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the elements25

2011-10-05 08:43:38 | アルケ・ミスト
              
疑いもなく、透析(浸透および滲出)は、すべての生物で行われている。

なぜならば、動植物の細胞の組織および膜は透析を行う性質をもっているからである。
植物のRaíz幼根や毛細根は、土壌の溶液からある種の物質だけを、他のものよりすみやかに吸収しなければならない。
                        

これらの物質は体内に吸収された後には、植物の葉が水分を蒸発させているので、植物の体内を移動し、そのために、これらの土壌物質は根からはいって植物の他の部分全体にいきわたるのである。

                   
                 



コロイド物質の性質やそれが膜を透過する現象を研究すれば、生物内で起こっている現象について多くのことが明らかにされるに違いない。
                      
                      



固体を研究する場合には、固体が結晶をつくる能力をもっているかどうかに注目し、へき開、その物体の結晶形、それらのコンビネーション、角およびある形の生長を与える能力などを測定する。なぜなれば、これは、均一な物体を互いに区別するための最も重要な特徴であるからである。鮮明な結晶を生成する能力は物質の均一性を示す特徴の1つである。結晶化によってクリスタロイドをコロイドの不純物から分離したり、しばしば二つの結晶体を互いに分離したりできる。
                


均一な物体を区別するもう一つの重要な特徴は、比重、すなわち、ある物質の単位立方体の重さ、である。
なぜならば、このことについては物体はきわめて多様性を示しているからである。比重を表すのに、科学では普通、物質の1cm3の重さ(g)を使っている。もし、金の比重が19.5であるという場合、これはすなわち、金の1cm3の重さは191/2 gであるということである。
                   

物理学では、specific gravity比重の正確な測定方法をきめている。ここでは、比重は容積の測定のために方法にもなり得るということだけしるしておく。

              

火の玉宇宙時代のニュートリノは、光子のcosmic background radiation背景放射が見つかっているのだから、必ず存在するはずです。ただ重力源としてどれだけ大きいのかは、ニュートリノの質量ががまだわからないので
はっきりしません。
重力源以外の方法で検出する可能性については、私も昔いろりろ考えたことがあります。
宇宙線との衝突で高エネルギーになったものを捕まえるわけですが、観測がそこまでいけそうにないのです。
「出番を待つダーク素粒子」というわけです。

the elements24

2011-10-04 06:58:15 | アルケ・ミスト
しかしながら、結晶となる能力をもった固体は、固体のうちのごく一部である。大部分の固体はいつも、結晶構造の痕跡すらもっていない。
このような物体をコロイド、すなわち膠に似たもの、と呼ぶ。なぜならば、ニカワはそれらの物質のうちの一つであるからである。
コロイドをいくつかの塊に割ると、そこにはへき開、すなわち、幾枚もの層の重なりの構造が全然みられないことがわかる。これらの物体の断面はニカワやガラスの塊の断面に似ている。

動物および植物体の固い部分をつくっている物質のほとんどすべてがコロイドに属する。それが、動物や植物が、多くの鉱物のような結晶形とは似ても似つかない、実にさまざまな形をもっている理由である。少なくとも一部はそういえるであろう。

生物、すなわち、動物および植物では、通常水で浸されているコロイド固体は、まったく特別な形、すなわち、細胞、顆粒、繊維、無形の粘液の塊などで、結晶体のもっている形とはまったく異なっている。
コロイドは溶液、あるいは溶融した状態から分離されると、コロイドが生成されていた液体の一様なかたちをとる。この最もよい例がガラスである。

コロイドは、結晶形をもっていないというだけでなく、その他の多くの性質によってクリスタロイド(晶質)とは区別されている。

最近、英国の学者グレアムが示したように、これら2種の固体はいろいろな性質によって区別できる。ほとんどすべてのコロイドは、ある条件のもとでは、水の可溶、あるいは不溶な状態に移行できる。そのよい例が卵白(アルブミンあるいはタンパク質)である。

卵白は生の状態では水に可溶であるが、ゆで卵のかたち、すなわち、凝固したタンパク質と呼ばれるものでは、水に不溶となる。
大部分のコロイドは、不溶なかたち、もしくは不溶な状態へ、あるいはその逆へ移行する場合、もし、それが水の存在の下で行われるならば、ゼリー状になる。これは、デンプン糊や、凝固したニカワゼリー、にごりなどの性質から誰でも知っていることである。

実際、魚のニカワや普通のニカワでさえも、冷水に浸されると、膨潤して、水に不溶なゼリーになる。もし、それを加熱すると、溶融して、そのときは水に可溶となるが、冷却すると再びゼリー状になり、水に不溶となる。


クリスタロイドと区別できるコロイドの性質の1つとして、一方は膜を非常にゆっくりと透過するが、他方はすみやかに通過することがあげられる。このことを確かめるために次のような容器を使う。                   
                        


すなわち、両端の開いたシリンダーの下部を、膜嚢、semipermeable membrane半透膜、硫酸紙あるいはその他の膜状の物質でおおう。しっかりとしばって、どんな孔も残してはいけない。
このような膜をもった容器を透析器という。また、これを使って、コロイドとクリスタロイドとを分離することを透析という。

