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みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-12 09:00:00 | colloidナノ
「酵素の本性」
酵素の本性は長い間あいまいなままであった。
1877年にトラウベ(M.Traube、1826-94)は、発酵、細胞酸化、腐敗なども含めた酵素作用の一般理論、つまり、酵素はタンパク質に類縁の物質で、高等な生物でも下等な生物でも、生命に必要なすべての化学反応の原因となるもので、それでいて酵素自体は変化をうけないでいるものであると提唱した。

この主題の歴史の中で、この正しい意見が、これほど初期に提案されたことは興味深いが、酵素がタンパク質性であることについてはほとんど証拠がなく、トラウベの思いつきは、その後半世紀の間は容認されなかった。

多数の酵素が純粋な状態で得られるまでは、それ以上進歩といえるものが起こることは不可能であった。略

動物の酵素についての真剣な企ては、おそらく、1924-8年のわれわれ自身によるキサンチン・オキシダーゼの部分的精製であった。
現在から考えると、われわれの最善の試料は、約3分の1の純度で、当時としてはかなり高い程度の精製であるように思われる。

この種の研究は、当時、はげしい反対と批判にさらされた。
この研究は「非生理的で」あり、調整された試料は破損した細胞から生じた産物で、無傷の細胞についての研究だけが意味があるものだと言われた。精製した試料は、「生きている細胞とはまったく違う挙動を示す沈殿」とされた。
今日、重点の置き方が全く逆になって、結晶化された純粋な酵素について研究することが、何か身分を象徴するものであるかのようになった。




タンパク質は、きわめて複雑な構造をもつものである。
平均的な酵素は、10万程度の分子量で、構造を決定する目的で特別の方法が開発されるまでは、分子の主要な構造を決定するために何もすることができず、この方法はごく最近になってやっと出現した。

しかしながら一方、触媒としての活性に影響がある二種類の観察事実、つまり作用の特異性と化学的な試薬による直接的な手段から、活性中心の構造についていくつかの推論を下すことができた。

19世紀の終わり近くになって、エミル・フィッシャー(Emil Fischer、1852-1919)は、炭水化物とタンパク質の構造についての知識を大きく進展させたが、これらの物質の多くは、いろいろの酵素の基質である。

これらの結果、いくつかの酵素について、その作用の範囲、つまり「特異性(specificity)」、とくにサッカラーゼ型のもののそれを研究できたのである。
彼は純粋な酵素を用いて研究することはできなかったのでが、酵素はそれに独自の特定の基質に対して、きわめて高度の特異性を具えていることを明らかにした。
このことから、1894年に、ある酵素が作用する基質とこの酵素は、鍵と鍵穴のようにお互いにぴったり合うようにできているという考えを述べた。
その後、この考えは、彼には予想もできなかった程度で正しいことが示された。
化学的な構造だけではなく、基質分子の形態も重要である。

これらの観察事実は、基質と構造的によく似た物質についての研究で、いちじるしく拡大された。
これらの物質の多くは、基質ときわめてよく似ているで、酵素による反応は起こらないが、酵素の活性中心と結合できることがある。


その場合、これらの物質は、基質が活性中心に接近するのを妨げることで、その酵素の基質に対する作用を阻害し、そしてその結果、基質とこの活性中心を奪いあって競いあうもので、これらは「拮抗的阻害剤」と呼ばれている。
これらの物質の構造に対する化学的な修飾が活性中心への親和性に及ぼす影響を決定することで、どの原子団がその結合に関係しているかを考えて、対応する結合部位の活性中心のほうの構造を推論できることが多い。

タンパク質中の特定の残基に特異的に作用する化学試薬がいくつか利用できるが、問題にしている酵素の活性中心にそのような残基があると、この試薬で酵素は失活されてしまう。

このような試薬の中でもっともよく知られているものは、チオール(SH)基に作用するもので、この試薬を利用して多くの(しかし決してすべてではない)酵素の活性はこの残基に依存していることが示されてきた。

大多数の場合、酵素の活性中心は、特別の成分を何も含んでいないで、単に基質の分子に適合した形にアミノ酸残基の配置があるだけである。
しかし、他の多くの場合、通常のタンパク質には見られないような他の物質、つまり、フラビン、ピリドキサル、ヘムなどが活性中心に含まれている。
また、活性中心に金属イオンを含む酵素も少なくない。
このようにして、タンパク質の化学構造が決定できるようになる以前でさえ、活性中心の構造についてある程度のことが見出されてきていた。

酵素全体の分子の化学構造を完全に決定するのは、きわめて困難なことで、ごく最近になってやっと達成できたのだが、それも、リボヌクレアーゼ、キモトリプシン、リゾチームなどのごく少数の酵素で果たされただけである。

そのためには、ケンブリッジのサンガー(Sanger、1952)が発展させた、ポリペプチド鎖上のいろいろのアミノ酸の配列の順序を決定するための方法を忍耐強く利用する必要がある。

しかし、これでも不十分である。化学構造自体では、酵素の触媒としての性質の理由を明らかにすることができない。
そのためには、ポリペプチド鎖が、基質に適合して活性化するよにと、原子団が正しく配置した活性中心をつくり出すのに、分子内でどのように折れ曲がっているかを決定する必要がある。
これは、X線回折によってはじめて達成できることで、ただ一つの酵素、リゾチームについてだけ解析がすんでいる。


1966年にフィリップスその他(Phillips et al、1966)は、Lysozymeリゾチーム分子の完全な三次元構造をつくり上げ、活性中心の構造と気質分子との結合の起こり方を正確に示し、触媒として働く原因へのヒントを与えた。
これは酵素化学の発展のうえで真に重大な一里塚である。



参考記事
リゾチームの研究を楽しんで42年 井本泰治
「YAKUGAKU ZASSHI 123(6) 377―386 (2003) 驂 2003 The Pharmaceutical Society of Japan」

筆者はPhillips 博士と共著でThe Enzyme に1972 年までのリゾチーム研究の成果を総説した.1)

変性タンパク質は疎水面が表面に露出しており,そのため会合して沈殿しやすく,タンパク質の再生はアグリゲーションとの戦いである.
最もよく使われるのは無限大希釈で会合を抑える方法である.
しかしこれはあまり効率的方法ではない.そこで高濃度で再生するために,再生タンパク質の総電荷を多くして,可溶化,反発により会合を抑えたり,17) 安定化,可溶化のための添加剤を種々検討した.18)
ここで偶然が顔を出した.・・・・・・









みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-11 09:00:00 | colloidナノ
第2章 「酵素と生体酸化の歴史」 マルカム・デイクソン

ここでは二つの主題をとりあげなければならないのだが、生体酸化は酵素によって触媒されているので、この両者は密接に関係している。
細胞内のこの過程が、細胞にエネルギーを供給して細胞が活動しつづけられるようにしている。

生物----生きている細胞----は、ときどき炎と比較されたが、両者には共通な点が多いから、この比較には教育的な面がある。話のいとぐちのために、この比較を簡単に考えてみることにしよう。

両方とも、継起して起こる複雑な一連の反応が起こっている領域から成っている。両方とも、熱を出していて、それは主として酸化反応によるものである。
両方とも、ある形や形態を示すが、それを形成している物質が絶えず変わっているのに、形や形態は存続しつづけ、それを通して物質が連続的に流れている。
それで、現在これらを構成している原子は、しばらくたった後でそれを構成している原子は、しばらくたった後でそれを構成している原子ではない、定常状態にあるこれらの存在の維持のためには、両方とも、エネルギーの不断の消費が必要で、飢餓やガスを止めて、エネルギー消費を止めてしまうと、両方とも崩れ去ってしまう。


