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かくしんナノ④

2012-03-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
 ストロンチウム90は、半減期が28.8年の放射線核種である。2族元素(アルカリ土類金属)の仲間で、元素周期表では、同じ2族元素のカルシュウムの真下にくる。
元素周期表で同じ列に属する元素(すなわち、「同族の元素」)は、化学的性質が類似している。ストロンチウム90はカルシウムと似た化学的振る舞いをするので、人間や動物の骨(カルシュウムが主成分)に沈着して、長期にわたって造血機能を蝕み、骨肉種や白血病の原因になる。

 体内で甚大な被害を及ぼすもう一つの放射性核種・セシウム137(Cs137)も、“白い灰”から見つかった。セシウムは1族のアルカリ金属である。
元素周期表で同じ列にあるカリウムと似た化学的性質を持ち、人体・動物体内ではカリウムとともに行動して筋肉に集まる。半減期は30年。染色体や遺伝子の突然変異を起こすことがあり、無精子症や奇形児誕生などにつながる。実際、第5福竜丸の乗組員たちは被爆後、無精子症になる者もあったし、乗組員の一人・大石又七の第1子は奇形で死産であった。

strontiumストロンチウム90やセシウム137は、天然には存在しないもので、核分裂の際に生成される人工放射性核種である。具体的には、ウランの核分裂に際して生成される。

                                
→1960年代、米ソを中心に大気圏内の核実験が盛んに行われた。これに伴い、体内に取り込まれた放射性物質の除去剤や排泄促進法に関する研究も数多く行われている。放射性ストロンチウムは生体内ではカルシウムと同じような挙動をとる。IAEA(国際原子力機関)は放射性ストロンチウムを大量に摂取した場合、アルギン酸の投与を考慮するように勧告している[5]。アルギン酸は褐藻類の細胞間を充填する粘質多糖で、カルシウムよりもストロンチウムに対する親和性が高いことが知られている。ヒトにアルギン酸を経口投与してから放射性ストロンチウムを投与すると、投与していない場合と比べて体内残留量が約1/8になることが報告されている[6] [7]。また動物実験でも同様の効果があることが確かめられている



 日本の科学者たちは、“白い灰”の放射性物質の分析から、ビキニ水爆は、核分裂(Fission)→核融合(Fusion)→核分裂(Fission)が続いておこるもの(頭文字をとって、「hydrogen bomb3F爆弾」とよばれる)であったと推論した。
→中性子爆弾や3F爆弾も水爆の一形態である。


                                

 まず、中心に置いた原爆が引き金の核分裂を起こし、その外側にある重水素化リチウムの核融合を引き起こす。ここまでが、水爆である。
さらにその水爆を天然ウラン238(U238)の外皮で包んだものが、3F爆弾である。高いエネルギーの中性子が外皮の天然ウラン238にぶつかって核分裂を誘発し、大爆発とともに膨大な放射性物質が作り出される。天然ウラン238を使うので、比較的安価で大きな破壊力が得られる。

 日本の科学者たちが3F爆弾を推論できたのは、“白い灰”の中にウラン237やネプツニウム239などの誘導放射性核種を確認できたからである。
ウラン238から高速の中性子で作られ、ネプツニウム239はウラン238から低速の中性子で作られる。
 水爆だけならば、原理的には、引き金に用いられる原爆からの核分裂生成物(Sr90やCs137など)のみが出てくるはずであり、ウラン237などの余分bの放射性物質は生まれない。

 このように3F爆弾では、核分裂の部分が第一段階と第三段階の2回もあるため、放射性の分裂生成物を大量に生成する、いわゆる「汚い水爆」になる。
ビキニ水爆は実は、汚い3F爆弾の中でも質の悪いものだった。事前の理論計算の予測をはるかに超えた破壊力を示したのである。爆心地の全てのものを一瞬にして「粉末」に変える、あの破壊力である。

 米ソを中心とする原水爆開発競争は、ビキニ事件の後、加速度的に急増の一途をたどり、地球の放射能汚染は際限なく進行した。



Cold Warこの様に冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。

 ビキニ事件の直後から、日本の医師団は治療に役立てるために、、“白い灰”の放射能の素性を教えてくれるよう、アメリかに要請していた。しかしアメリカは、「軍事上の機密」を盾に取って、最後まで情報提供を行わなかった。そもそもが汚い3F爆弾であった上に、計算の」ミスにより予想外の破壊力を出してしまった事実を、世界中から隠匿するためである。

 日本の科学者たちは、“白い灰”の分析から、自分たちの力だけでアメリカの最高軍事機密である水爆の構造を解き明かしてしまったわけである。
この結果は、アメリカを大いにあわてさせたのだった。


余滴
 株式会社三井物産戦略研究所会長 寺島実郎。
ゴジラを生んだ心情—問いかけとしての戦後日本(その10)「ゴジラとは何だったのか」は興味深い、一部引用しておく。


 映画『ゴジラ』が公開されたのは、一九五四年十一月である。敗戦からまだ十年も経っていなかった。サンフランシスコ講話会議から三年、「独立」を回復したとはいえ、敗戦を引きずり、復員軍人の息子を待ち続ける母の心情を歌った菊池章子の『岸壁の母』が街に流れていた。

 本稿の執筆にあたり、東宝特撮映画DVDコレクションを一通り見直した。とくに『ゴジラ』は改めて注意深く鑑賞してみた。川本三郎の『今ひとたびの戦後映画』(岩波書店、一九九四年)に「ゴジラはなぜ『暗い』のか」という興味深い論稿があるが、『ゴジラ』という映画は川本の指摘のごとく、とにかく暗く物悲しい印象を残す作品であった。それは戦争の影を重苦しく投影した「戦災映画」「戦禍映画」であり、「戦中派による第二次大戦で死んでいった者への鎮魂歌」という川本の評価が胸に沁みるのである。

 『ゴジラ』の製作に至る経緯を調べると、興味深い事実に行き当たる。
一九五三年夏に製作が決定していた「日本・インドネシアの合作映画」の企画が五四年四月に頓挫したため、東宝として新しい企画が必要となり、急遽『ゴジラ』の企画が浮上したというのである。当初の企画はインドネシアの独立運動秘話を描くものであったが両国間の賠償問題がこじれ、インドネシア政府の反対によって製作中止となった。企画の中心にいた田中友幸プロデューサーは、名誉回復のための「大作」を企画しなければならなくなり、考えあぐねた結果、「当時社会問題となっていたビキニ水域でのアメリカの水爆実験、またアメリカで原子怪獣が主役の映画『原子怪獣現る』が封切られていた(五三年秋公開)ことを知り、それにヒントを得て前世紀の恐竜が水爆実験の影響で日本近海に現れ、東京を襲うといった物語を考えた」(竹内博「ゴジラの誕生」、「円谷英二の映像世界」所収、一九八三年)というのである。

 一九五四年三月一日、ビキニ水域で米国が水爆実験を行い、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員二三人が被爆するという事態がおこった。
九月二三日には被爆者となった久保山愛吉さんが放射能症で死亡、日本中が戦慄した。ヒロシマ・ナガサキからもまだ十年も経過していなかった。映画『ゴジラ』の宣伝ポスターには「水爆大怪獣映画」というキャッチコピーが使われたが、迫りくる「核の脅威」がこの映画の通奏低音であった。


 この年の六月、防衛庁設置法・自衛隊法が成立し、七月一日に陸海空の自衛隊が発足した。
敗戦の総括もないまま、再び日本が「逆コース」に向かい始めているのではないかいう不安も多くの人の心に浮かんでいた。そんな時代を背景に、放射能を吐く怪獣ゴジラは登場し、東京を襲ったのである。

