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みち草・・・・「複雑系」

2012-11-14 09:00:00 | アルケ・ミスト
 この行き詰まりを打開したのはマレーだった。
粒子物理学界の55歳のきかん坊、カリフォルニア工科大学のMurray Gell-Mannマレー・ゲルマン教授である。

じつは8月17日の会合の約1週間前に、ゲルマンがコーワンに電話をかけてきていた。
パインズから研究所構想の話を聞いた。すばらしい考えだ、自分はずっとこういったものをやってみたいと思っていた、とゲルマンはいった。
 古代文明の消長、この文明の長期的な持続可能性、学問分野を大きく超越するそういった問題にぜひ取り組みたいと思っていたが、これまでのところカルフォルニア工科大学ではまだ何もはじめてはいない。
 だから次回ロスアラモスに出向いたとき、研究所の議論にぜひ参加させてくれないかと、ゲルマンはいった。(ゲルマンは1950年代以降、ロス・アラモス研究所のコンサルタントをしていて、しばしば研究所にきていた)。

 コーワンは自分の運の強さが信じられなかった。
「ぜひとも、いらしてください!」もし頂点に属するような人間がいるとするなら、それはマレー・ゲルマンにほかならなかった。
 ニューヨークで生まれ育ったゲルマン。
黒縁の眼鏡とクルーカットの白髪が、どことなく、丸ぽちゃのヘンリー・キッシンジャーを思わせる。がむしゃらで、才気縦横で、チャーミングで、饒舌だ。
 いうまでもなく、不遜なまでの優等生を通してきたのだ。
カリフォルニア工科大学といえば、辛口で知られた物理学者、故リチャード・ファインマンが、ベストセラーになった回顧録に「ご冗談でしょう、ファインマンさん!」というタイトルをつけたところだが、ゲルマンだったら自分の回顧録を「なるほど、今度もおおせのとおり、マレーさん!」とするにちがいないと、この大学で噂されていた。
 ごくまれにだが、思いどおりにならなかったとき、ゲルマンはとても子供っぽくなることもあった。同僚たちは、ゲルマンが下唇を突き出してふくれっ面をしているのを何度か目撃してきた。

 だがゲルマンは、まちがいなく20世紀の科学界の中心人物の1人だった。
1950年代のはじめに若き博士として科学の現場に立ったとき、亜原子の世界はどうしょうもない混乱状態にあった。
 π中間子、∑粒子、ρ粒子、等等、無秩序に付されたギリシャ名の無数のリスト。しかしそれから20年後、主としてゲルマンが切り開いた概念により、物理学者たちは粒子間のすべての力を統一する大統一理論を頭に描きながら、ごたごたした粒子群をquark「クオーク」として確信をもって分類しつつあった(クオークの名は、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に出てくるある造語にならってゲルマンがつけたもの)。

 ゲルマンと二十年間つきあっているある理論物理学者はいう。
「マレーは粒子物理学の研究の中心を定めて、一時代を画したんだ。マレーが考えていたことは、ほかのだれが考えていてもおかしくないことだった。彼は真実がどこにあるかを知っていて、そこへ人々を導いたんだ」
 
 しかし陽子と中性子という内なる世界にこの三〇年没頭してきたとなれば、ゲルマンは、コーワンの科学的ホーリズムというヴィジョンにとって少々厄介な兵力のようにみえた。
 いまさらまた還元主義というわけにもいくまい。が、じつはゲルマンの関心は多様だった。
彼は雑食的好奇心につき動かされていた。たとえば、飛行機に乗ると隣の人間に話しかけ、何時間にもわたって相手の身の上を尋問することで有名だった。
 彼と科学との最初の出会いは好きだった自然史を通してだったが、自然史を学ぶきっかけは、五歳のとき、兄がマンハッタンのいろいろな公園に連れていってくれたことだった。
 「過剰に伐採されたベイツガの森、それがニューヨークなんだとわれわれは思った」という。以来彼は熱心なバードウオッチャーであり、また自然保護論者だった。事実、ジョン・D・アンド・キャサリン・T・マッカーサー財団の「世界環境資源」委員会の議長として、シンクタンク「世界資源研究所」の創設に手を貸したり、熱帯林保護運動に深くかかわっていた。

 またゲルマンは、心理学、考古学、言語学にも惹かれていた8エール大学では物理学を専攻したが、それは単に父を満足させるためだった。父は、考古学を専攻したら食べていけない、と心配していた)。
 だから、外国の科学者の話をするとき、彼は忠実なほど正確なアクセントでその名前を発音する。このことである同僚はこう回想している。
近いうちにアイルランドの妹のところにいくつもりだ、と彼はゲルマンにいった。
「妹さんの名前、何ていうの?」
「ギレスビーだ」
「それ、どういう意味?」
「えー、ケルト語で、司教の僕、だったと思うが」
ゲルマンはちょっと考えてからいった。「いや、そうじゃないよ。中世のスコットランド高地のゲール語で、司教の敬虔な信奉者、みたいな意味だ」

 ロス・アラモスではまだだれも知らぬこととはいえ、ゲルマンはその言語能力を使って効果的に人を説得することができる人物だった。
「マレーは臨機応変、その場で人を鼓舞するような話をすることができる。まあチャーチル的ではないだろうが、話の明晰さ、華麗さには圧倒されるよ」と、カラザズはいう。
 実際、研究所の議論にゲルマンが加わるやいなや、彼の幅広い基盤の研究所構想に大半の上級特別研究員が賛同し、メトロポリスとロータのコンピュータに焦点を絞った研究所構想はたちまちのうちに影をひそめた。


 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-13 09:00:00 | アルケ・ミスト
 しかしコンピュータ科学は、それよりはるかに進んでいた。
とくにロータは、コンピュータ科学が心の研究----思考も情報処理も基本的には同じものという考えに基づく研究----にまで及んでいるといった。
 認知科学としても知られるこのホットな分野は、日に日に注目されつつあった。
うまくやりさえすれば、脳の中のニューラルネットワークを詳細に研究している神経科学者、瞬間瞬間の高度な思考と推論のプロセスを研究している認知心理学者、そういった思考のプロセスをコンピュータでモデル化しようとしている人工知能研究者、さらには人間の言語構造を研究している言語学者や人間の文化を研究している文化人類学者、などの才能が、それによって一つに結びつく。
 だからそれはコーワンの研究所でやるに値する学際的なテーマだ、そうロータとメトロポリスはいった。

