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しんかがく 75

2012-09-21 09:00:00 | colloidナノ
「大阪舎密局の史的展開」(京都大学の源流)藤田英夫著;思文閣出版

第3章 化学史からの大阪舎密局その②「大阪舎密局の授業と化学教育」からの引用。

 舎密局の授業は、明治2年5月8日午前10時にはじまった。ハラタマが理化総論の講義をし、三崎が通訳として生徒に伝えた。生徒の学力を考慮して、この講義は筆録され、後日出版された。

 しかし、出版されたのは、第1巻の総論、第2巻の理学各般性論、第3巻の化学各般性論と第4巻の化学原質製錬学だけであり、残りの5巻は未刊のままである。

 ハラタマは大阪では多忙な日々を送ったようであるが、その講義を類推すると、基礎知識の伝授を急ぐ余り、その系統性にいくぶん難があった。

 開校後2ヶ月の明治2年7月からは、毎日午後にはハラタマによる化学試験が、また翌3年正月からは化学試験伝習稽古がそれぞれ開始された。

 舎密局は開校後一年の間に生徒数も増加し、その南側にあった鈴木町に開設された大阪医学校の生徒が舎密局のハラタマの講義を聴講するようになった。明治4年1月から5月の間に医学校から舎密局への聴講生の数は59名に達している。

 また、明治3年3月29日付けの医学校から舎密局および洋学校宛の伺い書に「加州藩高峰譲吉17才、右者当校入寮生に候。英会話伝習被致度旨申立候間差出申上云々」とある。
 高峰はその後、明治6年に医学修業の志をかえて、東京大学工学部の前身である工部学校に入学し、化学の道を歩みだした。
のちにアドレナリンおよびタカジアスターゼの発見、そして理化学研究所創設の功労者として明治時代の代表的な化学者となった。


 ハラタマは舎密局の理化学実験教育のために、オランダから多くの器具、薬品を取り寄せていた。

 その内容は化学器具類557点、物理機械類376点、薬品類1500余瓶を数え、書籍については蘭書370冊、独書140冊、仏書165冊である。
 化学器具類についてみると天秤10種類28基、3ツ口洗気瓶85点、試験管1780本、陶器製坩堝約800筒、白金坩堝15筒、蓄電池約60点、顕微鏡10基などである。試薬品については、まず量が少なくても種類が多いのに驚くのである。大部分が外国製品である。


 ハラタマは舎密局での講義とは別に、造幣寮のために金銀貨幣の分析法の講義も行った。・・・和蘭ハラタマ口授「官版金銀精分」として大阪開成学校から明治5年春に発刊された。

 また常にハラタマの傍を離れず、講義の通訳を担当していた三崎嘯輔には、「試薬用法」全2巻、「薬品雑物試験表」「化学器械図説」「試験階梯」「定性試験桝屋」等。
このほかに三崎には明治6年刊行の『新式近世化学』がある。これは舎密局退官後、その経験をもとにした私塾での講義を辻岡精輔が集録したものであり、日本人としてはじめて分子仮説を採用した貴重な著作である。

 ところで、舎密局は洋学校および医学校を含めて大阪の地における総合大学の観を呈していたが、その舎密局が本来の学問伝授のほかに広く校外一般にもその機能を公開していたことは注目できる。
 たとえば理学校時代の記録をたどると、石墨の鑑定、有馬温泉の成分分析、糖菓着色料中の有毒成分検査、1円銀貨などの各種貨幣の分析、滋賀県蒲生郡日野山産出石炭の分析及び竹生島の鳥糞の分析などにも応じている。
 またハラタマは生野銀山の調査なども行っている。
Jean Francisque Coignet、ジャン・フランソワ・コワニエの誘いによって生野銀山見学の旅にでた。

 「8月15日から31日までヨーロッパ流に舎密局は夏季休暇となり、私はこの機会に国内旅行をして大いに楽しみました。この旅行計画は既に前から立てていましたが、肝心の点が欠けていました。それは時間と政府からの許可でした。それでまず休暇によって時間を作り、それから政府に申請しました。ところが実に驚いたことに即座に許可が下りました。
今回の旅行の目的は大阪から4日間の旅程で行く銀と銅の鉱山の視察でした。以前に寺町で私の近くに住んでいたフランス人技師が、今ここの開発主任になっています。政府は学校の事務長と私の門弟二人と下男二人を私に同行させ、さらに私は自分の馬丁と馬と召使を連れて行きましたので、一行は8人となりました。それに荷物全部とヨーロッパの食料、飲物は当地で苦力と呼ばれる者達によって運搬されますので、総勢はいつも20名に上りました。旅は日本風の無蓋船で大阪から神戸へ向かう夜行の海路で始まりました。船は大層大きく私の馬も乗せる場所がありました。

 まず最初に大名の領地へ入って行きました。私はどこでも天皇の役人に対する待遇をもって迎えられました。

 鉱山では実に多くの興味深い事物を見学しました。ここに3日間滞在するうちに、私は日本の鉱物の潤沢さについて考えさせられました。

 帰路の旅も往路と同じように進みました。この旅費について私の支払額を尋ねるまで、政府はそれについて無頓着のようでした。結局全額政府が支払いました。










しんかがく 74

2012-09-20 09:00:00 | colloidナノ
 ハラタマが江戸の開成所で新しい理化学校の開校を待ちあぐんでいる間に、日本の政局は雪崩の如く、転変の道を突き進んで行った。
1867年10月には、大政奉還、翌年1月には鳥羽伏見の戦いに続いて、ついに新政府軍は4月に江戸に攻め上ってきて、5月には上野の戦争が始まった。

 ハラタマは江戸を脱出して横浜のオランダ領事宅に難をのがれた。それは家財道具も書籍も江戸の住居に置いたままの緊急避難であった。

 ついに幕府は崩壊した。
ハラタマは1867年2月1日から始まる3年間の雇用契約を幕府と結んでいたことは前に述べた。したがって幕府に取って代わった明治政府がこの契約を引き継ぐ立場にあった。
 同年6月に新政府の外国副知事小松帯刀と同参事兼大阪府知事、後藤象二郎が連名で、右大臣三条実美に理化二学は日本の国の富強の基をなすために必要であると建言した。その結果幕府の開成所内に設立予定であった理化学校を大阪に移すことが決まった。
 これが大阪舎密局である。

⇒緒方次郎説 パリ万博において洪庵縁者の田中芳男、緒方惟準、松本太三名が落ち合わせた際、母国の危急なこと、ハラタマの理化校、ボードウィンの医学校をどのように運ぶかについて協議が行われた、これにより田中が帰国後開成所内をリードして、その大阪疎開を推進したというわけである。(「化学」⑩1988椎原庸)

 新政府の大久保利通は、都を京都から大阪へ移すことを唱えていた。
この大阪遷都実現のため1868年4月に明治天皇は大阪へ行幸され、大阪に病院取建の沙汰書を下されている。これが舎密局と併立して設立される大阪医学校の発端である。

 ハラタマに再び希望の時が巡ってきた。
この年の夏、ハラタマは三崎らとともに横浜から船で大阪入りした。ボードウィンよりハラタマが先に大阪に着いたので、舎密局の建設が医学校に先行することになった。

