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みち草・・・・「人工生命」

2012-12-04 09:00:00 | アルケ・ミスト
 何世紀もの間、この考えに疑問をさしはさむ理由はみつからなかった。

 17世紀イギリスの外科医で、医学研究者でもあるWilliam Harveyウィリアム・ハーベイの発見も、その信念を曇らせることはなかった。

ハーベイは「肥料の中から自然に蠅がわいてくる」という誤った考え(アリストテレスさえも泥から動物が生じると信じていた)を論破したが、生命には、生物が卵の時期に注入された何か神的な部分があると信じていた。

 「すべては卵より生ず」とハーベイは言った。
つまり生命は生命からしか生じないということだ。⇒彼は発生学でも大きな足跡を残した。彼はシカの交尾前後からの発生の段階を観察し、アリストテレスの『胎児は月経血から生じる』という説を否定した。彼はほ乳類の卵を発見することはできなかったが、他の動物との比較からその存在を確信し、「すべては卵から」との言葉を残した。


 しかし産業革命と、そのころニュートン力学や熱力学の法則に喚起された理論は、科学の領域を広げはじめ、生物学の王国を近づきがたいほどの神秘性を持たなくなった。

 ニュートンの世界観は、宇宙の天体がある時間にどこにあるのかをわれわれが予言できることを示した。
それなら生物の働きも同じように予測可能なのでは・・・・と、生命を機械的な働きと見なす学派ができた。

 機械論によれば、生命は文字どおり時計のような、オートマトン〔自動機械;自動人形〕なのだ。
それなら、複製は可能なのか?デカルトやライプニッツのような機械論者は、それは可能だと考えたらしい。

 そしてある人びとは、この怪しげな領域に入り込んでいった。
彼らこそは、初期の、生命のような行動をする特殊なオートマトンの作者だった。

 それらのオートマトンは、ルーブ・ゴールドバーグ〔アメリカの漫画家〕が描いたように、巧妙なスイス時計のように優美に汲み上げられた。

 彼らは歯車ばかりでなく、重力、水力、滑車や日光までも利用した。
その結果できたのは、ベルンの大時計のような驚くべきものだった。

 1530年に作られたこの巨大な時計は、毎時の時を告げる雄鶏に引き継ぎ、時計の王様の頷く合図で、槍をあやつる小熊や、獰猛なライオンなどの丹念に振り付けされたオートマトンの大行列をはき出した。

 これらは正真正銘、楽しみを目指したもので、自然の地位を奪おうとするつもりで作られた物ではない。
しかし後に、オートマトンは生物と無生物の間の暗い境界に踏み込もうとするようになる。

 最も有名な例は、ジャック・ド・ポーカンソンというフランス人によって作られた。
彼は20代の1738年に、「生きたアヒルのように飲んだり、食べたり、鳴いたり、水に飛び込んだり、食物を消化したりする金メッキの銅製の人工アヒル」で、パリを席捲した。

 ヨーロッパ中で公開されたこのアヒルに、人びとは困惑した。
それは驚くほど複雑で、片方の羽の中に4百以上の可動部があった。
 1800年代初めにこのアヒルが壊れてしまった時、ゲーテはその運命を嘆き悲しみ、「ボーカンソンのオートマトンが完全に麻痺してしまった。羽毛を失い骨組みだけになり、大麦を少しはたべるがもう消化はしない」と日記に書いている。

 スイスの発明家レヒスタイナーがこのアヒルを再生し、1844年にミラノのスカラ座で揚々と再上演した。
レヒスタイナーはそれから3年をかけて、自分の人工アヒルを組み立てた。このアヒルはミュンヘンの宮廷劇場で、バイエルン王のルードウィッヒ1世や高官たちに謁見した。

 「フライエ・ボルト」紙は、このすばらしい新種の鳥のふるまいを詳細に報じた。
アヒルの動きは、きっとその背後に知性がある、とそれを見た人に思い込ませるだけの自然さがあった。

 食べ物を与えると、アヒルは貪欲にオートミールをつつき、時たま休んでは頭をもたげ、驚き見入る見物人の方を見すえた。
そして山場では「・・・・その鳥の体が痙攣しはじめ、急いで食べたため胃袋がびっくりして消化に苦しんでいるのが分かる。しかしこの小くて果敢な鳥は持ちこたえ、何分か経つと明らかに体内の不調を克服していると思われる仕草をする。事実、部屋中に耐えがたいほどの臭が充満してくるのだ・・・・」

 そのアヒル機械は今日はもう存在しないので、この文章はわれわれの想像力をかきたてるだけだ。
もし、レヒスタイナーや彼の先人ボーアンソンが、生命を創造することはまじめに研究するに値するという深い理解を持っていたとしたらどうだったろう。

 これらの人造アヒルを観察し、その仕組みを自然のそれと比較することで、消化や胃腸内ガスの滞留などの新陳代謝現象について洞察を得ることは、19世紀の生物学者にとって魅惑的か、そうでなくても啓蒙的ではありえただろう。
 1847年に出たある新聞の記事はまさに、レヒスタイナーの有能なアヒルは、科学的な意味を持つ生物的モデルであると論じている。

・・・・ このオートマトンのすべての動きや態度は、生物の最も微細な部分までを複製しており、われわれの目の前に本物のアヒルがいると信じたくなるほど、自然を忠実にまねたものだ。
 
 しかしこれらは、非常に複雑な機械によって再現されているにすぎない。
特に、このアヒルの息をし、消化し、排泄するという三つの場面で、発明者の達した技がいかんなく発揮されている。

 ここには明らかに、ただの機械の能力を超える何かがある。
この芸術家は同化作用と栄養化学の過程の深い秘密に通暁している。

 生命は電磁気的な活動に依存しており、この発明者もそれを自動人形オートマトン作りに用いた。

 自然の過程の秘密を把握し、実用的な応用にこの知識を使うだけでも、自然科学、特に生理学に大きな前進をもたらす。
この優れた知性によってもたらされる発見は、彼の名を不朽のものにすることは間違いない。



















みち草・・・・「人工生命」

2012-12-03 09:00:00 | アルケ・ミスト
 それにもかかわらず、フォン・ノイマンがオートマントの理論に残した遺産は、このハンガリーの数学者を、いずれは人工生命と呼ばれる分野の父と呼ばれる分野の父として位置づけるのに十分なものだった。