 さらにもう一人、客員のデイヴィッド・パインズがいた。
彼は1983年の夏にメトロポリスの呼びかけでこの議論に加わるようになっていた。
 イリノイ大学出身の理論物理学者であるパインズは「現代物理学レヴュー」誌の編集員で、ロス・アラモス研究所理論部門の顧問委員会の座長をしていた。
 加わってみれば、彼もまた科学の大統合というコーワンのアイデアに強く共鳴する一人であることがわかった。
というのも、1950年代の博士論文からはじまる彼自身の研究のほとんどが、多くの粒子からなるシステムの「集合的な」挙動(たとえば、ある種の大質量原子核の振動モードから液体ヘリウムの量子流まで)を、革新的な方法で理解することに向けられてきたからだった。
 パインズは、同様の解析手法により、組織や社会における人間の集合的な挙動がよりよく理解できるようになるかもしれないと活発に発言してきたことでも知られていた。
 「もともと私にはそんなふうに考えるたちがあった」と、彼はいう。
だからパインズも、コーワンの新研究所構想に喜んだ。
 また彼自身、イリノイ大学の高等学術研究センターの創立所長だったり、コロラド州アスペン物理学センターの創立者の一員だったりで、そういう方面では少なからぬ経験を有していた。

 がんばろう、とコーワンにいった。
構想を進行させようと、彼ははやった。「有能な科学者たちが集まってまったく新しいことを話し合うというのは、いつもとても楽しいもんだ。研究所を一つつくるというのは、よい科学論文を書くのと同じくらい楽しい」と、パインズはいう。

 と、まあ、こんな具合だった。彼らは上級特別研究員たちは新研究所構想に胸躍らせた。
ときには、はしゃぎすぎ、といったほどに。

たとえば、自分たちは「新しいアテネ」----ソクラテスやプラトンやAristotelesアリストテレスを生み出したあの都市国家と同類の知の探求のためのセンター----をつくろうとしているのかもしてない、などと考えて、全員がひどく興奮した日もあった。
 もちろん彼らは、もっと現実的なレベルで、多くの問題について意見を交わしもした。研究所の規模はどのくらいがよいか?学生数はどのくらいか?いや、学生を入れるべきか?常勤研究者を有すべきか、それとも交代制にして、終われば各自の研究所に戻るようにすべきか?
 こうして徐々に、またいつのまにか、この架空の研究所は彼らの心の中でより現実的なものになりはじめていた。
 
 が、不幸にも、たった一つ問題があった。それが、みなちがったことを想い描いていることだった。
 「毎週、堂々めぐりだった」と、コーワンはため息をつく。
もっとも深刻な争いの種が、もっとも基本的な問題だった。何についての研究所であるべきか?

 メトロポリスとロータは、もっぱらコンピュータ科学に焦点を合わせるべきだと考えていた。
彼らはいった。なるほど大「統合」は結構だ。しかし、だれ一人それを明確に定義できないとなれば、だれかに四億ドルを投資してもらおうなどというのは、望むべくもない。
 たとえばニューヨークのロックフェーラ研究所のような規模の施設に資金援助するとき、あなただったら何が必要かということだ。
もちろん、いずれにしてもその種の金を調達するのは容易ではない。しかし少なくとも、もし情報処理と認知科学に焦点を合わせていれば、ジョージがいっているようなことの多くが実現されるだろうし、たぶん、新世代のコンピュータ億万長者の一人から資金をもらうことも可能だろう。

 一方カラザズ、パインズら、おおかたがこれに異を唱えた。
なるほどコンピュータは結構だ、そう彼らは思った。また金に関しても、メトロポリスとロータがいうとおりだった。だがなんたること、またもやコンピュータ研究センター?そんなことで本当にだれかを夢中にさせられるだろうか。
 研究所はそれ以上のものでなければならない----たとえそれがどんなものかを彼らが正確に言葉にできないにしても、まさにそれが問題だった。
 上級特別研究員のダラー・ネイグルが指摘するように、「われわれは、新しい道をうまく定義してなかった」。
しかし彼ら全員が、いま何か新しいことが起ころうとしているというというコーワンの意見は正しいと感じていた。しかしまた、だれもが「新しい思考方法」についてただ漠然と話すだけだった。

 コーワンはというと、この問題に関して態度を鮮明にしなかった。
彼は自分の〈立場〉をわきまえていた。
 個人的には「生存技術に関する研究所」と思い描いていた。そして彼にとってそれは、可能なかぎり広範なプログラム、可能なかぎりひもつきでないプログラム、を意味した。が、同時に、研究所の方向性に関してコンセンサスをとることの方が、金やその他のもろもろの細かいことより、はるかに重要であると確信していた。
 もしその研究所がワンマンショーのようなものであれば、どうにもなるまいと感じていた。
管理職として三〇年、こうしたことを実現させる唯一の道は多くの人間を夢中にさせることだと、彼は確信していた。
 「これが重要なことであることをとくに優れた人間にわかってもらう必要がある。ちなみに、私は民主主義のことをいってはいない。0.5パーセントの上層のことをいっているのだ。エリートのこと、それがやれたら、金なんて----まあ容易ではないが----たいした問題はない」と、コーワンはいった。

 それはまるでスローモーション・ビデオで見る議論のように、遅々として先に進まなかった。
というのも、全員がそれぞれの研究プロジェクトに勤務時間を超えて取り組んでいたからだった。(とくにコーワンは、太陽ニュートリノの検出実験に没頭していた。太陽ニュートリノとは、太陽の中心部から放出されるほとんど目に見えない粒子である)。 
 だが永久にそんなことをしてはいられない。
1983年8月17日、コーワンは管理棟の4階会議室の一つに彼ら上級特別研究員を招集し、いまや真剣に考えるべき時期である、と促した。併せて、彼の友人夫妻が研究所のキャンパス用に50~100エーカーの土地を提供してもよいと申し出ていることを明らかにした。しかし彼らは、とにもかくにも研究所が何に関するものかをどうしても知りたがった。
 前進なし。
彼らは友好的ではあったが、かたくなに二つの陣営に分かれていた。会議は少しも解決への兆しを見せないまま終わった。もっとも、おそらくこれは幸いなことだたにちがいない。
コーワンに土地の提供を約した夫妻が数ヶ月後に離婚し、申し出を撤回したからだ。とはいえコーワンは、この先話がうまくいくのかどうか考えねばならなかった。
 






みち草・・・・「複雑系」

2012-11-12 09:00:00 | アルケ・ミスト
 外部からは、上級特別研究員たちは、高い給料で窓際に追いやられた年寄りの変人集団として簡単に片付けられてしまいそうだ。
実際、外部には、彼らはそんなふうに映っていた。
 このグループは、長いことロス・アラモスでやってきた6人からなっていた。
彼らは、コーワンと同じように、研究所にも多大な貢献をし、管理上の雑務や煩わしい対官僚業務をせずに研究に専念できる地位を与えられていた。
 グループとしての唯一の義務は、1週間に1度カフェテリアで昼食をとり、さまざまな政策的問題に関して、ときおり所長に進言することだった。