この透析器にクリスタロイドかあるいはコロイド、あるいはそれらの混合物の水溶液をそそぎ、それを、水のはいった容器に、下の膜が完全に水でおおわれるようにいれる。そうすると、ある時間たつと、クリスタロイドは膜を通って水へ移行するが、コロイドは、このような移行を試みたとしても、比較にならないほどゆっくりである。
もちろん、クリスタロイドは、膜の両側で水中のその含量が等しくなるまで移行するのである。外側の水を新しくかえると、透析器から新たにクリスタロイドの透析をうながすことができる。
結晶体が完全に膜を通してでていった時点では、コロイドはほとんど全部完全に透析膜内に残っている。それゆえに、透析によって、溶液中に共存しているこの二種の類の物体を分離できるのである。



宇宙線は陽子を主とした原子核ですが、大気と衝突して中間子を多重発生させ、その崩壊で1部ははミュー粒子やニュートリノという、捕まえにくい成分に変わります。

水中を放射線が走ると青白く光ることは、最初に原子炉で認められました。その理論を含む研究によって、チェレンコフ、タム、フランクがノーベル物理学賞を受賞しました。

水チェレンコフ光は小柴さんが1960年から温めてきたという話もある。


the elements23

2011-10-03 12:58:50 | アルケ・ミスト
           化学の原論



物質は均一のものと混合物とに分けられる。化学では均一な物質を扱う。

固体はクリスタロイドとコロイドに分けられる。クリスタロイドにおいては、吸引力はいろいろな方向において一定ではなく、へき開と結晶化はこのことによっている。crystal結晶は昇華、溶融、溶液からの冷却、蒸発によって得られる。結晶にはシンメトリー、帯、一定の面間角および変化軸の簡単な比が存在する。
                    


液体の吸引力はあらゆる面において一様である。液体が毛細管を上昇する現象や蒸発潜熱はこのことによるものである。
液体の密度は温度によってまったくまちまちに変化する。密度は、しばしばボーメの比重計によって測定される。
液体は、その揮発性、沸点および凝固点、蒸気圧、流動性、およびその他のあまり研究されていない特性によって区別される。

気体は吸引力をもっていないが、その他のすべての特性において液体に似ている。気体はあらゆる割合で混ざり合う。気体が小さい孔から流失する時間は、その重量の平方根に比例する。
気体の体積は圧力に反比例する。気体の膨張係数は、温度および気体の種類に無関係に、ほとんど一定で、1/273あるいは0.003665に等しい。
気体の体積は、重量、密度、圧力および温度によってきまる。これらの体積は、0℃および760mmHg、で比較される。
気体は空間を飽和しない蒸気である。多くの気体は冷却および圧縮によって液体に変化する。この液体を蒸発させることによって低温が得られる。
気体はその密度、液体に圧縮される性質、およびその他のあまり研究されていない特性により区別される。気体の密度は、空気の重さの14,5分の1である水素に対するものである。
「化学によって研究される物質と現象」その結論部分である。


その冒頭部分も記しておこう。
われわれによって認められるものすべて、物質として、あるいは現象として識別することができる。
物質は空間を占めていて、重量をもっているし、現象とは時間のなかで生じるものである。各物質は相異なる現象を表すものであるし、物質なしで起こる現象はあり得ない。多様な物質と現象の1つ1つに十分注意をはらわなくてはいけない。法則性、すなわち、この多様さのなかに、ある単純さと正確さを発見することが自然を研究するということなのである。

この研究が自然科学の対象である。それらのうちの1つである化学は、いくつかの物質とPhenomenon現象を研究する。この章では、それらのうちのどれが化学の領分にはいってくるのかを知って、この科学によって発見された基本的な法則を理解する下地となるようにする。

            反薄明現象


残存する素粒子に差が生じるには、CP破れ、バリオン破れ、平衡でない3条件が満たされる必要がありると結論づけられます。これを「サハロフの3条件」といいます。
現在宇宙の初期に、この3条件がどんな素粒子反応で満たされているかわかっていません。
既知の素粒子反応をみる実験では駄目なので、どうしても新手の理論が必要になります。しかし、その理論を実験などの他の現象で検証するのがむつかしいのです。たとえばバリオン数破れは陽子崩壊の予言となりますが、崩壊するとしてもその寿命が長いため、現在の実験(スーパーカミオカンデでも実験中)で計画するのはむずかしいのです。

the elements22

2011-10-02 20:00:00 | アルケ・ミスト
周期律に至る過程の転機(1861-'67)の分析

あの「定限の理論」は1861年8月、ペテルブルグ科学アカデミーでジーニンによって発表された。
この理論は、一定の炭素と結合し得る他の元素の量が一定の限度を越えない、という事実に注目したもので、そうした限度いっぱいまで他の元素を含む有機化合物を、メンデレーエフは定限の化合物であるとした。

メンデレーエフは、この考えを無機化合物にも拡張適用して、それらを体系化し、無機化学教科書を書こうとした。しかし、無機化合物は、有機化合物と違い定限化合物がはっきりせず、うまく体系化できなかったために、教科書執筆計画はそれ以上進展しなかったらしい。