しかしながら基本的なさが二つある。
一つは、炎で温度が高いから反応が進んでいるという点である。生物では、温度は低くて、反応が進むのは、ただ、きわめて特異的な触媒(catalysts)----酵素、そしてその歴史をここで考察しようとしているのだ----が多数存在しているからである。
この触媒の数は多く、数百にのぼる。
これらはまたきわめて特異的で、大まかな近似としては、それぞれの酵素はそれに特別な化学反応を触媒すると言ってよいであろう。この特異性の結果として、生体の中で反応は順序よく順を追って進行し、つまり代謝径路に従ってすすみ、それは存在する酵素によって厳密に限定され、量的にも決定されている。
炎の場合には秩序がなく、細胞にはそれがある。

第二番目の基本的な差は、炎では反応はほとんど分解反応ばかりである。これに反して、生体では継起する反応の起こり方に多数の合成反応が含まれている。
これらの合成反応のために必要なエネルギーは、同時に進行している酸化反応から他の一組へとエネルギーの移行が起こる。
このように、細胞内の酵素系は、維持と生長に必要な生体内の有機成分の合成をもたらし、そして、その中には、酵素触媒そのものの合成も含まれている。

生細胞の大部分は、炎と同じように、酸化的反応を酸素分子によって行っているが、細胞による終局的な酸素O2の利用(「細胞呼吸」)じゃ酸化酵素系の触媒作用によるものである。



酵素作用のある種の徴候は、きわめて古い頃から知られていたが、たとえば発酵、消化、呼吸などについて何がその原因であるか、まして、酵素によって引き起こされているなどということはわかっていなかった。

Enzyme酵素の最初の発見はパリのベイアン(A.Payen、1795-1871)とペルソ(J.-F.Persoz、1805-68)によるものであるように思われる。

ペイアンはパリの砂糖工場の支配人で、セルロースを発見し、木炭の脱色作用を見出したのもこの人である。ペルソはデキストリンの発見者の1人で、後にストラスブール大学の教授になり、さらにもっと後でパリ大学の教授になった。二人ともヴォークランの弟子であった。



これらの酵素の発見が、スウェーデンのベルセーリウス(J.J.Berzelius、1779-1848)による1837年の触媒作用の概念の提案の以前であったことに気がつくとおもしろい。
彼は「今までに知られていたものとは別の力」と触媒の作用のことを述べている。
この概念は、彼の偉大な化学の教科書の第3版に挿入した新しい節に言い出されている。略


彼は、きわだった予見を示して次のように結論している。

この考えを生物界に向けてみると、まったく新しい光がさしこみ出す。
生きている植物や動物では何千という触媒過程が組織と体液の間で起こっていて、多数の異なった化合物が樹液や血液などの通常の素材物質から合成され、その合成の原因については理解できないでいるが、将来、生体物の器官ができている組織の触媒能に、おそらくその原因を見出すことができるようになるだろうと考えてよい。

しかしながら、このきわだって正確な予言が確認されるまでには、たっぷり1世紀の時が流れなければならなかった。

酵素の活性のほうが、主として触媒という考えかたをもたらしたのであって、ふつう思われているようにその逆ではないことを理解するのは大切なことである。

当時、発酵が生物によって起こることは知られていなかった。このことは、翌年(1838年)カニャール・ド・ラトウールによって示され、20年後にパストールによってもっと十分に明らかにされた。それで、そのような触媒作用はすべて、生きた微生物のためであるとされたのは、きわめて自然な成り行きであった。
「発酵素(ferment)」という言葉は、このような作用物質を記述するためにやたらと適用され、酵母のような生物と現在酵素と呼んでいるものの間の区別もなかった。

酵母にあたるラテン語fermentumは、fervimentumの短縮系で、沸き上がるという動詞ferveoからきていて、炭酸ガスの遊離で起こる沸騰しているような様子を指している。
この発酵素という言葉を細胞と酵素の双方に適用したために、長い間、事実1860年からはぼ1895年にかけてかなりの混乱を招いた。

パスツールは、発行の際に起こる化学反応を、酵母の生命過程の根本的な部分と考えた。
この考えは、生命力が化学の中に侵入してくるのを嫌っていた化学者の気に入らなかった。

トラウベが言ったように、「化学は生理的過程を説明できるかもしれないが、生理学では化学的過程を説明できない」。そこに見られる化学反応は明確な化学物質の触媒作用によるものであるとのベルセーリウスの立場を、化学は採用した。

さて、ベリセーリウスは触媒作用による過程を記述しただけで、その原因はよくわからないと言った。
2年後(1839年)に、しばしば生化学の父と考えられていて、後にパスツールの主要な敵対者となったリービッヒによって、発酵における酵素作用についての理論が提出された。

パスツールは、発酵を生命過程の一部と考えた。リービッヒはそれを死と腐敗に関連したものと考えた。
彼の理論には、分解作用のある物質(酵素)の運動の休息している物質(基質)の方への機械的な移動という考えが含まれている。略


1850年頃に知られたわずかの酵素の中で、どの一つとして細胞内のものはなく、明らかに、すべての酵素反応は生体の外側で起こっているものと考えられていたものと思われる。

細胞内の酵素の知識は、おそらくベルテロー(M.Berthlot、1827-1907)が初めらしく(1860年)、彼は酵母を水に浸してやわらかくし、抽出とアルコールによる沈殿を利用して、現在なら加水分解するべきだが、ショ糖の旋光性を逆にする酵素をとり出すことができた。
その結果、これは酵母の中に含まれてる多数の発酵素の1つであり、ペイアンとペルソのジアスターゼや消化発酵素に似ていて、生物そのものは発酵素ではなくて、発酵素を産生するものであり、可溶性発酵素は、1度合成されると、生命の活動とは独立に機能する(これは重要な点である)という、明確な意見を表明した。略


最後に、エドウアルト・ブフナー(Eduard Buchner、1860-1917)が1897年に、酵母から、発酵系全体を含んでいて菌体を含まない液を抽出することに成功して、パスツールの意見とは逆に、発酵は生きている細胞が不可欠でないことを示した。







みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-10 09:00:00 | colloidナノ
アントアーヌ・ローラン・ラヴォアジェ(Antoine Laurent Lavoisier、1743-94)が、定量的実験を行って、その実験からフロギストン説は支持できないことが示された。

物質が空気中で燃焼すると、酸素と結合する。金属は空気中で加熱すると、鉱灰をつくり、これは重さが増加していて、他方空気の容積は収縮する。
その以前、1773年に、ラヴォアジェは、水が土に変わる可能性がないことを示した実験を記述した論文を公にしている。

ファン・ヘルモントと彼の実験以来、蒸留水を蒸発させると、いつも少量の土壌様のものが残されることが見出されいてた。ラヴォアジェは、この残渣が全部水の作用で容器から生じたものであることを示した。
このようにして、5年の月日をへたヤナギに、主な栄養源を与えたのは空気中の炭酸ガスであったことになり、ファン・ヘルモントが光合成の発見にどれほど近づいていたかがわかる。

光合成の過程を確定する最後の段階については、ユリウス・ローベルト・マイアー(Julius Robert Mayer、1814-78)が、植物の栄養に適用されるように、エネルギーの保存という概念を導入したことに対して名誉が与えられよう。