かくしんナノ③

2012-03-14 08:37:40 | アルケ・ミスト
 第5福竜丸の乗組員は、ビキニ環礁で白い灰をかぶったとき、甲板の上に雪のように降り積もった“白い灰”を集めて袋に入れ、焼津に持ち帰った。証拠品として調べてもらおう、と考えたのである。“白い灰”が物証として持ち帰られたことは、その後の研究に計り知れない大きな貢献をした。
 “白い灰”は芥子粒ほどの粒子の集まりだった。その“白い灰”の放射線分析は、厚生省から委託された東京大学理学部の木村健二郎・南英一の両教授を中心として、研究室の総力をあげて進められた。
 ガイガーカウンターによる測定から、“白い灰”の発する放射能の強さは、ラジウムの1.5倍近くもあることが確かめられた。(ラジウムは、1898年にフランスのマリー・キュリーとPierre Curieピエール・キュリー夫妻によって、ウラン鉱石から発見された自然放射物質である)

                        →キュリー (Ci) は放射能の単位で(1 Ciは 3.7×1010 ベクレルに等しい)
ピエールの死後の1910年の放射線会議でピエールとマリの栄誉を称えて命名されたものである。その後、ピエールの栄誉を称えたのか、マリの栄誉を称えたのか、それとも夫妻の栄誉を称えたのかで若干の論争が起きている。


 しかし、“白い灰”本体の調べがつかなかった。あの「チクチクと肌を刺し、舐めるとジャリジャリして硬い」灰の正体である。炭酸カルシウムを含むことはわかっていたが、含有量は測れなかったのである。
 物質の成分を調べるためには、一般に化学分析が行われる。化学分析とは、物質を構成する原子や原子団・分子・同位体などを検出し、種類を決定したり、その量を求めたりする操作のことである。省略して、「分析」と呼ぶこともある。
 化学分析には大きく分けて、成分の種類だけを調べる「定性分析」と、構成要素の成分比を調べる「定量分析」とがある。
近年は、迅速さや精度で優れた物理的方法を利用する分析が盛んである。たとえば、赤外線、可視光線,X線などの電磁波と物質内の成分との相互作用を測定する方法がある。しかしその頃はまだ、物理的方法はほとんど開発されておらず、化学的分析法が主流であった。

 第5福竜丸が持ち帰った“白い灰”は少量しかない貴重なもので、分担ごとに少しずつ配分されて、さまざまな検査に使われていた。化学分析に使える“白い灰”は、たかだか数粒である。
 化学分析を手がける研究者は、そのころも何人もいた。しかし、資料が極微量の場合の分析は困難で、誰にでもできるものではなかった。

 当時この分野に、知る人ぞ知る「微量分析の達人」がいた。
猿橋勝子、34歳。
 テニスが得意な、美人の化学者である。気象研究所の研究官であった。向学心に燃えた努力家で、働き者の評判が高かった。
猿橋は、海水中の微量炭酸を分析するために、極微量拡散分析装置を開発していた。

 南英一教授は、“白い灰”の分析を猿橋に依頼しようと思いつく。その年の5月、南教授は、研究室の助手・不破敬一郎を伴って、気象研究所に赴いた。
南はまず、猿橋の分析の精度を確認するために、自分たちが用意した炭酸カルシウム試料を猿橋に渡し、その純度を分析するように頼んだ。

 純度とはある物質中に、その主成分である純物質が占める割合をいう。純度の高い物質を作ろうとしても、製造段階で不純物が不可避的に混入するので、さまざまな検査や試験を行うには、まず物質の純度を把握する必要がある。
 純度が99%なら、不純物は1%である。純度が99.9999%なら不純物は0.0001%ということになる。「9」がいくつ並ぶかで、純度の高さが云々される。

 南が猿橋に渡した炭酸カルシュウムの試料については、南の研究室で予め純度が測定されており、南や不破にとっては「純度既知」であった。猿橋の分析が「9」をいくつ出すか。腕試しの瞬間である。
 精度が要求される細かい作業だ。南と不破が見守るなかで分析を行った猿橋は、「99.99%です。」と、胸を張って報告した。
「よく合っています」不破が南に耳打ちする。

南は安心して、本命の“白い灰”を数粒、猿橋に差し出した。先にも述べたように、芥子粒ほどの大きさである。このときの様子を、猿橋は後に次のように綴っている。

 「この測定器は(猿橋が開発したもの)は掌にのってしまうくらいの小さなもので、その操作は微妙で少しの油断もできない。私は大先生を前にして、精神を集中しての測定に大変緊張し、手がこわばったのを思い出す」

測定の結果、灰の成分は炭酸カルシュウムと酸化カルシュウムで、炭酸カルシュウムの含量は、11.6%であることがわかった。猿橋の分析結果と、いくつかの傍証とを合わせて、“白い灰”の正体は、珊瑚の粉末であることが判明した。

猿橋の分析結果が意味するところは、次のように要約できる。珊瑚のブローチなどで知られる硬い珊瑚の大部分が、水爆の超高温で分解して、柔らかい酸化カルシュウムになっていたのである。珊瑚の従来の主成分は炭酸カルシュウムと炭酸マグネシウムで、炭酸カルシュウムの含量は、約89.5%である。それが瞬時に、11.6%にまで激減したのである。
 まさに、分析の達人・猿橋勝子のお手柄であった。ビキニ事件から2ヵ月半ほど後のことである。

 こうして猿橋の分析の結果、ビキニ水爆の爆心地での様子が明らかになった。
水爆は、ビキニの珊瑚礁をなぎ倒し、硬い珊瑚を芥子粒大の粉末にまで破壊し尽く、富士山の10倍の高さに巻き上げたのだ。 
 “白い灰”の一粒一粒が、水爆の威力のすさまじさを物語っている。東京から160km離れた静岡にまで轟音を届ける水爆は、爆心地の東京では、人間も建物も、ありとあらゆるものを、一瞬うちに「粉末」にしていまうのである。まさしく、想像の域を超えた破壊力だ。

 猿橋の分析結果は、2日後に京都で開催の「日本分析化学会」で発表された。



→ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。

かくしんナノ②

2012-03-13 07:17:08 | アルケ・ミスト
 世紀の変わり目頃のサンケイ新聞に“いまが盛り”「地球化学者猿沢勝子(79)」の紹介記事が掲載された。

 猿橋さんが中央気象台の三宅研究室に研修に行ったのは大学2年のときだった。

 卒業・就職の昭和18年はまさに戦争たけなわで軍関係からの募集も多かった。「給料がいい」と多くの仲間が軍に応募したのに対し、猿橋さんは三宅教授に頼み込んで、研究室に採用してもらった。

 三宅研究室では、野外観測や調査、研究室内での研究の仕事など男女の差別はなかった。

 猿橋さんの専門は地球上の化学物質の動きを追跡する地球化学。海水中の炭酸物質の組成を計算する表は“サルハシ表”と呼ばれ、世界の研究者たちの“モノサシ”にも。

アメリカがビキニ環礁で水爆実験を始めたのが昭和29年。
近くで漁をしていた日本の漁船・第五福竜丸第5福竜丸が被爆するという事件が起きた。


 「あのとき三宅先生がすぐ死の灰の研究をやろうとおっしゃったんです。放射能を測定するガイガーカウンターを持っていたのは気象研究所でもうちの研究室だけでした。」
海流は実験場所のビキニ環礁からフィリッピン沖へ、さらに日本の南海から太平洋を経てアメリカへ向かうので、放射能は当初はアメリカの方が少ない。
第1回の水爆実験は3月1日。4月、5月になって日本にも放射能の雨が降りだした。

 「日本の測定値は高すぎる。大げさだとアメリカは信用しない。でも時間がたって日本の正しさがわかってきた。慌てたののはアメリカの原子力委員会だったんです。」


                                     
書籍では「猿橋勝子という生き方」米沢富美子が丁寧な紹介を行っている。



 1945年の終戦以来、日本はGeneral Headquarters連合軍の占領下におかれることになった。しかし実質的には、米軍の単独占領であった。
1951年、サンフランシスコ講和条約が調印された。翌52年に条約が発効し、7年間の占領が終わって日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのままの形で駐留軍と称して残留し、日本各地に米軍基地が残された。
 米軍基地への財政的援助などの日本側の重い負担は、戦後60数年たった現在も余儀なくされている。