この時期のメンデレーエフは、化合物の体系的理解という問題意識に由来するもう一つの課題を抱えることになった。
いわゆる"不定比化合物"をどう理解するかの問題である。そしてこれが、メンデレーエフの周期律発見に至る認識の展開に転機をもたらした。


"不定比化合物"問題から新しい元素概念の定式化へ
1856年の私講師資格論文「ケイ酸化合物の構造」の中で、Alloy合金と同じく、"ある程度、形や主たる性質を変化させずにその組成(および式)を変化させ得る"ことから、メンデレーエフはケイ酸化合物を酸化物の合金だと考えた。
Water is a good solvent because the molecules are polar and capable of forming hydrogen bonds

この種の物質の研究を60年代に入ってさらに進展させて、solution溶液、合金、同形混合物、ケイ酸化合物を"不定比化合物"としてまとめた。
それらは、メンデレーエフによれば、あたかも普通の定比の化合物のように一定の物性値を持ちながら、組成の不定な物質群である。

それらが従来よく言われてきたような、単なる機械的な混合物でないこと、その生成に化学的な力が関与していること、従って、"不定比化合物"にきわめてよく似た性質が現れることなど、である。
そして不定比化合物を定比化合物から切り離してしまって、前者をかえりみない従来の化合物の考え方を批判し、両者を包含する化合物概念を提出して化合物全体を体系化しようとした。

こうした"不定比化合物"を含めて化合物を説明しようとしたときに問題となるのは、"不定比化合物"の生成や組成が、従来の定組成の化合物に基づく原子説では説明できないように見えることである。

この原子説に対する懐疑ともいえる態度を、単純にメンデレーエフの後退とみるべきではない。
"不定比化合物"という現象に規定されたメンデレーエフの対応であって、その積極面をこそ評価すべきである。

以下に示すように、不定比化合物研究は、メンデレーエフの元素概念形成に重大な影響を与え、周期律発見過程に大きな転機をもたらしたと、筆者は考えている。

1867年のものと考えられる一般化学の講義録の中で、初めて定式化された。
"独立の一種類の物体としての単体概念"と、化合物や単体に共通に含まれる物質の構成要素としての元素概念とを区別しなければならないと述べた。
彼はこのことを、単体の水銀や酸素と、酸化水銀中のそれらとの違いを例に説明している。

つまり原子説による"不定比化合物"の理解の困難に直面して、原子と言う媒介項に依存しない元素概念に結実した。メンデレーエフの元素は、原子に代わって物質の質を担う物質単位である。

この"単体"と区別された"元素"の概念の明確な規定は、非常に重要な一歩となった。
当然次に問題となるのは、元素の諸性質の中で最も基本的な性質は何かということである。

メンデレーエフが元素分類を課題として明確に意識した例は、先に述べた1862年の無機化学教科書執筆のための準備的な試み以外になく、その際には有機化合物体系化の延長上で無機化合物の体系化が試みられたのであった。
元素分類を再び意識し、本格的に取り組む事になったのは、「化学の原理」執筆を通じてであった。




      
力学、熱、電磁気、化学のエネルギーに加えて、ここでMass–energy質量エネルギーが新たにつけ加わりました。そうすると、放射線の現象を含めてエネルギー保存の原理・原則が回復したことになります。こうした背景のもとに、放射能の学問である原子核と素粒子の解明が進んでいくわけです。
行使した中で、エネルギー保存の原理・原則にまた新たな危機が訪れました。放射性物質の崩壊では、アルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種類がありますが、そのうち電子か陽電子が出て来るベータ崩壊の詳しい実験で新しい謎が出てきたのです。原子核の状態変化によるエネルギーと出て来た放射能のエネルギーを測って比べてみると、いつも放射能のエネルギーの方が少ないのです。
この危機の解決のために登場したのがニュートリノという未知の素粒子でした。


the elements21

2011-10-01 20:00:08 | アルケ・ミスト
「周期律発見への第一段階(1854-1861)の分析・・・・・メンデレーエフによる物質の自然分類の試みと基本的物質単位概念の深化

第一期に既に物質分類に深い関心を持っていた。
①複雑な無機化合物を含む、化合物の体系的理解という問題意識を早くから持っていた。
最初期の一連の研究は、何れも鉱物に関している。これらの研究に続く私講師資格論文「ケイ酸化合物の構造」では、有機化合物をも視野に入れながら無機化合物に強い関心を払っていた。
その中で“この十分に研究されていない課題を今こそ取り上げるべきだ”
②1850年代前半に学んだと考えられる、フランスのローランA.Laurent、ジュラールC.F.Gerhardtの化学理論の影響である。

恩師ヴォスクレセンスキーの教育について回想し、それがベルセリウス(J.J.Berzelius、1779-1848)やリービッヒ(J.Liebig、1803-1873)の学説に基づいたものであったこと、同時に学生にはデユマ(J.B.A.Dumas、1800-1884)、ローラン、ジュラールらの学説をも学ぶよう奨励していたことを述べている。

修士論文「比体積」の中でジュラールについて述べていることが注目される。その中でメンデレーエフは、ジュラールが二元論者や電気化学者たちの想定する、化合物に対するアプリオリな仮定を取り除き、類似性の研究による物質の体系化を化学の中心課題としたとして、次のような比喩でジュラールを評価した。

