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「膠献」

2016-01-02 09:38:50 | 虚私
死の予感と生命の燃焼に揺れ動いていた時分とは1916年のことである。


その時分における「居間の話題」はもっぱら照明とも言うべき「御倫膠」にも触れないでは済まなかったに違いない。


そこでは「しんかがく」が意識されと同時に「不易膠行」なる諦観がうごめいていたのであろうから、ありそうにも無い突飛な現象は日常であったものと推膠できるのだから若き血が騒ぐこともありえたのだ。



漱石のミクロコスモスとは生命の不可思議さを牛のごとく押して入ったのは、芥川等との交歓によったものであったろうが、その時分の意識は「無私」であるが、その言葉自身には何らの拘りをもっていた訳ではないと断っている。

つまり「虚私」でも良いのである。


その若かりし甘美な思い出とは高浜清その人である。
彼の雅号についてのあの逆提案したいきさつは置くとしても、注目される彼の語感では「清」と「虚」は合い通じるものであるから「虚子」を推奨してそれが受け入れられたので、「高浜虚子」が生まれた。


ところで松尾義之「日本語の科学が、世界を変える」は大変面白かった。

その面白さというのは丸でコスミックダンスを踊っているような、得難いパートナーとも言うべきであるわけは、執拗低音としての夏目漱石、寺田寅彦にある。
翻訳家でかつジャーナリストらしい、その生い立ちを遺憾なく発揮した力作は「居間の問題」にもっぱら照明を当ててゆくのだが、その結幕は寅彦の孫弟子を自称する大沢文夫、つまり大沢牧場を想起させ筆を置いている。





さて最後に率直に申し上げて置かねばならない事がある。
自ら断りながらのあの妄想は戴けなかった。つまい第6章「日本語の感覚は世界的発見を導く」20余頁は時分自身の強すぎた想いであろうと思われる。


翻ってみれば、湯川秀樹自身は「旅人」を著し更には「創造への飛躍」も著されていることは周知のことであるが、それらを参照してみれば『逆旅』がクローズアップされてくるではないか。

そこを短く引用しておく。
「・・・・李白にこういう言葉があります。「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」「天地」とは空間のこと、「万物」というのは素粒子だと考えればよろしい。「逆旅」は宿屋のことで客には固有の名前はなく、宿のどの部屋に入るかでどの粒子であるか、またそれがどんな運動状態にあるかが決まるわけです。「光陰」は時間を読み替えれば、「過客」すなわちこの逆旅に出たり入ったりする粒子の意味です。」

つまりそこからの非局所場の理論となるのです。


年頭にあたり皆様の御「献膠」を祈念申し上げます。
      八百万踊る城下や斎灘   膠一

「憂膠道」

2015-12-09 10:00:00 | 虚私

華道家 假屋崎省吾の世界 -華のおもてなしin松山城-





 鈴の音色が流れてきた。
眼があったときには笑みを交わしていた。
冬薔薇鈴がなるなりフェノメノンとか、書き留めてみた。




突飛な現象とも思えるのは「断片」、そこに漱石の呟きがありそこに執拗な重低音があるらしいと再発見したのは、

In sorrror she ate her heart 、から始まる。
Oh!Sorrow、からのあの矛盾に満ちた自然観。



みちみちる鈴なるみちぞみちのみち      膠一





時分はうって変わる「思い出るまま」(抜粋)

帽を振り巾振る人の中にただ黙して君は舷に立ちし
或時は空間論に時間論に生まれる先の我を論じき
年毎に生き茂るままの木賊原茂りを愛でし君は今亡し
此の憂誰れに語らん語るべき一人の君を失ひし憂


「断片」には印度洋上における呟きがある。
The sea is lazily calm and Iam dull to the core 、

そこに続いて、あの柔らかくもありずしりと重たい実在感を、鉛の比喩をもって生命に気づかされた時分自身がある。




ソラサム閉塞く遍路の鈴やフェノメノン     膠一




漱石の愛は悲しみにみちみちている。





ところで「科学」等の雑誌はノーベル賞、つまりニュートリノ等の記事で埋め尽くされているが、眼に留まったのは違っていた。

『石原純あて寺田寅彦書簡 1917年1月27日付け』

友人松根東洋城の経営している俳句の雑誌「渋柿」へ夏目漱石君の事を書く事を強制されました其の責をふさぎ妙な三十一文字を並べて送りました。もし出たら御笑草にして頂き度いと思います。



割愛したが、いわゆる寺田物理学と言われるところの、所詮「憂膠道」に対する決意が滲み出ている。


 


