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しんかがく 40

2012-06-28 09:00:00 | アルケ・ミスト
目次
訳者序
第1版序
第2版序
第1章 緒論----科学の範囲及び科学の方法
①現在の必要
②科学と市民
③現代科学の第1要請
④良き科学の要件
⑤科学の範囲
⑥科学と形而上学
⑦科学の知られざる問題
⑧広範なる科学の領土
⑨科学の第2要諦
⑩科学の第3要諦
⑪科学と想像力
⑫科学の方法の説明
⑬科学と審美的判断
⑭科学の第4要諦

第2章 科学の事実
①事実の実在性
②感官印象と意識
③電話中央交換局としての脳髄
④思惟の性質
⑤投影としての他人の意識
⑥投影に対する科学の態度
⑦概念の科学的妥当性
⑧推論の科学的妥当性
⑨他人の意識の限界
⑩正当なる推理の基準
⑪外部の宇宙
⑫自我の内と外と
⑬知識の素材の本源としての感覚
⑭影と実在と
⑮個性
⑯「物自体」の無用
⑰知識という言葉は不可知物に適用すると無意味である

第3章 科学的法則
①梗概及びはしがき
②法則という言葉及びその意味について
③人間に関する自然法則
④自然法則の製作者としての人間
⑤「自然法則」という言葉の二つの意味
⑥自然法則という言葉の二つの意味の混同
⑦自然の背後の理性
⑧市民法と自然法との真の関係
⑨物理的及び形而上的超感覚性
⑩自然法則の進歩
⑪科学的法則の普遍性
⑫知覚の順序は恐らく知覚機能の所産であろう
⑬選択機械としての精神
⑭科学、自然神学及び形而上学
⑮結論

第4章  原因と結果----確率
①機械作用(メカニズム)
②原因としての力
③原因としての意志
④第2次的原因は強制的なものではない
⑤意志は第1原因であるか
⑥第2原因としての意志
⑦第1原因は科学に存在せず
⑧経験の順序としての原因と結果
⑨原因という言葉の広さ
⑩運動の宇宙としての感官印象の宇宙
⑪必然性は概念の世界に属し、知覚の世界に属さず
⑫知覚に於ける順序は知識の必然的条件である
⑬確からしいということ証明されるということ
⑭知覚の順序の切れ目に関する確度
⑮ラプラースの理論の基礎は無智に関する経験にある
⑯ラプラースの探研の性質
⑰未来に対する順序の恒久性

第5章 空間と時間
①知覚の様式としての空間
②空間の無限大
③空間の無限分割性
④記憶と思惟の空間
⑤概念と知覚
⑥同一と連続
⑦概念的空間、幾何学的境界
⑧境界としての面
⑨物体の概念的不連続
⑩概念的連続、エーテル
⑪科学的概念の一般的性質に就いて
⑫知覚の一様式としての時間
⑬概念的な時間と其測定
⑭空間、時間に関する結論

第6章 運動の幾何学
①知覚の混合様式としての運動
②知覚的運動の場合の概念的分析。点運動
③幾何学的観念としての剛体
④向きの変化、即ち回転に就いて
⑤形態の変化、即ち歪みに就いて
⑥概念的運動の要素
⑦点運動、位置と運動の相対的形質
⑧位置、行路mp図形
⑨時間図表
⑩勾配と傾斜
⑪傾斜としての速力、速度
⑫速度図表、即ちホドグラフ、加速度
⑬スパート及び分路としての加速度
⑭曲率
⑮曲率と正常的加速度間の関係
⑯運動の幾何学に於ける基本的命題
⑰運動の相対性、単純成分からの其の総合

第7章 物質
①「万物は運動す」但し概念に於いてのみ
②3つの問題
③物理学者は如何に物質を定義するか
④物質は空間を占有するか
⑤不可入的で、硬いという物質に関する「常識的」見解
⑥個性は実体に於ける同一性を示さない
⑦硬さは物質の特性ではない
⑧運動せる非物質としての物質
⑨「完全な流体」、「完全なチエリー」としてのエーテル
⑩渦輪原子とエーテル噴出原子
⑪超感官的なるものへの物質的抜け道
⑫知覚的エーテルに関する困難
⑬物体は何故運動するのか?

第8章 運動の法則
①粒子とその構造
②機械的作用の限界
③運動の第一法則
④運動の第二法則、又は慣性の原理
⑤運動の第三の法則、相互加速度は相対的位置に依って決定される
⑥過去の歴史の梗概としての速度、機構と唯物論
⑦運動の第四法則
⑧質量の科学的概念
⑨運動の第五法則、力の定義
⑩計量に依って証明される質量の均等
⑪運動の第四、及び第五法則の機構は何処迄発展するか?
⑫運動度の基礎としての密度
⑬粒子の踊りに於ける向きの影響
⑭改変された作用の仮説と、運動の総合
⑮ニュートンの運動法則の批判

第9章 生命

①生物学の物理学に対する関係
②機構と生命
③形質遺伝の理論に於ける機構と形而上学
④生命あるものと、生命なきものとの限定
⑤運動の諸法則は生命に適用だれるか?
⑥第2の特徴に依って限定された生命
⑦生命の起源
⑧生命の永続、即ちバイオジェネシス
⑨生命の自然発生、即ちアビオジェネシス
⑩「超科学的」原因に依る生命の起源
⑪現象的世界に対する、概念的記述の関係に就いて
⑫無機世界に於ける自然淘汰
⑬自然淘汰と人間の歴史
⑭進化の原理と云う言葉で記述される原始歴史
⑮倫理と自然淘汰
⑯個人主義、社会主義、及び人道主義

第10章 通化(変異と淘汰)
①限定の必要
②進化
③内因的進化
④進化の要因
⑤個人的、及び種族的形式
⑥連続的、及び変態的変異
⑦相関関係
⑧有機体とその成長
⑨淘汰、最適者の発見
⑩未解決の諸問題

第11章 進化(生殖と遺伝)
①雌雄淘汰
②優先交配
③同類交配
④発生(生殖)淘汰
⑤発生淘汰の実在性に就いて
⑥形質遺伝の第一観念
⑦形質遺伝の量的尺度に就いて
⑧優性とテレゴニイに就いて
⑨生殖性の遺伝に就いて、発生淘汰
⑩両親遺伝に就いて
⑪祖先形質遺伝に就いて
⑫種の確立に依り、永久的に形式を改変する淘汰の力に就いて
⑬排他的淘汰とリヴァションの法則に就いて
⑭生命継続の遺伝に就いて、淘汰及び非淘汰死亡率の割合
⑮結語

第12章 科学の分類
①科学の素材に関する摘要
②ベーコンの「知識球」の記述
③コントの「等級的分類」
④スペンサーの分類
⑤精密科学と概要科学
⑥抽象的及び具体的科学、抽象的科学
⑦具体的科学、無機的諸現象
⑧具体的科学、有機的諸現象
⑨交叉連携としての応用数学と生物物理学
⑩結論
 


しんかがく 39

2012-06-27 10:44:13 | アルケ・ミスト
第二版序


  本書がはじめて公刊されてから八年になるが、その間に、本書の中に開陳している見解は、著者が夢想だもしない程、広く一般の承認を得て来たことは疑いないところである。
自然哲学の基礎として、古い物理学者の粗末な唯物主義の代わりに鞏固な理想主義が着々地歩を占めて来た兆候が少なからずある。
 「近代」科学を攻撃するには、本書の立脚地と著しく類似した立脚地から、機械論に関する古い主張を批判するのが最上の方法であることを実際に発見した哲学者も一人にとどまらない。
 科学者たちは、一歩々々、機械論は諸現象の根柢に存するものではなくて、彼等が、諸現象を簡単に記述し、要約し得るための、概念的速記に他ならぬことを承認するようになりつつある。
 一切の科学は記述であって説明ではないということ、無機の世界に於ける変化の神秘は、有機の世界に於ける変化と同様に大であり且つ偏在的であるということは、次の時代には言うまでもないあたりまえのことのように思われるであろう。
 以前には、人々は超感覚的なものには信仰をもち、感覚的なものについては知識をもっていると考えていた。
将来の科学は、超感覚的なものは不可知と見なし、知覚の世界については知識ではなくて信仰をもつことになり、知識という言葉は、概念の世界----彼等自身の概念と観念の領域----物理学及び生物学に於けるエーテル、原子、有機体の微粒子、生活力等の概念のためにとっておかれるであろう。
 科学の基礎に関する此の見解の変化が誤解を伴わずには行われなかったこと、或いは、科学を嫌う人々に科学を誹謗する機会をを與えたことは、当然なことに他ならぬ。
戦争中に作戦の基礎を変更することは、常に敵に乗ずる機会を与えるものである。だが、若し、吾々がそれによりて、攻防両様のために一層鞏固なる位置を恒久的に占めるならば、この危険を冒さなくてはならない。
 読者が、若し、今後もなお、科学と独断ドグマとの間に戦が行われるか否かとたずねるならば、私は、知識と無知とが対立している限り、この戦はいつまでも行われるであろうと答えなければならぬ。知るためには努力が必要である。そして、知らないことをあやふやにごまかす文句を承認して、全く努力を回避するのは、知識的に最も容易なことである。

