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みち草・・・・「複雑系」

2012-11-24 09:00:00 | アルケ・ミスト
 かくして、1986年8月6日の水曜日の夕方、アンダースンと妻のジョイスは、シテイコープのジェット機ガルフストリーム号に乗り込み、サンタフェへ向かって飛び立った。
なるほど速いもんだと、アンダースンは思った。

 しかし凍てつくほど寒くもあった。
このシテイコープのジェット機は商業航路よりずっと上の高度1万5千メートルで飛んでいたが、ヒーターが十分効いていなかったようだった。
 ジョイス・アンダースンは毛布にくるまって後部座席で丸くなっていた。
一方フィルは、前部座席でリードと経済学の話をしていた。話にはリードの3人の補佐、バイロン・ニーフ、ユージェニア・シンガー、ヴィクター・メネゼス、それに、かってプリンストン高等学術研究所の所長を務め、いまはラッセル・セージ財団とサンタフェ研究所双方の委員を務めるMITのエコノミスト、カール・ケイスンも加わっていた。

 なるほどリードは、アダムズがいったとおり、なかなかの人物だった。
頭がよく、率直で、話は理路整然としていた。

 ニューヨーク界隈では、大量解雇をしたことでこきおろされていたが、じかに会ってみると、穏やかで、気取りのない人物であるように思えた。
 どうやらこの頭取は、座席の肘掛に脚を1本だらりと掛けて話すのが好きらしかった。
相手がノーベル賞受賞者だからといって、おじけづくようなことはないのだ。この会合を楽しみにしていた、自分がかかわっているラッセル・セージ財団や他の学究的な会合を楽しみにしているのと同じ理由からね、と彼はいった。

 「そういった類のことが楽しくてね。私の毎日の仕事とはまったく違う見方で世界を見ている学究的な知的集団の人間と話ができるからね。世界を二つの目で見られるようになる」と、彼はいう。

 そしてこのときは、世界経済に対する自分のひねくれた見方をどうやって学者仲間に説明したらいいかをあれこれ考えて楽しんだと、彼は回想する。
「銀行家たちにそれを説明する場合とは明らかに違うからね」

 アンダースンにとってこのサンタフェへの旅は、物理学、経済学、そして予測のつかない地球レベルの資本の動きをめぐるすばらしい放談の会になった。
 彼はリードの補佐の一人が会話から取り残されまいとしていることに気づいた。
何枚ものセーターを重ね着して震えているユージェニア・シンガーが、リードのために彼女が用意した経済モデル(連邦準備銀行や日本銀行などが使っている世界経済の大規模コンピュータ・シュミレーション)の調査結果についての話に、加わろうとしていた。
 たちまちアンダースンは彼女が気に入ってしまった。

 じつはシンガーは機内の温度ゆえに震えているわけではなかった。
「ジョンが私にやらせたことにビクビクしてたんです!」と、彼女は笑う。
 彼女には数理統計学の修士号以上のものはなかったし、その分野で最近仕事をしたこともなかった。
「それを知った上で、ジョンは私をあの場にいかせノーベル賞受賞者たちと話をっせたのよ!あの専門レベルにはついていけそうになかったわ」
  彼女はいう。
「ジョンからいわれた仕事にノーといおうとしたのは、あとにも先にもあのとき1度だけ。でもジョンはいとも平然と何気ない調子で、「ああ、ユージェニア、うまくやれるよ。君のほうがみんなよりよく知ってるさ」」。
 そんなわけで彼女はやってきた。そしてリードのいうとおりだった。

 アダムズとコーワンの2人が座長を務める会合がはじまったのは翌朝の8時、サンタフェから10マイルほど北にある観光牧場、ランチョ・エンカンダードにおいてだった。

 出席者は12人。
その中にはコーワンの旧友、ニューメキシコ・パブリック・サービス・カンパニーの会長でこの会合を資金面で支えたジェリー・ガイストもいた。
 この会合は科学的な意見の交換の場として設けられたわけではなかった。
双方が互いに相手方を説得し自分がやりたいことをなんとかして相手にやらせようとする、いわば自己宣伝の場だった。

 オーバーヘッド・プロジェクター用資料を何枚も携えてきたリードが、口火を切った。
基本的に自分にとっての問題は、経済分析を無視するように進行していく世界経済システムに自分が身動き取れなくなっていることだと、つぎのようにいった。

 既存の新古典派の理論ともっぱらそれに頼ったコンピュータ・モデルからは、リスクと不確定性を前にリアルタイムで決断していくのに必要な情報が得られない。
 こういったコンピュータ・モデルには信じれらないほど複雑なものがある。
あとでシンガーがくわしく説明するが、たとえばあるモデルは世界を4500万の方程式と6000の変数で記述している。
 にもかかわらず、そういうモデルのどれ一つとして社会的、政治的要素を扱っていない。
しかし、そうした要素こそしばしばもっとも重要な変数なのだ。

 そうしたモデルのほとんどは、モデル化する人間が金利、為替レートといった変数を手で入力していくことを前提にしているが、まさにこうしたものこそ銀行家が〈予測〉したいと思っている量なのだ。

 また実質的にすべてモデルが、世界は静的な経済均衡からそれほどずれたりはしないと仮定しているが、実際には世界はたえず経済的ショックや大変動に揺さぶられている。

 要するに、大規模なEconometrics計量経済学的モデルから自分たち銀行同業者が得るものといえば、本能的にわかるようなもの、つまり想像できるような結果ばかりだ。





参考記事

単位根と共和分 [編集]

 1960年代まで、古典的計量分析において時系列データを用いた回帰分析では、データそのものに対する考察はほとんどなく、そのまま最小二乗法などが適用されていた。主にマクロ計量分析では、高い決定係数を示す分析結果が多く、それは結果の妥当性を示すものと認識されていた。

 これに対し1970年代に入ると、ノーベル経済学賞のGrangerが無関係なランダム・ウォークに従う変数同士を回帰させた場合、無関係にもかかわらず、回帰係数の値が統計的に0でない値になり、高い決定係数を示し、同時に低いDurbin-Watson統計量を示すことをモンテカルロ分析から明らかにした。
 この結果の意味することは、1970年代以前に計量経済学で検証されてきた様々な経済モデルが統計的には全く意味がない可能性があるということである。
 この画期的な論文を発表する前は、計量経済学者および統計学者からはあまり評判がよくなかったが、彼らも実際に分析したところ、同様の結果を得たことから次第にデータそのものに対する考察が進められてきた。

 1970年代から急速に研究が進み、1980年代に入るとP.C.B.Phillipsが金字塔とも言えるべき論文をEconometricaに掲載する。
同じ号の次の論文が、Grangerがノーベル賞を取る理由の1つとなった共和分に関する論文であった。これらの論文により、単位根および共和分の検定が普及することとなる。



