ちょうど100年前の20日、夏目漱石の代表作「こころ」の連載が朝日新聞紙上で始まった。
米ミシガン大学で18日から、100年を記念して米研究者らが企画した「漱石の多様性」をテーマにした国際シンポジウムが開催中だ。国内外から研究者や学生ら100人が集まり、3日間、漱石を語り尽くす。
中国出身のシカゴ大学大学院生、マー・リンリンさん(25)は「こころ」を読み、「主人公が自分の心の暗闇に気づくとき、私の中にも同じような暗闇があると思った」。好きな作品に「こころ」を挙げたミシガン大学大学院生のブラッドリー・ハモンドさん(23)は「作中の“恋は罪悪ですよ”は海外でも有名です」と話した。
「草枕」の主人公にニーチェの思想を重ねて読んだり、「道草」で主人公が読む洋書に注目したり、発表者の着眼点は幅広い。企画したキース・ビンセント・ボストン大准教授(45)は「漱石は日本のマーク・トウェインのような国民的作家。漱石の描いた人間関係の難しさは全く古びていない。読むたびに新しい発見があり、様々な視点で考えられる」。
2016年の没後100年に向け、来年以降もイベントを続けていくという。高津祐典、アナーバー〈米ミシガン州〉=中村真理子 朝日新聞電子版2014年4月20日00時04分
有名な漱石研究家の小宮豊隆による、この池田との邂逅が、漱石をして、「文学論」を執筆させる契機になったという説はほぼ正しいだろう。
この、《社会心理学の方面より根本的に文学の活動力を論ずる》とした擬似科学的手法による大著が、成功作だったか失敗作だったかは別として、漱石が池田から英文学などという《幽霊のよう》でない、国境を越えうる科学という普遍的な方法について相当に啓発されたであろうことは疑いない。いや啓発されたどころか、羨望まで抱いていたのである。
当時東京帝国大学理科大学の学生であり、前年横浜から漱石が船出したときに見送り、また翌年暮、心身ともに傷つき果てて神戸に上陸した師を新橋に迎え、ついに終生変わるところのない敬愛の情を彼に捧げつづけた寺田寅彦にあてた、9月12日の手紙にある-----
《学問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文学なんかは縁の下の力持ち日本へ帰っても英吉利に居てもあたまの上がる瀬は無之候コレナクソウロウ小生の様な一寸生意気になりたがるものの見せしめにはよき修行に候君なんかは大いに専門の物理学でしっかりやり給え本日の新聞でProf.RuckerのBritish AssociationでやったAtomic Theoryに関する演説を読んで大いに面白い僕も何か科学がやりたくなった此の手紙がつく時分には君も此の演説を読むだろう。
つい此の間池田菊苗氏(化学者)が帰国した同氏とは暫く倫敦で同居して居った色々話をしたが頗る立派な学者だ化学者としての同氏の造詣は僕には分からないが大いなる頭の学者であるという事は慥かでである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の1人と思う君の事をよく話して置いたから暇があったら是非訪問して話をし給え君の専門上其他に大いに利益がある事と信ずる》
3歳年長の池田と11歳年下の寺田という二人の科学者の間で、これは英文学に疑問を持ち始め、苦悩する漱石の科学への渇仰の告白であろう。いったい、ここまで漱石に深い感銘をのこした池田との、ロンドンの安下宿での会話はどういう内容のものであったのだろうか。
むろんすべてはロンドンの深い霧の中に飛散してしまったわけだが、テープでも残されていたら聞きたいほどの好奇心をそそられる。
陳腐な表現を用いれば「汗牛充棟」のおびただしい漱石研究が、この池田との出会いを重視していながら、ごく一部を除いて、池田菊苗がいかなる人物であったかについて追求を十分に行っていないように思われるのはどうしたことだろうか。
文学者が文という特殊な表現技術のゆえに、その苦悩までが研究対象にされるのは、一つの特権であろう。むろん、漱石神社の門前町の殷賑は、漱石文学が歴史の淘汰を経て生き残ってきたその起爆力の大きさを示し、まぎれもなくこの近代と格闘した文学者が大文学者である証左であるにはちがいない。
