goo blog サービス終了のお知らせ 

「自由な楽園」

2014-04-20 06:53:36 | 虚私
ちょうど100年前の20日、夏目漱石の代表作「こころ」の連載が朝日新聞紙上で始まった。
米ミシガン大学で18日から、100年を記念して米研究者らが企画した「漱石の多様性」をテーマにした国際シンポジウムが開催中だ。国内外から研究者や学生ら100人が集まり、3日間、漱石を語り尽くす。
中国出身のシカゴ大学大学院生、マー・リンリンさん(25)は「こころ」を読み、「主人公が自分の心の暗闇に気づくとき、私の中にも同じような暗闇があると思った」。好きな作品に「こころ」を挙げたミシガン大学大学院生のブラッドリー・ハモンドさん(23)は「作中の“恋は罪悪ですよ”は海外でも有名です」と話した。
 「草枕」の主人公にニーチェの思想を重ねて読んだり、「道草」で主人公が読む洋書に注目したり、発表者の着眼点は幅広い。企画したキース・ビンセント・ボストン大准教授(45)は「漱石は日本のマーク・トウェインのような国民的作家。漱石の描いた人間関係の難しさは全く古びていない。読むたびに新しい発見があり、様々な視点で考えられる」。
2016年の没後100年に向け、来年以降もイベントを続けていくという。高津祐典、アナーバー〈米ミシガン州〉=中村真理子 朝日新聞電子版2014年4月20日00時04分




有名な漱石研究家の小宮豊隆による、この池田との邂逅が、漱石をして、「文学論」を執筆させる契機になったという説はほぼ正しいだろう。
この、《社会心理学の方面より根本的に文学の活動力を論ずる》とした擬似科学的手法による大著が、成功作だったか失敗作だったかは別として、漱石が池田から英文学などという《幽霊のよう》でない、国境を越えうる科学という普遍的な方法について相当に啓発されたであろうことは疑いない。いや啓発されたどころか、羨望まで抱いていたのである。

当時東京帝国大学理科大学の学生であり、前年横浜から漱石が船出したときに見送り、また翌年暮、心身ともに傷つき果てて神戸に上陸した師を新橋に迎え、ついに終生変わるところのない敬愛の情を彼に捧げつづけた寺田寅彦にあてた、9月12日の手紙にある-----

《学問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文学なんかは縁の下の力持ち日本へ帰っても英吉利に居てもあたまの上がる瀬は無之候コレナクソウロウ小生の様な一寸生意気になりたがるものの見せしめにはよき修行に候君なんかは大いに専門の物理学でしっかりやり給え本日の新聞でProf.RuckerのBritish AssociationでやったAtomic Theoryに関する演説を読んで大いに面白い僕も何か科学がやりたくなった此の手紙がつく時分には君も此の演説を読むだろう。
 つい此の間池田菊苗氏(化学者)が帰国した同氏とは暫く倫敦で同居して居った色々話をしたが頗る立派な学者だ化学者としての同氏の造詣は僕には分からないが大いなる頭の学者であるという事は慥かでである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の1人と思う君の事をよく話して置いたから暇があったら是非訪問して話をし給え君の専門上其他に大いに利益がある事と信ずる》


3歳年長の池田と11歳年下の寺田という二人の科学者の間で、これは英文学に疑問を持ち始め、苦悩する漱石の科学への渇仰の告白であろう。いったい、ここまで漱石に深い感銘をのこした池田との、ロンドンの安下宿での会話はどういう内容のものであったのだろうか。
むろんすべてはロンドンの深い霧の中に飛散してしまったわけだが、テープでも残されていたら聞きたいほどの好奇心をそそられる。

陳腐な表現を用いれば「汗牛充棟」のおびただしい漱石研究が、この池田との出会いを重視していながら、ごく一部を除いて、池田菊苗がいかなる人物であったかについて追求を十分に行っていないように思われるのはどうしたことだろうか。
文学者が文という特殊な表現技術のゆえに、その苦悩までが研究対象にされるのは、一つの特権であろう。むろん、漱石神社の門前町の殷賑は、漱石文学が歴史の淘汰を経て生き残ってきたその起爆力の大きさを示し、まぎれもなくこの近代と格闘した文学者が大文学者である証左であるにはちがいない。

