かくして、1986年8月6日の水曜日の夕方、アンダースンと妻のジョイスは、シテイコープのジェット機ガルフストリーム号に乗り込み、サンタフェへ向かって飛び立った。
なるほど速いもんだと、アンダースンは思った。
しかし凍てつくほど寒くもあった。
このシテイコープのジェット機は商業航路よりずっと上の高度1万5千メートルで飛んでいたが、ヒーターが十分効いていなかったようだった。
ジョイス・アンダースンは毛布にくるまって後部座席で丸くなっていた。
一方フィルは、前部座席でリードと経済学の話をしていた。話にはリードの3人の補佐、バイロン・ニーフ、ユージェニア・シンガー、ヴィクター・メネゼス、それに、かってプリンストン高等学術研究所の所長を務め、いまはラッセル・セージ財団とサンタフェ研究所双方の委員を務めるMITのエコノミスト、カール・ケイスンも加わっていた。
なるほどリードは、アダムズがいったとおり、なかなかの人物だった。
頭がよく、率直で、話は理路整然としていた。
ニューヨーク界隈では、大量解雇をしたことでこきおろされていたが、じかに会ってみると、穏やかで、気取りのない人物であるように思えた。
どうやらこの頭取は、座席の肘掛に脚を1本だらりと掛けて話すのが好きらしかった。
相手がノーベル賞受賞者だからといって、おじけづくようなことはないのだ。この会合を楽しみにしていた、自分がかかわっているラッセル・セージ財団や他の学究的な会合を楽しみにしているのと同じ理由からね、と彼はいった。
「そういった類のことが楽しくてね。私の毎日の仕事とはまったく違う見方で世界を見ている学究的な知的集団の人間と話ができるからね。世界を二つの目で見られるようになる」と、彼はいう。
そしてこのときは、世界経済に対する自分のひねくれた見方をどうやって学者仲間に説明したらいいかをあれこれ考えて楽しんだと、彼は回想する。
「銀行家たちにそれを説明する場合とは明らかに違うからね」
アンダースンにとってこのサンタフェへの旅は、物理学、経済学、そして予測のつかない地球レベルの資本の動きをめぐるすばらしい放談の会になった。
彼はリードの補佐の一人が会話から取り残されまいとしていることに気づいた。
何枚ものセーターを重ね着して震えているユージェニア・シンガーが、リードのために彼女が用意した経済モデル(連邦準備銀行や日本銀行などが使っている世界経済の大規模コンピュータ・シュミレーション)の調査結果についての話に、加わろうとしていた。
たちまちアンダースンは彼女が気に入ってしまった。
じつはシンガーは機内の温度ゆえに震えているわけではなかった。
「ジョンが私にやらせたことにビクビクしてたんです!」と、彼女は笑う。
彼女には数理統計学の修士号以上のものはなかったし、その分野で最近仕事をしたこともなかった。
「それを知った上で、ジョンは私をあの場にいかせノーベル賞受賞者たちと話をっせたのよ!あの専門レベルにはついていけそうになかったわ」
彼女はいう。
「ジョンからいわれた仕事にノーといおうとしたのは、あとにも先にもあのとき1度だけ。でもジョンはいとも平然と何気ない調子で、「ああ、ユージェニア、うまくやれるよ。君のほうがみんなよりよく知ってるさ」」。
そんなわけで彼女はやってきた。そしてリードのいうとおりだった。
アダムズとコーワンの2人が座長を務める会合がはじまったのは翌朝の8時、サンタフェから10マイルほど北にある観光牧場、ランチョ・エンカンダードにおいてだった。
出席者は12人。
その中にはコーワンの旧友、ニューメキシコ・パブリック・サービス・カンパニーの会長でこの会合を資金面で支えたジェリー・ガイストもいた。
この会合は科学的な意見の交換の場として設けられたわけではなかった。
双方が互いに相手方を説得し自分がやりたいことをなんとかして相手にやらせようとする、いわば自己宣伝の場だった。
オーバーヘッド・プロジェクター用資料を何枚も携えてきたリードが、口火を切った。
基本的に自分にとっての問題は、経済分析を無視するように進行していく世界経済システムに自分が身動き取れなくなっていることだと、つぎのようにいった。
既存の新古典派の理論ともっぱらそれに頼ったコンピュータ・モデルからは、リスクと不確定性を前にリアルタイムで決断していくのに必要な情報が得られない。
こういったコンピュータ・モデルには信じれらないほど複雑なものがある。
あとでシンガーがくわしく説明するが、たとえばあるモデルは世界を4500万の方程式と6000の変数で記述している。
