
「メンデレーエフは細かいことにこだわらず、科学における広い範囲を求めている。彼の化学に関する著作をよく観察すると、そこにはなんらかの新しく、すばらしい反応の発見も、新しい化合物の発見と記述も見当たらない。じっくりかまえた、細かしい、長い時間をかける仕事は、彼の豊かな知能にふさわしからぬものである。
そのかわりに、彼は総合化と組織化の達人で、手のつけられないほど数多くの個々の事実に調和と合法性をもたらしている」略

ドミトリー・イワノビッチ・メンデレーエフに関する私のささやかな著書が、日本の読者のみなさんをこうした願望を裏づける思索へと駆り立てるよすがともならば幸甚である。

1976年1月   モスクワにて   ゲルマン・スミルノフ
(木下高一朗訳 「メンデレーエフ伝」元素周期表はいかにして生まれたか)
               

Dmitri Iwanowitsch Mendelejewメンデレーエフのことば
「私の研究は多数の“事実”の中から考慮に値する観察を見つけること、すなわち、その確実性を求めることにあった」

「教育の仕事は教師の良識にかかっている」

「元素の周期律を発見するまでには的確な目的をもった絶え間のない研究努力があったんだ」

「学業成績はなにも将来を決定するものではない。私は“優等生”が実生活でなにひとつ成功しなかったことを知っている」

「結婚は愛情と理性でよく考えてからになさい」(本文より抜粋)




著者 ゲルマン・スミルノフ
ロシアの有名な科学普及刊行物の1つ「青年の技術」誌科学編集者。
1959年レニングラード造船大学を卒業後、ノーヴォスチ通信社「アガニョーク」誌などの出版所を歴任。科学雑誌の仕事に15年間たずさわり、その間に主として軍事技術、有名な科学者や技術者の伝記、熱力学などに関する記事を200件以上発表。
優良科学普及書コンクールで全ロ「知識」協会から3回にわたり表彰されている。
訳者 きのしたこういちろう
1907年生まれ。ハルピン大学ロシア語学科卒。ハルピン鉄道学院ロシア語科教授のほか、原書の翻訳にも従事した。略 
現在はロシア科学技術文献の翻訳紹介に従事。日本科学技術翻訳士会会員。主な訳書にブルーバックス「金属とはなにか」「サイバネテイックスの世界」がある。



速報;ニュートリノが光速超えた?名大の小松雅宏准教授は「衝撃的な結果だが、実験チームとしてはデータの検証を尽くした上での数値だ。

the elements12

2011-09-23 13:00:06 | アルケ・ミスト
はじめに    シベリアの町から
バスから遥か遠方の丘の上に白い建物がみえてきた。
ここは西シベリア、みえるのはめざすТобо́льскトポリスクの町と城壁とその尖塔である。
                

第一の目的をヨーロッパ・ロシアに近いかっての西シベリアの中心都市トポリスクにした。それは本書が扱う化学者メンデレーエフの生まれた故郷だからだ。中心都市といってもそれは18世紀のこと。
トポリスクが属する地域が今はチュメーニ州とよばれるように、この付近の中心は19世紀に敷かれた鉄道の通る南のチュメーニに移ってしまった。
トポリスクまで鉄道がようやく開通したのはチュメーニに80年以上遅れた1969年のことだ。

サンクトペテルブルグからの飛行機の直行便はなく、まずチュメーニまで行き、そこからバスか鉄道となる。私は1時間おきに出るバスを利用した。
道路脇の電柱の他、果てしなく原野が続くような道を4時間ちかくも走ってから、遠方に忽然とみえた高台の上に白い建物は印象的だった。
こんなところにも人が住んでいるのか、というのがそのときの率直な感想だった。

クレムリンといえば、モスクワにあるものが有名だが、クレムリンはモスクワだけにあるわけではない。実はロシアの古い町の中心には必ずといっていいほど城砦があり、これをクレムリンとよぶ(クレームリ)。遠方からもよくみえたトポリスクの城壁はこの町のクレムリンである。このことはこの町トポリスクが古く由緒ある町であることを示している。
かってのシベリアの中心地の面目ともいえよう。