 建設工事は用地選定直後の10月4日に起工し、11月18日に上棟式が終わり、翌年1月には完工予定であった。


 しかしそれより前の7月に東京遷都の方針がきまり、大阪遷都の夢は消え去った。
新政府は東京における新首都建設に忙殺されて、大阪における学校建設は宙に浮き、せっかく始まった舎密局建設工事も12月には中断の憂き目を見、予定の寄宿寮新築や庭園造築は絶望となった。

 ハラタマはまたもや期待を裏切られて、仮の宿舎の上本町4丁目の大福寺で待機を強いられた。


 1869年2月25日に至って、ようやく舎密局建設に関する事業は、大阪府管轄となって再開されることが決まり、中断されていた建設工事も再び始まって、3月末には舎密局本館とハラタマ居宅が完成した。

 しかし、舎密局の開校に漕ぎつけるには、まだ難関が待ち構えていた。
開校を目前にして、大隈重信大蔵大輔は舎密局には当分の間、理化学の実験、研究は行わせず、算学、測量学の実学の講義に止めるべきであることを申し入れてきた。

 これに対し、ハラタマは理科教育における実験の重要性を強く説いてやまず、ついに大隈説を斥けることができた。

 1869年6月10日に舎密局は開講の日を迎えた。

 試みに東方の人、1たび西洋に行き、直ちに火輪船、火輪車、電報機の妙用、且つ数千万人力に代ふる所の技倆及び海陸二途の難事を容易にする諸局等、概して之を謂ヘハ、万物の力を資投シエキし生計の道を増補する事件を目撃せバ、西洋各国の繁盛、全く万物自然の学を詳識するに在るに識るべし。

近代西洋の学問には、万物自然学と理化学の二学がある。諸物体の変化を扱い、性質変化を論ずる学を化学という。昔は化学は理学の一部であったが、最近では両者は分離して、むしろ化学は理学を圧倒するに至っている。
また化学はかつて分析学と呼ばれたが、この名はこの学問の一部を表すに過ぎず、現在では合成もこの化学の範疇に属している。したがって物質に関する学術としては、この理化二学を学ばねばならない。

自分はこれからこの理化二学の講義を行うのであるが、これを聴く者のなかに、あるいはその内容を単に思索の結果と思う者がいるかもしれぬ。しかし実はそれらは、すべて実験でもって証明されているのである。

今では化学は鉱物類、新薬、染料、陶磁器、酒類、その他百般の日常生活に関わる化合物の製造によって大いに世に鴻益している。
化学には無機と有機の別があるが、最近20年間は特に有機化学の発展が目ざましい。昨今は動植物成分も化学合成によって作ることができるようになった。たとえばキニーネは非常に貴重で高価であるが、いつの日にか化学合成の方法が進歩すれば、廉価な植物成分から容易に類似化合物を誘導することが可能になるであろう。

 以上の講話に由り、諸君正に理化二学ハ古人に関せずして漸く文明開化に及ぶ人民に在りてハ不可欠の学術にして、是れに由りて万民開闡に赴くことを知るべし。故に開化の人ハ大いに此学を嗜好す。何となれバ、人民を開拓するは此学徳に在るを識れバなり。
 今此学校を設け、既に大成す。翼コイネガハくハこの二字を洽く布行し、辺境と雖ども其理拠を暁らんことを。是予が渇望する所なり。故に阪府総督より以下此處に列する人、予微意を助け苦心焦思昔日に倍し、協力一心、此学を開かバ、実に天下の大幸なり。


ハラタマ講演が終わって、その日の午後、舎密局開校を記念して撮影が行われた。
 そのときの同じ写真2枚が、オランダのと日本(愛媛県大州市立博物館)に残っている。日本に残っている写真は、ボードウィン医がもらったものを、医学校側通訳の三瀬諸淵が彼の出身地の大州にもち帰ったものであろう。







しんかがく 73

2012-09-19 09:00:00 | colloidナノ
 この手紙の差出し場所、「開成所」については、あなたは多分まだ何も御存知ないでしょう。これは漢字で“開かれた場所”という意味です。しかし驚かないで下さい。これは何も人体を開いて解剖するということではなく、精神を啓発するという意味です。
・・・ここではこれまでに特にヨーロッパの言語と化学の教育が行われていまして、洋式印刷所や書籍、鉱石、昆虫などのちょっとした収集所の他に植物園も付置されていますが、どれもまだ初歩的な段階のものです。

 数年前まではこの学校は蕃書調所、すなわち野蛮人の書物を調べる所という別名で呼ばれていました。・・・

図4 開成所内ハラタマ住居(ハラタマのスケッチ)

 塀の外の隣接地には15人の日本兵が見張っていて、私が散歩や乗馬で外出する時には、その番兵の中の何人かが私に付き添ってきます。幕府は攘夷派の襲撃を恐れて二重の塀で警戒にあたり、増大する事件に備えるなど平穏ではありません。私自身も連発ピストルと連発銃を用意しまして、不時に備えた予防手段をとっています。・・1867年6月9日書簡


 私は単身で江戸へ来まして、マンスフェルトは長崎に留まっています。
長崎の学校は2部より構成され、1部は醫學準備教育、2部は医学本科と定められています。マンスフェルトは、後者の教育を任され、同時に病院業務も担当しています。予備教育は主として、物理学及び化学から成り立っていますが、後には、植物学や鉱物学も加えられました。この準備教育部門はボードウィン博士の発想にかかるものです。

 当初から既に江戸に化学、物理学およびその応用科学を、“それ自身のために”教えることを目的とした学校を設立する話がありました。日本のお役所仕事の常で事態はきわめてゆっくりとしか進みません。この理化学校を開設するという通知が、江戸からやっと届いたのが12月11日のことでした。1867年8月24日書簡



ところで今日は9月19日!!獺祭忌

9月1日の愛媛新聞からの抜粋

カワウソ(獺、川獺))このため明治期までは広範域に生息していたが、60年代を境に急激に減少。79年に高知県須崎市で、県内では75年に宇和島市九島で確認されて以来、記録がない。
 今回の絶滅宣言は、高知県のデータなどを基に行われたとされるが、愛媛県内の調査は不十分なままだ。南予の海岸部や島しょ部などに生息の可能性がある地域が残る。いまだに手つかずの地域も多く「空白地帯」のままだ。


 ここで紐解いたのが子規居士の写生。
それは自ら省みての月並みからの訣別の過程から生まれたと言える。

 なんとかこのあきあきしてきたものから、何とか新しい方向を見出したいとの焦りから、自然を詳細に観察し発見を心がけたのだ。
それは恰も科学者が顕微鏡上の新発見を楽しむように何等かの新しい現象を掴みたかったのでろう。

「客観句にも尚ほ主観が働く」

ある僧の月も待たずに帰りけり

という俳句、並びに

瓶にさす藤の花房短ければ畳の上に届かざりけり


という和歌に就いても今少し考えてみよう。

 ある僧の月も待たずに帰った、という句は観月会の席上の或る出来事を作者が何の主観をも交えずに唯其の儘を写生したものである。
然しながら之をかく句にしたのはこの事を面白いと感じた作者の主観が土台となっているのである。多くの人は観月会に来たのであるからと其の観月会という名前に拘泥して、ひたすら月の出を待っていた。
 ところが此僧は観月会に参列して置きながら月の出も待たずに帰ったのである。その理由はたとひ法事の打ち合わせに此寺に来て、其序でに一寸席上に顔を見せたものであろうとも、又他の理由でそこそこ帰ったのであろうとも、兎も角月の出も待たずに帰ったという事がふと子規居士の主観に強い印象を與えて爰に句になったのである。