しかし、池田もまた巨人であったのだから。
のちに池田が発明した「グルタミン酸ナトリウム」もまた日本人の食卓に毎日くまなく置かれている。しかも、科学者はモノをつくるだけの存在とはかぎらない。
まして日本の近代を代表する大化学者であり、漱石に決定的影響を与えたほどの《大いなる頭》の比類なき教養人であった池田が、味の素の発明者としてだけ名を留めるのではあまりにも不公平だ。文学者だけが世界苦を背負うのではない。
科学者もまた時代の重荷を負わされ、運命に傷つき、苦悩はある。たとえば池田菊苗を、漱石文学の中の単なる一“通行人”に終わらせてはならないだろう。
このとき池田はドイツ、ライプチヒのウィルヘルム・オストワルド教授のもとで約一年半の研鑽のあと、「日記」の中に出てくる王立研究所ロイヤル・インステイテユードに少時滞在する目的でロンドンを訪れていたのである。
この、ライプチヒ留学が、漱石のロンドン留学と対照的に、表面的にも内面的にもいかに稔り多いものであったかはあとでのべることにして、「末は博士か大臣か」とうたわれたくらい世間からも仰ぎ見られた学者エリートに「大博士」を約束したこの「洋行」にいたるまでの池田の軌跡に、一つの明治の科学者の歩んだ道の典型とその背景を見ることができる。
『忘れられた次元の世界』とも翻訳されている息子のオストワルドと区別するために屡々、大オストワルドとも語られる、その留学先には池田菊苗意外にも織田顕次郎そして大幸オオサカ勇吉がいた。
池田が漱石に下宿を依頼した、三説のうちでも大幸説は、極めて有力視されているのは単に予備門時代・第五高等学校時代に於ける多少の縁だけではない。
池田の出した藤井宣正師宛の下宿先依頼の取り消し状(1901年4月23日)も有力な傍証となっている。
それはさて置き大幸はオストワルドの元で最後の実験研究に立ち会ったと言われているけれども、その研究は金属クロムが入手できなくなって挫折した。
大幸は言う「オストワルドの興味は物理化学から離れかけていた。この研究の結果がどう処理されたかは全く知らない」
大幸はオストワルド研究室の若い研究者たち、ブレデイヒ(「無機酵素について、第二報」菊苗共著;1907年ノーベル化学賞---生物学的諸研究および無細胞的発酵の発見)ルター、ボーデンシュタインから次々と指導を受け、さらに1900年9月6日から1年間ゲッチンゲンのネルンストに師事した。
「化学本論」で知られる片山正夫もまたネルンストのところへ留学した。
もっとも、池田の後継者である鮫島実三郎は、反原子論者を敗北させたペランのところへ留学しているから、池田のエネルゲテイークへの心酔は一過性のものであったらしい。
ところで立花太郎「鮫島実三郎とその流れ」---ある実験的伝統の精神史---その「余談」にはこうある。
私は池田先生が一時期マッハの哲学(実証論)に傾倒していたことを知った。夏目漱石の日記によればロンドン留学中の漱石は池田先生と連日哲学論議をしていた。それで私は漱石文学のなかに先生の哲学の痕跡を見つけ出そうと調べだした。
そしてついに漱石の「文学論」のなかに英国のマッハ主義者K.Pearsonの著書『The Grammar Science』(1900)のなかの直訳を見いだした。
漱石の所蔵本の中のMachの語には下線が引かれていた。こうした歴史研究の楽しみも鮫島先生から贈られたものと思っている。
他方「化学教育」(1966年14巻1号)に鮫島先生は投稿している。
『コロイドの世界と人間社会』がそれである。その冒頭は“われわれの存在するところはコロイドの世界である。人間はコロイドからできており、コロイドの中に生活している。”
池田菊苗の座右銘 『学而不思則罔、思而不学則殆』
[解説]孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることである。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養が得られると考えたのである。出典 マナペディア(manapedia)