 だが、私たちが、物理学及び力学の初等教科書に述べてあるのを見出すような、根本的な機械論的諸原理を改作する必要は、依然として急をつげている。
エー・イー・エチ・ラヴ教授A.E.H.Loveが、理論機械学Theoretical Mechanicsに於いて、敢えて正しい方向に歩みを進められたのは、まことに慶賀するべきことである。けれども、彼の著書は、初等科学を教えるためには殆ど用をなさぬであろう。しかも、私たちが、新しい、健全な、科学の諸概念を一般に普及させることを望み得るのは、初等科学書を通じてのみである。
 現在では、本書はまだ役に立ちかも知れない。本書の初版が発行されて以来、8年の歳月を閲し、その間に四千部を売りつくしたが、いま、これを訂正増補して再刊する次第である。
 主な増補は、生物学の分野に於ける根本的諸概念を論じた第十章及び第十一章である。
この方面に於ける、最近数年間の進歩は、私に、これ等諸概念の若干を、1892年当時に於けるよりも一層はっきりと定義すること、及び、ほんのぼんやりした輪郭だけではあるが、此の方面に於いて、どんなに素晴らしい領域が、漠然たる科学の分科から、はっきりとした分科にまでもち来されつつあるかを指摘することを可能ならしめた。言葉の言いまわしには多くの変更を行ったが、本書の初めの方の肝要な点には殆ど変更を加えなかった。

 第十章及び第十一章について有益な助言を与えられた点について、王立学会会員フランシス・ゴールトン氏Francis Galton同じく王立学会会員ダブリュ・エフ・アル・ウェルドン教授W.F.R.Weldon及びジ・アドニュー・ユール氏G.Udny Yuleに、私は感謝しなければならぬ。

 私は、私に対する批判者たちに、あまり大きな注意を払わなかったが、それは、私が、これ等の批判を研究しなかったわけではなくて、ただ単に----執拗なようではあるが-----いまなお、私の述べた意見は、現在の人知の状態では、実質的に正しいと確信していたからである。
 本書の体裁を、こんな風に変えたのは、主として、その後の経験によりて学ぶ者にも教える者にも種々の困難な点があったためである。
私は、この序文を擱筆するにのぞんで往時の友人たちが体裁の変わった本書を見て、表面的な変化にも、一層実質的な増補にも不快を感ぜられんことを希望せざるを得ない。
1899年12月  
ロンドン・ユニヴァシテイ・カレッジにて     カール・ピヤスン


しんかがく 38

2012-06-26 09:00:00 | アルケ・ミスト
第一版序


 科学の発達の歴史には、その荘厳なる上部の構造から注意を転じて、その基礎を注意深く検討してみるのが適当な時期がある。
本書は、もと、近代科学の批判として執筆されたものである。そして、クザンの「批判は科学の生命である」という本書の扉にかかげた標語こそは、この企てが有意義なものであることを示す文字である。

 だが、それと同時に、筆者は、批判は易くして建設は難いということを十分に気がついている。だから、筆者は徒に難きを避けて易きにつくようなことはしなかった。
筆者の見解を知る人々、又は、真に本書を読まれた人々は、誰でも、筆者が、偉大な科学者たちの労作、又は近代科学の使命を、決して過少に評価していないことを信ずるであろう。若し、読者が本書に於いて、世界的に知名な物理学者の意見や、一般に流布している物理学概念が疑問に附せられているのを見出しても、それは筆者の純然たる懐疑的精神によるのだと考えてはならない。
 筆者は近代近代物理学の偉大な成果を、殆んど留保なしに承認しているのである。筆者が、再考慮の必要があると信じているのは、これ等の成果の言い現し方は、生物学(社会学を含む)の凡ゆる分科に亘って広く用いられているから、これを再考慮することは益々緊急の必要となって来ている。
 
 科学の原理principiaが曖昧な疑雲に抱かれているのは、科学の進化の歴史に於いて、偉大なる発見者たちの、言葉の言いまわしにすらも権威を附するようなことが行われたためばかりではなく、科学が、形而上学や教権ドグマと悪戦苦闘をつづけた間は、熟練せる名将軍のように、自らの不完全な組織を隠蔽するのが最上の策であると考えたいという事実にもよるのである。けれども、この不完全な組織は、敵に見つかるであろうし、そればかりではなく、既に新たに科学の門に志す研究者並びに教養ある一般人士に、少なからず、心もとない感じを與えたことは殆ど疑いのないところである。

 科学の初等の教科書に、広く訳されている力及び物質に関する記述ぐらい、言語道断に非論理的なものは、想像するのが困難である。それ故に、筆者は、かれこれ十年間も学生に教授をしたり、試験をして見たりした結果、かよな教科書は、殆ど教育的価値をもたぬという結論に達することを余儀なくされたのである。
 かような教科書は、論理を明晰にする効果ももたねば、科学的方法に習熟させもしない。
この曖昧から生ずる一つの結果として、私たちは、物理学者が、純正数学者や歴史学者に比べると、自然神学とか、心霊学等スピリチュアリズムのような似而非科学の泥沼に容易にまきこまれるのを見出す。若し、本書の建設的部分が、読者に対して、不必要に独断的であり、論戦的であるように思われるならば、筆者は、それは本質的に私の持論を教えるよりも、読者自身の思想を喚起し刺激するつもりで書いたのであるということを記憶せられんことを読者にお願いする。
 何故なら、この目的は断定を下したり、矛盾を提出したりして、読者の独自の研究を刺激することによりて、最もよく達せられることが屡々あるからである。


 本書に於いて、科学の根本概念、特に力及び物質について筆者が開陳した見解は、筆者が、はじめて若い学生たちに如何にせば力学の要項を形而上学に択はれずに示すことができるかを考えさせられた時(1882年)以来、筆者が、教えて来たとことの見解の一部をなしていたものでる。けれども、これを通俗な言葉で書き記そうと努力しはじめたのは、筆者が1891年、サー・トーマス・グレシャムの幾何学教授に任命された時からである。
 この著述の実質は近代科学の範囲及び近代科学の諸概念に関する二つの序講を形造った。
グレシャム・カレッジは、そお創設者が希望し、夢想したもの----即ちロンドンの一大大学----の最も真実なる細片に他ならぬのであるが、筆者は本書を書くにあたって、本書にどのような欠点があるにもせよ、この学校の幾何学の講座を担任した有名な諸先輩によって示された先例に返ろうとつとめていることを感じた。
 分化大学及びその講座を、もとの通りの重要さに回復することは、仕甲斐のある仕事である。だが、それは、科学及び一般文化の社会的価値について、厳密な鑑賞眼を具えた人をまってはじめてできることである。

 この科学概論は、不完全なものではあるけれども、親切な数名の友人の連続的助力と同情とかがなかったら、更に一層不完全なものになっていたであろう。
ケンブリッジのキングス・カレッジKings Collegeのダブリュ・エチ・マコーレー君W.H.Macaulayは、たえず筆者の科学に関する極端な見解を程よい限度にやはらげるようにつとめられ、色々な点で助力を与えられた。筆者は友人なるリンカーン・インLincoln Innのアール・ジェー・バーカー君R.J.Macaulayは、たえず筆者の筆になるものの殆ど全部を、過去十年の間引きつづき校閲して下さったことを感謝する。併しながら、とりわけ、筆者はバーネットBarnetのアール・ジェー・ライル博士R.J.Ryleに最も深く感謝するものである。
 博士の論理的頭脳と、広範な歴史的知識とは、本書に非常な“改善”を施されたので、本書の著作権は殆ど博士にあるといってもよい位である。
最後に、筆者は以前の学生であり、現在の友人である、ベッフォード・カレッジBediord Collegeの物理学講師アリス・リー嬢Miss.Alica Leeが索引をこしらへ,且つ数箇所の重要な正誤をしてくださったことを感謝しなければならぬ。
1892年1月       ロンドン、グレシャム・カレッジにて   カール・ピヤスン

しんかがく 37 

2012-06-25 09:00:00 | アルケ・ミスト
閑話休題
 「Grammer of Sciene;科学概論」Karl Pearson(1892年1月;1899年12月)少し読みづらいかも知れないが、必読書の誉あり!




