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しんかがく 85

2012-10-05 09:00:00 | colloidナノ
「化学史研究」第39巻 第3号 2012年(通巻第140号)

総説  グレアムのコロイドとその系譜    北原文雄 119(1)
総説  科学アカデミー院長:エカテリーナ・ダーシコワ(啓蒙期ヨーロッパにおける科学アカデミーと女性、その1)   川島慶子 133(15)

総説  科学アカデミー会員:ラウラ・バッシとイタリアの才女たち(啓蒙期ヨーロッパにおける科学アカデミーと女性、その2) 川島慶子 150 (32)

広場  19世紀中葉の実験器具      渡邊慶昭  165 (47)
紹介  西條敏美「測り方の科学史1:地球から宇宙へ」  新井和孝 170 (52)
    西尾成子「科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原純」  猪野修治 170 (52)
    Susanne Poth、Carl Remigius Fresenius(1818-1897) 渡邊慶昭  173 (53)
    D.S.Nickell(ed)、Guidebook for the Scientific Traveler  渡邊慶昭 174 (56)
資料  博士論文概要(菊池原洋平)    176 (58)


ここで取り上げてみるのは「グレアムのコロイドとその系譜」であるが、その構成は①立花太郎論文 ②古川安論文 そして③自身の論文などから構成されている、その全体に触れる余裕はない。
 しかし昨年がコロイド誕生150年に際しての講演をもとに構成されているのであってみれば、多少の復習はやむを得ない。

 19世紀前半頃は英国の科学教育システムは遅れていて、科学の先進国ともいうべきフランス、ドイツのように科学教育に対する公的支援はなく、学位授与制度も確立していなかった。
そのため研究者の育成は徒弟制度によっていた。

 1829年グラスゴーの機械工養成学校で化学の講師に任命され、続いて1830年グラスゴーのアンダーソニアン大学の化学の教授に任命された。これが彼の生涯の決定的段階となった。すなわち、ここで7年の在職中化学分野で大きな活躍をすることになったのである。

 1837年、その前年に開設されたロンドン大学(後のUniversity College London)の化学の教授に任命され、1855年まで在職し大きな足跡を残した。同年造幣局長官となり死に至るまでこの職を勤めた。この職はかってニュートンも勤めたことがあった。


 おわりに
1861年グレアムによりコロイドという新概念が誕生した。
これは近代化学発展途上の一つのマイルストーンである。
 彼のコロイド概念は多様であった。
物質はコロイドとクリスタロイドに2分別され、その区分は分子の内部構造にあるとされた。他方コロイドはコロイド状態をとり、クリスタロイドと互いに移行しあうことも記された。区分関係は構造論、移行関係は状態論である。前者から高分子化学が、後者からコロイド化学が生まれたとみることができる。
両者は別々に発展の道を辿ってきた。しかし現今両者は共存しつつ共助しあう状況がうまれつつある。ソフトマターまたはソフトマテリアルといわれる領域はその一つである。


しんかがく 84

2012-10-04 09:00:00 | colloidナノ
名は体をあらわすとか言われるけれども、10回程度の企画が、いつの間にか50回を超えてしまった。
50回を超えた頃にはおわりはみえなくなってしまった。けれどもおわらせねばならないとの意識が鰯雲のように全天を覆い始めた。


思い返せば、教科書問題は遊びを嫌うところにある。元来が遊びからの恩恵を享受しながら育まれてきたのだが、現今ではそこに矛盾点をみるのみ。

当初は、夏目漱石とか熊本五高ゆかりの大幸勇吉などとも深い縁があった鈴木達治の自由教育観を取り上げてみようかともおもって始めてみたものの道草がすぎ気がついたときにはすっかり忘却の彼方。

ここでは観点を変えてみ直してみたい。


金沢医科大学 (旧制)

 1867年6月:第14代藩主前田慶寧が西洋式病院として養生所を設立。
 1868年7月:蘭方医黒川良安、藩命により長崎に赴き医学校設立のため視察。 良安は金沢大医学部の祖とされ、同学部キャンパス内に記念のレリーフが設置されている。

 1870年2月:藩は良安らの提議により養生所を廃止、医学館およびその附属病院を設立。
1871年3月:オランダ人軍医スロイスが医学館に赴任、学生を指導( - 1874年9月)。 修業年限は予科・本科をあわせ5年となる。



金沢大学名誉教授 板垣英治「特別講演 スロイスとホルトマンの最新化学の講義」が公開されている。その一部を引用する。


慶応2年に長崎に着いたハラタマは、明治2年東京から大阪に移り、舎密局で物理学・化学の講義をした。


 従来の化学史では,明治2 年5 月のハラタマおよび明治3 年12 月からのリッテルの講義が,わが国の化学の草創期に「最新の化学の講義」であったと記されています。
ハラタマの講義録『理化新説』は,化学がはじめて系統的に講義されたものとされていますが,元素表や分子式の表記は現在のものとはかけ離れたものであり,これを1855 年に出版されましたユトレヒト陸軍軍医学校のファン・デン・ブロック著の『Handleiding der Scheikunde』の内容と比較すると,ハラタマはこの当時のヨーロッパの化学を紹介している事が分かります。⇒1857年の出版とも記されている。

他方スロイスは加賀藩との契約で明治4年3月(1871)に金沢に到着し、金沢医学館教授として医学生の教育と病院での患者の治療を行った。

その内容は斬新なものであり、まさに最新化学であった事である。
それは1867年にロンドンのKings CollegeのW.A.Millerにより出版された化学テキスト「Elements of Chemistry」を参考資料としての講義であった。


 本書の特徴は、①1860-1870年代の新しい化学資料により記載されいること、②原子、分子の概念が十分に説明され、原子量、分子量でそれぞれを表示している事、③分子式が導入され、化学反応が分子式で表示され、その意味を説明していること、④原子間の結合には原子価を用いて説明していること、⑤気体の性質かあらアボガドロ説の説明がなされている事である。

 西洋文化の移植問題は当然ながら時差問題を伴うのである。まして鎖国状態のそれには大きなものがある。
例えばニュートンの1687年の業績は志筑忠雄により1898年によって知らされるまでには、211年もの時差があったのである。
 ラボアジエの1789年の業績は宇田川榕庵によって1837年にもたらされたのだから48年間であり、ドルトンの1808年の業績は川本幸民「化学新書」として1857年であるから49年間である。

 あのポンペの来日によって、R.ワグネルの1849年の著書は、1859年に講義されているから10年間である。そしてハラタマは実験をそこへ持ち込んできたといえる。


 因みに1859年という年は科学史においては特異点の1つと言って良い。
例えば「種の起源」ダーウィンのほかにT.H.ハックスリーなどの腔腸動物の研究等や前年ではあるがウオーレス・ダーウィン各々独立に、自然選択説を提言されたことも注目されて良い。
 他方ケクレ・クーパーが独立に炭素結合の概念を提唱したりカニッツァーロのアボガドロ再発見と並んで翌年1859年にはブンゼン・キルヒホッフの元素固有のスペクトルの発見とか黒体概念の導入などを銘記しておきたい。

あのポンペとかシーボルトそしてボードウィンは来日したのは、丁度このような背景のもとであった。



 司馬遼太郎の「花神」をなぞるようにして、「舎密局開講之説」までのおおよそ10余年が舞台であった。
この間に医化学からの化学が誕生したと言っても良いが、それが蘭学の終わりでありもあった。つまり御一新ともなるのだ。

 その転換点は化学史においても実に興味深い。
金之助の生まれた1867年の春にはハラタマが江戸にてなすすべもなくすごしていたのだが、ドイツでは化学会が創設され、そこのトラウベは人工半透膜で浸透圧を発見したりした。
 あのファラデーが没した年でもあるが、キューりー夫人がうまれたのも正にこの年であった。第1回のパリ万博には視察団などが派遣された。


 1868年はハラタマはやむ無く、大阪へと住まいを変えざるをえなかった。究理熱ブームの始めとなった「訓蒙究理図解」(福澤諭吉)

この年にはコロイド粒子によるチンダル現象の発見とかボルツマンの確率論とか、ロシア化学会の創立も記憶されて良い。

 そして1869年には大坂舎密局での、化学教育が始まった。元素の周期表がメンデレーエフによって発表されたのもこの年であった。臨界温度とか臨界圧力の発見はアンドルーズによる。陰極線はヒットルフによって直進性が発見された。

 ここの文脈からは忘れてはならないのは、あのトーマス・グラハムの没年でもある、丁度そのころに新たな生命が生まれんとしていたのだ。⇒Miescher Johann Friedrich(1844-1895)