 彼はまた「自己複製オートマトン」と呼ばれるものを頭に描いていた。この生き物にはいくつかの種類があるが、彼は死ぬ前にそのうちの2つを完全に仕上げただけだった。

 フォン・ノイマンは自分の仕事が衝撃的な意味を持つことをよく分かっていた。
彼がNorbert Wienerノーバート・ウィーナーに宛てた手紙には、「未来の機械の持つ自己複製の可能性」についてマスコミに洩らしてはならない、と書かれていた。

 彼は自分が「非常に高潔な態度をとっており、ジャーナリストとはまったく接触を持っていない」と誇らしげに述べていた。

 フォン・ノイマンは、それまで人工的な方法で生命の過程を作り出そうとしてきた人びとに押された烙印についても気づいていた。
メアリー・シェリーが書いたFrankensteinフランケンシュタインの怪物の亡霊や、新しいSFに描かれた多くの話も、こうした試みに複雑な影を落としていた。

 フォン・ノイマンの仕事のほとんどの部分は、まだ彼の頭の中や書き散らした物の中にしかなかったのだから、彼がこの「おもちゃ」を弄んですぐに投げ出し、仲間の科学者オスカー・モーゲンスターンの孫の世代にバラバラのままで渡してしまったとしても、それを温かく見守り、引き継いでいくしかないだろう。こういう種類の研究がどれほどの意味合いを持つのか、何のヒントもなかったのだ。

 しかしフォン・ノイマンは、それまでは科学の暗部とか疑似科学としか思われていなかった部分に新しい時代を開こうと、それまで何も存在しなかった領域に生命の概念を拡張しようとしたのだ。

 いつの時代でも、こうした分野の探求は理性的というより秘儀に属するものだった。

 科学者は、生命とはそれを形作っている部分に宿る性質に依存したもの、と考えていた。

 物理的な材料を複製することで生命を作り出せるなどという考えは、彼らには不条理なものだった。その代わりに必要になるのは、生命の本質と思われるもので、つまり超自然的な神の領域に踏み込むことだった。
 旧約聖書の創造の物語によると、ともかく主なる神が、「・・・・土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」のだ。

 魂のないものに生命の息を吹き込むことは、人間の役割ではなかったが、古代の伝説や説話ではこういうことがありうると考えた。
ピグマリオンは彫像に命を与えた。
 2世紀に活躍したローマの歴史家デイオン・カシウスは、悪魔の姿を見ると血や汗を流して卒倒したり勝利を勝ち取る将軍の方にうやうやしく振り向いたりする、予知能力を持った彫像についても述べている。
 ユダヤの伝説には、博識のラビ〔律法学者〕が粘土の魂に命を与えてゴーレムという獣を作り出し、最初はそれが人間の召使となるが、ついにはその創造者にとりつくという話がある。

 しかしそれらは神話にすぎず、生き物とそうでない物の間には越えられない深い淵があった。
アリストテレスは、哲学者の中でも生命を定義することに時間を割いた方だが、魂を持っていることが生物をその周りの無機物から区別することだと信じていた。
 そして人間だけが魂が高度に多様化しているが、動物や植物はそれほど大したものではなく、どんな生物でも「身体は魂のためにのみ存在する」と書いている。
 それでは魂の材料としての生命の息を持っていない人間は、どうやって生命を創造したりできるのか?




おまけ伊予の松山鼓踊り
















みち草・・・・「人工生命」

2012-12-02 09:00:00 | アルケ・ミスト
 生物はあまりに複雑で、人間が今まで作ったどんなものより込み入っているという意見には、フォン・ノイマンも賛成するだろう。
しかし彼は、究極的には生命は論理に基づいていると信じていたので、いずれは降伏し、人間の前にその秘密をさらけ出すだろうと信じていた。
いずれはできる、いずれはやってみせると、フォン・ノイマンはそれに取りかかった。

 1940年代の後半に、彼はこの話題について一連の講義をするために招かれた。
最も有名なものは、カリフォルニア州のパサデイナでの「ヒクソン・シンポジウム」の一部として行われたものだ。
 聴衆は仲間の科学者たちで、物理学、生物学、医学などの研究者だった。
ホスト役を務めたのは、後にノーベル賞を取るライナス・ポーリングだった。

 コンピュータ科学者は1人も参加していなかった。というのも、この分野は言うまでもなく、まだフォン・ノイマンの頭の中以外には存在していなかったからだ。
 講演は取り立てて専門的なものではなかったが、彼の話の主題があまりに大胆なので、程度の高い聴衆も困惑気味だった。
聴衆の1人はこの講演の経験を、「凧のしっぽにぶら下がているような、楽しくも困難な役柄」とたとえたくらいだ。

 この講義は「オートマトンの一般論理学的理論」と題されていた。
フォン・ノイマンは「オートマトン」という言葉で、自動的に動く機械のうち、そのふるまいが確実に数学的に記述できるものを指していた。

 オートマトンとは、情報を処理し論理に従って動き、外から取り込んだデータを自分の中にプログラムされている命令に照らし合わせることで次の行動を判断し、黙々と疲れることなく実行していくものをいう。
 フォン・ノイマンは、バクテリアから人類までの生物を機械とみなすことができ、また逆も成り立つことに何の疑問も抱いていなかったため、彼の手にかかると、この言葉は通常の意味よりもっと融通無碍な使われ方をした。
 オートマトンを理解しているということは、機械というものをよりよく理解しているばかりか、生命をも理解していることになる。

 ヒクソンでの講演で最も興味深く型破りだったのは、それが自己複製を扱っていたところだ。
人工的な機械は(ちょうど、シダやオウムやヒトのような自然の機械がしているように)自分自身を複製したり、その複製がまた複製を作り出すことができるものなのだろうか?