 1954年」にビキニ事件が起こったのは、米軍の占領が終わり、日本が主権を回復してから、2年目のことである。
3月16日に、第5福竜丸船員たちのビキニ水爆被災が報道されるや否や、広島・原爆傷害調査委員会のモートン所長が焼津に飛んできて、乗組員たちがアメリカの病院に移るようにと勧めた。
 原爆症の実験材料にし、情報を隠蔽するためだ。第福竜丸をアメリかに引き取って、そちらで解体するという申し出もした。
乗組員たちを船ごと“拉致”しようという目論見である。

 このようにあらゆる場面で、アメリカはことごとく介入を試みた。占領も終わっているのに、敗戦から9年目の日本を低く見ていたのである。
しかし広島・長崎からのその9年は、世界で唯一の被爆国として、原爆症医療や放射能測定技術を日本が心血注いで研究・開発し、世界のトップに躍り出てきた歳月でもあった。

 その流れは今日まで受け継がれ、原爆被害の研究は21世紀の現在も、日本が世界のナンバーワンである。
ビキニ事件をきっかけに設立された放射線医学総合研究所は、ガンの重粒子線治療など、世界最先端の成果を出し続けている。

 アメリカの申し出を拒否して、3月28日、第5福竜丸の乗組員は全員、東京の病院に移った。23名は、東大病院と東京第一病院に分かれて入院し、最新の治療を受け始めた。


ところで東京大学のカルテは未だに行方知れずはなかったのかな。















かくしんナノ①

2012-03-12 08:33:19 | アルケ・ミスト

 1954年1月、国務長官ジョン・ダレスは「大量報復戦略」というDwight David Eisenhowerアイゼンハワー政権の新しい政策を発表した。
上院の小委員会はマッカーシーが職権を濫用して陸軍を調査した件で聴聞会を開く準備をしていた。
ジョン・フォン・ノイマンを委員長とする国防総省の秘密の委員会は、アメリカは核弾頭を装備できる戦略ミサイルの開発すべきだと勧告していた。
 3月1日、ロスアラモス研究所とリヴァモア研究所は「キャッスル」シリーズと名づけた新しい熱核兵器の実験シリーズをビキニ環礁で開始した。この日は、アメリカ初の重水素化リチウムを燃料とする熱核爆弾、すなわちロスアラモスで開発された「シュリンプ」の爆弾実験・・・・『キャッスル・ブラボー』・・・・が行われた。


                         →1961年1月、アイゼンハワー大統領が退任演説[1]において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を告発したことにより、一般的に認識されるようになった。米国での軍産複合体は、軍需産業と軍(国防総省)と政府(議会、行政)が形成する政治的・経済的・軍事的な連合体である。

 室温で作動する「シュリンプ」は、リチウム6を40%含む濃縮リチウムを使用していた。この装置の重量は2万3500ポンドで、比較的軽く運搬性があり、兵器化された際はB-47の爆弾倉に格納できるように設計されていた。この爆弾は5メガトンの爆発力を発揮すると期待されていた。しかし、リチウムの核融合断面積を測定したロスアラモスのグループは、「シュリンプ」の燃料成分として使われたリチウムの、残りの60%を占めるリチウム7の核融合反応の重要性を見誤る手法を採用していた。
 この点について、ハロルド・アグニューは、「彼らはリチウム7で、(n、2n)反応〔すなわち、リチウムの原子核に入ってきた1個の中性子が2個の中性子を叩き出す反応〕が起きていることを知らなかった。彼らは全くそれを見落としていた。だから「シュリンプ」の爆発力は予想外に大きくなったのだ」と説明している。

 『ブラボー』は15メガトンの爆発力で爆発した。これはアメリカが実験した熱核装置としては、最大の規模だった。「2個の中性子が叩きだされると、(その原子核は)リチウム6になり、普通のリチウム6と同じように振る舞う。この結果、「シュリンプ」の爆発力は推定よりずっと大きなものになった。推定を誤った理由は、断面積の見積もりを間違えたからだ」と、アグニューは言う。

今回は、火球の直径は4マイル近く膨れ上がった。それは、観測のために配置された7500フィートのパイプをすべて飲み込んだ。これらのパイプは計測装置の置かれた壕に通じていたが、盛り土をした壕はかろうじて破壊を免れた。火球はさらに、予想された影響圏のずっと外側に置かれた観測壕にいた人々をも危険に陥れ、海上遠くに待機していた特殊任務部隊の船団をも脅威にさらした。

マーシャル・ローゼンブルースは回想する。「私は30マイル離れた船の上にいた。そこに、この怖ろしい白いものが降ってきた。この物体から私は10ラド被爆した。それは恐怖に満ちた体験だった。乱気流の渦のようなものが出たり入ったりする巨大な火球が見えた。それは輝いていた。まるで、空に浮かんだ異常な脳のように私には見えた。それは広がり、やがてその端はほとんど真上に見えた。小さな原爆とは桁違いの恐るべき光景だった。息を飲むような、また身体が震えるような体験だった」

『ブラボー』は環礁の岩を飛散させ、深さ250フィート、直径6500フィートのクレーターをつくった。ローゼンブルースの見た“怖ろしい白いもの”の正体は、蒸発したサンゴが凝固したカルシュウムだった。


 3月の中旬、「幸運な龍」を意味する名前を持つ日本の漁船、第5福竜丸は、病気になった乗組員を抱えて母港のドックに入った。
ビキニの東、約82海里においてマグロ延縄漁をしていたこの船の23名の乗組員全員は、『ブラボー』の降下物をひどく浴びていた(同じように、ロンゲラップ、アイリングナエ、ウトリックの原住民も被爆していた)。
 ある東京の新聞が「死の灰」と呼んだ物質に、日本人はまたも被爆したのである。日本の世論は沸騰した。
アメリカは放射線の専門医に、被爆した漁船員たちを治療させることを申し出たが、降下物の内容を開示することを拒否した。
 「シュリンプ」が重水素化リチウムを爆薬として使っていることを、ソ連に知られるのを恐れたためである。
日本の船員の一人は、二次的な感染が原因で亡くなった。福竜丸の件が明らかになったとき、ルイス・ストローズはビキニに赴く途中だった。3月の終わりにワシントンに帰った彼は、責任を否定する冷酷な発表を行った。
『ブラボー』は、「たいへん大きな爆発ではあったが、実験が制御不能になったことはなかった」と、彼は語った。さらに、ソ連がその前年に「軽い元素の核融合を一部に利用した」装置の実験を行ったと指摘した。そして、「彼らがわれわれに相当先行してこの兵器の開発に着手していたと信ずべき確かな理由」があると主張した。
 それは二週間後に始まる予定の保安審査聴聞会に先んじて、オッペンハイマーを意識して彼が繰り出したジャブだった。
ストローズは充分な反証があったにもかかわらず、あの幸運な龍は「危険区域のずっと中に立ち入っていたに違いない」と主張した。
 傲慢にも、このAECの委員長は、アイゼンハワーの報道官に個人的な意見として、その船はおそらく「赤のスパイ」だと言った。→「原爆から水爆へ」Dark Sun東西冷戦の知られざる内幕(下)リチャード・ローズ著小沢千重子・神沼二真訳;紀伊国屋書店

                        



水爆小史:
1953年08月  ソ連が水爆実験
1953年12月  アイゼンハワー米大統領が原子力の平和利用提唱
1954年01月  米が大量報復戦略(ニュールック)政策
1954年03月  『キャッスル・ブラボー』熱核爆弾実験
1955年05月  ワルシャワ条約機構発足
1955年07月  ラッセル・アインシュタイン宣言
1955年08月  広島で「第1回原水爆禁止世界大会」  