にもかかわらず、そういうモデルのどれ一つとして社会的、政治的要素を扱っていない。
しかし、そうした要素こそしばしばもっとも重要な変数なのだ。
そうしたモデルのほとんどは、モデル化する人間が金利、為替レートといった変数を手で入力していくことを前提にしているが、まさにこうしたものこそ銀行家が〈予測〉したいと思っている量なのだ。
また実質的にすべてモデルが、世界は静的な経済均衡からそれほどずれたりはしないと仮定しているが、実際には世界はたえず経済的ショックや大変動に揺さぶられている。
要するに、大規模なEconometrics計量経済学的モデルから自分たち銀行同業者が得るものといえば、本能的にわかるようなもの、つまり想像できるような結果ばかりだ。
参考記事
単位根と共和分 [編集]
1960年代まで、古典的計量分析において時系列データを用いた回帰分析では、データそのものに対する考察はほとんどなく、そのまま最小二乗法などが適用されていた。主にマクロ計量分析では、高い決定係数を示す分析結果が多く、それは結果の妥当性を示すものと認識されていた。
これに対し1970年代に入ると、ノーベル経済学賞のGrangerが無関係なランダム・ウォークに従う変数同士を回帰させた場合、無関係にもかかわらず、回帰係数の値が統計的に0でない値になり、高い決定係数を示し、同時に低いDurbin-Watson統計量を示すことをモンテカルロ分析から明らかにした。
この結果の意味することは、1970年代以前に計量経済学で検証されてきた様々な経済モデルが統計的には全く意味がない可能性があるということである。
この画期的な論文を発表する前は、計量経済学者および統計学者からはあまり評判がよくなかったが、彼らも実際に分析したところ、同様の結果を得たことから次第にデータそのものに対する考察が進められてきた。
1970年代から急速に研究が進み、1980年代に入るとP.C.B.Phillipsが金字塔とも言えるべき論文をEconometricaに掲載する。
同じ号の次の論文が、Grangerがノーベル賞を取る理由の1つとなった共和分に関する論文であった。これらの論文により、単位根および共和分の検定が普及することとなる。
いまだ、“しんかろん”。
「種の起源」出版記念日、改訂の始まりとなる。
なるほど速いもんだと、アンダースンは思った。
しかし凍てつくほど寒くもあった。
このシテイコープのジェット機は商業航路よりずっと上の高度1万5千メートルで飛んでいたが、ヒーターが十分効いていなかったようだった。
ジョイス・アンダースンは毛布にくるまって後部座席で丸くなっていた。
一方フィルは、前部座席でリードと経済学の話をしていた。話にはリードの3人の補佐、バイロン・ニーフ、ユージェニア・シンガー、ヴィクター・メネゼス、それに、かってプリンストン高等学術研究所の所長を務め、いまはラッセル・セージ財団とサンタフェ研究所双方の委員を務めるMITのエコノミスト、カール・ケイスンも加わっていた。
なるほどリードは、アダムズがいったとおり、なかなかの人物だった。
頭がよく、率直で、話は理路整然としていた。
ニューヨーク界隈では、大量解雇をしたことでこきおろされていたが、じかに会ってみると、穏やかで、気取りのない人物であるように思えた。
どうやらこの頭取は、座席の肘掛に脚を1本だらりと掛けて話すのが好きらしかった。
相手がノーベル賞受賞者だからといって、おじけづくようなことはないのだ。この会合を楽しみにしていた、自分がかかわっているラッセル・セージ財団や他の学究的な会合を楽しみにしているのと同じ理由からね、と彼はいった。
「そういった類のことが楽しくてね。私の毎日の仕事とはまったく違う見方で世界を見ている学究的な知的集団の人間と話ができるからね。世界を二つの目で見られるようになる」と、彼はいう。
そしてこのときは、世界経済に対する自分のひねくれた見方をどうやって学者仲間に説明したらいいかをあれこれ考えて楽しんだと、彼は回想する。
「銀行家たちにそれを説明する場合とは明らかに違うからね」
アンダースンにとってこのサンタフェへの旅は、物理学、経済学、そして予測のつかない地球レベルの資本の動きをめぐるすばらしい放談の会になった。
彼はリードの補佐の一人が会話から取り残されまいとしていることに気づいた。