米ミシガン大学で18日から、100年を記念して米研究者らが企画した「漱石の多様性」をテーマにした国際シンポジウムが開催中だ。国内外から研究者や学生ら100人が集まり、3日間、漱石を語り尽くす。
中国出身のシカゴ大学大学院生、マー・リンリンさん(25)は「こころ」を読み、「主人公が自分の心の暗闇に気づくとき、私の中にも同じような暗闇があると思った」。好きな作品に「こころ」を挙げたミシガン大学大学院生のブラッドリー・ハモンドさん(23)は「作中の“恋は罪悪ですよ”は海外でも有名です」と話した。
「草枕」の主人公にニーチェの思想を重ねて読んだり、「道草」で主人公が読む洋書に注目したり、発表者の着眼点は幅広い。企画したキース・ビンセント・ボストン大准教授(45)は「漱石は日本のマーク・トウェインのような国民的作家。漱石の描いた人間関係の難しさは全く古びていない。読むたびに新しい発見があり、様々な視点で考えられる」。
2016年の没後100年に向け、来年以降もイベントを続けていくという。高津祐典、アナーバー〈米ミシガン州〉=中村真理子 朝日新聞電子版2014年4月20日00時04分
有名な漱石研究家の小宮豊隆による、この池田との邂逅が、漱石をして、「文学論」を執筆させる契機になったという説はほぼ正しいだろう。
この、《社会心理学の方面より根本的に文学の活動力を論ずる》とした擬似科学的手法による大著が、成功作だったか失敗作だったかは別として、漱石が池田から英文学などという《幽霊のよう》でない、国境を越えうる科学という普遍的な方法について相当に啓発されたであろうことは疑いない。いや啓発されたどころか、羨望まで抱いていたのである。
当時東京帝国大学理科大学の学生であり、前年横浜から漱石が船出したときに見送り、また翌年暮、心身ともに傷つき果てて神戸に上陸した師を新橋に迎え、ついに終生変わるところのない敬愛の情を彼に捧げつづけた寺田寅彦にあてた、9月12日の手紙にある-----
《学問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文学なんかは縁の下の力持ち日本へ帰っても英吉利に居てもあたまの上がる瀬は無之候コレナクソウロウ小生の様な一寸生意気になりたがるものの見せしめにはよき修行に候君なんかは大いに専門の物理学でしっかりやり給え本日の新聞でProf.RuckerのBritish AssociationでやったAtomic Theoryに関する演説を読んで大いに面白い僕も何か科学がやりたくなった此の手紙がつく時分には君も此の演説を読むだろう。
つい此の間池田菊苗氏(化学者)が帰国した同氏とは暫く倫敦で同居して居った色々話をしたが頗る立派な学者だ化学者としての同氏の造詣は僕には分からないが大いなる頭の学者であるという事は慥かでである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の1人と思う君の事をよく話して置いたから暇があったら是非訪問して話をし給え君の専門上其他に大いに利益がある事と信ずる》
3歳年長の池田と11歳年下の寺田という二人の科学者の間で、これは英文学に疑問を持ち始め、苦悩する漱石の科学への渇仰の告白であろう。いったい、ここまで漱石に深い感銘をのこした池田との、ロンドンの安下宿での会話はどういう内容のものであったのだろうか。
むろんすべてはロンドンの深い霧の中に飛散してしまったわけだが、テープでも残されていたら聞きたいほどの好奇心をそそられる。
陳腐な表現を用いれば「汗牛充棟」のおびただしい漱石研究が、この池田との出会いを重視していながら、ごく一部を除いて、池田菊苗がいかなる人物であったかについて追求を十分に行っていないように思われるのはどうしたことだろうか。
文学者が文という特殊な表現技術のゆえに、その苦悩までが研究対象にされるのは、一つの特権であろう。むろん、漱石神社の門前町の殷賑は、漱石文学が歴史の淘汰を経て生き残ってきたその起爆力の大きさを示し、まぎれもなくこの近代と格闘した文学者が大文学者である証左であるにはちがいない。
