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「千膠」

2015-05-20 11:53:28 | 虚私
戦争つまり「膠争」



あの「戦争の教え方」において科学的な臭がするのは僅かに一章だけが割かれている、それがテクノロジーの功罪であるけれども、通読した感想としてはその全体にも潜行している、潜航しているという方が良いのかもしれないが、例えば「死の商人」を扱っている「戦争とは何か」の読み方一つでも垣間見えてくるであろう。
そこでひかれているクルップ一族のはなしでも、ドイツ軍国主義とは密接に結合しているのが商人だけでは勿論ないのであり、科学者とか化学者等を言挙げするまでもなく一括して「膠学」の関係者達の事例は有名であるばかりではなくドラマにも充ちている。


同様に記述すれば、「膠民」が「膠政」と「膠圧」をもって、あの「膠族」は丸で粘菌でもあるかのように振舞った「膠争」であったとも言えるのだと思われる。


生真面目に広辞苑を引いいてみると、占考から鮮紅まで数多くの語彙があるけれども、何故か科学由来の語彙は少ない、僅かに閃光程度ではないか、これではいけないのだと思うから造語を思い立ったのだが、それが「千膠」「専膠」をも公言できるようにと願わずにいられないのだから、ここに「膠言」しておこうと思う。

栄膠の第一号、その時分自身のことであるが、不覚にも安斎育郎教授が、「超自然現象批判的・科学的に説明する会」の会長だとは後で知ったことである。





ベニハナ農園

2015-05-09 19:48:41 | 虚私
ベニハナ農園




偶然か必然かは定かではないけれども、彼と眼があったのは彼自身の自覚から対人関係も大切にせねばならないとの多少の意識があったのではなかろうかと、推察される。

実に博学ではあるが、世俗的な事には距離をおきたく思っているのかもしれない。

父の始めたベニハナ農園を亡き後、守り育ててもいる。決して好んで選んだ道というわけでもないけれども決してなおざりにはしていないその自身を垣間見た。悩みは多いらしいが、健膠的な諦観と見受けた。


引き止められ引き止められて多くの話をした。

ややもすると虚実皮肉なコロイドとかエーテル等の世界のその脈絡を適正に認識しているらしい。
多くを語ることはしないけれども、嫁とは言わないまでもその本音は、パートナー、出来れば情報発信の出来る人が好ましいと考えているらしいのだ。



私は何故か、あの苦味をともなった夏みかんは好物、つまり膠物である。ビニル袋に一杯頂いた。



夏みかんは送料込で3500円/10㌔
ベニハナ農園 090-8282-7267  作道直三郎さんです!!

「虚私」

2014-12-14 07:00:00 | 虚私
ノーベル物理学賞を3人の日本人が独占した快挙をお祝い申し上げます。


さて1962年度のノーベル物理学賞は『液体ヘリウムの理論研究』(ランダウ;ソ連)に授与された。
その年に彼は凍てつくモスクワで瀕死の重傷を負い懸命の救急体制から奇跡的に一命をとりとめた事は知られている。

その彼はその昔、死刑宣告とされて可笑しくもないスターリン体制下の1937年から1年間留置所にありながらも、これまた九死に一生を得たのはカピッツア、モスクワ科学アカデミー物理研究所の所長、彼の上司による懸命なる活動の結果でもあった。
いわゆる大テロルのその年には68万人余りの銃殺が行われたと言われている。


そのカビッツア自身も1978年度のノーベル物理学賞を『低温物理学の基礎的研究』にて授与されているのであるが、同時に受賞したのは『宇宙黒体放射の発見』(ペンジアス/W・ウィルソン米国)であった。

一見すると何の関係もなさそうに見えるけれども、このマクロmacroな世界とミクロmicroな世界がダブって評価されたところが肝要な視点である。

それを表象させる適切な言葉がないので、aiをもって語られるべきかと思えたので、ここではコスモスというよりも「コロイドのai」と言う造語を考案してみた。



さて本論へと戻してみれば、その論文は1941年である事がわかるのは「物理学者ランダウ」(スターリン体制への叛逆)に割かれたたった1,2行の論文名だけである。



その1941年の論文において、彼は意識的に新しい概念を導入して成功したのは、準粒子とも呼ばれるロトン。
つまり、それは流体力学を量子化していくつまりファイマンによって多体的な波動関数による分子論的な記述であり、ボース粒子或いはボース-アインシュタイン凝縮をもって語られてもいるそこにダブってくる。


ところでランダウと共に同じ時代を生きたのはビッグバンで知られるガモフ・ジョージ(1904-1968;ウクライナ)等も忘れるわけには行かない。彼はウクライナから亡命したのである。

余談はさておき、スターリン体制のイデオロギー教育は成功したとも語られるけれども、その陰でトロツキーの科学教育もまた成功したといえるのであろうか。
それに先立つ「部分と全体」1932年のコペンハーゲンでは量子力学的な深化がその相補てきな現場において活写されているではないか。そこにはランダウも立ち会っていたとわかる。
つまり生物学、物理学、化学はもとより哲学にまで及んだその現場である。素材はあのアインシュタイン-ボーア論争であったが。

ついでながら翌年、1933年には「わが国の代表的な哲学者たちの大半が、もはや今日の科学の現状を全く理解していない」事実を指摘し告発したのはタム(1895-1971)であるがその彼が核力の起源に関する考察で湯川中間子論に示唆を与えたとされているけれども、ランダウの論文もこの年のことであった。「ある種の物質の磁気感受率の低温での場への依存性の可能な説明」がそれである。


ここで福井謙一にも触れておきたい。古川安「燃料化学から量子化学へ-福井謙一と京都学派のもう一つの展開」から短く引用する。

ハンス・ヘルマン(1903-1938)は数奇な運命を辿ったドイツ人物理学者である。
妻はユダヤ人であったため1933年(昭和8年)、ヒトラー政権下のドイツを逃れ、本の原稿を携えてソ連に亡命した。
1937(昭和12年)年初頭にモスクワで最初のロシア語訳書を「量子化学」と題して刊行し、同年末「量子化学入門」と題するドイツ語の縮小版をライプチッヒで出版した(福井が言及した本が後者である)、だが翌年3月、ヘルマンはスターリンの粛清下にドイツのスパイというかどで処刑された。(「化学史研究」第41巻第4号2014年)





ところでわれわれが知り得たのは、世界大戦が終わってからの、いわゆるDLVO理論としてであったけれども、その革新性は一過性のものではなかったことを赤裸々に知らしめてくれるのが、J.N. イスラエルアチヴィリ「分子間力と表面力」である。


その初版は好評であったのであろう、既に二版、三版と重ね誠に分厚い大書となったきたのも驚きだが、その序文などを読み比べてみると直近の激震ぶりを垣間見る思いがするけれども、何故かそこにはトーマス・グラハムの記述はないけれども彼の言葉は残っていた。
それは量子論コロイドという概念である。

彼が14歳の時にThomas Thomson(1793-1852)へ問いかけられた言葉「Don’t you think Doctor!that when liquids absorb gases the gases themselves become liquids?」
短気なことで知られていたけれども彼は黙していたと言われている。