 肯定的な見方をするなら、自然と人工のオートマトンの関係は非常に深い。子孫を残すというのは、あるものが生きているかどうかを判断する最初の常識的な基準となる。     



 ルネ・デカルトがフランスの王女に、動物だって実はオートマトンの一つの綱にすぎない、と宣言したとき、王女は時計を指して「では、あれが子供を産みますか」と言った。
 デカルトは困惑したが、フォン・ノイマンはこの条件を満たすことができると信じていた。
機械だって自分自身を再生産〈できる〉はず、と彼は断言した。そして彼はそれを証明するつもりでいた。


 フォン・ノイマンはオートマトンの理論を、自分の人生を飾る仕事だと考えていた。
それについて語り、仲間と話し合い、決定的な本を書こうと考えていた。しかし彼の草稿は完成に至ることなく、まだ誰も足を踏み入れたことのない、生命と機械が交じりあう領域への探検も行われなかった。

 56年4月、フォン・ノイマンはウオルターリード病院に入院した。
彼が持ち込んだ書類の中には、彼がエール大学で行うことに同意した「コンピュータと脳」と題された連続講義のためのノートもあった。
 この講義の要点は、コンピュータと人間はオートマトンの違う綱に属しているという点にあり、両者を比べて違いを浮き彫りにし理解を深めようとするものだった。
 最初に彼は5日間の講義を予定しており、病気だと分かってからも、少々短縮した形で車椅子から講義するつもりでいた。
しかしそれも楽観的すぎた。彼は二度と病院を離れることはなかった。


最上級生です




 「ジョニーの非凡な精神力も、肉体の衰弱を乗り越えることはできませんでした」と妻のクララ・フォン・ノイマンは書いている。
そして57年2月8日、ジョン・フォン・ノイマンは永眠した。
 彼の最後の日々には、最高機密の審査を通った空軍の付添人が、彼が精神錯乱状態になって機密情報を漏らさないかどうか監視していた。
しかしフォン・ノイマンは、何の秘密も囁かなかった。

みち草・・・・「人工生命」

2012-12-01 09:00:00 | アルケ・ミスト
約束の地

 フォン・ノイマンは死と向かい合っていた。

1954年のある日、彼の肩にとても耐えらないほどの激痛が走った。それはもう治療の見込みのないほど広がった。
前立腺の癌を告げる痛みだった。

 彼に残されたのは、あと数ヶ月の命だった。
驚くべき陽気さ、どうしようもないほどの活発な行動力、徹底的な探究心、楽天的な博識さ。そういったよく知られた彼の性格は、今では見る影もなかった。

 ただ、鋭いウイットを飛ばすことや、数学的な才能を発揮するなど、今世紀で他に並ぶもののないほどの能力は、まだそのままであった。しかし友人たちは、何ともいえない憂鬱を感じ取った。

「悲しみが彼を支配していた」と、長年の同僚がフォン・ノイマンが最後にロスアラモスを訪ねたときの様子を書いている。

「後で考えてはたと思ったが、彼はそれがたぶん最後の訪問だと考えていたのだろう。自分がかつて興味を持ち楽しく過ごした場所を覚えておこうとするかのように、あたりの景色や山を見回していた。」

 フォン・ノイマンは53歳の生涯で、その驚くべき精神力を最大限に発揮した。
彼を賞賛するあるノーベル賞受賞者の言葉を借りるなら、まさに「千分の一インチを正確に刻む歯車が付いた。完璧な装置だ」

 ブタベストの頃の彼は、数学の神童だった。

家族は裕福なユダヤ系の銀行家で、彼の才能を養うために教育を施す資力があった。

 22歳で博士号を習得し、23歳でベルリン大学で最年少の講師となり、30歳でアインシュタインなどといっしょに、ニュージャージ州プリンストンの高等研究所の最初の教授に任命されている。

 彼の計算力や記憶力は伝説的で、電話帳の名前のリストから、歴史本に書かれたビザンチン文化の秘儀までをそのまま暗唱することができた。

そして好奇心から創造性を大きく開花させ、彼を同世代の寵児にしていった。

ゲッチンゲンの喫茶店で量子力学の細部を作る手助けをし、ベルリンではゲーム理論をほとんど発明するところまでいく、プリンストンではエルゴールド理論の問題を解決し、ロスアラモスでは原子爆弾の製作に手を貸した。

 そして電子式のデジタル・コンピュータの開発に対して決定的な貢献をし、この種の機械はほとんどが「ノイマン型」と呼ばれるようになる。

「フォン・ノイマンのような頭脳は、人類を超えた新しい種のものではないかと思った」と物理学者のハンス・ベーテが言っているが、それが本気だったかどうかは分からない。
しかし友人の間では実際は、「ジョニー(フォン・ノイマンの愛称)は本当は人間ではなく半神ではあるが、〈ホモ・サピエンス〉のことを大変よく理解しているので、なるほどと思わせるほど彼らのことをうまくまねできるのだ」と冗談を言われていた。

 フォン・ノイマンは健康にはまったく無関心で、毎年1台は車をおシャカにしたが、そのたびに無傷のままで脱出し、明らかに自分は不死身であると信じていた。
 しかし今となっては癌が彼を襲い、「ついにこんなことになってしまった。残りの人生をどうやって過ごせばいいのだろう?」と医者に相談した。医者は彼に、自分にとって最も重要だと思われることを続けるように言った。

 その頃、彼は二つのことに専心していた。

一つは兵器、つまり死の科学技術。
もう一つはもう少し抽象的な、生命の科学技術だった。

 最初のものは、政府への義務だった。
癌と分かる三ヶ月前にフォン・ノイマンは国家原子力委員会で宣言し、科学者として国の核兵器実現のための主要な発言者となっていた。そこにおける彼の影響力は、国家弾道ミサイル委員会がフォン・ノイマン・グループと呼ばれていたことからもうかがえる。

 数学者フォン・ノイマンは大胆に、自らが製作にかかわった恐ろしい兵器の利用法を、提唱していた。
たぶん、共産化するハンガリーから一家が避難したときの思いがあっただろうが、核を抑止力に使うよう主張していた。
 病気にもかかわらず彼は仕事を続け、最後に入院するまで冷戦の首脳たちの間で最高機密の会議の顧問として働いていた。

 彼のもう一つの科学的な探求は、兵器研究とは好対照だった。
フォン・ノイマンはコンピュータ、もっと正確にいえば、「コンピュータがなるはずのもの」と、自然のふるまいの類似性に夢中になっていた。彼の目標は、自然と人工にまたがる生物学理論を打ち立てることだった。

 生物のふるまいが機械のそれと同じという考え方は、まさにフォン・ノイマンのような人間には当然のことだった。
彼の世界は、論理的な規則から成り立っていた。どんな現象でも煮詰めていけば、その本質はそれを作り出す公理に行き着く。

 フォン・ノイマンは最初の電子式コンピュータになるスーパー計算機が作られる話を聞いたときも、まずその装置の論理的な動きについて尋ねた。
 コンピュータはただ数字を長々と計算するものではなくまず第一に何よりも論理的な機械である、という考えを形にしていったのはフォン・ノイマンだろう。

 生命とて差はない。彼が生命自体を、再構成が可能な出来事や相互作用の連鎖と見なしていたのも、驚くにはあたらない。
方程式の中には、神秘主義が入り込む余地はない。ランダム性もない。