 だがこの上級特別研究員たちは、じつは驚くほど陽気な一団だった。
新しい地位には、「有り難い。これでようやく本当の研究がやれる」といった具合に応じる連中だった。
 彼らの多くはそれまでに何度か大きな管理責任を負ってきていたから、相手が望もうが望むまいが、研究所長に向かってずけずけと、所長は何をなすべきかを進言した。
 そんなわけで、コーワンがこの研究所構想を彼らの相談したのも、助言と支持を求めてのことだったが、彼はそのどっちも手に入れた。

 たとえばピーター・カラザズは、何か新しいことが起こる気配がある、いまチャンスが手招きしている、というコーワンの考えに、すぐ同調した。

 皺だらけの冷笑的な顔で、カラザズは「複雑な」システムについて情熱的に説き、「科学における次代の中心的な力である」と宣言した。
それには理由があった。
彼は1973年、ロス・アラモスの理論部門を率いるために、コーワンが議長をしていたある調査委員会の推薦でコーネル大学から引き抜かれたのだが、カラザズはただちにおよそ百人の新しい研究者を採用し、六つの新しい研究グループを発足させてしまった。それも、そのようなものに対する予算がすくなりつつあった時期にである。
 とりわけ、1974年、非線形力学という当時は漠とした下位分野の学問を研究するために元気のいい若者を数人採用したいと主張した(「いったいどうやって金を払うんだね?」と副所長のマイク・シモンズがいうと、カラザズはこういった。「どこかでその金を探すんですよ」)。
 そしてこのカラザズのもとでその下位分野が開花し、ロス・アラモス研究所は、やがてカオス理論と呼ばれるようになった学問の世界的なセンターになっていたのである。
 だからコーワンがその基礎の上に研究所をつくりたいというなら、カラザズはいつでも手助けするつもりだった。

 もう一人の上級特別研究員、天体物理学のスターリング・コルゲートは、べつな理由から熱烈な支持を表明した。
「われわれは、この州の知的能力を組織し、強化するようなものがどうしても必要だった」と、コルゲートはいう。
 ロス・アラモス研究所は、外界に門戸を開放しようとあらゆる努力にもかかわらず、台地の上で見事なまでに孤立している科学的群落だった。
 彼は、ロス・アラモスから200マイル南にあるソコーローのニューメキシコ鉱業技術研究所の社長をしていた10年間、この州が美しさを留めながらも取り残されていくのをいやというほど実感した。
 1940年代以来この地域に注がれてきた何十億ドルという国の金も、学校や工業への効果はがかりするくらい小さかった。
大学はせいぜい並である。人口過剰のカリフォルニアからの移転を企てていたハイテク企業がいつもリオ・グランデ渓谷を飛び越えてテキサス州オースチンへと東を目指したのは、おもにそうした理由によっていた。
 最近もコルゲートは、カラザズとともに、ニューメキシコ州に大学のシステムを大幅に改善させようとした。だが、すぐ望みなしとして諦めた。
州があまりにも貧しかったからだ。だからコルゲートには、コーワンの研究所構想が、最後で最善の希望のように見えた。
 「このお寒い知的環境を底上げしてくれるものならどんなものも、われわれ個人の利益、この研究所の利益、なかんずく州の利益になったんだ」と、コルゲートはいう。

 上級特別研究員ニック・メトロポリスは、コーワンがコンピュータの重要性を強調していたから、好意を示した。
また彼にはそれなりの理由があった。というのも、メトロポリスはロス・アラモス研究所のまさにミスター・コンピュータだった。じつは彼こそ、1940年代末にロス・アラモス研究所の最初のコンピュータ構築を監督した人物だった。
 彼はそれを、ハンガリー生まれの伝説的な数学者フォン・ノイマン博士の設計に基づいておこなった(この機械は「数学的解析器、計算機、積分器、兼コンピュータ」を意味する英語の頭文字をとりMANIACと呼ばれた)。
 またメトロポリスこそ、ポーランドの数学者スタニスラフ・ウーラムと一緒にコンピュータ・シュミレーションの手法をあみ出した人物だった。
 そして今日ロス・アラモスが世界最大・最速のスーパーコンピュータを有しているのも、メトロポリスに負うところ、じつに大だったのである。

しかしいまメトロポリスは、ロス・アラモス研究所がこの分野で十分創造的であると思っていなかった。
彼と、ロス・アラモスの客員特別研究員でしばしば長期にわたり研究所に滞在しているMIT出身の数学者ジャンカルロ・ロータは、いまコンピュータ科学は生物学や非線形科学と同じくらい大きな変革を遂げつつある、と指摘した。
 メトロポリスは、ハードウェアの設計だけをみても革命的な変化が進行している、といった。
既存の逐次処理型のコンピュータはほとんど望みどおりの速度を実現し、いまや設計者たちは、数百、数千、いや数百万の演算を並列で処理できるような新型コンピュータの研究をはじめていた。
 それもコーワンの研究所構想には好材料だった。なぜなら、コーワンがいっているような複雑な問題に真剣に取り組みたいと思っている者なら、だれもがその種のマシンを必要とするにちがいないからだ。


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「暗黒物質2兆個で初期宇宙 スパコン「京」成功 」2012.11.9 19:22 [数学]産経ニュース

 筑波大計算科学研究センターのグループは9日、スーパーコンピューター「京」を利用し、銀河形成に関わるとされる暗黒物質(ダークマター)粒子約2兆個が、初期の宇宙空間でどう動くかを見るシミュレーションに成功したと発表した。
 2兆個もの粒子を使ったシミュレーションは世界初という。
グループの石山智明研究員によると、京の計算能力の約98%を使って実現。
 暗黒物質は宇宙を満たし銀河を生み出したとされるが、正体は明らかになっていない。シミュレーションでは、約2兆個の粒子が相互に働く重力によって集まり、構造物ができる過程を示した。重力による構造物の成長を見ることで暗黒物質の性質や宇宙誕生の解明につながるという。
 研究成果は米国のゴードン・ベル賞の最終選考に残っており、結果は11月中旬に発表される。

 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-11 09:00:00 | アルケ・ミスト
 コーワンから見ると、それは信じられないチャンスに思えた。
とすれば、なぜ大学の科学者たちはそれに飛びつかないのか?いや、そこここで、ある程度までは飛びついていた。しかし彼が追い求めているような大きなビジョンは、網目からこぼれ落ちていくようだった。

 なぜなら、まさにその本質ゆえに、それはいかなる学部の権限の範囲にも入らなかったからだ。
なるほど、あちこちの大学が、「学際的研究所」であふれていた。だがコーワンにいわせれば、そうした研究所はたまたま多くの人間が仕事場を共有しているといった程度のものでしかなかった。
 教授と大学院生は依然として彼らが所属する学部に忠誠を尽くさねばならなかった。
学部が、学位、終身在職権、昇進などを認める権限を握っていたからである。だからこのままでは、大学は少なくとも今後一世代は複雑性の研究を取り上げることはないだろうと、コーワンは思った。