 併し乍らも句の上には唯其事実だけが平坦に叙されていて、何等子規居士の主観の躍動は描写されていない。爰に次の如き結論に到達する。
即ち客観のみを叙した句であっても、其句の背後には作者の主観が働いている。


「藤の花」の歌の方にしても同様である。

 斯の如く客観句客観歌というと雖も矢張り主観が働いて出来るものであり、自然のそのままを描写するという子規居士の主張も些くとも選択ということが行わるることによって不合理なこととなる。
 斯かれば厳密に之を言えば客観写生句というものは曖昧になって来る。客観写生句を攻撃する人が1人として此事に言及したもののないのは不思議千万である。

 私は一般俳句を学ぶ人をして、月並み調に陥し、若しくは奇怪なる俳句を作らしめない為に、又其人をして俳句の道に入る順序を踏ましめん為に、又俳句の道に入れる人にして愈々力強く俳句の表現を得せしめん為に、仮に、善功方便として、所詮客観写生句を作れと称導するのである。
厳密に言って客観写生句なるものは存在しないにしても、斯く呼ばるるところのものを作ろうと志すことが、俳人をして比較的誤ざらる方向に進ます道と信ずるが故に敢えて称導するのである。参考文献 「正岡子規」高浜虚子著(甲鳥書林)  『写生といふこと』


清が逝ったのも同じ日であった。   
   つき天心 のぼるきよしも獺祭忌

しんかがく 72

2012-09-18 09:00:00 | colloidナノ
 トーマス・グラハムの没後144年も過ぎた。
彼の偉業はただ単に拡散しただけではなく、そこからの質実は格段の深化を見せた。

 その始めを1867年の人工細胞(M・Traube)に現れとみることも出来るであろう。
10年後には半透膜の膨圧からファント・ホッフ、アインシュタイン(サザーランド)と受け継がれてのペランの「原子」へといたる道筋に見て取れるのだが、稿を改めて触れらることもあろうか。

 ところでハラタマの書簡に見る1867年とは12月14日、開成所から出されたヤン兄への手紙がその時をよく映している。

 私がまだ長崎にいた頃、万事が余りにも緩慢すぎると愚痴をこぼすと、7年間日本にいたボードイン領事は「辛抱、辛抱さえ続けていれば、日本ではすべてうまく事が運ぶ」と云っていたのをよく耳にしました。

 私は江戸でまだ一度も講義をしていませんので、目標はだんだん近づいてきています。皆、研究所建設に一生懸命働いてくれていますので、2月の終わりには完成すると思います。

 自然がいっぱいで浮世の憂さを忘れる散歩にちょうどよい小さな庭のある私の家、書物との対話、やがて始まる理化学校での講義準備の仕事、そして横浜行きや時たまの近郊の村への遠出、隣人のフランス人の家でのトランプ遊びの夕べ、これがここでの私の生活です。


 1867年はまたたく間に過ぎ去って行きました。私はテイタスよりも大声で叫ばねばなりません。今年は私にとっては、日本人のおかげで全く無駄に過ぎ去って行ったと。⇒Titusエルサレムを最服したローマ皇帝

 閑暇の時を黙過するに忍びず回顧される「ハラタマ来日の背景」

 キリスト教の国内伝播を防ぐことを目的とした徳川鎖国政策は、15世紀の初めに家康がオランダに通商許可を与えた1609年ごろから強化されたが、1720年になり将軍吉宗により日本にとって有益な書物、たとえば医術、薬草を中心とした植物学、天文学などの書物に限り、長崎商館を通じての輸入が許可された。

 江戸時代の化学は、化学といっても現在のイメージからほど遠く、生薬、古典的洋式医薬、あるいは黒色火薬やキャノン砲の材質の分析など、もっぱら実用的見地のみからの知識導入であった。

“蘭学事始”の年1774年あたりから、蘭学者の蘭書を解読する語学の実力が急速に上昇し、訳書の出版も意欲的に行われ、西洋科学文明の導入が盛んになった。

(宇田川榕庵「舎密開宗」、川本幸民「化学新書」)実験こそほとんど伴わなかったが、化学を知識として受け入れる素地は整いつつあったのである。
この時代、化学の直接伝授役は本ではなく、商館長随伴の医師たちであり、シーボルト(1823-1829)モーニック(1848-1853)ブルック(1853-1857)ポンペ(1857-1862)ボードイン(1862-1871)それからハラタマ(1866-1871)と概観できるのだが、そこに流れるモノに引っかかってしまった。

 モノとは自然科学と言うよりも、医化学という方が判然とするのかもしれないが、その分離拡散していく様が興味を惹いたのである。

 長崎から撤退した英国の轍を踏まないためにも、日蘭貿易のための日本研究は疎かには出来ない。その使命を担ってのシーボルトの後継者たちも医化学者たちであったが、そこから化学が分離拡散しながら、浸透していくのだ。

 それは西洋科学が細分化していく道筋に重なって見える。化学の独立であり物理化学の誕生へとつながっていく。

 それがシーボルトからのモーニック、ブルックそしてポンペとかA・Fボードウィンの医化学からの分科がハラタマにて完結したともいえる。
その表象となる「舎密局」と、みておこう。

しんかがく 71

2012-09-14 09:00:00 | colloidナノ
第4章 「動乱の時代へ」

1866年4月28日
重役会は68年元旦に私が大阪の事務所を開設することを期待することを期待すると思います。・・・



ハラタマが到着しました。もう働き始めています。彼の黒い帽子には腹を抱えて笑いました。日本全国どこを捜しても、誰一人こんな代物をかぶっていませんよ。日本旅行をする時はこんな長物はデ・グロート商店の店頭にそっくりそのまま残してくるべきですね。
2,3日間上海のクルース夫人宅で厄介になりますが、今から狂喜しています。

1866年6月12日
 
日本の蒸気船で長崎から23日間もかかる航海を経て、7日に当地に到着しました。すばらしく快適なポルスブルック総領事の美邸に逗留しています。大きな庭園には苺が豊かに生っています。味を忘れかけていた、このおいしい果物を心ゆくまで貪りました。

前回来た時に比べると、横浜はまったく変貌してしまいました。かっての小村が今では町になりました。この港を現在のように発展させたのは生糸の取引でした。古い港町長崎はこの点非常に遅れています。しかし最近ヨーロッパから伝えられるオーストリアとプロイセン間の緊迫した情報が影響して、景気がよかった取引が下落しています。・・

勝手な理由でヨーロッパに発砲したフォン・ビスマルク氏は、平和攪乱罪で絞首刑になるには、ちょうどうまい具合に爛熟したところではないでしょうか。
もう今ではこの戦争は大衆の支持を失っていると思います。オーストリアも責任がないとは言えません。しかし罰金を支払う金はもう持っていないでしょう。

⇒ドイツ統一をめぐって対立した両国は、1866年6月15日に開戦し、プロイセンが大勝して、Deutscher Krieg普墺戦争は7週間後に終結した。

1866年9月23日
ハラタマとトーンは連れ立って出発しましたが、ハラタマの方が一足先に戻ってくるはずです。トーンは大阪に滞留する必要がなくなって、江戸へ向かいました。

