この草膠は、踏み躙られても時分自身をいやしてくれるに違いない。

変転極まりもない世のことだから誰を咎めると言うわけでもない、けれども、・・・みんな生きている。
われわれもまたその時分を生きている。
それらの全てを膠物とでも言っておくより他にないのだが、その膠物の健康状態を祈念しておきたい。
われわれに置いては、健康とは言わないで、「健膠」と言われる方がズート見通しが良くなるのだ。
全く同様に、思考法ではなくて「思膠法」と言われる方がしっくりと来る。
つまり二分法を拒むが如くある、一切の壁という壁はあくまでも、単なる膠物の集積体なのだから。
同じことだが、光学と「膠学」の差異である。
つまり光学だけではなく、瞳孔とか網膜等との関係をも含ませた思膠法が必須となっている。
それは膠観に基づくものであるから、ゾルーゲルの如きを想起すれば奇怪でもないと知れる。
それでは丸で信仰、と言うより「信膠」ではないか?
そうとも言えるけれども、そこの表象は抽象的なものではない、その表象が雲散霧消してしまってはいけないのだ。
しかし、それでも心膠とは言わないでおこうと思う。
あのマイケル・ファラデーが妻から問い質された、その故事を思い出して頂きたい。ここでは割愛する、恕!

夢殿やしずまりみちくる千膠 膠一
余滴
みち半ばでいった膠人は数しれない。
大整理中に未だ聞いたこともないテープも出てきた。
何故かうたれた、それを「空膠」「つぐない」だと想っている。 再見

変転極まりもない世のことだから誰を咎めると言うわけでもない、けれども、・・・みんな生きている。
われわれもまたその時分を生きている。
それらの全てを膠物とでも言っておくより他にないのだが、その膠物の健康状態を祈念しておきたい。
われわれに置いては、健康とは言わないで、「健膠」と言われる方がズート見通しが良くなるのだ。
全く同様に、思考法ではなくて「思膠法」と言われる方がしっくりと来る。
つまり二分法を拒むが如くある、一切の壁という壁はあくまでも、単なる膠物の集積体なのだから。
同じことだが、光学と「膠学」の差異である。
つまり光学だけではなく、瞳孔とか網膜等との関係をも含ませた思膠法が必須となっている。
それは膠観に基づくものであるから、ゾルーゲルの如きを想起すれば奇怪でもないと知れる。
それでは丸で信仰、と言うより「信膠」ではないか?
そうとも言えるけれども、そこの表象は抽象的なものではない、その表象が雲散霧消してしまってはいけないのだ。
しかし、それでも心膠とは言わないでおこうと思う。
あのマイケル・ファラデーが妻から問い質された、その故事を思い出して頂きたい。ここでは割愛する、恕!

夢殿やしずまりみちくる千膠 膠一
余滴
みち半ばでいった膠人は数しれない。
大整理中に未だ聞いたこともないテープも出てきた。

何故かうたれた、それを「空膠」「つぐない」だと想っている。 再見