「周期律発見への第一段階(1854-1861)の分析・・・・・メンデレーエフによる物質の自然分類の試みと基本的物質単位概念の深化
第一期に既に物質分類に深い関心を持っていた。
①複雑な無機化合物を含む、化合物の体系的理解という問題意識を早くから持っていた。
最初期の一連の研究は、何れも鉱物に関している。これらの研究に続く私講師資格論文「ケイ酸化合物の構造」では、有機化合物をも視野に入れながら無機化合物に強い関心を払っていた。
その中で“この十分に研究されていない課題を今こそ取り上げるべきだ”
②1850年代前半に学んだと考えられる、フランスのローランA.Laurent、ジュラールC.F.Gerhardtの化学理論の影響である。
恩師ヴォスクレセンスキーの教育について回想し、それがベルセリウス(J.J.Berzelius、1779-1848)やリービッヒ(J.Liebig、1803-1873)の学説に基づいたものであったこと、同時に学生にはデユマ(J.B.A.Dumas、1800-1884)、ローラン、ジュラールらの学説をも学ぶよう奨励していたことを述べている。
修士論文「比体積」の中でジュラールについて述べていることが注目される。その中でメンデレーエフは、ジュラールが二元論者や電気化学者たちの想定する、化合物に対するアプリオリな仮定を取り除き、類似性の研究による物質の体系化を化学の中心課題としたとして、次のような比喩でジュラールを評価した。
もし化学におけるベリセリウスの多大な意義を植物学におけるリンネの意義に比較できるならば、ジェラールは
Antoine Laurent de Jussieuジュシュー(A.L.de Jussieu、1784-1836)に比肩されりょう。科学は、このジュシューのおかげで自然分類体系の原理を得たのである。
この時期、メンデレーエフは、類似物質間の物理的性質の関係を種種検討した。しかし、見つけられた関係は、物質の自然分類の包括的な基礎となるには程遠い、きわめて部分的なものであった。
物質の分類の難しさについて、メンデレーエフは1861年に、次のように述べている。
化合物の可能な分類法は様々であることに注意しよう。しかし、発生的な系統性や類比的な系統性をすべてまとめ、首尾一貫して説明する表現体系など一つもない。なぜならある化合物が二つの別化合物だけとつながりをもつということはなく、多くの化合物とつながるからである。
メンデレーエフの基本的物質単位概念の深化・・・・・元素の原子量、概念の端緒
ローランは分子量、原子量、当量の概念を明確に区別して定式化した最初の化学者である。
1850年代においても、彼らの改革は一般の化学者に受け入れられるには、程遠い状況にあり、多くの化学者は概念上の混乱の中になったが、ロシアの化学者は早くから正しい原子量・分子量概念を受容・普及されていた。
そのことは
Stanislao Cannizzaroカニッツアーロ(S.Cannizzaro、1826-1910)1857年、コップ(H.F.M.Kopp、1817-1892)1858年、ケクレ(F.A.Kekule、1829-1896)1858年にみる解離概念を用いた異常蒸気密度の説明と同等にみることはできないにしても、1856年の修士論文の中で、こうした物質量、中でも分子量、原子量に相当する基本単位について詳細に検討していることは注目されて良い。
あの1860年カールスルーエ(Karlsruhe)で開かれた世界最初の国際化学者会議に出席したメンデレーエフは具体的に何を得たのであるか?
それは、蒸気密度に基づく分子量決定法をいかに全元素の原子量決定に結びつけるかについての方法論であり、とりわけ金属の原子量問題の解決法である。
会議の翌年に彼が書いた有機化学教科書ではパイは“元素の化合物分子中に含まれるその元素の最小量”と定義された。
ローランの原子とメンデレーエフのパイは一致したのである。
同時にここで注目すべきは、これまではっきりしていなかったメンデレーエフにおける単体と元素の区別が、分子量、原子量の区別の結果、意識されてきたことである。
現行の命名法では、体と根とがはなはだ混同され易い。われわれにとって、体というのは分割可能のモノ(分子)であって、根(ラジカル)は不可分の欠けることのないモノ(原子)である。
この後者の観念は理論的概念である・・・・・塩素という言葉は、塩素ガスCl2を意味するときにも、ラジカルClを意味するときにも用いられる。
このように1861年の有機化学教科書において、パイの定義が確立し、単体・元素の区別の萌芽が現れた。
これらは後年の“元素の原子量”概念に至る端緒となるである。
ニュートリノは弱い相互作用による放射性元素の説明として登場しましたが、天体という極限的な状態を想定すると、いろんな場面でも重要な存在であることに気付きはじめました。なかでも1950年の林忠四郎の宇宙初期での素粒子反応研究は先駆的なもので、彼はビッグバン宇宙では原始ニュートリノが大量に残存することを初めて指摘しました。
超新星とニュートリノプロセス林は
Big Bangビッグバン宇宙での元素合成や星の進化の研究を通じてこの分野を開拓・創始した。
1960年代に入ると、ニュートリノの質量と宇宙のミッシングマス問題が新らしい関連話題として登場します。
ニュートリノはもともと質量がある素粒子だと考えれていました。
次にこの話題が、質量ニュートリノの凝縮で宇宙の大構造を説明する試みとして再登場するのは、1980年です。筆者も同じ年にこの提案を行いましたが、それは1964年頃にあった話のリバイバルでした。