日本の新聞紙上に報じられたところを参考に記しておく。


米議会上下両院原子力委員会が作成した「キャッスル作戦第1号実験の死の灰降下」
あの「ブラボー」では、ビキニ環礁周辺のマーシャル諸島住民を事前に避難させなかった。文書は、同委員会が「ブラボー」の直前に、住民の事前避難の必要性を勧告しながら、米軍などの実験当局が“不要”と退けた経緯を初めて明らかにし、決定を“浅はか”となじっているのだ。

文書は、予測の3倍の爆発規模となり島々を極度に汚染した。住民が致死量の15%の死の灰を浴びたなど被害の深刻さを記しており・・・
①風向きから住民に被害はないと予測 ②避難を望まない住民感情。を挙げている。

この文書を見つけた広島平和研究所の高橋博子助手は、マーシャル諸島の一部住民が主張する“住民への人体実験説”を捨てきれないと言う。

もう一つの文書は、米中央情報局(CIA)が、第5福竜丸が“実験の偵察や、反米宣伝に使うため、意図的に被爆したかどうか”を、日本政府に照会した結果を記す報告書(1954年4月29日付)だ。

米国の「原爆傷害調査委員会(ABCC)」のジョン・モートン所長らが、乗組員治療に米国が関与するのを拒んだ日本側の対応について、“自由世界の国防上、極めて重要なデータを失ってしまった”と非難する秘密報告をまとめていたことが分かった。

モートン所長らはAECの指示で1954年3月-4月、第福竜丸が帰港した静岡県焼津市や東京に広島から出張し、情報収集に当たった。
都築正男東大名誉教授らに日本側に乗組員治療への協力を申し出たが、事実上拒絶され、日米の対立が頂点に達していた。日米関係の悪化について報告は“多くはヒステリックで無責任な日本の報道”に起因していると指摘。原爆症の権威とされた都築氏の公職追放、米国による広島、長崎で研究成果の没収なども背景として挙げた。

ABCCの活動に詳しいペンシルベニア大のスーザン・リンデイー教授の話;報告は第5福竜丸事件が日米関係の上でいかに重大だったかを示すものだ。米国にとって被爆者は重要な科学情報の源だっただけに、乗組員の治療に米国を関与させないとの日本側主張は、モートン所長らを怒らせた。報告は、事件に対して日本人が感情的だと非難するが、それ自体とても感情的な反応だ。
米国側は自国の爆弾による被爆者は米国が調査すべきと考え、日本側とのデータ共有を拒み、秘密主義をとり続けていた。日米でくすぶってきた緊張が、第5福竜丸乗組員をめぐって一気に爆発したことを報告は示している。

2010年7月20日の愛媛新聞が報じたのは、放射線医学総合研究所(千葉市)に保管されていたカルテの写しである。これは東京第一病院に入院した16人分を国際医療研究センターで確認、原本のコピーを入手した。東大病院の7人分は今も不明という。



かくしんナノ

2012-03-11 07:22:14 | アルケ・ミスト
   3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・

 
1954年。
18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。
南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「放射性物質」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。
 しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。
 なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる。 ナレーター:鈴木省吾
ワイド視聴室:NNNドキュメント’12「放射線を浴びたX年後」

    
                     
    
1954年に太平洋で行われたアメリカのビキニ水爆実験で、第五福竜丸以外にも多くのマグロ漁船が被ばくした事実を裏付けた南海放送(松山市)の調査報道を記録した。


 実験当時、漁を終えて漁港に着いた船は放射能検査を受けた。多くの船体、衣服、毛髪やマグロが被ばくしていた。
だが、実験から7カ月後に政府は検査を打ち切り、米国と文書を交わし、200万ドルの慰謝料と引き換えに事件を幕引きにした。

 89年に高知県内の高校生と教諭が事件に光を当てる。郷土学習で地元のマグロ漁船の異変に気づき漁港を調査。多くの船が被ばくしていることを突き止めた。当時高校教諭だった山下正寿さんらは被害者を訪ね全容を浮かび上がらせるが、被ばくの事実を裏付けることはできなかった。

 8年前にこの事実を知った南海放送は乗組員や遺族らの証言、政府の調査記録などを集め始め、10年には米原子力委員会の機密文書を入手。実験当事者の文書から被ばくの事実を裏付けた。番組では科学者の協力を得て、データを基に当時の被ばくの状況を分析。
多くのマグロ漁船が被ばくした事実が歴史から消えた背景を探り、東日本大震災後の日本の状況を考える。【土屋渓】


 幸成丸の構成員は、命がけで捕って来たマグロが目の前で廃棄処分になっていくのを見ているしかなかったという。幸成丸の被曝は読売新聞などの新聞でも取り上げられ、乗組員も全員が被曝量を測定されたという。高知県室戸市に住んでいる崎山船長の妻・順子さんは当時は船員に補償がなければいけないとうを口にできない時代だったと、言葉少なに語ったのが印象的であった。

 水爆実験後、海流により日本に迫る放射能汚染で日本近海の魚も被曝していたという。その年の延べ992隻が被曝した魚を廃棄した。ところが水爆実験から僅か7ヶ月で日本政府は突然にマグロの放射能検査を中止した。
 その4日後にアメリカとの文書に当時の2百万ドルで事件に幕を閉じる決断を下した。日本大学の専任講師であり、放射線防護学が専門の野口邦和さんに乗組員が浴びたであろう放射線量の算出を依頼し、乗組員の被曝量は10時間その場にいるだけで急性障害をきたすほどの量だったという。→約500シーベルトは白血球の損傷



⇒鑑賞メモ
① 高知県においては第5住吉丸などでは、241名中77名が既に亡くなっていた。

② 第2幸成丸のケースは2/24出航してマーシャル諸島を目指した。そしてあの3月27日の水爆ロメオを被爆し、浦賀に帰港したのが4月25日。浦賀ではマグロの検査と破棄処分を呆然と見送るしかなかった。
彼等の頭には1500カウント。マグロには4192カウントの被爆を受けていた。

③南海放送入手 
 前年には、予め世界122箇所に観測所を設置して、その観測に当たった。日本では三沢、広島、長崎などだ。
キャッスル作戦が単なる水爆実験とは異なり、アメリカの首都ワシントンDCが水爆攻撃を受けた場合の被害試算の実験だったらしいことである。その結果わかった事はフィラデルフィアでは100%、死亡率は50%、正にその位置にあの第5福竜丸がいた事となるのだ。
 この指摘を行ったのは広島市立大学の高橋博子氏だ。


     →報告書は55年5月に米気象局を中心にまとめられ、全227ページ。
写しが84年に機密解除された。広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師らが分析を進めている。その一部は研究者の間で知られていたが、今年3月、米エネルギー省のホームページで全文が見つかった。ビキニ環礁から東西に長い楕円(だえん)状に降灰が広がり、日本や米国、アフリカ大陸など世界中に降灰があったことが示され、その総量は22.73メガキュリーと算出されていた。ビキニの「死の灰」、世界122カ所に降った 米が観測



こうしてアメリカは世界最強の兵器を持つことができた。

                     

        



国連教育科学文化機関(ユネスコ)は今年8 月1 日、冷戦時代に米国の核実験が繰り返された太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁を、「人類が核の時代に入ったことを象徴するもの」(世界遺産委員会)として、世界遺産(文化遺産)に登録した、と発表しました。
ビキニといえば1954 年3 月1 日の水爆実験で、「死の灰」といわれた大量の放射性降下物(フォールアウト)に襲われた日本の「第五福竜丸」乗組員23 人の被災・久保山愛吉無線長の死と、付近海域にいたマグロ漁船群の汚染・大量のマグロ廃棄が、被爆国民にショックを与え、日本発の原水爆禁止運動が世界に広がる契機となりました。必見!DVD「わしも死の海におった」


余滴・・・

 小澤征爾が、鬼気迫る想いを込めた、みずからの気合いに倒れる直前の形相は、宮田大の鼻先に重なり映る。
 それがハイドンのチェロ協奏曲第一番の第二楽章である。『専門馬鹿になれ、もっと自由に!』