昭和5年3月15日印刷 3月20日発行 非売品
「世界思想全集㊶」著作者 神田豊穂 発行者 神田豊穂  発行所 株式会社 春秋社

訳者序
 カール・ピアスンKarl Pearsonは現代イギリスの最もすぐれた生物学者、数学者にして物理学者である。
その数多き専門著書の中で、ここに訳した科学概論Grammer of Scienceは最も有名な著述で、自然科学概論の古典として、異口同音に推奨されているのみならず、今尚、自然科学の入門書として一般市民に必読の書である。
 本書を通じての著者の指導原理は、観念論である。
マッハ、ポアンカレ等を大陸の代表者とする、自然科学の観念論的見解は、19世紀末から20世紀初頭へかけての、科学哲学の流行であった。
 本書は、科学の基礎概念に対する観念論的見解を、最も体系的に述べてあるという意味に於いて、この方面の哲学的問題に関心をもつ人々にも見逃せない著述である。

 最近マルキストの間に勢力を得つつある唯物弁証法は、勿論、ピアスンの方法とは相容れない。
レーニンは「唯物論と経験批判」の中でマッハとピアスンの関係を次のごとく指摘している。

 「マッハは、英国人カール・ピアスンについて、彼がマッハの認識論的見解に同意していることを明瞭に指摘して『先ず第一にカール・ピアスンの説明を参照されたい。氏は用語はちがっているけれども、私の意見に一致している』と言っている。
 ピアスンの方でも亦マッハに同意の意を示している。
ピアスンにとっては『実在せる物』は『感覚印象』のみであり、感覚印象の領域外の認識は形而上学である。フォイエルバッハもマルクスも、エンゲルスも知らなかったピアスンは断然唯物論と戦っている」

 又レーニンはピアスンが、物質の実在を否定したに対してこう言っている。
「ピアスンはここで大間違いを犯している!物質は感官知覚の群れに外ならぬ。これが彼の論点だ。彼の哲学だ。これは感覚若しくは思惟が、第一次的のもので、物質は第二次的のものだということを意味する。
 だが物質なくして、少なくとも神経系統なくしては、意識は、たしかに存在し得ない。して見れば、精神や感覚こそ第二次的なものであることが証明されるではないか?」

 ピアスンの観念論はレーニンの指摘するように誤っているかも知れない。
だが、それがためにこの書物の価値が減殺されることは少しもない。物質を実在だとしても、物質は概念であるとしても、この仮定の相違は本書を通じての理論の組立を動揺させるものではない。

 それにピアスン自身も言っているように私たちが科学を研究するのは、特に専門家にあらざる一般市民が科学を研究するのは、その研究の対象についての知識を獲得するためではなくて、それよりもむしろ、科学の方法に習熟するためである。
 何となれば、私たちが、思惟し、推量する唯一の方法は科学の方法だからである。その意味から言って、本書は、一般市民の必須の教養として、凡ゆる部門の研究と活動とに携わる人々に基礎的な方法を与えるものとして、特に推奨される理由をもつ。
 
 本訳書は第一、第二章第三章及び第四章の前半は私が負担し、第四章の後半以後は友人瀧澤君を煩わした。そして第八章までは大体眼を通して、文章の連絡統一にできるだけつとめたが、第九章以下は諸種の事情のためその余暇を得なかった。ために多少文書の統一がとれていない点があるかと思う。それらの点は再販の時を期して十分に訂正を加えたいと思っている。
昭和五年三月十日                                                         平林初之輔


かくしんナノ⑩

2012-03-21 09:00:00 | アルケ・ミスト


 第一回受賞者の太田朋子が、「研究を振り返り考えたこと」は興味深い。

“ほぼ中立な過程”というのは偶然と淘汰がともに働いていることを意味します。私には、生物のいろいろなレベルでの複雑性を考えるとき、偶然と淘汰の相互作用が一般的であるのは、ごく当然のように思えます。
 しかし進化の学界に受け入れてもらうのはとても大変です。もともと有利とか有害かという二分法で進化の機構を考えてきたネオダーウィニズムはわかりやすく、すっきりしています。
 弱い効果の突然変異の相互作用はとても複雑で、わかりにくいことがいっぱいです。「分子進化のほぼ中立説」



第十三回の黒田玲子「キラリテイーに魅せられて」、研究領域をさらに広め、以前から関心のあった一個の遺伝子により、発生の初期段階に左型、右型が決まる巻貝の巻型決定因子の同定と機構の解明にも取り組んでいる。物理化学のバックグランドに加えて分子生物学を学んだ筆者が、今度は発生生物学にまで研究領域を広げていったが、幸い、幾つかの面白い発見をすることができた。

第十四回の白井浩子「今、これが面白い⇒余剰進化論」。
・・・ヒトデ卵に余剰が86%もあるということが実験などからわかってきたのです。
ひとことで言うと余剰進化論は、「進化を先導するものは生活様式である。その生活様式を変え得るのは生物に余剰エネルギーが備わるから」というものです。DNAの役割は、「先行する変化を安定化・固定化して個体発生の恒常的繰り返しを保障するもの」なのです。
 現在の進化の通説には、「偶然の突然変異が生体を決め、進化の先陣を切る。だから、生物進化や人間の発展は考えても仕方がない」という意味が含意されていますが、進化と遺伝の階層の混同があり誤りなのです。・・・・余剰進化論の大要




第十九回の持田澄子「シナプス・・・先駆者から私へ、私から若手研究者へ」
 単細胞では外界からの情報を細胞膜が感知して、すばやく行動に出ます。しかし、人体のように多細胞が複雑に構成する臓器や筋を有する生体では、情報感知とその対応が特殊な器官としてそれぞれに独立して機能しているので、両者をつなぐ導線が網の目のように発達しています。
 情報を脳に伝えて処理し、その指令を伝える生体の導線が神経であり、多様に構築されている神経回路を用いて、私たちはその時々でさまざまな対応をします。
このように複雑な情報処理と伝令は、神経情報伝達に使われる電気的信号を神経の中継点で化学的信号に置き換えることで可能となります。

 神経の中継点をシナプスと言いますが、1980年代後半にたくさんのタンパク質がシナプス前終末に発見されました。
私は、90年代前半に独自に開発した培養神経細胞シナプスを用いた実験系で、神経終末タンパク質がどのような働きをしているのかを解析しています。
 生命の維持に不可欠な設計図が遺伝子に組み込まれていますが、遺伝子はタンパク質の設計図です。間違った設計図のタンパク質が神経で働き始めると、行動に異常が起こります。遺伝子改変が容易になってからは、間違った遺伝子から作られたタンパク質がどのような異常な神経活動を引き起こすのか、また、遺伝子からタンパク質がきちんと作られなかったらどのような異常な神経活動を引き起こすのかを解析することによって、タンパク質の正常な機能を推測することが可能となり、病態解明と治療につながる研究が発展しつつあります。
 
第二十二回の真行寺千佳子「生命の謎を解く旅」
 全編を隈なく読み込んで然るべきだが・・・。
大学院で出会った研究テーマ「細胞運動(鞭毛運動)のメカニズムの解明」が私の研究者としての生き方を決定した。生体を形づくる単位である細胞がその役割を果たすには、細胞の中で繰り広げられるさまざまなタンパク質の運動が必要である。研究を進めるにつれ、細胞の“動き”の仕組みを解明することにより、生命を理解する道が見えてくるという予感に、戦慄を覚えた。

(精子)鞭毛運動機構の最大の謎は、そのような仕組みで高速波打ち運動がつくりだされるのかということにある。
鞭毛もタンパク質の集まりであるが、外界からの情報に反応して秩序だった動きをする。しかし、そこにはいわゆる脳のような中枢は存在しない。
 ダイニンDynein


 ダイニンにも鞭毛にも自律的に動きを制御する機構が組み込まれているのではないか。
私たちはこのような発想の元にその未知の機構を明らかにすることを目指して、いくつもの実験を行ってきた。
 その結果、ダイニンによる屈曲がつくられる仕組みを明らかにし、ダイニン1分子の発生する力が振動することを発見した。
この成果が、猿橋賞受賞の対象となった。

 ところで、運動機構の解明は既存の手法のみではうまくいかない。

これからの生命科学の発展には、遺伝子解析に基づくアプローチとともに、生命機能を分子レベルと細胞レベルの両面から探求し理解しようとするアプローチが欠くことが出来ないと思われる。

 ダイニンの力の振動の発見が「ネイチャー」誌に掲載されるまでのレフェリーとのやりとりは、まさに戦いであった。
しかし、科学者として生きるということは、自然と向き合うことであり、自然に対して正直に誠実にそして謙虚になるということである。
 本来科学者は、純粋に疑問を解くことを目指すべきであると思う。
しかしながら、研究費の獲得や、成果が認められるまでに時間がかかるなどのさまざまな困難が重なると、妥協したくなることもある。
 そのようなとき、猿橋先生をはじめとする先人の生き方が私の心を奮い立たせて、志を見失わないようにと、警鐘を鳴らしてくださる。焦ることはないのである。