 不幸なことに、ロス・アラモス研究所もそれを取り上げるよには思えなかった。
通常、この種の幅広い、多分野にまたがる研究に関しては、兵器研究所は大学などよりずっとよい環境にある。
 研究所を訪れる大学関係者がいつも驚くのは、そうした事実だ。だがそれは、まさにロス・アラモス研究所の設立に由来していると、コーワンはいう。

 原爆製造という特殊な研究の挑戦からはじまったマンハッタン計画は、その挑戦にチームを組んで取り組むべく、関係するすべての専門分野から科学者を集めた。
 当然、それは目を見張るようなチームだった。
ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、ハンス・ベーテ、リチャード・ファインマン、ユージン・ウィグナー。

 当時、あるオブザーバーは、それを古代アテネ以来の知者の大集合と呼んだ。
以来、それがロス・アラモス研究所の研究アプローチになってきたのである。

 上司の大きな仕事は、しかるべき科学者どうしが互いに話し合っているように気を配ることだった。
「ときどき自分が結婚仲介屋みたいに思えた」と、コーワンはいう。 

 唯一の問題は、コーワンが頭に描いた大統合が、ロス・アラモス研究所の基本的な使命とは関係がないということだった。
それが核兵器開発とはまるでかけ離れていた。
 研究所の使命と関係がないとなれば、研究基金を受けるチャンスは実質的にゼロだった。
なるほどロス・アラモス研究所は、それまでつねにそうしてきたように、複雑性の研究に寄せ集め的には取り組むだろうが、それ以上に力を入れてということはあるまい、とコーワンは思った。

 いや、たった一つ方法があると、彼は思った。
コーワンは、独立した新しい研究所を考えはじめた。
 理想としては、その研究所は二つの世界の長所を結びつけたものである。
つまり、一方では大学の広範な設立精神を有し、また一方では分離した学問分野を混ぜ合わせるロス・アラモス研究所の能力も留めている、そんな研究所だった。

 たぶんそれは、ロス・アラモス研究所から物理的に離れている必要があった。
しかし、もし可能なら、ロス・アラモス研究所の何人かの人間やコンピュータの力を貸してもらえる程度には近接しているべきだと、彼は思った。
 となればたぶんサンタフェだ。

 サンタフェはわずか三十五マイルしか離れていなかったし、市としてはどこよりも近かった。
だがどこにつくるにしても、この研究所はとくに優れた科学者たち----それぞれがそれぞれの分野の問題を本当によく理解している者たち----を連れてこられるような場、そして、普通よりずっと広範なカリキュラムを提示できるような場、でなくてはならなかった。
 あるいは、上級研究者が同僚に嘲笑されることなく独創的なアイデアに取り組むことができる場、そして、十分な自信を与えてくれるような世界的な人物のそばで、頭の切れる若い科学者たちが研究できるような場、でなければならなかった。

 要するにそれは、第二次世界大戦以後すっかり姿を消してしまったような科学者を教育できる場でなければならなかった。
「いわば21世紀のルネッサンス的人間。一方では科学を学んでいながら、優雅とはほど遠くまた科学にはまったく手に負えないこのごたごたした世界も扱えるような人間だ」と、コーワンはいう。

 ちょっと無邪気では?
もちろん。
 しかしコーワンは、「信じられないほどの科学的挑戦」というビジョンで人々を魅了することができれば、かならずうまくいくだろうと思った。

 彼が自問したように、「では1980年代と90年代の聡明な科学者たちにどんな種類の科学が説かれるべきか?」

それで、だれが耳を貸してくれるだろうか?だれがこうしたことを動かす影響力をもっているだるだろうか?ワシントンに出かけていたある日、彼は試みにこの研究所の話を、科学顧問のジェイ・キーワース、それに科学委員会のメンバーでヒューレット・パッカードの創設者の一人デイヴィッド・パッカードに説明した。

 驚いたことに、彼らは笑わなかった。それどころか、2人の反応はとても励みになるものだった。
そこで1983年の春、コーワンは毎週昼食を共にしているロス・アラモスの上級特別研究員たちにそのアイデアを披露する決心をした。
 そして彼らは好意を示した。



備考
Niels Henrik David Bohr 1921年にコペンハーゲンに理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開き、外国から多くの物理学者を招いてthe Copenhagen Schoolコペンハーゲン学派を成することになる。


みち草・・・・「複雑系」

2012-11-10 09:00:00 | アルケ・ミスト
 物理学者イリヤ・ブリゴジンが声高に主張してきた自己組織化システムも、非線形のダイナミクスに支配されていた。
実際、ぐつぐつと煮えるスープの中の自己組織化の動きは、たとえばシマウマの縞やチョウの羽の班のような他の非線形的パターンの形成と類似したダイナミクスに支配されていることが明らかになった。

 だがもっと驚くべきは、カオスとして知られる非線形的現象だった。
人間の日常世界においてなら、〈ここ〉の小さな出来事が〈あそこ〉にとてつもない影響を及ぼしうることを知ったからといって、だれも驚いたりはしない。ごく些細なことから、予想外なことが起こる。
 風が吹いたら桶屋がもうかる、といった図式だ。
しかし物理学者たちがそれぞれの分野の非線形システムに真剣に注意を向けるようになると、彼らは、それがとても深淵な原理であることを認識しはじめた。
 たとえば、風の流れや湿度を支配している方程式はしごく単純に思えたが、やがて研究者たちは、テキサスでチョウが羽をばたつかせると、1週間後、ハイチ上空のハリケーンのコースが変化し得ることを知った。あるいは、チョウが1ミリ左方で羽を1度ばたつかせていたら、ハリケーンのコースがまったくちがったものになっていたかもしれないことを知った。
 例はいくつもあったが、意味はいつも同じだった。
すべてが結びついている。それも、しばしば信じられないほどの敏感さで。
 小さい攪乱は小さいままであるとはかぎらない。条件がととのっていれば、ほんのわずかの不確定性が、システムの未来がまったく予測できないほどに----一言でいえば、カオスに----成長してしまうのだ。

 逆に、ひじょうに単純なシステムが、驚くほど豊かな挙動のパターンを生み出し得ることに研究者たちは気づきはじめた。
必要なのはほんのわずかの非線形性だった。
たとえば、弛んだ蛇口からポタン、ポタンと落ちる水滴。
漏れ方がゆっくりしているかぎり、それはメトロノームのように、気が狂うほど規則的だ。が、しばらくそんままにしたあと、わずかに漏れを増やしてやると、ポタン、ポタン、ポタンと、大小かわるがわるに滴が落ちる。またしばらくそのままにして、さらに漏れを増やすと、滴は4個連続で落ちるよになる。それから8個、16個などとなり、最終的に、滴の落ち方ひじょうに複雑になり、でたらめになる。
 ふたたびカオスである。
次第に複雑さを増していくこれと同じパターンは、黄色猩々蝿キイロショウジョウバエの個体数変動、液体の乱流など、多数の分野で見られる。