 何故かその場面が、よの安眠を妨げたらしい。

夢の神々なの②

2012-01-07 08:54:04 | アルケ・ミスト
Mr Koichi!! おめでとうございます!ノーベル化学賞受賞からの10年となりましたね。


田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼び、連日連夜、マスメディア関係者が田中を追いかけ、インタビューをする。ワイドショーも騒ぐ。まるで芸能人の様な扱いを受け、「いいひと」と大衆からの人気を得る。
当時国内外共に明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。


『生涯最高の失敗』を通読してみた。(朝日新聞出版)

「ソフトレーザー脱離イオン化法」は、理論から考えていって見つけ出された技術ではありません。
もし、私に十分な専門知識があり、理論に基づいて技術開発を行っていたら、かえって知識が邪魔をして、新しい技術にはたどりつけなかったでしょう。
じつは、なぜ、金属超微粉末とグリセリンを混ぜると高分子のイオン化が可能になるのか、その理由はいまだにはっきりとは解明されていません。
その発展型である「マトリックス支援レーザ脱離イオン化法」の原理も、解明しきれたとは言えません。


これまで原子や分子の性質は主に、溶液中や基板上で調べられてきた。
「しかし、溶液の温度を厳密に設定しても、分子同士はさまざまなスピードで衝突して化学反応が起きます。また周囲の水分子などの影響も受けます。基板上の実験でも、基板からの影響は排除できません。静電型イオン蓄積リングを使えば、真空中で特定のスピード、つまり特定のエネルギーで分子を衝突させたり、特定のエネルギーのレーザーや電子を分子に当てたりしたときの反応を調べることができます。ほかの影響を排除して、原子や分子の性質を精密に測定することができるのです。このような精密測定により、従来の理論では説明できない現象が見つかる可能性もあります」

それはあの受賞が決まった日にこそ、ギューと凝縮されているのだと思う。
「ノーベル」「コングラチュレイション」という言葉を聞いたようなような気がしたのですが・・・「似た賞があるのかな?いずれにせよ、海外の賞をいただけるなんて光栄だ!」
と、電話の内容をよく理解しないまま、とりあえず「ありがとう」と言って電話を切りました。じつは内心では、これは同僚か友人が仕組んだ『びっくりカメラかな!』とも想像していたのです。

「御社の社員タナカコウイチさんという方がノーベル賞を受賞されたそうですが・・・・」「私ではよくわかりません」

しばらく隠れていたほうがいい、という会社の配慮で、私は、ふだんは人が来ない別室に隔離されました。同僚に連れらて隔離室に行く途中で、記者らしい人と遭遇したのですが、幸い、私の顔はまだ知られておらず、そのまますれちがっただけですみました。

島津製作所に田中コウイチは3人いるそうです。
後日、広報担当者から聞いたところによると、報道関係者からの問い合わせを受けて社内でまずやらなければならなかったのは、どの田中コウイチか?を特定することだったそうです。

午後9時過ぎ、会社のいちばん大きな研修室で開かれた記者会見にのぞみました。

私が作業服姿だったのは、みんさんご存じのとおりです。いつもネクタイなしのシャツやカジュアルなパンツという組み合わせで通勤し、会社で作業ズボンにはきかえ、着てきたシャツの上に作業着を羽織っていますので、自然の成り行きとして、ああなったのです。



(株)島津製作所フェロー(本学客員教授)田中耕一氏が来学
「愛媛大学の遠藤先生のタンパク質合成技術には,受賞以前から興味を持っており,客員教授をお引き受けしました。遠藤先生の持つ技術で製造したタンパク質を製品化する際に,私のタンパク質に関する質量分析の技術が,役に立てればいいなと思っています。」と抱負が述べられました。平成15年8月

プロテイン・アイランド・松山 国際シンポジウム実行委員会

私は何者でしょう?生き物って? ー神秘的な生命の原理を探ってみようー

 DNAの設計図から作られる個々のタンパク質は働き者で、数万から数十万種類の共同作業によって2千万種とも言われる地球上の生物を作り上げています。タンパク質の性質を解き明かすことによって高次なヒトの精神活動の成り立ちも、理解できるようになります。


読ませたのは直近の「化学史研究」で取り上げられた『日本の有機化学研究伝統の形成における真島利行の役割』(梶雅範)。

「欧米と並んで自立できる基礎化学者」「日本の特産物の生産について近代化学のメスを入れ」、あのお雇い外国人アトキンソン(Roberut William Atkinson1850-1929)の方法論を発展させているいるとされる、道家達将らの史観をさらに発展させるという意欲作である。

『(真島)先生は研究の面では徹底的に実験を重要視され、理論や仮説に対しては冷淡とも見えるほど要心深かった』(赤堀四郎)

元化学史学会会長で、吉田彦六朗について詳しい芝哲夫大阪大学名誉教授は「吉田彦六朗先生が発見した漆酸は、今日でいうウルシオールのこと。また、ジアスターゼ様物質とは、酵素のことです。・・・・日本の有機化学を主導した真島利行先生が最初の研究テーマに漆の構造研究を選んだのは、吉田先生の漆の研究がその前にあったあったからこそです。・・・・」

吉田の死の17年後の1946年、酵素の結晶化の研究でノーベル化学賞を受賞したアメリカのジェームズ・サムナーJames Batcheller Sumnerr18887-1955は、受賞の翌年に上梓した著書「酵素の化学および方法Chemistry and Methods of Enzymes」で、吉田の研究に言及した。
この本のなかでサムナーは、日本の化学者・吉田彦六朗こそ、じつは世界で最初の酸化酵素ラッカーゼの発見者であると述べ、酸化酵素の研究は日本の漆の研究者、なかんずく吉田彦六朗によって創始されたことを認めている。「ニッポン天才伝-酸化酵素の父 吉田彦六朗‘ジャパンを研究した日本人’」



本題へと戻そう
ストックホルムの田中さんと題して、朝日新聞科学医療部 大岩ゆりが垣間見た、田中耕一像は興味深い。「ちょっと変わって面白い」「癒やし系」ではあるがそれだけではない。
記者の目に映ったのは、『田中さんは非常にまじめで律儀だ。どんなこともかなり以前からきちんと予習し、準備するタイプだ』


燕尾服着慣れたころに終わりかな、 実は“用はなし”と言いたかったと知れるのだが。

夢の神々なの①

2012-01-04 08:43:31 | アルケ・ミスト
Dr Toyoiti!
お誕生日おめでとうございます。



それは、現代科学に残された最大の研究課題のひとつである。
その謎を解く鍵が、1978年、MITの研究室で発見された。
「ネイチャー」などで報じられ、世界の注目を集めた「高分子ゲルの相転移」。
この物理現象を発見し、原理を実証したのが、MIT物理学科教授の田中豊一である。
ノーベル賞候補に目されながら志半ばで逝った田中の54年の生涯をたどる。
                 (ゲル化学の父 田中豊一「生命の起源に挑んだ54年の生涯」)


田中豊一は、終戦翌年の昭和21年1月4日、疎開先の新潟県長岡市桜本町の母の実家で、父・豊助とその妻・シズの長男として生を受けた。

‘わたしは小学生のときにすでに科学者になろうと決めていた。いまになって思うと、これは両親の意志が入っていたに違いない。

化学者である父は、あるとき、この世のものとも思えない臭いにおいをして帰ってきた。そしていった。これはメルカプタンであると。こんな臭い、そしてこんなへんな名前をもったものを使う科学者とはえらいもんだと子ども心に思い、そんなにおいをかいでいるうちに、わたしの方向は決まってしまった。’


糸川英夫博士の言葉に衝撃を受けた豊一は、(日比谷高校)学園祭が終わると急いで家に帰り、目を輝かせ、興奮しながらその話を家族に報告したという。
豊助氏は、「豊一が生物物理学という分野を知り、研究テーマにしようと思った最初のきっかけは、このときです」と、当時を懐かしむように振り返る。