マイアーは医師で、エネルギー保存の一般的応用についての彼の発表を、科学者の中には、早まったものと考える人もいる。

「不幸な考案者の描いた滅びた夢という、肥料が十分にある土地の上に、知識の木のように、エネルギーの不滅の法則が生育し、その黄金の果実をマイアーとヘルムホルツがつみとった」という注目すべき声明(1916年)の中でヴァルター・ネルンスト(Walter Nernst、1864-1941)は、マイアーに栄誉を与えている。

植物の栄養についての初期の実験は、化学変化の性質について理論がまだ幼ない状態にあったころに行われた。
J.フォン・ザックスが「植物生理学(Plant physiology)」を書く頃までに、化学変化と物理的変化が関係した多数の過程が、正確な科学的用語で記述できるようになった。
彼は、光の存在下で最初に目にみえて形成される炭水化物は、多くの場合、デンプンであることを見出した。

つまり、生理学の一般的な観点から、光合成と植物の栄養との関係が承認され、それが植物についての各種の実験的研究の基礎となった。
しかし、20世紀初頭にいたるまでは、光合成の生化学的な実際のからくりについては、ほとんど進歩がなかったと思われる。


まず最初に、重点はすべての葉の緑色の色素におかれた。
クロロフィル(葉緑素)という名は、もともとペレテイエとカヴァントウによって1818年に与えられた。この名は緑色の葉の中に見出されるすべての色素に対するのものであった。

今世紀の初めにツヴェットがクロマトグラフィーによって色素を分離する方法を見出したときに、ソルビーが初めて1873年にその存在を見出した、葉の中の二つの色素にクロロフィリンという名を用いた。
しかし、ヴィルシュテッターとシュトールが1913年と1918年に葉の色素と光合成についての研究を発表したときに、その中で、化学変化をうけていない葉の色素にクロロフィルという言葉を使った。
この二人はクロロフィリンを、変化をうけたクロロフィルを記述するために用いた。略


もっと最近になって、1930年から1940年に、関心の焦点がふたたび水に戻るようになった。

C.B.ファン・ニール(van Niel、1949)が1930年代に、光合成細菌について、もっとも探索的な研究を行った。これらの生物は酸素を放出しないが、この点で緑色植物ときわだった差を示している。
細菌は大気中の酸素がないと、環境に存在する物質を酸化することが見出された。
ファン・ニールは、すべての型の光合成を記号上一つの方式のもとに表現することができた。生細胞内の色素に吸収された光は、結果として水を分解し、HOHがHとOHなると表される。

これは還元と同時に酸化を起こす。
その結果、炭酸ガスの還元と酸素の生成が関係した活発な反応は、酸素によって、光がなくても進められる。

約2400年(ミレトスのタレス以後)の後で、この理論が、現在の時点に展開している実験をも含めて、光合成のしくみをもっと完全に理解しようとする研究の動機となっている唯一の考えのようである。




みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-09 09:00:00 | colloidナノ
第1章 「光合成の知識の発展」   ロバート・ヒル



19世紀の後半に、光合成の過程は次のように記述されていた。

炭酸ガス + 水 + 光 = 炭水化物 + 酸素 + 化学エネルギー

これは基本的には呼吸の過程の逆である。

緑色植物は、自分の体内の物質を増加させるのに有機物の食物をとり入れる必要はないので、自家栄養的とか自分で食物をとり入れるひつようがないので、自家栄養的とか自分で食物を供給するものと呼ばれている。

人間も含めて、動物は、植物との共存に絶対的な形で依存しているのだから、われわれの考えはうすぼんやりした遠い過去へとさかのぼることになる。


E.J.H.コーナー(Corner、1964)は、植物学の問題は基本的には人間と植物の関係であると述べたことがある。----植物学は実際ずっと古い昔からの主題である。



「ギリシャ時代の古い概念」


ものごとについて単純に考えているときはいつでも、正しく真実と考えられたいろいろのものが、いちじるしいくいちがいを示すことがある。
ものごとの本性について、まったく独立に相互に衝突しあういくつかの考えが、ギリシャ時代からうけつがれてきた点についてもそのとおりである。
これらの考えの影響は、時には驚嘆に値することがあるが、現在の思想の中にも認めることができる。
自然科学では、思想は実験結果と方法によって調整されるものと考えている。
すべてのものを説明できる思想があったらすばらしいとことだろう。

ミトレスのタレス(Thales of Miletus、640頃-546B.C.)は、「万物は水である」

水 = 植物

という思想を与えた。

この思想が引きつがれたときには、終局的な存在についての主観的な感覚があったものと思われる。
アインシュタインのエネルギーと質量の間の関係に全体として何か似ているのではないだろうか。略


テレビを見ていて、驚くほど似ていると感じて、思い出してのが、「自然科学では、思想は実験結果と方法によって調整されるものと考えている。」との下りである。

テレビの画面には、あのAngela Dorothea Merkelメルケル首相の容姿があった。


メルケル首相はベルリン(Berlin)で会見し、「日本で起こった出来事は、これまで絶対ないと考えられてきたリスクが絶対ないとは言えないという事実を教えてくれている。たんにこれまで通り、このまま進めることはできない」と述べた。

「メルケル独首相、国内原発の稼働延長を凍結 福島原発事故を受け」フランス通信社、2011年3月15日。


この理念もなきがごとき、政治的な決断力こそが自然な科学的方法であると言えるのだ。

さて、「現代的な実験の始まり」
ちょうどギリシャの哲学が、個人と社会の完成された姿を追求したように、初期の錬金術師は、物質の完成を追求した。
現在では、錬金術の研究は金属のかすを黄金に変換しようとの努力であると考えることが多い。他方、賢者の石の探求は、物理的過程を制御する想像上の「一方通行」を見出すための努力と見なすことができる。

こんなに長い間実際的な人と哲学者の間に存在していたように思われた相違は徐々に消えていった。

自然哲学の研究は、体系的な記述と目録作製ではなくて、実験の結果によって方向づけられるようになっていった。略


植物の栄養の研究で、実験的方法は、ファン・ヘルモントとともに始まったとふつう考えられている。

彼は1630年頃に「ガス」という言葉をつくり出しただけでなく、錬金術とは違った形での化学の創立に力があった。
ファン・ヘルモントは    水 = 植物
の理論を検証しようと決心した。

彼の有名な実験は十分に注意深く遂行されて、当時の知識から判断すると、ほとんど完全に理論を満足するものであった。この実験の永続的な価値は、植物を構成する物質で土壌に由来するものがどれほどわずかであるかを示した点にある。略

さて、この実験の当時の解釈には、土壌(大地)の元素の保存と水の元素の変換という相衝突する二つの意見が関係していると思われる。
保存と変換の考えは両方ともギリシャ哲学に起源をもっている。
そして、また、それぞれの植物は、土壌から自分に特有の原子だけをとり入れる必要があるという考えもあった。
異なった種類の植物、とくに農業や医療で用いられるものは、きわめて古い時代から認められ、描写され、記載されてきた。略


「光合成の発見」


ここで、近代化学と生化学への発展のための実験的な多くの基礎を用意した人として、ファン・ヘルモントの業績を考察してみるべきだろう。略

光合成の実験的研究の真の起源は、ジョセフ・プリーストリー(Joseph Priestley1733-1804)によるものである。略

プリーストリーの発見は、この問題について、少なくとも三人の独立した研究者に手ほどきを与えたようである。最初の一人は、ヤン・インヘンホウス(Jan Ingenhousz、1730-1799)で、プレーストリーに感謝しながら、その仕事を追求しつづけて成功している。インヘンホウスは光が必要だと確認し、「何かフロギストン化されたもの」が植物でつくり出されることを示したとラビノヴィッチは考えている。
また、ジャン・セネビエ(Jean Senebier、1742-1809)は固定空気の必要性を発見したように思われ、この点はもともとインヘンホウスが否定していたことだった。