物理学者たちが狼狽したのはもっともなことだった。たしかに彼らは、量子力学とかブラックホールといったものに奇妙なことがつきまとっていることを知っていた。
だがニュートンの時代から300年間、物理学者たちは日常世界を、既知の法則に従う、基本的には整然とした予測可能なところ、と捉えていた。
 彼ら物理学者たちは、3世紀の間、いわば井の中の蛙のように、周囲のものを無視しながら暮らしてきたのだった。
「線形的近似にさよならした瞬間、その先航海するのはとてつもなく広い海だ」と、コーワンはいう。
 
たまたまロス・アラモスは非線形の研究にはうってつけといえる環境だった。
ロス・アラモス研究所は1950年代から計算機畑のリーダー的存在だったし、設立当初から非線形問題に取り組んでいたからだと、コーワンはいう。
 高エネルギー粒子物理学、流体力学、核融合エネルギー研究、熱核衝撃波など、なんでもやっていた。
そして70年代のはじめまでには、こうした非線形問題の大多数が同一の数学的構造を有しているという意味で、それらが本質的に同一の問題であることが明らかになった。
 だから、そうした問題を一緒に研究すればまちがいなく能率が上がるだろう、ということになった。
その結果、ロス・アラモスの理論グループの熱心な支援もあって、理論部門内に非線形科学のための精力的なプログラムが設置され、最終的には、完全独立運営の非線形システム・センターが設立された。

 しかし生物学もコンピュータ・シミュレーションも非線形の科学もそれぞれバラバラに興味をもたれていたから、まだようやく緒についたにすぎない。と、コーワンは思っていた。
 それは本能的感覚からだった。

彼はここに根源的統合があるはずだと感じた。
究極的には物理学と化学だけではなく、生物学、情報処理、経済学、政治科学、そして人間世界の諸事すべてを包含するよな統合である。
 彼が頭に描いたのは、ほとんど中世的ともいえる学識の概念だった。もしこの統合が本物なら、それは生物科学と物質科学をほとんど分け隔てない----科学、歴史、哲学を分け隔てない----知の手法になるだろうと、彼は思った。
 昔は「知の織物には継ぎ目がなかった」と、コーワンはいう。そしてもしかすると、ふたたびそんなふうになれるかもしれなかった。

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-09 09:00:00 | アルケ・ミスト
 だが複雑性に対する魅力はそれよりさらに深いものになっていったと、彼はいう。
部分的にはコンピュータ・シミュレーションにより、また部分的には新しい数学的洞察ゆえに、1980年代はじめまでに物理学者たちは、ごたごたした複雑なシステムの多くは「非線形力学」として知られる強力な理論によって説明できるのではないかと考えはじめていた。
 そしてそこへ至る過程で、彼らは、全体はその部分の総和よりも大きいことがあり得るという、狼狽するような事実に必然的に直面したのである。

 ほとんどの人間にとって、その事実はかなり明白なことのように思える。
それが物理学者たちを狼狽させたのは、300年間、彼らがもっぱら線形システムに夢中になっていたからにほかならない。というのは、線形システムにおいては、全体は正確にその部分の総和に〈等しい〉のだ。
 公平といえば、彼らにはそう考えるだけの理由がたくさんあった。
もしシステムが部分の総和に正確に等しいなら、各要素は、他で何が起きていようと、それ自身のことをしていればよいことになる。
 そしてそのために、すの数学が比較的分析しやすいものになる。(「線形」という名称は、もしそのような式をグラフ用紙にプロットすると、それが直線になっているという事実からきている)。
 その上、自然にはそのように振る舞うものがかなりたくさんある。

たとえば音は線形のシステムだ。
だから、弦楽器の上で奏でられるオーボエの音を聞き分けることもできるし、またその双方を認識することもできる。音の波どうしは混ざり合うが、それぞれのアイデンティティは保たれている。
光も線形のシステムだ。
だから、天気の日でも横断歩道の信号を見ることができる。信号機から出て目に飛び込もうとする光線が、途中で、上方から注ぐ太陽光線によって地面に叩きつけられたはしない。
 それぞれの光線はそれぞれ独自に振る舞い、まるでそこに何もないかのように、他の光線の中をまっすぐ通り抜ける。

小さな経済的作用因は独自に機能するという意味で、経済も線形のシステムだ。
たとえば、角のドラッグストアでだれが新聞を買ったとしても、スーパーマーケットでねり歯磨きを買おうという他人の決心になんら影響を及ぼすことはない。

 しかし、線形ではない自然が多くあるというのもまた事実だ。
そしてまた、そこにこそこの世で本当に興味深いものがほとんど含まれている。

 たとえば、人間の脳はけっして線形ではない。
オーボエの音と弦の音は耳に入るまでは独立しているかもしてないが、双方の音が一緒になったときの情緒的衝撃は、どちらか一つのときよりはるかに大きにちがいないが、双方の音が一緒になったときの情緒的衝撃は、どちらか一つのときよりはるかに大きいにちがいない(だからオーケストラが仕事ができる)。
 経済も本当は線形ではない。
何百万という人間の、買うか買うまいかの意思決定は、たがいに補強しあい、にわか好況や不況をもたらす。そしてそういった経済の風潮がフィードバックされ、その風潮を生み出した購買傾向そのものを定着させてしまう。

 じつは、きわめて単純な物理的システムを除き、事実上この世のすべてのものごと、すべての人間が、誘因と制約と結合の大きな非線形の網の中に捕らわれている。 

 ある場所のわずかの変化が他のすべての場所に振動を引き起こす。
T.S.エリオットがおおよそそんなことをいっていたように、われわれは宇宙をかき乱さずにはいられないのである。
 全体はほとんどいつも、部分の総和よりかなり大きい。
そしてそういう特性は数学的表現が〈非線形〉方程式であり、そのグラフは曲線になる。

 非線形方程式を手で解くのはとてつもなく困難である。
だからこそ科学者は長いあいだ非線形方程式を避けようとしてきた。しかしまただからこそ、そこにコンピュータが入ってきた。
 科学者たちは、1950年代と60年代にこういった機械をいじりはじめるとすぐ、コンピュータは線形であろうと非線形であろうと少しも気にしないことに気がついた。
 いずれに対しても解をひねり出してくれた。この事実につけこんで、コンピュータを非線形方程式にどんどん応用していくと、それまでの線形システムでは体験できなかったような、不思議な、そしてすばらしい振る舞いが見えはじめたのである。

 たとえば、浅い運河の表面に立つ波は、量子力学の場の理論の、ある精妙なダイナミックと深遠な関係を有することが明らかとになった。
どちらもsolitonソリトンと呼ばれる、孤立した自己充足的なエネルギー・パルスの例である。
 木星の大赤斑もソリトンの例であるかもしれない。
地球より大きな渦を巻いているこのハリケーンは、少なくとも400年間その状態を保っている。