「不易流膠」

2015-11-17 13:34:30 | 虚私
その昔読んだ「パリ燃ゆ」を思わず知らず思い起こさせる時分であった。

朝が来て意識が再び蘇ってきた時に消え去ることもなく残されたのは野路菊であった。

それへと連なる何かが分からないけれども何故か野路菊だけが意識されていた。

やがて形見、あの形見鳥との言葉は今西錦司先生の遺言の如き「生物の世界」と結んでいるのだがそれが立ち現れていた。

それからの分化は遊びの如く仕事でもあるかのように漂っていたが、ファーブルの仕事が思い起こされてきた。
地に這いつくばって観察しているその姿である。

その時分からこの時分へと時空はやすやすと乗り移り、主観的なものが他人事でもあるかのような客観性をおびてきた。

この菊は誰が植えたのでもない育てたのでもなく自生していたのかもしれないがそれが地主の如くあることだけは確かだ。

母が亡くなってすでに30余年。草花を愛してご先祖様へ手向けてもいたのだから、私もまた手向けようと思う。

激動の70余年はやすやすと乗り移ってくるのだから、われわれもまた「内外ウチトの境内」、つまり善男善女が詣でる祈願の如くに、この逆巻ける時を祈念して老病死と向き合って参りたい。

それを今は『不易流膠』と言っておこう。



野路菊をいける形見や初仕事     膠一











「膠縁の積造」

2015-11-02 13:08:58 | 虚私
梅田に降り立って見ると聞きなれたメロデイーに誘われ小さな会場を覗き込めば、大きな古い絵地図が飛び込んできた。

それが「河内街道」であった。千早赤坂村とか太子町等を含む、枚方市から橋本市へとかけての大阪市の周縁地帯である。



案内図を頼りに、裏町の閑静な通りには不釣合いな瀟洒な建物があった。








そこは小宇宙なのだと思う。
開放系ながらもギブズの空間を思わせるような自由エネルギーと熱を連想させるからであるが、事実そこに集う人々は多様でありかつ多種類の楽器を携えてもいるけれども自他の区別が消えうせてしまうような小さな時空間なのである。



アングラ的で躍動的な生態系を思わせゲノムの如きものを宿してもいるらしい、それがこの熱力学的なEnergiaなのである。

私の言うところの膠場は誰彼を問わずその場に立ち寄っているだけでEnergiaを内蔵している事に気がつく。


完全なフリーでありながらも何故か秘密結社の如きごく限られた数十名のメンバーには赤の他人ながらも同士であるとの無意識が流れている。

ど素人からアマチュアさらには金の卵やプロまでがわけ隔てなく一堂に会する珍しくもある膠響詩の現場といえる。







第5回 ムジカショーネ定期コンサートは長谷川美沙先生のご尽力になる。御自身はベートーベンのピアノソナタなどを披露された。

その論評が目に留まったので短く引用しておく。

最後はデュオで、ピアソラの「リベルタンゴ」。ピアノとヴァイオリンの音のバランスがいい、端正な演奏。

バイオリンのアインシュタインはよく知られているが、それと競演させるとすればニュートンという事となろうか。つまり粒子と競演するのは弦の執拗な粘着性ではないか、これが膠楽の場なのだと受け止めた。



皆様の御健膠を祈念したい。
ご案内くださった方にはお礼を申し上げる。




あわい「政膠」

2015-10-21 13:38:53 | 虚私

化学週間が始まっている、この10月23日は化学の日である。
それがアヴォガドに由来するところの、言わば大数の法則の如きに由来しているとは知られている。
語呂合わせされた1023は、恰も自身の自浄でもあるかのような自乗つまり10の23乗からの含意である。その膨大な数を「雲」をもって表象されている事は広く知られている、つまり霧や靄などの仲間であるからガスとも言えるが通常、カオス・混沌などとも称されている。

ところで相次いでやってくる読書週間への、お勧めの一冊がこれ、

「非線形な世界」



わたしの読後感想をもって言えば「政膠」と命名しておきたいところだ。

あえて命名に及んだのは、その表題に関して著者は幾分なりとも不本意さを滲ませているのであるから、読者が命名する事もあるいは許されるに違いない。
その相補的な関係としてご理解頂けるであろう。


さて、それが「膠界」のマツリゴトである事は言うまでもない。
そこで余は考えた。

神無月こそはマツリゴトには似つかわしいのだからと思ってみれば化学週間とか読書週間等もそこにあるけれども、それは非連続であるのは不都合である。恰もクイが足らなかったが故の亀裂ではと余は考えた。
そこでセメントミルクを注入してやれば、あるいはクイなしでもすむのではと悪戯を企てたのだ。



こうして生まれたのが『政膠週間』である。


化学の日である10月23日からの1週間。つまり10月29日までには「読書週間」も含まれている。こうしてコラボレーションは成るものと見込んだのである。
何故なら神無月とはこと挙げせずとも、飄々と楽しみ味わう月間でもあるからだと余は信じている。