今日本では動乱の時代に差しかかりました。
ひとまず情勢が落ち着くまでは、長崎から一歩も出ない方が利口でしよう。この状況が半年で終わるものか、1年続くものか、予測できる者はいません。すべて時が解決してくれるはずです。私は変事が起きたら、整理中の仕事をそのままに残して、日本を退去するのもいといません。

⇒同行したハラタマの1866年9月9日と10月16日の書翰によると、2人は8日間江戸に滞在してから、残りは横浜で過ごしたことになっている。
江戸ではヨーロッパ人としてはじめて、老中から江戸城外苑拝観許可が与えられた。/二人は長崎を「外国人が提灯祭と呼ぶ千灯篭祭の夜(8月25日)に出発して、瀬戸内海を通航し、兵庫で2,3日滞在してから、2日間の航海を経て、横浜に到着した。翌日直ぐに7時間乗馬で江戸のオランダ総領事館に向かった。全行程は5週間かかり、ハラタマは10月2日に長崎に戻った。
ボードウィンはは行動を別にして、後便で帰還している。/松本良順自伝によると、将軍家茂の症状を侍医たちは脚気と診断していたが、ボードウィンは心臓内炎と推測した。将軍の病が重くなり、ボードウィンを急使で長崎から召致したが、彼が神戸に着いた日に家茂は逝去した。松本は神戸に赴いて、ボードウィンに会い、遠来の労を謝したあと、上陸して大阪城に入る危険を告げて、将軍の死を2,3ヶ月黙秘するように頼んだ。/ボードウィンの後任にファン・マンスフェルト

1866年10月18日
トーンはまだ不在ですが、江戸からの次の船便で帰宅するでしょう。「その時はすでに11月1日が訪れていたのである」というような気障な言い回しが、トーンの動静を表現するのに最もふさわしいのですが、テニウス(トーン)の舌が辛辣なので、私は遠慮して控えているのです。

ハラタマとマンスフェルト両人は健在で、ピンピンしています。

1866年11月5日
1866年がすべての人に凶年であったように、来年がすべての人に幸運をもたらす年であってくれるとよいですね。

トーンは現在利子生活者の気軽な身分です。
万事をマンスフェルトとハラタマに引き継ぎました。2週間後に豪勢なロシア軍艦ワリアーグ号でバタヴィアへ出発します。ルント艦長は私たちの友人で、トーンをこの航海に招待してくれたのです。艦上には軍楽隊も乗っていて、船室も素敵です。テニウス(トーン)がこれより快適な船旅のチャンスに巡り合えるとは考えられません。
 彼はジャワから日本に引き返し、出島からサンフランシスコ経由で帰国します。来年の5月か6月にオランダに入国する予定です。


1866年12月12日
横浜はむごたらしい災害に見舞われました。
去る11月26日月曜日午前8時、日本町から火事が発生しました。南西から暴風が吹き荒んだ日だったので、消火は思いもよらない状態だたのです。炎は外人居留地に襲いかかり、その3分の1と日本町の半分以上を焼き尽くしました。



 「面目ない」との想いを抱いての胎教も、今は臨月を迎えんとしている夏目千枝なのだ。
こうして生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。それが金之助と名付けられた由来である。
 さらに付記すればこの年は江戸でも大阪でも打ち壊しが起こり、人心の不安はさらに激化していく。
そしてあの「ええじゃないか」が三河から拡散波及して東は江戸、西は安芸国の範囲で流行した。
 幕府倒壊前後という正に時代の節目で、世直しを願う民衆は、新しい時代への不安や日常生活の不満を、ええじゃないか、ええじゃないかと踊りこんだのである。

                柳田国男「故郷70年」であったか、“母が北条に祖父を訪ねたのは丁度「ええじゃないか」が踊られている夜だった。祖父はせっかく訪れた娘に「今夜は用件で行くところがある」と手拭いをもって、そわそわと姿を消した”とあったと記されている。

しんかがく 70

2012-09-13 09:00:00 | colloidナノ
第3章「外国艦隊と雄藩の衝突」

1863年2月7日

 私自身が荷積した、バタヴィア行きのカリプソ号がガスパル海峡で座礁しました。これでまた大金を失ったのですが、まあまあよかったと思います。スハウテン・ファン・ドルト青年をはじめ、15人の日本人が船客だったのです。
 全員の生命が助かったのは何よりの幸いでした。カルスト船長のテルテーナ号で、日本人一行は残りの航海を続行します。一行の中には何人かの医者が含まれています。学問を修めた者として、日本に留まり国のために尽くすべきなのですが、彼らはまだまだ学ばなければならないことが一杯あるのです。

1863年4月10日
 英国政府は15雙編成の艦隊を江戸へ派遣します。司令官が日本政府にリチャードソン氏殺害への謝罪賠償を請求する意向だそうです。その請求額は英貨の12万5千ポンドと聞きますから、日本も支払いを渋ることでしょう。
⇒中国派遣艦隊。司令官クーパー提督が率いる艦隊で、薩英戦争と下関事件に関係した。/英国公使オールコックは帰国中で、代理公使ニールが交渉にあたった。英国政府は日本政府に償金10万ポンドとリチャードソンの遺族や負傷者のために2万5千ポンドを要求した。


ポンペはヨーロッパに失望して、あのまま日本滞在を継続していた方がよかった、と書いてきました。

1863年4月28日
 日本の険悪な情勢に関する新聞記事を読むあなた方が、決していらない心配をしないように前もって注意するために、この手紙をしあためています。ニュースは誇張されるのが常で、必ずしも信頼できる筋から出るものばかりとは限りません。

1863年5月13日
 ここ2,3日間、日英間の戦争が勃発する危惧が拡大していると報告しなければならないのは、実に不愉快なことです。

 オランダ船のマリア・テレジア号が停泊しています。私はできるだけたくさん物資を積み込み、出島の住民たちと弾丸の届かない中国へ渡ろうとしています。中国で事の成り行きを観測しましよう。

 この手紙の本志はあなたに日本の実情を諒解していただくこととです。新聞のむだ口に惑わされないでもらいたいのです。珍事が突発しないかぎり、私たちオランダ人は悠々と身の回りの荷物をまとめる余裕が与えられています。そのうち中国からお便りします。


1863年6月1日
 あなたの手元の新聞は日本の戦争、陸戦、海戦、砲撃を報道する記事を満載していることでしょう。しかし実際には、日本では一発の弾丸も発射されず、一本の日本刀も抜かれず、平穏無事だというのがこの瞬間の状況です。

 私たちは元気でいます。日英紛擾事件のおかげで、私の家財はまだ路上に野放しになっています。


1863年9月1日
 鹿児島で英国艦隊は薩摩の砲兵隊と衝突しました。英国側は戦艦乗組の大佐と中佐二人をはじめ、およそ50人の死者を出す損害を受けました。艦隊はいったん神奈川に撤退しましたが、この争いはまだ続行するでしょう。
⇒薩英戦争 8月15日砲撃が開始された。/11月に和議が成立し、両者は進んで親交を加えた。英国はそれまでの幕府支持の態度を捨て、積極的に薩摩藩を支援し、薩摩藩も攘夷論を捨て、開国進取の態度をとるようになった。