第三十回の高橋淑子{細胞の声を聞く・・・・動物の発生にみる形作りの研究」
 「私には細胞の声が聞こえる」
こう言うと、まわりの人は困った顔をする。しかし私には、体の中で“仕事”をしている彼ら(細胞たち)の楽しい笑い声やひそひそ話が聞こえるのである。
 私の研究の専門分野は発生生物学と呼ばれる。たった1つの受精卵からさまざまな形が作られる過程は、まるでマジックショーを見るようだ。
受精卵が分裂を繰り返して細胞集団ができると、次にその中で将来の骨や血管といった“組織のもと”がきちんと区別されるようになる。このような離れ業を、細胞はどのようにしてやり遂げるのであろうか?
 私は細胞たちが交わす“話”、つまり細胞間コミュニケーションを解読することで、これらの問題に取り組んだ。

高橋淑子談
→一つの胚からからだがつくられていく過程で、細胞が増え、それぞれの機能をもった細胞、そして器官へと分化していきますが、ただやみくもに増えるだけでは細胞の団子ができてしまう。何らかのシグナルを送っているはずです。血管や神経などができあがっていくときには、「おーい、血管よ、ちょっと酸素をくれや」とか「おいおい、神経よ、こっちにきてくれや」とか、お互いにコミュニケーションを取りながら、ネットワークをつくっていくんですね。

 胚の中で、細胞は刻々と変化する。最終的には60兆個にもなる細胞は、隣り合う細胞と常にコミュニケーションをとりながら、私たちの体をみごとに作り上げてくれる。
細胞の社会はまるで人間の社会である。細胞のヒソヒソ話の解読をとおして、人間社会を賢くいきるための知恵を学べるかもしれない。


最も今日的な話題を提供するのが、西川恵子である。

 第十八回の西川恵子「ゆらぎの構造科学」の確立をめざして。を見ておこう。
今、“ゆらぎ”は物理、化学、生命科学のキーワードの一つとなりつつある。
 私が研究を始めた当時は、統計力学には“ゆらぎ”という物理量は定義されてはいたが、実験的に測定しようとする研究は皆無であった。
超臨界流体の構造研究にゆらぎの概念をもちこむことにより、密度ゆらぎがギブスエネルギーの2次微分量であること、また超臨界流体の多くの物性が密度ゆらぎによって支配されているほど重要な量であることを明らかにした。規則構造の表現を超えて、何とか乱れを定量化しようとしてきた。
 しかし、今思えば、乱れ方に規則があり、その規則性を探り、乱れによる新たな物性発現を明らかにしてきたのではないかと思う。
密度ゆらぎは、静的なゆらぎである。今後、動的なゆらぎ構造にも研究を進めたいと思っている。


話題とは、平成24 年3 月26 日の第92 回日本化学会年会(慶應義塾大学日吉キャンパス)にて執り行なわれる予定における表彰式です。
第92春季年会プログラム2S1-01 学会賞受賞講演 ゆらぎの構造化学の開拓と展開(千葉大院融合)西川 恵子

 ゆらぎの構造化学の開拓と展開で、複雑凝集系の構造や物性を“ゆらぎ”をプローブとして捉えるという研究です。溶液の構造を、各成分の混ざり具合で定量的に表す実験方法を確立しました。超臨界流体の分子分布の不均一度と特異な物性を関連づけることに成功しました。
 また、イオンだけから構成されているのにも関わらず、室温で液体状態をとり物質科学分野で大きな注目を集めているイオン液体の相転移現象を取り上げ、相転移時のゆらぎのダイナミクスの直接観察にも成功しております。
 今回の受賞は、装置造りや新規な方法論の開発等を通して、複雑凝集系の構造化学を開拓した独創性が評価されたものとまとめることができます。




かくしんナノ⑨

2012-03-20 09:27:35 | アルケ・ミスト
本書(「猿橋勝子という生き方」米沢富美子著)のプロローグは、1954年3月1日未明、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカによる水爆実験から始まる。
爆心地から160km東方でマグロ漁船の第五福竜丸が操業していた。
目もくらむような光に包まれた八分後に、地鳴りのような轟音が海底から突き上げてきた。
そして西の水平腺上に、雲を突く巨大なキノコ雲が現れた。
閃光から二時間ほど過ぎるとミゾレのような灰が降ってきた。

これが後に「死の灰」といわれる放射能に汚染された灰であり、乗組員23名が被曝した。
アメリカの水爆実験が、広島、長崎に続いて、3度目の日本人被曝犠牲者を出してしまったのである。
アメリカが想定した規模をはるかに超えたこの水爆実験が放射能物質、死の灰の降下による海洋汚染は、南太平洋から北上して日本近海を経てアメリカ西海岸へと広がっていった。

本書の主人公である猿橋勝子は、当時微量分析の達人として知られている科学者だったことから、海水からの放射能汚染を調べたデーターを発表した。
ところがアメリカは、その猿橋勝子のデーターを信じてはくれなかった。
1962年4月、アメリカ原子力委員会が日米放射能分析法の総合比較をするために猿橋勝子をアメリカに招聘したのである。
アメリカのこの分野では最高権威者であるセオドア・フォルサム博士と、測定方法としてどちらが精密であるかの比較実験が始まった。
20%も薄めた海水を提供されるなど(誰が仕組んだのかは不明だったが)のハンデイを乗り越えて分析競争の結果は、アンフェアな試合を仕掛けたアメリカ側の完敗に終ったのである。
女性科学者としての猿橋勝子の業績は、すでに世界的に知られているが、彼女が医師になろうと女子医専入学の面接試験で、校長の吉岡彌生の人間性に幻滅したから、合格していたにもかかわらず断固入学を止めたことに彼女の人間としての一途さ感じてしまった。
医師になるのを諦めて別の道へ進むべく女子理専へ入学したからこそ、彼女が科学者として多くの業績を残すことになったのだろう。

科学者としての矜持の違いは、戦時中の吉岡彌生と猿橋勝子の生き方を知れば歴然としている。
著者である米沢富美子が、巻末で自身が甲状腺がんの手術前日まで本書の原稿を書き、手術翌日には、病室の椅子に座って原稿の続きを書いていたと語っていたが、著者の猿橋勝子への思い(執念とも思える)が伝わってきた。

本書巻頭で書かれていた第五福竜丸乗組員の被曝犠牲者が出てから半世紀以上過ぎた、今、自国で起こしてしまった原発事故から4度目の被曝犠牲者が出ることを危惧しながら本書を読み終わった。
「女性科学者に一条の光を」猿橋賞30年の軌跡(女性科学者に明るい未来をの会 編)ドメス出版

 「女性科学者に明るい未来をの会」は、1980年4月に気象研究所を定年退官された猿橋勝子さんが、退官記念として、先輩・友人から寄せられた寄付金をもとにした基金で設立された。
会は、優れた研究業績をあげた50歳未満の女性科学者に猿橋賞を贈呈することを決め、81年5月には第一回授賞式が行われた。今年は、30回目の猿橋賞贈呈式がある。


『猿橋賞の未来を考える』米沢富美子(第4回受賞者)
 2010年は、猿橋賞設立から30年目に当たり、受賞者の数も30人になる。
この賞の創設者である猿橋勝子先生が2007年に他界されるまでは、猿橋先生の強力なカリスマ性によって、この賞の運営が支えられてきた。
 私自身も何年か前から、「女性科学者に明るい未来をの会」の理事として、お手伝いをしてきたが、実際には猿橋先生が決められて方向で理事たちが動くという状態であった。従って、気持ちのうえでも実際の任務に関しても、理事の果たすべき役割は比較的軽かった。しかし当然のことではあるが、猿橋先生のご他界後は様相が変わった。

 「どんな賞でも、創設者のご他界後も順調に運用されるか否かが、その賞の将来を分ける」と言った人がいたが、まさにそのとおりだ。
猿橋賞が創設された際の目的や猿橋賞の位置付けに対して、受けとめ方が人により、また世代により違っていたりすることが明らかになってきた。
 問題点はいくつかあるが、ここでは2点だけを取り上げる。いずれも、猿橋賞の本質と関係するも重要なものである。

 まず第一点は、賞の運営に関わる問題である。
猿橋先生の理念を十分に理解していない筋からの働きかけが2、3年前にあり、猿橋賞を公的な機関に吸収させようという動きが一部にあったりした。この動きは、もちろん今は完全に立ち消えになった。
 公的資金や財界からの資金が一切入らない、完全な私的ベースで進められてきたことこそが、「猿橋賞」の事業の存在意義を支えている特徴である。この点は、創設者の猿橋先生が最も強調されたもので、今後も変わることがあってはならない。

 第二点は、猿橋賞は「恵まれたとはいいがたい環境にある女性科学者たちに一条の光をあてる」ことが目的の賞である。従って、すでに功成り名遂げた人を顕彰する賞ではないことを、忘れてはならない。

