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みち草・・・「複雑系」

2012-11-01 09:00:00 | アルケ・ミスト
 じつはアーサーだけがサンタフェ研究所に戸惑ったわけではなかった。
だれにとってもはじめはいつもちょっとしたショックだった。
 そこではいっさいの固定観念が打ち破られていた。
そこには、特権や名声やノーベル賞を手にした年配の学者たち----などというと、現状に独善的に満足しているような学者連を想像してしまいそうだが----がつくった団体があった。
 彼らは、自称「科学革命」を促進する舞台として、そこを使っていた。

 そこは研究施設があって、かつての核兵器の秘密基地、あのロス・アラモス研究所出身の生粋の物理学者やコンピュータの達人がうようよしていた。
 だが廊下は、「複雑性」という新しい科学についての活発な話題であふれていた。
その科学はいわば「大統一全体論」であり、一方は進化生物学から他方は政治、歴史といったファジーなものまで、全領域を相手にしていた。
 もちろん、われわれがもっと持続可能な、そしてもっと平和な世界を建設できるように、ということである。

 要するに、ここに絶対的なパラドックスがあった。
というのは、たとえばこのサンタフェ研究所をビジネスの世界に置いて考えるなら、その図式はちょうど、IBMの研究所の所長が会社を去り、自宅の車庫でニューエイジ風の小さなカウセリング会社を創業し、ゼロックスやGMの会長に仲間に加わるように呼びかけているようなものだったからだ。

 サンタフェ研究所をいっそう際立たせているのは、この図式の中の創業者----もとロス・アラモス研究所の研究部長、ジョージ・A・コーワン----が、どう見てもニューエイジ的ではないということだった。
 齢は67歳、ソフトな語り口の控えめな人物で、見ようによっては、マザー・テレサがゴルフシャツの上にボタンをはずしたカーディガンを掛けているようだった。
 彼はカリスマ性とは無縁だった。
どんな集まりでも、たいてい端のほうで耳を傾けていた。またけっして人を高揚させるようなレトリックでなる人物でもなかった。
 彼に、なぜ研究所を組織したのか、などと尋ねようものなら、だれもが、21世紀の科学の姿とか、科学的好機をとらえることの必要性、といった高邁な議論----「サイエンス」誌のまじめな特別論説としてそのまま使えそうなもの----につきあうはめになった。

 実際、コーワンが内に燃えるような決意を秘めた人物であることを聞き手が理解しはじめるまでには、かなりの時間がいるだろう。
彼はサンタフェ研究所がパラドックスだとは少しも思っていなかった。
 サンタフェ研究所は一つの目的を具現化するところであり、その目的は、ジョージ・A・コーワンより、ロス・アラモスより、ロス・アラモスがもたらしたすべての出来事より、さらに研究所それ自体より、ずっと重要であると彼はみていた。
 もし今回事がうまく運ばなければ、そのときは20年先にだれかが最初からやり直さなければなるまい、彼は何度となくそういった。
コーワンにとってサンタフェ研究所は伝道団だった。コーワンにとって、それは科学全体が一種の贖罪ないし再生を成しとげる機会だった。

 いまとなっては遠い昔のように思えるが、理想に燃える若い科学者がより良き世界のためにと核兵器の創造に身を捧げたとしても、なんの不思議もない時代があった。
 ジョージ・コーワンはそのような献身を少しも後悔してはいない。
「ずっと考えつづけてきた」と、彼はいう。
 「でも道徳的には後悔していないかって?いや。たとえば核兵器がなかったとしても、生物兵器や化学兵器で、もっとずっと破壊的な道をあゆんでいたかもしれない。過去50年の歴史は、1940年代というものがなかったとした場合より、ずっと人類に優しいものだと思う」
 
 実際、当時核兵器の研究はほとんど1種の道徳的至上命令だったと彼はいう。
もちろん大戦中コーワンと同僚科学者たちは、ナチス・ドイツとの死に物狂いの闘いの中にあった。
 ナチスは、依然として世界でもっとも優れた物理学者を何人か抱えており、後で誤りであることがわかったものの、原子爆弾の設計で先んじていると思われていた。
 「われわれがうまくやらなければ、ヒトラーが原爆を手にする。そうなったら最後、そういう情況だった」

 じつはマンハッタン計画が存在する前から、コーワンは原子爆弾の開発に心を奪われていた。
1941年秋、故郷マサチューセッツ州ウスターのウスター工科大学化学科を卒業したばかりの21歳のとき、彼はプリンストン大学のサイクロトロン計画に参加した。
 そこでは物理学者たちが、新しく発見された核分裂過程とウラン235として知られるアイソトープの核分裂効果について研究していた。
彼の意図は、併せて物理学の修士課程を専攻することだったが、1941年12月7日、研究所が突然週7日の研究態勢に入ったその日から、まったく見通しが立たなくなった。
 当時でさえ、ドイツは原子爆弾の開発に取り組んでいると恐れられていたから、物理学者たちはそのようなものが本当に可能かどうかを知ろうと躍起になっていたという。
 「われわれがやっていた測定は、ウランで連鎖反応を実現できるのか否かを判断するのに絶対不可欠なものだった」と、コーワンはいう。
答えはイエスだった。
 だから連邦政府は、コーワンが軍の任務につくことを大いに必要としたのである。
「化学と核物理学というあの特別な組み合わせによって、私は原爆開発計画に必要ないくつかの問題の専門家になった」



 他方で、ユング「千の太陽よりも明るく」の記述は興味深い。
1940年6月末前は、原子研究のためには1銭も国家から支出は望めなかった。それどころか、この「見込みのない計画」に対する批判の声はどんどん高まっていった。
1940年3月7日付けの2回目のアインシュタイン書信は、「戦争開始以来のドイツにおけるウランへの関心の強まり」を指摘したものだったが、これとてほとんど役に立たなかった。
 ようやくイギリスの原子研究が立派な進歩を見せているという報告がアメリカに入るにおよんで、政府筋の関心も再び活発になって来た。
すなわち1941年7月のトムソン委員会の覚書がイギリスの研究にもとづいて、「原子爆弾が戦争終結前に製造され得る見こみがかなり有望になっている」ことを確認したのである。
 こうしてついに1941年12月6日、奇しくも日本がパールハーバーを攻撃し、アメリカが公式に参戦した日の前日、原子兵器の製造のために真剣な財政的および技術的努力をするという、永年ためらって来た決定がなされるにいたったのであうる。


 1941年、ほんの数週間前にドイツから逃亡して来た化学者ライヘが、プリンストンに着いて、ドイツの物理学者たちは今までのところ原爆の研究をやらなかったし、またドイツの軍部当局をこのような可能性から眼をそらすように今後もできるだけ努力するだろうと報告した。

ところが、不確定性―ハイゼンベルクの科学と生涯 [単行本]
ではなかったかと思われるが、あのボーア夫妻との有名な場面がある。それが1941年の9月頃のことであったはず。