しかし、池田もまた巨人であったのだから。
のちに池田が発明した「グルタミン酸ナトリウム」もまた日本人の食卓に毎日くまなく置かれている。しかも、科学者はモノをつくるだけの存在とはかぎらない。
まして日本の近代を代表する大化学者であり、漱石に決定的影響を与えたほどの《大いなる頭》の比類なき教養人であった池田が、味の素の発明者としてだけ名を留めるのではあまりにも不公平だ。文学者だけが世界苦を背負うのではない。
科学者もまた時代の重荷を負わされ、運命に傷つき、苦悩はある。たとえば池田菊苗を、漱石文学の中の単なる一“通行人”に終わらせてはならないだろう。

このとき池田はドイツ、ライプチヒのウィルヘルム・オストワルド教授のもとで約一年半の研鑽のあと、「日記」の中に出てくる王立研究所ロイヤル・インステイテユードに少時滞在する目的でロンドンを訪れていたのである。

この、ライプチヒ留学が、漱石のロンドン留学と対照的に、表面的にも内面的にもいかに稔り多いものであったかはあとでのべることにして、「末は博士か大臣か」とうたわれたくらい世間からも仰ぎ見られた学者エリートに「大博士」を約束したこの「洋行」にいたるまでの池田の軌跡に、一つの明治の科学者の歩んだ道の典型とその背景を見ることができる。






『忘れられた次元の世界』とも翻訳されている息子のオストワルドと区別するために屡々、大オストワルドとも語られる、その留学先には池田菊苗意外にも織田顕次郎そして大幸オオサカ勇吉がいた。

池田が漱石に下宿を依頼した、三説のうちでも大幸説は、極めて有力視されているのは単に予備門時代・第五高等学校時代に於ける多少の縁だけではない。
池田の出した藤井宣正師宛の下宿先依頼の取り消し状(1901年4月23日)も有力な傍証となっている。
それはさて置き大幸はオストワルドの元で最後の実験研究に立ち会ったと言われているけれども、その研究は金属クロムが入手できなくなって挫折した。
大幸は言う「オストワルドの興味は物理化学から離れかけていた。この研究の結果がどう処理されたかは全く知らない」

大幸はオストワルド研究室の若い研究者たち、ブレデイヒ(「無機酵素について、第二報」菊苗共著;1907年ノーベル化学賞---生物学的諸研究および無細胞的発酵の発見)ルター、ボーデンシュタインから次々と指導を受け、さらに1900年9月6日から1年間ゲッチンゲンのネルンストに師事した。

「化学本論」で知られる片山正夫もまたネルンストのところへ留学した。
もっとも、池田の後継者である鮫島実三郎は、反原子論者を敗北させたペランのところへ留学しているから、池田のエネルゲテイークへの心酔は一過性のものであったらしい。

ところで立花太郎「鮫島実三郎とその流れ」---ある実験的伝統の精神史---その「余談」にはこうある。

私は池田先生が一時期マッハの哲学(実証論)に傾倒していたことを知った。夏目漱石の日記によればロンドン留学中の漱石は池田先生と連日哲学論議をしていた。それで私は漱石文学のなかに先生の哲学の痕跡を見つけ出そうと調べだした。
そしてついに漱石の「文学論」のなかに英国のマッハ主義者K.Pearsonの著書『The Grammar Science』(1900)のなかの直訳を見いだした。
漱石の所蔵本の中のMachの語には下線が引かれていた。こうした歴史研究の楽しみも鮫島先生から贈られたものと思っている。

他方「化学教育」(1966年14巻1号)に鮫島先生は投稿している。
『コロイドの世界と人間社会』がそれである。その冒頭は“われわれの存在するところはコロイドの世界である。人間はコロイドからできており、コロイドの中に生活している。”