 猿橋賞の理念や目的が必ずしも正しく周知していないことを危惧して、理事のうちの5人が集まって、事業を後世に残すために二つの企画を立てた。猿橋先生のご他界直後の07年11月の事である。

 二つの企画は、
①猿橋勝子先生の評伝を書いて、猿橋先生の業績や生き方を多くの人に知ってもらう。
②猿橋賞設立30周年記念誌を作って、賞の目的を確認し、これまでにあげてきた成果をまとめる。
というものである。

 企画を立てた5人の理事は、「猿橋賞」の初期の受賞者たちで、太田 朋子→中立進化説。米沢富美子、相馬芳枝地球の温室効果防止のための二酸化炭素再資源化の研究。石田瑞穂微小地震による地下プレート構造と地震前兆の研究。高橋 三保子「原生動物の行動の遺伝学的研究」、である。

二つの企画のうち第一のものについては、5人で情報を収集し、09年4月に『猿橋勝子という生き方』(岩波ライブラリー・米沢富貴子著)として出帆された。この本は評判がよき、ほとんどすべての日刊紙と多くの雑誌に書評が掲載された。出版から1ヶ月で2刷、その二週間後に3刷となり、今も売れている。多くの人たちに猿橋先生のことを知ってもらえたのは、成功だったと思う。

 二つの企画のうち第二のものが、本記念誌である。第1章には猿橋賞設立の趣旨なども収めたので、広く読まれるようにと願っている。
右に記した二つの企画を立てた5人が「猿橋賞」の10回までの受賞者であったことは、偶然ではない。この5人は、賞の創設から間もないころに猿橋先生と直に接し、この賞に対する先生の姿勢を直接に話してもらっている。だから賞の理念を正しく把握しているという自信があり、異論に対して敏感だったのである。

 「猿橋賞」は、ノーベル賞や芥川賞のように、未来もずっと続く(と予想される)賞ではない。
科学の世界においても女性の数が全体の半数になり、女性であるがゆえにキャリアを積むことが困難な状況がなくなったとき、猿橋先生の志は達成されたことになり、「猿橋賞」はその役割を終える。

 その日が来るまで、猿橋先生の当初の目的から逸脱することなく「猿橋賞」をもり立てていくことが、この事業の次代を担う者に課せられた使命である。



 最終章に置かれた“パネルデイスカッション”を付記しておく。
・・・これも確か北京に行ったときに相馬芳枝先生からうかがった話のような気がするのですが、猿橋賞をもらったおかげで、ちゃんと正当に評価されて仕事がしやすくなったということをおっしゃっておられました。そういう猿橋賞の効果というのは、受賞された方は、もう大なり小なり実感をもっていらしゃるのではないかと思います。専門的な分野の内容は、まったく私はわかりませんが、若い人を励ましたいという点での猿橋賞の貢献についてはよくわかります。

 そこで私は、この故知に倣って、私もと思ったのです。猿橋賞の財源というのが、先生が退職したときのお祝い金だとうかがい、私も実はそのころ労働省を辞めたばかりで、退職金をいただいていました。国からいただいたのです。それを自分のことで使ったのではもったいないから、何かいいことに使いたいなと思っていたところだったので、よし、それじゃあ、私も、こういうことなら
猿橋先生のまねをしてもいいだろうと思いまして、その退職金を国際女性の地位協会に寄付して、基金を立ち上げ、「赤松良子賞」内閣府男女共同参画局調査課長 塩満 典子

→日本の縄文期に当たる紀元前5世紀、ギリシャ・アテネでソクラテスは対話を続けた。
当地から西北180kmはなれたデルフォイのアポロン神殿の柱に刻まれた「汝自身を知れ」の格言に触発され、「無知の知」を自覚し、その吟味と普及を行った。
 弟子のプラトンがまとめた「国家」によると、ソクラテスは、グラウコン(プラトンの兄)との対話で「女性と男性は、両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点を除いてはす べての仕事を 同じように分担しなければならない」との合意に達した後、・・・・・・(男女共同参画情報メール第95号(H17.8.19発行)参照記事)



かくしんナノ⑧

2012-03-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
 二酸化炭素の大気・海洋間の交換(大気-海洋間フラックス)の研究に取り組んだのは50歳前後の頃であった。


 太平洋全域について、大気および表面海水中の二酸化炭素を測定し、それに基づいて大気と表面海水との間の二酸化炭素の交換量を計算して、海洋が必ずしも二酸化炭素の吸収系になっていないことを示した。
二酸化炭素(CO2)は赤外線の波長帯域の、2.5~3μmおよび4~5μm に強い吸収帯を持つため、地上からの熱が宇宙へと拡散することを妨げる、いわゆる温室効果ガスとして働く。

  二酸化炭素(CO2)の温室効果は、同じ体積あたりではメタンやフロンに比べて小さいが、排出量が莫大であるために、地球温暖化の最大の原因とされる。
→温室効果(おんしつこうか)とは、大気圏を有する惑星の表面から発せられる放射(電磁波により伝達されるエネルギー)が、大気圏外に届く前にその一部が大気中の物質に吸収されることで、そのエネルギーが大気圏より内側に滞留し結果として大気圏内部の気温が上昇する現象。
地球の表面温度は、大気が存在しない場合、太陽から受ける光エネルギー(太陽放射)と等しい黒体放射温度となると考えられている。太陽放射から計算される地球の黒体放射温度は約-20℃であり、現在の地球の平均気温の約15℃よりかなり低い温度である。この差は、大気の保温効果によって熱が大気中に留まることにより生じていると考えられている。この大気の保温効果の一翼を担っているのが、温室効果である。



 現在の大気中にはおよそ370ppm(0.037%)ほどの濃度で含まれるが、氷床コアなどの分析から産業革命以前は、およそ280ppm(0.028%)であったと推定される。
二酸化炭素(CO2)は、生物の呼吸、有機化合物の酸化分解、火山活動などによって“生成”され、光合成や海水面への溶け込みによって“消滅”する。

 “生成”される二酸化炭素(CO2)量は、化石燃料の大量消費によって加速度的な増加を続けている。一方“消滅”のほうでは、二酸化炭素(CO2)の海水面への溶け込みの速度は、意外と小さいことが、猿橋らの研究によって明らかになった。すなわち、海洋が大気中の二酸化炭素(CO2)の受け皿になるという従来の楽観的見通しは、否定されたわけである。

 そもそも、大気中で過剰になった二酸化炭素(CO2)を海洋に逃せばすむものでもない。海水中の二酸化炭素(CO2)増加が(海水中の)生態系に影響を与える“海洋酸性化”の懸念が生ずるからである。

 1997年の京都議定書によって、二酸化炭素(CO2)を含めた温室効果ガス排出量の各国の削減目標が示され、削減への努力を締結した。

                               〈地球温暖化防止京都会議記念モニュメント〉


→平成9年に京都で開催された地球温暖化防止京都会議(COP3)には、世界各国から多くの関係者が参加し、二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素(亜酸化窒素)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)、パーフルオロカーボン(PFC)及び六ふっ化硫黄(SF6)の6種類の温室効果ガスについて、先進国の排出削減について法的拘束力のある数値目標などを定めた文書が、京都の名を冠した「京都議定書」として採択されました。


猿橋らの研究は、京都議定書に20数年先立つものである。

図1 南大洋におけるCO2吸収の時間変化。”atmospheric CO2 alone”は大気中のCO2増加から期待される吸収フラックス、“inversions based on observations”は逆解法解析の結果(複数の線は使用したCO2データの長さやステーションの数が異なる)、”1967 constant winds”と ”variable winds”は、風を1967年に固定あるいは年々変動させて全球海洋循環生物化学モデルで計算した吸収フラックスを表す。



南大洋における二酸化炭素吸収の低下海洋は重要な二酸化炭素(CO2)の吸収源であり、吸収量とその地理的分布を推定するために多くの努力が払われてきました。特に南極周辺の南大洋は、大気—海洋間のCO2分圧測定の結果を基に、全海洋吸収量の1/2あるいは1/3にも及ぶ大量のCO2を吸収しているとかつては考えられていました。しかし、TransComグループが大気輸送モデルを用いた逆解法解析を行い(Gurney et al., 2002)、南大洋のCO2吸収量は以前の推定のおよそ半分であると主張したために、世界の研究者の関心を集めることとなりました。

かくしんナノ⑦

2012-03-18 09:00:00 | アルケ・ミスト
 大手町の中央気象台は、1945年2月の空襲で半焼した。研究室は、長野県諏訪市の郊外に疎開。豊田小学校を研究や教育の場とし、寺の庫裏を宿舎にして、数十人が共同生活を始めた。
三宅は、「戦争はやがて終わりますよ。疎開している間も勉強してエネルギーを蓄えておくように」と皆を励ました。