余録 丁度1年程前にメンデレーエフの周期表を取り上げていたことを思い出させてくれる人があった。


しんかがく 83

2012-10-03 06:55:58 | colloidナノ
舎密局開講之説は1869年5月1日(6月10日)には200名とも言われているが、開講式に参加した生徒はたったの4名であった。そのことも関わって統合化が行われてゆくのだが。

日蘭学会編「洋学史事典」から引用する。

明治2年5月1日大阪舎密局開校式の日オランダ人教頭ハラタマの記念講演禄。
この日ハラタマは大阪府役人、各国領事の来賓を含めて約200人の聴衆に最近の西欧における理化学の発達と日本におけるその振興の重要性を説いた。
まず西欧の学問と東洋の学問の違いについて述べ、西欧の学に自然万物の学(博物学)と理学(物理学)、化学があると説き、化学はかつては分析を主としてきたが、近時は化成(合成)の法が進んできたという。
 さらに物理、化学における最新の成果の例を多く挙げ、これら理化二学の成果は決して考思(思索)の産物ではなく、すべて試験(実験)で証明されなければならないと、既に日本人の西欧学問の受容態度に対する警告を与えている。最後に舎密局の開校を祝し、理化二学が早く日本国中に普及することを切望した。


 その具体的な内容について触れておく。
実験でもって証明されている実例として、ガリレオの振り子、アルキメデスの比重、トリチェリーの大気圧、ワットの蒸気機関、ガルバニーの電気などをあげ、ラボアジエは天秤を用いて定量的な研究をして、化学ははじめて進歩した。

化学には無機と有機の別があるが、最近この二十年間に有機化学の発展が目ざましい。
昨今では動植物成分も化学合成によって作ることができるようになった。
 たとえばQuinineキニーネは非常に貴重で高価であるが、いつの日にか化学合成の方法が進歩すれば、廉価な植物成分から容易に類似化合物を誘導することが可能となるであろう。
 ⇒1944年にロバート・バーンズ・ウッドワードとウィリアム・デーリングは3-ヒドロキシベンズアルデヒドからホモメロキネンを合成する方法を報告した。 さらにウッドワードらはこれをN-ベンゾイルキノトキシンまで誘導した。 これをもってキニーネの全合成が完成したとされる。 当時は第二次世界大戦中であり熱帯地域での戦闘でマラリアに感染する兵士が続出しキニーネの需要が高まっていたこと、キナの主産地であったインドネシアを日本におさえられていたことから、実際には工業的にはとても利用できない成果であったにも関わらず、ニューヨークタイムズなどの一般の新聞紙や雑誌でも大きく報じられた。



開校二ヶ月後の7月から毎日午後の時間に化学の講義実験を開始した。さらに翌年の1月からは化学の学生実習も始めた。


来日してから3年余り、長崎から江戸そして大阪と転送された実験器具類の破損は甚だしかった。
特に磁性の器具、薬品類。鋼鉄器具は腐蝕していた。三崎とともに二人してこれらの検定と名称を確定してゆく作業は二ヶ月余りを要したという。
 因みに化学器具類 557点、物理機械類 376点、薬品類1500余り、それは天秤 10種28基、三口洗気瓶 85点、試験管 1780点、陶器製坩堝 800点
顕微鏡 10基、蓄電池 60点、白金 15点などを数え上げられている。

なお、書籍については蘭書 570冊、独書 140冊、仏書 165冊などとされている。これ以外にも必要に応じて至急取り寄せている例の一つは、1869年5月28日の手紙に見るような“硫酸製造プラント”に関する化学叢書としてMaspratt著を取り寄せている。これは宇都宮の依頼に応えるためとされている。大阪の造幣局貨幣製造では、硫酸を地金の分析、サビ落とし、洗浄などに使います・・



ハラタマの去ったあと、これら理化学教材は東京へと移送されたのだ。


 目まぐるしく変わったその表象としての変遷を記しておく。

舎密局⇒理学校⇒(洋学校)⇒開成所(分局・理学校)⇒第4大学区第1中学校⇒第3大学区第1番中学校⇒開明学校⇒大阪外国語学校⇒英語学校⇒大阪専門学校⇒大阪中学校⇒大阪分校⇒第3高等中学校⇒第3高等学校




しんかがく 82

2012-10-02 11:39:29 | colloidナノ
明治維新に際して、伊達宗城は新政府の高官に就任した。
彼のもとで諸淵は、神戸事件・堺事件など維新当時に連発した攘夷事件解決の交渉に当たったとされるが、詳細は明らかではない。

この時期まで、通訳として利用されることが多かった彼であるが、入獄の体験から徐々に政治への関与を避けて、本来の理想であった医学の道を進むようになる。
慶応3年(1867)以降、彼は新政府による病院設立に関わり始める。この年、諸淵は長崎に赴き、養生所で講義をしていたオランダ人医師ボードウィンと病院設立について協議している。

明治元年(1868)の大阪医学校兼病院の設立計画に基づいて、翌2年(1869)に大阪・大福寺に仮病院が設けられ、ボードウィンを招いて医学教育が始まる。
諸淵は、ボードウィンの講義の通訳を担当した。
この年9月、大村益次郎(かっての村田蔵六)が京都で刺客に襲われ重傷を負い、大阪病院に運ばれてくる。大腿部切断の手術が行われ、諸淵も看護に当たったが、その甲斐もなく11月に死去した。
⇒大村が重傷を負ったのは10月8日であったが、高官ゆえに当時にあっては諸手続きが必要であった。その手術が敢行されたのは11月30日のことであった。大村の死亡は12月7日である。


「特別展 シーボルト最後の門人 三瀬諸淵の生涯」2002年10月19日~11月17日  津山洋学資料館

ことのついででもないが、「義母・オランダおいね」の節も付記しておこう。

 妻・高子の母親であるおいねは、オランダ商館医師として文政6年(1823)に来日したシーボルトとお滝との間に生まれた娘である。
シーボルト事件によって父が国外追放となった後は、父の門人であった二宮敬作に託されて成長、母の生家の楠本姓を名乗るようになる。
 産科の修行を志し、やはり父の弟子に当たり岡山で開業中の石井宗謙のもとで6年間学ぶが、彼に妊娠させられ、長崎に帰って女子を出産した。これが高子である。
おいねは長崎でも阿部魯庵について勉強し、安政元年(1854)からは伊予卯之町の二宮敬作のもとへ戻って修行を続けた。

ここで、若き日の諸淵と出会うことになる。長崎に出向くと敬作に従って帰郷、安政6年7月に再度来日した父と再会を果たす。
そして、相次ぎ来日したポンペ、ボードウィン、マンスフェルトから最新の医療技術を習得し、明治3年(1870)に東京築地で産科医を開業。同6年には宮内省御用掛りを勤めるなど、日本初の女性産婦人科医として活躍する。 築地での開業は明治10年までで、諸淵の死去に際しては、大阪の三瀬家に滞在して娘の高子と共に最期を見取ったようである。
その後長崎に帰郷したが、明治22年に再度上京して、再婚相手の山脇泰輔に先立たれた高子と同居。明治36年(1903)、76歳でこの世を去った。


箕作阮甫との対面---「西征紀行」より


長崎滞在中に彼はおいねと対面している。
石井宗謙から預かってきたおいね宛の手紙を届けたところ、その年の大晦日の夕方、彼女から面会に来た。
 その日の記事には「長崎にては第一等の美人」との評がある。また、交渉が終わり、長崎を発って大村についた日の暮れにも、阮甫を追い駆けて会いに来ている。当時江戸にいた宗謙は、おいねに対して頻りに「娘を連れて自分のもとへ来るように」と催促していたが、おいねは老母への孝行を理由に断ってきた。すると宗謙は「自分が来ないのならば、娘だけでも大坂まで連れて来なさい」と強要してきたので、阮甫を頼りにして離縁について相談しに来たのだという。
 
宗謙の催促を断る理由を、おいねは親孝行のためと称しているが、彼に無理やし妊娠させられたという経緯を考慮すると、できる限り彼と顔を合わせたくなかったと容易に想像がつく。
 江戸に帰った阮甫は、果たして宗謙にこの話をどのように伝えたであろうか。

幕末の混乱期を通訳として多忙を極めるなかで、彼の夢を叶えたく奮迅した。それがエルメレンスの講義内容の出版に尽力したことに見て取れる。
それは死後の出版となったのだが、「日講記聞 薬物学」「日講記聞 原病学各論」である。