 つまり彼、ハイゼンベルグの眼に原子爆弾(製造)への見通しを得たのはこの頃であった。
そして、ドイツ教養主義市民自覚のなせる性であろうか、その事の道徳、倫理問題を師に尋ねたのだが、ボーアの妻マーガレットは「誰がなんと言おうとも、これは敵の訪問でした」との結末と相成った。
 2人の友情は、再び元へと復することはなかったのだ。

 しかしチャドウィックの証言によれば、2年後になってもボーアは軍事的可能性はないものと信じていた。
のみならずその後の彼の軌跡に見るように、ハイゼンベルグを信じていた節を見て取れる。

内容(「BOOK」データベースより)
アメリカ物理学会賞受賞!量子力学を確立した20世紀物理学の巨星の波乱の生涯と科学の真髄を描きつくす。

みち草・・・「複雑系」

2012-10-31 09:00:00 | アルケ・ミスト
『第2章 老年急進派の反乱』サンタフェ研究所の胎動

バークリーへの星まわりの悪い日帰りの旅からおよそ1ヶ月、1987年4月のある晴れた日に、William Brian Arthurブライアン・アーサーがスタンフォード大学のキャンパスを歩いていると、目の前に1台の自転車が止まった。驚いて見ると、ある高名な人物が、スポーテイーな上着にネクタイ、頭に傷だらけの白い自転車用ヘルメット、といういでたちでまたがっていた。

「やあ、ブライアン、いま君に電話をしようと思っていたんだ」と、Kenneth Joseph Arrowケネス・アローがいった。


明らかに先を急いでいるようだったアローは、いまニューメキシコ州の小さな研究所で開かれる経済学者と物理学者の会議の準備をしているところだ、と手短に説明した。
会議はその夏の終わりに開かれる予定で、計画では彼が10人の経済学者を招き、固体物理学者フィル・アンダースンが10人の物理学者を招くことになっている、とのことだった。

「で、ぜひ君にもきてもらって、モード・ロッキングに関する論文を出してもらえんかね?」
「はい、もちろんです」と、思わずアーサーは答えてしまった。

えっ、モード・ロッキング?モード・ロッキングって何だ?もしかしてアローがいっているのは、ロック・インと収穫逓増に関する自分の論文のことか?収穫逓増に関する自分の論文を彼が知ってりるのだろうか?

「え-、それで、その研究所はどこにあるんですか?」
「サンタフェだよ。ロッキー山脈の麓の」と、ふたたび自転車にまたがりながらアローがいった。

それから数週間後の1987年5月、アーサーはGeorge Cowanジョージ・コーワンという、ソフトな語り口の人物から電話を受けた。

サンタフェ研究所からだった。
コーワンはまず、アーサーが秋の経済学会議への出席に同意してくれたことに礼を述べた。そして、コーワンと彼の同僚たちはこの会議をとても真剣に考えていると、次のように説明した。

 研究所は小さな私的組織で、物理学者マレー・ゲルマンらによって複雑系の研究のために設立された。
複雑系とは、物質から社会全体まで、強く相互作用し合う部分を多数有するものすべてである。
研究所には教授も学生もいないが、研究所は、可能なかぎり大きな研究者のネットワークを組織することに関心をもっている。そして経済学がまさにその計画の上にある、と。

コーワンは、いま電話をかけているのは、ケン・アローがアーサーを秋に客員研究員として研究所に招くべきだと提案したからだ、とつけ加えた。
 要するに、経済学会議の数週間前に研究所に出向き、その後さらに数週間滞在して駐在研究者と話したり研究したりする時間があるか、興味はあるか、ということだった。

 「もちろんです」と、アーサーはいった。
秋にサンタフェで6週間。しかも出費はすべて向こうもち。断る理由などあるはずもない。それに、そのアカデミック集団に魅了されもした。
アロー、アンダースン、そして今度はゲルマン。
このサンタフェ研究所との関連で耳にした3人目のノーベル賞受賞者だ。
 ゲルマンといえば、陽子と中性子の内部を跳梁する小さな物質「クオーク」というアイデアをひねり出した人物である。
ただアーサーは、このコーワンなる人物が説く「複雑系」がいったいどんなものなのか、依然としてよく理解できないでいた。が、とにかく、興味をそそるには十分であるように感じはじめていた。

「あっ、ところで、あなたのお名前、はじめてうかがったんじゃないかとおもいますが、そちらで何をされている方ですか?」と、アーサーは尋ねた。
 一瞬、間があって、電話の向こうで咳込むような音が聞こえた。
「私が社長です」と、コーワンがいった。

 他方、中沢新一の「経済学とトポロジー」にも似たような場面がある。

「エロティシズム」などの著作で知られるバタイユという思想家は、その晩年に全精力を傾けて、「来るべき経済学」をつくりだそうとしていました。

 私の場合も、目下の関心は経済学にあります。
しかもバタイユと同様に、いま世界中で研究され教えられている経済学には、どこか足りない部分があり、その足りない部分についての探求を深めていくと、経済とそのおおもとになっている現実の経済そのものに、人類の心の生み出す現象としては重大な欠陥が抱え込まれていると考えるにいたって、とうとう経済の現実とそれを表現する経済学には「来るべき別の形態」があるに違いない、と信じるようになっているのです。

 そんなわけですから、企業家と政治家と経済学の研究者を主要なメンバーとするこの研究会(注:新時代戦略研究所(INES)から、あなたが最近考えていることを話してくれませんか、というお誘いを受けたとき、そのシンクロニシテイに私は驚いたのです。「野生の科学」


 この似てにざるシンクロニシティーに、寒心ばかりもしてはおれないのが目下の状況なのでしょう。
そこの何故は関心事となり得る。



みち草・・・「複雑系」

2012-10-30 09:00:00 | アルケ・ミスト
「みち草」に筋書きはない。

メモをもって何を残そうとしているのか?それを読み解くのは必ずしも容易ではない。

 その日の書き始めは「肩楽シー」は誤変換、「カタラクシー」Ⅱなのだが、これは中沢新一「野生の科学」第4章「経済とトポロジー」からの引用である。
 そこで自問自答するその文脈は門外漢にはわからぬものとおもえ、なぜに目を通しているのかと言えば、縄文観の記述が目にとまったからとしておこう。
 その「みち草」で見つけたのが「カタラクシーⅡ」である。

 古代ギリシャ語に由来をもつその言葉は、錬金術とも響き合っていたのだけれども。
彼の言う、エコトポロジーの質的創造とかも、境界上の神話とでもいっても良いのであろう。

 ともかく彼の思考過程の何処かには化学変化があることは間違いなさそうである。


 さて、その懐かしくも楽しい記憶をたずねてみたくなったのは「ソフトマター」ではなくて、「複雑系」。

ピエール=ジル・ド・ジェンヌのノーベル賞記念講演が、複雑流体等を意識してなされた事は知られている。それに呼応したように、その翌年に発行されたのが『COMPLEXITY』

The emerging Science at the Edge of order and Chaos by M.Mitchell Waldrop

『複雑系』である。

 キャッチコピーが奮っている。
なせ、アミノ酸は生命に化したのか?
生命とは何か?進化とは何か?精神とは何か?