本書が扱うドウミートリー・イヴァーノヴィッチ・メンデレーエフは今から160年以上前の1834年にこの町で生まれた。

トポリスクに1週間滞在して、この地とメンデレーエフの先祖のことなどを調べてみて、メンデレーエフという人物とその活躍の舞台であったロシアという国の基底部分、丸山真男流にいえば古層に触れたような気がした。

そのトポリスクを代表する人物の一人が、ピョートル・パーヴィロヴィッチ・エルショフ(1815-1869)である。

「せむしの小馬」は無名の大学生によって書かれて大好評を博し、170年後の今日にいたるまで絶えず版を重ねて読み継がれてきた。ロシアで最も人気の高い物語です。

弱冠19歳の大学生の身でこうした国民的文学を書くという偉業を成しとげたエルショフは、西シベリアのトポリスクに近い小村で郡警察署長を勤める小貴族の家庭に生まれました。
父親の転勤に伴い、その地方を移り住むうちにさまざまな職業や身分の人々の生活に触れ、いろいろな民話や伝説を直に聞いて育ちました。また10代の半ばからトポリスクの中学校で学びましたが、その間の寄宿先が親戚の大商人の家で、そこに出入りしていた多くのロシアやアジアの商人たちから、その使用人たちからも、珍しい旅行談、民話、民謡、笑話などを聞いたということです。
             




エルショフが首都に出てペテルブルグ大学法学部ではじめたのは1830年代初めです。その頃のロシアはナポレオン戦争における勝利をきっかけに国威国力が高まりを見せ、文化全般も目ざましい発展を遂げつつありました。

「せむしの小馬」はペテルブルグ大学の教授で評論家でもあったプレトニョフに認めれ、1834年に雑誌「読書文庫」に一部が紹介されました後、単行本として出版され、大評判になりました。
プレトニョフと親交のあったジョコーフスキイやプーシキンもこの作品を激賞し、若い物語詩人の登場に力を貸しました。
幸運な文学的デビューを果たしたエルショフですが、まもなく父と兄とを相次いで失ったこともあり、大学を卒業すると故郷のトポリスクに帰り、母校の中学校で教鞭を執ることになりました。種種のジャンルでの創作をつづけ、あの1869年に亡くなりました。
「せむしの小馬」P・エルショフ作 田辺佐保子訳 論創社



少年少女「世界の名作文学全集」⑰ソビエト編小学館

勿論他の一人とはあのメンデレーエフです。
彼はその1834年に生まれ、あの1869年に偉業を成しとげたのでした。










the elements11

2011-09-18 08:00:27 | アルケ・ミスト
「パラケルススの物質観」ことに化学的原理については補記を要する。
            
例の「硫黄・水銀・塩」は事物に内在する化学的原理を表象しているのであって、元素・化学的な物質を指しているのではないのだ。

現代風に言うなればchemische Bindung化学結合の概念なのだ。それはこの三つの結合は決して物質的な結合ではなく、目に見えない実体同士の「結合coniunction」にその特徴がみられるのだ。
             

注)に目を転じてみると、13世紀にアルベルトウス・マグヌスが物質の中で物質を結びつける力の本性として、結合している物体の間の「親和力」について論じていはいる。
しかしホーカースは、パラケルススの物活論的な三原基の概念が、スコラ的資料形相論と近代科学の粒子理論との中間にあるものとして捉えているのだ。
またゴルドアンマーも、この三原基が近代的な元素理論や分子理論へと向けた最初のステップであると論じてもいる。
             


「物質と生命」という対概念は、西洋世界にて引用されよく知られている二項対立をもたらしてきたのだが、しかしパラケルススの思索においてはそのような対立は存在しないのだ。