 8月16日に台風が襲来し、私の前歯4本が危うく喉元に引っかかるほど吹きまくりました。次の日は風向きを変えて、つけ上がって生意気なトーンを突き戻し、厳しくたしなめました。今は跡形を残さず引き揚げて、まるで何ごともなかったようです。その手際のよさに私も舌を巻きました。

1864年5月31日
 日本はちょこちょこ港を閉鎖するぞと脅かしますが、それは到底無理な話で、実行できるはずはありません。
2艘のオランダ軍艦が英国艦隊と行動を共にして、2,3ヶ月間瀬戸内海を通行する計画が立てられています。長門藩主を制裁する意図を持っています。日本側が自ら手を下して、適切な処置を取らない場合のことです。日本では日本刀や武器を使わない、文書面の格闘が盛んなようですから、計画実施の可能性もおおありです。
⇒毛利敬親藩内の尊攘派が主導権を握ったので、攘夷論を支持した。長州藩は、1863年7月8日に下関海峡通航のフランス艦キャン・シャン号、11日オランダ軍艦メデユサ号、15日アメリカ軍艦ワイオミング号を砲撃した。/英仏蘭米四国は連合艦隊を編成し1884年9月5日下関で報復砲撃を敢行した。いわゆる下関事件である。


1864年12月26日

 横浜の近郊で、2人の英国士官が日本刀を差す日本人にすこぶる残酷な手段で殺されたことを聞きましたか。

さて問題は、英国がこの殺人事件にいかに対処するかです。
今日まで20人のヨーロッパ人が卑怯な連中によって次々とあの世に葬られてきました。英国人の我慢にも限度があります。下手をすると、1865年の春には、この不穏な情勢が底なしの泥沼に突入して、際限ない動乱に発展する恐れがあります。
⇒ボールドウィン少佐とバード中尉が1864年11月21日に江ノ島遠乗りの帰途、浪人2人に襲われ、殺された。鎌倉英人殺害事件。/犯人清水清次は一ヶ月後捕まり、横浜で処刑された。もう一人の犯人間宮一は翌年10月に江戸で自首し、横浜で処刑された。










しんかがく 69

2012-09-12 09:00:00 | colloidナノ
第2章 「攘夷に揺れる在留外国人」 1860-1862

 去る12月25日と26日の夜長崎町内に大火が発生して、またも外国人が犠牲になりました。それから1月3日には、横浜と呼ばれるようになった神奈川でも外国人居留地が全焼しました。

1860年6月20日

 時々日本に関する大作の著者、P・F・シーボルト准男爵の訪問を受けます。彼の大著は厖大なエネルギーを消耗したものに違いありません。あまりにも嵩が大きいので、誰もが読みそうな本ではありません。
 シーボルト自身によれば、彼の来日は著作の完成のためであり、オランダ貿易会社の顧問だからだそうです。言い替えれば、私の職権は閣下の意見を強請することができるのです。閣下はオランダ政府と雇用関係を結んでいないので、政府の財政と資産についての発言権は持っていないのです。先生は自著の完成のために滞日している1民間人にすぎないのです。これがありのままの真実です。

 フォン・シーボルト氏は64歳で、決して鋼のように頑強な老人だとは言えませんが、復活祭の第一日目の休日に朝8時から夕方6時まで、出島の住人たちと一緒に山中を闊歩して、20歳の青年のような健脚を誇りました。
 先生は13歳になる息子を連れてきています。よい少年ですが、日本でパパと暮らすよりも、わが家でママの傍にいたい年齢です。老学者との滞日生活はあまり愉快ではないと思います。


1861年1月28日

 ドクトル・ポンペは日本人のために長崎に病院を建設中です。彼がトーンの検眼鏡を引き取ります。検眼鏡も補給物質もまだ就いていません。

1862年5月24日

 フォン・シーボルト氏があなた方を訪問するでしょう。先生はたいへん礼儀正しい人ですから、丁重に迎えてください。彼は老獪な古狐ですから、用心してください。

 今トーンの返事を待っているところです。
あなた方はトーンの離国の話には乗り気になれないでしょうが、これは彼がよい収入を得る絶好のチャンスです。

注)ポンペは自分の後任に海軍軍医ファン・マンスフェルトを推挙したが、総領事デ・ウィットの勧告にもとづき、蘭印総督府はこの任命を拒否した。アルベルトは兄トーンの来日意志の有無を打診した。フォン・シーボルトがボードウィン家を訪問する主な要件と考えられる。


1862年6月21日

 5月2日付けのトーンの返事の趣旨は、つまり休職が認容されたら、1862年11月1日までにご来臨を期待してよいと解釈します。小生はまことにかたじけない光栄と存ずる次第でございます。
 さて、このご来駕は彼自身のためにも絶好の機会であることは確かです。3年の歳月は瞬く間に過ぎ去るでしょう。彼が命を全うしてくれたら、貴重な金の塊のように、私が責任を持ってあなた方のもとに彼を送還してあげますよ。・・・・トーンは私よりも時間の余裕が得られるはずです。

1862年9月8日

 最近ドムスが帰国したけれども、それは到底一緒に暮らしていたトーンが残していく空虚さを埋めるものではない。トーンの離蘭は大きな痛手である。彼には家に留まっていてほしい。この気持ちは私もよく理解できます。
 しかし、トーン自身の立場も考慮に入れて、違った観点から考察してみましょう。彼の年収は2200フルデンで、生活費に僅かな余裕があるだけです。彼が昇給の階段を上りつめると、年収3000フルデンになります。ここまでは順調です。そして彼は55歳になり、1500フルデンの恩給を貰います。この額は、生活がどうにかやっとできるという程度です。
 ここであなたに冷静に考えて貰いたいのです。
3年間日本に滞在することによって、トーンは小さな財産を手に入れることができます。晩年にはその利息と恩給で、経済的に束縛を受けず、独立した収入を楽しめるでしょう。トーンのためにこれは何と明るい前途ではありませんか。このような好機はめったに到来するものではありません。もしトーンがこの話を断っていたら、私は彼を絶対に勘弁しなかったでしょう。
 私もまた彼の来日の長・短所について熟考してみました。
トーンの渡航があなたにどんなに大きな打撃を与えるかもよく承知していました。しかし、トーン自身が享受できる福利を思って、ためらわずに、日本政府の要請を彼に伝えたのです。彼のそろそろ小金を稼ぐ時期になったのです。

・・・男一匹の3年間の自立生活を取り持つか否かは、私の一存にかかっていました。その時私がまず第1に顧慮したことは、もちろんトーン本人の福利でした。あなたも周知のように、3年の歳月などは瞬く間に過ぎ去ります。ある日ドクトル殿は、大判小判をポケットにぎっしり詰めて、あなたのもとに帰っていくでしょう。・・・・
3年後に、トーンの帰郷に直面した時に、私はちょうど今あなたが体験している辛い思いを味わうことになるでしょう。しかし、これは人の世の定めというものです。現世を生きるには、ある程度の諦観を必要とします。それが持てないと、この世は真っ暗闇になってしまうでしょう。
 カトーちゃん、しっかりしてください。力を落とさないでください。あなたが今懸念してよりも、すべてうまくいくでしょう。・・・・