さて、その三版の表1・1には分子間力の理解に対して主要な寄与をした科学者が挙げられている。
注目されるのはその見出しである。
「量子論コロイド」の、そこを飾る科学者にはde Gemnes、Lifshitz、Derjaguin、Overbeek等が連ねられている。


一般相対性理論を経ての量子力学が巨大分子論争のみならず化学の世界に激震を与えた事は周知の事実である。
「暗黒のバイオコロイド時代」とも形容されるのも頷けるもののそれがバイオコロイドの胎動でもあったと理解されうるであろう。


その筆頭著者である、Dつまりデルヤーギン(1902-1994;ソ連)がここでは主役を演じていると言って良いのだが、そこで眼に止まったのはA-O理論その再発見の下り、つまり朝倉-大沢理論であった。Overbeek, Deryagin en Verweij (v.l.n.r.) in 1968



それは涸渇引力とも表記されているけれども実は様々な言葉がここでは紡ぎ出されているのだが省略しておくけれどもデルヤーギンの言葉である剥離力がそこにダブって見えてくるからといっても加齢による白内障くらいの受け止め方でよい。勿論心して目薬のケアがあれば更によい。


エントロピー由来のその自由エネルギーは様々な場面で活躍が期待されるけれどもその1つがLEDにおいても必須の要件であろうと思われる。
エントロピー概念は難しいので混乱も引き起こしたのだが、その1つがDLVOのオーベルビーグであった。

月刊「化学」2013年(68巻)2月号 「プラスとプラスが引き合う話 」伊勢典夫 を短く転載しておく。

この違いは,予期したように相当な議論を巻き起こした.その大部分がOverbeek による反論26)をコピー&ペーストしたものであまり意味をもたないものではあったが.ここではこの原典について簡単に議論する.詳細は文献27 を参照されたい.

もっとも問題なのは国内のコロイド専門誌の査読にて、全く理不尽な体験がそこでは綴られている事ではある。


ここで思い出されたのがその昔、査読者でもあられた武石教授から頂いたメモである。

「化学を学ぶ際の二、三の問題点について」、その多くは忘れているが何故かポリウオーターの記憶は残されていたので、再読してみた。
① 研究上の論争  例えばデータ不足の例としての「生命の起源」など
② ちょっとした間違い  例えば実験上のミスとして「ポリウオーターは存在する」など
③ 常識のウソ  例えばアルキル基は電子供与性か?など
④ イデオロギーの対立 例えば「化学バカ」論争など

割愛するがポリウオーター論争では①H.H.フェジャーキンが毛細管中で凝縮した水が異常性を示す。②B.V.Derjagin、Faraday Soc.;42、109 (1966)③E.R.Lippincott、et al.Science、164、1482(1969)その他に言及されている。


丁度同じ頃までを「生体系の水」(上平 恒ら)が扱っているので短く引用して参考に供する。
時間スケールに注意を喚起した上で①混合物モデル ②割り込み分子モデル③連続体モデルを挙げている。それ以後は新し段階に達して、X線回折から中性子回折へとつながっていく。
因みに今年は「世界結晶年」でもあった。


振り返りみて驚かされたのは大震災と水の関係にあったのではなく、ヘリウムが共存しているとの一報には驚いた。
その時の直覚はbearing効果かも知れずとおもったけれども、その後に知ったヘリウムが3であるときき、全くもって魂消た!!

魂消た!のは「猫」の仕業などではない。かと言ってダブって書かれた「坊ちゃん」の正義でもなんでもなかろうから、これは義正と書き直されて良いとは直感のなさしめたことだ。
漱石ならば、俺のことだからあてにはならんと付け加えたであろう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 難有い難有い々々々





余滴
1868年4月18日におけるインドへの皆既日食観測のための遠征で、フランスの天文学者ジャンセンはすでに説明したように太陽コロナのスペクトル中に未知の元素による黄色の線を観察していた。2ヶ月後、イギリスの物理学者ロッキアーは日食を待つことなしにコロナのスペクトルを観察する方法を発見した。そして彼は同じ黄色の線を観察したのだ。
彼はその線を輻射している未知の元素を“太陽の元素”を意味する“ヘリウム”と命名した。この二人の天文学者はそれぞれ、彼らの発見を記述した小論文をフランスの科学アカデミーに送っている。
2つの小論文は同時に到着し、アカデミーの1868年10月26日の集まりで読み上げられている。
この偶然の一致はアカデミーの委員を大層驚かせ、記念のメダルの発行が決定された。(「量子のサイコロ」L.L.ポノマリョフ著澤見英男訳)

「虚私」

2014-08-10 10:00:00 | 虚私


科学文明ではなくその文化の土壌を心にとめて参った事は、その著述するところから伺えるといって良い。

例えば「化学を創っていく道筋」とか「しゃぼん玉-その黒い膜の秘密」等はその表題から推し量られるようにその内容が凝縮されたところの表象であると気づくに違いない。


その冒頭に置かれた、「しゃぼん玉の黒い膜の観察」に目を留めてみると 

 台所用の液体洗剤を少しうすめ、黒っぽい色の皿に入れる。これをストローで吹いて、液面にしゃぼん玉を一つ浮かべる。しゃぼん玉は、はじめは無色であるが、やがて頂上に突然小さな黒点が生じ、そのまわりを赤青の縞がとりかこむ。黒点は次第に拡大し、黒い膜となって膜面を下降していき、間もなくしゃぼん玉は破裂する(図9とも菊池俊吉氏撮影) 本文32ページ参照


平易で分かりやすく好奇心をくすぐられる写真でもある。

もっとも、読み始めるには“あとがき”からが良いのではなかろうか。

しゃぼん玉の黒い斑点、つまり黒い石けん膜について、わたくしは大学に入るまで何の知識ももちあわせていなかった。それについて本を読んだ記憶もなかった。
大学に入って一年生のときに、鮫島実三郎先生の物理化学の講義のなかで、はじめてしゃぼん玉の膜に構造のあることを知った。そのとき先生の引用されたペランの文献を読んで、黒い斑点の正体を詳しく知ることができた。それからしばらくして、ペランの「原子」の翻訳を読んでいるうち、そのなかに黒い膜に触れているのをみつけた。


立花太郎先生は1914年生まれ、つまり生誕100年の記念すべき年でもあると解るのだ。
しかも夏目漱石の「こころ」の年であり且つ寺田寅彦の「X線研究」とも重なっていることには些か驚かされる。というのは先生の論文には「夏目漱石と『文学論』のなかの科学観について」とか、論文「初期のコロイド化学と寺田物理学」等、夏目漱石並びに寺田寅彦の研究家としても広く知られているからである。先生に誠に相応しい特異年でもある。

そして、あの運命的な出会いこそ、ペランの1914年とも重なってもいた。

1914年、フランスのペランは石けん膜の色の研究から、石けん膜はたくさんの非常に薄い膜が重なってできているもので、その最も薄い膜は常に一定の厚さをもっていることを明らかにした。(玉葱の如きもの)
この最小の厚さの膜が黒い膜のことであることはのちに実験的に証明されたが、このような厚さの一定の黒い膜の存在は、物質の構成要素に最小単位が実在すること、すなわち分子の実在の証拠の一つとされた。