みち草・・・・「複雑系」

2012-11-08 09:00:00 | アルケ・ミスト
じつに皮肉だが、彼らを刺激したものの一つはどうやら分子生物学だった。

 ロス・アラモスという兵器研究所が興味をもつとは、とても思えない学問分野である。だがじつは、物理学者は最初から分子生物学と深くかかわってきたのだ。
 この分野の先駆者の多くが、じつは物理学者として出発しているのだ。
彼らの考えを大きく変えたものの一つに、What is life?「生命とは何か」という薄い本がある。
 オーストリアの物理学者で量子力学の創始者の一人でもあるエルヴィン・シュレーデンガーが1944年に著した一連の刺激的な物理的・化学的生命論だ(シュレーデンガーはヒトラーから逃れ、戦時中はダブリンに蟄居していた)。
 
この本に刺激された一人が、フランシス・クリックだった。
彼は1953年にジェイムズ・ワトスンとともにDNAの分子構造を明らかにした。
 彼が使ったものは、その数十年前に物理学者が発達させたミクロ世界の解像技術の1種であるX線結晶学から得たデータだった。
クリックはもともと実験物理学者としての訓練を受けていたのだ。
またビッグバン宇宙創世論の提唱者の一人、ロシア生まれのGeorge Gamowジョージ・ガモフは、1950年代のはじめに遺伝子暗号に強い関心をもつようになり、多くの物理学者たちの目をこの分野に向けさせた。(⇒デルブリュック、ファインマンらとの理論研究)

 「この問題に関して私が最初に聞いた本当に洞察力のある講演は、ガモフのものだった」と、コーワンはいう。
 
 以来ずっとコーワンは分子生物学に惹かれてきた。
とくに、1970年代はじめにDNA組み替え技術が発見され、生物学者がほとんど分子レベルの生命形態を分析、操作する力を得てからは、そうだった。
だから、1978年にロス・アラモス研究部長になると、彼はすぐに中心的な研究の背後でこの分野の研究を支えた。
つまり、公には細胞の放射線損傷の研究だったが、実際にはロス・アラモス研究所をもっと広い領域の分子生物学にかかわらせようとしたのである。時期としては最高だったと、彼は回想する。

 ハロルド・アグニュー所長のもと、ロス・アラモス研究所は1970年代に規模がほぼ2倍になっていたし、以前よりずっと、分野横断的学問の基礎研究や応用研究に目を向けはじめていたからだ。
 コーワンの分子生物学への思い入れは、まさに時期を得たものだった。そしてその研究計画は研究所の多くの人間に、とりわけ彼自身に、計り知れない影響を与えた。

「ほとんどその定義からいって、物質科学は概念的優雅さと分析的単純さに特徴がある学問だ。だからやむを得ず、それ以外のものは避ける」と、コーワンはいう。
 実際物理学者たちは、社会学や心理学など、真の世界の複雑さに取り組もうとする『ソフトな』科学に、軽口をたたくことで悪名を馳せている。
だが、そこへ分子生物学が飛び込んできた。
 それは、深遠な原理に支配された信じられないほど複雑な生命のシステムについて説いていた。
「ひとたび生物学と手を組んでしまったら、優雅さとか単純さとかはいっていられない。もうめちゃくちゃ。そしてそこから経済学や社会の問題に入っていく方がずっとわかりやすい。部分的に水に漬かってしまったら、いそいで泳ぎはじめたほうがいい」

 だが科学者たちは、いまや考えようと思えば考えることができたので、どんどん複雑なシステムについて考えはじめていた。

数学の方程式を鉛筆と紙で解く場合、はたして変数をいくつまでなら扱えるだろうか。
三つ、それとも四つ?しかし強力なコンピュータがあれば、好きな数だけ変数を扱うことができる。
1980年代のはじめにはコンピュータはどこにでもあった。
パソコンがブームになっていた。科学者たちは画像処理ができる高性能のワークステーションを机の上に置きはじめていた。また大企業や国の研究機関は、キノコ栽培のように、スーパーコンピュータを増やしていった。
 突然、何兆という変数からなるとんでもない方程式が、もうそれほどとんでもないものには思えなくなった。
また蛇口からデータをがぶ飲みすることも、それほど不可能ではなく思えてきた。列をなす数字、長さ何マイルものデータテープ。
 それらを、穀物生産の、あるいは地下何マイルも深くに横たわる油床の、色分けした地図に変換することができるようになった。
「コンピュータはすごい簿記マシンだ」と、コーワンはいう。
 
しかしコンピュータはもっとすごいものになり得る。
うまくプログラムすれば、コンピュータは一個の自立した世界になる。そして科学者はその世界を探検することで、現実の世界に対する理解を大いに深めることができる。
 実際コンピュータ・シミュレーションは1980年代までにはかなり強力なものになっていたから、それを理論と実験の中間にある「第三の形態の科学」として語りはじめる者もいた。
 たとえば、降雨のコンピュータ・シュミレーション。
コンピュータの内側には、陽光、風、水蒸気を記述する方程式を除けば何も存在しないから、それは理論のようでもある。しかしその方程式はあまりに複雑で手では解けないから、それは実験のようでもある。
 こうして科学者たちは、コンピュータの画面上の降雨のシュミレーションを眺め、予想もしなかったようなパターンを自分たちがつくった方程式が生み出していくのを目の当たりにする。
 しごく単純な方程式でも、ときには驚くべき振る舞いをそこに生み出す。
じつは降雨の方程式が記述しているものは、大気の一吹きがその近辺をどのように押すかとか、水蒸気の粒がどのように凝縮したり蒸発したりするかといった小規模の出来であって、「雨滴が凍って雹になる上昇気流」とか「雲の底からほとばしり、地上に沿って広がる冷たい降雨」とか、ずばりそのものを記述しているわけではない。
 しかしコンピュータが先のような方程式を数マイルの空間、数時間の時に対して適用すると、まさにそういう振る舞いが生み出される。
さらに、この事実ゆえに、真の世界はけっして実験できないようなものを科学者たちはコンピュータを使って実験する。
 何がこの上昇流と下交流をもたらしているのか?
温度と湿度を変えるとそれらはどう変化するか?この降雨の力学にとってどの要素が本当に重要であり、どの要素は重要でないのか?同じ要素が他の降雨でも同じように重要か?といったことを。

 1980年代のはじめまでには、そのような数値実験はすでにほとんどありふれたものになっていた。
新型の航空機の挙動、ブラックホールの喉に吸い込まれていく星間ガスの乱流、ビッグバンの余韻の中での銀河形成。
 少なくとも物質科学者のあいだでは、コンピュータ・シミュレーションの概念はますます受け入れられるようになりつつあったと、コーワンはいう。
 「こうなると〈ひじょうに〉複雑なシステムに取り組めるのではないかと考えはじめるわけだ」