何枚ものセーターを重ね着して震えているユージェニア・シンガーが、リードのために彼女が用意した経済モデル(連邦準備銀行や日本銀行などが使っている世界経済の大規模コンピュータ・シュミレーション)の調査結果についての話に、加わろうとしていた。
たちまちアンダースンは彼女が気に入ってしまった。
じつはシンガーは機内の温度ゆえに震えているわけではなかった。
「ジョンが私にやらせたことにビクビクしてたんです!」と、彼女は笑う。
彼女には数理統計学の修士号以上のものはなかったし、その分野で最近仕事をしたこともなかった。
「それを知った上で、ジョンは私をあの場にいかせノーベル賞受賞者たちと話をっせたのよ!あの専門レベルにはついていけそうになかったわ」
彼女はいう。
「ジョンからいわれた仕事にノーといおうとしたのは、あとにも先にもあのとき1度だけ。でもジョンはいとも平然と何気ない調子で、「ああ、ユージェニア、うまくやれるよ。君のほうがみんなよりよく知ってるさ」」。
そんなわけで彼女はやってきた。そしてリードのいうとおりだった。
アダムズとコーワンの2人が座長を務める会合がはじまったのは翌朝の8時、サンタフェから10マイルほど北にある観光牧場、ランチョ・エンカンダードにおいてだった。
出席者は12人。
その中にはコーワンの旧友、ニューメキシコ・パブリック・サービス・カンパニーの会長でこの会合を資金面で支えたジェリー・ガイストもいた。
この会合は科学的な意見の交換の場として設けられたわけではなかった。
双方が互いに相手方を説得し自分がやりたいことをなんとかして相手にやらせようとする、いわば自己宣伝の場だった。
オーバーヘッド・プロジェクター用資料を何枚も携えてきたリードが、口火を切った。
基本的に自分にとっての問題は、経済分析を無視するように進行していく世界経済システムに自分が身動き取れなくなっていることだと、つぎのようにいった。
既存の新古典派の理論ともっぱらそれに頼ったコンピュータ・モデルからは、リスクと不確定性を前にリアルタイムで決断していくのに必要な情報が得られない。
こういったコンピュータ・モデルには信じれらないほど複雑なものがある。
あとでシンガーがくわしく説明するが、たとえばあるモデルは世界を4500万の方程式と6000の変数で記述している。
にもかかわらず、そういうモデルのどれ一つとして社会的、政治的要素を扱っていない。
しかし、そうした要素こそしばしばもっとも重要な変数なのだ。
そうしたモデルのほとんどは、モデル化する人間が金利、為替レートといった変数を手で入力していくことを前提にしているが、まさにこうしたものこそ銀行家が〈予測〉したいと思っている量なのだ。
また実質的にすべてモデルが、世界は静的な経済均衡からそれほどずれたりはしないと仮定しているが、実際には世界はたえず経済的ショックや大変動に揺さぶられている。
要するに、大規模なEconometrics計量経済学的モデルから自分たち銀行同業者が得るものといえば、本能的にわかるようなもの、つまり想像できるような結果ばかりだ。
参考記事
単位根と共和分 [編集]
1960年代まで、古典的計量分析において時系列データを用いた回帰分析では、データそのものに対する考察はほとんどなく、そのまま最小二乗法などが適用されていた。主にマクロ計量分析では、高い決定係数を示す分析結果が多く、それは結果の妥当性を示すものと認識されていた。
これに対し1970年代に入ると、ノーベル経済学賞のGrangerが無関係なランダム・ウォークに従う変数同士を回帰させた場合、無関係にもかかわらず、回帰係数の値が統計的に0でない値になり、高い決定係数を示し、同時に低いDurbin-Watson統計量を示すことをモンテカルロ分析から明らかにした。
この結果の意味することは、1970年代以前に計量経済学で検証されてきた様々な経済モデルが統計的には全く意味がない可能性があるということである。
この画期的な論文を発表する前は、計量経済学者および統計学者からはあまり評判がよくなかったが、彼らも実際に分析したところ、同様の結果を得たことから次第にデータそのものに対する考察が進められてきた。
1970年代から急速に研究が進み、1980年代に入るとP.C.B.Phillipsが金字塔とも言えるべき論文をEconometricaに掲載する。
同じ号の次の論文が、Grangerがノーベル賞を取る理由の1つとなった共和分に関する論文であった。これらの論文により、単位根および共和分の検定が普及することとなる。
いまだ、“しんかろん”。
「種の起源」出版記念日、改訂の始まりとなる。