いまだ、“しんかろん”。
「種の起源」出版記念日、改訂の始まりとなる。




みち草・・・・「複雑系」

2012-11-23 09:00:00 | アルケ・ミスト
 そんな中、連邦政府の基金提供機関がどう出てくるかが大きな謎だった。
百万ドルといった大金を提示してくれるはずもなかったが、国立科学財団のナップの後継者エリック・ブロックはは、研究所がどうしても必要とする1万ドル程度の着手資金を寄付することには前向きのようだった。

 コーワンの旧友でエネルギー省の研究部長をやっていたアルヴィン・トリヴェルピースもそうだった。
ブロックはこの二つが共同で資金提供する可能性すらほのめかしていた。が、問題は、研究所が正式な提案書を作成し、それを承認してもらうまでは、何事もはじまらないということだった。
 全員が依然として非常勤で仕事をしていることを考えればゆうに二年はかかる。すでにコーワンにはほとんど運営資金がなかった。サンタフェ研究所はもがき苦しんでいた。

 というわけで、1986年3月9日の取締役会はほとんど、資金を提供してくれそうな人間の名前をあげるブレーン・ストーミングに向けられた。
いろんな案が飛び交った。そして会議室の後方でテーブルの一番端に座っていたボブ・アダムズが遠慮がちに手をあげたのは、会議も終わり近くのことだった。
 アダムズは、この会議が開かれる少し前に、ラッセル・セージ財団は、Social science社会科学系の研究に基金を提供しているところだ。その折、彼はシテイコープの新任の頭取で友人のジョン・リードと話をした。

 リードはじつに興味深い人間だと、アダムズはつぎのようにいった。
彼は47歳になったばかりだったから、アメリカでもっとも若い頭取の1人である。アルゼンチンとブラジルで育ち、父は両地でアーマー・アンド・カンパニーの役員をしていた。アダムズはワシントン・アンド・ジェファーソン・ユニヴァーシテイで一般教養の学士号を、ついでMITで金属学の学士号を取り、さらにMITのスローン・スクールで経営学の修士号を取った。 
科学の知識がひじょうに豊かで、どうやらラッセル・セージの理事会で学究的な人間とあれこれアイデアをこねますのを楽しんでいるようだ、と。

 それはともかく、委員会の休憩時間にできる範囲でリードに研究所の話をしたところ彼はとても興味をもった。
自分には百万ドルを寄付する力はないが、世界経済を理解する上でもしかするとこの研究所が役立つかもしれない、といっていた。
 話が世界の金融市場になると、彼は、プロのエコノミストたちはボーッとしている、ときめつけた。

 前任者のウオルター・リストンのもと、シテイコープは第三世界の債務危機の中で大損をした。
シテイコープは一年間で十億ドルの損失を被り、焦げついている百三十億ドルのローンに手を焼いている。銀行おかかえのエコノミストたちは、それを予測したばかりか、彼らの助言で事態はさらに悪化している。

 だからリードは、まったく新しい経済学のアプローチが必要かもしないと考えていて、サンタフェ研究所がこの問題に取り組むことに関心があるかどうかを調べてくれないかといっている。
 リードみずからサンタフェにやってきて話をしてもいいといっているが、どうだろうか?

 アダムズの話が終わったとき、「私は一も二もなく、「そいつはすごい提案だ!」といったよ」と、パインズはいう。
コーワンがすぐあとに続いた。「彼にここにきてもらおう。必要な金を手だてはする」。
 ゲルマンら全員が相槌をうった。
しかし彼らのだれがみても、経済学のような複雑なものに取り組むのは二十年は早かった----「それは、困難とはどういうことかの例のようなものだった」と、コーワンはいう。


 「そこには人間の振る舞いが絡んでいた」。だが、いまとなってはもうあとには引けなかった。
やってみる価値はあった。

 やあ、デイヴ。
フィル・アンダースンが電話でパインズにいった。そう、アンダースンは経済学に関心をもっていた。
 じつは、経済学は彼のちょっとした趣味だった。
それに、そう、リードとの会合が興味深く思えたのだ。でもだめなんだ。デイブ、いけそうにないんだ、とても忙しくてね。
 だけどね、フィル。
パインズはアンダースンが旅行嫌いであることを知っていた。うまくやればリードの自家用飛行機に乗ってこれるんだ、かみさんだって連れてこられるし、そしたら二人で自家用飛行機が楽しめる。
 そりゃ、すごいもんだよ。
ああいうジェット機は目的地まで直行してくれるから、六時間も短縮できる。
 ジョンと知り合いになって計画について議論するチャンスもできる。それに・・・・。
わかったよ、とアンダースンはいった。よし、いくよ。




みち草・・・・「複雑系」

2012-11-22 09:00:00 | アルケ・ミスト
 15ヶ月後、彼らは依然として待っていた。

あの興奮のあとにはかならず金がついてくるという自信があったと、当時を振り返ってコーワンはいう。
 「いわば抱卵の時期だった。事は急速に動いているように感じていた」。

だが、ただただ爪を噛んでいる者もいた。
「われわれは危機感を募らせていた。ある程度の勢いを維持しつづけていないと、支持を失うことになってしまう」と、パインズはいう。

 とはいえ、その時期がまったく生産的でなかったというわけでもなかった。
というより、多くの点でその15ヶ月は結構うまく動いていた。
コーワンらは2、3のワークショップを開くくらいの金を集めていた。また組織上の無数のこまごまとした問題をあれこれ考えていた。
 あるいはまた、ロス・アラモスの理論部門でピート・カラザズの腹心の部下だったマイク・シモンズを説得して非常勤の副社長になってもらったので、管理的な問題に関して、コーワンの肩の荷は軽くなっていた。
 
さらに彼らは、望んでいた例の社名も取り戻した。
当初、やむを得ず受け入れた「リオ・グランデ研究所」。
1年以上して、地元の会社がその名称を使いたいといってきた。
「結構ですとも。われわれが望んでいる名前を取り戻してくれるなら」と、彼らは答えた。するとその会社は、「サンタフェ研究所」の名を所有していた倒産寸前のセラピー会社からそれを買い取ってきた。
 交換が成立した。 

 しかしもっと重要なことは、コーワンらが、ゲルマンに大いに力を発揮できるような潜在的状況を巧みにつくり出したことだったろう。
ゲルマンはあいからわず1級の雄弁家だった。さらに彼は、知り合いを口説いて何人かの人間を研究所の委員会の新しいメンバーに引っ張ってきていた。
 「私はいつも相手が、「いや、忙しいので」というだろうと思っていたよ。ところがほとんどいつも、「もちろんさ!いついけばいいのか?そういう考えは私の好みだ。ずっとそれを待っていたんだ!」というではないか」と、ゲルマンはいう。