 一行は、8月の敗戦の後も諏訪に滞在し、東京に帰ったのは翌年の3月であった。杉並区の陸軍気象部跡に研究室を再建することになり、猿橋もこれに協力する。
1947年、研究室は「気象研究所」と改称され、猿橋自身も嘱託から正規の研究者に昇格した。猿橋、27歳。

 猿橋の時代には女性に許された最高の学府は理専や医専などの専門学校だった。大学の門戸が女性に開かれるたのは、戦後のことである。→学制改革

 猿橋がこの頃から取り組み始めた研究の一つが、オゾン層の解析である。

「大気中にはごくわずかのオゾンがある。その大部分は地上20~30キロの高さに集まっている。しかし、このわずかのオゾン層の存在が、実は地球上における生物の生存に、重要な役割を果たしているのである。
 太陽紫外線のうち、皮膚がんを起こすなどの有害な効果を持つのは、短波長の(エネルギーの高い)紫外線である。この短波長の紫外線をカットし、生物の生存に適合した280ミリミクロンより長波長の(エネルギーの低い)紫外線だけを地表に送る、そのためにフィルターの役目をしているのが、Ozone layerオゾン層なのだ」
                         
 高度(縦軸:km)とオゾン濃度(横軸:ドブソン単位)のグラフ。地上付近の高濃度帯は光化学スモッグの影響を反映したもの。縦長の帯は各波長帯における紫外線の透過度


「ガチャガチャと大きな音を立てて手回し計算は、大変な重労働であった。夕方になるとクタクタに疲れ果てた。夢にまでオゾンが出てきたが、しばらくの間、私はこの理論計算に没頭した」

「『大気オゾン層の形成に関する光化学的理論』(1949年)と『大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論』(1951年)の計4つの和文と、英文の大論文が出来上がったときはうれしかった」

「その時のうれしい感激は、今もって忘れられない。研究者として大きい満足感を初めて味わった」

 霧やオゾン層などについて、地球化学的な観測結果をもとにして、理論を考え、解析を進めているうちに、猿橋は化学の勉強を基本からやり直したいと考えるようになる。


→フロンによるオゾン層の破壊の可能性を指摘し、ノーベル化学賞を受賞した米カリフォルニア大教授のFrank Sherwood Rowlandさんが10日、死去した。84歳だった。
彼のもっとも重要な貢献は、クロロフルオロカーボン(CFC)(スプレーや冷凍等に使われる)がオゾン層の破壊に繋がる実態を発見したことにより、世界規模のCFC規制をもたらしたところにある。これにともない、1995年に、モリナ、そしてドイツのポール・クルッツェンと共にノーベル賞を受賞した。他、核兵器がもたらす大気への影響に関する研究や、地球温暖化に関する研究などにも携わっている。


「三宅先生は私の考えに快くご承諾下さった。まず化学分析の基礎から見直すようにご指導いただいた」

 三宅は、猿橋たちの実験室をときどき見回って、攪拌棒の置き方、濾紙のたたみ方、濾過の仕方ひとつ見ても、その人の分析の腕前がわかる、と言って厳しく指導した。
猿橋はその後、岩石の分析、水の分析などを中心とする地球化学の研究に深く関わるようになる。微量分析も手がけることになり、定性分析、定量分析を復習したことは、大きな原動力になった。

「海洋における炭酸物質の問題を研究してみませんか」と三宅がもちかけてきたのは、その頃である。
1950年の初めのことで、猿橋は、春には30歳を迎えるという若さだった。

「アルカリ度の測定以外に水中の全炭酸を簡単に測る方法があるかどうか。もし、そのような方法があれば、あいないなアルカリ度などによって炭酸物質の推定をする必要はない。私の研究室の猿橋勝子氏はコンウェイの微量拡散分析法を、水中の全炭酸の定量に用い得ることに注目した」
「この方法で、水中の全炭酸を測定することは、非常に容易であり、かつ、非常に迅速に定量を行うことができる。というのは、ユニットの数を増やせば、処理する試水の数をいくらでも増すことができるからである。猿橋氏は一昼夜に実に240個の試水中の全炭酸を測定している。これは、従来の方法では、想像もできないことである」


 猿橋はさらに、水中の炭酸物質の行動を調べるために、各種炭酸の存在比を求めることにする。
二酸化炭素は水に溶けると、遊離炭酸(H2CO3)炭酸水素イオン(HCO3-)炭酸イオン(CO32-)の平衡混合物として存在する。この三つの炭酸物質の存在比は①塩素量②水温③pHの値によって変わってくる。

 猿橋はまず、化学的な量(解離平衡定数や活動係数)を介して、塩素量・水温・pHを含む式として表されることを示した。
さらに猿橋は、この式の具体的な形を理論的に求めた。然る後、この式を使って、おのおのの塩素量・水温・pHに対する炭酸物質の存在比F(遊離炭酸の存在比)、B(炭酸水素イオンの存在比)、C(炭酸イオンの存在比)を、数値的に計算して表にしたのである。

→海水中の全炭酸は,当時は今日ほど高精度な分析法はなかったため,独自でミクロ拡散法を開発され海水中の全炭酸の分布を明らかにされました。さらに,海水中の全炭酸のイオン種の分布を計算で求め表を作成しました。
 当時は,猿橋のテーブルとして高く評価されていました。
さらに,この分析法を1953年の米国による水爆実験で降下したビキニの灰に適用して,第五福竜丸で採取されたビキニの死の灰が珊瑚礁のかけらである炭酸カルシウムからなることを証明されました。
 また,海水中の人工放射性物質の研究にも大きな成果を残されています。
特に,海水中の137Cs濃度の広域分布結果は,貴重なデータで現在の海洋循環モデルの検証のためにも役に立っています。137Csはアルカリ金属に属し,海水中から選択的に効率良く濃縮する方法は簡単ではありませんでした。
 日本の研究者はAMP が効率良く海水中から137Cs を濃縮することを発見し,猿橋先生はこの方法を適用して,海水中の137Cs 濃度を求めました。
当時,米国では別の方法が採用され日本のデータは当てにならないとの評価がありました。猿橋先生は,日本で作成したAMP を米国に持ち込み,当時米国の海洋放射能の中心的な研究者であったスクリップス海洋研究所のFolsam 教授のもとで分析を行い,AMP が有効であることを示されました。海水の全炭酸や137Cs の研究は,猿橋先生の業績を受け継ぎ改善すると共に,現在の高度化した分析法を活用することによって,現在の地球化学研究部の先端的研究の一つとなっています。サルハシのテーブル

 猿橋は、淡水中や海水中の炭酸物質に関する一連の研究で、日本語論文5編、英語論文5編を発表した。
この一連の研究を、猿橋は「天然水中の炭酸物質の挙動」と題する学位論文にまとめ、1957年、東京大学から理学博士の学位を授与された。東京大学理学部化学科からの理学博士としては、女性第1号である。猿橋、37歳のときのことである。

「炭酸物質の研究に加えて、第5福竜丸の“死の灰”被災事件を機に、私は“死の灰”の地球化学的研究にもたずさわることになった。核兵器爆発によって大気中に放出された“死の灰”が、大気、海洋の中をどのように行動するかを追跡する仕事である。アメリカのネバダで核爆発すると、その影響は、日本に約3週間で達し、また中国の核爆発の影響は2、3日で日本に達することが明らかになったのは、私たちの研究室の成果の1つである。」

「海洋上に落ちた“死の灰”が、表面から深海に拡散していく速さが予想以上に速く、わずかの5,6年で6千mの深海に到達することも、私たちの研究からわかった」

 「(水平方向への)海流と「鉛直拡散」とを明らかにするという、猿橋らの一連の研究は、「これらの放射性核種をトレーサー(標識)として海洋の動的研究に使う」という新分野を拓いたことになる。この点についても、世界的に高く評価された。
 太平洋の海面から深層への、これらの核種の移行速度に関する猿橋たの研究成果は、現在も海洋循環モデルの検証において貴重なデータとして役に立っている。また、海水および雨水中のストロンチウム90とセシウム137について、長年にわたって積み重ねられた猿橋らのデータは引き継がれ、国際的にも重要な資料として広く引用されている。
 猿橋はさらに、大気中の放射性降下物の研究に基づいて、核実験による大気汚染の深刻さについて警鐘を鳴らしている。


「その後、私の興味は炭酸ガスの大気・海洋間の交換の問題、大気と海洋における化学物質の挙動、さらに放射性廃棄物の海洋投棄等々に拡大した」

かくしんナノ⑥

2012-03-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
 猿橋は子供の頃から“はどのようにして降るのか”というような問いに関心を抱いていたが、このことを知っていたクラス担任の堀一郎教授が猿橋を三宅康雄に紹介した。旧制静岡高校で、堀が三宅の後輩だったことが縁である。