全ての鍵は「複雑系」にある!!

 見開きを開けると焦げ茶色の裏表紙に書き込みがある。同じメモでも古いメモはその意味を直ちには自分でも理解しかねるのは可笑しい。

『多は異なり!再考』(More is Different One More Time)1967年
フィリップ ウオレン アンダーソン ⇒ヴィキ ワイスコップ論文「拡張的:固体物理学などのすべて」、集約的な素粒子物理学至上主義への反論なのだ。


 創発性emergenceの概念 トポロジー(渦系 磁束線 ドメイン壁)1975年

 サイズの大きな極限における体系を概念的に考えて、実際の系に立ち戻って考える。⇒「万物の理論」
生命は、非周期的な巨大分子がその構成要素の配列よって情報を伝える。⇒Santa fe Instituteサンタフェ研究所(1984-5)

 更にめくると「複雑系 目次」を覆うように切り抜きの新聞が貼りこんである。

「時のかたち 米沢富美子」『世界中の研究仲間』そこへの書き込みは「気体と固体⇒水」 浜谷 望

 本文は「この原稿が活字になる頃、私は横浜の日吉にある慶應義塾大学理工学部で『液体およびアモルファス金属に関する国際会議』を開催中である。
 1966年に発足した国際会議で、今年は11回目。毎回、約30カ国から200人規模の研究者が参集する。略

 6年前、私は「複雑液体における協力現象」のテーマで、文部科学省から3年間の研究助成を受けた。
日本中の研究者約百人を結集して研究に励み、実験・理論の両方で目覚しい成果を得た。
3年間集中的に取り組めば展望が開けるという哲学を証明した形だ。石の上にも三年か。略

 科学は国境を越え、年齢、人種、性別も越える。仲間が世界中に分散していても共同体と呼ぶのが嬉しい。お互い三年分だけ老いた顔で再会し肩を抱き合うと、三年の空白は即座に消える。科学者になってよかったと心底思う瞬間だ。(物理学者)


 メモも時代とともにあるのであろう。読み解くには考証がいる。

ところで、縄文土偶の首なし時代、その4000年を人類学者は如何に解き明かしてくれるのであろうか?期待したい。




 

みち草

2012-10-29 07:02:21 | アルケ・ミスト
不思議な目覚め、その気体のようなカオスとでも言うべきか、あるいはフラクタルのような定め難いけれども、白紙にも似ていた事が印象的であった。

その白紙に触発されたのであろう、思い出されるのが10月26日、その一日の連なりの不可思議な手帳のメモ。

実は、その前日を予兆としているかのような印象をも受ける。
例えば、好きな蜜柑がなる、小枝を戴いた事などもあるいは無関係とは言えないかもしれない。

 兎も角、その小枝に魅せられて花瓶にいけて見るだけでなく、写真に残そうとすらした。

 蜜柑山は陰地とか限界集落などから、打ち捨てられて僅かに数年もすれば藤の蔓等で覆われてしまうと同時に、若木等が育ってくる。

その「道なきみち」を尋ねんとすれば、満身創痍、藪漕ぎの覚悟がいるのは確かである。




 当日の書き始めは「e-かがく」、つまり医化学のみならず、生化学、さらには生物化学などをも俯瞰してのコロイド観を想定しているらしいのだが、何も骨格が出来ているわけでもない。


 朝の読書では、あの食糧難に飢えていた頃に澱粉を研究していた時に、非炭水化物成分つまり脂質等を取り除くと、その澱粉の性質がすっかり変わることに気がつき、その保護コロイド能力などを知るにいたった報文なども面白かったが、なんと言っても、ランダムに生まれ出る筈の高級炭化水素における、歪な異性体を論じた「化学進化」論は、愉快であった。その含意はおく。

 午後からの講演は丸で教科書的であったのだから復習といえる、けれども退屈させない話術は流石である。
もっとも予習が出来ていない人が多いことは想定されているのであろう。

 その結末では「絆」を英語に翻訳してみせる。
それがボンド、つまり森羅万象をつなぎとめる「絆」だと言うわけだ! 

 夕餉を終えて就寝までのあくまの時間、見るともなく見ていたテレビ番組からは、幕末維新のドラマや言葉が飛び交っていた。
その敵味方をくっつけたのが、これまた膠質ならぬ接着剤が主役であると思わせる熱い語り口である。

 こうして、のりのりの、コロイド状態の一日が終わったのだが・・・・。

 あくる日の目覚めには「臨界の生態」と言う言葉が生まれていた。
それは何やらコロイドの半導体的な触媒機能等とエネルギーギャップ問題等を思い返させるものでもあるか、と感じ入ったしだいであるが、そのままうっちゃっておいた。

 午後から産業革命期の全史を読み込んでいると、何故か昨今と重なって思えるのも可笑しいと、やや自嘲気味になってきてしまったのだ。

 そして今朝の真っ白けな目覚めと、あいなった次第である。
そこで思い出したのが、あの10月26日の講演会なのだ。

 神仏習合の「習」に拘っての一部始終が思い出されたのだ。
学習を重ねていく、その習、予習・復習の習である。

「鳥の羽がうち重なって、黒から白へと変わった。そんなはずはない・・」と語尾が怪しくなって消え入った。その事が何となく印象に残ったのだ。
 ふと気がついて、調べ直してみると、矢張りそうだったのだ。

 つまり色材と光の関係性は真逆の関係にあるのだから、重ねて合わせていけば色材では真っ黒けになるけれども、光では真っ白けになってくるのだ。

 鳥で言えば、烏と鳩が恰も相互変換するが如きとでも言おうか、神と仏の相互学習を重ねていけば、あるいは白が黒くなり黒が白くなることがないとも言えまい。
 まるでゾル-ゲル転移を思わせる関係性が見て取れる。

本地垂迹説ですら背中合わせの関係をもっての、相補てきな関係をもってむすばれているのかもしれず。

 ともあれ、散歩やジョグを楽しむ如く時にはサイクリングの気分で、さらには遠泳してもみよう。
「アルケ・ミスト」のごとくある「みち草」を楽しみたい。そう思ったのが今朝のことであった。

 



参考事項色の三原色

しんかがく 46

2012-07-06 09:00:00 | アルケ・ミスト
割愛された第九章「生命」、「進化」そして「科学の分類」は別の機会にふれるかと、思われる。
                      


最後の摘要を記す。

 ベーコンやスペンサーと同じ位の能力を備えた人でも、科学を充分、分類しようとすれば、専門家の知識を欠いている為、必ず失敗せねばならない。
群を為した科学者達は、遥かに多くのことを果たし得るかも知れないが、その体系すらもが、他の科学に対する一科学の位置が、その発展と共に変化する如く、単に一時的な値を持つに過ぎないであろう。この点は精密物理学と概要物理学によって解説されている。
 私たちはベーコンから、最もよい分類形態が樹枝状の形態であると学んだが、コントからは、科学には実在的に相互依存なるものが存在し、その結果一科学の明瞭な理解には、幾多の他の科学の過去の研究が必要であろうということを学んだ。
 スペンサーからは、抽象的科学と具体的科学、即ち夫々知覚の様式と内容とを取り扱う、ものの基礎的な区別が採用される。
そこで応用数学と生物物理学とに依って、一対づつ結合されている抽象的科学、物理的科学、及び生物学的科学に対応する三つの基礎的分割が発見される。