よって、三原基と四元素において、一方が物質で他方が生命であるなどとの境界線を設け、区分する必要性はない。

つまり混沌とするあの中世において、その全体的な把握を志向してきたことを、ここで改めて噛み締め味わってみたいものだ。




               


the elements⑩

2011-09-17 08:00:10 | アルケ・ミスト
プフェファーの浴場を訪れたことは確かだと考えられている。
1535年8月31日付けで、当地の領主僧院長ヨハン・ヤーコフ・ルッシンガーへ献呈された「プフェファーの浴場について」
               

はっきりしていることは、1536年頃にウルムにいたことである。
「大外科学」の出版業者を求めて、この地でハンス・ヴァルニールに印刷を頼むがその出来栄えに満足できず、すぐにアウグスブルグへと、向かう。

そこでハインリッヒ・シュタイナーと出版打ち合わせをする。「大外科学」第一巻は1536年7月28日に印刷されオーストリア大公フェルデイナンド1世に捧げられた。

パラケルススの著作が、版を重ねたことは例外的な出来事である。

1536年6月23日に市医ヴォルフガンダー・タールハウザーに「大外科学」を要約した手紙を送った。6月24日には、パラケルッスの意図に賛成する手紙を送り返した。
しかしながら、タールハウザーは「大外科学」1巻に序文を書いていたため、これがもとで医者の同僚たちの反感を買い、1537年にはアウグスブルグを去らなければならなくなる。

「大外科学」とは、古典古代の医学権威を経験の優位によって反駁するために書かれた医学書であはあるが、同時に民俗学として外科学を論じながら、隠された知の鉱脈を遡っていく旅行記であった。
         


パラケルススは様々な諸国を訪れることで、特殊な環境が特殊な風土病を生み出し、同時に環境の特殊性から温泉療法や薬草療法のような風土固有の治療法を生み出すといった諸国の相対的な特殊性への認識へと至ったのであった。
                

だが「7つの弁明」(1538)にも見るように、自らの遍歴の記憶を想起しながら、民間療法を基盤にした経験の優位を主張し、民俗のなかに埋蔵された知を蒐集して、ヘルメス・新プラトン主義に基づいた不滅の普遍性へと秩序づけることこそ、彼の姿勢であったのだ。
なお「迷える医師たちの迷宮」とか「ケルテン地方の年代記」なども、この頃らしい。


ケルテンの聖ファイトにて「フィロソフィア・サガクス」、正式タイトル『大天文学、あるいは大宇宙と小宇宙の鋭敏なる哲学』の第1部は1537年に、第2部以降は1538年までかかったと考えられている。4部構成をとる大作は未完に終わったのだが。

大天文学とは天体構造の客観的法則を定式化するような学問ではなく、不動の神という軸をめぐって変幻する輪の運動を、人間という小宇宙に反映して読みとくことを目的とする。
              
人間が天と地に由来することから、人間は自らに天空の領域(星辰的身体)と元素的な領域(元素的身体)の2つを有し、前者が感覚や思考を、後者が血や肉を担っている。

その天に由来し星辰の影響を受けた目に見えない領域を「自然の光」において探究する方法こそが、魔術的な思考・実践であり、この著作の意味にいける「天文学」なのである。

「星霊の光」これによって、悪魔とも手を結びかねないそれ自体は純真な「自然の光」を超克していくのである。
パラケルススは自然の自立を認めながらも、その中で真に世界の「第1者」としての神の居場所を求めていたのかもしれない。


Humans人間は三つの領域を有する。感覚的世界(物質的世界)と天文そして神を包括して理解しなくてはならない。そのためには自らの中に物質的、星辰的そして神的領域をもたなくてはならない。
とまり天と地が感応しあうと同時に、それらを超える神が存在するというのだ。

まさしく16世紀的な世界観。その激動の社会変動を背景に人間が神とともに生きるための新しい世界像を構築しようとしてきたのである。

はっきりわかっていることは1541年9月21日の宿所「白馬亭」におけるパラケルススによる遺言の口述筆記の状況である。公証人や遺言執行人などと立会人。

文献;「パラケルススにおける著作とテクストをめぐる問題」菊池原洋平
   「化学史研究」29巻2002 69-99頁 
            

 崩壊しつつある中世的な生活秩序に代わる新しい秩序をを捜し求めて、「生」のあり方の道標としての「徴」を見出そうとた意識からの個々の著作は、言語的連続体としてのテクストを形成しているのだ。