 しかし取締役会長----基金調達責任者----としては、ゲルマンはまったく何もしていなかった。
最大の礼儀をこめていうなら、彼は生まれながらの管理者などではなかったということだ。
 コーワンは腹を立てていた。
「マレーはいつでもどこかにいっていたよ」。
ゲルマンはあちらこちらに首を突っ込み、しかもそのかかわりは先はかならずしもサンタフェにあるわけではなかった。
 書類が机で山をなし、出先から電話も入れない。みなが気が狂ったようになっていた。みなが満足する形でその情況が解決したのは、1985年7月、アスペンのパインズの家での役員会議のときだった。

 ゲルマンは取締役会長を辞し、新設の科学委員会の委員長になることに同意した。
この委員会なら、彼も嬉々として研究所の知的な計画に打ち込めるというものだ。新しい取締役会長には、国立科学財団での任期を終えたばかりのエド・ナップがなりことになった。

 しかし、コーワンらが何度となく探りを入れたものの、頼みの百万ドルの天使は現れなかった。

大きな財団は、ちょっと薄っぺらな感じのするこういうアイデアには金を注ごうとはしなかった。
なにしろ当時は、レーガンの予算削減により、既存の研究プロジェクトが財団の手を借りようと必死になっているときだった。「われわれは現代的な世界が抱える大きな問題をすべて解決するつもりだった。大勢の人間に笑われたよ」と、カラザズはいう。


参考事項
Reaganomicsレーガノミックスの主軸は、減税、歳出配分転換、規制緩和とインフレ退治であった。
1.減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
2.福祉予算などの非国防支出の歳出削減により、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカを復活させる。
3.規制を緩和し投資を促進する。
4.金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。
この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。
1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日欧に莫大な経常黒字をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。

1985年秋に、プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。以後のアメリカ経済は1990年代初めまで輸出増大により経常収支が修正される一方で、国内需要が低迷し財政赤字は記録的に悪化した。



みち草・・・・「複雑系」

2012-11-21 09:00:00 | アルケ・ミスト
 研究所をどのように組織すべきか?

シカゴ郊外のフェルミ国立加速器研究所長のローバト・ウィルスンは、研究所が実験と密接につながっていることが重要で、理論ばかりでは瞑想だけで終わりかねない、といった。
 IBMの主任研究員、ルイス・ブランスカムは、部門の壁をもたず、人々が創造的に会話し、相互に影響しあえる研究所、という考えを強く支持した。
 「アイデアを盗むような人間がいることが重要だ!」と、彼はいった。

 第1日目の昼食までには参加者は熱を入れはじめていたと、コーワンはいう。
幸運にも、その日は典型的なすばらしい秋のサンタフェ日和だった。

参加者たちはビュッフェの列に並んでから盆を持って外に出ると、スクール・フォア・アメリカン・リサーチの庭で議論を続けた(この学校は、220匹のイヌを埋めた変人の女相続人がかって所有していた土地にあった)。

 「参加者たちは何かが進行していることに気づきはじめ、うち解けていった」と、コーワンはいう。
2日目の日曜日までには「情況はとてもエキサイテイングなものになった」そして月曜日の朝、参加者たちが家路につくころまでには、ここは科学の中核が存在し得ることを疑うものはだれもいなかったと、彼はつけ加える。

 カラザズ個人としては、週末を天国で過ごしたようなものだった。
「なにしろ全世界の、多くの分野の、それもとても創造的な人間が多数集まっていたのだからね」と、彼は続ける。

 「結局彼らには互いにいいたいことがたくさんあったんだ。彼らは基本的に同じ世界観を有していたんだ。つまり、「新しい統合」とは科学の再構築ということ、異なった科学の共通のテーマを新しいやり方で統合することだと感じていた。ジャック・コーワン、スタンフォード大学の生物学者マーク・フェルドマン、それにいろんな数学者と議論したよ。われわれはみな異なった研究の世界からきていながら、テクニックの上でも仕組みの上でも、抱えている問題がひどく重なっていることを発見した。そう、人間の頭というのは働き方が同じということかもしれない。ともかく、あのワークショップでわれわれはみな本物の信者になってしまった。あれを宗教的体験と呼ぶつもりはないが、十分それにちかいものだった」

 ロス・アラモス研究所のエド・ナップは、当時、国立科学財団の理事としてワシントンに出向していた。
彼は研究所構想の話がもちあがったころから何度か議論に加わっていた。その彼にとって、多くの秀でた人間といまこうして場を共にしているというのは仰天ものだった。だから、カラザズに近づいてこういったものだ。

 「俺はここでいったい何をしているのかね?」

 スミソニアンのボブ・アダムズにとっても、同じようなものだった。
「それはものすごい論文の山だったね」と、彼はいう。
「あれこれ考えていても、どうにもつながりのようなものが見えてこない。そんなとき、あのサンタフェのシンポジウムのようなものに出かけていく。するとなんと、神経生物学だの、宇宙論だの、エコシステムの理論だのといったものの中に手がかりがあるではないか。となれば、そりゃ、かかわりたいと思うよ」

 参加者を総入れ替えしてひと月後に開催された2度目のワークショップも、最初と同じくらい効果的だった。
さしものアンダースンさえ感動した。「夢中にならずにいられなかった」と、彼はいう。
 このワークショップによって、懸念は晴れた。どうやらこの集まりは、彼が知っているどんな高級な研究所とも違ったものになるように思えた。
 「ずっと学際的なものになるように感じた。本当に彼らは分野のはざまに目をむけていた」と、彼はいう。その上、そこには何かがあった。「こういったものすべてが計画に乗るかどうかはわからなかったが、明らかに、そのうちの多くはそうなり得るものだった」

 しかしそれ以上の収穫は、このワークショップによって、統合科学というコーワンのヴィジョンがどのようなものかがそれなりにはっきりしたことだった。

 ゲルマンはこう回想する。
「驚くほどたくさん、類似性があった。いろいろな分野のはざまにある問題の中に、ひじょうの多くの共通する特徴があった。注意深く見なければならなかったが、ごたごたしたものをいっさいよけてみると、それがそこにあった」

 とくにこのワークショップにより、どの話題にもその中心に多くの「エージェント」からなる一つのシステムがあることが明白になった。
そのエージェントは分子であるかもしれないし、ニューロンであるかもしれない。種かもしれない。消費者や企業かもしれない。しかしそのエージェントが何であれ、それらは相互の調査と拮抗をとおして、たえずより大きな構造へと自己組織化してく。たとえば、分子は細胞を、ニューロンは脳を、種はエコシステムを、消費者や企業は経済を形成する。

 それぞれのレベルで、新しい創発的な構造が形成され、それが新しい創発的な挙動を示す。

 つまり、複雑性とはじつは創発の科学だったのだ。
コーワンが言葉にしようとしてきたものは、創発の基本的な法則を見だすことだったのだ。

そしてほぼこの時期に、この新しい統合的な科学はそれにふさわしい名前を獲得した。
 複雑性の科学、である。


「この言葉は、われわれが使っていた「新しい総合」などよりずっとよかった。私が関心をもっていることすべてを包含していた。たぶん他の連中にとってもそうだったろう」と、コーワンはいう。
 こうして2度のワークショップの後、コーワンたちは船出した。あとは支援者が出てきて、彼らに資金を授けるだけだった。