1862年10月12日
 今度の郵便でトーンの出港予定日が決まった通知を受け取りました。
10日以内に彼と対面できるので、ほんとうに嬉しくてたまりません。あれこれすったもんだのあとで、他人様の費用で、最良の手段で、トーンの広い世界の一角を見聞する希望がやっとかなったのです。彼もさぞ本望でしょう。1865年11月には、健康美に溢れ、ロシアの勲章のほかにお金の入った袋を抱えたトーンを、母国のあなたのもとへ返上いたしますよ。

1862年10月31日
 ドクトル・トーンは今日中に手紙を書く暇が見つけられるがどうか分かりません。
明日出立するポンペと引き継ぎや打ち合わせで忙しくしています。私がトーン代わって彼の日本到着を短い手紙でお知らせします。
 去る10月28日午後3時に、上海から蒸気船コロンビア号で、クルースとボルスというもう一人の男と一緒に元気に到着しました。
現在わが家は泊り客で満員です。私は急場をしのぐ応急ベッドで寝ています。クルースは明日ポンペを連れて上海へ引き返します。

彼は来週から講義を始めます。

1862年11月15日

 トーンの大佐の軍服の支払いは他の債務清算と一緒に送金します。これで金銭問題はすっかり片付いたわけですね。

明日新任の奉行が病院見学に来訪するので、トーンは優美な軍服に礼装して光り輝くことでしょう。普段にはお目にかかれない景観です。


しんかがく 68

2012-09-11 08:41:29 | colloidナノ
 幕末からの御一新は複雑系。いまだに定説があるわけでもないのだからその相転移過程は、私感というよりも史観によっている。


 「坊ちゃん」劇場では「幕末ガール」の公演が行われています。
その年表の一部を抜粋して見る。

1859年 安政6年 シーボルトが再来日し、再会。ポンペに入門  32歳 安政の大獄

1861年 文久1年 シーボルト、幕府の顧問となり、周三を通訳に上京するが程なく解任。周三は幽閉

1862年、おイネさんが娘のタダ(高子)を伴い、宇和島の宗城を訪れた際、宗城はタダを高と名付けたうえ、猶子夫人のもとに置き、16歳で嫁入りするまで大切に育てました。




「オランダ領事の幕末維新」(A・ボードウィン著 フォス美弥子訳;新人物往来社)その第一章は「開港直前の長崎来航」1859年


4月4日  3日目の航海を経て、昨日の午後日本に到着しました。
 航海2日目が数時間長かったならば、その夜すでに長崎湾に入港していて、夜半の嵐を免れていたことでしょう。
・・・・晩の8時に強風が立ち始め、やがて船は一片の木の実の殻さながら、天まで届くかと思われる激浪に翻弄されて、散々な目にあいました。怒り猛った暴風雨は翌朝の10時まで吹き荒び、船内の什器一切が振動し、船室の椅子やソファーは独楽のように飛び回りました。おかげで私は一睡もできませんでした。

・・・去る3月8日に出島の目抜きの場所が火事の餌食になりました。そして一切合切が焼けたり盗まれたのです。外国人の大半は路上に放り出されて、身の振りかたに対処するのにおおわらわです。そういう私も同じ境遇に立たされています。屋根裏の片隅なのですが、夜には屋根の裂け目から差し込む、月光の輝きを鑑賞することができます。・・・

 一本の橋で長崎と結ばれている出島は、なんの変哲もない小島です。全島が大通り一本からなっていて、幅は6ヤード、ちょうどあなたの家の玄関前の小公園の幅と同じくらいです。・・・

 日本では水が安いのでいくらか助かります。かなりうまく焼けたパンと上等な鶏肉はありますが、じゃが芋は乏しく、1ピクルが27フルデン50セントもします。いろいろな野菜が入手できるそうですが、果物の季節がちょうど過ぎてしまったと聞きました。

 日本政府お雇いできている、軍医のJohannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoortポンペ・ファン・メールデルフォールトに会いました。まだ2,3年滞在する予定だそうです。
・・・・
⇒安政6年(1859年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。


4月27日
 学者先生のフォン・シーボルト氏もやがて来航するそうなので、出島はそのうちにお偉方で満員になり、楽園の観を呈することになるかもしれませんよ。


8月19日
 トーンと私についての日本人の見解についてお話します。
ドンデルスとトーンが共訳した本が講義に使われています。
 先日医学所の監督はポンペに私の名前を尋ねました。
 「この紳士はドクトル。ボードウィンの弟ですよ」とポンペが返事すると、この日本人学者は飛び上がって叫びました。
「あの偉い学者の弟さんですか。商人のような低い身分に成り下がっているのをそのまま見捨ておくのですか。もっとふさわしい地位をお世話できなんでしょうか。とんでもないことです。このままにしてはおけません。ドクトル・ポンペ、あなたはドクトル・ボードウィンに弟が商人になっていることをお知らせにならなければなりません。一家の兄弟のうち、一人は偉い学者、もう一人は商人だというのは困りものです。直ぐに何かの手を打たなければなりません」(この学者は松本良順とされている)

9月23日
 フォン・シーボルト氏は長崎の寺に住んでいます。私はそこをたびたび訪問しています。(8月4日に長崎に再来、始めは本蓮寺に住み、ついで鳴滝に移った。)



(5)敬作の長崎再遊学とシーボルトの再来日

 安政6年(1859年)、国禁(追放令)を解かれたシーボルト(63歳)は長男アレキサンデル(14歳)を伴って30年ぶりに再び日本の土を踏んだ。
出迎えたのは、53歳の滝、33歳のイネ、8歳のタダ、さらに、中風で体が不自由ながら鳴滝塾門弟唯一人の56歳の敬作と甥の三瀬周三等であった。「迎えるもの迎えられるもの感慨無量、只涙につぐ涙で挨拶の言葉も途切れ途切れで」あったという。(①)



 開国後の激動する情勢下、シーボルトは文久元年(1861年)3月幕府の外交顧問に任じられ、周三を通訳として伴い江戸に上った。
周三は、幕府の通訳とは比較にならないほどの正確な通訳として活躍する一方で「日本国民文化的発達史」。「日本歴史」。「幕府建設史」などのオランダ語訳に努めた。
 しかし、文久年間は尊皇攘夷運動がますます高まった時期であり、シーボルトを排斥する傾向が強まる中で翌年幕府の外交顧問を免ぜられ長崎に帰った。

1862年10月12日抜粋

 8月6日木曜日付けのカトーの便りを入手しました。
この手紙から推すと、おなた方はもう日本が未開国だと思っていないようなので嬉しく思います。
 日本人はヨーロッパ人と同様に自由で、拘束されずに暮らしています。かって存在した悪弊は1859年以降完全に廃止されていて、今や昔話になりました。それでなければ条約締結の意義がないではありませんか。

しんかがく 67

2012-09-10 09:00:00 | colloidナノ
 その誕生日を遡る事、十月十日と言われるように、事始めにおいてもその始点を見定めるのは難事である。

 コンサイス「科学年表」湯浅光朝(三省堂)を紐解いてみると、西洋史における時代区分は、歴史におけるヒューマニズムの理念に根拠づけられて、歴史を古代、中世、近代の3つの時代に分ける3分法がほぼ確立している。とか、日本史においては、原始、古代、中世、近世、近代の5区分法が一般に採用されている。等と指針が与えられている。