タンパク質中に見られるαヘリックスは4から40以上の残基によって構成されているが、多いのは10残基程度のものである。溶液中の短いポリペプチド鎖は、ヘリックスを形成するのに要するエントロピーがヘリックスを結合することによる安定性によって補償されないため、αヘリックス構造を取ることはあまりない。

αヘリックスの水素結合はβシートの水素結合よりも弱く、周囲の水分子の影響を受けやすいと言われている。しかし細胞膜の様な疎水的な環境やトリフルオロエタノールなどの共溶媒中では、オリゴペプチドも安定なαヘリックス構造を取ることができる。




博士論文のタイトルは、“Helix-Coil Trasition in Biopolymers”(生体高分子のAlpha helixへリックス-コイル転移)である。
この論文には、すでに「生体高分子」「相転移」「構造秩序」などのキーワードがすべて登場し、田中が生涯かけて目指した「生命と物理の統合原理の確立」に向けた探求の原点がここにある。
⇒温度応答性ゲルは,低温では膨潤しているが,ある温度以上で急激に収縮(体積相転移)する。これは,ゲルを構成する高分子の水溶液が下限臨界共溶温度(LCST)をもち,臨界温度Tc 以上の高温で相分離するためである。この現象は「水の構造化」と関係があり,「疎水効果」あるいは「疎水性相互作用」によって説明される。参考文献「高分子と水に関する分子動力学シミュレーション 」『高分子』 58 巻 2 月号(2009 年)玉井良則・福田光完


こうしたブヨブヨとした不定形の高分子ゲルは、研究の対象にはなりにくく、科学的に説明できないでいた。田中は、これまで曖昧模糊としたゲルの世界に、世界で初めて科学のメスを入れることに成功する。
それが、1978年の田中による「高分子ゲルの相転移」の発見である。

田中は、のちに日本の物理学会誌に発表した「ゲルの相転移」と題する論文で、ゲル研究の意味を自らこう述べている。

「高分子ゲルのまわりの温度や、溶媒組成などをかえていくと、あるところでその体積が1000倍に不連続に膨潤したり収縮する。この現象が相転移であり、気体-液体の間の相転移のような普遍的で、あらゆるゲルに起こり得ることが明らかになってきた。
この相転移現象の中に、ゲルを構成している高分子のミクロな個性と特徴が、増幅されてくっきりと浮かび上がる。さらに、この現象を利用して、ゲルを人工筋肉やロボットの記憶素子、表示素子、エネルギー変換素子、選択的吸収体などとして応用する可能性が開けた。」

さらに田中は、この「ゲルの相転移」の発見に続いて、「ゲルの多状態」の証明や「ゲルのダイナミックス」の解析などを手がけ、ゲル科学のパイオニアとして、不滅の足跡を印した。


1990年代に入ると自ら確立したゲル物理学をタンパク物理学に発展させ、生物と物理をつなぐ生物物理学の道を本格的に追求しはじめる。

私たちの体は、タンパク質で構成され、そのタンパク質は20種類のアミノ酸がつらなってできている。ではなぜ、原始の地球で、アミノ酸が連なって特定の構造をもったタンパク質になったのか。

その解決のヒントがゲルの研究から数年ほど前に得られました。
それは配列はわれわれが選ぶのではなく、アミノ酸自身に選んでもらおうというものです。

まずアミノ酸を水中で自由に泳がせておこう、そうすると、お互いに好きなもの同士が傍らに寄り添って安定になるだろう、そこで、それらを数珠つなぎにすれば、その高分子は出来たときの構造を覚えているであろう、というのです。

生まれたてのひよこが最初に見た動くものをその母鶏として脳に記憶することがよく知られていますが、あの刷り込みが生命の誕生では分子レベルで働いたのではないか、そう考えているのです。


だが、田中が探求した生命の起源の謎の解明は、道半ばにして突然途絶えた。


平成12年(2000)6月26日。
小雨のふりしきる中、東大本郷の三四朗池を望む山上会館に数百名が集まり、1人の東大卒業生の追悼式がしめやかに執り行われた。卒業生の名は、田中豊一。


『私は、田中さんのなされた仕事に大変関心がありまして、暇があると考えている次第です。そういう偉大な人物を亡くしたことは、単に日本の残念な損失だけでなく、世界の損失であったと思います。しかし学問のよさとは、皆さんの心の中に遺産が残っている点でありまして、ぜひとも後継者の方、御友人の方々は、私を含めて田中さんの研究をさらに進め、そのことによって新たな自然科学の境地が開かれることを、心から祈っている次第です。そのことによって命は永遠に続くと、私は思っています。』(有馬朗人)
ニッポン天才伝 知られざる発明・発見の父たち (朝日選書 829) [単行本]




田中記念シンポジウム 2010の開催にあたって

 田中豊一博士(顔写真:日経サイエンス,1991年10月号より)による 「ゲルの体積相転移現象の発見」は,高分子科学の発展に対して大変大きな影響を与え,高分子,特に高分子架橋体が示す様々な性質を物理学的な立場から解明するための実験的・理論的基礎を与えるものであった。
1978年の報告後,田中博士ご自身を含めた多くの研究者によって膨大な関連研究がなされてきた。また,体積相転移の発見は,基礎科学のみならず応用技術の領域にも多大な影響を与え,今日までにゲルの体積相転移現象を原理とした多くの科学技術が実用化され,現在もその領域を拡大している。田中博士ご自身は,このような研究の進んで行く先に「生命の起源」や「生命の分子物理学」を眺望されていたものと思われるが,残念なことに2000年5月20日に54歳の若さで他界された。


本シンポジウムは,田中博士の薫陶を受けた「自称弟子」たちが中心となって企画され,体積相転移発見の30周年を記念して2008年に発足した。折しも,21世紀に入り社会を取り巻く素材産業の状況は,地球規模の環境問題に直面し大きく変化せざるを得ない状況にある。現在,環境問題の解決,持続可能な社会の構築に向けて大きな一歩を踏み出さなければならない時期に来ていることは誰の目にも明らかである。
本シンポジウムは,このような変革期にゲルの科学と技術に携わる研究者に呼びかけ,その基礎的あるいは実践的研究の過去と現在を総括・再認識し,これからの30年を目指した新しい科学・技術の方向性を見いだすための国内会議と位置づけられる。過去2回開催されたシンポジウムでは,忌憚のない意見交換や実質的討論ができるような会議方式を採用した。このため,シンポジウム終了後に多くの参加者から同様なシンポジウムを継続的に開催して欲しいという希望があった。このような要望に応えるため,本年第3回目を開催することになった。



ゲルと生命―田中豊一英文論文選集 [大型本]

故田中豊一MIT教授の研究業績の中から,「ゲルにおける相転移の発見とその原理の確立」および「生命の分子物理学的原理の確立」の基になった研究を中心に25の論文を選び,共著者もしくは専門研究者の解説を付けて編む.とくに,新しい研究が始まる現場の紹介は貴重.田中教授の仕事の精髄を示す書.
「彼は‘面白い状態’の変化、そして状態の‘面白い変化’としてのゲル物性を、物理の計測と数理という強力極まりない武器を彼一流の巧妙さをもって駆使してあますところなく探求した。そこには強い個性に裏付けられた明確な思想・哲学の躍如があり、本質をズバリと突いた簡明な記述と相俟って、強い説得力を持ってわれわれに迫ってくる。


生命現象と物理学―「生きもの」と「もの」の間 [単行本]北原和夫, 田中豊一編

1 生物と情報(インテリジェンスの自己組織化原理-粘菌に学ぶ
ヤリイカ巨大軸索に見られるカオスと神経興奮のダイナミクス)
2 生物の運動(DNA分子のダイナミクスと「生命現象」
モデル生体膜における階層的多状態遷移過程)
3 ゲルの物性と機能(ゲルの相転移と生命機能の基本原理
価値・時空・ナマコの皮)
4 生命現象と物理学(生命現象と物理学)