もし化学におけるベリセリウスの多大な意義を植物学におけるリンネの意義に比較できるならば、ジェラールはAntoine Laurent de Jussieuジュシュー(A.L.de Jussieu、1784-1836)に比肩されりょう。科学は、このジュシューのおかげで自然分類体系の原理を得たのである。

この時期、メンデレーエフは、類似物質間の物理的性質の関係を種種検討した。しかし、見つけられた関係は、物質の自然分類の包括的な基礎となるには程遠い、きわめて部分的なものであった。
物質の分類の難しさについて、メンデレーエフは1861年に、次のように述べている。

化合物の可能な分類法は様々であることに注意しよう。しかし、発生的な系統性や類比的な系統性をすべてまとめ、首尾一貫して説明する表現体系など一つもない。なぜならある化合物が二つの別化合物だけとつながりをもつということはなく、多くの化合物とつながるからである。


メンデレーエフの基本的物質単位概念の深化・・・・・元素の原子量、概念の端緒

ローランは分子量、原子量、当量の概念を明確に区別して定式化した最初の化学者である。
1850年代においても、彼らの改革は一般の化学者に受け入れられるには、程遠い状況にあり、多くの化学者は概念上の混乱の中になったが、ロシアの化学者は早くから正しい原子量・分子量概念を受容・普及されていた。

そのことはStanislao Cannizzaroカニッツアーロ(S.Cannizzaro、1826-1910)1857年、コップ(H.F.M.Kopp、1817-1892)1858年、ケクレ(F.A.Kekule、1829-1896)1858年にみる解離概念を用いた異常蒸気密度の説明と同等にみることはできないにしても、1856年の修士論文の中で、こうした物質量、中でも分子量、原子量に相当する基本単位について詳細に検討していることは注目されて良い。
                

あの1860年カールスルーエ(Karlsruhe)で開かれた世界最初の国際化学者会議に出席したメンデレーエフは具体的に何を得たのであるか?

それは、蒸気密度に基づく分子量決定法をいかに全元素の原子量決定に結びつけるかについての方法論であり、とりわけ金属の原子量問題の解決法である。

会議の翌年に彼が書いた有機化学教科書ではパイは“元素の化合物分子中に含まれるその元素の最小量”と定義された。
ローランの原子とメンデレーエフのパイは一致したのである。

同時にここで注目すべきは、これまではっきりしていなかったメンデレーエフにおける単体と元素の区別が、分子量、原子量の区別の結果、意識されてきたことである。

現行の命名法では、体と根とがはなはだ混同され易い。われわれにとって、体というのは分割可能のモノ(分子)であって、根(ラジカル)は不可分の欠けることのないモノ(原子)である。
この後者の観念は理論的概念である・・・・・塩素という言葉は、塩素ガスCl2を意味するときにも、ラジカルClを意味するときにも用いられる。

このように1861年の有機化学教科書において、パイの定義が確立し、単体・元素の区別の萌芽が現れた。
これらは後年の“元素の原子量”概念に至る端緒となるである。

              

ニュートリノは弱い相互作用による放射性元素の説明として登場しましたが、天体という極限的な状態を想定すると、いろんな場面でも重要な存在であることに気付きはじめました。なかでも1950年の林忠四郎の宇宙初期での素粒子反応研究は先駆的なもので、彼はビッグバン宇宙では原始ニュートリノが大量に残存することを初めて指摘しました。
超新星とニュートリノプロセス林はBig Bangビッグバン宇宙での元素合成や星の進化の研究を通じてこの分野を開拓・創始した。
1960年代に入ると、ニュートリノの質量と宇宙のミッシングマス問題が新らしい関連話題として登場します。
ニュートリノはもともと質量がある素粒子だと考えれていました。
次にこの話題が、質量ニュートリノの凝縮で宇宙の大構造を説明する試みとして再登場するのは、1980年です。筆者も同じ年にこの提案を行いましたが、それは1964年頃にあった話のリバイバルでした。



the elements20

2011-09-30 20:00:14 | アルケ・ミスト


メンデレーエフはファント・ホッフの浸透説には好意的だったが、アレニウスの電離説には非常な反感を抱いた。
アレニウスは電離説と称していたが、それはメンデレーエフが考えた解離では全然なかった。メンデレーエフは不安定な水化物の分解を解離と呼んだのに対して、アレニウスはこの述語を最も強固な電解質分子が水中に入ったときの分裂と解釈したのである。

原子とイオンとの区別もはじめのうちはあまりはっきりしていなかった。強固な分子の分裂がどんな力によって起こるものかわからなかったし、多くの化学者がこの新説に我慢できなかったことは不思議ではない。

自分のたてた原則を信ずるメンデレーエフは、その当時、溶液の物理的理論派と化学的理論派との間に展開された騒々しい討論の仲間入りはしなかったが、その著述の中で散見されるいくつかの意見から見ると、彼は問題の核心をよくとらえていて、イオン説派がまだ理解するに至らない難点を見抜いていたのである。メンデレーエフの意見によれば、理論派は希薄溶液にも濃縮溶液にも共通した唯一のものでなくてはならないということである。