しかし、池田もまた巨人であったのだから。
のちに池田が発明した「グルタミン酸ナトリウム」もまた日本人の食卓に毎日くまなく置かれている。しかも、科学者はモノをつくるだけの存在とはかぎらない。
まして日本の近代を代表する大化学者であり、漱石に決定的影響を与えたほどの《大いなる頭》の比類なき教養人であった池田が、味の素の発明者としてだけ名を留めるのではあまりにも不公平だ。文学者だけが世界苦を背負うのではない。
科学者もまた時代の重荷を負わされ、運命に傷つき、苦悩はある。たとえば池田菊苗を、漱石文学の中の単なる一“通行人”に終わらせてはならないだろう。
このとき池田はドイツ、ライプチヒのウィルヘルム・オストワルド教授のもとで約一年半の研鑽のあと、「日記」の中に出てくる王立研究所ロイヤル・インステイテユードに少時滞在する目的でロンドンを訪れていたのである。
この、ライプチヒ留学が、漱石のロンドン留学と対照的に、表面的にも内面的にもいかに稔り多いものであったかはあとでのべることにして、「末は博士か大臣か」とうたわれたくらい世間からも仰ぎ見られた学者エリートに「大博士」を約束したこの「洋行」にいたるまでの池田の軌跡に、一つの明治の科学者の歩んだ道の典型とその背景を見ることができる。
『忘れられた次元の世界』とも翻訳されている息子のオストワルドと区別するために屡々、大オストワルドとも語られる、その留学先には池田菊苗意外にも織田顕次郎そして大幸オオサカ勇吉がいた。
池田が漱石に下宿を依頼した、三説のうちでも大幸説は、極めて有力視されているのは単に予備門時代・第五高等学校時代に於ける多少の縁だけではない。
池田の出した藤井宣正師宛の下宿先依頼の取り消し状(1901年4月23日)も有力な傍証となっている。
それはさて置き大幸はオストワルドの元で最後の実験研究に立ち会ったと言われているけれども、その研究は金属クロムが入手できなくなって挫折した。
大幸は言う「オストワルドの興味は物理化学から離れかけていた。この研究の結果がどう処理されたかは全く知らない」
大幸はオストワルド研究室の若い研究者たち、ブレデイヒ(「無機酵素について、第二報」菊苗共著;1907年ノーベル化学賞---生物学的諸研究および無細胞的発酵の発見)ルター、ボーデンシュタインから次々と指導を受け、さらに1900年9月6日から1年間ゲッチンゲンのネルンストに師事した。
「化学本論」で知られる片山正夫もまたネルンストのところへ留学した。
もっとも、池田の後継者である鮫島実三郎は、反原子論者を敗北させたペランのところへ留学しているから、池田のエネルゲテイークへの心酔は一過性のものであったらしい。
ところで立花太郎「鮫島実三郎とその流れ」---ある実験的伝統の精神史---その「余談」にはこうある。
私は池田先生が一時期マッハの哲学(実証論)に傾倒していたことを知った。夏目漱石の日記によればロンドン留学中の漱石は池田先生と連日哲学論議をしていた。それで私は漱石文学のなかに先生の哲学の痕跡を見つけ出そうと調べだした。
そしてついに漱石の「文学論」のなかに英国のマッハ主義者K.Pearsonの著書『The Grammar Science』(1900)のなかの直訳を見いだした。
漱石の所蔵本の中のMachの語には下線が引かれていた。こうした歴史研究の楽しみも鮫島先生から贈られたものと思っている。
他方「化学教育」(1966年14巻1号)に鮫島先生は投稿している。
『コロイドの世界と人間社会』がそれである。その冒頭は“われわれの存在するところはコロイドの世界である。人間はコロイドからできており、コロイドの中に生活している。”
池田菊苗の座右銘 『学而不思則罔、思而不学則殆』
[解説]孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることである。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養が得られると考えたのである。出典 マナペディア(manapedia)