さて、しゃぼん玉の色については、古く1660年ころ、ロバート・ボイルの研究が残っているという。
しかし、その色に関し、今日みることのできる最も精細な研究の記録はニュートンの「光学」(1704)の一節であろう。

話は逸れるが、その当時、つまり王政復古の頃のロイヤルソサエテイ創設の認可を巡ってのドラマは、ホップズを外して語られるモノではないが割愛するのもやむを得まい。

その代わりとは変な言い草だが、あの有名な「懐疑的化学者」に少しだけ触れる。


ピューリタン革命時の熱狂的雰囲気が醒めやらぬ、王政復古の時代には国教主義者ならびに、政治的な急進主義者たちがいた。

その状況はボイルたちに危機感を抱かせることとなったのは、他ならぬ、ホップズに同じ無神論者と見なされること、その事であった。

その同じ穴の狢とみなされないようにと苦心惨憺の末、1674年に出版された「機械論的仮説の卓越性と根拠」によって、自らの立場を簡潔に述べている。


その論旨は、おなじみの比喩、「あやつり人形とストラスブールの大時計」をもって語られたのだが、ボイル自身の自然観は、御心の意志につらなる「大時計」であり、決して「あやつり人形」の如く、その芸人のヒモによっているのではないというわけだ。


とまれ、こうしてロイヤルソサエテイ自身は今日的問題、学界というある種の閉鎖性をも身内に内蔵してしまったともいえる。
つまり一種の共同体であり、レフェリー制度等にも見て取れる諸問題である。


化学の創始者と言うよりも物理化学というべきだと思えるけれども、それはともかくとしてあの有名なボイルの法則の契機を創ったのも他ならぬ「懐疑的化学者」(1661)を舞台としての論争の賜物ではなかったか。


その要点は運動の重視により、物質の性質が変化するのみならず、引力や磁気などのオカルト的性質もまた大時計的作用で語れるものと信じていたのだし、溶媒と溶質との関係においても化学的引力によって生じるのでなく、溶質粒子が溶媒粒子間の細孔に入り込むことで生じると考えていた。

それがドルトンとかグレアム(ファラデー、マックスウェル)などの時代に至って、たどり着いた原子論・分子論の概念に通じてくる思弁であった。


さて、顧みるべきはニュートニアンと言ったからといっても、ニュートン的な流れも非ニュートン的な流れをも併せもつ事は言うまでもない。
ブルーハーヴェの溶媒とかを忘れてはならないけれども、ここでは一八世紀「空気の時代」を演出していくこととなるヘイルズ、つまりニュートン最後の愛弟子と言っても良い、その人の「植物計量学」「血液計量学」は有名だから、ここではおくとして、その代わりにここでは『ヘイルズ研究の新視点』-18世紀イギリス科学史の革新のために- 川崎 勝(「化学史研究」19巻 159-171、1992)からの読後感想的な記憶とも言うべきを記しておく。


「表-1 ヘイルズ著作リスト」には、1727年から1807年までの62点が挙げられていて、その簡単な分類が試みられているけれども著者は先にあげた2篇の科学論文以降、その後の30年間の活発に継続された著述活動を問いただしていった結果、フィランピストこれを慈善家ないしは博愛主義者ではなくて、原義に近い人間愛を実践する者との含意を残した背景を説明する。


「18世紀イギリスは化学や航海術を含めて地理学・地質学・気象学といった極めて具体的かつ実践的な課題と密着した「自然誌」の名の下に統括されるべき「実学」志向的な諸学問の著しい興隆を見たことを一般的背景としてあげることができる。


更なる背景はロイヤルソサエテイがその創設に際して、少なくとも「理念」としては、ベイコン主義を高く掲げ「社会に有用な改良」を行おうとしたことは広く知られている、その忘却の彼方をよびさまさせようか。


このような諸々の背景を照らし合わせて再考してみれば、具体的諸問題の解決をはかり、一定の成果を挙げたヘイルズの「その後」の活動は、一八世紀イギリス社会において全く新たな自然探求者の行動パターンそのものの創造であったはずだと、その意義を強調している。


ここで、わたしが思い出す事は、あの「Boys、be ambitious !」で知られているクラーク博士もまた、ヘイルズの追試を行い新たなる知見を加え得たこと、その事である。内村鑑三にも、それが伝染していると言える。



本論へと戻す。その黒い膜の秘密の著者は、日本人研究者への目配りが実に細やかである。

例えば篠田耕三、大鹿讓、中川俊夫の各氏が、この二〇年間に重要な寄与をしたこと等が散見されよう。


これに触発されたかのように付け加えておきたいことの一つは、国枝博信「界面活性剤の溶存状態の研究」。
これは相平衡の立場からその溶存状態と機能との関係をとき、そこに特異な『三重臨界溶解現象』を発見したもので、その塩濃度調節に鍵があるらしい。
なお篠田耕三との共著論文「炭化水素鎖を2個もつイオン性界面活性剤の溶存状態」では塩、相図、液晶などにも触れられている。




ニュートンに始まった黒い膜の研究はペランをもって一応の決着を得たのは、他ならぬアインシュタインの成果とも言える。
それが戦後のDOLV理論として結実したのであるが、その実証されていく過程が実に丁寧に記述されているのも、著者の力量であろう。

以上見てきたところを、一言で纏めれば、ニュートニアンへと託された「エーテル・引力・斥力」などの宿題は、アインシュタインをもって200年ぶりに解を得たと言える。
つまり光電効果や光化学反応の機構により説明がつくようになってきた、その事を「しゃぼん玉」は語り尽くしている。


その黒い膜の秘密は、光を受けて興奮する恰も生体膜の如く挙動するのを認めたところで終わっている。それは奇しくも「コロイド化学-その新しい展開」(立花太郎等)における年表に、同じである。


因みに1962年を転記しておこう。

① Shinoda、K.E.Luzzati、V.石けんの中間層(mesophase)のX線的な構造研究。1957年の予稿の本論文。Acta、Cryst.、13、660;14、278.
② Tien、H.T.、et al、水中での脂質2分子膜調整の技術。Nature、194、979、この研究以後、生体膜モデルとしての脂質2分子膜の研究が行われるようになった。
③ Forkes、J.M. 表面自由エネルギーの中の van der Waals 力成分。J.Phys.Chen.66、382、続報、Ind、Eng、Chem.,56 40 (1964)
④ Germer、L.H.、MacRac、A.U. 低速電子線回折による金属表面構造の研究のリバイバル。J.Appl.Phys.33 2923




余滴
野口雨情の悲哀なる心情とも語り伝えらえている、あの神話は「シャボン玉」に由来する。




おつぎは、「日赤前」
百日紅平和通り鉄砲町            膠一

「虚私」

2014-07-27 09:00:00 | 虚私
寺田寅彦の孫弟子を自称するのは大沢文夫その人である。その人の自著というよりも回顧談的な語り口が印象的ですらある「飄々楽学」は親しみやすく示唆されるところが多い。


例えばコロイドに関する最初の論文が机の下に仕舞われてしまったのだが、それはリーゼガング現象を彷彿とさせたものであったけれども、それをかのプリゴジンの「構造・安定性・ゆらぎ―その熱力学的理論 」に使われている口絵を思い出させる。