ファント・ホッフとアレニウスの物理的理論の正しいのは、薄い溶液についてだけであるのに対して、メンデレーエフの経験ではその時期はまだ到来しそうになかった。

1889年水和論に関する、メンデレーエフの最後の著述が現れたが、それ以上にはこの問題にふれることはなかった。
ただ死期に近いころ自著の解説の中で「比重による水溶液の研究」にふれて、“これは私がいちばん苦労した研究の一つである。・・・・私の考えは若いときから現在に至るまで変わらない。これらの現象と純化学的な現象との間には境界はない。”これらの現象を著書の中でかなり明確にできたことをうれしく思う」と記している。

その著書「比重における水溶液の研究」が世に出てから20年後にアレニウス自身が、
「水和論は、くわしく研究する価値がある。これこそ最も難解な電解質解離の問題を理解するカギとなりうるからである」と声明した。
                

Saint PetersburgState Universityペテルブルグ大学における教育活動33年間に、3回もこの大学を去りかかった。どの場合も偉大なるM・ロモノーソがモスクワ大学の規約に条件づけた大学の自由の権利が侵害されたことに関係があった。

1890年の早春、モスクワのペトロスキー高等専門学校で学生騒動が始まり、警察は175名を逮捕し、30名を懲治部隊へ引き渡した。
この学生騒動をペテルブルグ大学の学生たちが支援した。そして学生の間に信望のあるメンデレーエフはペテルブルグ大学内に学生集会が準備されていることを知った。

3月15日、学生側はメンデレーエフに請願書を手渡した。彼は“たとえ個人的な仕返しを受けるにしても大学の平静を保たなくては”との願いだけに動かされて、ひとりで大臣に請願書を渡すことに決めた。

その翌朝「文部大臣も、皇帝陛下に奉仕するたれびとも、この書類を受け付ける権限をもたない」という文面の添え状と共に返されてきたので、メンデレーエフはひどく憤慨した。
こんどこそ大学を去るメンデレーエフの決意は固かった。

1890年3月22日生涯で最後の大学講義でメンデレーエフは大学教育の基本任務について解説した。
それは彼が「真実を純粋かつ完全に理解しようとする」努力のなかで見たものだった。
「諸君は真実を最もおだやかな方法で会得してもらいたい。私の退職にはいろいろな理由が多分にあるのだから、どうか送別の拍手をしないように願います。」






では、どのような秘密の力が電解質の分子をイオンに分裂させるのか、これについてメンデレーエフの後継者デ・コノワロフ、ヴェ・キスチャコフスキー、ベ・ワリデン、デ・フラピッツキーは、イオンの生成は分子の水和なしには不可能であることを立証している。



the elements19

2011-09-29 12:31:04 | アルケ・ミスト
1883年に水溶液の全面的研究に着手したメンデレーエフは、過去20年に蓄積した経験のすべてを投入し、最新の測定法と器具を用い、これによって得たデータの処理に最新の数学的方法を利用した。

「私の研究は多数の事実の中から考慮に値する観察を見つけること、すなわちその確実性を求めることにあった」

まず、ほとんど1世紀にわたる先輩学者たちが積み重ねた溶液に関するデータを全部集めた。次にこれらの数字を相互に比較できるようにするため、比重を真空測定し、これを最大密度で水溶液におきかえ、同じ組成で対比して数字を計算しなおした。
同時に、新しくもっと精密な測定方法を開発して、先輩がまったく研究しなかったり、研究が不正確だったりした溶液の比重を測定した。

濃度と温度をいろいろ変えて233種の化学物質の水溶液を究明している。
        酸化鉄を用いたテルミット反応

多くの物質・・・・アルコール、硫酸、アンモニアを溶解するとexothermic reaction 熱が出ることである。この熱の放出は、以前から化学反応の最も特徴的な徴候とみなされていた。

そこで面白いことには、これらの化学反応の結果として生成物の体積が、反応した物質よりもいつも小さいことである。これは生成物の比重が、反応する物質の比重よりも増えるということを意味する。
比重、すなわち溶液の純力学的な特徴によってその分子構造を奥深く観察できるのはこのためであり、メンデレーエフがこの溶液の特徴を、極めて正確に測定をさせものとして主な研究の基礎としたのもこのためである。そしてその期待は裏切られなかった。


この驚くべき法則性にメンデレーエフは心を引かれて、なんとかこの秘密を解明したいと思い、数学の助けをかりることにした。

力学的模型を用いてみることにして、しばらくの間、豌豆と黍をいろいろと混ぜてみて問題の解答を求めようとした。

水の分子は物質の分子と結合するとき、たくさんの水化物を生ずるが、その一部は薄弱なためにすぐに分解・・・・解離してしまう。この解離による生成物はふたたび物質、溶媒およびその他の水化物と結合し、新たに生じた化合物の一部がまたもや解離する。こうした過程は、水溶液内に可動的な・・・・力学的な・・・・つり合いができるまでつづく、という考えだった。

メンデレーエフは自著「比重による水溶液の研究」に対して学会の大きな反響を期待して、「溶液は比較的に弱い薬剤によって決まる相互作用の最も一般的な場合だと思われる。ゆえに将来の化学教育を成功させる実り多い畑であり、綿密に注意深く研究するのに値する」と述べている。







 雲はなぜ落ちてこないのか
空一面を覆う真っ黒な雲が,重力で地表に落ちてこないのはなぜか? 現代物理学の基本原理であるアインシュタインの相対性理論にほころびが見つかった? 身近な自然にひそむささいな疑問から,物理学の根本を問い直す提言まで,大小さまざまなスケールの「常識」を,物理学者である著者がやさしく解きほぐす最新エッセー集.