   

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-20 09:00:00 | アルケ・ミスト
このワークショップの会場になったサンタフェの考古学センター、スクール・フォア・アメリカン・リサーチのダグラス・シュウオーツは、いまや考古学は他の分野との相互作用をとくに必要としている学問だとして、つぎのようにいった。

この分野の研究者は三つの基本的な謎をつきつけられている。
第1は、霊長類はいつ複雑な言語や文化をはじめとする人間性をかくとくしたのか?
 約数百万年前、直立猿人が出現したときか、それともほんの2、3万年前、Homo neanderthalensisネアンデルタール人が完全に現代的な人間、ホモ・サピエンス・サピエンスに道を譲ったときか?
 いずれであれ、どうして変化がもたらされたのか?数百万の種がわれわれの脳ほど大きな脳をもたずにうまくやってきた。なぜわれわれの種は別だったのか?

⇒2010年5月7日サイエンスには同じくマックス・プランク進化人類学研究所などによって、アフリカを出たホモ・サピエンスが10万~5万年前の間に中東でネアンデルタール人と混血していたという論文が収載された[2]。

第2に、なぜ遊牧的な狩猟と採集生活が農業と定住に取って代わられたのか?
第3は、どんな力が働いて、技術の分化、エリートの誕生、経済や宗教のような要素に基づく権力の出現、といった文化的複雑性が生み出されたのか?

 アメリカ南西部のアナサジ文化の盛衰が残した考古学的遺跡は、あとの二つの問題に対する格好の野外研究所となっているが、これらの謎はどれ一つとしていまだに真の答えを見出していないと、シュウオーツはいった。

備考
Basket Maker1927年に、ニューメキシコ州のサンタフェ付近にあるペコス(Pecos)遺跡に関するアメリカ南西部の考古学に関する研究大会で、アメリカでもっとも偉大な考古学者の一人アルフレッド・ヴィンセント・キダーが、バスケット・メーカー文化をI期からIII期、プエブロ文化をI期からIV期に区分する編年の枠組みを提唱し(ペーコス分類)、現在も使われている。

 答えを見出す唯一の望みは、考古学者と他の分野の専門家がこれまで以上に十分な協力態勢を確立することになると、彼は感じていた。
考古学のフィールドワーカーたちは、古代の気象やエコシステムの変化を再構築するうえで、物理学者、化学者、地質学者、古生物学者らからの豊富な情報を必要としているが、またそれ以上にに、古代の人間がどんな動機につき動かされていたかを理解するために、歴史家、経済学者、社会学者、人類学者からの情報も必要としていると、彼はいった。

 そういった議論に大いに共鳴したのは、シカゴ大学の考古学者で、わずか数週間前にスミソニアン研究所の長官に就任したばかりの、ロバート・マコーマック・アダムズだった。
少なくとも過去十年間、文明の発展に対する人類学者の漸進主義的アプローチにますます我慢ができなくなってきたと、彼はいった。

 メソポタミアに出かけて発掘していたとき、そういった古代文明がカオス的な変動と激変を体験しているのを知り、次第に、文明の盛衰は一種の自己組織化現象であって、人間は環境に対する認識の変化に応じてしかるべきときにしかるべき文化的オルタナティブを選択しているのではないかと考えるようになったと、彼はいった。

 この自己組織化の話題をまったく異なった形で取り上げたのは、複雑性の現象をもっと根源的なレベルで研究しょうとしていたイギリス出身の25歳の鬼才、プリンストン高等学術研究所のステイーブン・ウルフラムだった。
 事実、彼はイリノイ大学に複雑系研究センターを設立すべく、すでに大学と交渉していた。彼はつぎのようにいった。

 物理学や生物学におけるひじょうに複雑なシステムを調べてみると、たいていの場合、その基本構成物と基本法則はきわめて単純である。
つまり複雑性は、こういった単純な多数の構成物が同時に相互作用することことから生まれている。複雑性とは組織化----システムの構成物が相互作用する無数の可能な状態----の中にある、と。

 ウルフラムは、最近彼を含めた多くの理論家たちがセル・オートマトンというのは、プロセスグラマーが定めた法則に従ってコンピュータの画面にパターンを発生させるコンピュータ・プログラムである。セル・オートマトンには厳密に定義されているという長所があるので、結果を詳細に解析することができる。にもかかわらずセル・オートマトンは変化が豊かで、きわめて単純な法則から驚くほどダイナミックで複雑なパターンが生まれる。

 理論家たちの挑戦はいつどのよにして自然界にそのような複雑性が出現するかを記述する普遍的法則を定式化することであり、答えはまだ得られていないが自分は楽天的に考えていると、彼はいった。
 が、彼はこう付け加えた。この研究所をどのようにするにしても、研究者一人ひとりが高水準のコンピュータを与えられるべきである。コンピュータは複雑性の研究の必要不可欠の道具である、と。



 

 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
 ワークショップを組織するのは容易なことではなかった。
とはいっても基金探しはさほどでもなかった。

ゲルマンがコネを使いカーネギー財団から2万5千ドルをかき集めていたし、IBMが1万ドルを寄付してくれた。
さらにコーワンがマッカーサー財団からやはり2万5千ドルを貰っていたからだ(ゲルマンはマーカーサー財団の理事だったが、自分自身に要請するというのは良くないと考えた)。

 もっと困難なのは、だれを招待するかだった。
「問題は、招待者たちが相互に議論してもらい、分野間の境界で起きていることに関して互いに刺激し合ってもらえるか、そしてまた、この種のことを真に育てていくような組織をはたしてわれわれがつくれるか、だった」と、コーワンはいう。そうした会合が相互無理解に陥り、みんなが勝手に話すような事態は十分考えられることだった。----たとえ、退屈のあまり外に出てしまうということはないにしても、そうならないための唯一の方策は、しかるべき質をもった人間を招待することだった。

「われわれは世捨て人のような人間、本を書くために研究室に閉じこもってしまうような人間は欲しなかった。われわれが必要としてのはコミュニケーションであり、興奮であり、相互の知的な刺激だった」と、コーワンはいう。

 とくに必要としてのは、ある確立された分野で真の専門技術と独創性を発揮していながら、新しいアイデアに対してオープンな人間だったと、彼はいう。
 しかしそれは、名のある科学者においてさえ(いや、名のある科学者だからこそかもしれぬが)、絶望的なほどまれな組み合わせだった。
ゲルマンがそういう人間を何人か推薦した。
 「彼には知力を見抜く優れた力があるし、いろんな人間を知っている」と、コーワンはいう。
ハーブ・アンダースンが、そしてパインズとフィル・アンダースンが、それぞれ何人かを推薦した。
 「フィルにはすごいセンスがある。彼は嘘臭いと思った人間には徹底的に反対する」と、コーワンはいう。
十分に広い分野の人間を揃えるために、一夏かけてアメリカじゅうに電話をかけたりブレーンストーミングをやったりしたという。そして結局、そうやって出来上がったものは、物理学者から人類学者、臨床心理学者までの「驚くべき人物リスト」だった。