Karl Pearsonピアスンへと至るイギリスの伝統を概観しておこう。

 動物学者ウォルター・ウェルドンと知り合って生物測定学と進化論の共同研究を行い、またフランシス・ゴルトンにも紹介され、ピアソンはゴルトンの後継者となった。
1904年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにゴルトン研究室が設立された。1907年、死去の直前には大学に遺産を寄贈し、優生学と統計学の教授職が設立された。初代教授には教え子で共同研究者でもあったカール・ピアソンが就任し、エゴン・ピアソン、イェジ・ネイマン、ロナルド・フィッシャーと継がれていった。
 1911年にゴルトンが死んだ後、ピアソンは大部のゴルトンの伝記を著している。ピアソンはゴルトンの希望に従い創設された優生学部の初代教授となり、また応用統計学部も創設して研究を続け、1933年に退官した。

Sir Francis Galton
 ゴルトンにアフリカ探検を勧めたいとこのダグラス・ゴルトンが、フローレンス・ナイチンゲールのいとこと結婚した関係から、ナイチンゲールより大学への統計学講座寄付の相談を受け、後年、自らが実現することになる。
  1859年、いとこのチャールズ・ダーウィンが、『種の起源』を出版したことに刺激を受け、遺伝の問題を統計学で解決しようと思い立ち、研究を開始した。
                                          

Charles Robert Darwin

 ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。
しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている。
 ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンはシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。
 ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。
 ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。⇒ポピュラーな用語「進化」と共に「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、Herbert Spencerスペンサーの造語である。


                                         

Francis BaconNovum Organumノヴム・オルガヌム―新機関』 桂 寿一(訳)、岩波書店(岩波文庫)、1978年(原著1620年)。
人間の陥りやすい偏見、先入観、誤りを4つのイドラ(idola 幻像)として指摘し、スコラ学的な議論のように一般的原理から結論を導く演繹法よりも、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」を主張したもので、近代合理主義の道を開いた(イギリス経験論)。

⇒「化学史研究」37巻2010pp188-190 『F.ベーコン「大革新」の扉絵に描かれているのは入り船である』内田正夫

・・・この絵をよく見てみよう、船の舳先はどちらをむいているだろう、そしてベーコンの科学方法論をよく考えてみよう。
 彼の説く科学の帰納的方法にとって大切なのは、新世界へ“乗り出していくこと”ではなく、新世界から情報や産物を“持ち帰ること”であった。
広い世界へ出かけていくのは手始めに過ぎない。世界中から情報や産物を収集し、それらを本国に“持ち帰”らなければ科学技術発展の土台とはならなに。

 ダニエル書第12章4節は、世界の終わりの時まで神のことばを秘めておくようにダニエルが神から指示される段である。
この文言を引いた「ノヴム・オルガヌム」の本文は、かくもはるばる来た航海を経て世界の終着と諸学の進歩とが同じ時代に入ることが摂理のうちに定められていると述べている。

 

しんかがく 45

2012-07-05 08:42:10 | アルケ・ミスト
第8章 「運動の法則」

摘要 物理学者は、粒子の助けに依って、宇宙の概念的模型を作る。此等の粒子は、知覚的物体の個々の部分の象徴であるに過ぎず、一定の知覚的等価物に類似していると考えられる可きではない。私たちの取り扱わねばならぬ粒子は、エーテル単位、端初原子、原子、分子、及び微粒子である。
 それ等は、私たちの感官印象の連携を、最も厳密に記述するような方法で運動していると考えられる。
この運動の方法が、所詮運動の法則中に総括される。此等の法則は先ず第一に微粒子に応用されるが、屡々すべての粒子にも正しいと仮定される。併せ、機構の大部分が、粗雑な「物質」の構成から生ずると考えるのは一層妥当している。

 質量の正しい尺度は、相互加速度の比率であることが解り、力は運動の原因ではなく、ある便宜的な運動の尺度であると考えられる。質量及び力に関する普通の限定は、運動の法則に就いてのニュートンの記載同様、形而上学的曖昧さに満ちていることが示された。
 力の重畳、及び結合に関する普通行われている記載中に含まれた原理が、原子、及び分子に適用された時にも、科学的に正しいかどうかは、又疑問である。将来の進歩に対する希望は、エーテルの性質と、粗雑な「物質」の構成とのより明瞭な概念の中に掛かっている。                    


① 粒子とその構造
・・・恐らくこの点は未だはっきりと決定されてはいないのだが、エーテル要素の中の運動の一形式が端初原子を構成していると考えられよう。
此等の端初原子、即ちクルックスCrookesの不可分原質は、感官印象の物質的群、乃至普通言えば、粗雑な、或いは感官的な「物質」の究極的基礎の記号でると考えられる可きである。
 端初原子は其れ自身、又さらに適切に言えば、群を為した端初原子は、化学者の原子、即ち水素、酸素、鉄、炭素等の所詮簡単な要素の概念的な実体を形成し、化学者はそれ等の要素の助けを借りて、すべて物理的宇宙に既知の重みある物質を分類するのである。

 物理学者は・・・実体の物理的性質を保ち得るような実体の最も小さな部分を微粒子と定義するのを習慣としてる。微粒子は斯様に純粋に概念的観念である。

読者はこの微粒子の仮説が、ニュートンに依って彼の引力の法則の説明に用いられていることに注意せねばならない。

 既に案内したけれども、これから感官できぬ微細な仮定もんだいであり割愛してしかるべきかと思う。その最終項⑮「ニュートンの運動法則の批判」で終わるのだ。

② 機械作用の限界
 その結語は、これから論じようとしている運動の一般法則が全体として、又単に部分的に、微粒子からエーテル要素に至る物理的概念の全系列に対してあてはまることを読者に思い出させる為、全系列を一所にし、小さな基本単位的物体を簡単に意味する一語、粒子として分類してみよう。
 すると各々の場合、どの観念的粒子法則を適用すると考える可きであるかが尋ねられねばならないであろう。その試みは常に同じものであろうか。
即ち、簡単に知覚の順序を記述出来るような模型を得るには、どの程度迄仮説が必要であろうか?