これらに関しては、次回に譲る。






夢の神々なの

2012-01-01 06:00:00 | アルケ・ミスト

あけまして、おめでとうございます。


  あいまいやはじまりおわるゆらぎnano









『<あいまいさ>を科学する』(米沢富美子)は、まるで文学への挑戦状ともいえるに違いない。

予断・診断・独断「あいまい」の風景:
 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言い方があるが、世に連れているのはひとり歌ばかりではない。さしずめ「言葉」そのものも、ヒタヒタと「世に連れ」ている諸現象の典型だろう。以前には使われていなかった言葉が生まれ、徐々に浸透し、やがて広く人口に膾炙カイシャするようになり、遂には辞書に掲載されるまでに出世する。

「不透明な日本の未来」という言い方で思い出すのが、大江健三郎(1935- )のノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルだ。
「あいまいな日本の私」だった。それより26年前の1968年、日本人初のノーベル文学賞受賞者、川端康成(1899-1972)は、「美しい日本の私」というタイトルで記念講演を行った。大江のタイトルは川端のそれを受けてのものである。


大江は川端の講演を「きわめて美しく、またきわめてあいまいなものヴェイダ」であったという。
この際の「あいまいな」に、大江は英語のvagueを当てた。

イギリスの偉大な女性詩人、キャスリーン・レイン(1908-2003)が、評論「ブレイクと伝承神話」(1963)において、同じくイギリスの詩人にして、画家であり神秘思想家であったウィリアム・ブレイク(1757-1827)の詩を称して「ambiguousではあるが、vagueではない」と述べた。
その定義に倣って大江は、同じ「あいまいな」をambiguousと訳し、自分の講演のタイトルを「あいまいなアムギュアス日本の私」としたのだ。
「あいまいな日本に生きて、そのあいまいさアムギュイテイに傷のような深いしるしをきざまれた」私、という位置づけになっている。



<あいまい>は決して日本の専売特許でもないことを併せて紹介している。
グーグルしてみると<あいまい>が470万項目、他方<ambiguity>その一語だけで実に2000万項目だ。

ambiguous以外にも、あいまいさを表現する言葉は沢山ある。それらの一部を記しているvague、obscure、equivocal等を始めとして・・・・dimなど、20例ほどがここでは羅列されているのだ。
つまり、如何に世界は曖昧に充ちていることかを示し得たのだ。


薀蓄は、それはそれで面白くはあるが割愛せざるを得まい。

「あいまい」な、未来を取り上げておこう。
<蓋然性>それでも宝くじを買うか、夢と現実のギャップ 年の瀬に銀座を歩いていると、長い行列に出くわした。・・・<月はふらついている>サイコロの運命を決める運動方程式には、手の指やサイコロや空気を構成する全ての要素が係わるので、恐ろしく多数の式の連立になる。<太陽と月><地球と月>のように、要素の数が2つの場合に限り、ニュートンが解き方を示してくれた。これを「二体問題」と呼ぶ。
ところが月を考えると、理論からは楕円上の永久周期運動だと結論づけられているにもかかわらず、実際にはふらついている。・・・・・月の動きが二体問題の解とずれるのは、地球の引力だけでなく、太陽や他の惑星の引力を受けた「多体問題」になっているからである。

3体以上の天体を考えると、摂動のためにカオス的な解に至る場合もある。ローレンツのお天気モデルに似た振舞いが現れ、運動の様子が初期値に敏感に依存して、予測不能になる。カオス解に従う系の様子が予測不能なのは、ランダムに物事が起こっているからではない。
物事は決定論的に進んでいるのだが、われわれが初期条件を完全に把握できないために、先の予測ができないだけなのだ。


「あいまい」に始まって「あいまい」に終わるのが最終章。

<不可知性>宇宙の前に時間があったか?
ビッグバン以前の時間:わからないのはビッグバンからプランク時間までの間の出来事だけではない。ビッグバン以前の様子も知ることができない。

Ilya Prigogineブリゴジンは、『確実性の終焉』のなかで、ビッグバンは、われわれの宇宙を生み出した媒体中における安定解から不安定解への分岐として記述されるはず、と主張する。そこでは、われわれのビッグバン宇宙が、散逸構造のひとつの例だと示唆される。
ビッグバンはわれわれの宇宙の出発点を画したが、時間の出発点を画してのではない。われわれの宇宙には年齢があるが、われわれの宇宙を生み出した媒質には年齢はない。時間には初まりはなく、またおそらく終わりもないだろう!


冒頭の自己紹介を引用すれば、米沢富美子の専門は‘ランダム系の物理学’である。
‘ランダムというのはメチャメチャのことでしょう’とも、言い放たれているのだが。


そんな彼女の著書には「アモルファスな話」がある。

その第1話は1987年の「高温超伝導狂想曲」、第2話は同じ年の「準結晶」の表彰にあてられ、第3話にはアモルファスな構造としての「メソポタミアの首飾り」が紹介されている。

ガラスやビードロが否定的でないのは、ガラスができたとき水晶の親戚とは、わからず、まして水晶が結晶でガラスがそうでないなんてことは知らなかったからだろう。
ランダムとか乱れたとかは、言葉自体は否定形にはなっていないが、概念としてはやはり『乱れていないもの=秩序』が先にきているのではないだろうか。
この本で「ア」モルファスをすこしずつ考えながら、否定的概念としてのアモルファスではなく、何らかの意味で肯定的概念にいきつけるかどうか・・・・これはとても大きな課題になりそうである。

つまり自問自答して、それが今後に残された課題だとの認識を示しているのだ。

多少ここで立ち止まって、振り返って置く必要があるかも知れない。

図-13と言っても図があるわけではないのだ。
非結晶・非晶質=non-crystalline
非周期=periodic
不規則・無秩序=disordered
無定形・アモルファス=amorphous
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガラス=glassy
ビードロ=vitreous
乱れた・乱雑な=random

この図-13に掲げらてあるのは、いずれもアモルファスを表すさまざまの形容詞である。
結晶でないもの、周期的でないもの、規則的でないもの、秩序のないもの、形なきもの、形の定まらないもの・・・・・・・非や不や無のつく否定的概念としての名が与えられている。英語の方も運命は同じで、ノンだの、アだのデイスだのがつけられている、というわけだ。


ところでアモルフォスとは、ア・モルフォスからきた。その故事来歴はモルフェウス、夢の神々と言うほどの意味と言ってもよかろう。



偶像を表象とすることを自らに禁じることによって生まれたのか?とも考えられるが、ここでは詮索をしない。

あのペンローズの雛形と目されるものがあったのだ。
それがアルハンブラ宮殿、イスラーム文化の遺産である。

宮殿内に敷き詰められたタイルは一枚一枚当時の職人によって作られたものである。
円、四角形、複数の線を組み合わせて造形された独特な八角形のタイルは互いにぴったりと敷き詰めることができる精巧な作りであった。一方、柱に描かれた鮮やかなタイルアートは一枚一枚のタイルが全て異なる形、大きさになっており、違う場所にはめ込むことはできない。複数ぴったりと合わさる八角形のタイルとは正反対だ。これらのアートは雨や水を象徴して描かれたものだ。
                        


結晶でもなく、アモルファスでもない固体の面白さが感じられましたと、その世界へと誘ってくれた貴重な一枚の写真がある。

合金といいますから、多成分の織り成す摩訶不思議な現象を発見できたのでしょう。
それは‘焼きいれたり’あるいは‘焼きなましたり’、乱れがうみだす自由には粒界もない。けれども、一輪の梅の花が咲いているようにも見えたのだ! 蔡 安邦 氏「第3の固体『準結晶』の謎解きをした男」

                      


実は「アモルファスの話」を書くようにと言われていたらしいのだが、何故か「な」に聞こえてしまった、と弁解している!