その後、ニコラス・テオドル・ド・ソシュール(Nicolas Theodore de Saussur、1767-1845)は、水が関係していることの最初の証拠を得ている。略

 


そこに至って思い出されるのが、植物と動物の融合案、つまり葉緑素を取り込んだ細胞を思いついた女学生の話。今日は光合成日和とデンプンを作れるような人間を夢想しているのだ。


みち草

2013-02-03 09:00:00 | colloidナノ
「ニュートン錬金術手稿の研究現状」   大野誠  「化学史研究」Vol38(2011)pp143-153を抜粋し参考としたい。

はじめに
今では大変よく知られている経済学者ケインズの言葉、『ニュートンは理性の時代に属する最初の人物ではなかった。彼は最後の魔術師であり」は、第二次大戦後のニュートン研究のみなならず、科学史研究全体にも大きな影響を及ぼしてきた。

ケインズのこの理解については今でも賛否両論があるが、重要なのは、サザビーの競売で購入されたニュートン手稿の検討に基づいてこの理解が提起されている点である。

ケインズのこの発言は、ニュートン研究の進め方を大きく変えた。
これ以来、刊行された著作・論文以上に、手稿史料が重視されるようになった。

とりわけ、ニュートンの錬金術研究については、成果の一端が彼の「酸の本性について」や「光学」「疑問31」から窺うことができるにせよ、手稿史料の検討が不可欠となっている。



ニュートンの手稿史料
来歴と現状
1727年にニュートンが他界した後、彼の文書類は、遺族のもとに残された。
彼は生涯独身であったため、妻子はなく、この遺族とは彼が晩年同居していた姪のキャサリン・バートン(Catherine Barton、c.1680-1739)とその夫ジョン・コンデユーイット(John Conduitt、1688-1737)であった。

コンデユーイットはニュートンから造幣局長官の地位も引き継いだ政治家で、ニュートン伝のための史料を収集したことでも知られている。
この夫婦には一人娘のキャサリンがおり、この娘は1740年にリミングトン子爵(Viscount Lymington)の息子(John Walop、1718-49)と結婚した。
リミングトン子爵は1743年にポーツマス伯爵になったので、ニュートンの文書類はこのポーツマス家で代々継承された。

この文書類に転機が訪れたのは1888年であった。
ポーツマス家は所蔵していたニュートンの「科学」関係の文書をケンブリッジ大学に寄贈することにしたからである。
寄贈文書の選定は当時の自然科学者によって行われ、錬金術や神学など「科学以外」のものは引き続きポーツマス家で保管された。
しかし、これらも1936年にはサザビーの競売にかけられ、世界中に分散した。

そのなかで最大のものが、ケインズが私財を投じて収集したものであった。彼は競売後も収集を続け、最終的に収集品をケンブリッジ大学へ寄贈した。

史料のこのような来歴を考えれば、「ニュートン錬金術」という研究分野は、ケインズの発言とともにしか始まることができなかった。比較的新しいものであることがわかる。

というのも、サザビーの競売まで、錬金術手稿は私蔵されており、19世紀中葉に初の本格的なニュートン伝を上梓したブリュースタ(David Brewster、1781-1868)のようにポーツマス家から特別許可を得るということをしなければ、一般の歴史家には史料そのものがりようできなかったからである。



手稿史料の執筆時期
ニュートンの手稿を史料として用いる場合に最初から問題点として浮かび上がり、かつ最後まで完全にはそれが解消しないのは、史料の執筆時期の問題である。
彼の実験ノートや書簡には日付が記されている場合が多いが、ニュートン錬金術手稿のかなりの部分を占めている他の著作・文書からの抜粋や写し、またこれらより量的には少ないと推定される彼自身の作品では、通常、日付は記されていない。
しかし、ニュートンによる錬金術研究は彼の神学研究と同様に、少なくとも30年以上の長期にわたる(断続的ではなく)持続的な活動であり、その活動中に『プリンキピア』と『光学』という主著2冊が刊行されたことを考慮すれば、どの時期にどのような錬金術研究が行われてかを、明らかにすること、したがって、その根拠となる史料の執筆時期を少なくとも推定することは、ニュートンの思想形成過程の解明にとって重要な作業である。



手稿の区分


判断を誤ってしまった実例を一つ紹介しておこう。
ドブズのこの分野での第1作The Foundations of Newton‘s Alchmy(1975、邦訳「ニュートンの錬金術」(1995)にそれが見られる。

彼女はこの著作で「鍵」(Clavis)と題する1670年代後半の文書をニュートン自身の作と判断し、その重要性ゆえに活字に直して全文を著作の付録に掲載し、またこのことを前提として著作全体の結論を書いた。



しかし、この「鍵」は実際にはニュートンの作ではなく、ロバート・ボイルの文書に典拠があり、作者はボイルと親交のあったアメリカの錬金術師ジョージ・スターキ(George Starkey、1627-65)であったことがニューマンから指摘され、ドブスはそれを認めた。



今後の展望



ドブスの第1作は1680年頃までのニュートンの錬金術研究の全容を理解できる優れた成果である。
この作品はニュートンの錬金術研究が孤立して行われたのではなく、ハートリーブ・サークルの人たちと関係を持っていたことを初めて明らかにしたほか、この時期のものと考えられる主要な手稿史料のほとんどを取り上げている。

最も重要な点はそれらを相互に関連付けて、ニュートン錬金術の初期の進展状況を丹念に跡づけていることである。略

ドブスの第2作では、当然のことながら、第1作では扱われなかった1680年代以降の錬金術について解明されることが期待され、ドブス自身も「あとがき」で書いていることからすると、当初はそう計画していた。しかし、実際にはこの計画は変更され、ニュートンの重力研究と錬金術研究の関係に焦点が絞られた。取り上げた史料も、本人が記しているように8点にとどまっている。

1680年以降の全容解明がなされなかった点は、ニュートン錬金術の理解にとっては残念なことであるが、史料操作についていえば、ニュートンの自然哲学、神学研究の領域にも踏み込んだ点を評価すべきである。



ドブスの研究は初期はともかくとして、それ以降については未開拓の点を多数残していると考えられる。
では、中期から後期のうち最も重要な時期は、言い換えると、ニュートン錬金術研究の絶頂期はどこか。

ウェストフォールによれば、それは、『プリンキピア』(1687年)刊行直後の数年間であった。
今後の研究では、この時期に焦点を合わせるのが賢明であろう。




みち草で感じた事であるが、ニュートンの「万有引力、それから斥力研究の『膠学』」、それがわたしのユートピアともいえる。
さて、本題へとかえそうと思う。




みち草

2013-02-02 09:00:00 | colloidナノ
既に触れたところではあるが、ここでも簡単にではあるが、引用させてもらう。

村上陽一郎が、「新しい科学史のみかた」で喚起したかったのは、「科学と言われるものも時代と社会の産物なのです」。

それを具体的に解いてみせた事例の一つをニュートンに見てみよう。

16世紀の半ば、具体的にはコペルニクスの太陽中心主義の提案から、17世紀末、これも具体的にはニュートンの新しい力学の提案に至る一連の過程(それが「科学革命」と呼ばれるわけですが)のなかで、ヨーロッパは初めて、自分たちの独自の、言わば自前の自然解釈を打ち出し、旧いギリシャ・ローマ・イスラムの理論を一つずつ、それらで置き換えていった。

繰り返しますが、コペルニクスの「太陽中心説」は、彼の「神学的哲学」のなかに埋め込まれた理論です。
そこから引き剥がしてきて、「地球が自転し、公転している」というところだけをもってコペルニクス説と言うことはできないのではないでしょうか?