→雨粒が作られる時の上空の気温(氷晶になるかならないか)により、以下の2つに大別される。すべての雨は空気中の水蒸気を起源とする(気体である)が、それ以降、液体と固体の状態を経て降る雨が冷たい雨、液体の状態だけを経て降る雨が温かい雨である。

 三宅康雄(1908-1990)は、東京大学理学部化学科卒業後、北海道大学助手を経て、中央気象台研究部長をしていた。
 地球化学研究のパイオニアとして第一線で活躍する、少壮気鋭の学者だった。地球化学という分野は、そもそも三宅が新たに拓いたものである。

 三宅研究室を訪れた猿橋勝子は、“実習生といっても、きっとビーカー洗いをさせられるのだろうな”と内心考えていた。しかし猿橋は、ビーカー洗いのような補助的な仕事を押し付けられることはないばかりか、むしろ一人前の研究者のような扱いを受けたのである。

 「三宅先生を研究室にお訪ねすると、3年生なったばかりの私に“ポロニウムの物理化学的研究”をしてみませんかとおっしゃった。
 ポロニウムは、マリー・キューリーが発見し、マリーの祖国ポーランドにちなんで命名された天然の放射性元素である。
1903年にマリーはこの発見で夫ピエールとノーベル物理学賞を受賞(正式の受賞理由は「放射能の発見」、アンリ・ベクレルと3人で)。さらに1911年には金属ラジウムの分離で再度ノーベル化学賞を(単独)受賞した(この時の受賞理由は「ラジウムおよびポロニウムの発見と、ラジウムの性質とその化合物の研究」)。


 三宅先生は科学の勉強を志す女子学生を励ますためのテーマを考えられたのであろう。学術的に格の高いテーマを頂いた私は、感激・興奮しながら、帰りに神田で“放射能”に関する書籍を求めたことを思い出す。このことが後の研究に大変役立った。」→全国の放射能濃度一覧


 三宅との出会いが、科学者としての猿橋の将来を決定した。猿橋は後日、「二つの偶然が私の人生を決めた」としみじみ述懐した。
最初の偶然は吉岡彌生との出会いであり、二度目の偶然は三宅康雄との出会いである。

 猿橋が三宅の研究室に通って卒論の研究(ポロニウム)をしていた1943年は、太平洋戦争たけなわのころであった。

 理専の3年になった猿橋らの就職の求人は、軍関係からのものが多かった。若い男たちが戦地に出ていたため、特に理専の卒業生は、多方面から求められた。

 「同級生の多くが陸軍・海軍の研究所に就職した。・・・・月給は軍関係は97円、中央気象台は55円であった。高い収入も魅力だが、私は戦争に協力するのは嫌いであった。また、それまでの三宅研究室での見習いの中で、先生の科学者としての言動に感銘を受けることが多く、卒業後もここで、もう少し勉強したいと考え、三宅先生にお願いして雇っていただくことになった」。
 
 「理専の教授の中には、軍国主義や超国家主義の愛国主義をふりまく人も少なくなかった。私が中央気象台に勤めることが決まったと知ったある老教授は、物理の時間に、『このクラスには、この非常時に中央気象台などという、軍に直接関係のないところに就職する非国民が居る』といわれた。
私が最前列にいることを知っての話である。当時“非国民”という言葉は、人を罵る際の最悪・最低のものであった」「老いも若きも、男も女も、大学の先生も学生も、日本中、軍国主義一色にぬりつぶされていたことを示す出来事であった」。


 理専は、就学期間が3年と決まっていた。だから、1941年4月入学の猿橋らの学生は、本来なら1944年の3月に卒業するなずだった。しかし、国の方針で半年繰上げて、43年の9月卒業となった。この方針は、猿橋らが在学していた理専のみでなく、全国の専門学校に適用された。
 1943年頃といえば、日本にとって戦局は益々厳しくなっていた。若い男性たちは、いわゆる赤紙で次から次へと戦地に駆り出され、国内に残るのは女性たちと若くない男性たちと学生・生徒たちのみになった。“いい若い者が、この非常時にのうのうと勉強なんかしている場合か。すぐにでも勉強をやめて、国のために働け”というのが、繰り上げ卒業の趣旨である。男は、多少体が弱くても兵隊に取られ、女は勤労奉仕で武器などを作らされた。


 三宅研究室でも、男性は次々と戦争に駆り出されていった。
猿橋は1944年の初夏から夏にかけて、「飛行場における霧の消散の研究」に参加する。
 空軍の飛行機が離着陸する際の妨げになる霧を消散させることが目的で、北海道大学の故中谷宇吉郎教授の研究室、中央気象台、陸軍気象部等による一大共同観測が行われた。根室の太平洋の濃霧の中で、霧の発生・消滅のメカニズムをさぐるための観測である。


 「濃い海霧の発生する北海道・根室に一ヶ月あまり滞在したこともあった。北大の故・中谷 宇吉郎教授グループ等とともに、濃い霧の中でずぶぬれになりながらの野外観測にも参加した。男性の中にまじって、トラックに飛び乗り、飛び降りては、広い地域をつぎつぎと観測に走りまわった。宿舎に帰ると、観測結果の整理、解析、そして明日の観測計画とその準備におわれた」「百人以上の研究者が、大平原の中に急造されたバラックの建物の中で研究に従事していたが、女性は確か数人であった。私への三宅先生の厳しい訓練のはじまりであった。」


 また信州では、真冬の2月に観測が行われた。
「寒い冬の野外観測はつらい。宿を出るときにもらったお弁当のおむすびは、リュックの中でカチカチに凍ってしまって、そのままでは食べることはできなかった」「信州の霧が峰の頂上に登って、徹夜で霧の観測をしたこともある。また寒い冬の2月、信州追分では、霧がかかると酷寒の深夜であっても、呼び起こされ、ねむい目をこすりながら身支度もそこそこに、観測に飛び出した」「一ヶ所に立ち止まっての深夜の野外観測は、うかりすると、足の指を凍傷にしそうである。みんな足踏みをしながら、寒さを防いでいた」


 「私は野外観測にしても、また、研究室内の仕事にしても、これらを勉強し、私なりに納得し、消化し、覚えていくことに全力を集中してはたらいた。それこそ、文字どおり一心不乱の毎日であった。それは男性に負けまいとする、女性なるが故のがんばりではなかった。一生懸命に勉強すると、はじめは幾重ものベールの向こうにあった複雑な自然が、一枚ずつベールをはがし、からみあっていた自然の仕組みが、次第に解き明かされてくるからである。研究者としての、何ものにも変え難い大きな喜びが、ここにある」。

 毎日仕事の後に、東京・大手町にあった中央気象台から、神保町近くの研数学館へと、足早に向かう猿橋は、研究への一途な思いを抱いた24歳であった。


 「女性として科学者として」
研究室の中とはことなり、一歩外へ出ると、不愉快な目にあうことは、しばしばであった。その不愉快さの原因は、学問研究それ自体と直接かかわりのあるものではない。それらはあからさまではないが、暗々裏に非難していることは“女のくせに”、“たかが私立の専門学校を出ただけなのに”、“行政機関の職員にすぎないのに”等々である。

 これらは全て、女性研究者に対して、意識的あるいは無意識的に、自分と同等の評価をあたえたくないという思いが、心の底にあるのであろう。このような考えの先生方に共通していることは、大学教授ではあるが、あまり研究業績もさえない、気の弱い方たちとおみうけした。このような考えの人が、学界で多数をしめているかぎり、学界における男女差別の撤廃や、民主化はほど遠いと、なげかないわけにはゆかない。

 私はもともと、ものごとにあまり拘泥しない性質である。いろりろな雑音はきき流して、できるだけ気にしないようにして、研究に専念してきた。
 研究には、未知の世界にいどむスリルとサスペンスがあり、すべての憂さをふきとばすだけの魅力がある。その面白さは、マリー・キュリーがいうように、“おとぎの国への一人旅”に、似たものである。(1980年)





かくしんナノ⑤

2012-03-16 09:06:50 | アルケ・ミスト
 ビキニ海域の放射能調査を実施するために、農林水産庁は、1954年5月15日から7月4日まで、練習船・俊鶻丸シュンコツマルを現地に派遣した。
調査の結果、ビキニ海域とその近辺で予想を超えた放射能汚染が見い出された。さらに1000キロメートルとか2000キロメートル離れた所でさえ、海水も生物も放射能に汚染されていることが判明した。

 アメリかはそれまで、「海水に薄められるので放射能汚染は心配ない」と、核実験の安全性を主張していたのだが、その主張が覆されたのである。また、放射能物質が生物体内へ濃縮される事実も、過小評価されていることがわかった。

 調査団は、ビキニ水爆の被害の大きさを実際に確認したのである。
この調査の結果に驚いたアメリカ原子力委員会は、翌年の1955年の春、タニー号をビキニ海域に送って俊鶻丸調査の追試をし、日本の調査の正しさを全面的に認めた。