これは著者の意図にも沿った、しかも著者には思いつかなかった企画であろうとは猫知恵というものであろう。

さて本書は極めて平易に語りかけて入るけれども著者の専門領域を主軸に展開されているのだから当然専門外の人を不本意ながらも疎外させるであろう事は覚悟して読まねばならないけれども、幸いにも“立ち読み”が可能なような構成をも意図されてもいる。
つまり冒頭と巻末の数頁を読み解くには数分間もあればあるいは可能であろうと思われるその平明さ。

然しそれでは満足しないできっと、再び読みたくなってくるかもしれないと思わせる仕掛けがその中味である、平明であるはずも無いが。


ミカンの膠景
読み終えてみると著者の数膠な夢が、われわれ読者を抱かいてくれている淡い政膠感を覚えるかもしれない。



最後に付け加えるべきことは数少ない。
アメリカの「複雑系」を揶揄してド・ジェンヌが「ソフトマター」と命名し直したように、また「混沌からの秩序」をプリゴジンが“忘れられた時間”との意図を持っていた事などをも念頭において、読み読み直してゆく事が広く期待されてもいるところは著者の想いでもあろうし、その出版を企画した意図もまた同じであろう。






   飄々とはなす「政膠」神無月    膠一





質問  複雑系を何故ソフトマターと言い直し受容され得たのか!
余の膠察並びに造語は?
①流膠  ②膠複  ③膠雑  ④膠界  ⑤柔膠 


参考事項
  「膠一」の由来は、「吾輩は猫である」③に由来する。
『三毛猫は死ぬ。黒は相手にならなず。聊か寂寞の感はあるが、幸い人間に知己ができたので左程退屈とは思わぬ。・・・・大方草稿を書き卸す序開きとして妙な声を発するのだろうと注目して居ると、ややしばらくして筆太に「香一主」と書いた。(火偏を付すことあり)
そこの香一を借用したのである。




天膠学

2015-09-07 09:51:39 | 虚私
ポツリポツリと今にも振り出しそうな秋雨前線が居座り続けている。



「東亜天文学会」の年会が松山で開催されたが、ポツリポツリとはせ参じた人は実に少なかったからでもないであろうが、噛んで含ませるように、演者もポツリポツリと「天」文学の薀蓄をもって語り始められた。


天文学に於いても東亜らしさ、つまり日本らしさとも言うべきものが自ずから滲みでてくるのであろう。
秋雨前線が去った後とか梅雨前線が去った後の夜空はくっきりとしていて美しいと案内してから、小型望遠鏡をそれこそ星の数ほどにも増えることを願っているのだし、その結果でもあろうか、何故にこれほどに日本のアマ天体が盛んなのかと不思議がられるとも語る。


「憲法第九条」があるからだ!!と、半ば真剣に答えているのだが、顧みれば時代がかった「東亜」なる命名は第一次世界大戦も終った1920年であった事を思い起こせば多少の真実味も感じられようか。
 
少し喋り足りないと笑わせて持ち時間は終ったのだが、質問タイムで出されたその質問とは「掃索部」に関しての事であった。ちなみに捜索部ではない。

長くなってしまったと零す言葉には、それこそ火がついたとも言える核心部分に関する事であったことを伺わせる。


それが「天文物理学」とか「宇宙研」とか「内之浦」とかを連発しながら、語られた「87Aだっけ!」と記憶を確かめながらも「カミオカンデ」へとはなしが繋がってくる。


的確に情報を配信していくその職務現場の裏話である。

「ポツリ ポツリと、12、3個ほど・・・」
「それが大切なのだ!」




こうして膠話は終った。

あの小柴さんで知られているノーベル賞を射止めることができたのである。



 秋雨やポツリポツリとニュートリノ        膠一

遊膠の民

2015-08-15 12:34:50 | 虚私

目に留まることもないか細く透明感のあるその生態を観察してみると意外な発見がありそうに思えてくる。イトトンボの「春」である。



「アラブの春とは何だったのか? 民主化と独裁の二分法を超えて」(池内 恵)
その見出しだけでも採録しておこう。
① 「民主化」でなければ意味がないのか?
② アラブ世界は独裁者でなければ治められないのか?
③ 「春」というメタファーの的確さ
④ 「民主主義か独裁か」の二分法を超えて
⑤ 「アラブの春」分析の見通し