池田菊苗の座右銘  『学而不思則罔、思而不学則殆』

[解説]孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることである。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養が得られると考えたのである。出典 マナペディア(manapedia)






「自由な楽園」

2014-04-13 07:01:07 | 虚私
明治33年(1900)10月から35年(1902)暮れに及ぶ、あの暗澹たるロンドン生活の証言となっている漱石の日記や書簡の中で、しかし2度だけ心をなごませている箇所があるのが目をひく。

一つは、35年10月、帰国を前にしてスコットランドに遊んだときで、ロンドンの煤煙から脱して、久方ぶりに彼は秋の陽光を浴びる美しいハイランドの自然の中に身を置いて、いささかみずからを慰釈イセキするところがあっただろう。

もう一つは、34年5月、一人の客を迎えたおりの前後である。
その人物の名は池田菊苗という。やはり漱石と同じく文部省留学生の化学者で、5月5日、この池田はドイツからやってきて漱石の下宿に到来している。
4月19日、すでに《独逸ノ池田氏ヘ手紙ヲ出ス》と日記にあるが、この二人が日本で前から交際があったのかどうかはわからない。
しかし、それにしてはよほいど待ち詫びたらしく、いやでたまらなかった下宿の引越しも延期し、池田到着の前日には、涙ぐましいほどの節倹につとめた漱石が珍しく、《薔薇二輪6pence百合三輪9penceヲ買ウ素敵ニ高いコトナリ》などという行為を示して、池田を迎えている。

池田は漱石の下宿の斡旋を依頼していたのである。なぜ、よりによって漱石を選んだのか。
これには三説あって、文部省留学生は数多くはなかったからなんとはなしに互いの動静は知り合っていたのだという説、在独の漱石の友人が仲介したという説、それに、漱石が当時在籍していた第五高等学校の校長、桜井房記が池田菊苗の恩師で当時帝大化学科の教授、桜井錠二の兄であり、しかも桜井と池田の夫人が姉妹であることから、彼が漱石に依頼したという説がある。

それはともかく、下宿に池田を迎えた漱石は、その日からすっかり意気投合したらしい。まさしく、友あり遠方より来る、である。
翌日、5月6日の日記ではさっそく、
《池田菊苗氏トRoyal Instituteニ至ル 夜12時過迄池田氏ト話ス》
9日には、
《・・・・夜池田氏ト英文学ノ話ヲナス同氏ハ頗ル多読ノ人ナリ》
これにつづいて5月20日までくりかえされている。
《池田氏ト世界観ノ話、禅学ノ話抔ス氏ヨリ哲学上ノ話ヲ聞ク》
《夜池田氏ト教育上ノ談話ヲナス又支那文学ニ就テ話ス》
《夜池田氏ト話ス理想美人ノdescriptionアリ両人共頗ル精シキ説明ヲナシテ両人現在ノ妻ト此理想美人ヲ比較スルニ殆ンド比較スベカラザル程遠カレリ大笑ナリ》

哲学、文学談義の果ては、美人論から妻の話柄にまで及んで、爆笑までうんでいるさまが手にとるようである。

池田との邂逅の喜びは、漱石が人淋しかったからだけではない。池田の人物に傾倒したのである。
6月19日にはベルリンに在住している友人の藤代禎輔への手紙に、こうある。

「目下は池田菊苗氏と同宿だ同氏は頗る博学な色々の事に興味を有して居る人だ且つ頗る見識のある立派な品性を有している人物だ然し始終話許りして勉強をしないからいけない近い内に同氏は宿を替わる僕も替わる」

そのとおりに池田は6月26日に去り、漱石も7月20日に下宿を引き払っている。しかしその後も二人は会って親交を重ねている。が、秋には池田が帰朝して、漱石はふたたび孤独の中にとりのこされるのである。



史実にも心理学というプリズムを通してみると、そこには虹(日暈)のようなスペクトルを読むことができる。

「作家以前の漱石」(吉田六郎)