 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-07 09:00:00 | アルケ・ミスト
 と、まあそういう具合だった。
コーワンにとってその体験は悲しいものだった。
「こういったものは、科学、政治、経済、環境、さらには宗教や道徳までもが相互に関係する情況でのひじょうにじれったい問題だった」と、コーワンはいう。
 しかし彼は適切な助言を与えることはできないと感じていた。
いや、科学委員会のほかの学者たちも、格別うまくやっているようには思えなかった。できるわけはなかった。
 こうした問題は広範囲の専門知識を必要としていた。
だが、科学者にしろ官吏にしろ、彼らのほとんどはじっとスペシャリストとして過ごしてきたのだ。科学という組織的文化がそれを要求したからだ。

 「ノーベル賞への王道はこれまでたいてい還元主義手法だった」と、コーワンはいう。
還元主義手法とは、この世界を可能なかぎり小さく単純な断片に刻んでいくことである。
 「なにがしか理想化した問題設定に対して解を求めるわけだ。解が見つかるようにそうするわけだが、現実離れしているし、制約も相当大きい。そしてそれがさらなる科学の断片化をもたらす。現実の世界が要求しているものは----言葉は嫌いだが----もっとHolisticホリスティックなアプローチだ」すべてが互いに影響しあっているのだから関係の網を理解する必要がある、というわけだ。

 もっとずっと悲しいのは、若い世代の科学者にとって事態がひたすら悪化しているように思えることだった。
ロス・アラモス研究所にやってくる若い科学者たちを見ていると、驚くほど頭が切れ、エネルギーもあるが、つねに知的断片化を強いる文化にすっかり馴らされてしまっているようにみえた。
 政治的にはそうではないが、制度的には、大学は信じられないほど保守的なところだ。若い博士たちはあえて型を打ち破ろうとはしない。彼らは既存の研究部門で、10年の大半を、終身在職権を手にしようと死に物狂いでやらねばならないのだ。
 つまり、学部の終身在職権審査委員会が認めてくれるような研究をやっているほうがよいということだ。
さもなければ、こんなふうにいわれる。
 「ジョー、このところ君は向こうの生物学者たちと一生懸命研究しているが、それでも君はこっちの物理学のリーダーかね?」
一方、年配の研究者たちはすべての研究者たちはすべての研究時間を使い、死に物狂いで研究所助成金を手に入れようとする。
 つまり彼らとしては、助成金を支給する機関が認めてくれるような範疇に研究計画を押し込めたほうがよいということである。さもなければ、こんなふにいわれる。
 「ジョー、これはなかなかのアイデアだ。だが残念ながら、われわれの学部とは関係がないね」そしてだれもが伝統的な学会誌----それらはほとんどいつも、認められている分野の論文ばかりに目を向けている----に論文が受理されるようにと、必死なのだ。

 こうやって数年が過ぎるとその狭い視野はすっかり本能的なものになり、もはや視野の狭さに気づかなくなると、コーワンはいう。
彼の経験では、ロス・アラモス研究所のどんな研究員であれ、彼らがアカデミックな世界に近づくほど、彼らをチームワークから必要な研究に参加させることが難しくなったという。
 「私は30年間そのことと闘ってきた」と、ため息をつく。

 だがそのことを考えているうちに、もっと悲しむべきことは、この断片化のプロセスが科学全体になしてきたことではないかと感じはじめた。
 伝統的な学問分野はあまりにも堅固になり、あまりにも他から孤立してしまい、窒息しかかっているように思えた。眺めればいたるところに豊かな科学的チャンスがあるというのに、それを無視する科学者ばかりのようだった。

 もし例が必要だというなら、いま浮上しつつあるチャンスはどうか、そうコーワンは思った。それに対するうまい名称をもちあわせていなかったが、もしロス・アラモスで目にしてきたことが何かの兆候であるとするなら、それは、何か大きなものが熟しているということではないかと思った。
 過去十年、彼が強く感じはじめていたのは、還元主義的手法が袋小路に入つつあり、硬派の自然科学者の中にさえ、この世界の真の複雑さを無視した数学的抽象にうんざりしはじめている者がでてきているということだった。
 彼らは半ば意識的に新しい手法を模索しつつあるようだったし、またその過程で、伝統的な境界を懐かしはじめているのではないかと彼は思った。
何十年、いやたぶん何百年、彼らがやったことのないやり方で。


ひとこと!
 言葉は嫌いだが・・・とコーワンが、Holisticを使わざるを得なかったその心うちは察するにあまりある。
そのような局面で生まれ出るのが言葉,つまり造語であろう。

そのヒントは身近にあるように思われます。
先の文献を引用すれば、「全体」、「関連」、「つながり」、「バランス」といった意味をすべて包含した言葉として解釈されていますが、的確な訳語がないため、そのまま「ホリスティック」という言葉が使われています。
しかし、意味する内容は決して新しく輸入された考えではなく、もともと東洋に根づいていた包括的な考え方に近いものといえます云々


それが、わたしの『健膠』です。


みち草・・・・「複雑系」

2012-11-06 09:00:00 | アルケ・ミスト
 その上コーワンはロス・アラモス研究所でますます管理的な責任を負う立場へと追いやられつつあったから、科学のための時間などほとんどなかった。
 チームリーダーをしていたときは、週末に自分自身の実験をする始末だった。
「だから私にはしごく平凡な科学的経歴しかない」と、ちょっと悲しげにいう」

しかし力と責任という問題は頭から離れなかった。
そして1982年、ロス・アラモス研究部長を辞しホワイトハウスの科学委員会の席を受けると、その問題が手に負えないほど大きくなって戻ってきた。
 第二のチャンスが見えはじめていたというときに。

 ホワイトハウスの委員会での体験は、なぜ1946年に研究者たちがこぞってそれぞれの研究所に戻ってしまったかをありありと思い起こさるものだった。
 コーワンら委員たちが席に座り、ワシントンのニュー・イグゼクテイブ・オフィス・ビルディングの会議テーブルを、謹厳な科学者の一団がぐるりと囲む。
 それから、大統領の科学顧問のジョージ・ジェイ・キーワースⅡ世----前年このポストに指名されるまで、ロス・アラモスでコーワンの下で研究に励んでいた部の若いリーダーだった----が、委員の意見を求めて問題を提示していく。
 しかしいつもコーワンは、何をいったらいいのか、からきし糸口が見えなかった。

 「エイズは当時まだ騒ぎになっていなかったが、それでも警戒感はあった。それは毎回議題に上っていた。しかし正直いって、どう答えたらいいのか大いに困った」
 それは公衆衛生の問題?道徳の問題?それとも?答えは当時少しも明らかではなかった。

 「有人宇宙飛行かそれとも無人宇宙探査機か、という問題もあった。議会は、有人コンポーネントをもたない無人宇宙計画には1銭も投じるつもりはない、ということだったが、私にはそれが正しいのか正しくないのかわからなかった。それは科学の問題というよりも政治の問題だった」

 またレーガン大統領の「スターウォーズ」戦略防衛構想、つまり、大量核ミサイル攻撃から国を守るための宇宙防衛というのもあった。それは技術的に実行可能なのか?国を破産させずにやれるのか?たとえ可能だとしても賢明なことなのか?それにより力の均衡が不安定になり、世界を別の破壊的軍備競争へと陥れることはないか?