 もちろん、それらの人間が一堂に会すると何が起こるかは、コーワンにも、他の者にも、皆目見当がつかなかった。
じつをいえば、どうやっても彼ら全員を一堂に集められないことが明らかになった。
 招待者のスケジュール調整のため、やむなくパインズはワークショップを1984年の10月6~7日と11月10~11日の2度の週末に分けておこなうことにした。しかしコーワンの回想によれば、少なくともしばらくは、この分断縮小されたグループでさえ船出はごたごたした。
 
 ゲルマンの45分間の演説で10月6日の会議がはじまった。
演題は「研究所の概念」。
 それは基本的に、前年のクリスマスに彼が上級特別研究員たちにぶちあげた「新しい統合」の拡大版だった。ついで、その概念をいかにして現実的な科学活動と研究所に変えていくかに関する長時間の議論に入った。
 「ちょっとした言い争いがあったよ」と、コーワンはいう。どうすればみなが同じ土俵で話せるか、はじめはまったく見えてこなかった。

 たとえば、シカゴ大学の神経科学者ジャック・コーワン(ジョージ・コーワンとは無関係)は、分子生物学者や神経科学者が手にしている人間の細胞や分子に関する莫大な量のデータを意味あるものとするために、いまや彼らはもっと理論的考察に目を向けはじめるべきだと主張した。
 するとただちに、細胞や生体分子は無秩序の進化の産物であって理論では大したことはできない、と反論を受けた。だがジャック・コーワンは以前からそうした議論を耳にしていたから、退かなかった。
 そしてpeyoteペヨーテやLSDが引き起こす幻覚を例にあげた。そういう幻覚は格子、螺旋、じょうごなど、さまざまなパターンを伴うが、そのいずれも、脳の視覚皮質で起きている電気的な活動の線形波として説明することが可能であり、またその波は物理学者が使っている数学的な場の理論でモデル化することが可能ではないかと、彼はいった。



みち草・・・・「複雑系」

2012-11-18 09:00:00 | アルケ・ミスト
 あとは化学の問題だ----このナンセンスは規模と複雑さという二つの浅瀬にのりあげて崩壊すると、彼はいう。

 たとえば水。
水の分子それ自体は少しも複雑ではない。大きな酸素原子一個に、ミッキーマウスの耳のように小さな水素原子二個がついているだけだ。
 この分子の振る舞いは、原子物理学のよく理解された式に支配されている。だがそういう分子何兆個をポットの中で一緒にすると、突然ゴボゴボ、ジャバジャバと揺れる物質になる。
 つまりその何兆という分子全体が、個々の分子にはない液状という特性を獲得したのだ。
原子物理学の式そのものにはそういった特性を匂わせるものは何もない。液状という特性は「創発エマージング」なのである。

 これとまったく同じように、創発的な特性は創発的な振る舞いを生み出すと、アンダースンはいう。
たとえば液体の水の分子を冷やすと、華氏32度(摂氏0度)で突然それらの分子は無秩序にもみあうのを止めて「相転移」し、氷という秩序だった結晶配列の中に閉じこもる。
 また反対に暖めると、もみあっていた水の分子が突然ばらばらになり、水蒸気へと相転移する。
いずれの相転移も、一個の分子にはなんの意味もない。

 アンダースンは続ける。気象は創発的な特性だ。
メキシコ湾上の水蒸気が光や風と相互作用すると、ハリケーンという創発的な構造になる。
 生命は創発的な特性であり、化学法則に従うDNA分子、タンパク質分子、その他もろもろの分子から生まれている。心は創発的な特性であり、生物学の細胞の法則に従う百数十億の神経細胞から生まれている。
 
 じつは1972年の論文でアンダースンが指摘したように、宇宙は1種の階層構造を形成しているとみることができる。
「複雑さのそれぞれのレベルで、まったく新しい特性が出現している。それゆえ、それぞれの段階でまったく新しい法則や概念や一般化が必要なのであり、したがって、前段階におけるのと同じ程度に、インスピレーションと創造性が要求される。心理学は応用生物学ではないし、生物学は応用化学ではない」

 この1972年の記事を読んだり著者と直接話をしている者には、研究所に対する彼の共感がどこにあるかは明らかだったろう。
アンダースンにとって無数の形をとって現れる創発性こそ、科学におけるもっとも興味をそそる謎だったのだ。それにくらべればクオークなど退屈なものに思えた。

 だからこそ彼はまず固体物理学へと進んだ。
固体物理学は創発的現象の不思議の国だった。(1977年に彼が受賞したノーベル賞は、ある種の金属が電気伝導体から絶縁体へと変ずる難解な相転移についての理論的説明に対して贈られている)。
 しかし、固体物理学もまた、彼を虜にするほどのものではなかった。実際、1984年6月にパインズから招待状が届いたころ、アンダースンは、物理学の分野で彼が考え出した技術を応用し、タンパク質分子の三次元構造の解明やニューラル・ネットワークの挙動の解析に精を出していた。
 あるいは、それ以前にも彼はこの世の究極の神秘の一つに取り組み、地球上の最初の生命形態が集合的自己組織化によって単純な化学物質から生じた可能性があることを指摘していた。

 だからもしサンタフェ研究所が本物なら、耳を傾けてもよいとアンダースンは思った。もし本物なら。
パインズからの招待状を受け取ってからの数週間後、それを見極めるチャンスがやってきた。  
 たまたまアスペン物理学センターの取締役会長をしていたので、そこでパインズと会い、中性子星の内部構造に関する計算について意見を交わすことになっていた。そなわけでパインズの部屋で二人がはじめて会ったとき、アンダースンは単刀直入にいった。

 「わかった、デイブ。で、こいつは薄っぺらなもんかね、それとも本物かね?」
もちろん、パインズがいうことはわかっていた----「本物だよ」。だがその答えがどんな印象のものかを、自分の耳で確かめたいと思った。

パインズはなんとかよい印象をもってもらおうと全力を傾けた。そしてアンダースンに、ぜひそれに加わってほしいといった。懐疑的だといっても、アンダースンは少なくともゲルマンに劣らぬ広範な関心と見識を有していた。彼が加わってくれたら、やっと釣り合いがとれるとというものだ。それに彼のノーベル賞により、研究所の信用が飛躍的に高まる。

 だからパインズはアンダースンにこういった。ええ、研究所は分野横断に目を向けよとしているのであって、二,三の流行の話題に目を向けようとしているわけではない。
またそれはマレー・ゲルマンの世間体を繕うためのものでもない。そのことでいえば、ロス・アラモス研究所の付属でもない(パインズは、アンダースンがロス・アラモス研究所とかかわることは絶対にないことを知っていた)。

 いま主導的役割を果たしているのはコーワンと自分だが、もしアンダースンが入ってくれるたら、アンダースンが主導的役割を演じられるように自分が取り計らうつもりだ。で、たとえば今回のワークショップのために推薦してもらえるような講演者はいないだろうか?