ニュートンの場合も同じです。
いや、すでに見てきたように、そうした全体的な「哲学」体系とは無縁の、単なる天文学の、そのまた一部の太陽系理論だけを独立して論じることができる、という立場は、まさしく一九世紀後半に現れた「科学」のものであって、むしろ私たちは、そうした狭い範囲で自立し、世界観だとか、人間観、あるいは宗教観などとは切り離された知識領域として、「科学」を定義しているのです。→サイエンティスト

「科学革命」の時代とされる16~17世紀を具体的に見ていくと、コペルニクス、フランシス・ベーコン、ガリレオ、ケプラー、デカルト、ニュートンだけが生きていたわけではありません。
例えば、パラケルスス、フィチーノ、アグリッパ、ピーコ・デッラ・ミランドドラ、ジョヴァンニバッテスタ・デッラ・ポルタ、ロバート・フラッド、ジョルダーノ・ブルーノなどという知識人たちが活躍していた時代でもあります。


率直に言ってしまえば、「科学革命論」は、第一グループの人々を過度に私たちの「近代科学」に引き寄せ、第二グループの人々を過度に「非近代的な神秘主義」に押しやっている、そしてその結果が、二つのグループ分けという形になっているにすぎないと申せましょう。
それは歴史を学ぶという意味では好ましくないはずです。


そこで著者からの提案が示されている。

スコラ学の立場からは、それまで「異端的」として排除されてきたさまざまな思想、例えばヘルメス主義、カバラ主義、魔術、象徴主義・・・などが、15世紀後半から、怒涛のようにヨーロッパに流れ込んできました。
スコラ学の持つ、極めて明澄で合理的な性質に飽き足らず、もっと動的で、もっと割り切れない性質の学問を求め始めていた人々が、こうした外来の思想を歓迎し、逆にその流入に手を貸すという事態が生まれました。

コペルニクスもケプラーも、あるいはガリレオやニュートンでさえ、そうした人々のなかに数えられていよいと思います。
先ほど分類た第一グループに属する人々も、第二グループに属する人々も、等しく同じ傾向をもつ思想を持っていたのです。

それが通常言われる「ルネサンス」の正体だったのです。

しかも、この場合でも、スコラ学と同様、キリスト教の信仰体系が基礎にあり、最終目標にもあるという点は変わりありませんでした。
その意味では、この時期の「哲学者」たちは、「近代」に連続する人々というよりは、12世紀ルネサンス以降の伝統により強く繋がれていると言うことができましょう。
したがって12世紀から17世紀までの600年間を、ヨーロッパの人々がキリスト教と外来思想とを融合させる哲学体系を創造しようとする努力を積み重ねた時代として規定することができるのでは、と考えています。それを私は「大ルネサンス」と呼びたいと思うのです。
「新しい科学史の見方」NHK人間大学




付箋
Sir Isaac Newtonニュートン(1642-1727)世界の終末を予言した直筆文書(ヘブライ大図書館)
旧約聖書のダニエル書から、2060年その世界の終わりがくるかもしれないが・・・

しんかがく 99

2012-10-26 09:00:00 | colloidナノ
                よるべきは「生化学史」


第5章「細胞内呼吸」-「細胞内燃焼としての呼吸」

 動物代謝に関するリービッヒ学説で筋の酸化的分解は重要な位置を占めており、筋収縮に伴う化学変化と熱発生はヘルムホルツによって示されていた。
1850年にリービッヒの息子ゲオルク・リービッヒは、カエルの筋肉が酸素の中では他の気体の中に比べて長い間収縮すること、および無酸素状態では収縮しないようになってからも二酸化炭素が放出されることを示す研究を発表した。
 彼は次のように書いている。
「血液は呼吸過程では気体を毛細管に運び、そこからもどす役割しか実際には果たしておらず、毛細管で炭素の生成が起きたのではなく、血管壁を通してすでにつくられている炭酸と血液の酸素との交換が起きるのみである。・・・呼吸酸素の一部からの炭酸の生成は毛細管の内部ではなく、その外側の筋組織において起きる。」


これらの観察を背景として、1861年にトラウベは、呼吸による酸化の主要な部位が血液であるという考えおよび筋収縮のエネルギーはすべて蛋白質の分解によるとするJ・リービッヒの学説に反対した。略

「遊離した酸素は溶けた形で毛細管を通り、まず筋線維とゆるく結合し、これに続いて筋液中に溶けている他の物質に移り、筋線維はこのようにして新しい酸素を取り込むことができるようになる。」

この仮説はトラウベが1858年に押し進めた酵素作用についての学説の応用であった。この学説で発酵素は分子状態の酸素を適当な還元物質に転移させる触媒として作用するものであった。

「このように筋線維は一方では還元物質に作用し、他方では酸素と作用する。これはちょうどインジゴやインジゴスルホン酸と同じようにである」すぐ後で述べるようにトラウベの酸素活性化理論は実り多いものであった。
生体酸化の部位についてトラウベは次のように書いている。「動物体のすべての臓器が動脈血を必要とすることは、血液だけでなくすべての臓器が呼吸することを示している。・・・
したがってわれわれが呼吸と呼ぶ現象はきわめて複雑な過程である。呼吸とは栄養のためまたは保持のためにもせよそれぞれの臓器の酸素消費の総和である。略

しかし、酸化過程の起きるそれらの装置の特有な構造や化学組成の結果であり、したがってこれらの力は、熱の形ではなくそれぞれに特有なまだ知られていない生命機能の形として出現する。」

トラウベは1858~1886年に、細胞内酵素によって起きる分子状酸素の活性化に基づく生体酸化学説を提唱していた。(⇒人工細胞1867年)

生体酸化の問題に、シェーンバインはオゾンの化学的研究から近づいたのに対し、トラウベはリービッヒが定式化した発酵の化学学説から近づいた。
「発酵現象の真の原因は次のよううな議論の余地のない原則に基づいている。これらの一部は正確な実験によるものであり、一部は既知の事実に基づくものである。略


これらの発酵素はすべてこれらの方法のどれかによって取り込んだ酸素を他の物質に転移することができる。すなわち、これらの物質によって還元され、新しい酸素を取り込み、これを再び転移することができる。このようにすべての発酵素は、他の物質に遊離酸素または結合酸素を無限に転移することが可能であり、発酵または遅い燃焼を起こさせることができる。」

トラウベは当時の権威と多くの論争を避けないできたこともよく知られている。あのパスツールに挑戦したのは1874年で、酵母の増殖と発酵は酸素が存在しないでも起こる等が有名であるが、ここではホッペ=ザイラーが、トラウベの発酵学説に似た学説を提出した。

「腐敗液で起きるすべての還元は発生期の水素による2次的過程である」その論文でトラウベを引用せずに出された時の応酬の要点は

①発酵素は、リービッヒが考えたものとは異なり、不活性の普通の物質にその化学作用を伝達させる分解状態にある物質ではなく、アルブミノイドと似た化学物質である。・・
②パストールが後になって受け入れたシュワンの仮説、すなわち発酵は下等生物の生命力の発現であるとする考えは不充分である。逆に発酵素は大部分の重要な生物的化学的過程の原因である。