その第1話は「ニューヨーク‘87」高温超伝導戦争とのタイトルで、その熱狂振りが詳細に記されているのだが、そのアメリカ物理学会の年会では300ものセッション、35のシンポジュウムが開かれた。

そこの1つに‘凝縮系物理学部門’があり、準結晶に関して特別セッション、一般セッションなど、あわせて8つのセッションが組まれ10以上の招待講演が行われたのだが、そこで発見者のシュヒトマンにはアメリカ物理学会から、「新物質に関する国際賞」が授与されたのだ。



2011年度のノーベル化学賞受賞、おめでとうございました。Mr. Daniel Shechtmanダニエル・シェヒトマン

これこそが‘アモルファスな’はなしナノ              

目覚める人々

2011-10-12 08:32:41 | アルケ・ミスト
国際フォーラム「ネパール観光年2011の推進をめざして」


             

 ご案内
              International Forum
    ~ Promoting Nepal’s Development and Tourism Year 2011 ~

 ヒマラヤに抱かれた東洋文明発祥の地(ブッダの生誕地)であるネパールは、2011年を国際観光年と定めて、ネパール観光の推進を図っています。そのため、日本の数カ所で観光フォーラムの開催を予定していますが、中国・四国地域でも松山市において、下記のとおり、国際フォーラムを開催します。ネパールの美しい自然や長い歴史に裏打ちされた文化を理解する上で、また、ネパールに関心を持つ多くの方々が集い、情報を交換する上で良い機会でもあります。
多数の方のご参加をお待ちしています。
                     国際連携推進機構長 矢田部 龍一

2011年2月まで首相を務められたMadhav Kumar Nepal等の肉声に触れ、現実の政治とは民主主義とはと、改めて考え込んでいた。

全てが終わったたき、われわれが知る「99.9%は仮説」なのだときずき、この文明社会をも改めて考え込まざるを得なかった。

そこで聞こえてきた時間の観念がない!との嘆きこそは、超時間とも言い換えられうるともきずき、再び思いをいたして味わいなおしている。



16:25~16:40 
 「ネパールはなぜ発展しないのでしょう」
    愛媛大学理工学研究科 助教 バンダリ ネトラ プラカシュ
彼は政府の批判ばっかりするな!といわれ続けているのであろう。しかしその真意は日常生活の場、例えばカトマンズのゴミ問題とか、基礎的な学校教育とかそして彼の専門である道路問題などを熱く語っているに過ぎないのであろう。政治とはかくも身近な問題なのだ。


200万人ともきく、外国への留学生とは現代に“目覚める人々”に他ならないのだ。


16:55~17:00 
 閉会挨拶 愛媛大学理事・副学長  矢田部龍一
世界平和モデル国家構想その雛形としての、東西文明の再結集点がヒマラヤ山麓の仏陀の生誕地であるネパールであると、言いたいらしい。

会場を後にして;
今までもこれからも、家族主義でありたいと願う声が異口同音に聴こえた。その必然ではあるが、融合と融和を無血にして民主化していかなくてはならないのだ。
その手本ともなる、2006年6月4日の奇跡であり、あれからの5年間でもある。
これからの民主化の軌跡を温かくも支援していく恩義がありはしないか?と聴いたのだ。


特定非営利活動法人
日本さくら交流協会


目的
戦争やテロのない平和な社会を願い、日本国内及び世界各国に桜等の苗木を贈る事業や植樹事業を行うことによって公益に寄与する事を目的とする。

活動
1.平和の推進を図る桜等の植樹活動
2.国際協力海外からの各種技術研修者支援の活動
3.環境の保全を図る桜等の生育管理・指導活動
4.福祉の増進を図る活動
5.前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡、助言又は援助の活動

日本・ネパール友好交流・桜植樹の旅「ネパール観光年2011」
11月20日から11月26日 カトマンズ・ポカラなど
旅行代金  2590000円+α
問い合わせ
事務局 脇坂 隆之
ファクス089-926-6453


संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल
ネパール連邦民主共和国




           
           
           

           

the elements 「長崎の女」

2011-10-11 20:00:00 | アルケ・ミスト

自伝によれば「子供は全部で17人生まれた。そのうち生存して洗礼を受けたのは14人だった」

父のイワンが病気で退職してからは、あまり多くもない年金だけでは、とてもいままでのような生活は維持できなかった。

そこで一家を支え、子供たちを育てあげるために母のマリアに残されたただ一つの救いは、モスクワのトルベッキー公爵家に仕える兄のワシリーから、かねて管理を委任されていた小さなガラス工場だった。
それはトポリスクから25キロばかりのアルムジャンスク河畔に建てられたもので、兄が遺産相続していた。
マリアは家族をアルムジャンスクへ移して工場の管理を引き受ける一方、野菜畑をつくり、牛やニワトリを飼って家計の補助とした。

生活の糧を得るために仕事に没頭していたマリアは子供たちのことをあまり見てやれなかった。
このことをはじめて身しみて感じたのは、1838年にいちばん可愛がっていた当時4歳のメンデレーエフが天然痘にかかったときだった。高熱にほてった小さなからだ、とろんとした目つきに母親の心はしめつけられるようだった。それからというものマリアは、愛児のことによく気をくばらずにはいられなくなった。

子供たちの教育に身をささげるためにトポリスクへ再び引っ越した。

「病身の夫も力の及ぶ限り骨折ってくれたので、ほんとうにありがたく思った」とマリアは書いている。


1849年に15歳でギムナジウムを卒業すると、母と姉の一人エリザヴェータとともにトポリスクを引き払い、モスクワに出た。
モスクワ大学に入れようと運動したが、しかし入学許可を得られず、翌1850年春には、モスクワからペテルブルグへ移った。
モスクワでの場合と同じ理由から、サンクト・ペテルブルグ大学への入学は認められなかった。

しかし幸いに、その当時ペテルブルグ大学名誉教授であったチジョーフの尽力もあって、入学願書が受理された。
こうして彼は、1855年まで同校で学ぶこととなるのである。

長らく熱望していた息子の高等師範入学で、マリアのこれまでのすさまじい緊張感はいっぺんに吹っ飛んでしまった!
彼女の生命は驚くばかりに衰えてゆき、その1850年9月20日僅か、50歳で死去した。
「言葉じゃなくて、努力で主張せよ!」という母親の言葉がメンデレーエフの耳底にひびいていた。


         
メンデレーエフ―元素の周期律の発見者 (ユーラシア・ブックレット)





メンデレーエフは二回結婚している。
最初の結婚で一男・二女が生まれ、離婚後の二回目の結婚では二男・二女が生まれた。
 最初の最初の結婚相手は、メンデレーエフと同じ西シベリアのトボリスク生まれで、フェオーズヴァ・ニキーチチナ・レチショーヴァ(1828-1905)といい、メンデレーエフより6歳年上であった。結婚してから一年後、1863年3月に最初の女の子が生まれ、マリーヤと名付けられたが、生後6カ月に達しないうちに亡くなった。成人したのは、65年1月2日(ロシア暦、以下新暦と断らない限りロシア暦による日付、新暦に直すには12日を足す)に生まれた長男ヴラジーミルと68年3月16日に生まれた次女のオリガの二人であった。


                

化学者メンデレーエフの息子と明治日本
ヴラジーミルは、秀島タカと1891年の暮か翌年の4月に知り合い長崎滞在の1ヶ月か2ヶ月をともに過ごし子供を設けた可能性が高い。フジが生まれたのが93年1月であったことはほぼ確実である。現在、史料から言えることはここまでである。それから先は想像を出ない。



この一文を読んだ方で、秀島親子にかかわるなんらかの情報にお気づきの方は、この文章の冒頭のメールアドレスないし以下の住所にご連絡していただければ幸いです。  
〒152-8552 東京都目黒区大岡山2-12-1 東京工業大学大学院
      社会理工学研究科経営工学専攻 梶 雅範
      TEL. 03-5734-2270 FAX. 03-5734-2844



ヴォルコヴォ墓地の入り口近くに彼の墓がある。メンデレーエフ博物館