 これが功を奏した。
アンダースンは、講演者名と演題についてあれこれ思案している自分に気がついた。
そして自分が虜になっていることを知った。彼の存在を知らしめる魅力的なチャンス。
 「研究所に自分がなにがしかの影響力をもてるという気持ちだった」と、彼はいう。
「もしそれが本当に実現するなら、積極的にそこに入って、事態の前進に、そして過去の失敗を避け多少なりともうまくいくように、努力しよと思った」

 ゲルマンとカラザズもアスペンに来ていたので、夏のあいだじゅうワークショップと研究所についての議論が続いた。
そしてアンダースンは、その夏の終わりにプリンストンに戻るや、失敗せずに研究所を組織するにはどうすべきかを、3、4枚の紙にメモした。(重要なポイント----独立した部門をつくらないこと!)。
 その秋、彼はサンタフェへの旅の予約をした。





みち草・・・・「複雑系」

2012-11-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
 一九八四年六月二九日、フィル・アンダースンはパインズからの手紙をプリンストンで受け取った。
この秋におこなわれる科学における「新しい統合」に関するワークショップに出席していただけませんでしょうか?

 うーん、まあね。
アンダースンは、控えめにいっても懐疑的だった。彼はすでにこの集団の噂を耳にしていた。ゲルマンが、いく先々で研究所の話をしていたからだ。
 だがアンダースンにはその研究所が、カリフォルニア工科大学ノーベル賞受賞者のための隠居所のように映った。何百万ドルという寄付金ときらびやかな研究で鳴るあのカリフォルニア工科大学の。

 なるほどアンダースンなら、どこからみてもマレー・ゲルマンにひけをとるまい。
彼は一九七七年に固体物理学の研究でノーベル賞を貰っていたし、過去30年間、粒子物理学におけるゲルマン同様、固体物理学における中心的存在だった。
 だが一人の人間としては、アンダースンはきらびやかな科学を軽蔑していた。
流行の問題に取り組むことは好きではなかった。自分が取り組んでいる問題に他の理論家たちが殺到しはじめたと感じると、彼はいつでも本能的に他の問題に鞍替えしていた。
 
複雑系 ─ 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち

フィル・アンダースン
◦固体物理学者。ノーベル賞(1977)
◦還元主義の流れを逆転させる。/自然法則の存在を信ずることは、宇宙が究極的には理解可能であると信ずることだ。
◦創発的(エマージェント)/相転移(相転移は、一個の分子には何の意味もない)

 とくに、多くの若い自信家どもが専門知識をまるで学問的序列の証しのようにひけらかすのは、実際に彼らが何かすごいことをしていようがいまいが、たえられなかった。
 「俺を見ろ、俺は粒子物理学者だ!」「俺を見ろ、俺は宇宙論者だ!」

 小規模のプロジェクトが----つまり、アンダースンが科学的により生産的であると考えているようなプロジェクトが----いつも苦しんでいるというのに、ピカピカの新型望遠鏡やとてつもなく贅沢な粒子加速器にアメリカ議会が湯水のごとく金を注ぐことに憤慨していた。
 彼はすでに莫大な時間を費やし、最近粒子物理学者たちが公表した数十億ドルもする超伝導スーパー加速器計画を、議会の委員会で批判してきた。

 さらに、彼にはこのサンタフェの一団がアマチュア集団のように思えた。
学際的研究所の創設に関してマレー・ゲルマンがいったい何を知っているというのか?ゲルマンはこれまでに学際的プロジェクトに取り組んだことはない。
 なるほど少なくともパインズは天体物理者との共同研究にある程度の時間を割き、固体物理学を中性子星の構造の解析に応用しようとしてきた。
実際、彼とアンダースンはその小さな問題を共同で研究しているところだった。
 だがほかの連中はどうか?アンダースン自身は、ベル研究所という、まさに学際的な環境の中で研究生活の大半を過ごしてきた。だから彼は、そうした企てがいかに注意を要するものかを知っていた。
 
 学問の世界には、哀れにも挫折した道徳的な新研究所の残骸が散らばっている。
変わり者があとを受け継いでくれなければ、だいたいそうしたものは、精神は高邁でも沈滞してしまう。実際アンダースンは、かのプリンストンの地で哀れな例を目の当たりにしていた。
 オッペンハイマー、アインシュタイン、フォン・ノイマンの館、あの厳かなプリンストン高等学術研究所。
なるほど、数学のようないくつかのことに関しては大いに成功した。
 だが学際的な研究所としてはみじめな失敗例だと、彼はみていた。切れ者の集団だが、おのれ自身のことばかりしていて、互には意見を交わすことはほとんどない。そこに入っても思いを果たせなかった優秀な科学者を、アンダースンは何人も見てきた。 

 にもかかわらず、アンダースンはサンタフェ研究所に関心を抱いた。
還元主義の流れを逆転させる----それは彼のような人間のためにある言葉だった。彼は個人的に何十年と還元主義にゲリラ戦を挑んできたのだ。

 回想によれば、最初はアンダースンを行動へと駆り立てたのは粒子物理学者ヴィクトル・ヴァイスコップフの1965年の講演禄を読んでいるときだったという。
 その中でヴァイスコップフは、「基礎的な」科学----粒子物理学、それに一部の宇宙論----は、たとえば固体物理学のような応用理論とは異なっているだけでなく優れてもいる。とほのめかしていた。
 アンダースンは深く悩んだ。そして侮辱された固体物理学者だからこそ冷酷にもなった。アンダースンは反発し、ただちに彼自身の講演を準備した。
 そして1972年、彼はそれを「さらなる違い」と題して、科学雑誌に論文を出した。以来ずっと彼は、ことあるごとにその議論を展開してきた。

 「哲学的に正しい」形の還元主義があることは彼とても真っ先に認めると、アンダースンはいう。
それは、宇宙が自然法則に支配されているという信念だ。大多数の科学者はその仮定を心の底から受け入れていると、彼はいう。そうでなければ、科学が存在できるとは考えがたい。
 自然法則の存在を信ずることは、宇宙が究極的には理解可能であると信ずることだ。それは、銀河の密度を決定しているのと同じ力が、地面へリンゴの落下を決定していると考えることだ。ダイヤモンドを通り抜ける光を屈折させているのと同じ原子が、細胞のようなものを形づくっていると考えることだ。
 ビッグバンから生じたのと同じ電子、同じ中性子、同じ陽子が、人間の脳、頭脳、精神を生み出していると考えることだ。自然法則の存在を信ずることは、もっとも深いレベルでの宇宙の統合を信ずることなのだ。

