「大阪舎密局の史的展開」(京都大学の源流)藤田英夫著;思文閣出版
第3章 化学史からの大阪舎密局その②「大阪舎密局の授業と化学教育」からの引用。
舎密局の授業は、明治2年5月8日午前10時にはじまった。ハラタマが理化総論の講義をし、三崎が通訳として生徒に伝えた。生徒の学力を考慮して、この講義は筆録され、後日出版された。
しかし、出版されたのは、第1巻の総論、第2巻の理学各般性論、第3巻の化学各般性論と第4巻の化学原質製錬学だけであり、残りの5巻は未刊のままである。
ハラタマは大阪では多忙な日々を送ったようであるが、その講義を類推すると、基礎知識の伝授を急ぐ余り、その系統性にいくぶん難があった。
開校後2ヶ月の明治2年7月からは、毎日午後にはハラタマによる化学試験が、また翌3年正月からは化学試験伝習稽古がそれぞれ開始された。
舎密局は開校後一年の間に生徒数も増加し、その南側にあった鈴木町に開設された大阪医学校の生徒が舎密局のハラタマの講義を聴講するようになった。明治4年1月から5月の間に医学校から舎密局への聴講生の数は59名に達している。
また、明治3年3月29日付けの医学校から舎密局および洋学校宛の伺い書に「加州藩高峰譲吉17才、右者当校入寮生に候。英会話伝習被致度旨申立候間差出申上云々」とある。
高峰はその後、明治6年に医学修業の志をかえて、東京大学工学部の前身である工部学校に入学し、化学の道を歩みだした。
のちにアドレナリンおよびタカジアスターゼの発見、そして理化学研究所創設の功労者として明治時代の代表的な化学者となった。
ハラタマは舎密局の理化学実験教育のために、オランダから多くの器具、薬品を取り寄せていた。
その内容は化学器具類557点、物理機械類376点、薬品類1500余瓶を数え、書籍については蘭書370冊、独書140冊、仏書165冊である。
化学器具類についてみると天秤10種類28基、3ツ口洗気瓶85点、試験管1780本、陶器製坩堝約800筒、白金坩堝15筒、蓄電池約60点、顕微鏡10基などである。試薬品については、まず量が少なくても種類が多いのに驚くのである。大部分が外国製品である。
ハラタマは舎密局での講義とは別に、造幣寮のために金銀貨幣の分析法の講義も行った。・・・和蘭ハラタマ口授「官版金銀精分」として大阪開成学校から明治5年春に発刊された。
また常にハラタマの傍を離れず、講義の通訳を担当していた三崎嘯輔には、「試薬用法」全2巻、「薬品雑物試験表」「化学器械図説」「試験階梯」「定性試験桝屋」等。
このほかに三崎には明治6年刊行の『新式近世化学』がある。これは舎密局退官後、その経験をもとにした私塾での講義を辻岡精輔が集録したものであり、日本人としてはじめて分子仮説を採用した貴重な著作である。
ところで、舎密局は洋学校および医学校を含めて大阪の地における総合大学の観を呈していたが、その舎密局が本来の学問伝授のほかに広く校外一般にもその機能を公開していたことは注目できる。
たとえば理学校時代の記録をたどると、石墨の鑑定、有馬温泉の成分分析、糖菓着色料中の有毒成分検査、1円銀貨などの各種貨幣の分析、滋賀県蒲生郡日野山産出石炭の分析及び竹生島の鳥糞の分析などにも応じている。
またハラタマは生野銀山の調査なども行っている。
Jean Francisque Coignet、ジャン・フランソワ・コワニエの誘いによって生野銀山見学の旅にでた。
「8月15日から31日までヨーロッパ流に舎密局は夏季休暇となり、私はこの機会に国内旅行をして大いに楽しみました。この旅行計画は既に前から立てていましたが、肝心の点が欠けていました。それは時間と政府からの許可でした。それでまず休暇によって時間を作り、それから政府に申請しました。ところが実に驚いたことに即座に許可が下りました。
今回の旅行の目的は大阪から4日間の旅程で行く銀と銅の鉱山の視察でした。以前に寺町で私の近くに住んでいたフランス人技師が、今ここの開発主任になっています。政府は学校の事務長と私の門弟二人と下男二人を私に同行させ、さらに私は自分の馬丁と馬と召使を連れて行きましたので、一行は8人となりました。それに荷物全部とヨーロッパの食料、飲物は当地で苦力と呼ばれる者達によって運搬されますので、総勢はいつも20名に上りました。旅は日本風の無蓋船で大阪から神戸へ向かう夜行の海路で始まりました。船は大層大きく私の馬も乗せる場所がありました。
まず最初に大名の領地へ入って行きました。私はどこでも天皇の役人に対する待遇をもって迎えられました。
鉱山では実に多くの興味深い事物を見学しました。ここに3日間滞在するうちに、私は日本の鉱物の潤沢さについて考えさせられました。
帰路の旅も往路と同じように進みました。この旅費について私の支払額を尋ねるまで、政府はそれについて無頓着のようでした。結局全額政府が支払いました。
