
だれにとってもはじめはいつもちょっとしたショックだった。
そこではいっさいの固定観念が打ち破られていた。
そこには、特権や名声やノーベル賞を手にした年配の学者たち----などというと、現状に独善的に満足しているような学者連を想像してしまいそうだが----がつくった団体があった。
彼らは、自称「科学革命」を促進する舞台として、そこを使っていた。
そこは研究施設があって、かつての核兵器の秘密基地、あのロス・アラモス研究所出身の生粋の物理学者やコンピュータの達人がうようよしていた。
だが廊下は、「複雑性」という新しい科学についての活発な話題であふれていた。
その科学はいわば「大統一全体論」であり、一方は進化生物学から他方は政治、歴史といったファジーなものまで、全領域を相手にしていた。
もちろん、われわれがもっと持続可能な、そしてもっと平和な世界を建設できるように、ということである。
要するに、ここに絶対的なパラドックスがあった。
というのは、たとえばこのサンタフェ研究所をビジネスの世界に置いて考えるなら、その図式はちょうど、IBMの研究所の所長が会社を去り、自宅の車庫でニューエイジ風の小さなカウセリング会社を創業し、ゼロックスやGMの会長に仲間に加わるように呼びかけているようなものだったからだ。
サンタフェ研究所をいっそう際立たせているのは、この図式の中の創業者----もとロス・アラモス研究所の研究部長、ジョージ・A・コーワン----が、どう見てもニューエイジ的ではないということだった。
齢は67歳、ソフトな語り口の控えめな人物で、見ようによっては、マザー・テレサがゴルフシャツの上にボタンをはずしたカーディガンを掛けているようだった。
彼はカリスマ性とは無縁だった。
どんな集まりでも、たいてい端のほうで耳を傾けていた。またけっして人を高揚させるようなレトリックでなる人物でもなかった。
彼に、なぜ研究所を組織したのか、などと尋ねようものなら、だれもが、21世紀の科学の姿とか、科学的好機をとらえることの必要性、といった高邁な議論----「サイエンス」誌のまじめな特別論説としてそのまま使えそうなもの----につきあうはめになった。
実際、コーワンが内に燃えるような決意を秘めた人物であることを聞き手が理解しはじめるまでには、かなりの時間がいるだろう。
彼はサンタフェ研究所がパラドックスだとは少しも思っていなかった。
サンタフェ研究所は一つの目的を具現化するところであり、その目的は、ジョージ・A・コーワンより、ロス・アラモスより、ロス・アラモスがもたらしたすべての出来事より、さらに研究所それ自体より、ずっと重要であると彼はみていた。
もし今回事がうまく運ばなければ、そのときは20年先にだれかが最初からやり直さなければなるまい、彼は何度となくそういった。
コーワンにとってサンタフェ研究所は伝道団だった。コーワンにとって、それは科学全体が一種の贖罪ないし再生を成しとげる機会だった。
いまとなっては遠い昔のように思えるが、理想に燃える若い科学者がより良き世界のためにと核兵器の創造に身を捧げたとしても、なんの不思議もない時代があった。
ジョージ・コーワンはそのような献身を少しも後悔してはいない。
「ずっと考えつづけてきた」と、彼はいう。
「でも道徳的には後悔していないかって?いや。たとえば核兵器がなかったとしても、生物兵器や化学兵器で、もっとずっと破壊的な道をあゆんでいたかもしれない。過去50年の歴史は、1940年代というものがなかったとした場合より、ずっと人類に優しいものだと思う」
実際、当時核兵器の研究はほとんど1種の道徳的至上命令だったと彼はいう。
もちろん大戦中コーワンと同僚科学者たちは、ナチス・ドイツとの死に物狂いの闘いの中にあった。
ナチスは、依然として世界でもっとも優れた物理学者を何人か抱えており、後で誤りであることがわかったものの、原子爆弾の設計で先んじていると思われていた。
「われわれがうまくやらなければ、ヒトラーが原爆を手にする。そうなったら最後、そういう情況だった」
じつはマンハッタン計画が存在する前から、コーワンは原子爆弾の開発に心を奪われていた。
1941年秋、故郷マサチューセッツ州ウスターのウスター工科大学化学科を卒業したばかりの21歳のとき、彼はプリンストン大学のサイクロトロン計画に参加した。
そこでは物理学者たちが、新しく発見された核分裂過程とウラン235として知られるアイソトープの核分裂効果について研究していた。
彼の意図は、併せて物理学の修士課程を専攻することだったが、1941年12月7日、研究所が突然週7日の研究態勢に入ったその日から、まったく見通しが立たなくなった。
当時でさえ、ドイツは原子爆弾の開発に取り組んでいると恐れられていたから、物理学者たちはそのようなものが本当に可能かどうかを知ろうと躍起になっていたという。
「われわれがやっていた測定は、ウランで連鎖反応を実現できるのか否かを判断するのに絶対不可欠なものだった」と、コーワンはいう。
答えはイエスだった。
だから連邦政府は、コーワンが軍の任務につくことを大いに必要としたのである。
「化学と核物理学というあの特別な組み合わせによって、私は原爆開発計画に必要ないくつかの問題の専門家になった」

他方で、ユング「千の太陽よりも明るく」の記述は興味深い。
1940年6月末前は、原子研究のためには1銭も国家から支出は望めなかった。それどころか、この「見込みのない計画」に対する批判の声はどんどん高まっていった。
1940年3月7日付けの2回目のアインシュタイン書信は、「戦争開始以来のドイツにおけるウランへの関心の強まり」を指摘したものだったが、これとてほとんど役に立たなかった。
ようやくイギリスの原子研究が立派な進歩を見せているという報告がアメリカに入るにおよんで、政府筋の関心も再び活発になって来た。
すなわち1941年7月のトムソン委員会の覚書がイギリスの研究にもとづいて、「原子爆弾が戦争終結前に製造され得る見こみがかなり有望になっている」ことを確認したのである。
こうしてついに1941年12月6日、奇しくも日本がパールハーバーを攻撃し、アメリカが公式に参戦した日の前日、原子兵器の製造のために真剣な財政的および技術的努力をするという、永年ためらって来た決定がなされるにいたったのであうる。
1941年、ほんの数週間前にドイツから逃亡して来た化学者ライヘが、プリンストンに着いて、ドイツの物理学者たちは今までのところ原爆の研究をやらなかったし、またドイツの軍部当局をこのような可能性から眼をそらすように今後もできるだけ努力するだろうと報告した。

ではなかったかと思われるが、あのボーア夫妻との有名な場面がある。それが1941年の9月頃のことであったはず。
つまり彼、ハイゼンベルグの眼に原子爆弾(製造)への見通しを得たのはこの頃であった。
そして、ドイツ教養主義市民自覚のなせる性であろうか、その事の道徳、倫理問題を師に尋ねたのだが、ボーアの妻マーガレットは「誰がなんと言おうとも、これは敵の訪問でした」との結末と相成った。
2人の友情は、再び元へと復することはなかったのだ。
しかしチャドウィックの証言によれば、2年後になってもボーアは軍事的可能性はないものと信じていた。
のみならずその後の彼の軌跡に見るように、ハイゼンベルグを信じていた節を見て取れる。
内容(「BOOK」データベースより)
アメリカ物理学会賞受賞!量子力学を確立した20世紀物理学の巨星の波乱の生涯と科学の真髄を描きつくす。