 中程での議論を記しておこう。
勿論、特に粗雑な「物質」に対する運動の諸様式は其の特殊構造から生ずるものであろうし、すべての運動する事物に適用される法則から導かれるとは仮定されないに違いないことは全く明瞭である。
 例えば、重力、磁気、電気、及び熱と光の吸収、発散等は、粗雑な「物質」に結合される感官印象の様相であるり、其れ故に其等は、粗雑な「物質」に特有の運動様式、乃ち其の特殊構造から生ずる様式に依って記述されねばならない。

⑬ 粒子の踊りに於ける向きの影響
・・・2個の粒子の相互加速度の絶対的大きさは、それ等の粒子が互いに示す向きに依って影響されるであろうか?との自問自答的な展開は、端初原子が渦輪であるとすれば、向きは重要なものになるであろうが、これがエーテル噴出であるとすれば、少しも重要ではないだろう、という具合である。

⑭ 改変された作用の仮説と、運動の総合
・・・原子の構成は考えられるが、---それには改変された作用が本質的に正しい。粘着の諸現象が存在するが、それ等は2個の分子、AとBとの作用が、第三の分子Cの存在の為に改変されると考えずしては記述されることは困難である。---光の放射を記述する為に、エーテルを弾性の膠質として取り扱うとする人々は、改変された作用の仮説が、エーテル単位にも正しいと主張せずしては、その弾力性の構成を概念化するのに非常な困難なことが解るであろう。
 運動の総合としての力の平行四辺形は、かくして、先ず第一に粗雑な「物質」の微粒子にてきようされると考えられねばならない。他の粒子にそれを拡張するのは唯用心深く、又絶えず制限されてのみ、為され得るのである。


⑮ ニュートンの運動法則の批判
 ニュートンの運動法則は、力学に関する大抵の近代論文の出発点を為すものであり、私にはこのようにして出発された物理学は、何百年もの間、栓をして閉じ込められていた壜の中から、形而上学的な蒸気の裏に現れるて来るアラビア物語の巨大な神霊に似ているように思われる。
 霧がすっかり晴れたならば、もっと明瞭にその恰好が見えるだろうが、物質、質量、力等に関する私たちの混乱した観念をはっきりさせる為には、強い風が特別入用なのである。
著者は自分がこの払拭を為遂げ得るとは敢えて考えていないが、物理学の確固たる基礎は、物理学者等が機構とは現象世界の実在ではなく、----即ち其れは単に、私たちの知覚の順序を、概念的に模倣する様式である---と云うことを認識する時にのみ建設され得るものであると云う確信を持っている。・・・・

 彼が単に彼の象徴の概念的価値は、過去の知覚的経験を記述し、将来の知覚的経験を予言する様式であると仮定すれば、彼の位置は難攻不落のものとなる。
何故ならば、彼は現象に就いて、何故にと言うことを少しも主張していないから。併し彼がさうするや否や、運動するものとしての物質、及び運動における変化の原因としての力は、自己矛盾的な観念の地獄の縁に消失して了う。
 運動するものは唯幾何学的観念であり、それは唯概念に於いてのみ運動する。何故に事物が運動するかということは、斯して馬鹿げた疑問となり、事物は如何に運動している、と考えるべきかが、物理学の真の問題となって来る。



→「ヒッグス氏をノーベル賞に「推薦」=ホーキング博士、賭けで100ドル負け」
 【ロンドンAFP=時事】「車いすの天才宇宙物理学者」として知られる元英ケンブリッジ大教授のスティーブン・ホーキング博士は4日、物質の質量の起源となる「ヒッグス粒子」とみられる新粒子が発見されたことを受けて、粒子の存在を提唱したピーター・ヒッグス博士をノーベル賞に「推薦」した。
 博士はBBC放送のインタビューで、「これは重要な結果で、ヒッグス氏はノーベル賞に値する」と絶賛した。
 一方、ヒッグス氏が提唱してから半世紀にわたり、探索が続いたことから、米ミシガン大教授との間で、粒子が発見されない方に100ドルを賭けていたことを明かし、「どうやら負けたようだ」と語った。(2012/07/05-07:46)
⇒正確には粒子と言うよりも、ヒッグス「場」と言うべきであろう。
それは素粒子の「場」でもあるから、ここでの文脈からは「エーテル」と言ってよい。その比喩は水飴のような粘性を指す事となる。

しんかがく 44

2012-07-04 09:00:00 | アルケ・ミスト
第7章 物質

摘要 物質の概念は、物理学者や、「常識的」哲学者連中の著述の中の定義を探した所で、矢張り曖昧であることが解る。それに関する困難さは、概念的象徴の現象的であるが、知覚出来ない存在を主張することから生ずるように思われる。
 感官印象の変化は、外的知覚に対する適当な名称であり、運動とはこの変化の私たちの概念的な記号の適当な名称である。
 
 知覚に関して、「何が運動するのか」及び「何故に運動するのか」と云う疑問は馬鹿げたものだと解った。
概念の領域にあっては、運動する物体は単に記述できる運動を伴った幾何学的な観念に過ぎない。
 ヂユボア・レイモンのイグノラビムスという三つの叫びに就いて云えば、制限された意味に於いて、唯第二のものだけが科学的に価値があり、其の他のものは訳のわからぬものである。と云うのは物質、力、及び「隔遠作用」等は現象的世界の実在的問題を云い表す言葉でないことが解ったからである。

                
                

⑨「完全な流体」、「完全なジェリー」としてのエーテル
・・・一つの暗示として知覚的経験に目を転ずるならば、水がジェリーの根本成分であり、そして、多少膠状の物質を加えたならば、幾分抵抗あるジェリーになる程に硬くなり得ると言うことが解るのである。
 同様の方法に依って、ずれに対する其の抵抗に従って分類される、完全な流体からできている一系列の完全なジェリーを考えることが出来るのだが、其れはあらゆる粘着の諸段階を通って完全な剛体に迄なるのである。
 そこでこの系列のジェリーの中からその一つを選び出すことが出来るが、其れは一定の大きさのズレの歪みにとっては感官的に完全な流体であり、他方もっと小さな歪みの場合には、発光の理論の中に含まれているような、完全なジェリーとして働く所のものである。
 
 これは1845年、サア・ヂョージ・ヂー・ストークスSir George G. Stokesに依って提起された解決であり、エーテルの膠質理論と呼ばれるものであろう。
エーテルの膠質理論は疑いなく沢山の物理的現象に関する私たちの概念を、単純化するに価値あるものであるが、併し其れは端初原子の基礎として未だ研究を要する或るエーテル運動の体系と、果たしてどこの程度まで調和し得るものであろうか?