 「蛋白質のような高度に合目的性のある有機物が、ランダムな過程を起源に持つと考えただけでもぞっとする」と、彼は書いている。




注記遺伝子⇒染色体はタンパク質と核酸からできていることが明らかにされたが、当時はタンパク質が遺伝子の正体であると考えられていた。

補記 ミーシャーの後継者リヒャルト・アルトマンはヌクレインからタンパク質を取り除き、残ったものを核酸とnucleic acidと命名しました。それは有機塩基、リン酸更には糖などからなる複合物だった。








みち草・・・・「人工生命」

2012-11-30 09:00:00 | アルケ・ミスト
 しかし複雑さも、長いリストに載る一つの要素に過ぎない。

 われわれの科学的知識をもってしても、「生命について、一般的に受け入れられている定義はない」と、「ブリタニカ百科事典」の生命の項にカール・セーガンがそっけなく書いている。

 哲学者マーク・ベドウはこの問題について、「哲学の根本的な問題の一つだが、哲学者はあまり真剣に考えていない。生物学者も然りだ。彼らの典型的な反応は、両手を上げて放棄してしまうことだ。自然としての生命の性質は、水を調べて、「その本質はH2O だ」と言う類のものではない。生命は物質ではなく、はかない現象的なものなのだ」と主張する。

 哲学者もこのジレンマにはお手上げで、「こんな問題に、純粋に哲学的な答えが可能なのだろうか?」とエリオット・ソバーは書いている。
このウィスコンシン大学の哲学者は、この疑問は究極的には重要なものでないと主張しており、「ある機械が環境からエネルギーを取り出し、育ち、自分の体を修理し、再生するとしたら、それが『本当に』生きているか、問う余地などあるのだろうか」と述べている。

 しかしこのような機械があったとしたら、問題の解決どころか、かえって新しい問題を引き起こすことになる。
このように、人工的な有機体を文字通り生きていると見なすことに、多くの人は恐怖を抱くのではないだろうか。

 現在ほとんどの人は、自然の生物の有機体と同じ物質で作られていない物は、生きているとは見なさない。
物理学者のGerald Feinbergジェラルド・ファインバーグと生物学者のロバート・シャピロは、「生命はすべて炭素化合物でできており、水性の媒体内で機能すると信じている人」をさす、「カーバキストcarbaquistsという言葉を作り出した。それにしてもいまだ、生命が他の形態では生じえないと、きちんと論じた人がいないのも確かだ。

 いま生きていると見なされているものは、もしかしたらもっと高い次元の生命の一部に過ぎないのかもしれない。また生命の歴史の不幸な偶然によって、われわれには可能な生命のうちの非常に限られた部分しか見えていないのかもしれない。
 そうするとわれわれが挑もうとしているのは、われわれの知っている特性のうち、どれがその部分に特有なものなのか、またどれがあらゆる生命に共通なのかを見分けることだろう。
 今後われわれがどんな生命体を目にするのかは分からないが、それらはきっと〈ありえたはずの生命life-as-it-could-be〉(この言葉は、最初の人工生命会議を組織したクリストファー・ラングストンが作り出した)を創造したものになるだろう。

 「もし科学者が広範な生命理論を打ち立てるつもりなら、非有機物によってできた物も生きている、と認める根本的な発想の転換が必要になるだろう」とラングトンは言う。
「ほとんどの生物学者は、いまのところおしなべて、これをためらっている。人びとが生きているというのと同じ意味で、これらが生きているとみなせるようになるためには、少々時間がかかるだろう。しかしわれわれはそれを実現するつもりだ」。

 この本では、まさにこの、生命の過程そのものを創造することで世界の見方を変えてしまおうとする目論見について紹介する。
もしラングストンや彼の仲間たちがこの目標を達成したなら、人類は自分たちをもっと違った光のもとに照らし出すことになるだろう。
 その時われわれは、自分勝手に決めた進化の階層の頂点に立っているのではなく、ほかにもたくさんの可能な形態を含む生命の、ある部分集合を代表する特に複雑な代表に過ぎなくなるだろう。

 われわれのユニークな点は、自分を継ぐものを創造できる、という点にこそあるだろう。

 人工生命は、現実に十分に進化した生身の生命に基盤を置く遺伝子工学のようなものとは、かなり違うものだ。
人工生命を手掛ける科学者は、実際に生命系を生み出し、進化させ、観察することのできる方法を作り出そうとしている。
 進化の行く末を操作し、地球上の生命系の範囲を広げ、その先を目指すような努力が続けられている。
この大実験から、生命自身についてのもっと深い理解が生まれ、その機構をわれわれの仕事に役立てることが可能になり、きっと最終的には、生物系を司る自然の力強い法則が発見されるばかりか、もっと複雑な非線形型自己組織化の相互作用に潜む法則が見つけられるだろう。

 この人工生命への探求に人間を駆り立てるものは、われわれの前に繰り広げられている込み入って理解しがたい自然を、「生命とは何か」という最も意味深い疑問を通して解き明かしたいという欲望なのだ。

 いろいろな経歴を持った研究者たちが出した結論は、この疑問に答えようとするには、ただ観察をするだけでなく創造してみるべきだ、ということだった。

 まず最初に一歩は、これが可能だと信じることだ。
信じるに足る証拠は、実際にいくつもある。次には実行してみること。それが人間の寿命と比べてかなり長い時間を要しても、進化的な時間尺度からいえば一瞬の話だ。
ともかく、この恐ろしいまでの研究はすでに始まっている。そこでこの本では、これにかかわるすばらしい人びとを紹介しようと思う。

 彼らの研究の成果によって、われわれに生きていることの意味が分かるかもしれない。生命を作ることによって、ついにはlife生命とは何かを理解できるかもしれないのだ。

















みち草・・・・「人工生命」

2012-11-29 09:00:00 | アルケ・ミスト
 1987年9月、「人工生命」Artificial Life:A-Lifeという新しい科学を作ろうと、ニューメキシコ州のロス・アラモスに、百人以上の科学者と技術者たちが集まった。

 この催しは科学技術の重要な分水嶺となるものだった。

生物学的な機構への理解が深まるのと同時に、デジタル・コンピュータの能力が指数的に増大し、自然の最高傑作である生物系を人類が複製できる寸前のところまで来ているのだ。
 集まった研究者たちは一様に、この分野への期待に胸を膨らましていたが、同時に過去の経験から、今後の可能性について慎重にもなっていた。
 