大阪府病院教師 蘭医 (エルメレンス)著 その訳者は高橋正純 三瀬諸淵 校閲は岡澤貞一郎である。

14巻は神経病名、脊髄諸病、神経諸病などにふれられ、15巻では全身病篇となり、中毒諸病として鉛中毒、燐、砒素、水銀などである。此等の急緩にふれ、各論を論ずる。

しんかがく 81

2012-10-01 08:40:08 | colloidナノ
たまたま生まれでた小さなまちからの軌跡はそれと知らずして、描きみせる摩訶不思議な交錯はとても人事ともおもえぬ。
それが郷土史家の感動であり誇りでもある。「蘭学大家 三瀬諸淵先生」長井石峰著の読後感でる。


 更に又最も奇とするのは、巣内式部が失脚したのは明治2年9月、彼の部下が大村益次郎を京都に刺したことに因るのであって、而して式部は勿論下手人ではないが、之を殺害する側に立ち、諸淵は益次郎の深手を負うたのを、当時の名医として治療に盡くした人で、即ち之を助ける側に立ったのである。
 素より両人は互いの此の関係は意識せず、又いずれも純忠の精神を以てしたることながら、3丁目が殺す方、1丁目が助ける方、1丁目が開国党で3丁目が鎖国党であったことは、如何にも不思議な、奇な因縁であるといわねばならぬ。而して2人共に他郷に客死し爾後歳月悠々50年間は、空しく土中に埋もれたまま全く世人に忘却し去られた運命に陥りながら、最近に於いて2人者共御贈位の恩典に浴し、同じく郷土大州に帰葬せられて、今や各々其祖先の側に、安らかに鎮まることになったのも、実に人生不思議の奇縁なりと謂わねばならぬ。


 ここの、一は1丁目麓屋(塩問屋)辨次郎で、後に三瀬諸淵と称した。蘭学の大家で幕末時代にてシーボルトの孫娘を娶り、開国論を主張した先駆者である。

 麓屋辨次郎の三瀬諸淵が、万延元年桜田の事変後、西洋の傑儒シーボルトに随従して江戸に上り共に幕府の為の獄に下さること5ヵ年、偶々九死を脱して出獄するや間もなく、政府に登用せられ、小松帯刀、後藤象次郎を援けてボードウィンと共に医学所の創設に盡くしのち大学東校の経営に当たり、当時天下医学の棟領と仰がれ、日本文化の先達として我維新開国史上に足跡を印した偉人であって、此中町には共に少しく物過ぎた産物であると郷人は誇って居る。


大阪近代黎明期の西洋諸科学との交流

 三瀬諸淵(周三)は語学の才に長じ、数ヶ国語をよくした。
医学を二宮敬作、英語を村田蔵六(大村益次郎)、蘭学を川島再助・名村八左衛門に学び、安政6年(1859年)再来したシーボルトの門人となり、幕府対外顧問、元治元年(1864年)宇和島藩お抱えとなり、たかと結婚した。
 明治3年(1870年)大阪医学校勤務、ボードウイン、エルメレンスの訳官をつとめ、多数の翻訳書を世にだした。
なお、大村益次郎が京都木屋町で遭難の際、ボードウイン、緒方惟準が上京治療にあたり、後大阪府病院に移送され、娘いね、孫たか、三瀬諸淵らの手厚い看護の下におかれたが、その効は実らなかった。


     


ポンペの後任として、1862年の秋に来日したのはボードウィンであった。ボードウィンは立派な医者で、12年間陸軍医学校で教官を勤めてきた経歴が示すように、医学および医学教育の普及に熱心であった。とくに眼科に優れていた。
 ボードウィンはおおむねポンペの教育方針を踏襲していたようである。化学の講義を筆記した「舎密伝習見聞日記」という覚え書きが現存しており、金銀の化合物について各論的に述べると共に金銀の分離法などが詳述されてりる。当時知られていた61種の元素全部をあげているが、正しい原子量はまだ与えられてはいなかった。化学の講義はあったが、実験は行わなかった。

 ボードウィンの功績の中でもっとも重要なのは、化学・物理の教育を医学教育から分離して、専門の科学者によって担当せしむることを幕府に建議したことである。
この建議によって、1865年4月に養成所は精得館と改称され、同年10月には精得館附設の分析窮理所が完成した。この分析窮理所は、化学・物理学研究所を意味し、のちに述べるハラタマが専任官として招聘されている。

 やがてボードウィンは、幕府の委嘱により本格的な医学校の設立準備のために帰国するが、このとき松本太郎と緒方惟準を連れて帰りオランダに留学させた。しかし、両者は明治維新に際会して帰国し、前者は大阪舎密局で、後者は大阪医学校でそれぞれ活躍する。
一方、再び日本に戻ってきたボードウィンは、維新情勢で役務は一変してしまうが、その後大阪医学校に迎えられた。いずれにしても、このボードウィンをもって100年来のオランダ医学は終焉するといってよいであろう。⇒「大阪舎密局の史的展開」藤田英央

 

しんかがく 80

2012-09-28 08:29:10 | colloidナノ
 「これを、さしあげる」「これとよく似た薬箱を、洪庵先生ももっておられた。私は物に執着のうすい人間だが、洪庵先生の薬箱ばかりはほしいと思った。その後、江戸でもさがしたがどこにも無かった。たまたま長崎にあったので、買った。
 洪庵先生の薬箱のように美しいものではないが、それでもこれは私にとって刀より大切なものだ」

「なんのおつもりでございましょうか」

「いやな言葉だが、まあ形見だ」「私には、不要のものになった。私は医学から遠ざかってしまっている」
「とんでもない」「村田先生は、医学者でございます」


 蔵六は、だまっている。
 薬箱が、卓上にあって動かない。

 
 外輪が、潮を掻きあげている。
その音が、わずかに船窓を圧して蔵六の枕頭をひびかせていた。蔵六は小ぶりな、しかし筋肉のくろぐろとしたいっぴきのおとことしてベッドのなかにいた。
 イネも、医学の話をわすれた。イネはシーツをかぶり、顔を両手でおさえながら、おんなであることを続けていた。

 蔵六は、無言でいる。
神のように無言でいることが、イネにとって宇宙を感じさせた。イネのいる宇宙は際限もなくひろがっており、しかもおどろいたことに閃々と光り、さらには大小の戦慄をともなった。]
神聖行事に似ていた。


 蔵六が、イネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ1点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。

「この船は、闇夜も進んでいるのだぁ」


 情勢は、転々とした。
この慶応3年の10月、土州の坂本龍馬が立案して成功せしめた大政奉還という異常事態があり、このため武力革命の計画は一時停止した。

 蔵六は7月27日朝、東京を発った。
かれはなにか虫がしらせたのか、平素多忙のために手紙をやることもなかったのに、横浜のイネに対し、「京へゆく」と書送っている。

 イネはその場から東京に発っている。
翌未明に蔵六の仮寓所の門前に達すると、ちょうど蔵六が旅支度で門内から出てきたところであった。門人二人、若党一人をつれている。

 だまって門内にひっくりかえすと、すぐ両手に書物数冊をかかえて門前にもどってきた。外科書と産科書であり、蔵六自身のオランダ語による書込みは無数にあるという古ぼけた本であった。蔵六はこれを差しあげます、とイネに渡した。

 「-----どうして」このようなものをいまになって下さるのですか、と詰問しようとしたが、蔵六の影はそれには答えず、この書物についての説明をわずかに述べたあと、会釈もせずイネから離れ、そのまま影のように去ってしまった。


 佐久間象山は馬の前脚を斬られ、落馬したところを殺された。
蔵六のこの宿の前である。象山がこの現場で遭難したのは元治元年7月で、蔵六のこの時期とは5年のへだたりがある。わずか5年ながら、日本は一変した。維新政権が成立した。
が、相も変わらずに存在しつづけているのが、象山を殺した情念としての土俗ナショナリズムであり、この連中は幕末では草莽の志士として主として暗殺屋をつとめ、維新成立後は政権からはみ出していよいよ怨念を深くした。

 蔵六をつけねらったのはその手合いである。幕末をへて暗殺戦術も発達しており、その行動は組織的であった。時期は薄暮をえらんだ。

 蔵六は、宿に帰っていた。かれは2階の奥の間で、たまたま訪ねてきた門人の洋学者安達幸之助と長州藩大隊司令静間彦太郎と歓談していた。

 土鍋に昆布が布かれ、豆腐のほかに揚げ豆腐も入っている。蔵六はすでに銚子2本をあけて、3本目をひざもとにひきつけている。
安達が、さかんに英語の必要を論じ、静間と蔵六が、聴き役にまわっていた。そこへ突風のようの刺客がとびこんできたのである。午後6時すぎであった。