しかしこの信念は、基本法則と基本粒子だけが研究に値し、他のことはすべて大型コンピュータで予測できるということではない、とアンダースンはいう。にもかかわらず、明らかに多くの科学者がそう考えていると彼はいう。

 1932年、positron陽電子(電子の反物質)を発見した物理学者は、「あとは化学の問題だ!」と宣言した。
⇒医療分野として、ポジトロン断層法を用いたがんの発見などに利用される。
これは陽電子放出核種でラベルされた生体分子の分布や代謝を、放射能の空間分布やその時間変化を通してイメージングする手法である。日本ではがん診療への利用のみならず、がん検診としても利用されているが、これには賛否両論がある。
 材料分野においては、半導体の空孔型欠陥の検知(密度や種類の測定)や、ポリマーの自由体積の測定などにも利用できることが知られているが、主に研究室レベルで用いられており、産業利用の裾野が十分に開拓されていない。
 これはデータの解釈に専門的な知識が必要であることや、容易に入手できる市販装置が存在しないことなどが原因である。


もっと最近では、マレー・ゲルマン自身が、固体物理学を「とるに足らない物理学」として一蹴したことは有名だ。
 アンダースンが怒りを抑えられないのは、まさにその種の傲慢さだった。彼は1972年の論文で、「すべてを単純な基本法則に還元する能力は、そうした法則から出発し宇宙を再構築していく能力を意味してはいない」と書いた。
 たとえば、粒子物理学者が基本法則について語れば語るほど、その法則と他の科学が扱っている現実的な問題との関連は希薄になるし、社会との関連はなおのことである。









 

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-16 09:00:00 | アルケ・ミスト
 控え目であることはともかくとして、コーワンは現場担当としてじつにふさわしい人物だった。
彼にはいたる所に知り合いがいる。
もちろん、いやでもそうならざるを得なかったのだが、ニューメキシコ州はかなり人口の少ない所だから、ロス・アラモス研究所の管理者たちならだれだってすぐいろいろな有力者と知り合いになる。だが、たまたまそのロス・アラモスの管理者が過去にみずから大金持ちになったことがあるとなれば、それはそれで助けになる。

 1960年代はじめのことだったと、コーワンはいう。
「ロス・アラモスはいわば社会主義経済の見本みたいな所だった。私有財産なんてものはなかった。だれもが階級や重要さに準じて住宅をあてがわれていたんだ。若い人間は本当に丸太小屋のような家をあてがわれていたよ。軍のバラックみたいなものをね」

「ちょうど私は人を雇おうと----当時雇うといえばだいたい男をだが----していた。それは容易なことではなかった。雇ったりすると、なぜそんな丸太小屋に住まねばならないのかで、たちまち奥さんともめてしまう。それでわれわれは、不動産を手にできるようにと政府を口説いた。だが銀行は頑として政府の施設には貸し付けようとしない。そこで、「そうだ、貯金をして貸し付けよう」って思った。

 家内に、もしかするとわれわれの投資は消えてなくなるぞ、っていったら、家内は「いいわ」ってね。
ところが、消えなかった!貯金と貸し付けが大いに儲けになった。
それでわれわれは銀行をはじめる決心をした。ロス・アラモス・ナショナル・バンクを。それはあっという間の成功だった」

「それで得たものといえば、1人の優秀な弁護士と2人の親切な上院議員だけだったがね」と、彼はいう。
 コーワンはすでに1983年の春に研究所の事業資金の必要性を予見し、旧友の一人、スピーゲル・カタログ会社のアート・スピーゲルに、援助を打診していた。コーワンとスピーゲルはともにサンタフェ・オペラの創設メンバーであり、スピーゲル夫妻はニューメキシコ交響楽団の中心的な基金調達者だった。
 スピーゲルにすれば、コーワンのいう研究所がどんなものかよくわからなかったが、ハイテク分野でのしあがってくる日本に対する必要な対応であるとすれば、素晴らしいアイデアだと思った。

 そこで彼は、コーワンがサンタフェのさまざまな方面の富豪たちに請願して歩くのに、手を貸しはじめた。

 一九八四年の春までにスピーゲルは、マウンテン・ベル会社と、比較的景気のよい貯蓄貸付銀行の一つ(その後破産した)から、少々の基金を現金で手に入れていた。額は大したものではなかったが、当時まだコーワンも基金調達を最優先には考えてはいなかった。
 彼は土台づくりをすることのほうが重要だろうと考えていた。
たとえば一九八四年のイースターのころ、コーワンは三〇〇ドルほど自腹を切って、サンタフェでコミュニテイのリーダーたちのための昼食会を開いた。
 「何を考えているか知ってもらって関心と支援を喚起することが作戦的に望ましいだろうと、われわれは考えた。それもあまり強くは求めなかった。われわれとしてはただ、何かよくわからないことをしにロス・アラモスから突如インテリが大勢サンタフェにきている。などという新聞記事を彼らに読ませたくなかったんだ」

 この昼食会もまた1銭にもならなかったが、よい経験だった。ゲルマンがやってきて演説をした。参会者は喜んだ。ノーベル賞授賞者だ!と。

 一方、法人化の問題もあった。
いやしくもだれかに基金を求める話をしようというなら、それを振り込んでもらために、個人の当座預金口座以外のものを用意せねばならない。
そこでコーワンとニック・メトロポリスはジャック・キャンベルのところに出向いた。キャンベルはコーワンの旧友の1人で、かつてはニューメキシコ州知事をやっていたが、いまはサンタフェで景気のよい法律会社の社長をしていた。キャンベルは話を聞いて大いに喜んだ。知事をやっているときいつもこういうことをしたいと思っていた、と彼はいった。
 ニューメキシコ州の大学は実世界の問題からあまりにも孤立しすぎていたからだ。キャンベルは、会社設立のための書類と定款をつくるために彼の会社が無料奉仕をするといってくれた。
彼はまた、この新会社が真に非営利企業の資格に値するものであることをどうすれば国税庁が納得するかを、コーワンにいろいろ助言した(国税庁はこういったことに関して疑い深いことで有名だ。コーワンは主旨説明のためにみずからダグラスに飛ばねばならなかった)。

 一九八四年五月、サンタフェ研究所が法人化された。
ただし具体的な場所もなければ、スタッフもいなかった。持ち金も実質的にゼロ。その実体といえば、一個の私書箱、それにアルバカーキーにあるスピーゲルの事務所の電話番号だけだった。
 しかるべき社名すらなかった。
「サンタフェ研究所」という名称は、すでに、あるセラピー施設に所有権があった。
そこでコーワンたちはしぶしぶ「リオ・グランデ研究所」とすることにした。(リオ・グランデはサンタフェの数マイル西を流れる川)。ところが、それもまた存在していた。