つまりジャボチンスキー反応におけるようなものであるが、彼はそのような散逸構造でノーベル化学賞を授与された。
それは相対論と量子論に並び称さられるのが通例の評価である。

それから人工筋肉を作ってみたり、あのアクチンなどへと繋がっていく研究は兎から始まった。それは1953年という特異な年に期せずしてスタートしたとも言えよう。



翻って1949年は「コロイドの発見」等が刊行されたその年に湯川秀樹のノーベル賞が決まりその湯川記念館で、初の「国際理論物理学会議」を開催することとなった。
その1953年、巨大分子グループとも言えるフローリーやプリゴジンなどの5名が正座もならぬままに神妙な面持ちで、記念写真となった。
そればかりではなく、ワトソン・クリックによるDNA二重螺旋の発見や巨大分子のシュタウデンガーにノーベル化学賞が授与されもしたし、生命の起源の解明への一歩を進めたミラー等の成果は「ミクロコスモス」(L.マルグリス、D.セーガン)でも取り上げられ知られている。

もっともその講演旅行だけに限っても特記すべき事は多いけれども、若き大沢がフローリーを呼び込んだとも言える、名古屋における巨大分子の講演会は、妬みを買ったかもしれない。
それはともかくとしてその講演が戦後の復興に大いに貢献したとされ勲二等が授与されたのは他ならぬブリゴジンだけであろう。その事が何よりの自慢でもあるときく。


さて、ここで注目したいのはその様な事ではない。そこに自筆されている一言が謎めいていて、あれこれと妄想にかられて仕舞ったのだ。


それは、恰もアクチンの一分子観察を究めて見ても、何故か満たされないところのものが滲んでくるものとも読めるのだが、それが環境問題であろうとは推量に難くない。
けれども具体的には分からないと言っておく。
ヘルムホルツ層と言うよりも多分はアインシュタイン譲りの鑑識眼を持つシュテルン事であるからその論文ではあるまいかとは疑われる。

大沢を離れる前に付記しておきたいのは1998年であったかに再発見された「A-Oモデル」は疎水結合にも似て、重要な概念となる事が期待される。


さて生化学とか筋肉というべき領域はあの丸山義二の息子である、工作の「生化学の黄金時代」等であったろう、そこの図-7は印象に深く残った。

それは「ドイツにおける生理学と生理化学の正教授の変動」と題されて、年代と員数を書き込んだだけの簡単なものであるが、その生理化学の妙な歪を伴った推移は言葉だけでは表現できない何かを読者にも考えさせる、その工作とさえ思えた。


直感的にはファラデー・グラハム時代以降の問題と見て間違いなさそうだ。

ちょっと脇道へと逸れてしまうけれども粘菌等で知られる熊楠や漱石・子規等が生まれた維新前夜、つまり1867年にマイケル・ファラデーが亡くなった。
彼の所属した小さな宗派にのっとって、身内だけの簡素な葬儀が執り行われたのであるが、そこにトーマス・グラハムの姿があった。
それから二年後には、彼も世を去る。

この特異な1869年にはメンデレーエフの元素表などやアンドリュースの臨界点等でも知られている。




さて本論へと戻すと、あのプランクが師に尋ねた「物理化学の研究展望」に対して、ヨリーは「君が選んだ分野は、既にあらかた仕上げられてしまって、新しい発見を期待させる余地など最早ないのだよ」、これが1874年のことであった。

その物理化学時代、そこに逆巻くイオニスト達、ファント・ホッフ、アレニウスそれにオストワルドらが「物理化学雑誌」を創刊したのは1887年であったのだが、その功罪などは、長い長いお話でもあり割愛するけれども、ここの文脈上少しふれておかなくてはならない。

Loebの伝記作家P・Poulyに言わせれば「形而上学てきにロマンを基盤として、ひどく有害な」Ostwald観がLoebの心象を、さらには科学においても軍国主義てき民族主義てきなロマンとみなさせた。」

例えば、そのキャッチコピー的な「The World of Neglected Dimensions;忘れられた次元の世界」(1914年)、等をもってアメリカ・カナダ大陸講演旅行を終えたのだが、コロイド観と言うよりは「Middle Europe」の自己防衛を主張するドイツと重なって思えてきたらしい。

時まさに戦時、ドイツ至上主義的なヨーロッパ統一観と映ったというわけだ。今で言うところのドナウ・ヨーロッパ、ウクライナとかハンガリー等などの諸国家を指しているのである。


アメリカのコロイドは“the dark age of biocolloidy”と表現された、この中世の比喩をもって語られてもいる。そこでLoebがターゲットとされた背景は割愛するが、一元論というよりもより正確には神がかり的な事件であった事は、オストワルド自らが科学を捨てて哲学者を選び取った一事をもってしてもわかるし、事実、彼の科学は全く行き詰まっていたと言って良い。

お陰で静謐さが破らたLoebが著した小著がある「生物学と戦争」、それは1917年の事となる。





ところで「ミハエリス教授と日本」との関係などに関して、あのダイヤグラムに落としてみれば、その苦難の時代にあってコロイド化学を生化学へと先駆けて導入に努めたその重要な働きを成し遂げたのだと再確認しておけるであろうか。

ここでメンテン女史に触れていおきたいけれども、よす。その名を残す1913年ころの「ミハエリスーメンテンの式」とは、酵素つまり触媒の反応速度に関して、今もその指標を授けてくれる。

ミハエリスとロナは数多くの論文を著したが、それらには血清アルブミンの等電点や吸着性、マルターゼやインベルターゼの作用、血糖やレシチンの化学、乳汁のカルシュウム定量などの多岐にわたるている。


1919年12月、ハンガリー人の青年がミハエリスの一部屋だけの研究室に水素イオン指数のことを学びにやってきた。
遍歴時代の二六歳、アルバート・セント=ジェルジであった。
生化学の泰斗的な存在であり、アクチンはシュトラウブの手柄とされている。ここで注意されるのはカルシュウムイオンとマグネシウムイオンの複雑な相関関係である。



ミハエリスをアメリカへと招待したのがLoebであったが、その夏休みの講演旅行を待たずして彼は帰らぬ人となった。
その頃の彼は親水コロイド・疎水コロイド等の膜電位(ドナン-ギブス)とか表面電位、拡散電位等に関心を抱いていたらしい。

その講演を済ませ、再びミハエリスはアメリカへと渡ることとなるのだが割愛しておこう。

ところで西川正治先生記念講演会において、江橋節朗が書き残した図は面白くもあり饒舌にも感じられる。


図-13「細胞内外の無機イオン分布を示す模式図」は、海島模様でその大海に、つまり塩素イオン、ナトリウムイオン、小さく書かれたカリイオンそれからカルシウムイオン、マグネシウムイオンを配し、その内側には小文字で塩素イオン、ナトリウムイオン、大文字でカリイオン、何故か消え入ったようなカルシウムイオンの痕跡、それからマグネシウムイオンが副えられている。

図-14「生命現象の基盤にある3つの柱」①(刺激)応答(狭義の機能)は[膜-無機イオン] ②ATPエネルギー代謝 [酵素-基質]最後に③自己再生(遺伝)[核酸-アミノ酸]
問題はカルシウムイオンである。それも③の自己再生産との関係を(?)で表しているのだ。