第3章 化学史からの大阪舎密局その②「大阪舎密局の授業と化学教育」からの引用。
舎密局の授業は、明治2年5月8日午前10時にはじまった。ハラタマが理化総論の講義をし、三崎が通訳として生徒に伝えた。生徒の学力を考慮して、この講義は筆録され、後日出版された。
しかし、出版されたのは、第1巻の総論、第2巻の理学各般性論、第3巻の化学各般性論と第4巻の化学原質製錬学だけであり、残りの5巻は未刊のままである。
ハラタマは大阪では多忙な日々を送ったようであるが、その講義を類推すると、基礎知識の伝授を急ぐ余り、その系統性にいくぶん難があった。
開校後2ヶ月の明治2年7月からは、毎日午後にはハラタマによる化学試験が、また翌3年正月からは化学試験伝習稽古がそれぞれ開始された。
舎密局は開校後一年の間に生徒数も増加し、その南側にあった鈴木町に開設された大阪医学校の生徒が舎密局のハラタマの講義を聴講するようになった。明治4年1月から5月の間に医学校から舎密局への聴講生の数は59名に達している。
また、明治3年3月29日付けの医学校から舎密局および洋学校宛の伺い書に「加州藩高峰譲吉17才、右者当校入寮生に候。英会話伝習被致度旨申立候間差出申上云々」とある。
高峰はその後、明治6年に医学修業の志をかえて、東京大学工学部の前身である工部学校に入学し、化学の道を歩みだした。
のちにアドレナリンおよびタカジアスターゼの発見、そして理化学研究所創設の功労者として明治時代の代表的な化学者となった。
ハラタマは舎密局の理化学実験教育のために、オランダから多くの器具、薬品を取り寄せていた。
その内容は化学器具類557点、物理機械類376点、薬品類1500余瓶を数え、書籍については蘭書370冊、独書140冊、仏書165冊である。
化学器具類についてみると天秤10種類28基、3ツ口洗気瓶85点、試験管1780本、陶器製坩堝約800筒、白金坩堝15筒、蓄電池約60点、顕微鏡10基などである。試薬品については、まず量が少なくても種類が多いのに驚くのである。大部分が外国製品である。
ハラタマは舎密局での講義とは別に、造幣寮のために金銀貨幣の分析法の講義も行った。・・・和蘭ハラタマ口授「官版金銀精分」として大阪開成学校から明治5年春に発刊された。
また常にハラタマの傍を離れず、講義の通訳を担当していた三崎嘯輔には、「試薬用法」全2巻、「薬品雑物試験表」「化学器械図説」「試験階梯」「定性試験桝屋」等。
このほかに三崎には明治6年刊行の『新式近世化学』がある。これは舎密局退官後、その経験をもとにした私塾での講義を辻岡精輔が集録したものであり、日本人としてはじめて分子仮説を採用した貴重な著作である。
ところで、舎密局は洋学校および医学校を含めて大阪の地における総合大学の観を呈していたが、その舎密局が本来の学問伝授のほかに広く校外一般にもその機能を公開していたことは注目できる。
たとえば理学校時代の記録をたどると、石墨の鑑定、有馬温泉の成分分析、糖菓着色料中の有毒成分検査、1円銀貨などの各種貨幣の分析、滋賀県蒲生郡日野山産出石炭の分析及び竹生島の鳥糞の分析などにも応じている。
またハラタマは生野銀山の調査なども行っている。
Jean Francisque Coignet、ジャン・フランソワ・コワニエの誘いによって生野銀山見学の旅にでた。
「8月15日から31日までヨーロッパ流に舎密局は夏季休暇となり、私はこの機会に国内旅行をして大いに楽しみました。この旅行計画は既に前から立てていましたが、肝心の点が欠けていました。それは時間と政府からの許可でした。それでまず休暇によって時間を作り、それから政府に申請しました。ところが実に驚いたことに即座に許可が下りました。
今回の旅行の目的は大阪から4日間の旅程で行く銀と銅の鉱山の視察でした。以前に寺町で私の近くに住んでいたフランス人技師が、今ここの開発主任になっています。政府は学校の事務長と私の門弟二人と下男二人を私に同行させ、さらに私は自分の馬丁と馬と召使を連れて行きましたので、一行は8人となりました。それに荷物全部とヨーロッパの食料、飲物は当地で苦力と呼ばれる者達によって運搬されますので、総勢はいつも20名に上りました。旅は日本風の無蓋船で大阪から神戸へ向かう夜行の海路で始まりました。船は大層大きく私の馬も乗せる場所がありました。
まず最初に大名の領地へ入って行きました。私はどこでも天皇の役人に対する待遇をもって迎えられました。
鉱山では実に多くの興味深い事物を見学しました。ここに3日間滞在するうちに、私は日本の鉱物の潤沢さについて考えさせられました。
帰路の旅も往路と同じように進みました。この旅費について私の支払額を尋ねるまで、政府はそれについて無頓着のようでした。結局全額政府が支払いました。