 江戸初期まで日本には刺客というのはあまり存在せず、たとえば元禄期の赤穂浪士などをも刺客に含めるとしてもかれらは堂々と自分たちの名を名乗っている。正々堂々というのは鎌倉以来の武士のモラルであったが、幕末においてそのモラルは消えた。
訪問客に偽装して偽名を名乗るというのも、かつて坂本竜馬が暗殺されたときの型である。

 「萩原俊蔵」という偽名を名乗った。坂本事件のときもそうであったように、団たちは名刺をさし出し、「大村殿にご面会したい」といった。

 階下で応接に出たのは、若党の山田善次郎である。善次郎は、疑わない。2階にあがって蔵六に取り次ぐと、蔵六もまったく疑わなかった。このとき蔵六ふうの明快な回答をあたえている。
 「いまは夜分であるから会いませぬ。その用件がもし公用ならがあす役所へ参られるように。もし私用ならがあさって参られるように。あさっては宿におります、とそう申せ」と、刺客に言うべかざる内容を簡潔にしかし明瞭にいった。

 若党の善次郎がふたたび降りてきて、その言葉どおり第一組の刺客たちにいった。
そのうちの一人が表へ出て、「いるいる」と、第二組へ合図をした。
もどると、一人がなお善次郎と押し問答をしている。善次郎が応対をうちきって奥へ入ろうとしたとたん、背後から斬られた。善次郎は即死した。
その叫びが、2階にきこえた。
2階の別室にいた兵部省作事取締吉富音之助という蔵六の門人がとびだして刺客と一人と争闘した。刺客のうち二人ないし三人が、蔵六の部屋へとびこんだ。

 蔵六は、床柱の横ですわったままでいた。(うごいても仕方がない)とおもったらしい。さらには、この闇溜まりにじっとしているほうが安全であるとおもったらしい。床板が抜けるような騒ぎである。蔵六はまっさきに右前額と右コメカミをやられ左倒しにたおれたが、まるでダルマのようにすぐすわりなおした。ついで思わず左手をあげたとき、手に微傷を負った。もういいだろうと思って立ちあがったとき、右のモモをやられた。骨には達しなかったが、この傷だけが大きかった。

 が、やった犯人が、叫びをあげて東窓から蹟へととびおりてしまった。

 蔵六はそのまま階下へ降りた。
かれは風呂場に入り、羽織を裂き、まず出血をとめようとした。消毒すべき焼酎がない。家人をよぼうとしたが、逃げているはずがなく、また声をあげれば居残っているかもっしれない刺客に気づかれるかもしれない。沈黙した。

 後日、蔵六はイネたちに、「こういう騒動は覚悟していた。そのうち兇徒らは立ちのくだろうとおもって、刀もとらず、じっとしていました」と、語った。

 このころ、蔵六は大阪に病院をたてつつあり、この時期仮りに大阪仮病院と呼称させていた。
その病院の「伝習御用」という役目で、恩師緒方洪庵の次男の「平三さん」が江戸からくだってつとめている。平三というのは幼名で、のち若くして幕府の医学所教授になる前後に洪哉と言い、その後、惟準とあらためた。

 「平三さん、よくおんぶをしてさしあげましたな」といった。
 
 平三さんの診るところ、蔵六の容体は決して楽観すべきものではなかった。すぐ大阪仮病院に移すことにした。

 かれが入院した大阪仮病院は、こんにちの大阪大学医学部の前進である。兼ねて医師養成もやっていた。
病院は緒方惟準と三瀬周三が中心になってやっている。
 
 三瀬周三は、伊予大洲の人で、蔵六の年上の親友であった二宮敬作のオイである。
シーボルトが2度目に来日したとき、敬作につれられてその門人に入り、若手ながらもっとも傑出した門人とされた。かれはイネの娘の高子が、宇和島の藩主夫人の手もとでそだっているとき、藩主夫人の声がかりで彼女をめとった。
 イネにとっては、婿になる。

 蔵六は当時医学界の若手の俊秀といわれたこの二人の医師の献身的な看護をうけた。両人とも、「われわれは村田先生の弟子のごとく子のごとき者である。先生の一命はかならずとりとめさせたい」と懸命になった。

 この病院には、緒方、三瀬のほかに、傭外国人ボードウィンが教頭職をつとめている。
ボードウィンは外科の術者としては当時日本に及ぶ者がない。というようなことで、蔵六は幕末から維新にかけて非業にたおれた無数のひとびとのなかで、負傷後の環境においては、ただ一人恵まれた幸福をもった。
 さらに蔵六の生涯をその終わりの時期において豊潤なものにしたのは、イネがきたことである。
イネへは、三瀬周三がしらせた。

 横浜から駕籠にのり、昼夜兼行で駆け、わずか8日という短時間で大阪についたというから、その間の体力の消耗は非常なものだったにちがいない。

 彼女はその後蔵六の死まで70余日間、寝食をわすれて看病した。

 イネの顔をみた第一声は、「あなたは、産科ではありませんか」ということであった。

 蔵六はどうも、ぐあいがわるく出来ている。
この男は、かりに彼の頭をどう物理的に砕いても、その分子の一つ一つはきらきら光る理性と合理主義でしかないよに見えてしまっている。
しかし一面、その分子を原子にまで還元したとき、まったく質の異なる情念でいろどらていた。かれは不幸なほど情念的ナショナリストであった。

 蔵六は病床で、「すべて、時という力があります。蘭方は、もう去らざるを得ないかもしれないかもしれませぬ」と、幾分淋しげにイネに対して繰りかえした。

 「あのような人物を冷遇するということは、日本人が情義と眼識に欠けるということであり、国家の信用にかかわります」
「ボードウィン儀は----和蘭の名医なるのみならず、仏朗斯、プロイセンの間に於いても有名の者にして・・」と、ドイツという新時代の権威の名をもちださざるをえなかった。
 蔵六が、蘭学者としてやった最後の歴史的仕事はこの長文の手紙であったということができるであろう。同時にオランダ医学の終焉を告げる歴史的文章であるともいえなくもない。⇒三条実美宛て


 蔵六は、敗血症を併発した。
ボードウィンは右脚を切断する意見をもったが、蔵六が高官であるため、当時の慣例として勅許を得る必要があり、この勅許待ちのために手術が遅れ、結局は手遅れとなった。
白い服はボードウィン、その左には三瀬らがいる。



ここであの、いろは丸を思い出しておきたい。大州由であり、司馬作品由の話。

⇒ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
 




しんかがく 79

2012-09-27 09:01:10 | colloidナノ
 イネは宇和島へゆく。年に一度はゆく。
なぜなら宇和島にその娘たか子を住まわせていたし、それに宇和島候の夫人が、彼女の診察をうけることを好み、そのように彼女を義務づけたからである。こんど、その途中、下関に立ち寄った。
 「あれからいろいろのことがございました」と、たださえ言葉すくないイネは、蔵六と一別以来の歳月をおもうと、語るべきことの整理がつかず、つい寡黙になるらしい。
その間、最大の事件は、彼女の父のシーボルトが再来しあことであろう。その事実は、蔵六も知っていた。

 安政の開国によってオランダは幕府と通商条約をむすんだ。オランダ政府はその批准書を日本にもたらすべき外交官としてシーボルトをえらんだのだが、しかしシーボルトのほうの都合によってその職務は他の者の手で果たされた。そのあとシーボルトは、オランダ貿易会社の顧問という資格できた。

 イネは、その母親のお滝とともに、出島までゆき、シーボルトに対面した。

「さぞ、感激なされたでありましょうな」
「いっそ、会わなければよかった、とおもっています」

 イネが、この日、実父と対面しつづけた時間は、2時間ほどであった。
父が、窓の外光を背にすわっている。頭の地肌があかがねのように光り、残りすくなくなった白い髪が古い針金のように枯れちぢれている。イネの心の中にあるシーボルトは亜麻色の髪がうつくしく、顔にはひげなどはなく、するどいあごが薄い唇をひきしめて、ただ使命への意志だけがこの青年のすべてであり、そのために皮膚までが神の衣のように清らかであった。
 が、目の前の老人はどうであろう。白いひげが顔の半分を覆い、皮膚は濁り、全体からうける印象は、傲然たる老雄のたたずまいであった。(この人は、ちがう)と、混乱し、わずかに残った意志の力をあげて、自分の胸の中にある父シーボルトの像をまもろうとした。