 この会議で産声を上げたこの分野の暗い側面に、「フランケンシュタインとその怪物」を書いたMary Wollstonecraft Godwin Shelleyメアリー・シェリーの伝説が影を落とし、あたりを徘徊しはじめた。
ある参会者はそれを、まるで幽霊がいるかのようだと評した。



 「今後50年から100年の間に、新しい種類の生物が出現するだろう。それらはもともと人間によって設計されたという意味において人工の生物となるだろう。しかし彼らは繁殖して進化し、元の形から変化していき、まともな定義ならどう見ても「生きている」ということになる・・・この人工生命の誕生は、人類の出現以来の最も重要な歴史的な出来事であるといえる・・・・。

 人工生命、すなわちA-Lifeは、人類の手による生物的な有機体や機構の創造と研究をさす言葉だ。
この生命の材料は無機物で、その本質は情報であり、コンピュータという窯の中から創り出される。
ちょうど医学者が生命の機構を試験管の中(in vitro)で扱うように、人工生命を手がける生物学者やコンピュータ科学者は、シリコンの中(in silico)に生命を創造しようとしているのだ。

 しかしこれらは、本物の「生身」の生命体にどれほど近いものなのだろうか。
多くの実験者たちは、実験室で作られてたこれらが、ただ生命の一側面をシュミレーションしたものにすぎないと認めている。
 これらの「弱い」人工生命の実践家たちの目標は、地上もしくはどこか知らない場所に存在する可能性のある生命に光を当て、その理解を深めることなのだ。



細胞というものを発見して以来、物質がいかに自ら形を成し、生きた構造物になっていくのかについて、科学者たちはさまざまな考え方をしてきた。
 そして、ダーウィンの考えが生命科学にとっていかに重要かが理解されると、進化というものが生命を定義する際の中心的課題となった。
ある人にとっては、進化〈こそ〉が中心的な問題だった。
 「生命は、自然淘汰によって進化を起こす性質を獲得しているかどうかで定義されるべきだ」と、ジョン・メイナード=スミスは進化生物学者らしい書き方をしている。

 「つまり、増殖すること、多様性を持つこと、形質の継承を備えたものが生きているのであり、これらの性質のうち、一つでも欠けているものは生命とはいえない」と、彼は続ける。後に発見されるDNAは、生きていると考えられる物質のすべてに存在する本質的な要素であり、もっとも重要な意義を持ったものだ。略

 最近の研究によれば、複雑系理論が生物学の中心的要素と考えられるようになり、これが生気を生じるために必要な条件として認識されはじめている。
 複雑系とは、その要素がかなり絡み合っていて、それらのふるまいが従来の標準的な線型方程式では予測できず。あまりに多くの要素があるため、その中に含まれる無数のふるまいの総和を全体として理解する以外に方法がないシステムをいう。

還元主義者はこういうシステムは相手にしてないが、最近では彼らの方法だけでは生命の問題には太刀打ちできないことが明らかになってきている。
 というのは、生命系の中では、全体は部分の総和よりも大きくなてしまうからだ。

これから見ていくように、生命は不思議な微量の液体によって生じるのではなく、複雑さのおけげで結果的にあるふるまいや特性が生じてくるのだ。
 こうした機構自体が進化によって作り出されたものかもしれないが、進化を進める力はある程度の複雑さがなければ生じてこない。

生命系は、こうした複雑さを多かれ少なかれ要約したもので、その点からいって、ある科学者は、複雑さこそが生命の性質を定義付けるものだと考えている。

 

「ザ・プロファイラー」ダーウィン 神に挑んだオタク …をみた。
そのジェントルマンの軌跡は、責任感のある勇気を支えられた、手紙力。
1000人余りへの15万通のその文面にも、ジェントルマン精神が滲み出していた。





みち草・・・・「複雑系」

2012-11-28 09:00:00 | アルケ・ミスト
 1987年9月22日、火曜日、サンタフェ研究所で新たにはじまる経済学研究プログラムの共同責任者の地位を提示された翌朝、早朝の日差しを浴びてすべてがまぶしいまでに光りかがやくなか、ブライアン・アーサーは眠い目をこすりながら、ジョン・ホランドといっしょに車に乗りこみ、ロス・アラモスへ向かった。

 前日から5日間の予定ですでにはじまっている人工生命のワークショップに顔を出すためだった。

 「人工生命」という言葉がつまるところ何を意味しているのか、それについてアーサーは、どうもいまひとるはっきりしないという感じをいだいていた。
 
 じつのところ、前の週の経済学の会議を終えたばかりでまだ疲れきっていたアーサーには、どうもピンとこないという感じがつきまっとていたのである。

 だがホランドが説明してくれたように、人工生命は人工知能に似ているようだった。
ちがいは、コンピュータ上で思考のプロセスを模する代わりに、コンピュータ上で進化や生命そのものの基本的な生物学的メカニズムを模するところにあった。
 
 ホランドがいうには、人工生命は遺伝的アルゴリズムでクラシファイア・システム(移動;案内)で彼がこれまでやろうとしてきたこととよく似ているが、それよりさらに広範囲にわたるさらに野心的な試みだということだった。



補記
「猫とネズミ」と名付けたゲームを構築し,クラシファイア・システム(CS)の学習効果を調べた.

従来のAI(人工知能)的な手法によって記述されたルールが,if(餌がある)then(食べろ)のように明示的に,上位のレベルで表現されるのに対して,ここではルールを明示的に記述することを避け,if(自分の座標・相対速度・残り体力)then(動く方向と力・捕獲行動の有無)のように非明示的に,より下位の物理レベルの記述をしている.

また,優秀なルールの系列を積極的に記憶する発火の実績を重視したアルゴリズムを考案し,常に安定して好成績を残すことに成功した.

バケツリレー・アルゴリズム(BB)の検証を行うことで,Hollandが主張する橋渡しクラシファイア(bridging classifier)の存在も確認された.さらにランダムに設定された初期ルールから,優秀なルールに進化させることで知識の獲得を行なった.

これは,ルールをemergence創発(emerge)させるという意味で,非明示性をコンセプトとする人工生命のアプローチでもある.