           

the elements⑨

2011-09-16 13:02:26 | アルケ・ミスト
消息をなくしての2年間がどのようなものであったのか分からないが、手稿の言明によると1533年頃に二つの神学論文を書いている。

「クレモンテイヌス7世への聖餐について」「神の権能と恩恵につて」
次の確かな記録は12月17日付で発行された請求書である。

同年と推察される「抗夫肺炎並びにその他の鉱山病について」のその内容は①抗夫病の起源、本質と治療②金属の選鉱、精錬、洗鉱などに携わるものの病気③水銀によって生じる鉱山病

1534年パラケルススはインヅブルックに現れる。その地でみたものはペストの恐怖に陥った街の姿であった。
この次に訪れたシュテルツイングでも、彼はまた追い返されている。この街の惨状を目の当たりにしてパラケルススはシュテルツイング市長に「シュテルツイング市におけるペストんいついての小著」を書き上げ贈呈する。

確かに彼のペスト論は、占星術的決定論を基盤とした天と人間の上下運動から現実世界を論じたという意味で的外れだった。
しかしこの想像力の概念を介してパラケルススは今日的な精神病の探究へと向かっていく。

「目に見えない病気について」、この著作でも想像力による作用が論じられている。
              
例えば自慰行為によって生じる怪物の例がある。インクブスとSuccubusスクブスは人間の淫らな想像力によって生じた各々男性と女性の怪物である。
さらには心的生活が身体過程に及ぼす影響を論じている点で、現代的な意味をもつような内容をも含んでいる。

この目に見えない領域を侵す根源は、人間の悪しき信仰glaibeによるものである。悪魔は人間と人間の健康に対して悪影響を与える。人間の悪しき信仰もまた悪魔のように、人間の目に見えない領域を汚していく。

聖ファイト病の記述では、想像力による運動の心理構造を集団全体の動向に向けている。パラケルススは悪魔や魔女や怪物といった民間伝承の産物を信じていた。

これは現代的には心理的コンプレックスというような集合的無意識のなかに沈殿したイメージの民間的比喩なのかもしれない。いずれにせよパラケルススの社会的存在として生きる人間への探究心は人間の目に見えない心理構造にまで及んでいるのであった。

ただこの歴史的背景には、ペストの発生時にガイスラーの長い行列が聖地巡礼に向かっていたことが関係する。ペスト患者らは全裸に近い格好で、手には刺のついた革紐をまき、全身には鞭を浴びせ血まみれになりながら行進したという。
この際に発せられた奇声が精神病の集団ヒステリー現象と類似していたために、精神病患者とペスト患者との差異はあまりないように見えたということも頷ける。



the elements⑧

2011-09-15 08:59:47 | アルケ・ミスト
1530年3月29日に、レーゲンスブルクにて日食をみる。
1530年7月12日に「水銀に関する小品」をアルベルクにて執筆する。その中でレーゲンスグルクで医療費不払いに引っかかったことを嘆く。
1531年3月15日「酒石の章」を、聖ガレン市長(兼市医)ヨアヒム・フォン・ワットに対して「オプス・パラミールム」の第3部を献呈している。」さらに「1531年8月中旬の高速山地に出現した彗星についての解釈」をチューリッヒの宗教改革者レオ・ユードに献呈した。ユードは1531年9月3日の手紙において、この著作をすぐ出版することを約束し、それは実現された。

パラケルススはニュルンベルグ以降も次々と予言書、あるいは関連する著作を刊行する。すべてが聖ガレン滞在中のことであった。
「1531年、アルプス連山の彗星の消滅の後に起こった地震の解釈」
「1531年5月1日、ボーデン湖畔に出現し、8月の彗星が予兆を示した不穏を告示する、虹の解釈」
「上部ドイツに出現した彗星並びに彗星の尾の解釈(1532)」