 彼女を悲惨にしたひとつは、シーボルトの言語であった。

 犬が悲鳴をあげているようなかん高く、しかも半分も、聴きとれないのである。それに、イネが理解に苦しんだことは、老シーボルトは、13歳になる長男を連れてきていてその13才の少年と話すときは、イネにはわからぬ別の言葉で話していることであった。シーボルトは、ドイツ語で話していた。

 シーボルトによれば、知性は彫琢を経てはじめて成立するものであり、かれは人間の価値基準をそこに求めようとし、そのことはほとんど信仰のようになっている。ドイツの小都市にあって、大学教授を多く輩出した名門の出身であるシーボルトにとっては、自分の家系の一員であるイネが、その家系に恥じない存在であることに、手ばなしでよろこんだのである。

 「イネの知性が、医学によって彫琢されたことである。私はこの国に医学を残し、私のすぐれた門人たちは私の期待以上にそれを吸収してくれた。私は自分のすぐれた門人たちに医学を残すことによって、自分の娘をそだてることができた」シーボルトは、涙を浮かべた。
 このときばかりはイネはうつむき、あふれてくる涙をどう始末しようかとおもった。
この間、終始、シーボルトの椅子の左側に龍騎兵の少年兵のように立っていた13歳アレキサンデルが、胸ポケットに手をあげた。白布をとりだし、そっとイネのそばに寄って、そのひざにそれを置いた。
 イネはおどろいて顔をあげ、自分の弟であるこの異人の少年にはじめて自然な笑顔をひらいた。


 蔵六と、イネが対座している。
すでに肌寒い。障子むこうに、海峡がある。潮がいそぎはじめているらしく、その潮のにおいが、この一燭のともしびでやっと闇からまぬがれているこの部屋にまで聞こえてくる。風が、ときどき障子を鳴らし、そのつど虫の声が消えた。
「いまにして思えば、わたくしに父がなかった不幸よりも、父に再会した不幸のほうが、大きゅうございました。父に会わねばよかったとおもいます」

 「お会いしても、しなかっても、どっちでもいいことです。イネどのは、二十代のお父上を自分の夢の中で作られ、それとともに生きて来られた。それ以外に、あなたにとって真実のお父上はない。人間にとって真実とはそういうものです。
 この真実は医学をもってしてもいかんともしがない。この真実の前には、へんぺんたる事実は、波のしぶきのようにくだけては散るものです。事実とは、長崎出島で再会されたシーボルト翁のことだ。あれはたしかにシーボルト翁に相違ない。しかし事実にすぎない」
「蔵六先生は、事実を軽視なさるおつもりですか」

「それはカン違いです」と、蔵六はいった。蔵六ほど事実を冷厳な態度で尊重している人物はすくない。

 いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の内奥のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって20代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである。事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。

 「しいほると様」と、あれほ自分に献身的な愛をささげてくれたお滝---イネの母親----が、31年の空白の歳月のなかで、かならずしもシーボルトの詩的世界だけに住んでいなかったことである。
 彼女は、シーボルトが去ってから他の男と同棲したこともあるし、また時次郎という行商人と結婚して男の子を生んだりした。亭主の時次郎はその後死に、こんどシーボルトが再来したとき幸いお滝はやもめの境涯にあった。が、この事実は、シーボルトが、日本へお滝へ抱いていた気持ちを暗くした。

 が、シーボルトにとっていま一つの大切な思い出である鳴滝学舎が、お滝の手で売られてしまっていることをきいたとき、彼の詩はいよいよ現実にもどらざるをえなかった。彼は、その鳴滝学舎を通じて日本にヨーロッパの洋学をもちこみ、その学舎から多くの日本の洋学者を出したことにかれは自分の生涯における最大の意義を感じていた。
 それを、お滝は売って金に代えた。もともとシーボルトは日本を去るとき、お滝の生活費とイネの養育費を十分に置いて行ったはずであった。
「油屋をひらくもとでがなかったものですから」と、お滝はその理由をのべた。

 が、シーボルトにとって最大の痛手は、お滝が再会そうそうから、金をねだったことであった。もっと金がほしい、女手ひとりで生きてゆくのは大変なのです、とほとんど纏わりつくようなしつこさで、それを要求しつづけた。

 シーボルトは、これにはもてあました。
それ以上に当惑しつづけたのは、同席していたイネであった。
 イネは何度も母親をたしなめた。が、お滝の口は鳴りやまず、結局、シーボルトがいくらかの金をわたすことによって、その唇を閉ざさざるをえなかった。
イネにとって、父親の再来は、すでにシーボルトが去ったいまもあまり思い出したくない記憶になっているのは、こういうお滝の醜態もからんでのことであった。イネも、詩を喪った。

 イネは病理学の話をはじめた。
ここ数年来の彼女のおどろきは、基礎医学の理論がヨーロッパにおいてほとんど年々歳々に変わりつつあるということだった。
シーボルトがもちこんだ病理学はポンペの病理学によっていわば否定され、ポンペが去ってのちどうやらヨーロッパにおいて重大な新説が誕生しているということも、イネは知っている。
 このイネの話は、蔵六に大きな衝撃をあたえた。かれは病理学については日本最大の人である緒方洪庵にまなび、それを誇りにしている。

 イネのいうところでは、その緒方病理学が、ポンペの来日によって古くなり、さらにポンペの病理学もいまや過去のものであるという。


 いずれにせよ、世界の科学と技術はこの蔵六やイネのこの時期前後から、奔馬のような躍動を開始するのである。日本人は世界史上のこの科学技術の奔馬的躍動期に鎖国の窓をひろくし、それに参加した。

 「5日ほど、滞留させてください」といったとき、蔵六は、どうぞといった。
蔵六はそのとき、イネからあたらしい病理学の話をききたい、5日のあいだに自分に講義してほしいといった。
イネは「わたしが師匠になるのでございますか」と笑いだしたが、蔵六は笑わなかった。

 植物にせよ動物にせよ、生物体をつくりあげているものは細胞であるということは、蔵六もおぼろげながら知っている。
細胞はそれ自体で独立した生命単位であるという説があることも蘭書を読んで知っていた。が、それが人間の病気とどんな関係があるかということについては知らない。


 たとえば、ポンペの腫瘍論である。人間の生体になぜ腫瘍ができるか、それは組織の変化である。病的物質が組織のなかに沈み、定着し、それによって腫れあがってゆくのが腫瘍である、という。ところで細胞とはなにか、これは一種の液体である。

「すべての細胞は、細胞より生ず」という有名なことばをかかげたルドルフ・ウィルヒョーであった。かれの著「細胞病理学」は、1858年に刊行された。


「その理論を、臨床に使えますか」「とても」と、イネはいった。

 学問と技術の問題である。
このことは1枚の紙の表裏でありながら、実際にはバラバラになりがちでございますね、というのである。
(イネが、そのようなことをいう)蔵六は、喜悦をおさえかねて、この男にすればめずらしく微笑がとめどもなく湧き、イネも蔵六がよろこんでくれていることがうれしくて、自分のちかごろの感想や疑問を、とめどなく蔵六に聴かせてゆくのである。


 イネは、まだ星のある時刻に、海岸の回漕問屋へ行った。そこから伊予へゆく便船が出るのである。

 蔵六は曉闇のなかでイネと別れた。イネをのせたハシケの提灯がゆれながら小さくなってゆくのを見つづけ、やがてそれが親船のむこうに側に消えたとき、「今生では、むりだ」と、この曉闇の潮風のなかでわれにもなく声を出してつぶやき、さらには蔵六にとってはばかばかしいことであったが、涙がおかしいほど流れた。今生でイネと添うことが、である。むりであろう、ということであった。

 蔵六は、間仕切りのありすぎる頭脳、もしくは精神をもっていた。
このことは蔵六をして西洋の科学的論理のすぐれた受容者にさせたのだが、同時に、間仕切りの一つ一つが絶対の空間になっていて、その妻のお琴がすわっているその間仕切り----部屋も、お琴のために絶対の空間になっている。そこにイネをすわらせることが、蔵六の考え方、というより、こっけいなことに数理観念がゆるさないのである。

























しんかがく 78

2012-09-26 12:44:34 | colloidナノ
 それやこれやの人のつながりで、江戸に出てからほんのわずかのあいだに蔵六の名は同学の連中に知られるよになり、かれが11月1日鳩居堂をひらくと、その月の16日には幕府が新設した洋学研究機関である蕃書調所の教授手伝(助教授)にあげられることになった。
この蕃書調所がのち洋書調所、開成所などと名称がかわり、さらに明治後、大学南校、ついで東京大学という名称と内容にかわってゆく。