止まれ、最も肝要なのはアクチンの構造変化等を縷々と述べてきているのであるが、それが振り出しに戻ったとの認識を示した江橋は述懐する。

知識を持たない方が良いと言い放つのだ、その驚くような言葉遣いは多角的多面的な虚心を求めているものであろうか真意は不明である。


この言葉は何処かで聞いた覚えがある!!それが「コロイド化学 その新しい展開」(立花太郎など)にあった。

『・・・それにつけてもコロイド化学者に期待されるのは、コロイドとは何かを身をもって示してきた人たちが共通してもっていたnaturalistの精神と、既成の専門の枠にとらわれずに新しい対象を見出してきた一種のamateurismである。寺田寅彦は随筆「物理学圏外の物理的現象」の中で次のように述べている。・・・」


これを私は「しんかがく」つまり『膠学』と名づけておきたいけれども、そこの静謐さは難しと言える、革命なのだ。が、立花太郎の史観は参考となろうか。
       現象論的段階⇒実体論的段階⇒構造論的段階⇒理論的段階
黙過のリアリティが問われている。




余滴 江橋の言葉であったと思われるが、無機と有機の戦い!

その一端を伺うには元素表へと落としてみると解る。
酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リンの6種で98.5%、タンパク質・核酸・糖類・脂肪等はこれらだ。

 残りの1%足らずを硫黄、カリ、ナトリウム、塩素、マグネシウム等11種類。その残り1%未満を超微量元素として鉄、フッ素、硫黄、亜鉛、銅等など更に必須微量元素とかコンタミ等など。

論より証拠。無機と有機の戦いは「一対のBA!!」





「虚私」

2014-07-06 06:06:06 | 虚私
六華豊年の兆!



雪の結晶(ウィルソン・ベントレー撮影)




1935年に寺田寅彦が亡くなった。

「雪は天から送られた手紙である」
その言葉を残した中谷宇吉郎が人工雪の研究を本格的に始められる環境は、その1935年に創設された。


人工雪の研究において広く知られている兎の腹の毛の話は、彼の記憶が定かでなかったらしい。

関戸弥太郎の「はじめての人工雪(その1)」を読めば、中谷の言うS君とは佐藤磯之介君であるとわかる。
彼が羅紗を用いて行った1936年3月12日の実験結果こそが世界初の人工雪であると書き記されている。


ところで中谷宇吉郎の「雪の結晶の人工作製---予報」には断定を避けた慎重な姿勢が見て取れる。

つまり今言うところの凝結核とか内部滞留などへの言及を避け、後日の結果をまちたいとの思いがにじみ出ている。
つまり、これらが雪の結晶へ影響するところを見極めていくには、複雑なソフト解析の、その感性を養ってまいることが先決なのだろう。



思い出されるのは、かつてコロイド研究に打ち込む寅彦を身近に見てきた中谷において、「空気コロイド」という言葉は自然に生まれたのものと思われる。


「これらの核が上空高らかに存在していて、それに水蒸気が附着して出来る雪の最初の状態のものは、普通に氷晶(ひょうしょう)と呼ばれるものである。この氷晶は六角柱の頭に六角錐(ろっかくすい)がついたものと一部の学者間には信ぜられている。」このくだりでその言葉は使われている。



その翌年、つまり昭和11年秋の北海道大演習の行幸のおりに、生まれた「雪 今昔物語」は「科学以前の心」(中谷宇吉郎、福岡伸一編;河出文庫)の六節、三十三頁に採録されている。


「何とか生長の途中にある繊細美麗を極めた形のものを天覧に供したい。それも六花と角板と二種類御目にかけたい。しかし結晶生成の一番大切な二時間を無人のまま放置しておくのではどんなに注意して条件を決めてみても、普通のやり方では成功の見込みはまず五分か六分である。」

中谷ダイヤグラムではないけれども、結晶の道筋が念頭に置かれている。そう言えば今年は国際結晶年であった。



福岡伸一による「解説 科学という詩」、その結語の部分こそ彼が編集を思い立った動機ではないか。

「さまざまな自在の変容を含みながら、六角形の美しい幾何学的なかたちをとる雪の結晶。それにしてもなぜ六角形なのだろう。・・・・

あらゆるものに親和的で、その中に生命を溶かし込み、生命を支えつづける水。
万物が流れゆくことを示し解けても凍っても美のあり方を教えてくれる水。かくして現在の科学は実はいまだになぜ水の分子が高度のある大
気中で急速に凍結すると六角形に組織化されるのか、十分に説明しきれていない。

中谷先生、先生のヴィジョンは、今も冷たい空気の中に、詩の言葉としてそのまま漂っているのです。」



さて今は昔。
戦後の学徒が武者ぶり読んだ「新世界」(ドボルザーク)とも言える書籍がある。


その一つが「生命とは何か}(シュレーディンガー著 岡小天 鎮目恭夫訳 岩波文庫)であった。
ここでは、その冒頭でのことわりに注目しておこう。

「この小著により解き明かして、はっきりさせようと試みるその答えは、前もって次のように要約できます。
今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかにもっていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならないのです、と。」


その年には処女懐胎(パルテノジェネンス)が話題となったけれども迷宮入りしてしまったらしい。もっともロエブらの化学的もしくは物理的な挑戦は延々と、既に数百をも超えていたともきく・・・


「生命とは何か」との言葉によって触発されるのが「死とは何か」、それは、あの進化論のブルドッグと尊称されたハックスレの孫が書いた本であるが、それを寅彦は愛したのであろう、宇吉郎の記憶では、人生観を述べる時には欠かせないと書き記されている。



かつてロバート・ボイルはストラスブールの大時計の比喩をもって語ったところをアイザック・ニュートンは懐中時計をもって語っているのだし、それをカール・R・ポパーが1965年4月21日にワシントン大学で行った第二回アーサー・ポリー・コンプトン記念講演、つまり「雲と時計」で語る。
もっとも、ここの文脈では巻雲とすべきであろうけれど。


『1944年にクック山へのスキー休暇からの帰りに、わたしは妻と一緒に身を切るように寒いバスに乗って旅をしておりました。そのバスは人里離れた雪に閉ざされたニュージランドの農村の郵便局で停車しました。驚いたことに、わたしの名前が呼ばれるのを耳にし、誰かがわたしに一通の電報・・・・・わたしたちの人生を変えた電報を・・・・を手渡してくれました。』
今日知られるポパーは正にこの瞬間に誕生したのである。



翻って、こう見てくると「水とは何か?」
みずからしらざるもの!!
常に身近な備忘メモの如き相図が脳裏に浮かぶ。
それがパーシー・ブリッジマンの御蔭をもって、水のP-V-T曲線、つまり3次元化された相図である。
氷などの豊穣な世界を初めて知ることが出来たはずである。われわれはすむことも触ることもならないホットアイスの世界等もここで明らかとなった。