物理世界の猫とネズミ : クラシファイア・システムによる学習How cat and mouse aquire the physics-law? : A learning by Classifier Systems上田 雄悟Ueda Yugo筑波大学構造工学系星野 力Hoshino Tsutomu
筑波大学構造工学系「情報処理学会研究報告. 人工知能研究会報告」 94(20), 17-24, 1994-03-08 一般社団法人情報処理学会



みち草・・・・「複雑系」

2012-11-27 09:00:00 | アルケ・ミスト
 いや、デイヴ、私にはこの新しい経済学ワークショップを組織する時間はないんだ、とアンダースンはいった。

だがフィル、リードと会ったとき、きみはいろいろ興味深い話をしたじゃないか、それにこの新しいワークショップはものすごいチャンスになる。
 きみは自然科学者を招待する。

 われわれはだれか超一流の経済学者に残り半分の経済学者を招待してもらうように頼むから。そうパインズは電話でいた。

 ノー。
いいかい、また頼み事だっていうことはわかっているが、じつに面白いもんだと思うよ。考えてくれないかな。
 ジョイスにそれをはなしてくれないかな。もしイエスといってくれれば、手伝うから。放っておいたりしないよ。

 わかった、わかったよデイブ。やるよ。アンダースンはため息をついた。
イエスとはいったものの、アンダースンはどう事を運んだものか、途方に暮れた。

 こんなことを組織したことは一度もなかった。いや、だれだってそうだ。
そう、まずやらねばならなぬことは、会合の半分の経済学の頭になってくれる人物を探すことだった。

 なるほど彼は、少なくとも1人はエコノミストを知っていた。
エール大学のJames Tobinジェイムズ・トービンだった。トービンははイリノイ州シャンペン・アーバナのユニバーシテイ・ハイ・スクールの数年先輩だった。
 それに、たまたま彼もノーベル賞をもらっていた。

 ジム、あなたはこういうことに興味をもたれますか?とアンダースンは電話でいった。
いや。
 ひとしきりアンダースンの説明を聞いてから、そうトービンはいった。
自分は適任者ではないが、スタンフォード大学のケン(ケネス)・アローならいいかもしれない。もしよければ、自分がアローに電話をしよう。

 どうやらトービンが好意的に話してくれていたようだった。
アンダースンが電話をかけると、アローはとても興味をもっていた。

 「ケント私は電話でいろんな話をしたよ」と、アンダースンはいう。
「われわれ2人はとても似たアイデアをもっていることがわかった」。

 アローは今日の主流の経済学の創始者の1人だというのに、アンダースン同様、彼もまたちょっとした偶像破壊者だった。
彼は標準的な理論の欠点が何かを十二分に知っていた。事実、たいていの批評者よりは彼のほうがそれを的確にいうことができた。
 また、みずから「異端の」論文と呼んでいるものを著し、新しいアプローチを呼びかけていた。


 たとえば、エコノミストたちにもっと人間の本当の心理に注意を向けるように促したり、ごく最近は、非線形科学やカオス理論の数学を経済学で使えないかどうかに関心をもつようになっていた。
 だからアンダースンやサンタフェの連中が新しい方向に進みはじめられるのではないかと考えているというなら----「そう、それは面白くないはずはないように思えた」と、彼はいう。

 かくしてアンダースンとアローは、以前研究所創立のためのワークショップにてきようしたのとまったく同じ基準で、それぞれに名簿をつくりはじめた。
 彼らが求めたのは、図抜けた専門的背景と開かれた心を併せもつ人間だった。

 とりわけアローは、必要な人間は正統的な経済学がよくわかっている者、と考えていた。
標準的なモデルを批判することはかまわないが、何を批判しているのかを十分わけまえているほうがいい。彼は少し考えてから、数人の名前を書き留めた。

 ついで彼は、経験主義的傾向を持つ人間を数人混ぜたいと思った。
新古典派の理論家一色の集団になっては健康的ではあるまい、標準的な理論が扱いに困っているものがあることを思い出させてくれる人間が必要だ、と彼は思った。

 そうだな----たぶん去年あのセミナーをやったとかいう若い男、人口統計学の研究をやっていた、そしていつも収穫逓増についてまくしたてている男。ぴったりじゃないか。
 アーサー、と彼は名簿に書いた。
そう、ブライアン・アーサーである。
  
書評Amazon.co.jp
「収益逓増と経路依存―複雑系の経済学」W.ブライアン アーサー

 ただ本書を読まれる場合、複雑系についての多少の予備知識は必要だと思います。ミッチェル・ワールドロップ「複雑系」がお薦めです。
また自然科学系に強い方は、スチュアート・カウフマン「自己組織化と進化の論理」を読んでおけば、大体のことはわかります。

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-26 09:00:00 | アルケ・ミスト
 そもそもこのワークショップは、ロス・アラモス研究所のポストドック、クリス・ラングトンが1人で考え出したものだった。
ラングソトンはかって、ミシガン大学でホランドやアート・パークスが指導した学生だった。ホランドにいわせれば、ラングトンにはやや晩成型のところがあった。
 しかも、博士論文をまだ完全に仕上げきってはいなかった。
だが、ラングソトンはいつもなみはずれた学生だった。
 「想像力がじつに豊かでね」とホランドはいった。
「あらゆる種類の経験を生かし、それを一つにまとめあげるのがじつにうまい」。

 そのホランドが、人工生命のワークショップに途方もないエネルギーをそそぎこんでいた。
人工生命はラングトンの頭のなかで誕生したものだ。人工生命という名前もChristopher Langtonラングトンがつけた。
 この十年間というもの、ラングトンは人工生命をほんものの科学の一分野に仕立てあげようと、このワークショップを----いったい何人が顔を出すのかもわからずに----組織した。
 各方面を説得して回った結果、ロス・アラモス研究所の非線形研究センターがワークショップに1万5千ドルを拠出す、これとはべつにサンタフェ研究所が5千ドルを提供した。
 またサンタフェ研究所は、複雑性をテーマにした新しいシリーズ本の一部としてワークショップの記録を出版してくれることになった。そして昨日、第1回の目のミーテイングでホランドが目にしたこところでは、ラングトンはみごとにやってのけつつあるようだった。それは----そう、それはアーサーが自分の目で確かめなければならないことだ。

 実際、アーサーはそうした。
ホランドといっしょにロス・アラモス研究所の講堂に歩を進めながら、アーサーはたちまち二つのことを感じとっていた。
 一つは、これまでの自分の同居人をひどく割り引いて評価していたということだ。
「まるでガンジーと歩いているみたいだったよ」とアーサーはいう。「それまでは、背の低い愉快なコンピュータの達人と同じ家に住んでいるぐらいにしか考えていなかったんだ。ところがここにきてみると、みんなが彼をこの道の偉大なる導師のように迎えているじゃないか。
 「ジョン・ホランド!」ってね。
入口のホールで、みんなが彼をめがけて押し寄せてきた。これについてどう思う?あれについてどう思う?論文を送ったが、届いたか?」