当時流行した(1529-1530)絵画解釈の予言書
「ヨハネス・リヒテンバルサーの数点の絵画の解釈」
「ニュルンベルグで見出された絵画の解釈」

結論をいえば、この一連の予言書、彗星や地震などの天変地異、あるいは教皇図の解釈までもが、神による人間社会への警告にほかならなかった。

この当時(1530-1534頃)、彼に多くの神学的な草稿を執筆している。四篇75-150の解釈書、聖餐論や「浄福の書」である。

予言書と同じ時期に執筆された「オプス・パラミールム」が、予言によせる世代交代としての発生と自然事物の発生過程との発生の問題の類似性を裏付ける。


パラケルススの学説のおいて最も有名なのが“drei dinge”三つのもの。
すなわち硫黄、水銀、塩である。その三原基が最も体系だって論じられた著書「オプト・パラミールム」である。


             

この三原基は後のパラケルスス派の人々によって、アリストテレス的なclassical elements 四元素や四性質の代わりになるものとみなされることが常であったが、実際のところパラケルススにおいては、より厳密な意味をもつ。

まず人体の構成要素としての三原基のもつ規定がある。人間はこの三つのものから構成される。三つが結び付くことで人間は成り立つのである。だからこそ医師は三つについて知らなくてはならない。しかしこの三つは人体の中に、それぞれ一つずつあるのではなく、それぞれに多くの硫黄、水銀、塩がある。
例えば血液には血液の心臓には心臓の、筋肉や骨髄にもそれぞれ燃焼性、揮発性、固体性という性質がをもつことからも裏づけされる。


木という自然物の燃焼過程を考えるとき、燃焼するのが硫黄、煙をだすのが水銀、灰となるのが塩とされる。だからこそ、この三つは目に見えない実体とも語られ医師はこの不可視な実体を、つまり内に隠れたものを見なくてはならないのである。

そして病理学的なテーマがある。身体のあらゆる病気や健康は、この三原理に原因をもつ。硫黄は可燃性の性質ゆえに炎症などの熱に関する病気をもたらし、塩は潰瘍や癌または腐敗に関する病気をもたらす。水銀は卒中、痛風、狂気についての病気の原因とされる。これらから正常な機能をそこなうことなく身体は病気へさらには死へと向かうことになる。


「パラケルススの物質観」四元素と三原基の構造について
「科学史研究」菊池原洋介
結論を先取りすれば、四元素と三原基は、この二組の構成要素が噛み合って「生命」という問題と深く結びつくのだが、実は各々が生命という問題を内包しているからである。

三原基の種子としての概念と、四元素の母といった考え方である。統一体としての身体観に焦点を合わせているのだ。








the elements⑦

2011-09-14 07:12:44 | アルケ・ミスト
アルザス地方のコルマールに住む医師ローレンツ・クリースの家に厄介になりながら、医療活動を行ったと考えられるが、すぐにコルマールを離れることになったのは、予言の解釈をめぐってとされている。

1528年7月11日付「外傷についての7書」はコンラート・ヴィクラムに贈呈されたらしい。さらにエスリンゲンとニュルンベルグにおいて自ら不幸が襲ったことを帰している。

1529年11月30日付「フランス病に関する3書」を評議会書記長ラツアルス・シュペングラーに献呈している。この本と、梅毒に関するパンフレットとして書かれた「根本的な治療法のグアヤックの木について」は生存中に珍しくも出版することができた。しかし、その中で梅毒の特効薬として定着していたグアヤックの木による治療法などに反対したのである。


大資本家フッガー家にとっては商業上の大妨害にほかならなかったので、ライプツイツヒ大学のハインリッヒ・シュトローマーを味方につけ、梅毒に関するパラケルススの著作を一切ニュールンベルグにおいて印刷することを禁止するうようにしむけた。そのため「フランス病の起源と由来、その治療についての8書」が出版されることはなかった。