とまれ、それが融点近辺の現象であってみれば、「アルプスの氷河」の如き固溶体、言われるまでもなく流動してくるではないか。
色分けして視覚効果を高めてみれば丸でアニメーション、その芸術作品にさえ思えてくるから妙だ。
さらに妙なのは、水の惑星とはいうものの、われわれはそのわずかなドメイン、つまり三重点の周縁境内での自由を棲み分けているともいえる。
言い換えると、その隔壁は恰もマックスウエルの魔物をここに垣間見る思いで見直すことだろう。





余録
身近な存在でもある、Botchanとかマドンナは、愛媛大学にある高圧装置のニックネームであり、「ヒメダイヤ」はその成果である。
それらから地球深部をも伺い知れるらしい。

ケイ酸塩ペロブスカイト((Mg,Fe)SiO-3)は、彼に因んでブリッジマナイトと命名された。これが地球で最多な成分と言われているけれど、そこでの主役はDLVO理論と言うよりもファン・デル・ワールスというべきかも知れぬ。


忘れてならないのは昭和11年の226事件をもって語られる川島義之大将は夏目漱石の教え子でもあった。


降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男




「虚私」

2014-06-08 08:20:25 | 虚私
漱石は、1910年、大病に襲われ、生死の境をさまよった。
30分の〈死〉ののち、〈生〉の世界へ生還した。生-死-生の三つのフェーズを短時間のうちに体験した彼は、自らの体験をドストエフスキーの体験にかさねて「思い出す事など」(二十、二十一)のなかで語る。

ドストエフスキーは「一揆あるのみ」と叫んで捕らえられ、シベリアに流刑、死刑を宣告されて仲間と死刑台にのぼった。
銃口がかまえられ死を覚悟した直後、白い手巾がふられ死刑は中止となった。
〈生〉から〈死〉へ。〈死〉から〈生〉へと運命が短時間のうちに変わった。それは、ドストエフスキーのそれまでの人間観、世界観をすべて変えるような体験だった。
「彼の心は生から死に行き、死から又生に戻って・・・・余の如き神経質では此三象面フェーゼスの一つにすら堪え得まいと思う。現にドストエフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、是れがために其場で気が狂って仕舞った」(「全集」八巻、329-330頁)「夏目漱石 眼は識る東西の字」池田美紀子 国書刊行会



ロシア人墓地の所以によって開かれた講演会は、それから100年後の頃であったであろう。

ロシア文学者、亀山郁夫氏の講演会のタイトルは「黙過のリアリティ」ドストエフスキーと現代、と題されていた。



その時の新聞記事には、『「罪と罰」の現代』と見出しが付けられていた。


レジュメとは言えど、膨大な実質が凝縮されており割愛せざるを得ないけれど、そこには簡単なメモがある。

神的なまなざし、見守っているけれども救い得ない感覚!それが「黙過」と言うものらしい。



100年前の今頃は「心」が掲載されていたのであるが、それに先立つ4月半ばには約束はしたものの未だ構想が定まらず神経質になっている夏目漱石が寺田寅彦へ宛てた手紙が残されている。


まさにその頃に彼はドストエフスキーを再読し始めていたもの思われる。つまり詳細に読み直しを行っていたのだ。


読み込むほどに発見があったものであろう、その後もドストエフスキーを精読していたのは確かな事だ。
そのような作業は「明暗」執筆の直前まで続いていたものと見られる。



ところでその「心」であるが、最初から最後まで間違いが付きまとっていた事に、漱石は気がついていた。
些細なことと黙過していたけれども、ついに苦情を申し入れているのは、1904年7月9日の書簡である。

この日の冒頭にあたる、「先生の座敷」・・・では意味が通じないと、校正者への厳重注意を喚起して欲しいと求めている。
同時に、てにはを等も指摘している。(原稿の返却も求めている)



再びレジメへ戻ると、現代との関係では、村上春樹「海辺のカフカ」を素材として味読してみるように誘導されており、手元の資料に目を通してみた。

そこには村上春樹自筆の漫画がある。

丸いものが1つ描いてあるだけの簡単なものだから、地球でもあるかのようなその核心部にはegoとあり、それがselfでくるまれている。

外界と書かれた言わば、媒体側からの矢印がその界面へと向けられている。そこには描かれてはいないけれでも、内圧と外圧が拮抗した動的な界面を暗示させるものであろうか。

それはランダムウオークの説明図にも酷似しているのだから揺動をも超えたダイナミズムを想起してもよかろう。

翻って考えればコロイドの状態図とも言えるから、自然ファラデー・チンダル現象とか3次元化はもとより、その時間軸に沿って4次元化等は勿論、妄想とは言えない。
わずかな刺激によってはバタフライ効果もあり得る、つまりゾル-ゲル転移等は日常茶飯事的な世界といって良かろう。
つまり私活公開、虚視観を許すとの印象を残してくれた漫画である。



さて、この講演会がことの他、印象深く思えたのは造語の問題であった。


拝啓。
「新思潮」のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました。
あなたのものは大変面白いと思います。落着があって巫山戯フザケていなくって自然そのままの可笑味オカシミがおっとりと出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新しいのが眼につきます。文章が要領を得ていて能ヨく整っています。敬服しました。
ああいうものをこれから2、30並べて御覧なさい。
文壇で類のない作家になれます。

しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。
触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい。
群衆は眼中に置かない方が身体の薬です。


大正五年二月一九日、夏目漱石が芥川龍之介へ宛てた手紙である。
漱石が亡くなったのは、この年の12月9日であった。




夏目漱石の造語として語られるものには、新陳代謝等が知られているが、「黙過」もまた彼の手紙に見出せるではないか。
ついでだから、さらに付け加えて置きたいのは寺田寅彦が繁茂に使用している「方則」という言葉も謎めいているが、それは漱石による造語と言って良いのかもしれない。

それは「猫」時代のものであるが、その時代の断片に認められる。


本論、レジメへと戻る。
著者は大辞泉を引き、「知っていながら黙って見すごすこと」と記し、黙過とは、弱者ではなく、優越者と権力をめぐる(からの)視点。二極化した現代において浮上している新たな問題性、と指摘した上で、その拘りを「復活」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」等へと展開させてゆくのだが、先にも触れたが割愛する。