トラウベとホッペ=ザイラーの2人は発酵過程が化学課程であることでは一致していたが、トラウベは分子酸素の活性化を強調し、ホッペ=ザイラーは水に由来する水素の役割を強調していたのだ。それへの回答ともなっている。



1882~1886年の一連の重要な論文でトラウベは過酸化水素の化学式がHO-OHであることを示し、有機物の酸化に際して過酸化水素がつくられるのは、水の酸化によるものでなく、水素原子が酸素原子に添加されるのであることを示すデータを提出した。さらに自動酸化においては酸素分子が分割して原子状酸素がつくられるのではなく、分子状酸素が有機物質にゆるく結合して“ホロキサイド”と名づけたものになると考えた。

医学生理学者に比べると、植物学者たちはシェーンバインやトラウベの考えを受け入れる傾向があった。
これは細胞内の酸素運搬体とみなされたグアヤックやインジゴが植物から取り出されたことによるのであろう。特にライケン(1883)はトラウベの見解を熱心に支持し、生体酸化は特定の有機物質の自動酸化による過酸化水素の生成に依存するとし、Hydrogen peroxide過酸化水素は代謝される種々の物質を細胞内酵素の存在のもとで酸化すると提唱した。



最初のはっきりした酸化酵素が植物から得られたのは1883年。
吉田は日本産ウルシの樹液から黒化および固形化を促進するジアスターゼを調整したと報告した。
直ちにインドネシア産のウルシの樹液を研究していたベルトランG・Bertrandは酸化される基質がラコールであったのでラッカーゼ酵素等を総称して、オキシターゼと命名することとなる。





⇒日本の化学のはじまり ―人と風土―大阪大学名誉教授 芝 哲夫(数研出版)
明治11 年(1 8 7 8)に東京大学理学部化学科の卒業生と在学生あわせて24 名で現在の日本化学会の前身に当たる化学会が創立された。その創立会員の中から,漆の硬化は酸素添加酵素による酸化作用であることを報告した吉田彦六郎,日露戦争の海戦でわが海軍の勝利の遠因となった強力な下瀬火薬を発明した下瀬雅允(しもせまさちか),ベックマン転位反応の機構を提出した久原躬弦が輩出するに至る。



 

独立行政法人国立病院機構村山医療センター2012年10月1日
呼吸リズムの仕組みを解明  ― リズムの起源は神経回路ではなく、なんとグリア細胞だった! ―


用語解説

注2)アストロサイト: グリア細胞の一種で、星状膠細胞(せいじょうこうさいぼう)とも呼ばれる細胞。多数の密な細い突起を持ち、その突起がニューロンとニューロンの間のシナプスと呼ばれる情報伝達の場所を被っており、アストロサイトがシナプスでの情報伝達を積極的に調節していることが明らかにされつつある。
注3)グリア細胞: 神経膠細胞(しんけいこうさいぼう)とも呼ばれる神経系を構成する細胞であるが、神経細胞(ニューロン)と異なって活動に伴って活動電位と呼ばれる電気信号を出さないため、その活動は電気生理学的には計測が困難であった。グリア細胞は、最近まで、ニューロン周囲の細胞外環境を維持する程度の役割しか演じていないと考えられていた。しかし、最近、グリア細胞は、ニューロンとともに脳の様々な情報処理過程において能動的な役割を果たしていることが明らかにされつつある。


⇒思い出されることは立花太郎等の著書「コロイド化学」、その最終章「Liesegang phenomenonリーゼガング現象とdissipative structure散逸構造」妹尾學
Prigogineは動的状態においても秩序形成(1971)、動的非平衡状態において形成される秩序構造を散逸構造と呼んだ。著者の結語は「コロイド科学の真の目的は物質系の動的秩序構造の追求にあったのではないかと思えてくる。」




長谷川美沙 シューマン/クライスレリアーナ 第1曲,Op.16/演奏:佐藤展子余韻が宿るグリア細胞?!










しんかがく 98

2012-10-25 09:00:00 | colloidナノ
拡散から浸透へと移行するかのような、もう一つのコロイド史はTraube Moritzを軸とするに違いないと見当を付けては見たが、依るべき史料は決して多くはない。
ここでは『生化学史』フルートンを紐解いてみる。

この本は生物現象を化学的に解明しようと科学活動のパターンを織っている糸をたぐるのを目的とし、・・・


第3章 「蛋白質の本態」その「コロイドから巨大分子へ」
1861年にグラアムは透析器と名づける器具について記載した。・・・
この透析器はデユトロシェDutrochetが浸透圧の研究に用いた「浸透圧計」からジャーの細い口にある長い管を除いたものにほかならない。
天然膜を通過する輸送は1748年にノレNolletがはっきりと記載した後に数多くの報告があり、19世紀には浸透現象は植物生理学者によってさかんに研究された。ルートウィヒのように動物生理学者はさらに膜通過の拡散速度に興味を持ち、フィックは1855年に拡散の一般式を導入した。

グレアムは次のように書いた。略

1867年にトラウベがフェリシアン銅のような人工半透膜を開発したのに伴い浸透圧の定量的研究が特に植物生理学者ベッファーによって行われた。ベッファーのデータは1887年に著書「浸透の研究」に集大成された。略


序論へと戻す。

ここに無造作に回避すべきでないものとして教育の問題がある。
19世紀の最初の数十年における化学と生物学の重要な成果は科学教育の大きな変化と併行していたからである。科学の専門化および科学者のあいだの新しい社会関係の出現がこれに続いている。略

ヒューエルWhewellが1840年に「科学者サイエンテイスト」の名称を導入したときに、このような過程はドイツの大学ですでにかなり進行していた。


18世紀の化学教育は現在と大きく違っていた。
化学は18世紀の大学において医学教育の一部であり、医学教育の他の課目は内科の理論と臨床、医学原理(生理学)、解剖学および植物学であった。略

18世紀の医師は化学実験を行なう必要はなく、実験は薬剤師の仕事であった。
薬剤師は化学的技術を徒弟および化学を気晴らしとする富裕なアマチュアに伝えた。
このような教育の中心はパリであり、ルエルRouelle、その弟マルタンMartin、およびマケMacquetは、ラヴォアジェらに化学を教えていた。


ここで擽られた記憶をなぞっておこう。

「貸借対照表方式と会計学の精神」-ラヴォアジェの特徴-

 ラヴォアジェの処女作「物理学・化学小論」の匿名の書評の中にはっきりと現れている。略
『ラヴォアジェ氏は化学に実験物理学の方法や器具だけでなく、実験物理学の特徴である正確さと計算の精神を当てはめた。われわれの知識の二つの分野である化学と実験物理学の結合はまもなく達成されると思われる。そうなれば、二つの分野にとって進歩をもたらす新時代が到来することだろう」

 1764年、ラヴォアジェは21歳のときにすでに、ノレ師Jean Antoine Nollet(1700-1770)の方法論的原理を組み入れた化学教程の草案を書いている。
ノレは、正確な計器を使用すれば実験物理学において分析的定量化が可能となり、正確な定量化はこの学問を数学的厳密さへと導いてくれる、と述べている。
 このアプローチの核心は、化学反応の間中、物質の重さは一定を保つという方程式を頭の中で描きながら用いた、貸借対照方式であった。


 ラヴォアジェは、「アルコール発酵についての論文」で次のように述べている。
「使用する物質の重量は実験の前後で同一であり、そこにあるのは単なる変化や変形だけだと考えるべきだ。私は頭の中である方程式を組み立てた。その方程式では、操作の前に存在している物質を左辺に、この操作後で得られた物質を右辺に置いた。実際にこの方程式を解くことによってはじめて、私はうまい結果を得られたのであった」略