 私(湯浅)は、1974年に日本で開かれた第14回国際科学史会議の特別講演において、次の4区分法を提案したのだ。
①古代(Old)
②中世(Middle)
③擬近代(Pseud-Modern、Pre-Modern)⇒1543年鉄砲伝来
④近代(Modern)          ⇒1774年「解体新書」
⑤ポスト・モダン(脱工業社会)

 注目されるのは「近代科学の移植」その時代区分である。
第1期 1774-1823 「解体新書」の出版
第2期 1823-1856 シーボルトの渡来
第3期 1856-1886 蕃書調所の設立
第4期 1886-1917 帝国大学令の公布
第5期 1917-1948 理化学研究所の創立
第6期 1948-?  日本学術会議の創立

 ここでは第3期の素描を引用しておく。

①蕃書調所、長崎海軍伝習所、沼津兵学校などにおいて、洋学の教授が開始される。和算、蘭学が没落し、これに代わってアメリカ、ドイツ、フランスなどの近代科学が輸入され始める。
②1872年に学制制度頒布・・・・小学・中学・大学の学校制度が確立される。東京大学およびその前進が近代科学移植の根拠地となる。大量の外国人教授が日本に渡来、日本人海外留学生による近代科学の移植が始まる。
③数学、物理学、化学、生物学、地学、地震学、植物学、気象学、人類学など、専門学会の形成が始まる。
④試験研究機関の創立が始まる。水路局、東京司薬所、京都・大阪司薬所、東京気象台、地質調査所、陸地測量部など。



 蘭学から英学への転換 青木昆陽と野呂元丈とが、幕府の命令によって、オランダ語を正式に学習し始めたのは1740年のことであった。
それから幕末まで百年以上にわたって、オランダ語は最も重要な語学であった。それが、明治時代になると英語が主となり現在に至った。

 その転換は1854年に開国してからわずか10年ほどの間に、決定的なものになったと考えられる。


 開国直後の1850年代後半から1868年まで、明治新政府が成立する前に、幕府の招聘その他によって渡来した外人教師は、それほど多くない。
長崎医学校において西洋医学教育の学科課程を初めてつくったポンペ、イギリス公使館付きとして渡来し東京大学病院長になったウィリス、実業家として函館において23年間も鳥類の研究を行ない、ブレーキストン、幕府から招かれて東海道の鉱山開発に従事したパンペリー、幕府の開成所に招かれ、維新後は大阪舎密局の教師となり西洋化学の移植に貢献したハラタマ、薩摩藩に招かれて鉱山調査を行ない、後に工部省鉱山局で活躍したコワニエなどが代表者である。

 明治新政府の殖産興業、文明開化、富国強兵のかけごえとともに、多くの外人がかなり計画的に招かれたそのピークは、1870-1880年代の10数年間である。



 万延元年の開港後、初めてアメリカに派遣された外交使節は、新見正興を正使とする一行80名の大所帯であった。
つづいて1862年竹内下野守、1863年池田筑紫守を首班とする外国奉行の一行は、いずれも30~40名にのぼる人数でヨーロッパに渡航した。福澤諭吉などもこれらの一行に加わっている。

 学術研究の目的で幕府から派遣された最初の留学生は、1862年オランダに向かい、1867年帰国した内田恒次郎(正雄)を隊長として林研海、伊東玄白、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、田口俊平、津田真道、西周はか6名で、内田は地理学、林と伊東は医学、津田と西は法学、榎本・沢・赤松は海軍の学術を修めた。赤松則良は西洋の高等数学を深く学んだ最初の留学生であり、西周は西洋哲学研究の最初の人となった。

 幕命によるイギリス留学の最初の一行は、1866年12月に出発した。
菊池大麓、外山正一、中村敬宇、林菫、平岡盛三郎、岸本一郎、川路寛堂、鳴瀬錠五郎、岡保義、湯浅源次、安井真八郎、杉徳三郎、福澤諭吉などであった。


 明治新政府の成立とともに、海外留学生の数はぐんと増えた。
官費、公費、私費いろいろで、1872年の調査によれば、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、オランダ、中国などへの留学生は約380名もあった。
 ところが、1873年に文部省から九鬼隆一が留学生の状況視察に派遣され、多くの留学生が学業品行ともに思わしくないことがわかり、一時全部の留学生を帰国せしめ、改めて文部省から素養あるものを選抜して留学させることになった。





 終わりに、「化学革命の主内容」の項目から抜粋しておく。

 アボガドロの仮説は、ドルートンの原子・分子論についての最後の仕上げをするうえに、決定的に重要なものであった。
にもかかわらず、1811年から1860年ころまで、約50年間も無視されつづけていた。
 これを再評価したのは、1858年、イタリアのカニッツアーロである。1860年にドイツのカールスルーエで開かれた、化学についての最初の国際会議で紹介されるまで、約半世紀も空しく埋もれていたのである。

 カールスルーエの会議は、化学界が原子量の不統一に悩んでいる時期に開かれた。
そして大した成果もなく散開しようとしている時、カニッツァーロのパンフレットが配布されたと伝えられる。
 後に元素の周期律を発見したメンデレーエフはL.マイヤーもこの会議の出席者で、このパンフレットに開眼されて正しい原子量を求めることができ、それらが彼らの発見につながったと言われている。

 空に輝く星は、どんな物質からできているのであろうか。
この秘密を解くための最初の鍵を発見したのは、ニュートンであった。1666-1667年ころ、万有引力の法則を発見したニュートンは、同じころに太陽の光をプリズムを通して分散させるスペクトルの実験をしている。


(フランホーファ線)スペクトルの発散と吸収の原理を発見し、黒線の秘密を解いたのは、ドイツのブンゼンとキルヒホフであった。1859年のことである。

 1862年に「太陽スペクトルおよび化学元素のスペクトルに関する研究」という論文を発表した。
恒星の中では、太陽スペクトルの研究がもっとも早くおこなわれ、太陽の中には30種以上の元素があることがはっきりした。鉄・ニッケル・マンガン・クロム・コバルト・炭素・カルシュウム・マグネシウム・ナトリウム・ケイ素・ストロンチウム・バリウム・アルミニウム・亜鉛・銅・銀・錫・鉛・カリウム・水素・ゲルマニウム・白金・タングステン・酸素・窒素・その他多くの元素が発見された。



しんかがく 66

2012-09-07 09:00:00 | colloidナノ
「指導者としての先生の半面」中谷宇吉郎


 先生の臨終の席に御別れして、激しい心の動揺に圧され乍らも、私はやむを得ぬ事情の為に、その晩の夜行で帰家の途に就いた。
同じ汽車で小宮さんも仙台へ帰られたので、途中色々先生の追想を御伺ひする機会を与えられた。30年の心の友を失われた小宮さんは、ひどく力を落とされた御様子で、ポツリポツリと思い出を語られた。
 常磐線の暗い車窓を眺め乍ら、静かに語り出されるお話を伺っている中に、段々切迫した気持ちがほぐれて来て、今にも涙が零れ相になって困った。小宮さんが先生危篤の報に急いで上京される途次、仙台のK教授に御会いになったら、その由を聞かれて大変愕かれて、「本当に惜しい人だ、専門の学界でも勿論大損失だろうが、特に若い連中が張合いを失って力を落とす事だろう」と云われたと云う話が出た。
 其の話を聞いたら急に心の張りが失せて、今迄我慢して居た涙が出て来て仕様が無かった。