 かれは宇和島藩出仕の身であるとともに、幕府の蕃書調所の教授手伝いでもあった。

 技術時代がきている。

その苗木の育て役といっていい蔵六ら蘭学者というものはからだがいくつあってもたりないほどの毎日であった。
蕃書調所から帰ってくると、宇和島藩入用の兵書翻訳をしなければならない。さらにそれだけでなく、加賀藩のような蘭学の点で後進藩になってしまっている藩から宇和島藩留守居役へ、----貴藩の村田先生に、ぜひこれからの兵書を翻訳してもらえまいか。と交渉があったりした。

 「藩の面目でござるゆえ、ぜひ」と、宇和島藩の上司は、蔵六にそれをむりやりにひきうけさせた。

 そのうち幕府までが、----新設の講武所の教授になってもらいたい。といってきた。
講武所では洋式兵学を講義したり、兵書翻訳をしたりするしごとである。これは正教授であった。

 蔵六はなぜ長州藩士になりたいのか。
というかれ自身が目下悩みつつある課題について、筆者の話柄がべつなほうに外れつつあるようにみえる。べつに外れているのではなく、かれのその志願の理由は、うまれつきのナショナリズムに根ざしているということをいいたかったのである。

 この心情の濃淡は知性とは無関係で、多分に気質的なものであろう。

 さらに帰国後の桂の日常は、かれの師匠にあたる吉田松陰との接触が多かった。松陰はこのころ藩の獄にいた。この時期、松陰の学塾である松下村塾の塾生たちは一様に政治活動をはじめ、過激化し、藩内における政治思想団体として成長しつつあった。

 蔵六が、この長州藩の青年政治家にもちこんだ話題というのは、日本海にうかぶ無人島のことであった。その小さな島は隠岐島から西北158キロの海上にある。
「竹島」と、漁民たちからよばれていた。


 幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、この島の領有を明確にすることがやかましい問題になり、土佐藩士岩崎弥太郎がここへ探検に出かけたこともある。

 ところで長州藩のこの時代での特徴は、藩内からうずもれた人材を発掘することにやっきになっていることであった。伊藤博文などは父は百姓あがりで、かれは少年のころ中間のような仕事した。そのような卑賤の身から、藩士になった。

 宇和島へ入る手前が、卯之町である。ここで二宮敬作の診療所に寄った。敬作は狂ったようによろこび、早く患者の治療を片づけたいとおもった。そのため蔵六に手伝わせた。

 あとは酒である。
イネが、長崎へ帰ったという。「あの母親が、うるさいのだ」と、敬作はいった。しかしイネは江戸へゆきたいといっていたという。江戸の鳩居堂で蔵六の講義の手伝いをしたいというのである。


 蔵六が江戸へ帰ったのは6月16日であった。

 鳩居堂では、門人たちが待っていた。かれらは井伊弾圧政治についてひそひそと語りあっていたが、蔵六はなにもいわない。

 この松陰の死は、長州藩主以下をふかくいたませた。藩内の松陰の友人や門人は、せめて松陰の遺骸を請いうけようとした。

 「29日午後、小塚原回向院まで遺骸を入れた4斗樽をこっそり運んでくるから、うけとるよに」という内約が獄卒とのあいだにできた。

 この帰路、桂小五郎は、おなじ小塚原で死囚の解剖をしている村田蔵六を見るのである。
人間が人間に出あうことはこの世でもっともふしぎなことであろう。なぜならば、桂は蔵六をわすれていた。あのひとはどなたです、と人にきくと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、あっと思いだしたのである。
 蔵六の生涯のふしぎさの1つは、この松蔭の埋葬日に桂に見出されたことにある。

 吉田松蔭と村田蔵六という、死者と生者が小塚原刑場というおなじ場所で遭遇した。

 藩でも、桂のそういう性格や能力をよくみとめ、江戸藩邸の書生世話役をさせ一方、他藩交渉をかれをつかった。いわば桂は最初から藩外交の下級外交官といってよかった。その桂が「ぜひ、村田蔵六を長州へ」という藩内運動をした。

 この年、花が遅かった。
井伊直弼の横死のあった翌々日、蔵六は例の蘭書のことで麻布の長州藩邸にくると、いつも桜田藩邸にいる桂が、めずらしくこの麻布にいた。
「お待ちしていたのです」と、桂はいった。ご意向をうかがいたいことがあるから会読ののち門番にひとこえおかけください、という。


 桂が二階で待っていた。「ちょっと話がぶしつけにわたるかもしれません」と桂がことわって、長州藩にきてもらいたいことを語り、しかしながら薄禄である、といった。


 「ああそうですか」「すでに決めておることで、青木周弼先生に申しあげてあるはずです。拙者は長州様に参る。参るときめた以上、処遇などはご都合しだいでよろいし」と、にべもなくいった。

 鳩居堂を訪ねると、蔵六がいた。
彼女はもう冷静もどっていて、そのことはすぐに質問せず、妙に自分がおかしくなってころころ笑った。「たいそう、ご陽気ですな」蔵六も、あきれたようにイネをみている。
イネは、不意に別なことをいった。
 「長崎にポンペ先生がいらっしたことをご存じでございましょう?」
「この気持ちは、おわかりいただけないかもしれませぬ。ポンペ先生のもとに行ってお仕えしたいのは、そういう気持ちでございます」

 イネは、話を変えた。「宇和島様からお身をおひきになるそうでございますね」それが、イネにとって本題であった。

「宇和島も長州も、日本なのです」「わたくしは、村田先生が宇和島にいらっしゃるから宇和島へきたのです」と、やっといった。

「だから、ポンペ先生のもとにゆきます」

 「攘夷」が看板である裏側では、攘夷熱心な藩ほど自分の藩の産業革命化をしようとしたことであった。
もっとも例外は攘夷先唱の栄誉をになった水戸藩で、これは攘夷だけでおわり、藩の洋式化は遂げられなかった。
 薩摩藩と佐賀鍋島藩はもっとも先進的で、薩摩藩のごときはこのときすでに小規模のダムをつくり電気をおこし、銃砲をつくるための旋盤その他の工作機械ももっていた。佐賀鍋島藩では銃砲工場だけでなく造船所をもち、小さな蒸気船の製造はおろか、たいていの艦船の修理もできた。
 この点、長州藩はやや遅れた。まず、教育からはじめようとした。蔵六が長州に帰国せられたのは、そのためであった。「博習堂」と名付けられた。

 いずれしても、洋式の学問や技術が、原書によらずに日本語の教科書でおこなわれるようになったのは、おそらく蔵六がつくったこの長州博習堂が最初であったようにおもわれる。


 大阪大学微生物病研究所の藤野恒三郎教授は1970年の春、筆者がこの蔵六の話を書いている時期に、定年退官された。
「蔵六とイネとは、プラトニック・ラブだたでしょうか、どうでしょうか」と、かって、その意外なことばがこの謹厳できこえた細菌学者の口から唐突に出たとき、その意外な印象を大げさにいえば、そのあたりの空気が音をたてて裂けたようであり、そのとき当方の事情を申せば、これも不意に蔵六のことを書こうとひそかにおもった。
 このながい連載を書くにいたるモトのモトといえば、そのときからである。

 

 イネがはじめてポンペの授業内容に触れたとき、「これが本物の医学にちがいない」と、体がふるえるほどのよろこびをおぼえたという。
それまでの日本における蘭方医学は、多分に日本的であった。彼女の父のシーボルトでさえ医学をポンペのようにあらゆる科学の総合体として体系的に教えたりはしなかった。


 かれは幕府の全面的援助で、長崎にヨーロパ式の完全な病院をつくった。まだ病院ということばがなく、幕府はこれを「養生所」と名づけた。
ポンペが長崎ではじめて開講したときは学生は12人であった。いずれも幕府や諸藩から選抜されてきた秀才たちであり、すでに日本式の蘭学の素養はもっていた。やがてその学生が40人にふえたころ、イネが入ってきたのである。

 イネの就学については、江戸の蔵六が、幕府筋をうごかしてその便宜をはからった。
イネはこれによって日本最初の女子医学生というべき存在になった。
イネにとって、長崎でポンペに就学したこの期間ほど充実した歳月はなかった。彼女は、江戸の蔵六に対し、身辺におこったさまざまな変化について手紙を書き送った。
 
彼女は、オランダ語でそれを書いた。
蔵六がみても達者な文章であったが、それほどのオランダ語達者でも、皮肉なことに、「ポンペ先生のしゃべられるオランダ語がわからなくてこまります」と、言葉には閉口しきっている様子が書かれていた。
 ポンペのオランダ語には訛りはなかったが、イネたち学生の頭にあるオランダ語は、目と理屈(文法)で学んだものだけに、ポンペの言葉が口から耳へ殺到してくるとき、ぼう然とするばかりであった。