 此処では私は唯一寸、簡単にしか言及し得ないような別の可能性がある、---即ちエーテルは完全な流体として考えられる可きであるが、このエーテルの運動の一定形式が原子に対応すると同じように、運動の諸形式はエーテルを硬くするため、乃至エーテルに弾性的な剛性を与える為に用いられると云うことである。 
 エーテルは完全な流体であるかも知れない。併し、其の運動が紛糾しているが故に、一定目的の為には完全な膠質として働き得るのである。
この仮説は、端初原子が構成されているかも知れぬエーテル運動に就いてもう少し説明すれば、更に良く理解されるであろう。

⑫知覚的エーテルに関する困難
・・・・・エーテルを概念としてではなく、現象として取り扱うと、連続的な、且つ同一の媒質が、其の諸部分のずれの運動に対してどうして抵抗を現し得るかを理解するに困難なことが解る。
 何となれば連続と同一とは、どんなに移動があった後でも、移動の前と同一であるあらゆるものを包含しているからである。
完全な膠質の観念は、次第に小さな要素が段々と大きく廓大されてゆくに従って、構成上幾分の変化を含んでいるように思われる。最後に、回転の運動とは違った如何なる相対的転移の運動も、絶対的に圧搾することが出来ない、と言う観念に依って拒否されているように思われる。・・・

⑬ 物体は何故運動するのか?
・・・・媒質の弾性に帰しても、何にもならないだろう、というのは、それは一つの事実に名称を付するに過ぎないのだから。事実、弾性の現象は概念的に記述されんと試みられたが、これは唯、“近接せぬ微粒子”、一定の相対的運動と結合される位置の変化から弾性ある物体を構成することに依るのみである。・・・

                                         

 ヂュボア・レイモンのIgnoramus et ignorabimusと言う三つの叫びに就いて言えば、制限された意味に於いて、唯第二のものだけが科学的に価値があり、其他のものは訳のわからぬものである。と言うのは物質、力、及び“隔遠作用”等は現象世界の実在的問題を言い表す言葉ではないことが解ったからである。⇒我々は知らない、知ることはないだろう



第7章の巻頭へとかえる。
 紀元前凡そ500年頃に生まれた、或る古代ギリシャの哲人は彼の教理を概括する「万物は流転する」と言うことばを定言として選んだ。
幾世紀の後ヘラクリトスHerclitosの意味した所を理解することなく、-----彼自身理解していたかどうかは疑問であるが----人は『ヘラクリトスの曖昧屋』と呼んだ。
 併し今日、近代科学が『すべての物は運動の裏に在る』と言う時、殆どHērakleitosヘラクリトスの定言を反覆しているのであると言うことが解る。

 広汎な真理を簡単に摘要したすべての定言と同じく、この近代科学の定言も、誤解されまいとすれば、拡大し、説明されることが必要である。
『すべての物は運動の裏に在る』と言う言葉は、一歩々々、相対的運動の形式に依って、科学が私たちの知覚的変化の経験を、記述出来ることが解ってきたと解される可きである。
 此の運動は、観念的な点、観念的な剛体、或いは歪みの出来る媒体の運動である、其等は、感官印象の実在的世界の符号、即ち象徴として私たちに現れるのである。




余滴 
 本日7月4日、あの欧州原子核研究機構(おうしゅうげんしかくけんきゅうきこう、CERN)から、2011年12月、ヒッグス粒子が「垣間見られた」と発表された。その後の検証結果が発表されます。                              


 
Higgs bosonヒッグス粒子の存在が意味を持つのは、ビッグバン、真空の相転移から物質の存在までを説明する標準理論の重要な一部を構成するからである。あらゆる物質に質量を与えたと考えられる仮説上の素粒子「ヒッグス粒子」を探しているジュネーブの欧州合同原子核研究所(CERN=セルン)は4日、同研究所の大型粒子加速器「LHC」の実験で新たな素粒子を見つけたと発表した。この粒子はヒッグス粒子と考えて矛盾のない結果だが、確定には追加で実験、分析する必要があるという。今年中には結論に至る見込み。

 →ヒッグス粒子は、あらゆる物質に含まれる素粒子の基本理論として1960年代に提唱された「標準理論」で存在が予言された。
  標準理論では、宇宙誕生(ビッグバン)直後、水が氷になるような状態変化「相転移」が起き、ヒッグス粒子が宇宙空間全体に充満したため、質量が生まれた。
  標準理論で存在が指摘された他の素粒子は98年までに次々と見つかったが、唯一未発見だった。
  (素粒子:「ヒッグス粒子」発見か CERN発表 毎日新聞 2012年07月04日 17時05分(最終更新 07月04日 17時13分)

                                                        
                                                                         
                    

しんかがく 43

2012-07-03 09:00:00 | アルケ・ミスト
第6章 「運動と幾何学」

 摘要

 ① 私たちが其の助けを借りて変化を記述し、測定するすべての観念は幾何学的であり、従って実在性な知覚的限界ではない。
それ等は混合様式の運動の下に於ける私たちの知覚的経験の内容を弁別し、分類する形態である。此等の形態の主なるものは点運動であり、剛体の回転であり、歪みである。
 運動は相対的であり、決して絶対的ではないと云うことが解った。例えば一点の運動が如何なる体系に関してかと云うことに触れずして、其の点の運動を説明することは無意味である。

 ② 点運動の分析から、速度と加速度との概念に到達されるものであり、前者は位置が瞬間に変化しつつある場合の適当な尺度であり、後者は速度と其れ自身が如何に変化しつつあるかの適当な尺度である。若しも任意の一位置に於ける速度とすべての位置に於ける加速度とが与えられていれば、運動は充分に規定せられ、又時間の各々の瞬間に於ける行路と位置との理論的に完全な記述が推論され得るのである。

 ③ 運動を結合する一般法則としての平行四辺形の法則は、複雑な運動が単純な運動から作り出される合成の基礎である。


 「知覚の混合様式としての運動」
 私たちが変化・運動・成長・進化等の種々な名前を与える此等二つの様式(時間と空間)の結合は、凡ての知覚が生ずる混合様式であると云われるだろう。
それ故に私たちが、知覚し、思惟する様式を取り扱う特殊部門を除くならば、科学は本質的に知覚の内容の記述として、変化又は変異の記述である。宇宙の精神的形相を書き、その特徴を広い輪郭の中に図表する為に、科学は幾何学的形態の概念を導いたのである。知覚の連携を記述し、宇宙の一種歴史的な図解を形作るために、科学は絶対的時間と共に、変化する幾何学的形態の概念を導いたのである。
 この概念の分析こそ私たちが運動の幾何学と呼ぶ所のものである。

 是等の運動の法則と宇宙の物理学的記述の依存する質量と力の概念とが導かれるのである。

 「知覚的運動の場合の概念的分析点運動」
 概念に於いては、其の男の次第に小さな要素をとってゆく知覚的過程を限界に迄導くことに依って一点に到達される。
そして既に示された男からボタン、数珠玉、幾何学的点に至る諸段階は、知覚的運動の一定の要素が如何にして各々の段階に脱落し、遂に概念に於いて一つの限界として、明らかに容易に記述できるような観念的運動に到達するかと言うことを示している。

 観念的な点運動の記述は・・・・回転運動の記述に依って補われるべきである。位置の変化に対応した運動の最初の形式は、転移運動と言われ、剛体の向きの変化に対応した第二の形式は、回転運動と云われる。