 原子力はどうか?化石燃料の燃焼による地球温暖化という問題が現実味を帯びてくる中で、原子炉のメルトダウンのリスクと核廃棄物処理の難しさをどうバランスさせるのか?

備考記事
 福島第一原子力発電所事故
 11日19時30分に1号機の燃料は蒸発による水位低下で全露出して炉心溶融が始まり、所内での直流小電源融通で動かしていた非常用復水器も翌12日1時48分に機能停止、翌12日明方6時頃には全燃料がメルトダウンに至ったとみられる。
 1号機は上記の経緯で、地震発生後5時間で燃料が露出したとみられ、15時間ほどでメルトダウンしたと思われる。2012年7月5日に提出された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書では、少なくとも1号機A系の非常用交流電源喪失は、津波によるものではない可能性があることが判明した、としている。


みち草・・・ 「複雑系」

2012-11-02 09:00:00 | アルケ・ミスト
 1942年から終戦まで、彼はシカゴ大学の金属研究所で研究にあたった。
そこではイタリアの物理学者エンリコ・フェルミが最初の原子「炉」----連鎖反応が制御できることを証明するためにウランと黒鉛ブロックを積み上げたもの----の建設の指導にあったていた。

 その研究チームの新参研究員だったコーワンは、いわばなんでも屋になり、ウラン金属の鋳造成型、炉の反応率を制御する黒鉛ブロックの機械加工など、必要なことはなんでもやった。
だが1942年12月にフェルミの原子炉が首尾よく臨界に達したころには、コーワンはそこでの経験により、マンハッタン計画の放射性元素化学の専門家の1人になっていた。
 そして計画の管理者たちは、彼をたとえばテネシー州オークリッジなどに派遣しはじめた。
オークリッジでは、急遽建設された原子炉施設の研究者たちに手を貸し、どの程度のプルトニウムが生成されているかを調べた。
 「私が独り者だったので、アメリカじゅういろんな所にいかされた」と、彼はいう。「何かが故障すると、その修理に派遣される候補の一人だった」
 じつをいえばコーワンは、いろいろな計画部署を往き来することを許されていた特別選抜グループの一員だった。
マンハッタン計画は、秘密保持のため、しっかりと部署を分散していたのである。
 「どうして私が信用されたのかわからない」と、彼は笑う。「ほかの人間と同じように酒を飲んでいたしね」
 彼はいまも当時の記念の品をもっている。

シカゴ人事局がウスターの徴兵委員会へ宛てた手紙だ。
手紙にはこう記されている----ミスター・コーワンは戦争遂行のための活動にとって類のない技能を有している、大統領みずからの手で徴兵猶予が与えられている、だから〈なにぶんにも〉彼を甲種合格として再徴兵せぬよう配慮願いたし、と。

戦争が終わると、科学者たちのヒトラーとの死に物狂いの闘いは、ロシアとの不安に苛まれる闘いへと変じていった。
おそろしくいやな時代だったと、コーワンはいう。
 スターリンによる東ヨーロッパ支配、ベルリンの壁、そして朝鮮半島。冷戦はすぐにでも熱い戦争になるように思えた。
ソ連が自力で核開発に取り組んでいることが知られていたからだ。
 不安定な力のバランスを維持し、また民主主義と自由を守る唯一の方法は、おのれの側の核兵器の能力を高めていくことだった。

物理・化学の博士号を取るためにピッツバーグのカーネギー工科大学で三年の時間をかけたあと、1949年6月にロス・アラモスへとコーワンを舞い戻らせたものは、そうした危機感だった。
しかしそれは自動的な選択ではなかった。
熟慮し、自己分析したあとの決断だった。そしてその決断はほとんどすぐに強化されることになった。

コーワンは当時を振り返っていう。
着いてから一、二週間して、放射化学研究所の所長がコーワンのところにきて、ひそかに、そして遠まわしに、新しい研究所は絶対に放射能に汚染されていないか、と訊いた。
ええ、と答えると、コーワンと研究施設が、最優先、最高機密の分析のために、ただちに徴用された。
 
大気資料が届いたのはまさにその日の夜だった。
彼はその資料がどこから持ち込まれたのかを知らされていなかったが、それがロシアの国境付近のどこかで採取されたものであることは推測できた。そして彼と同僚たちが放射性降下物に対する確かな証拠を検出するや、もう噂ではなくなった。
ソビエトが自前の原子爆弾を爆発させたのだ。

「それで私はとうとうワシントンの例の委員会に入ることになった。とても極秘の」と、コーワンはいう。
それはベーテ委員会----初代議長がコーネル大学の物理学者Hans Albrecht Betheハンス・ベーテだった----として実体を伏せて知らされていたが、じつはソ連の核兵器開発を追うために招集された核科学者の集まりだった。



関連事項
京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実 吉田 守男 (1995/8)

内容(「BOOK」データベースより)
 第2次大戦下、100万都市京都が「無傷」でのこった。
それは文化財ゆたかな古都だから(ウォーナー伝説)ではない。
 それどころか―投下第1目標は京都だった。「原爆」と「ジェノサイド爆撃」の間で翻弄された京都。「平穏な京都」の裏でたたかわされたアメリカの軍・政府内の葛藤を活写する。

最も参考になったカスタマーレビュー
19 人中、19人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 京都に空襲がなかった理由は? 2003/8/9
By カスタマー
形式:単行本 京都で生まれ育った僕は、太平洋戦争で京都に空襲がないことについて、「文化財が豊富な古都であるため、アメリカさんが遠慮しはったんや。」と聞かされていた。
 ゆえに、この本のタイトルを見た時は、驚いた。 
京都は、原爆投下目標の第1位にランクされた都市であったため、(一部地域を除いて)空襲を免れていたのだ!政治的な駆け引きもあり、原爆は京都に投下されず、広島・長崎に投下された。
 が、アメリカ軍部の一部は京都を投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。
そこで、戦争が終結するのである。もしも、1945年8月15日に終戦しなかったら・・・。
 また、この書籍は京都以外も奈良・鎌倉等の都市が空襲を免れた理由やアメリカ合衆国が日本空襲をどのような計画で実施したのか、ウォーナー伝説の虚実、空襲におびえる日本国民の心理等が、史料等に基づいて詳細に説明されており、読みごたえのある内容となっている。
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