「ニュートリノに質量あり」
1932年の中性子の発見で原子核の姿がはっきりし、フェルミのベータ崩壊理論と湯川の中間子仮説が続きました。
そしてただちにそれらの新しい原子物理学の理論は、太陽(恒星)の核融合によるエネルギー生成、核反応による元素起源、エネルギー源の切れた星の終末、などに応用されました。
しかし、1939年頃になると、このような流れは第二次世界大戦によって中断されてしまいます。

戦後になると、地学、生物学、医療、工学といった多くの分野で放射線とアイソトープが利用されるようになり、原子物理は飛躍的に拡大しました。原子炉を用いた実験でニュートリノが見つかったのは1956年でした。
「宇宙」では核反応を考慮した「星の進化と元素の起源」という研究がすすみ、壮大な宇宙ドラマが描かれました。1960年前後には「天体核nuclear astrophysics」という言葉が生まれ、このサイエンス全体が輝いてみえました。


the elements18

2011-09-28 12:27:06 | アルケ・ミスト
1868年の夏、ペテルブルグ大学総長ア・ワスクレンセンスキー教授がハリコフ学区監督官に任ぜられて大学を去るに当たって、33歳の教え子メンデレーエフを自分の担当していた化学講座の教授に推薦した。
当時のロシアの大学では化学関係の教授の定員は化学と工業化学の2名しかいなかった。
10月18日大学評議会は、メンデレーエフを工業化学教授から化学教授に転任することを承認した。

このためメンデレーエフはただちに無機化学について講義しなくてはならなくなった。
メンデレーエフは無機化学と有機化学とを対立させるのが好ましくなかったので、この学問が一体のもので分離できないことを強調するかのように自分の講義を「一般化学」と名づけた。

                


そして自分の後任に化学構造論の創設者としてすでに有名だったカザン大学のАлександр Михайлович Бутлеровア・ブトレロフを推薦した。

ブートレロフは1861年の講演でこれらの理論を総括し、分子中の原子間の結合の様式を化学構造と命名し、「分子の化学的性質はその成分元素の性質と量、化学構造による」と述べた。 ここでブートレロフは従来の型の説や根の説での構造式に対して用いられていたConstitutionという語に代わってStrukturの語を用いた。

相談の結果、ブトレロフは有機化学を担当し、臨時教授に選任されたエヌ・メンシュトキンが工業化学と分析化学を引き受けることになった。

こうして1868~1870年までに一つの大学内にロシアの科学を光輝ある発見で飾った3人の一流学者がそろったのである。

この移動はメンデレーエフの学者としての経歴にとくに大きな役割を果たすことになった。化学教授に選任されるとともに、いままでの研究を貫く構想を完成へ向かって、ただ一筋に進めていくことができるようになたのだ。

講義にとりかかったメンデレーエフは、学生たちに紹介するに足るような一般化学の教材がロシアにも外国にもないことを知った。若い教授には体力と智識が豊かであったし、精神力も旺盛だったので、教材を自身で執筆することを決意した。

「書き出したのは1868年だった。全部で4巻出したが、4巻目がでたころにはもう第一巻のほうはなくなっていた。自費出版だったので、経費もかかったが、後で版を重ねるにつれてこの本は主な副収入源となった。この本には独自のことがこまごまと書いてあるが、ポイントは「化学原論」を仕上げるうちに発見した元素の周期律だった」と老後のメンデレーエフは述べている。

本と言うものは著者の個性を反映するものである。人間精神の不滅の創作の中でメンデレーエフの「化学原論」は、まったく特殊な地位を占めている。
ニュートンの「自然科学の数学的原理(プリンキピア)」、ガリレイの「世界の二大系対話」、あるいはダーウィンの「種の起源」とちがって、この「化学原論」は、一度だされたきりのものではない。
メンデレーエフの生涯に8版を重ねたこの偉大な書物は絶えず内容が深くなり、補訂されていき、ほとんど40年にわたる学説の進化を物語っている。
したがって普通の教科書といったっものではなく、科学的な記述、鋭い分析、深い哲学的思索および驚くべき予言の合金なのである。
            

あのロス・アラモスの研究をしていたFrederick Reinesフレデリック・ライネスとClyde Lorrain Cowanクライド・カワンは、パウリの言う幽霊粒子に関心をもって、原子爆弾ではなく原子炉から出るであろうニュートリノに注目したの1953年の事であった。
1956年6月14日「ここに、ニュートリノを確実に検出したことを大いなる喜びをもって報告します。」

Wolfgang Ernst Pauliパウリの予言からの25年、ライナスがノーベル賞を受賞するのにはさらに40年を要した。


the elements17

2011-09-27 17:37:11 | アルケ・ミスト
有機化学は先輩たちによって確固たる地盤がきずかれ、同時代の学者たちによって着々と発展の途上にあった。これがメンデレーエフに多数の有機物の構造原理を検討し、明らかにする手がかりを与えたのであった。