 あの厄介な中身の問題もまだ残っていた。
ゲルマンの雄弁はじつにすばらしかった。ゲルマンはじつに切れる男だった。
だが、研究所がしようとしていることを正確に知るまでは----いや、研究所がそれでうまくいくという証拠を手にするまでは----だれ一人として、数百万ドルをポンとはたこうとはしなかった。
 「ハーブ、どうしたらこういうもをはじめられるかね?」と、コーワンはロス・アラモスの同僚のハーブ・アンダースンに聞いた。
自分の気に入っているやり方は、ぬきんでた連中をワークショップに集め、それぞれに、一番身近な、そして一番熱を入れている問題について語ってもらうことだと、アンダースンはいった。
そうすれば、招いた人間次第では、さまざまな学問分野の話題がカバーされるだろうし、またもし本当に諸分野の合流というものがあるなら、もはや話だけでにとどまらないだろうと、彼はいった。

「それで私はいったんだ。「それはいい。とりかかってくれ」ってね」。
アンダースンはとりかかった。そのあとすぐ、パインズがワークショップのとりまとめを買って出てくれた。彼も同じように考えていたからだ。アンダースンは喜んでそれを彼に任せた。


参考事項
socialist market economy「政治的には社会主義、経済的には市場経済」
ただし、ここでの文脈は少し違っているようだが・・・

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
 ゲルマンの真骨頂が発揮されたのは、1983年のクリスマス直後のことだった。
ゲルマン、ロータ、パインズの3人がニューメキシコでクリスマス休暇を過ごすのをいつも楽しみにしていることを知っていたコーワンは----実際ゲルマンはサンタフェに新しい家を建てたばかりだった----研究所構想を前進させようと、上級特別研究員たちに再度集合をかけた。

 ゲルマンは最大限の努力をした。
そういう狭い考えはあまりはかばかしくない、と彼は研究員たちにいった。
「真に大きな仕事をわれわれ自身に課する必要がある。それは新しい大きな科学的統合----多くの分野を包含する統合----に取り組むことだ」


Charles Robert Darwin1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。

多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。

恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。

 ダーウィンの生物進化論は19世紀のそういう大統合だったと、彼はいった。
異なった種の植物や動物が明白に関連をもっていることを示した生物学。地球が信じられないほど古く、過去がとてつもなく大きな時間をもつことを示した、地学という新しい科学。
 そのとてつもなく大きな過去に棲息していた植物と動物が、今日生きているものとはひどく異なっていたことを証明した古生物学。
ダーウィンの生物進化論は、それらの学問が示した証拠を結びつけたのだ。

 また、もっと近年にはBig Bangビッグバンとして知られる大統合がある、それらにより、150億年ほど前の想像を絶する宇宙の爆発の中で星や銀河の全物質がいかにして存在するようになったかがつまびらやかになった、と彼はいった。

 「われわれが求めるべきはいま見えはじめてきたいくつかの極度に学際的な大統合ではないかと思う、と私はいったんだ」と、ゲルマンはいう。
 すでにいくつかはそういった道を進みはじめていた。分子生物学、非線形科学、認知科学。だが、たしかにそれ以外にも新しい統合があった。だからこの新しい研究所はそういうものを探し出すべきである、と。

 ぜひ、いま騒がれているような大型・高速のコンピュータを使うことで可能になる話題を選ぼうではないか。
コンピュータを使うのはモデル化だけのためだけではなく、そういう機械そのものが複雑なシステムの例だからだ、そう彼はつけ加えた。
 ニック(メトロポリス)とジャンカルロ(ロータ)の考えは完全に正しい。
コンピュータはそうした統合の一部になるかもしれない。だが、はじめる前に目隠しをしてはならない。いやしくもやろうというなら、正しくやるべきだ、そう彼はいった。
 
 聴く者にとって、彼の雄弁は冴えた。その雄弁の中に、コーワンと上級特別研究員たちが1年近くなんとか言葉で表現しようとしてきたヴィジョンがあった。
 そしてそれ以降は、だいたい意見が一致するようになった。あとは彼ら研究員たちが、可能なかぎり広い視野で研究所の設立に努める。
そしてゲルマンが、寄付をしてくれそうな相手をうまく説得してくれれば----明らかに彼はそうしようとしていた----たぶん、ことは動くだろう。

 問題は落着したが、このグループが処理すべき、もう少し次元の低い問題あった。だれがことに当たるのか、だれがこの研究所を軌道に乗せるのか。
 だれもが、いわずもがなの方向を見た。
実際、それはコーワン自身が望んだ仕事だった。そう、この研究所は彼のアイデアだった。彼はそのアイデアに確信を抱いていた。それがなされるべきだと考えていた。
 いや、なされねばならないと思っていた。だが、彼はこれまでずっと実質的に管理の道ばかり歩んできた。いや気がさしていた。いつも研究基金をかき集めているなんて、もううんざりだ。予算を削減しろと友人たちにいうのは、もう結構だ。週末に自分自身の研究をこそこそやるなんて、もう辟易だ。

 歳は63になっていたし、ノートは、時間不足ゆえに取り組めないでいるアイデアであふれていた。
太陽ニュートリノの探索。二重β崩壊というひじょうに希少で興味深い形態の放射能の研究。こういったことこそやってみたいと思ってきたことだったし、実際にやろうとしていることだった。

 だから、もちろん、パインズがコーワンにこの計画の先頭に立つようにいったとき、コーワンは「わかった」といった。
じつはパインズがあらかじめ指名の打診をしていたので、コーワンはそれなりに熟慮のしていた。そして最終的にそう決意したのは、ロス・アラモス研究所での管理業務に彼がつねに感じていたのと同じ理由からだった。

 「管理なんてだれにでもできるものだが、みんなそれをするのがどうも下手だと、つねづね感じていたんだ」。加えて、俺がやってやると口角泡を飛ばす者もいなかった。

 オーケー、とコーワンはみなにいった。だれかほかの人間がやてくれるようになるまで、喜んで自分が一番槍を務めていろいろやってみよう。
 ただし一つだけ、マレーには前面に立ってもらいたい、と。

「基金を求めにいけば、お前たちはいったいどうやって明日のエネルギー危機の問題を解決しようとしているのか、と問われる。だが、当時われわれはもっとずっと地味にやりはじめていた。世界の新しい見方というより、何かひじょに役に立つようなものを生み出すのに、何年もかかるだろうと私は思っていた。
 だから、「ここにかくかくしかじかの教授がいて、いまその教授は、日常的な問題と関係することを研究すべく、これまで没頭してきたクオークの研究を捨てようとしているのです」と、いうわけだ。
そうすれば、われわれがいったい何をいってるのかよくわからなくても、相手は耳を貸してくれる」と、コーワンはいう。

全員が同意した。コーワンが研究所の社長兼現場担当に、ゲルマンが取締役会長になることになった。