 このためポンペは、自分の同僚の海軍教師に話して、学生たちのためにオランダ語会話を教えるようたのんだ。

 その障害をのぞくための合理的な方法として、やがて別な方法がとられた。まずポンペが講義ノートをつくる。それを読みあげ、さらに口で説明を加える。
それを、学生のなかにいた司馬凌海という天才的な語学達者の男が、通訳する。学生がそれを日本語でノートをとる、という方法である。

 イネにとってもっとも記念すべき事柄は、彼女が入門して早々、長崎の本蓮寺のそばの西坂の岡の上で、ポンペの執刀による人体解剖がおこなわれたことであった。ポンペはこのことを感動的な文章で書いている。
「1859年9月9日、45名の医師諸君と、1名の女医学者(イネのこと)の面前で、私は第1回の屍体解剖を行った」



 イネは蔵六に書き送った。「なだめて、この死刑囚は人間から病気をなくすための仕事に役立っているのである。であるから、この死刑囚は特例により死罪人として葬られず、公儀の費用で僧をよび、あつく葬られる、という旨のことを大声で伝えますと、人々の声はしずまりました」

 「あなたは日本人ですから、以後日本語で手紙をお書きなさい」と、からかうような叱るような文面で書送ったが、イネはこれに対してなんの応答もせず、相からわずオランダ語で書いた。
イネの手紙が度重なるにつれ、そのオランダ語はひどく進歩をとげ、蔵六のわからない俗語をまじえたり、ちょっとした啖呵を切ったり、あるいは蔵六の固有の気質である「攘夷かたぎ」をからかったりする文章まで出現して、蔵六を面食らわせた。










しんかがく 77

2012-09-25 07:09:05 | colloidナノ
医学部図書館の開設に際して愛媛大学

一方学生の基本図書は,各国間の辞書や百科事典だらけの原案では外国語大学や文科方面をむいたものだったので,大巾に修正して歴史,文学,美術,思想などの領野で由緒ある全集を選び出し,他方医学との接点をなす生物学,心理学,看護学,医用工学などの良書を買い入れたが,これらのなかで書物のいた承方から推察すると「司馬遼太郎全集」がよく読まれているらしい。
松山の生んだ英才,秋山兄弟の生涯を生き生きと書かれている「坂の上の雲」や,また愛媛にはシーポルトが開いた長崎出島の「鳴滝塾」門下の逸才二宮敬作(西宇和郡保内町),あるいは高野長英(宇和島藩洋学の教師),シーポルトの娘に蘭学を教えた緒方洪庵「適塾」門下の村田臓六(大村益次郎),孫娘をめとり大阪医学校教官であった三瀬周三(大洲市出身)など近代医学の先覚者が県下から出ているが,これらの人々の綾なす生涯を画き出した「花神」もこの全集にある。


「適塾」という、むかし大坂の北船場にあった蘭医学の私塾が、因縁からいえば国立大阪大学の前身ということになっている。

「人間のからだというものは、初機械がみな各自に運動していて、それで生活をしている。その、原は一個の力より生ずる」と、洪庵は門生に説いた。

藤野恒三郎教授は、「大村益次郎とシーボルトの娘との関係、あれは恋でしたろうね」と、謹直な顔でいわれるのである。

「私は、恋だったと思います」と、藤野教授は、自問自答された。

村田蔵六はこの時期、備前岡山まで旅をしたことがある。用というのは、新着の蘭医書を岡山の人が手に入れたということで、------どうであろう、それを写しに行ってはくれまいか。と緒方洪庵が蔵六にたのんだのである。

女は、蔵六の前にもちの皿と土びんをおいて、ちょっと微笑をうかべながら、「このあたりはおはじめてでございますか」と、ものやわらかく問うたのである。

女が行ってしまってから、「どなたかね」と、蔵六はややぼう然とし、亭主にきいた。亭主はとてもそれどころではない様子で、また奥へひっこもうとしていた。
「お産か」蔵六は、察しがいい。

しかしお産そのものではなく、この亭主の妻がはじめてのお産で臨月をむかえてどうも様子が普通でないために、ここ数日、岡山から産科の先生にきてもらっている、という。


蔵六は、おどろいた。女で医師であるというようなことはきいたこともない。

「このあたりでは、シーボルト先生とよんでおります」


土間の右手が、患者の控え室になっており籐の畳の上に数人の男女がすわっている。その患者たちの頭上の欄間に、「和光同塵」という額がかかっている。

和光同塵とは、老子の言葉である。ソノ光ヲ和ラゲテソノ塵ヲ同ウス。光とは自分の知徳のことである。知徳がありながら俗世間(塵)にまじっている、という意味で、これはいよいようるさい人物らしい。


蔵六が大阪からもってきたみやげというのは、書物である。洪庵の病学(病理学)についての論文であった。未刊のもので、これを蔵六が書写して持参してきた。

「いずれ、この石井宗謙という町医が将軍家の奥医師にでも招かれるようなことになれば、岡山藩の連中はあわを食うだろう」
「和光同塵」と、蔵六はつぶやいた。
宗謙の和光同塵は意味が違うらしい。

そこへ不意に茶菓をもってあらわれた婦人がある。蔵六は、あやうく声をあげそうになった。きのうの昼、沼の茶屋で餅をはこんできてくれたおさ船まげの産科の女医者が、いま盆を畳の上におき、背をみせて明り障子を閉めているこの女性ではないか。

「よく渡せられました」とその女性は、きのうとは別人のようなしとやかさで、指をつき、あたまをふかぶかとさげた。
蔵六は、夢をみているような思いである。
「家内だ」と宗謙がいった。(齢がちがいすぎる)と、蔵六はおもった。亭主が50をとっくに越えているはずなのに、夫人は眉のあたりがまだ清らかで、はたちを2つかせいぜい3つばかり過ぎた若さである。

それに妙なことに、宗謙が、----家内だ。といったとき、彼女はあきらかに不快げな表情をし、「しもといね(失本イネ)でございます」と、名乗ったことである。

翌日、イネは大胆にも蔵六を宿にたずねてきた。いかに蔵六の宿が石井家のむかいであるとはいえ、この時代、夫をもつ身が、他の男をひとりでその宿をたずねるということはない。

やがて膝の上で、ふろしきの包を解いた。皮に金文字で装丁されたオランダ医書がでてきた。

「この紙片は?」「読めないところでございます」「石井先生に読んでおもらいになれば、よいではありませんか」「あの方とは、不仲でございます」

蔵六は親切な男だが、すこし顔色をあらためて、内儀どの、といった。「イネとよんでいただきます」と、イネはうつむいて赤革の小筒から鵞ペンをとしだしつつ、つぶやいた。
「石井宗謙先生の内儀ではござらぬか」「いえ、宗謙の家内ではございません」と、あやしいことをいう。

「人間のやることというのは、どうしてこんなに滑稽なことになるのでしょう」「そうじゃありません。学問にあこがれて、できれば女の身ながら蘭学者になりたいとおもい、長崎から伊予へ、そして岡山に」「参りましたのに、やらされていることといえば産婆の実務ばかりで」
「それが、滑稽なのでしょうか」
「いいえ、それならまだしも。----自分が、お産をしてしまったのでございます」


「村田先生」と、イネは息を詰めるようにしていった。「岡山から出たいのでございます」「それは拙者の一向あずかり知らぬこと」蔵六は、こわい顔でいった。「岡山から出たいというご事情はなにやら存じませぬが、出たいというがために大坂の緒方塾を志望されるのは失礼ながらご動機が不純でありましょうな」「不純」イネは、落胆を全身にあらわした。
「世間とは、人間が生きてゆくうえでなんと不自由なものでございましよう」


運命の転機には、仲介者が要るであろう。
蔵六のばあいは、二宮敬作という人物がそれであった。すでにこの稿での蔵六とイネとのかかわりのくだりで、その名前が幾度か出てきた。イネは生涯「二宮さんのことをおもいだしますと」と言うような話題のときには、つねに胸をつまらせ、しばらく息をととのえてからでなければつぎのことばが出なかった。

「嘉永六寅ノ九月二八日、和蘭紀元一八五二年、南遊了漫遊到シ記之」と、入念に書いている。この当時、西暦をつかった例は、残っているこの蔵六の表紙以外にまずないであろう。ただし嘉永六年は一八五三年で、蔵六は1年まちがえている。
「秋の淋しきをも厭わず、足に任せて志す方へと赴きける」と、いかにもこの旅人は淋しげで、しかし一面前途の希望に心が駆られているようでもある。