図-6『放射化学と海洋』科学28510-513(1958)三宅泰雄・猿橋勝子;北太平洋における放射能のひろがり


 微量分析の達人・猿橋勝子は気象研究所で、師の三宅泰雄が主宰する研究室に属していた。
“死の灰”の分析以来、猿橋や三宅のところに、漁船などから海水が持ち込まれ、研究室をあげて日本近海の海水の放射線物質測定に従事した。

 やがて、日本の放射能汚染海水の分析は、一括して気象研究所に委託されることになった。
アメリカ側は、カリフォルニア大学のスクリップス海洋研究所が担当しており、分析の世界的権威、セオドア・フォルサム博士が研究グループを率いていた。

 1960年、フォルサムらは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度を、1ℓ当たり、0.1×10の12乗キュリーと報告した。これに対して、三宅-猿橋らは日本近海のセシウム137の濃度を、1ℓ当たり、0.8~4.8×10の12乗キュリーと、アメリカの値より10~50倍高い値を出した。ここで、キュリーというのは、放射能の壊変強度を表す単位で、キュリー夫妻にちなむものである。

 日米の測定値の差を、三宅-猿橋は前述のような海流の解析を使って説明した。しかし、アメリカ初め、多くの外国の科学者たちは、猿橋らの測定を誤り・改竄だと、根拠もなく批判した。
核実験の安全性を主張しているアメリカにとっては、三宅-猿橋の出した値は、不都合なものだったのである。

 日本の測定の正しさを確信していた三宅は、アメリカ原子力委員会に、同一の海水を用いて日米の測定法を相互検定することを申し入れた。この申し入れは受け入れられ、カリフォルニア大学のスクリップス海洋研究所が、相互検定の場に選ばれる。

同研究所は、1956年~57年の1年間、三宅が客員教授として滞在したところである。また、1956年9月には、同研究所のD・マーテイン博士が気象研究所に派遣され、約40日滞在して、海水および海洋生物に関する放射能分析の知識を修得して帰った。

                      
 1962年、猿橋は三宅の勧めで、日米の測定法の相互検定のために、アメリカ・カリフォルニア大学のScripps Institution of Oceanographyスクリップ海洋研究所に赴くことになった。

 フォルサムは当時既に70歳近くで、分析化学の世界的権威であった。フォルサムの助手をしていたラリー・フィニン博士の証言によると、フォルサムは才気溢れる天才で、気難しいところがあり、他の人の研究を容易には認めない人だった。対する猿橋は、まだ42歳、フォルサムから見れば、子どもみたいなものだ。

 海水中の放射能物質の分析は、精密さを必要とするだけでなく、大量の海水を一度に処理するので、大変な肉体労働でもあった。その頃のことを、猿橋は後に次のように述懐している。

 「私は毎日、海岸に突き出たピア(桟橋)の先から海水50リットルを汲み上げ、一種、悲壮な感慨を抱きながら、放射性核種の分析に当たった。」

 しかし、猿橋が最も苦労したのは、猿橋が化学屋でありフォルサムは物理屋であるために、意思疎通に時間を要したことだ。猿橋は、三宅との往復書簡で愚痴をこぼしたりしたようだ。
三宅は返信のなかで、「フォルサムを教育するために貴女をスクリップス研究所に送ったのではない。フォルサムに協力してあげてほしい」と、猿橋をなだめたり励ましたりしている。

 海水の主要成分は、塩化ナトリウムや塩化マグネシウムであい、極微量の放射性物質を分析するには、まず放射性物質を濃縮しなければならない。そのためには、大量の共存物質に妨害されない濃縮方法が必要であった。
分析の対象は、セシウム137である。しかし当時はまだ、微量の放射性物質を濃縮するための、標準的な方法は確立されていなかった。

 スクリップス海洋研究所は“フェロシアン化ニッケル吸着法”により放射能物質を濃縮していた。猿橋は、日本で開発した“リンモリブデン酸アンモニウム沈殿法”によって放射能物質を濃縮した。

 濃縮した後のセシウム137の定量分析についてはセシウム137が放出するガンマー線量を測定することによって、セシウム137の含有量を推定する。

 猿橋とフォルサムの“分析測定法の精度競争”には、セシウム134が用いられることになった。

 分析競争は次のような手続きで行われた。まず第三者が、セシウム134の濃度が異なる4種類の溶液を作成し、それぞれ海水中50ℓに溶かして、4つの容器に別々に入れる。もちろん、4つの容器は、猿橋用とフォルサム用に、2セット準備される。

 しかし、分析競争の後に書かれた「フォルサム-猿橋論文」の中のデータを克明に調べてみると、必ずしもフェアな設定ではなかった事が見えてくる。
実際に猿橋に手渡された試料は、フォルサムに渡された試料と比べると、セシウム134の濃度が2割も低いものであった。

 それぞれの容器の海水を濃縮して、セシウム134を何%まで回収できるか。より多くの放射性物質を回収することを競うのである。

 この時の事を、猿橋は後に次のように記している。
「私は、私たちの測定法に自信を持っていたとはいえ、やはり多少の不安はあった。アメリカの科学者たちの監視のもとで、いわば“敵の陣地”での作業はスリルがあり、緊張の連続であった」

表-1分析競争の結果は、
①猿橋の平均回収率は94.4%でフォルサムの平均回収率86.5%よりはるかに高い。
②ばらつきの程度についていうと、猿橋が2.8%であったのに対して、フォルサムは6.0%で、猿橋がフォルサムの半分以下だった。
③要するに、猿橋の分析結果は、平均回収率が高いことに加えて、ばらつきの程度が小さいという、鬼に金棒の成績だったのである。

 アンフェアな試合を仕掛けたアメリカ側を、猿橋は議論の余地なく打ちのめしたのである。

 「私が米国に派遣され、両国の分析法を実地に相互検定することとなった。昔の言葉でいえば、“道場やぶり”というところ。検定の結果、われわれの測定法は全く正しかったばかりか、彼らのものより精度が高いことを認めさせた」

 こうして、日本近海の放射能汚染に関する日本のデータの正しさが、はっきりと認められた。日本近海の放射能汚染が、南カリフォルニアの海の汚染の10倍から50倍であることが、認められたことにもなる。これによって、三宅-猿橋が主張した「海洋の放射能の拡散過程」の正しさも、合わせて証明されたわけである。

 猿橋は、スクリップス海洋研究所での滞在を振り返って、後に次のように書いている。
「海洋学研究の世界的メッカで、私はユーリイ教授、アルレニアス教授、レイクストロウ教授、レイト教授、シェパート教授、フォルサム博士等々および教授夫人らとご交誼をいただいたことは、私にとっては、大変ありがたいことであった。女性科学者としては、地質調査所のヘレン・フォスター博士、ウッズホール海洋研究所のメアリー・シアース博士らとも親しくしていただいた。これらは私の人生を、一まわりも二まわりも大きいものにしてくれたといっても、いいすぎではない。」

 コラム記事では分析法の比較検証がなされている。
いずれの場合にも、それぞれの構造に含まれる空孔にセシウムが捉えられて、難溶性化合物として沈殿する。それは結晶ではなくアモルファス状態であるが、リンモリブデン酸アンモニウム(AMP)のほうが比較的簡単に沈殿するので、技術的に沈殿を回収しやすい利点がある等が、その後の分析過程で、回収率の差となって現れたものと考えられている。




吉本隆明さん死去…戦後思想界に大きな影響
との記事が目に止まって、気がついたのが元木昌彦の言葉。

 「吉本先生の言に一理あることは認めるが、今問われている問題をすり替えているような気がしてならない。
原子力を平和利用しようという科学を全否定しているのではない。しかし、自分たちの利益を「原子力ムラ」で独り占めし、徹底的な安全対策を怠り、マスコミを抱き込んで「安全神話」をでっち上げてきたために、こうした重大事故を起こしてしまったのだ。現在の「原子力ムラ」には、吉本氏のいうような徹底した安全の確保にお金を使おうという考えの事業者や技術者がどれだけいるのか、はなはだ疑わしい。官僚に至ってはゼロではないか。

文明を否定しているのではない。原子力の平和利用という技術は研究し続ければいい。だが、今ある原発の多くは安全性に疑問がつくだけに、停止するべきだというのが多くの穏健な反核、反原発派の考え方なのではないのか。合併号あけに吉本氏への反論がどのように出てくるのか楽しみにしていたい。」
→元木昌彦の「編集者の学校」「FRIDAY」「週刊現代」「オーマイニュース」など数々の編集長を歴任政治家から芸能人まで、その人脈の広さ深さは、元木昌彦ならではそんなベテラン編集者の日常を描きながら、次代のメディアのありようを問いただす