 こういったすべてに、アーサーの同居人はつとめて冷静に対処しようとした。
だが、逃れるすべはなかった。本人がひどくまごつくくらいに、ジョン・ホランドの名は高まりつつあった。
 実際、それをとめようとしても、ホランドにできることはあまりなかった。これまでに25年にわたって、ホランドは毎年1人か2人の割合で博士号取得者を世に送り出してきたから、いまではその教えをひろめる信奉者がたくさんいた。
 しかも、そのうち世の中がホランドに追いついてきた。
ニューラル・ネットワークはかなり以前から流行のテーマだった。
 また学習の問題が人工知能研究の主流を占めるもっともホットな話題としていまになって脚光をあびてきたというのも、けっして偶然ではなかった。
 遺伝的アルゴリズムをテーマにした最初の国際会議が1985年にあり、さらにいくつかの会議が開かれそうな情勢だった。
「だれが話すときも、まるでお手本をなぞるようにこう切り出した」とアーサーはいう。
 「ジョン・ホランドの主張はかくかくしかじかだ。さて私の意見をいおう」

 アーサーが感じたもう1つは、人工生命というのは、そう----ちょっと勝手がちう----ということだった。
ラングトンと言葉をかわす機会は1度もなかったが、ひよっろとした背の高い男で、長く伸ばした褐色の髪としわくちゃの顔がちょうど俳優のウオルター・マッソーを若く人当たりをよくしたのとそっくりだというのは、遠くからでもわかった。
ラングトンはたえずあちこちと動きまわっていた----問題に対処し、決定をくだし、気をもみ、すべてをうまく運ぼうと夢中になっていた。

 そこでアーサーはたっぷり時間をかけて、ワークショップ会場のまわりの廊下に展示してあるコンピュータのデモを見てまわった。
こんなどんでもないものには、これまでお目にかかったことがなかった。
 矢のように空を切る電子アニメーションの鳥の群れ、目の前のスクリーン上で芽生えて成長するほんものそっくりの植物群、気味の悪いフラクタル状の生き物たち、うねうねと動き、光を放つ数々のパターン。
 じつにおもしろい。だが、どんな意味があるというのか?

そしてワークショプに参加している連中の話しときたら!アーサーは何人もも発言を聞いたが、それは過激な理論を手堅い経験主義のごった煮だった。
 発言者が立ち上がって話しはじめるまで、その発言者が何をいうかだれにも見当がつかないといったありさまだった。
会場ではポニーテールやブルー・ジーンズがやたらに目についた。〈ある女が立ち上がって発言するのを見ると、彼女ははだしだった〉。

 「創発」という言葉があちこちでひっきりなしに芽吹いているようだった。そして何よりも、この信じられないようなエネルギーと同士愛とでもいうべきものが、その場の空気を満たしていた----いくつもの障壁がくずれおちる感覚、新しいアイデアがつぎつぎに解き放たれる感覚、自発的にそして突発的に底抜けの自由がおとずれる感覚。
 風変わりにして知的なあり方で、人工生命のワークショップは、時間を逆もどりしたような、ベトナム戦争のころの反体制文化がそのままそこに花開いているような感覚を呼び起こした。

 

備考  ラングトンは、1990年にカオスの縁 (Edge of Chaos) という用語を生み出した。これは、セル・オートマトン (CA) の振る舞いを評価する変数 λ(ラムダ)のある範囲を指したものである。λ が変化すると、セル・オートマトンは振る舞いの相転移を示す。

この用語は、科学界全体(物理学、生物学、経済学、社会学など)で比喩として使われるようになり、秩序と完全な無作為性(カオス)との中間で複雑性が最大となるようにシステムを運用する状態を指すようになった。しかし、この概念の一般性と重要性については Melanie Mitchell らが疑問を呈している。ビジネスにおいてもこの用語が本来の意味とはかけ離れた状況を指すのに借用あるいは誤用されている。

スチュアート・カウフマンは進化の数学的モデルを研究し、カオスの縁近辺で進化速度が最大になるとした。

みち草・・・・「複雑系」

2012-11-25 09:00:00 | アルケ・ミスト
その一例がごく最近の世界経済の大変動で、カーター大統領が連邦準備制度理事会(FRB)の議長にポール・ヴォルカーを指名したのはその象徴だった。

この大変動のストーリーはじつは1940年代からはじまっていた。

 当時は世界中の政府が、二つの世界大戦とそのはざまで起きた大恐慌の影響にどう対処すべきか苦しんでいた時代である。
各国政府の苦心の努力は1944年のプレトンウッズ協定を生み、世界経済は以前とは比較にならないほど相互に結びついているという認識をもたらした。
 新しい体制のもと、各国とも国家の政策手段として孤立主義と保護主義を捨て、かわりに世界銀行、国際通過基金(IMF)関税および貿易に関する一般協定(ガット)のような国際制度をとおして協力することに同意した。そしてそれは機能した。
 少なくとも財政に関していえば、世界は4半世紀のあいだ驚くほど安定していた。
だがそれから70年代がやってきた。73年と79年のオイルショック、ドル値を世界の通過市場で変動相場制に移行するというニクソン政権の決定、失業率の増大、蔓延する「スタグフレーション」。

 プレトンウッズでともに繕ったシステムはほころびはじめたと、リードはいった。
貨幣が世界中にどんどん流れはじめた。
また第三世界は自国の経済をうちたてるべく大量の借金をしはじめていた----それを手助けしたのは、コストを最小にするために生産工場を国外に移しつつあったアメリカとヨーロッパの企業だった。

おかかえのエコノミストたちの助言にしたがい、シテイコープをはじめとする国際的銀行が何百億ドルという金を喜んで途上国に貸したと、リードはつづけた。

 ポール・ヴォルカーが連邦準備制度理事会の議長になり、どんな犠牲を払おうと、たとえ金利の大幅上昇と景気後退を引き起こそうとも、インフレと闘う、と宣言したとき、だれもそれを信じなかった。

 銀行家もおかかえのエコノミストたちも、世界中の行政機関であがっている同様の声を正しく評価しなかった。
そんな苦しみに民主主義が耐えられようか?
 かくしてシテイコープなどの銀行は、1980年代はじめ、途上国に金を貸しつづけた。
そして1982年に、まずメキシコが、ついでアルゼンチン、ブラジル、ヴェネズエラ、フィリッピンなど多くの国々が、インフレ対抗策が引き起こした世界規模の景気後退により借金返済不能になりつつあることを明らかにするまで、それはつづいた。