その印象はと自問すれば、「情報社会の集合的無意識を覗きこむ 基礎情報学が照らすもの」(西垣 通)等とも、とても似たものでもあったことが想起されてくる。

① 幻のコンピューターと集合的無意識
② 思考している主体は誰か?
③ デジタル・ナルシスから基礎情報学へ

このテーマは深遠であると、締めくくられるのがライプニッツの普遍記号であり、そのモナド論であってみれば直ちにパースの「プラグマチズム」が想起してくるであろう。


ところで先に見た「民主化」を、アメリカの精神とも言われているその原典「プラグマチズム」へと、140年足らずを遡ってみれば、「ボロ膠観」が現れてきそうな心地がするではないか。



ところで冒頭の①には、これはまったくの偶然的出来事に他ならない、とユングの「シンクロニシテイ」が引用されている。


「UP」8月号は丸ごとシンクロしているかのようでもあったのだが、ここでは更に一つをつけ加えておこう。


「ひとりひとりの人生が思春期学」(笠井清登)ではフランクル著「夜と霧」を惹きながら語られるところの、免疫力が低下して感染症にかかって・・の件では、ブレインとシンクロしながら「ダーウィンのマイクロコスモス」を想起してもらいたいものだ。




 さて、漱石ならばこのFを如何に紡ぎだしたかは、我々に残された課題ともなった。そこで、寺田寅彦の「春六題」をのぞいてみよう。

三  春が来ると自然の生物界が急ににぎやかになる。いろいろの花が咲いたりいろいろの虫の卵が孵化ふかする。気候学者はこういう現象の起こった時日を歳々に記録している。そのような記録は農業その他に参考になる。

 たとえばある庭のある桜の開花する日を調べてみると、もちろん特別な年もあるが大概はある四五日ぐらいの範囲内にあるのが通例である。これはなんでもないようでずいぶん不思議な事である。開花当時の気温を調べてみても必ずしも一定していない。無論その間ぎわの数日の気温の高低はかなりの影響をもつには相違ないが、それにしてもこの現象を決定する因子はその瞬間の気象要素のみではなくて、遠くさかのぼれば長い冬の間から初春へかけて、一見活動の中止しているように見える植物の内部に行なわれていた変化の積算したものが発現するものと考えられる。

これに続けて、人間が語られているのだが割愛しておこう。(青空文庫)

一言付記するならば、人類史における叡智という叡智は家畜化という乳の採集にこそあったのではないか?乳なる民にこそ我々は導かれてきたのである。







おとしみずみなもがもえるイトトンボ     膠一


ボロ「膠観」

2015-07-24 10:46:28 | 虚私
幽明境を異とする弟ではなく、その姉、鶴見和子が思い出されたのは南方熊楠とか、自らを山茱萸の花ではなくてその葉っぱに比喩して見せたそのことによるのだと思われる。

彼は60年安保。70年安保などをもって有名であるが和子は熊楠曼荼羅などで少しは知られているけれども、いつも弟に馬鹿にされているとは自意識であった。

彼らが学んだ頃にはパースは有名ではなかったのだし、今我々が読むことが出来る「SCIENCE AND PHYLOSOPHY」(1958)を考えてみればその時分は、浸透できないでいただろう。

西村肇は戦後のアメリカは変わったと書いているが、それはパースなき時分をもって語れるのかも知れない。

その「SIMPLICTY」は殊に味わい深いのはマックスウェルなどを髣髴とさせる記述にもあるが比喩としての“ゴム球”(elastic spheres)はその時分のアメリカらしいと思う。

そこに見るように物理化学を基軸としてその自然の均一性を解いているのパースは、ブリコジンはもとよりド・ジェンヌをも視座に納められているといっても過言ではない。





わたしの「膠観」とは何であったのか?
かように自問自答したくもなるけれども、今言えることは「目的の既視にはボロ膠観」それがパースの意識に上りかつ、和子の意識にも上ったに違いないところの、わたしの「膠観」である。







「膠仁」の妙

2015-06-15 06:08:46 | 虚私

未完「物理学序説」(寺田寅彦)は、中谷宇吉郎等の尽力によって広く紹介されているが、それは恰も漱石への問いかけでもあるかのように記述されているのは故なきことではない。

寅彦は漱石へ何かを教えようとしてしていたのではなく、問いかけていたのであろう。それが漱石を失った時のあの寂しさからの著述への想いであったのだ。

だからその著作は、今なお鮮度を失ってはいないが故に、あの敗戦後の飢えに役立てたいとの熱意に動かされて配布されたのである。

その背景を知らしめるのは第8章『偶然』が好適である、これもまた未完であるがそこにはポアンカレを引用しながら、HOWそしてWHYを引きながら問いかけているのだ。


それからの寅彦は誰でも知っている通りである。あの有名な「墨流し」など多くの問いかけがそこにはある。







金澤翔子書展


「草枕」知からも情からも宙ぶらりんなパフォーマンスは膠笑を誘う、これは「膠仁」と言うべきであろう。







和紙の墨にじみはしれる七変化     膠一