 「概念的運動の要素」
 私たちは階段を昇ってゆく男から出発し、その分析の結果、其の男の運動の概念的記述には次の事が論じられねばならぬということが解った。
イ) 一点の運動
ロ) 定点を回る剛体の運動
ハ) 一物体の諸部分の相対的運動、即ち歪み。
此等は運動の3大分類であり、即ち運動の幾何学なのである。

 読者の注意を引く為に引用された運動の三形態に就いて言うと、最初のもの、即ち点運動は私たちの現在の目的に最も重要なものである。其れ故、此の章の残りが其の議論に捧げられるであろう。

 「点運動、位置と運動の相対的形質」
 運動は位置の変化と考えられて来たが、若し点の位置を表そうとするならば、私たちは何か其他のものに関して矢張り表すようにせねばならない。・・・・
相対的な位置が測定される可き“関係の原点”・・・“極”“方位”“関係の枠”等に触れてから、太陽と地球の運動の相対性と遊星体系の対称とが多くはそれを知覚する立場如何に依ると考えられることの理解をすれば、特殊な記述の一様式であることが認められる。

 「位置、行路の図形」
 ここではメトロポリタン鉄道の概念的な地図が示されて、各停車場を結ぶ関係性の幾何学的な諸注意を与えている。
即ち、運動・移動・速度・回転・加速度等の概念は距離として表すことが出来、平行四辺形の法則に従うと見られるといこと。

 「時間図表」「勾配と傾斜」「傾斜としての速力、速度」
「速度図表、即ちホドグラフ、加速度」hodographホドグラフの名前は曲線が“行路の記述”ではなくて、“道程に於ける運動の記述”であり、寧ろホドグラフうよりもキネシグラフであるから、余り具合良く選ばれたものではない。

 「スパート及び分路としてのAcceleration加速度」「Curvature曲率」「曲率と正常加速度間の関係」

 「運動の幾何学に於ける基本的命題」
 私たちの得た結果を再びのべてから、今や一,二重要な結論を導く可き場合になった。
・加速度はスパートと分路とから構成されている。
・スパート加速度は運動の方向に生じ、そして速力の増大される、(又は減少される)割合に依って測定される。
・分路加速度は運動の方向に垂直に生じ、曲率と速力の4率角形の結果から測定される。
・此等の2種類の加速度は普通速力加速度と正常加速度と呼ばれている。

此等の結果から次のように結論する。
① 一点は、加速されなければ、加速度の測定される関係の与えられた枠に関して、均一の速力を持った直線を書く。
② 一点が与えられた行路を動くようにされている時、正常加速度は、各々の位置に於ける速力と行路の形態、即ち其の曲率、又は彎曲に依って決定されるであろう。
③ 一点が与えられた平面上を自由に運動する場合、任意の一位置に於ける其の速度と、すべての位置に対する其の加速度が知られていれば、其の運動は理論的に決定される。

 順序の図表と、時間の図表とが知られていれば、運動は完全に記述できることが解った。 そこで、次のように結論される。
任意の位置に於ける一点の速度と、すべての位置に於ける其の点の加速度とが与えられていれば、其の点の運動は充分決定される。・・・・
 私たちは其のいづれもが他のものから導かれるが、其のいずれも運動が何故生じるかを説明することもなく、又唯物論者の言う意味に於いて運動を“決定する”とも言い得ないような運動を記述する二つの異なった様式が取り扱われているのである。

 「運動の相対性、単純成分からの其の総合」
 割愛。
此等の三要素、位置、速度、及び加速度は物理的宇宙から還元された微粒子の観念的ダンスに於いて、又其の助けを借りて私たちの感官印象を記述し、仮定する彼の原子のワルツに於いて如何に相互に関係しているのだろう?・・・



しんかがく 42

2012-07-02 09:00:00 | アルケ・ミスト
第5章 空間と時間

摘要
① 空間と時間とは、現象世界の実在性ではなく、私たちが事物を分離して知覚する様式である。
それ等は無限に大きくもなく、又無限に分割されもせず、本質的に私たちの知覚の内容に依って制限されている。

② 科学的概念とは通常知覚から出発されるが、知覚に於いて結論までは導かれ得ない所の過程に対して概念の中に引かれた限界である。
幾何学及ぶ物理学の概念の歴史的起源は、斯のごとく跡付けられる。
 幾何学的面、原子、エーテルのような概念は、科学に依って現象の内部、或いは、背後に実在的存在を持っていると主張されはしないが、現象の相関関係と連携を記述する速記的方法としては有効である。
 この見地からすれば、概念的空間と時間とは容易に理解し得るものであり、その観念的無限性と永久性とを知覚の実在的世界に投射する危険は無くなるのである。

概要
 未開人にとって、外界の始まりは、自我の限界は疑いもなくその皮膚である。と説き起こし・・・人間は単に個人主義的な傾向によってではなく又社会主義的、群生的傾向の故に現在のような高い発展段階に到達したのである、云々と説いている。 

 「空間の無限分割性」では、知覚から概念への転移と、又其の逆とが数回に亘って為されている。
数学的に限定された点は概念であり、知覚の領域に於いては、何等実在的存在を持つものではない。
・・・今の所、ヒュームが、同時存在をなす現象を分類し、記述する速記的方法である延長の幾何学的理論を、恰も其れ自身現象世界であるかの如く考え、眼から想像へ、数学的なものから物理的なものへ、空想から感覚へと推移させたことに注意すれば十分である。

 「概念と知覚」では、今や此の段階に当たって、重要な言葉が言われるべきである。
即ち、知覚できないものは、其れ故に考えられないものではない、と言うことである。
 此の言葉は、ヒュームの健全な懐疑説に対して直接反対していると思われるが故に、益々必要なものである。而も、其れが真理でない限り、厳密科学の全組織は地に堕ち、幾何学の概念も、機械学の概念も、共に無用なものとなるであろう。

 物理学者は決して其の原子、分子を知覚可能なものと仮定してはいない。科学は現在の所、此等の概念が唯思惟の圏内にのみ存在し、純粋に人間精神の産物えあると見ることを以て満足している。

 「物体の概念的不連続性、原子」まで、とぶ。
私たちが諸現象を、物理学と化学の広範な法則の中に取り入れるのは、物体と呼ばれる感官印象の複合物の群を、概念の中で不連続的体系---粒状又は星状体系と呼ばれるような----の運動に直接かかっている単簡な要素に帰すると言うことに依ってのみ出来たのである。
 物体の究極部分の相対的運動は不連続性の観念をも含めて近代科学の基礎的概念の1つである。
此等の物体の究極部分を、私たちは通常原子と呼んでいる。同一物体に於いて、星の宇宙に於ける遊星系の如く一見幾度も反復される原子の群は分子と呼ばれる。

 一般に解釈されている物体の原子論、又分子論は、本質的に物体の不連続性を仮定している。・・・・ここでは唯読者に、原子と分子とは、現象記述の複雑さを甚だしく減少させる概念であると見ていただきたいと思うのであうる。