 なぜラヴォアジェは、1789年になるまで、質量保存の法則を公式化し、化学反応を方程式によって示すことをしなかったのだろう。
多分彼にとっては、この法則はだれにとても自明の原理であったので、わざわざ述べる必要はないと考えていたのだろう。
 それなのに「化学原論」でこれを原理として明確に述べたのは、この本が初心者のための基本的な教科書として書かれたものだからである。略

 別の例は「化学原論」のワインの発酵に関する章に見られる。略

 もう一つの例は「化学原論」の、アルコール発酵に関する章にある。略

 人間の生理学に関するラヴォアジェの最初の研究の中で、彼は人体における栄養素とエネルギー代謝について、再び貸借対照表的観点から論じている。略


 したがって、我々は、ラヴォアジェが貸借対照表方式を会計の訓練で学んだのではないという事実を受け入れなければならない。
また、彼はそれを、ベルナール・ドウ・ジュシューBernard de Jussieu;1699-1777の植物学の講義からも、鉱物学者のジャン・エチエンヌ・ゲタールJean-Etienne Guettard;1715-1786やルーエルGuillaume Francois Rouelle;1703-1770やラ・プランシュLouis C.de La Planche;生没年代不明の化学の過程からも、ジョゼフ・ブラックからも学ばなかった。

 最も受け入れやすい仮説は、ラヴォアジェが、次に述べる2人の教師から学んだというものである。
彼自身がその2人の名前を挙げている。それはニコラ・ルイ・ドウ・ラ・カイユ師Abbe Nicolas Louis Caille;1713-1762とノレ師である。略 

 『化学史研究』37巻 3号 2010年 ジャン・ピエール・ポワリエ 川島慶子訳。
同誌には、「ピーター・ラビットの光と影」-19世紀イギリス博物学界のジェンダー問題- 川島慶子が、掲載されているのだが、川島が「ラヴォアジェ夫人研究の変遷に見るジェンダー問題」を投稿していたのを思い出した。
 とは言っても思い出されたのは“個人的なことは政治的である”という第2波フェミニズムのスローガン、それだけである。

 

 本誌へと戻す。
同誌には「ラヴォアジェによる定量実験・・・天秤で精密に計った実験?」吉田晃が投稿されている、その結語を引用しておく。

 「発酵の原材料と発酵後の生成物とを代数の等式のように見なすことができる。この等式における未確定の各原素elementを順に仮定していくことにより、そこから数値を導き出すことができ、かように実験を計算により修正することができるし、また計算を実験によって修正することができる。」


 注目したのは、同誌の「Justus von Liebig生誕200年に寄せて」-リービッヒ「化学書簡」Chemische Briefe 渡邊慶昭

 書簡17から21 生物的事象である発酵、腐敗そして分解を化学的メカニズムで説明しようとした。
生理的事象に関しては1842年出版の「動物化学」でも記述されているがさらにその範囲を呼吸、栄養へと進めていった。そおほか地球や元素、生命の起源、人間の感覚についても触れている。
 発酵に関してリービッヒは化学的動力学Dynamikの立場に終始した、この見解がルイ・パストウールLouis Pasteur;1822-1895との論争のもとになった。

 リービッヒは発酵における酵母の作用を否定し、酵母は活性力を持たず、無生物であるばかりでなく、発酵の際に排泄される沈殿物Sedimentに他ならないと主張した。
この化学的動力学論はパスツールとの間で論争を引き起こした。
 しかし酵母は細菌の一種でその代謝により酵素を産生し発酵を促進することが分かり、リービッヒの誤りは明らかとなった。(→トラウベ→ブフナー1898「無細胞的発酵」)




 リービッヒが生理学で述べている事柄は多分にスペキュレーション(憶説)に基づくもので、彼の理論はほとんど全て反論されている。にもかかわらず彼は自分の考えで化学を生理学や臨床医学の分野に取り込もうと努力した。
そして多くの研究者による独自の研究へと鼓舞した。略




⇒注記㉗には、2人をむすぶ流れを汲み取れる。
18世紀末ラヴォアジェによって築かれた見解に基づけば呼吸は体内での燃焼過程の重要な働きであり、食物から摂取された炭化水素が酸化して最終的には二酸化炭素として呼吸から排泄される。この過程において発生した熱が動物や人の体温を維持するとリービッヒは解釈していたことがわかる。




備忘事項;1898年には糸球体つまりミトコンドリアが発見されたとされている。(C.Benda)その小史には興味深いものがあるけれど、その一つが低浸透圧かでの膨大現象の発見1888年である。さらに付け加えれば化学浸透説であろうか。1966年のことであった。Peter Dennis Mitchellピーター・ミッチェルの卓見はノーベル賞をもって称えられた。







 






しんかがく 97

2012-10-24 09:00:00 | colloidナノ
 1867年4月24日 ハラタマ〔蘭〕長崎精得館から江戸の開成所に招かれて着任(蕃書調所設立以来最初の外人教師)した同じ年に 、トラウベ〔独〕が人工半透膜で浸透圧を発見した。





Moritz Traubeトラウベ・モリッツって?

 ドイツの化学者。
トラウベはベルリン大学とギーセン大学に学び、ギーセンではリービッヒのもとで発酵現象を研究した。
 兄二人が相次いで死去したので化学の研究をやめて家業のワイン製造業にいそしむこととなったが、プレスラウ大学に出入りして自分の研究を継続し、多忙にもかかわらず生涯に50編以上もの論文を残した。

 リービッヒの門下ではあったが、トラウベはパスツールとリービッヒの間に行われた発酵現象の解釈についての論争において、恩師とは必ずしも同一の見解をとらなかった。

 彼は酵母菌から得られる「非生物的発酵」によって発酵が起こることを示した。
トラウベは何とかしてこれを単離しようとしたが、どうしても成功しなかった。
 これこそ後に酵素enzymeと呼ばれるようになったものである。

 トラウベはまた浸透現象についても研究しさまざまな半透膜を発見したり合成したりした。
これは生体細胞のモデルとなるものであった。→「科学者人名事典」丸善



高校生物実験 トラウベの人工細胞  半透膜と浸透圧の実験


 ここで併せて記しておかなくてはならないことは少なくないが・・・例えばマルクスとかダーウィン更にはビスマルクなどとの交流関係等を今回は割愛する。

さて、その半ばは、その兄によって導かれたとも言える。

Ludwig Traubeトラウベ・ルードヴィッヒ

Ludwig Traube was the elder brother of Moritz Traube, who was an extraordinary private scholar and a pioneer of physiological chemistry.