早乙女の逆まけるくも田植唄      膠一



「自由な楽園」

2014-05-25 11:36:08 | 虚私
「事実は真実の敵なり」


それが表象しているものは何か!との好奇心も手伝って一気に読み飛ばした。

その表題は、ドン・キホーテ由来なのだとはすぐに明かされるが、それで全てが解ったわけでもない。それは今もって謎であるともいえる。

私の履歴書との副題を頂くNOYORI Ryoji、その人の近著であり、その発行は、あの大震災の直後の春であった。

さて、ここでは「ノーベル賞の芽」などのキラルな化学などに関しては割愛せざるを得ない、そのことが幸いして謎の1つでも解ければ嬉しいものだが。

冒頭部あたりで目に止まったインタビュー記事は巧みなる聞き手ハインツ・ホライス(訳 矢沢潔)によって導かれてゆく。


ハインツ「政治家や政府関係者との会合では何が話題になったのでしょうか?」
野依「おもに科学研究です。科学の重要性、高等教育の問題、科学研究の方向性といったことです。」
ハインツ「つまり教授はノーベル賞受賞後にそうした分野のエキスパートになられたと。」
野依「いや、私はいまでも学んでいる最中です。私はまた2003年に理化学研究所の(理研)の理事長に任命されました。これは日本でもっとも重要な科学研究機関であり、ドイツのマックス・プランク協会によく似ている。理研には3000人の職員がおり、政府から年間10億ドル相当の予算を受け取っています。そのため私は理研の運営や政府の政策決定に深く関わることになったのです。
ハインツ「つまり政策決定に関して教授は日本の研究全般の将来を決める役割を担っているということですね?」
野依「そうです。私はいろいろな提案を行い、受け入れられるものもあればそうでないものもある。」
ハインツ「どんな提案を行うのでしょうか?」
野依「われわれは基礎科学の重要性を強調しているのです。基礎科学抜きにしては将来のいかなる発展もない。しかし政府はイノベーションを主張し、社会的、経済的価値の創出が重要だと言う。理研で行われている基礎科学は税金で賄われているので、研究に関しては透明性を確保しなくてはならない。研究者は研究内容をどこにでも公表し、また中立的でなくてはならないのです。他方イノベーションへの取り組みは産業部門で秘密裏にかつ閉鎖構造の中で行われている。彼らにとって特許や知的財産権の問題が非常に重要なのです。
ハインツ「そうした対照的な性質をもつ環境の中でどのような運営を行うということでしょうか?」
野依「基礎科学と産業分野を結合させるべきだと口で言うことはやさしいものの、それを実行することは非常に難しいのです。」

ハインツ「非常に異質な基礎研究とイノベーション活動をどのように結合させているのでしょうか?」
野依「たとえばわれわれの研究活動の50パーセント以上は生命科学に関するものです。つまりわれわれは製薬産業やヘルスケアへの貢献を期待されている。だが薬の開発は完全に秘密裏に行われており、その分野の研究者たちは研究内容をいっさい公表しない。一方、理研の研究者は研究内容を公表しなくてはならず、それをやらなければ彼らは生き残ることができない。これもひとつの問題です。ほかにも問題がある。理研は医療機関をもっていないが、ヘルスケアのための基礎研究を応用に活かすには病院との連携が必要なのです。最高度の研究を行うことが理研の最優先の役割であるものの、同時にわれわれは日本の学術研究と企業研究のための非常に強力なインフラ整備もやらなければならない。そのためにいま、たとえば次世代スーパーコンピュターやX線自由電子レーザーの開発を行い、またすぐれた科学者を育てるための新しいシステムづくりに取り組んでいるのです。

ハインツ「教授の研究所では研究スタッフをどのように組織化しているのでしょうか?」
野依「理研の基礎科学関連の研究施設では、従来は研究者の大半が正職員で60歳の定年まで働くことができた。しかし彼らはいまでは少数派です。理研には多数の生命科学の研究施設があり、そこでは脳科学や発生生物学、あるいはゲノム医学を研究している。これらの施設をわれわれは戦略研究センターと呼び、そこで文部科学省と協力して5ヵ年計画を実行しているところです。」

ハインツ「さきほどあなたは理研はドイツのマックス・プランク協会(MPG)に似ていると言われましたが、違うところは?」
野依「理研には約20人からなる国際諮問委員会があり、委員の大半は外国人で、何人かのノーベル賞受賞者も含まれています。この委員会は以前私にMPGのような管理システムを採用するようにアドバイスしたことがありますが、私はただちに却下しました。MPGには約80
の独立した研究所があり、それらのパフォーマンスはすばらしいものです。しかし各研究所がほぼ孤立して独自の領域をつくっている。一方理研では、私は研究所間の内部協力関係を強く推し進めている。それはきわめて重要な点です。独立性は大切であるが研究所がそれぞれ孤立することは許されない。われわれはつねに彼らの研究の進捗を管理し、かつ連携を求めているのです。」


ずいぶん飛ばしたけれども、紐解くほどに縺れ謎めくばかりであるからもうよそう!


キラル触媒には触れないで置くこととしたが、「事実の発見」より「価値の発見」との見立てがあったのが何故か気にかかっている。
それは自らの研究成果の再発見であるのかもしれない。短く引用する。

世界の研究者たちが、ひび夥しい数の新事実を生み出している。実験はなかなか計画通りにはいかない。計画外の結果が出ることもしばしばである。しかし計画通りにはいかなかった実験結果にこそ、未踏の境地への可能性があると思っている。多くの人びとは過度の目的意識が禍してその意味を深く吟味することなく価値なしとして打ち棄てているのではあるまいか?それこそが想像力の欠如というべきで・・・
ここであの「不斉カルベン反応」をたつ!それが当時の決断であった。


約束事であったから、不斉誘導問題はより深く語られるべきかとは思われるが、今回はよす事とする。                                                      
                                                            合掌

「自由な楽園」

2014-05-11 10:06:27 | 虚私
萌えあがる明暗の城青あらし    膠一



大河内正敏の理化学研究所はなにを残しただろうか。
率直にいえば、きわめてユニークな発明は数多く出現したが、高峰譲吉が予告したような、世界史を変革するような大発明が生み出されたとは考えられない。


理研創設の功労者、高峰譲吉、桜井譲二らによって提唱され、大河内正敏によって継承された「模倣によらない独創技術」の開発は、いっそう深刻な懸案としてクローズ・アップされているといえる。


こうふりかえってみれば、明治以来の歴史の中で科学技術の振興が叫ばれた時期は、つねに目先の必要性だけが契機となったものであり、一貫した科学を重視した政策はついになかったのである。


いったい、「理研精神」とはなにか。
それは、科学者の精神の開放であった、といえよう。


もちろん、この理化学研究所の性格は、戦時体制が強化されるとともに歪められ、研究者は軍事研究に従事させられ、大河内自身「産業団」を本来目的から変えて急膨張させ、戦争遂行に協力した。

高峰、桜井を通じて大河内に伝えられた思想とは、一口にいえば「富国強兵」であった。


「理研精神」の復活をいま求めるとしても、それはけっして時代錯誤ではないだろう。

理研では、仁科研究室だけでなく、鈴木梅太郎研究室でも朝から晩までジョークがとびかわされていた、ユーモアの殿堂でもあったといわれる。
解き放たれていない精神から、ユーモアは生れず、またそれを解する心も生まれない。人間の多面性を理解することから、ユーモアがおのずと生まれるはずであるという根源的なところを、朝永はついていたのだ。
(「文学論」の中に見るユーモアのくだり、或いは「猫」誕生の頃、虚子とのあいだで交わされたユーモラスな会話を想起されたし)



難破しかけた科研に、「科学技術振興」を看板に掲げはじめた国家から救いの手がさしのばされたのは、一つの必然的運命であったといえる。

昭和三〇年には、科研を半官半民の特殊会社に変更すべく、「株式会社 科学研究所法」が国会に提案された。
このとき奔走したのは、鳩山内閣の衆議院商工委員長であった自分である、と田中角榮は書いている。

しかし、なお収支はわるく、政府が特殊法人に改組することに踏み切り、「理化学研究所法」を成立させて、特殊法人理化学研究所が誕生し、過去の栄光にみちた理化学研究所の名前が復活したのは三三年十月、初代理事長には長岡半太郎の長男、長岡治男であった。