講師論文「シリカ化合物の構造について」と「ガラスとガラス製造」とは、鉱物とガラスの多様性についての新しい、まだあまり研究されていない原理を示すものであることに注目した。この原理を理解し、その作用を研究し、化合物を構成する成分比率が厳重に保たれていない無数の不確定化合物がいかにして生ずるかを究明すること・・・・これをメンデレーエフは当面の研究課題としたのである。

ところが、この研究にとって“耐熱性”で堅固な、分析のきかないシリカ化合物がまことに都合の悪いもので、同種とみなしうる試料を見つけるのがむずかしく、この化合物をはじめから分析することは有機化合物の分析にくらべてとても困難であった。それに、酸化物の成分比をあらかじめ定めた鉱物を合成することは、当時の技術では不可能でさえあったのである。

メンデレーエフは、「ワグナー工業技術」誌の編集で「アルコール分計量器」の章を加えねばならなくなり、その研究をしていたとき、水とどんな割合ででも混合するアルコールが不確定化合物の研究上うってつけの対象であることを知った。そこで、この研究を博士論文のテーマに選んだのだった。

メンデレーエフは、ハイデルベルグ時代に使用していたなつかしい実験器具を二年ぶりに取り出して、分析はかり、ガイスラー温度計、それから彼の設計でボンのガラス工場でつくらせた比重ビン等。

この実験に彼は1年半をかけた。まず先輩たちの行った実験結果を検討して測定の欠陥や不備な点を究明するとともに、自分の研究にも修正を加えていささかの不正確や誤りもないようにした。
彼は1863年の春、学士院会員ア・クブフェルと共に官有倉庫からアルコール15ペドローを手に入れて、時間と労力をおしまずに、アルコールから不純物をすっかり取り除いた。・・・・・
生石灰を通す蒸留を交互に行ってethyl alcoholアルコールを71.6%から99.9%に濃縮した。
                


これに続いた実験から引き出された30項、5行の化学式から得られるデータは正確なことでは先輩たちの数字にまさるものであったから、酒類関係の諸官庁はすぐさまこれを高く評価した。
はじめはオランダ次にドイツ、オーストリアおよびロシアにおけるアルコール測定法の基礎となった。


無水アルコール45.88%と水54.12%を混合すると、その混合物が最大限に圧縮するということで、これを化学上の言い方にすると、溶液中のアルコールの分子1個につき水の分子3個の割合となったとき、混合物の体積が最小限度となり、したがって比重は最大限度に達するということである。

「この現象は他の全ての化合物よりも堅固な化合物が生成したためにほかならない。その強さは最大限に圧縮する特性のある溶液の組成といわゆる確定化合物の組成とが類似していることによるものである」

これは、溶解が・・・・溶媒の中に不確定化合物と確定化合物との複雑な混合物を発生させる独特の化学過程であることを意味する。
             

メンデレーエフは、自分の推察が確認されたことで大いに元気づいた。そして溶液の比重のような比較的に深い特徴の中にさえ元素の類似と相違を暴露すべき秘められた結合力を探り出すことができると判断した。
彼の脳裏には、みんなに馴染み深い物質を極限形態の化合物とみなすある一般化した化学の様相が形づくられつつあった。そして「確定化合物は不確定化合物の特別な場合をなすものでしかなく、酸化物の溶液、合金、化合物はこのような一般化学で研究される物体の見本であり、これらの物体の研究はその最も一般的な形態において化学上の諸問題を解決するのに役立つ・・・・」との確信をもった。

1865年1月31日メンデレーエフは博士論文の説明を首尾よく行った。






最後に夢の話をしよう
1988年の論文の直後に欧州合同原子核研究機構CERNの所長になったカルロ・ルビアから、CERNの加速器でニュートリノのビームをつくり、振動の実験をやりたい、という相談を受けた。先の見える実験家なら当然思いつくことだ。

カミオカンデの出した振動の可能性を最終的に決定付けるためには、加速器を使ってエネルギーの高いミューニュートリノのビームをつくり、観測装置に打ち込んで、それがほんとうにタウニュートリノに変わるところを実験で確かめる、"アピアランス実験"が必要だ。

そのためにはルビアが考えたのは、ひとつにはイタリアのグランサッソにあるニュートリノ観測装置を改良して、そこにジュネーブのCERNからニュートリノビームを送る方法。しかし、装置の改良には、少し時間がかかる。もうひとつは、もっと遠くの日本のスーパーカミオカンデに送ることだ。「おまえの意見を聞かせてくれ」と、ルビアは言った。

「カミオカに送るというのは、忘れろ。距離にクラベテスーパーカミオカンデは小さすぎる。グランサッソにビームを送ることに専念しろ」と、わたしはそう答えた。
小柴昌俊「物理屋になりたかったんだよ」(朝日)ニュートリノ振動の現象論





the elements16

2011-09-26 11:45:11 | アルケ・ミスト
“代数学で調和を調べる”という物理学の方法で化学の奥深い実体の秘密、物質の秘密の中に入り込む決心をした。しかし、この課題を解決するためには、「化学者は同時に物理学者でもあるべし」と口ぐせに言うRobert Wilhelm Eberhard Bunsenブンゼン教授の初歩的な実験室では間に合わなかった。
            