パラケルススにとって、Syphilisフランス病こそは人間が道徳的に退廃への時代の「徴」であった。
                  

こうしたフランス病をめぐる騒動を避けるために、パラケルススはニュルンベルグを離れ、レーゲンスブルグから北西30キロほどに位置するベラッツハスゼン城へと避難する。ここで「病院の書」の出版を要請する請願書を書いているが、(1530年3月1日:ニュルンベルグ市参事会)。この著作が出版されることはなかった。

主著となる「パラグラーヌム」の執筆は、このベラッツハウゼンにて開始された。その副題「医学を支える四つの柱」とは、哲学、天文学、錬金術、美徳(道徳、倫理)である。

哲学の概要は小宇宙である人間の身体と、大宇宙である自然世界が、鏡像の如く感応しあう、その探究である。

天文学の概要は、梅毒論においては金星が生殖器官と感応したように、天上世界の事物と地上世界の事物が関連した相似な関係を有する。

錬金術の概要は、鉱物や植物など自然の事物のなかに、神によって与えられた人間のための秘薬(アルカナ)を抽出しなくてはならない。

そして美徳観であるが、医者とは神の代理人として、誠実で純真な態度で医学に取り組み、患者に接しなくてはならない。



the elements⑥

2011-09-13 12:55:44 | アルケ・ミスト
有名な出版業者ヨハネス・フローベンは足部の痛みに苦しめられ、はじ治療にあたった大学の医師たちは、容態の悪化を避けるために、足部の切断をやむをえないと考えていた。
しかしパラケルススはフローベンの足部を切断することなしに、彼をこの病から救ってみせたのである。

このような背景もあってパラケルススは、バーゼル大学医学部教授と当地の市医のポストに就くことになる。1527年の3月16日から同年6月15日までの報酬が75プント支払われていたのだ。

しかし大学側はパラケルススを正式な大学教授として認めることには賛同してはいなかった。また彼が学位証明を大学に提出することを拒絶したことによって大学側と市側だけでなく、大学側とパラケルスス自身の間にも大きな溝ができあがってしまった。そのため彼は大学側の正式な承認のないまま講義を行うことになった。

1527年6月5日、パラケルススは学生に向けて講義案内を掲示した。その内容は明らかにヒポクラテスやガレノスら古典古代の権威という権威を批判、冒涜したものであった。これに加えて、彼は医学の講義の一部で当時の学術語のラテン語ではなくドイツ語を使用したと言われている。
               

事件はこれだけでは済まなかった。パラケルススは1527年6月24日のJohn the Apostle聖ヨハネの日に、この時代の医学の権威書を火中へと投げ捨てて燃やしてしまうという事件を起こす。一説によるとこの書物は、アヴィケンナの「医学典範」とみなされている。
この象徴的な行為はルターがローマ教皇の教書を燃やした事件と類似していることから、パラケルススは「医学のルター」と呼ばれることになる。

唯一の有力な理解者フローベンは、この秋になくなった。

バーゼルの司教座聖堂、聖ペトロ教会、聖マルチン教会、アウグステイネス通りの学生寮に、パラケルススに対する悪質なパンフレットが張り出されたのは12月のこと。
ガレノスの亡霊が冥界からパラケルススを「カラフラトウス」と、あざ笑い罵るような内容のものである。

さらには多額の成功報酬を支払う約束であった司教座聖堂参事会会員を相手取り裁判を起こすが、結果は要求が却下されただけでなく、逆に市当局への反逆と侮辱的態度との理由のもとに、パラケルススを拘留するとの警告が発せられるまでになってしまった。
パラケルススのバーゼル滞在期間は、わずか11ヶ月にすぎなかった。


パラケルススの大学での講義内容を概観しておく。
①「処方されたものと自然なものの等級と混合についての7書」
②「外科学をめぐる講義:膿瘍、腫物、外傷、小膿胞、そしてその他の腫瘍について」
③「瀉血、通痢、放血について」
④「尿と脈の注解についての書」
⑤「酒石病についての講義」
⑥「黄疸についての書」
⑦「十四書」