 物理的概念も、幾何学的概念も誤っているいるに違いないと思われるかも知れない。だが事実、あらゆる困難は、物体をば私たちの知覚的能力に依って左右されない客観的実在と考えるようにしてきた習慣の中にあるのである。

 「概念的連続、エーテル」
 今や読者には、若し現象世界の実在に対応すれば、互いに矛盾し合うであろう科学的概念を会得する用意が出来たであろう。原子の観念を以て物体の連続を破壊してしまつたので、一寸見ると私たちの概念的空間は根本的に、知覚的空間と違ったものであるかのうように思えるかも知れない。

 併し此処で物理学者は私たちに新し連続を持ち込ませたのであうる。
此の新しい連続がエーテルというものであり、物理学者が、物体間及び物体の原子間の間隙を満たすと考えた媒質である。

 或る人の心にエーテルが空気のような実在的概念に思われると言うのは事実であるが、恐らく其れは一般に定義の問題である。
例えばヘルツHerzの実験は、私にはエーテルの知覚的存在を未だ何等論理的に証明したものとは思えないが、実験に依って今迄証明されて来たよりも更に広範な知覚的経験の範囲が、エーテルという名称に依って記述されるだろうと云うことを示すことに依り、科学的概念、エーテルの有効性を無限に高めたものとは思えるのである。

 「科学的概念の一般的性質に就いて」
 科学者にとっては、原子もエーテルも----幾何学的空間と同様----其の助けに依り感覚世界を摘要する様式である。
彼は感覚の背後にある“物其れ自体”と云う幽霊のような世界をば、形而上学者や唯物論者の遊戯場として打ち棄てて了う。・・・科学者は勇敢に感官印象の背後には実際何かが“あり”得るにしても、何があるかを知ることは出来ないと主張する。・・・・原子、エーテルは彼にとり、彼の思惟を節約することを続ける限り有効な観念である。

 「知覚の一様式としての時間」
 空間と時間とは性質の非常に類似しているもので、若し空間が幅だと言えるならば、時間は知覚の場の長さだと言い得るであろう。

 その二様式の結合、或いは時間の変化に伴う位置の変化は、運動、即ち現象が概念に於いて私たちに現れる基礎的方法である。・・・・・
時間は知覚の内部的様式だと言われて来た。併し少し考察を加えれば此の差異が余り有効なものでないことがわかる、----其れは丁度、外部的、内部的と言う言葉に基礎を置く差異と云うものが嘗てあり得なかったと云うのと同じである。

 「空間、時間に関する結語」
 知覚的空間と時間とは、私たちが感官印象の群れを弁別する様式であると認め、又無限性と永久性とは概念の産物であり、現象の実在的世界の現実ではないと云うことを把握した読者は、此等の見解から発して、実践的、精神的生活のいずれにとっても重要な結語を喜んで認めるであろう。
 若し個人が空間と時間とを自己の知覚様式として持回っているとすれば、奇跡の領域は現象の外部的機械的世界から個人の知覚的能力に移されることがわかる。此の知識は本来、そうした迷信の再発に就いての私たちの観念を、降霊術、接神術として片付けるのに少なからざる利益である。

 実際私には、時間と空間とを知覚様式として明らかに理解することに依り、多くの迷信と曖昧との状態が消えて無くなり、一方知識の範疇の適用される領域が鋭く限定されると云うことがわかるように思われる。



余滴
⇒1870年から4年間心霊現象の研究をしている。Sir William Crookes(1832-1919)サー・ウィリアム・クルックス
⇒1861年タリウムの発見、1874年には陰極線は陰電気粒子であることを確認、1876年物質の第4状態説、1879年微小な電気粒子、1900年にはウラン塩中よりウランxを分離。

しんかがく 41

2012-06-29 11:13:15 | アルケ・ミスト

Karl Pearsonイギリスの数理統計学者、優生学者で、記述統計学の大成者である。


University College London, UCLユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの応用数学教授となった。彼の講義は夏目漱石も聞いたと言われている。また「道後ゆかりの伊藤博文」も、ここに学んだ。


彼の統計学における主な業績には次のものがある。
線形回帰、相関とピアソンの積率相関係数:彼はゴルトンによる「平均回帰」データを用いて数学モデルを構成し、以後これらの理論の発展に中心的役割を演じた。
確率分布関数の分類:以後の統計学理論の基礎となり、特に指数型分布族は一般化線形モデル理論の基本となっている。
ピアソンのカイ二乗検定:カイ二乗検定のうち最も基本的なものである。
ヒストグラムという語を創案した。[



「ビジネスは科学たりえるか-漱石の自己本位に学ぶ-」筑波大学大学院ビジネス科学研究科経営システム科学専攻 椿 広計


 科学の文法を第2 版翻訳本に従って要約する。

 1章「序論:科学の範囲と方法」 科学の適用範囲は、知識のあらゆる部門における真理を確かめることである。科学の正当な領域外に研究分野はない。科学と哲学の分野に区別
をするのは、迷妄である。科学的方法は、特定の段階に従う。
1)諸事実の周到かつ精確な分類、これらの事実の相関関係の観察。
2)想像力の支援に基づく科学的法則の発見。
3)自己批判や正常な精神に対して妥当性を持つか否かの検証。

 2章「科学にとっての事実」 直接的印象と、蓄積された
 印象の結合が「構成物」を形成し、それを「自我の外」へ射影したものを「現象」と呼ぶ。実在の世界とは、この「構成物」であり、物自体ではない(この点は、漱石には支持されたが、唯物論者とりわけレーニンには批判された)。
 印象の機械的、精神的結合を通じて、我々は「概念」を形成し、推論を行う。これらが、科学の扱う「事実」である。印象から生み出されたものではないものを「知識」と呼ぶのは無意味であり、印象から生成されてはいないものを「概念」とし、形而上学的命題に適用するのは無意味である。

 3章「科学的法則」 科学的法則は我々の印象の連繋を広く簡便に記述したものである。

 4章「原因と結果:確率」 原因という用語は、知覚の順序の先行性を示すために用いる。知覚の領域における証明は、確率が高いことを通じて、信念を形成すること。「知る」は、概念に対して、「信じる」は、知覚に対して用いる。


 5章から8 章は、それぞれ、「空間と時間」、「運動の幾何学」、「物質」、「運動の法則」と題され、物理学や幾何学について批判的検討がなされている。
空間と時間とは、現象世界の実在性ではなく、我々が事物を分離して知覚する様式であるとし,この後、古典力学批判を展開し、それらの原理が、原子、分子レベルで成立する保証はないと述べている。

 なお、当時「科学の文法」を勉強した研究者は多く、アインシュタインも1902 年に友人ら4 名とこの第2 版を読んでおり、1940 年のアメリカ科学者会議での講演冒頭で「科学とはわれわれの感覚による経験の混沌とした多様さを,論理的に整合な一つの思考の体系に対応させようという試みに他ならない(アインシュタイン選集、湯川秀樹他訳より)」と述べている。

ここでは、5章から8章までについて概観していく。