 1984年に頭取に就任してから、この混乱を一掃するために莫大な時間を投入したと、リードはいった。
この混乱によりシテイバンクはそれまでにすでに数百億ドルを使い、世界中の銀行損出はざっと3千億ドルに及んでいた。

 では、いま彼はどんな種類の代替案を探し求めているのか?
そう、いまやリードは、どんな新しい経済理論によっても、たとえば、ポール・ヴォルカーという特定の人物を任命することが必要であることを予測するのは不可能だと考えていた。
しかしもっと社会や政治の現実に目を向けた理論だったら、ヴォルカーのような人物----インフレ抑制に必要な政治的な仕事をすこぶるうまくこなす人間----の任命を予測できていたかもしれないと考えていた。

 より重要なことは、もっと優れた理論があったら、ヴォルカーが行動を起こしていたとき銀行家たちがその意味を正しく認識できていたかもしれないということだ、と彼はいった。
「この経済世界のダイナミクスに対する理解を高め、またそれに対するより優れた認識を引き出してくれるようなものがあるなら、それは十分もつに値する」。

 現代物理学やカオス理論に関して自分が耳に挟んだところでは、なんでも物理学者たちには適用できそうなアイデアがいくつかあるらしい。サンタフェ研究所に手助けしてもらえるだろうか? 


サンタフェ陣営は魅せられた。
サンタフェ陣営の多くの者にとって、それは耳新しいことだった。また彼らは、グローバル・コンピュータ・モデルに対するユージェニア・シンガーの詳細な分析にも興味をそそられた。
 
 6千の変数をもつ「プロジェクト・リンク」、「フェデラル・リザーブ・マルチ・カントリー・モデル」、「世界銀行グローバル・デベロップメント・モデル」、「ウオーリー・トレード・モデル」、「グローバル・オプティマイゼーション・モデル」等など。
 そのどれも望みをかえるものではない、とくに変化と変動を扱うということになるとそうだ、と彼女は結論づけた。

 で、ふたたび、サンタフェ研究所はやってくれるか?

 うーん、たぶん。
午後の多くが研究所陣営の自己宣伝に当てられた。

 アンダースンは、創発性、集合的挙動に対する数学モデルについて説明した。
他の何人かが、データの山を明確で把握しやすい図に変える最新のコンピュータ・グラフィックスの利用、経験とともに適合・進化・学習するようなエージェントをモデル化するための人工知能技術の利用、そして株価や気象の記録などランダムに見える現象を分析して予測するカオス理論の利用可能性、などについて説明した。

 そして最終的に、予想されぬことではなかったが、そう、経済プログラムはトライする価値あり、というのが両陣営の合意点だった。
アンダースンはこう回想する。
「われわれは全員がいったことは、ここにどうやら知的な課題がありそうだということ。ジョンがいったような種類の変動をゆるしてしまう現代の均衡経済学には、いったい何が欠けていたのか?」

 だが、サンタフェ陣営はまたひじょうに抜け目なくやることも忘れなかった。
コーワンたちはシテイコープからの資金を心から期待したが、同時に、奇跡を約束することはできないとリードに明確にいっておきたいとも思っていた。そう、役に立ちそうなアイデアがいくつかあった。
 しかしそれは徒労に終わることもあり得るリスクの高い企てだった。
巣立ったばかりの研究所にとって、過度の期待と誇大宣伝は無用である。
 やれそうにないことを約束しているように思われたら、自殺同然だ。


 いうことはよくわかったと、リードはいった。
「われわれが何か確実かつ具体的なものを手にできるとは思っていなかった」と、彼は回想する。
 彼はただ何か新しいアイデアが欲しかったのだ。
だから期限はおろか、具体的な成果を規定することさえしないと約束した。
 もしサンタフェ陣営がこの仕事にとりかかり、年々目にみえる進歩をしさえすれば、それで十分だった。

 「私の意気込みがそれで煽られたよ」と、アンダースンはいう。
つぎのなすべきは新たな会合----それなりの数のエコノミストと自然科学者が一堂に会し、問題を徹底的に議論し、本物の計画表をこしらえる集中的なワークショップ----をもつことで、みなの意見が一致した。そして、もしリードが数千ドルを寄付し、そういう方向にそった努力を支援する用意があるなら、サンタフェ研究所はそれにとりかかる用意がある、ということになった。

 こうして取引は終わった。
そして翌朝のこと。リードはイースト・コースト号の乗員たちを朝5時にベットからたたき起こし、サンタフェ空港行きのリムジンに押し込んだ。
 できるだけ早くニューヨークに戻り、丸一日ぶんたまった仕事を片づけたかった。

備考記事①
 「銀行救済許すまじ」 米金融システム脅かす世論の逆風
2011/11/29 10:10  日本経済新聞 
反ウオール街デモが激化する中で、欧州債務危機は米系銀行にも伝染の兆し。リーマン・ショック第二幕とも言える今回の金融不安であるが、第一幕とは決定的に異なる点がある。too big to fail 大きすぎて潰せないとはもはや言えないことだ。銀行に対する米国世論の反感が銀行救済を許さない。特に2012年は大統領選挙年。そもそも二人の民主党議員の提案によるドッド・フランク金融規制法案を支持し署名して銀行に対する厳格な規制導入の旗を振ったのもオバマ大統領である。略   豊島逸夫著

備考記事② 
 実は1980年代後半、そこにトラベラーズグループCEOジョン・リードは渦中の人であった。
その時のGeorge Sorosジョージ・ソロスの慧眼は・・・

 連邦準備制度議長ポール・ボルカーは、ソロスの著書『ソロスの錬金術』(原題:The Alchemy of Finance)の序文に寄稿し、以下のように述べた。
ジョージ・ソロスは、非常に成功した投機家として、あるいは、まだゲームが有利なうちに手を引く賢明さを具えていることで、その名を知られている。
現在、彼の得た大金の大半は、途上国と新興国の社会が「開かれた社会」になるために使われている。ここで言う「開かれた社会」とは、"商業の自由"のことだけを意味しているわけではない。もっと重要なこと、すなわち(人々が)新しい考え方や、自分とは異なった考え方や行動に対して、寛容の心を持っていることを意味している。
 当時彼は、日本株を売り抜けることに成功した。