 兄であるルードヴィッヒは、ドイツ実験病理学の創設者の一人である。
臨床問題解決に動物実験を行った。
 診断のために聴診、打診および体温計を用いた。高血圧症、心臓、腎臓疾患に優れた業績を残した。

 彼の忠告を受けてベルリン大学では実験化学・物理学・鉱物学等を受講した。さらにギーセンのリービッヒのもとでは分析コース。
その他に植物学、論理学、地理学、生理学、薬理学、比較解剖学、臨床などをも学んだ。
 もう一人の兄Hansにも支援を受けた。(無細胞抽出物)

 尚息子のWilhelm Traubeトラウベ・ウィルヘルム、Hermann Traubeトラウベ・ヘルマンがいる。


トラウベの生涯は4期に分けて記されている。

①~1848  ベルリン大学のPh.D
②~1866  家業。プレスラウ大学にて研究-1858「腐朽発酵素」等
③~1891  研究。(人工半透膜1867等)
④~1894  闘病(糖尿など)


 兄を糖尿病で失った結果、その研究によって食事療法などを提言したのだが、自らも晩年にはそれを患うこととなった。


 なお日本が蘭学などを捨て、ドイツ医学へと転換したのは1875年、相良、岩佐が答申したことによる。
1876年東京大学医学部は東京医学校から改名され新たに出発した。

 1867年のトラウベの業績が紹介されたのは「実験医学雑誌」16巻(1922)② pp97-117『医学上必要ナル膠質化学ニ就テ』医学博士 河本禎助

⑤濾過性  ・・・1867年Morit Traube氏膠質リポイド・・・膀胱は時に小穴ありて・・・考案にて無機物は硫酸銅云々・・種々の動物膜又は魚の浮袋、牛・豚の膀胱、牛腸、硫酸紙等・・・

 その当時彼は、篩説あるいは孔隙説を想定していたが、細胞膜に於いては分子量の大きなある種の有機物を通しても分子量の小さな無機塩類を通さないという事実を知っていた。

その後溶解説とか吸着説などが現れてきた。→「皮膚通電抵抗の基本」中谷義雄

 ここでは、細胞が興奮しないときはゲルの性状を多分に帯びているが、それが興奮してくるとゾルの性状を帯びるようになるのではないかとその関係性を推量している。


 立花太郎の著書から「C 浸透現象と19世紀の溶液論」を引用しておこう。

 Grahamの論文(1861)は浸透現象osmosisの考察によって締めくくられている。
拡散と透析の研究から浸透への関心に導かれてゆくのは自然のことであろう。
 Grahamは浸透現象の動的な面に注意を集中していなかったので浸透圧という平衡論的な性質に関しては関心を示さなかった。
浸透現象への関心はやがて他の化学者に受け継がれた。Grahamの論文が出て間もなくTraubeは1867年、人工半透膜(フェロシアン化銅)の調整に成功した。



 

しんかがく 96

2012-10-23 09:00:00 | colloidナノ
再々度、北原文雄「グレアムのコロイドとその系譜」へと戻る。

3 「グレアムの後継者たち」の最終節は、3.3 「ピクトン・リンダーの研究----もう一つの系譜の可能性?」その後半部分を記しておく。



 関連して、蛋白質化学者であったタンフォードがコロイド化学をどう見たかを記しておきたい。
彼は論文中に、“コロイド化学の興隆”という節を設け、グレアムからWo.オストワルドの活動初期までのコロイド化学小史を草している。
この中でコロイド化学に対して、時にはきびしい見方も覗かせている。
 彼はこんなことも記している。;「ピクトンらの言うように、コロイドとクリスタロイドの間にははっきりした境界は存在しない、もしも、(彼らの研究の)10年後にコロイドの分野に入ってきたオストワルトの熱心な“コロイドは別である”という唱導がなかったら、コロイド化学は論争(おそらく巨大分子論争のこと---筆者)のない、もっと楽しい方向へ進んだことであろう」

 しかしながら、コロイド化学に対するタンフォードの真意はこの論文の最後にある短い結語の中に示されている。

 彼はこういったのであった。
「この論文で言いたかったもっとも大事なことは次の事である。蛋白質化学者はコロイド化学者が熱意を持って提示した多くの事柄を完全に無視してきたことがしばしばである。しかしながら、コロイド化学は蛋白質化学に大いに貢献してきたことを忘れてはならない。恐らく予期していなかったこの両者間の交流は、はるかグレアムまでさかのぼるのである。
 透析が無かったら蛋白質化学はいずこへいったであろうか?」


 翻って、これと呼応する記述をさぐるべく、読み直してみた。

 それを匂わせているのが、「グレアムがコロイドの例としてあげた澱粉、ゴム、アルブミンなど生体系物質は19世紀後半では、化学的に複雑な物質としてコロイド化学者たちから敬遠されて、生理化学、農芸化学の分野でよく取り上げられるようになっていったことが注目される。」


 ここで思い起こされるのは「液晶研究の初期とその背景および現代化学への寄与」(「化学史研究」 19巻1-13 立花太郎)

② 「液晶の発見」
Friedrich Richard Reinitzer ライニッツアーはコレステロールの醋酸および安息香酸エステルの結晶を加熱するとき、見かけ上“二つの融点”を示すことを発見した。
 低い方の融点では結晶は白濁した複屈折性の流動体に変化し、そのものは高い方の融点で透明な等方性の液体に融解した。二つの融点の間に生じた上記の流動体が後日液晶とよばれるようになる。
 この流動体が後日液晶とよばれるようになる。
この流動体は2枚のガラス板に挟んで薄層にすると色光を反射するのが見られた(この現象は不斉分子からなる液晶に特有な現象であることが後にわかる)。

 ライニッツアーは問題の試料を当時アーヘンにいた結晶物理学者レーマンOtto Lehmann1855-1932に送ってさらに詳細な調査を委託した。その結果は早くも1889年に「流動性結晶について」と題して「物理化学誌」に報告された。

 レーマンの見解によれば“流動性結晶”は146℃以上で柔らかくなるヨウ化銀の結晶と同類の、結晶の一つの態種modificationであるという。この見解が液晶研究の導火線となった。

 それから20年を経てライニッツアーとレーマンはそれぞれ液晶の歴史についての論文を書いて液晶発見の先取権を主張した。
今日からみれば前者は液晶現象の発見者、後者は液晶という物質状態の存在の提唱者と位置づけることができる。

 他方『液晶の歴史』(デイヴィッド・デンマ-//テイム・スラッキン著 鳥山和久訳)では...液晶の物語は、植物学者、化学者、物理学者、鉱物学者、そして数学者が登場して始まる。
彼らはおもにヨーロッパ人で、歴史の動乱時代、戦争(第1次世界大戦と第2次世界大戦)と革命(共産主義の誕生とファッシズムの台頭)のなかで自分の関心を追いつづけた。それら歴史上の大事件は、わが科学者たちに犠牲を強いた。(フシェヴァロート・コンスタンテイノヴィッチ・フレデリクスは業績を残したがスターリンの収容所で死んだ)。
 だがそれらの大事件も、科学者たちの知識を前進させようとする熱情や決意を止めることはできなかった。
 

 そのほかの物理系の科学と同じように、液晶もまた、基礎科学と応用科学の戦後の急発展のおかげをこうむっている。
基礎科学の成果は、液晶にかかわった科学者の一人(ピエール・ジル・ド・ジャンヌ)のノーベル賞授賞となり、応用科学は、数十億ドル市場のデイスプレイ産業を誕生させ、液晶物語の他の立役者たちは名声と富を得た。

 液晶の歴史への、著者2人の興味の起源は、著者の1人スラッキンが2000年3月、サウザンプトン大学応用数理物理学科での教授就任祝いの開講講義に求められる。
この講義の表題「考える液体---不可思議から技術にいたる液晶の物語」は、大学の教養科目むけの、液晶科学誕生についての総説だ。
 とくに目的としたのは、ニンジンから抽出された不思議な試料をライニッツアーが観察した始まりから、数十億ドルのデイスプレイ産業への発展までを示すことだったが、もう一つの目的は、かかわった科学者の人間像を探求することだった。

 見逃されていた,もう1つのコロイド史の、これはその一つでしかなかった。
しかし既にカウントダウンは始まっている。