その全体は14項からなっている。
①真偽の区別感
②浪漫的反語
③この人を見よ
④文学と人生
⑤絶対と相対
⑥自然
⑦芸術家
⑧神経衰弱
⑨代助から漱石へ
⑩愛
⑪模倣と独立
⑫自己本位の立場

⑬病気
⑭「猫」

つまりロンドン時代の漱石(34、5歳)は⑪模倣と独立⑫自己本位の立場への道程であったとの診たてがそれである。


「自由な楽園」

2014-04-06 10:17:52 | 虚私
映画「さくら、さくら サムライ化学者 高峰譲吉の生涯」では取り上げられなかったが、日本最初の本格的な基礎研究機関の設立に触媒的な契機を与えた事でも高峰譲吉は広く知られている。

それが現在の独立法人理化学研究所であった。(当研究所は、1917年(大正6年)に財団法人として創設されました。戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足しました。)

その発足は漱石没後となるが、漱石が雑司が谷墓地で埋骨式が行われた二日後、つまり12月30日の日記に寅彦は記している。
「朝、新著起稿。『物理学の基礎』と題する積り。午後読書。」


さて、書肆にたち手にしたのが「科学者たちの自由な楽園」栄光の理化学研究所 宮田新平著であった。
そこには理化学研究所の精神とも言える何かが秘められているものと期待できる。



①ロンドンの邂逅カイコウ

夏目漱石がロンドンの遊学時代、神経症に悩まされたことはよく知られている。
帰国後著した「文学論」の序で回顧して言う。
《倫敦に住み暮らしたる二年間は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群れに伍する一匹のむく犬の如く、哀れなる生活を営みたり》

二十世紀を迎えようとしていたロンドンは、大英帝国の全盛をもたらした産業革命はとうに完了しており、しかしそれゆえに大気は亜硫酸ガス、粉塵、煤煙にまみれたスモッグの都でもあった。

この時、英国世紀末文化も花ざかりであり、また少し前、この人為的につくられた荒涼たる環境にむしろ美を見出して、霧や煙と、それによってベールをかけられた沈んだ光とを主題としたターナーを始めとする風景画家もあらわれていたのだが、光も空気も自明である東洋の後進国からおもむいた漱石にとって、その光景はほとんど狂気に近いものを呼び起こす以外の何物でもなかったらしい。

「日記」にある。
《倫敦の町にて霧ある日太陽を見よ!黒赤くして血の如し。鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽は此の地にあらずば見る能アタわざらん》
《倫敦の町を散歩して試みに痰を吐きでみよ。真っ黒なる塊りの出ずるに驚くべし。何百万の市民は此煤煙と此塵埃を呼吸して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ痰をするときは気のひける程気味悪きなり》

よく知られた件ではあるが、改めて味読してみたくもなるし、声を出して読みたいと言われても驚かないであろう。

著者はさらに言葉を繋いでゆく。

漱石が憂鬱症に悩まされた原因は、このロンドンの光と空気だけは、むろんない。
留学費の不足による生活苦があり、語学の壁があり、小さな体躯の上に顔をアバタを持つ肉体コンプレックスとがある。しかし、いっそう根源的にこの貧しく、矮小な日本人をゆさぶったのは、“幽霊のような”と自らの形容しなければならなかった、留学の目的である英文学そのものへの懐疑である。
その上に、霧に象徴される、先進文明の重みがズッシリとのしかかっている。

メランコリー(憂鬱)と絶望と。この苦悩を理解する誰一人の友も持たぬままに、一人安下宿の机に向かううち、強度の鬱病となり、ついには留学生の中から“夏目狂セリ”と文部省あてに電報が発せられるまでにたちいたるのは、有名な話だ。


「漱石の時代」、その時分の華こそが理化学研究所であったといえる。
その第一章が夏目漱石をもって語られるところに、著者自身の深い思いが込められているのであろうか。
もしかするとロンドンの霧であるのかもしれないけれども、それゆえに何時の日にか、晴れる期待がないわけでもない。



しんねんどSTAP細胞万愚節     膠一