この行き詰まりを打開したのはマレーだった。
粒子物理学界の55歳のきかん坊、カリフォルニア工科大学のMurray Gell-Mannマレー・ゲルマン教授である。
じつは8月17日の会合の約1週間前に、ゲルマンがコーワンに電話をかけてきていた。
パインズから研究所構想の話を聞いた。すばらしい考えだ、自分はずっとこういったものをやってみたいと思っていた、とゲルマンはいった。
古代文明の消長、この文明の長期的な持続可能性、学問分野を大きく超越するそういった問題にぜひ取り組みたいと思っていたが、これまでのところカルフォルニア工科大学ではまだ何もはじめてはいない。
だから次回ロスアラモスに出向いたとき、研究所の議論にぜひ参加させてくれないかと、ゲルマンはいった。(ゲルマンは1950年代以降、ロス・アラモス研究所のコンサルタントをしていて、しばしば研究所にきていた)。
コーワンは自分の運の強さが信じられなかった。
「ぜひとも、いらしてください!」もし頂点に属するような人間がいるとするなら、それはマレー・ゲルマンにほかならなかった。
ニューヨークで生まれ育ったゲルマン。
黒縁の眼鏡とクルーカットの白髪が、どことなく、丸ぽちゃのヘンリー・キッシンジャーを思わせる。がむしゃらで、才気縦横で、チャーミングで、饒舌だ。
いうまでもなく、不遜なまでの優等生を通してきたのだ。
カリフォルニア工科大学といえば、辛口で知られた物理学者、故リチャード・ファインマンが、ベストセラーになった回顧録に「ご冗談でしょう、ファインマンさん!」というタイトルをつけたところだが、ゲルマンだったら自分の回顧録を「なるほど、今度もおおせのとおり、マレーさん!」とするにちがいないと、この大学で噂されていた。
ごくまれにだが、思いどおりにならなかったとき、ゲルマンはとても子供っぽくなることもあった。同僚たちは、ゲルマンが下唇を突き出してふくれっ面をしているのを何度か目撃してきた。
だがゲルマンは、まちがいなく20世紀の科学界の中心人物の1人だった。
1950年代のはじめに若き博士として科学の現場に立ったとき、亜原子の世界はどうしょうもない混乱状態にあった。
π中間子、∑粒子、ρ粒子、等等、無秩序に付されたギリシャ名の無数のリスト。しかしそれから20年後、主としてゲルマンが切り開いた概念により、物理学者たちは粒子間のすべての力を統一する大統一理論を頭に描きながら、ごたごたした粒子群をquark「クオーク」として確信をもって分類しつつあった(クオークの名は、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に出てくるある造語にならってゲルマンがつけたもの)。
ゲルマンと二十年間つきあっているある理論物理学者はいう。
「マレーは粒子物理学の研究の中心を定めて、一時代を画したんだ。マレーが考えていたことは、ほかのだれが考えていてもおかしくないことだった。彼は真実がどこにあるかを知っていて、そこへ人々を導いたんだ」
しかし陽子と中性子という内なる世界にこの三〇年没頭してきたとなれば、ゲルマンは、コーワンの科学的ホーリズムというヴィジョンにとって少々厄介な兵力のようにみえた。
いまさらまた還元主義というわけにもいくまい。が、じつはゲルマンの関心は多様だった。
彼は雑食的好奇心につき動かされていた。たとえば、飛行機に乗ると隣の人間に話しかけ、何時間にもわたって相手の身の上を尋問することで有名だった。
彼と科学との最初の出会いは好きだった自然史を通してだったが、自然史を学ぶきっかけは、五歳のとき、兄がマンハッタンのいろいろな公園に連れていってくれたことだった。
「過剰に伐採されたベイツガの森、それがニューヨークなんだとわれわれは思った」という。以来彼は熱心なバードウオッチャーであり、また自然保護論者だった。事実、ジョン・D・アンド・キャサリン・T・マッカーサー財団の「世界環境資源」委員会の議長として、シンクタンク「世界資源研究所」の創設に手を貸したり、熱帯林保護運動に深くかかわっていた。
またゲルマンは、心理学、考古学、言語学にも惹かれていた8エール大学では物理学を専攻したが、それは単に父を満足させるためだった。父は、考古学を専攻したら食べていけない、と心配していた)。
だから、外国の科学者の話をするとき、彼は忠実なほど正確なアクセントでその名前を発音する。このことである同僚はこう回想している。
近いうちにアイルランドの妹のところにいくつもりだ、と彼はゲルマンにいった。
「妹さんの名前、何ていうの?」
「ギレスビーだ」
「それ、どういう意味?」
「えー、ケルト語で、司教の僕、だったと思うが」
ゲルマンはちょっと考えてからいった。「いや、そうじゃないよ。中世のスコットランド高地のゲール語で、司教の敬虔な信奉者、みたいな意味だ」
ロス・アラモスではまだだれも知らぬこととはいえ、ゲルマンはその言語能力を使って効果的に人を説得することができる人物だった。
「マレーは臨機応変、その場で人を鼓舞するような話をすることができる。まあチャーチル的ではないだろうが、話の明晰さ、華麗さには圧倒されるよ」と、カラザズはいう。
実際、研究所の議論にゲルマンが加わるやいなや、彼の幅広い基盤の研究所構想に大半の上級特別研究員が賛同し、メトロポリスとロータのコンピュータに焦点を絞った研究所構想はたちまちのうちに影をひそめた。