 先生の直接の指導を受けた門下生は誰でも皆、先生の死にあってすっかり張合いを失って、何をする元気も無くなってしまった様に見える。
此の事が指導者としての寺田先生の全貌を現して居るのではないかと自分には思われる。・・・或る時先生はS教授に、「君、若い連中を教育するには、無限に気を長く持たなければいかんよ」と云われた由を、同教授から聞かされたことがある。

 先生を失って弟子達は何をする張合いも無くなる、そのような意味での指導が出来たのは、勿論先生の比類なき頭脳の力によるものであるが、今一つ、先生の心の温かみと云うものが非常に重大な役割をして居ると切に思われるのである。
 冬彦集の鼠と猫の中に、誰にも嫌われたある猫の下性を直す為に、土を入れた菓子折を作って「何遍となく其処へ連れて行っては土の香を嗅がして」やられる先生の姿が書かれて居る。
之を読んだ時に、現代の東京の生活の中で、しかも忙しかった先生のお仕事を思うと、此喩等と云う意味を全く離れて、先生の暖かいそして静かな心が実感をもって身に沁みたのであった。
 指導者としての先生の温情の一つの現れは、常に弟子達の為と云う事を第一に考えられて、御自身の仕事の都合は何時でも第二の問題とされて居た事である。先生のレーリー卿の伝記の中に、卿がゼーゼー・トムソンを指導したやり方に就いて「自分の都合丈け考へる大御所的大家ではなかった」と書かれて居るのは、私共には全く先生の姿の様に見えるのである。

 若い仲間の集まりに有り勝ちな事として、時には熱情的な興奮をもって誰かの行為に対して避難がましい話をする様な事もあった。その様な話が先生の耳に入ると、よく先生は、「相手の人の身にもなって考えなくっちや」と云われたものであった。
 其の様な一言半句にも先生は極めてプラクチカルな指示を与えられた。相手の身になって一応考えて見る事によって、つまらぬ心の焦燥を霧散させ得た経験はその後限りなくある。

 私が理研の研究室を辞して今の所に赴任した時に、先生から戴いた訓えはこうであった。
「君、新らしい所へ行っても、研究費が足りないから研究が出来ないと云う事と、雑用が多くて仕事が出来ないと云う事は決して云わない様にし給え」といわれた事であった。

 教室の創設当時の雑用に追われて居る中にも、時々先生の此の言葉が閃光の様に脳裏に影をさして自分を救ってくれた事も算へられない位である。又時には先生は極めて抽象的な言葉を用いられる事もあった。
 その時にも「それから、時々根に肥料をやる事も忘れないで」と付加された。其の様な言葉にも実は前から十分に其の意味を理解し得る様な準備はさせて戴いてあったのである。それは、雑誌許り読まずに時々本も読む事、そして出来たら専門以外の本も読む事を折に触れて注意されてあっての事である。

 私が理研に居た三年間の間に、先生の仕事を手伝った主な題目は火花放電の研究であった。
・・・「ねえ君、不思議だとは思いませんか」と当時まだ学生であった自分に話された事がある。此の様な一言が今でも生き生きと自分の頭に深い印象を残している。

 先生の論文の緒言にある様に、「フランクリンが電光の研究をして以来、その後の火花の研究は、電気計測器の発達につれて、電圧、容量、抵抗その他計測し得る量に関する研究が先立ち、火花自身を問題とする事が少なくなった」のである。



 理研時代になっての先生の火花の研究は、以前からの先生の考えを纏められる様な仕事が多かった。空気中での長い稲妻形の火花の写真を千枚以上も撮って、其の空間に於ける屈曲の角度の統計的研究は、「空気の割目」の説となったりした。
 其の中でも興味ある発見は、通常火花の形として見えるものは、火花の全貌の中で可視光線を出して居る部分だけであって、其の外に眼に見えぬ線を出して居る部分があると言う事であった。
 それは紫外線を出して居る部分であって、之は眼には勿論見えず、又普通の硝子の鏡玉で写真に撮っても写らない。然し水晶と蛍石から出来ている鏡玉を使って写真を撮って見ると、普通に見える火花の形に付加して、紫外線を出して居る複雑な形の放電路が広い範囲に亙って存在している事が見られたのである。

 先生は此の問題を更に進めて、イオン化作用(此の場合では放電作用)は起きているが、光も紫外線も出していない様な放電路が更に広い範囲に亙って存在して居る筈で、それが即ち火花の全貌であると考えられたのであった。
 所が丁度イオンの存在を目に見える様にする装置にウィルソン霧箱と云うものがある。先生は之を用いて火花の全貌を見る事を私に指図されたのであったが、自分の不勉強と留学の都合で、之は遂に実験途中で中止の形となって了った。

 最近其の写真を撮る事が出来る様になった。
結果は一番大切な点に於いては、全く先生の予期されて居た通りであった。其の結果の発表後数ヶ月の中に、殆ど同時に亜米利加と独逸とで全く同じ様な研究の発表があった。其の後先生に御目にかかった時に「あの時もう少し勉強して居ましたら、今になって数ヶ月のプライオリティ等を争わなくても、外国の連中よりも5,6年位先にあの仕事が出来て居ましたのですが」と申し上げた事があった。
 其の時は先生は余程御機嫌の良い時だったと見えて、「何、それに限らないさ、僕の所の仕事は、どれだって十年は進んで居るつもりさ」と久し振りで先生の気焔を聞く事が出来た。
 先生は小宮さんに或る時、「僕の一生は何もしなかったかも知れないが、只一つ丈安心して云える事がある。それはかうと見当を付けた事は大概はづれなかったと云う事だ」と云う意味の事を洩らされた事がある相である。直接指導を受けた門下生としては、何もかも深い思い出の種となる事許りである。

 色々の瓦斯の中での火花の形の差も、ひどく先生の興味を惹いた問題であった。実際に或る瓦斯中の火花の写真を撮って、他の瓦斯中のものと比較して見ると、多くの場合何処が違って居るのかと云う事を指摘する事は困難であるにも拘らず、火花の形全体としては、明白に区別が出来るのである。先生は之はどうも「形の物理学」が出来ていないのだから仕方がないとよく云われたのであった。

 「ルクレチウスと科学」の中にも書かれた様に、現在の科学の考え方はギリシャ時代の思考の形式と殆ど変わって居ない、もっと他の形式の物理学が成立しても良い筈で、特に全く異った文化に育まれた日本人にはそれが不可能であるとは思えないという風の意味の事を始終考えて居られたのでは無いかと思われるのである。
 近年ひどく興味を持たれていた割目の研究等も其の顕著な現れの一つでは無かろうか。その様に考えると、何だか一番大切な仕事が先生の頭の中に蓄えられた儘、永久に消えて行って了った様な気がしてならない。

 静かに先生の科学者としての生涯を思ひ、最後迄飛躍する事を休まれなかった業績を考えると、ポアンカレの場合とは少し異なるかも知れないが、吾等の船は舵を失い、吾等は明日から再び手探りの研究を初めなければならないと云う嘆きに沈むのも亦やむを得ない事と思われるのである。


 
なお、中谷宇吉郎はその意志を受け継いだかのように、「科学の方法」等の著書をもって知られている。