「一つの物体を研究するのに平均して三日はかかった。第一日は準備、目盛り定め、試験管洗い。第二日は物体の洗浄。第三日は毛管現象と比重の観察というふうであった。そのとき同族の脂肪酸とアルコール、エステル、アルデヒド、一部の芳香族炭化水素、グリセリン、乳酸など多くの有機化合物を処理した。
仕事の終わりにはさらに温度を高めて同じデータを決める必要があった」とメンデレーエフは、1859年12月に書いている。


それから数ヶ月たって、メンデレーエフは絶対沸点を発見した。
毛管現象・・・液体が毛細管壁をぬらすと液面が上昇する・・・・は、凝集力の作用の現れる過程である。この凝集力こそ原子のふうるまいを知らせるものであり、これによって秘密に閉ざされた粒子のこと、粒子の類似と相違のことが判断できるのである。
元素の類似と相違の秘密は相変わらずメンデレーエフの注意をひきつけていた。


液柱の高さがゼロとなり、毛細管内の液面が管を入れた容器の液面と等しくなる温度となったとき、いったいなにが起こるか・・・・「このときには液体は凝集力を失う。すなわち、蒸気になるはずである」とメンデレーエフは後日述べている。

1884年エジンバラ大学創立300周年記念式典で、絶対温度をふくむ学問上の業績に対してメンデレーエフに名誉法学博士の称号が贈られたかげには前述のようないきさつがあったのである。
アヴォガドロの死の直後に著わされた1858年のスタニズラオ・カニッツァーロの論文「ジェノバ大学における化学理論講義概要」、さらに1860年に開催された原子量と分子量の基準がテーマとなっていたカールスルーエ国際化学者会議でのカニッツァーロの発表を受けて、初めて再評価された。

1860年9月il Conte Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro di Quaregna e Cerretoカールスルーエで各国の化学者140余名が参加して会議が開かれた。
メンデレーエフは会議の実行委員となって、旅先のスイスから出席した。この会議は化学文献を秩序化し、原子、分子、主に原子量の基本概念をはっきりさせた点でメンデレーエフにはきわめて意義深いものだった。


有機化学では、それ自体が独立した物質はひとつもない。ここではおのおのの物質は同族列のメンバー、物質の無限の連鎖の1つであり、その1つ1つが消しがたい同族の烙印をおされている。
たとえば、メチルアルコールがナトリウムと断然反応することを知れば、無限につづく同族列のどのアルコールでもまったく同じようにナトリウムと相互作用することが確信される。
同族列は次々と新しいメンバーをかかえこんで、有機物質類・・・・炭化水素、アルコール、アルデヒド、酸、エステルをつくっている。

彼は第一同族列の化合物の中に炭素原子1個当たり水素原子が最大多数ふくまれていることに注目して、これらの炭化水素を“限界炭化水素”と呼ぶようになった。

このように重量数が化学的性質に転移するというきわめて歴然とした現象はメンデレーエフの構想に近く、貴重なものであった。

1862年中にメンデレーエフは「麦粉、パンおよび澱粉の製造」「製糖」「アルコールとアルコール分計量器の製造」の3輯を準備した。そして第4輯の「ガラスとガラス製造」・・
第5輯「技術百科要覧」の編集をしながら、1856年に説明した講師論文「シリカ化合物の製造について」の中で展開した構想を明確にすることができた。

この化合物のことは、、メンデレーエフが化学者として以前から気にしていたものだった。実際に、純粋なケイ素を研究してみて、この元素が炭素ととてもよく似ていることがわかった。炭素とケイ素とを生物界と鉱物界とに区別したのは、この類似のためではなかろうか。有機化学がすべて炭素と水素の化合物を基にし、鉱物化学がケイ素と酸素との化合物・・・・シリカを基にしているのはこの類似のためではなかろうか。

ところが驚くべきことに、有機化合物と鉱物化合物よりも相違のはっきりした物質を自然界に見いだすことはむずかしいのである。
類似の元素・・・・炭素とケイ素にあっては、その化合物の性質にいかに驚くべき相違、正反対なものが突然生ずることか。炭素が敏感で変わりやすく活気のある物質をあらわしているにの対して、ケイ素は鉱物界の物質・・・・冷たく、不活発で、時間と破壊力にあまり従わない物質の象徴を示している。
この考察の結果については、1864年にメンデレーエフは、すでにはっきりと述べることができた。彼は有機化合物と鉱物化合物とは二つの異なった構成原則をあらわし、二つの異なった物質秩序の型をあらわしていることがわかった。




ニュートリノ問題に照準を合わせて欲しかった。本間三郎先生を偲ぶ
著書に『超光速粒子タキオン・・・未来を見る粒子を求めて』(ブルーバックス)。
その47頁に注目してみると、2種の粒子が想定されている。その一つは電子、陽子、原子核などの通常粒子である。他のもう一つの粒子は光子、ニュートリノである。
光速一定の原理などを仮定とする相対性理論などを解り易く解説される一方で、諸々の仮定からの過程を知的に検証し未知なるモノとしての仮説「タキオン」を提言したのは、物理学の終焉に異議ありとのおもいであったに違いない。昭和57年の事である。