宇和島城下に口碑がのこっている。「村田先生が宇和島にやって来られたときにはみすぼらしい浪人行脚の姿で、それがのち藩用で江戸へ出られるとき、若党中間、両掛人夫その他数人の供まわりを従えて大そうなものでありましたから、町のひとびとは目をみはりました」


敬作は在宅していた。玄関へとびだしてくるなり、「伊予じゅうの名医がきた」とさわぎ、藤井(道一)が蔵六を紹介すると、とびあがるようにしてよろこんだ。敬作にすれば自分が藩にすいせんした男が、はるばるやってきたのである。
その後、二宮家は夜どおし、灯がともっていた。

「村田どの、縁というものはふしぎだ。イネどのが尊公の学識におどろいてわしに手紙を送ってきたときから、わしの心に尊公のお名前がきざみつけられた。こんどはわしは宇和島藩に尊公を推挙したのだが、その遠い縁は尊公がイネどのと岡山で会ったときからできていたと申していい。いや、そうなのだ」と言いだした。


 大野昌三朗が自分の裃をむりやりに蔵六に着せ、家老の松根図書(東洋城の祖父)の屋敷へひっぱって行った。そのあと、蔵六は図書につれられて、伊達宗城の御前にまかり出た。
宗城は灰色の顔色の男で、両眼を光らせ、ながいあごを前につき出している。この男が蔵六に命じたことが、蔵六にとって意外きわまりない後半生に踏み入らせることなった。
この殿さまが蔵六に命じたことは、「蒸気でうごく軍艦1雙と、西洋式砲台を1つつくれ」ということであった。

 「三藩、相競うて、競争であの黒船をつくろうではないか、と」
薩摩どのとは島津斉彬のことであり、肥前とのとは、佐賀藩主鍋島直正(のちの閑叟)のことである。


 日暮れ前に、イネがもどってきた。格子戸をあけて土間に入ると、見世座敷に敬作と蔵六がすわっていることを発見して、まるで声をうしなったようにうごかなくなった。じっと立ち、敬作と蔵六を見つめたまま、息を詰め、目をみはったままでいる。

 「イネどの。宇和島へゆこう。長崎などで開業していても、患者あしらいが悪達者になるだけで、学問はできぬ。宇和島で蘭語と外科と産科をもう一度基礎からやるのだ」と、一挙にまくしたてた。積る思いがあるだけに、つい語調がするどくなった。
 滑稽なことに、親の仇にでもめぐりあったような勢いだった。「どうだえ」敬作は、即答をうながした。
イネはまだ土間である。そのままの姿勢で自分の運命を変えるべき返答をしなければならなかった。「行きます」というと、イネの顔にみるみる血がさしのぼってきて、まつげがあわただしく動き、涙があふれさせた。彼女自身、学問がしたかったのであろう。ところがそういう環境も師匠ももつことができず、そのことについての憂悶やら不満やらが胸につもっていたにちがいない。それがいま融けようとしている。



 さて余談ならが、この小説は大変革期というか、革命期というのか、そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、主題のようなものである。
大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。
 三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい。ただし伊藤雋吉が蔵六の塾にいるこの時代は、まだ革命情勢の未熟期にあり、松陰のような存在が生命の危険を賭して思想を叫喚しているときで、戦略家の時代でさえない。まして技術者の時代がきていない。が、技術がそろそろ時代の招び出しをうけようとしていた。










しんかがく 76

2012-09-24 09:00:00 | colloidナノ
1869年7月4日付けの書簡では、「舎密局での講義が始まりました。私は現在の生活に大いに満足しています。今所有している器具で、化学の講義はそれ相応にできますが、物理学の器具がまだ不足しています。
私は至って健康です。日曜日にはいつもヨーロッパ人とともに過ごしています。ボードウィン兄弟や他のオランダ人が私のところへきたり、ことらから彼等を訪ねたりします。」


9月7日の書簡では、「ムズプラットの本が最良の状態で届きました。「インテレクチュアル・オブザーバ」は、6月17日発行の号まで来ています。今後の発行分は全部どうかムスプラットの本と同様郵送して下さい。私は前々からユトレヒトで買ったウィリアム・オドリング著、アルフォンス・オッペンハイム訳「記述理論化学便覧」第1巻、エルランゲン、フェルデイナンド・エンケ1865年版を持ってきています。もし続巻が既に発行されていましたら、それを郵送していただくと有り難く思います。

・・・夏季休暇の旅行、生野銀山の参府旅行さながらの様子を詳しく書き記している。

同じ9月の書簡、「ムスブラットの別巻を受け取りました。これは硫酸工場の建設のために私に非常に役立ちます。その建設計画は既に決定されているのですが、実施に関しては、まだなにも始まっていません。
⇒この硫酸工場は明治元年11月に舎密局から遠くない天満橋を渡った淀川右岸に設立された造幣寮に建設企画された硫酸工場と思われる。実際に造幣寮において日本最初の硫酸工場である400ポンド硫酸室が着工するのは明治3年12月であったが、それは造幣寮専属のお雇いのイギリス人ウオートルスらの尽力によった。おそらくこのウオートルスがハラタマに硫酸工場建設の相談をもちかけたものと推測される。なおこの硫酸室が竣工するのはハラタマ帰国後の明治5年2月であった。

11月15日書簡では、「このところ私はきわめて多忙です。朝8時半から午後5時まで1日中舎密局にいます。長い間何もしないで過ごしてきたのですから、現在の状況を嘆いたら罰が当たります。というよりも嘆く材料を見つけるのはが難しいくらい、今は楽しく過ごしています。・・・講義準備で、山ほど本を読まねばならぬ仕事が出てきていますので、毎夜それにかかりきりになり、私事は後に延ばさねばならなくなってきています。 

このところ日本は非常に平穏です。
勝利者側は、既成の事実に静かに乗っかっている以外に何もなすべきことは残っていないし、内戦が再び起こる心配もないと見ているようです。先頃、天皇は2人の反逆主謀者の赦免を行いました。
 世界中どこでも同じですが、この国にも、昔と同じように、惰眠を続けている方が日本にとってはよかったと考える保守派がいます。我々ヨーロッパ人達は、彼等にも努力して働いてもらおうと新しい試みを要求するのですが、かつての武士階級は、そのようなことには不慣れで、また恐ろしく嫌がります。近頃は外国人襲撃は少なくなりました。それによって加害者にも日本にも、どういう結果を生むか経験によってよくわかってきたからです。
 一方では、西欧化思想を指導する改革推進者として知られている日本の高官達の殺人や襲撃をよく耳にするようになりました。
先日ボードウィン博士は、このような襲撃の犠牲者の治療のために京都へ赴きました。ボードウィン博士は、当地では前の長崎におけるように気楽にしておられません。
 日本人がはじめ江戸に建てようとしていた大きな医学校を、当地へ変更するという方針が確定しないということが、結果として重要事がなかなか実現しないという事態をもたらしています。
ボードウィンは前に私が住んでいた寺に今でも住んでいて、この冬もそこで過ごすことになるでしょう。彼は今私が2年前に経験したのと同じ境遇におかれています。弟の領事は時々ここへ訪ねて来ます。弟の方は外国人に対して、基本的な特権が認められている神戸の居留地に住んでいます。
⇒アルベルトは兵庫においても次の出来事にも無関係とは言えないとして、神戸事件にも言及している。


旧幕府領に新設された兵庫県の知事には、兵庫裁判所にいた道後ゆかりの伊藤博文であった。伊藤が朝廷から兵庫の責任者に任命されたのは2月20日頃であった。尚明治41年7月10日勲2等を授与されたトーマス・グラバーは伊藤について、こう言っている。「伊藤さんに逢った時には自分の全力を尽くした。」自らは「徳川政府の謀反人の中では、自分が最も大きな謀反人だと思った」

『本立而道生  博文 春畝』(論語、学而)備考 林宇一⇒俊介⇒春畝(明治元年2月以降)
尚、『非恩非賢 非仏非儒 真個書生』等も知られている。絶筆は「見聞皆是真学問」(明治42年10月25日)

⇒第1回の居留地会議の会合は、東税関近くの屋敷に置かれていた英国領事館で開かれた。出席者は伊藤知事、各国領事および外国人社会の代表として選出された3名の行事であった。
居留地会議主席としてオランダ領事ボードウィンが議長席につき、民間代表の3名の行事を知事に紹介した。「ジャパン・クロニクル紙ジュピリーナンバー 神戸外国人居留地」堀博・小出石史郎共訳 土居晴夫解説 神戸新聞総合出版センター 1993)