粒子物理学界の55歳のきかん坊、カリフォルニア工科大学のMurray Gell-Mannマレー・ゲルマン教授である。
じつは8月17日の会合の約1週間前に、ゲルマンがコーワンに電話をかけてきていた。
パインズから研究所構想の話を聞いた。すばらしい考えだ、自分はずっとこういったものをやってみたいと思っていた、とゲルマンはいった。
古代文明の消長、この文明の長期的な持続可能性、学問分野を大きく超越するそういった問題にぜひ取り組みたいと思っていたが、これまでのところカルフォルニア工科大学ではまだ何もはじめてはいない。
だから次回ロスアラモスに出向いたとき、研究所の議論にぜひ参加させてくれないかと、ゲルマンはいった。(ゲルマンは1950年代以降、ロス・アラモス研究所のコンサルタントをしていて、しばしば研究所にきていた)。
コーワンは自分の運の強さが信じられなかった。
「ぜひとも、いらしてください!」もし頂点に属するような人間がいるとするなら、それはマレー・ゲルマンにほかならなかった。
ニューヨークで生まれ育ったゲルマン。
黒縁の眼鏡とクルーカットの白髪が、どことなく、丸ぽちゃのヘンリー・キッシンジャーを思わせる。がむしゃらで、才気縦横で、チャーミングで、饒舌だ。
いうまでもなく、不遜なまでの優等生を通してきたのだ。
カリフォルニア工科大学といえば、辛口で知られた物理学者、故リチャード・ファインマンが、ベストセラーになった回顧録に「ご冗談でしょう、ファインマンさん!」というタイトルをつけたところだが、ゲルマンだったら自分の回顧録を「なるほど、今度もおおせのとおり、マレーさん!」とするにちがいないと、この大学で噂されていた。
ごくまれにだが、思いどおりにならなかったとき、ゲルマンはとても子供っぽくなることもあった。同僚たちは、ゲルマンが下唇を突き出してふくれっ面をしているのを何度か目撃してきた。
だがゲルマンは、まちがいなく20世紀の科学界の中心人物の1人だった。
1950年代のはじめに若き博士として科学の現場に立ったとき、亜原子の世界はどうしょうもない混乱状態にあった。
π中間子、∑粒子、ρ粒子、等等、無秩序に付されたギリシャ名の無数のリスト。しかしそれから20年後、主としてゲルマンが切り開いた概念により、物理学者たちは粒子間のすべての力を統一する大統一理論を頭に描きながら、ごたごたした粒子群をquark「クオーク」として確信をもって分類しつつあった(クオークの名は、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に出てくるある造語にならってゲルマンがつけたもの)。
ゲルマンと二十年間つきあっているある理論物理学者はいう。
「マレーは粒子物理学の研究の中心を定めて、一時代を画したんだ。マレーが考えていたことは、ほかのだれが考えていてもおかしくないことだった。彼は真実がどこにあるかを知っていて、そこへ人々を導いたんだ」
しかし陽子と中性子という内なる世界にこの三〇年没頭してきたとなれば、ゲルマンは、コーワンの科学的ホーリズムというヴィジョンにとって少々厄介な兵力のようにみえた。
いまさらまた還元主義というわけにもいくまい。が、じつはゲルマンの関心は多様だった。
彼は雑食的好奇心につき動かされていた。たとえば、飛行機に乗ると隣の人間に話しかけ、何時間にもわたって相手の身の上を尋問することで有名だった。
彼と科学との最初の出会いは好きだった自然史を通してだったが、自然史を学ぶきっかけは、五歳のとき、兄がマンハッタンのいろいろな公園に連れていってくれたことだった。
「過剰に伐採されたベイツガの森、それがニューヨークなんだとわれわれは思った」という。以来彼は熱心なバードウオッチャーであり、また自然保護論者だった。事実、ジョン・D・アンド・キャサリン・T・マッカーサー財団の「世界環境資源」委員会の議長として、シンクタンク「世界資源研究所」の創設に手を貸したり、熱帯林保護運動に深くかかわっていた。
またゲルマンは、心理学、考古学、言語学にも惹かれていた8エール大学では物理学を専攻したが、それは単に父を満足させるためだった。父は、考古学を専攻したら食べていけない、と心配していた)。
だから、外国の科学者の話をするとき、彼は忠実なほど正確なアクセントでその名前を発音する。このことである同僚はこう回想している。
近いうちにアイルランドの妹のところにいくつもりだ、と彼はゲルマンにいった。
「妹さんの名前、何ていうの?」
「ギレスビーだ」
「それ、どういう意味?」
「えー、ケルト語で、司教の僕、だったと思うが」
ゲルマンはちょっと考えてからいった。「いや、そうじゃないよ。中世のスコットランド高地のゲール語で、司教の敬虔な信奉者、みたいな意味だ」
ロス・アラモスではまだだれも知らぬこととはいえ、ゲルマンはその言語能力を使って効果的に人を説得することができる人物だった。
「マレーは臨機応変、その場で人を鼓舞するような話をすることができる。まあチャーチル的ではないだろうが、話の明晰さ、華麗さには圧倒されるよ」と、カラザズはいう。
実際、研究所の議論にゲルマンが加わるやいなや、彼の幅広い基盤の研究所構想に大半の上級特別研究員が賛同し、メトロポリスとロータのコンピュータに焦点を絞った研究所構想はたちまちのうちに影をひそめた。