新しい理研は新天地を求め、埼玉県和光市に七万坪の土地を得て、三八年から移転し科学技術庁管掌の、一万五千坪の建物総坪数で、百六十センチのサイクロトロンを持つ研究所に変容した。
この地は奇しくも、大河内が眠る平林寺に近かった。


さて注意して見ると「殿様と少年」に何故か筆者が拘っているのがわかる。


田中角榮元首相と理研・大河内博士との関係は、不明にも取材なかばまで全く知らず一驚を喫してしまったが、本文に記した通り「私の履歴書」㉘(日本経済新聞)にかなり詳しく叙述されていていました。

田中氏にまつわる挿話群は、本来サイドストーリーにすぎず、「科学者たちの自由な楽園」とはそう本筋にかかわるものではないのに、いくぶん紙数を割きすぎたかもしれません。と、注記されている。


蛇足ながら、その昔、田中角榮は理研コンツェルンとも深く関わってきたものとみられている。
例えば昭和11年頃に設立された理研琥珀工業はその後合成樹脂へと転じる事となるのだが、そこの筆頭株主として発言を求められたりもした。






トリカエル池の生態うつす雲    膠一

「自由な楽園」

2014-04-27 12:02:53 | 虚私
この、ライプチヒ留学が、漱石のロンドン留学と対照的に、表面的にも内面的にもいかに稔り多いものであったかはあとでのべることにして、「末は博士か大臣か」とうたわれたくらい世間からも仰ぎ見られた学者エリートに「大博士」を約束したこの「洋行」にいたるまでの池田の軌跡に、一つの明治の科学者の歩んだ道の典型とその背景をみることができる。

池田はこのとき36歳の元治元年(1864年)生まれである。
父は元加賀藩士で山縣春苗といったが、薩摩藩島津家の京都留守居役、池田城之助の養子となって池田姓を名乗った。動乱期に勝者側についたのだから、羽振りはいい。京の宏大な邸宅に住んで、自身滋賀県の官吏にもなっていた一方で、牧場を経営し、琵琶湖に汽船会社を設立するなど、進取の気性にも富んだ人物であった。
9月8日に生まれ、9月9日の菊の節句にちなんで菊苗の名を与えられたその次男は、当然、なに不自由ない幼児を送った。

しかし、この少年の科学者への道程は、学制がととのっていなかった時代相も反映して、いささかぎくしゃくとしている。
9歳のとき、上京して英語1塾に通ったが、2年後には京都に帰って関学を学んでいる。一見“逆行”ともみえるコースだが、しかし、この変則的な教養課程はのちの科学者池田の人間性にも業績にも奥行を与えたものであり、いま風の一直線の受験教育への頂門の一針とみることができるかもしれない。

14歳のとき京都一中に入り、初めて新教育を受けることになるが、このころ池田家には暗いかげが忍び寄っていた。
父春苗が西郷の征韓論が容れられないのに憤慨して官を辞し、同時に事業にも行き詰まってきたのである。やむなく大阪で宿屋を営んだものの、武士の商法で失敗し、莫大な借財だけが残される結果になる。

菊苗は一年だけで京都一中を退き、さいわいイギリス人宣教師について英語だけは磨きをかけたものの、大阪に移らざるをえなくなった。
このとき、近所に大阪衛生試験所長の村橋次郎がおり、出入りするうちに化学実験の手ほどきを受けて熱中した。しかし、家では異臭を発し、畳に焼けこげをつくったりするので不評であったという。
上京して化学を学びたいという欲求は押さえがたく、18歳のとき、家人の花見の留守を引き受けて家に残り、その間に自分の布団を売って旅費をつくり上京してしまう。

当時は、おそらく医師などの限られた職業の家の子でなければ、科学志望に理解は与えられないのが一般だったのだろう。こうした「家出」のケースは、明治の科学者の生い立ちでは何人もに目にすることである。

菊苗は、官費で勉学できる札幌農学校の入学者募集を聞き知っていた。しかし、試験は通ったものの合格者が定員にみたないという理由で入学は1年延期されてしまった。そこで第一高等学校の前身、大学予備門の入学試験を受け入学する。

この間、大阪の家はいよいよ窮乏の度を加え、一年を終えると、退学を決意せざるをえない状況になった。その由を校長の杉浦重剛に申し出ると、杉浦は同情し、当時二番までに与えられていた奨学金を、成績三番だった池田にも適用するようとりはからい、かろうじて勉学をつづけることができた。

江戸町方名主の子であった漱石もまたそうだが、近代化に乗りおくれた家の子の秀才たちには、経済問題が重くのしかかっている。

菊苗は弟も呼びよせて遊学させ、翻訳や、当時苦学生の生計の道であった、漱石もやった私立学校の英語教師もかけもちでいくつかつとめている。それも大学卒業後、国学院で教えたときには坪内逍遥の退職後の後任としてシェークスピアを講じたというのだから、一介のアルバイト学生の域をこえたものだろう。

この間にも父の春苗ら一家の大阪での生活はまったく行き詰まり、一家七人が莫大な借財をミヤゲに菊苗一人をたよりに上京してきているのである。

その借財は、菊苗が生活をきりつめながら完済するのに大正五年までかかったという。しかし、彼は約定どおりに期日にはきちんと返していったので、最後のころには金貸しが感心して利息を負けてくれ上に、いろいろと身の上話をして、自分の娘も年ごろになったので、もう金貸しをやめるといった、それほど誠実にことを運んだのである。

苦難にみちた前半生であったのだが、しかし、池田はこの当時のことをときに回顧することがあっても、
「自分にとって、いちばん苦しかった時代であるが、一生でいちばん楽しいときでもあった」と語っていたという。




「作家以前の漱石」の傑作である『猫』はよく知られているけれども、それがロンドンでの留学体験を念頭において、再読されるようにお勧めする。


寺田寅彦との関係から3節の首縊りの力学等は知られているけれども、あのカール・ピアソンの「科学の文法」を既に味読してきた、われわれは2節のお正月の光景にも興味深いものがあろう。


今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着している。
白状するが餅というものは今迄一辺も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、又少しは気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛かってネバネバする。食おうかな、やめ様うかな、とあたりを見廻す。
・・・・矢張り誰も来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落とす様にして、アグリと餅の角を一寸許り食い込んだ。

此位力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた!もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺噛み直そうとすると動きがとれない。
餅は魔物だなと感づいた時は既に遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦る度にブクブク深く沈む様に、噛めば噛む程口が重くなる、歯が動かなくなる。歯応えはあるが、歯ごたえがあるがだけでどうしても始末をつける事が出来ない。

そこから幾つかの真理を発見していく長いお話は割愛しておくが、あの『「完全な流体」、「完全なジェリー」物質とエーテルの件におけるストークスの“エーテルの膠質原理”と呼ばれるものを思い出せればそれでお仕舞にしてもよい。

しかし本論では何故に『猫』が最後には死んでしまったかを再考してみて欲しいと申し上げておく。


「もうよそう。勝手にするがいい。ガリガリはこれ限り御免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだか有難いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしていても差し支えはない。只楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落とし、天地を粉セイして不可思議の太平に入る。
吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。有難い、有難い。