ここで著者は考察している。
パラケルススが純粋に医学上の問題に取り組んだのはこのときだけなのかもしれない。それが「生」という問題であり、酒石病を“石の性質”をもつ病とみなし、飲食によってあるいは体内の体液によって生じる沈殿(残り滓)、それが塩と表象されているのであろう。




the elements⑤

2011-09-12 09:00:45 | アルケ・ミスト
「神より生まれたる聖母の書」の添え状の署名によると1542年8月15日にはザルツブルクに滞在していたことになる。
処女作「個個の病気の起源、原因、徴候ならびに治療に関する11論文が成立したのはこの時期と考えられる。同様に、大遍歴時代に着手され上ライン地方遍歴中にまとめられた「ヴォールメン・パラミールム」が実際に成立したのも1524年前後のザルツブルク時代と考えられる。

パラケルススは、この地ザルツブルクで鉱夫と農民の連合軍によって勃発された農民戦争に巻き込まれることになる。宗教改革によって触発されたとされる農民戦争は、1524年5月、シューヴァルツヴァルトに始まりシュヴァーベン地方に移る前期と、トマス・ミュンツアーを指導者としたチュービンゲン農民団によって起こった後期の二つにわけられる。この後期の暴動は、あまりにも改革的、急進的、略奪的だったため、農民戦争に同情的だったルターさえもが当局の弾圧を黙認するしかなった。(略)

このような状況下、パラケルススはザルツブルクから逃げるようにして立ち去らならなくてはならなかった。(略)

ザルツブルクにおいて、パラケルススは3人の神学者と神学論争を繰り広げる。しかし、彼は公開での論争を苦手としていたため、再度の公開論争を断るかたわら、彼等に反論するために、先の「聖母の書」を起草した。
           

「聖母の書」において、パラケルススは神学者たちに反論したのは、聖母Maryマリアの出生をめぐる問題であった。彼は、聖母マリアが地上の女性であるといった神学者たちの見解を否定した。
同時に、彼がマリアを神とみなしているといった神学者たちからの非難からも自ら弁明しなくてはならなかった。
そこで彼は、マリアを神に由来する地上の唯一の乙女jungfrauとみなし、彼女のなかの自然的身体、永遠の身体、霊魂を区別した。このマリアの神性からキリストは生まれたのである。
さらにパラケルススは「聖三位一体についての書」、1524年9月7日において三位一体説を使って神たる母マリアを神的な三位一体説における父と子のペルソナ的な構造を考えると、父から子の発生においてはどうしても母が必要になる。すると彼にとっては、神なる子が生まれれるためには、母なるマリアもまた神性をもたなければならなかったのである。
この論争の結果パラケルススは異端の疑いをかけられた。

さらに「キリスト教的偶像崇拝7項目論」において、彼は教会の意義を否定する。(略)
それ以上にこの著作において農民たちをけしかけるやり口がパラケルスス自らによって伝えられている。
彼は知識人との対話を嫌い、農民とおなじような格好をし、農民や旅の行商人が集う安酒場や旅籠で彼らを相手どって説教をしたのである。(略)

彼が1526年の3月にインゴールシュタットにいたことを考えれば、1525年の中頃が出発時と考えられる。その後チュービゲン、フライブルグを経てバーデンで辺境伯フィリップ1世の治療を施すが、十分な報酬を受け取ることができず、このことを後の「パラグラーヌム」の序文において憤慨している。さらに旅は続く。彼はシュヴァルツヴァルトの温泉地をめぐる。ここでの温泉に関する記録は「自然水について」のなかで報告されている。パラケルススはバーデン・バーデン、テプリッツ、ガシュタイン、ザンクト・モーリーなどの著名な温泉場を訪れ、浴水中に含まれる薬理成分を精密に分析した。(略)

そして1526年9月ごろから、パラケルススはシュトラスブルクに滞在し、その後同年に12月5日付けでシュトラスブルクの市民権を得る。
市民名簿に、「テオフラストウス・フォン・ホーヘンハイム、市民権を購入し、同業組合ルツエツルネに加入した箇条」とある。