「酵素の本性」
酵素の本性は長い間あいまいなままであった。
1877年にトラウベ(M.Traube、1826-94)は、発酵、細胞酸化、腐敗なども含めた酵素作用の一般理論、つまり、酵素はタンパク質に類縁の物質で、高等な生物でも下等な生物でも、生命に必要なすべての化学反応の原因となるもので、それでいて酵素自体は変化をうけないでいるものであると提唱した。
この主題の歴史の中で、この正しい意見が、これほど初期に提案されたことは興味深いが、酵素がタンパク質性であることについてはほとんど証拠がなく、トラウベの思いつきは、その後半世紀の間は容認されなかった。
多数の酵素が純粋な状態で得られるまでは、それ以上進歩といえるものが起こることは不可能であった。略
動物の酵素についての真剣な企ては、おそらく、1924-8年のわれわれ自身によるキサンチン・オキシダーゼの部分的精製であった。
現在から考えると、われわれの最善の試料は、約3分の1の純度で、当時としてはかなり高い程度の精製であるように思われる。
この種の研究は、当時、はげしい反対と批判にさらされた。
この研究は「非生理的で」あり、調整された試料は破損した細胞から生じた産物で、無傷の細胞についての研究だけが意味があるものだと言われた。精製した試料は、「生きている細胞とはまったく違う挙動を示す沈殿」とされた。
今日、重点の置き方が全く逆になって、結晶化された純粋な酵素について研究することが、何か身分を象徴するものであるかのようになった。
略
タンパク質は、きわめて複雑な構造をもつものである。
平均的な酵素は、10万程度の分子量で、構造を決定する目的で特別の方法が開発されるまでは、分子の主要な構造を決定するために何もすることができず、この方法はごく最近になってやっと出現した。
しかしながら一方、触媒としての活性に影響がある二種類の観察事実、つまり作用の特異性と化学的な試薬による直接的な手段から、活性中心の構造についていくつかの推論を下すことができた。
19世紀の終わり近くになって、エミル・フィッシャー(Emil Fischer、1852-1919)は、炭水化物とタンパク質の構造についての知識を大きく進展させたが、これらの物質の多くは、いろいろの酵素の基質である。
これらの結果、いくつかの酵素について、その作用の範囲、つまり「特異性(specificity)」、とくにサッカラーゼ型のもののそれを研究できたのである。
彼は純粋な酵素を用いて研究することはできなかったのでが、酵素はそれに独自の特定の基質に対して、きわめて高度の特異性を具えていることを明らかにした。
このことから、1894年に、ある酵素が作用する基質とこの酵素は、鍵と鍵穴のようにお互いにぴったり合うようにできているという考えを述べた。
その後、この考えは、彼には予想もできなかった程度で正しいことが示された。
化学的な構造だけではなく、基質分子の形態も重要である。
これらの観察事実は、基質と構造的によく似た物質についての研究で、いちじるしく拡大された。
これらの物質の多くは、基質ときわめてよく似ているで、酵素による反応は起こらないが、酵素の活性中心と結合できることがある。
その場合、これらの物質は、基質が活性中心に接近するのを妨げることで、その酵素の基質に対する作用を阻害し、そしてその結果、基質とこの活性中心を奪いあって競いあうもので、これらは「拮抗的阻害剤」と呼ばれている。
これらの物質の構造に対する化学的な修飾が活性中心への親和性に及ぼす影響を決定することで、どの原子団がその結合に関係しているかを考えて、対応する結合部位の活性中心のほうの構造を推論できることが多い。
タンパク質中の特定の残基に特異的に作用する化学試薬がいくつか利用できるが、問題にしている酵素の活性中心にそのような残基があると、この試薬で酵素は失活されてしまう。
このような試薬の中でもっともよく知られているものは、チオール(SH)基に作用するもので、この試薬を利用して多くの(しかし決してすべてではない)酵素の活性はこの残基に依存していることが示されてきた。
大多数の場合、酵素の活性中心は、特別の成分を何も含んでいないで、単に基質の分子に適合した形にアミノ酸残基の配置があるだけである。
しかし、他の多くの場合、通常のタンパク質には見られないような他の物質、つまり、フラビン、ピリドキサル、ヘムなどが活性中心に含まれている。
また、活性中心に金属イオンを含む酵素も少なくない。
このようにして、タンパク質の化学構造が決定できるようになる以前でさえ、活性中心の構造についてある程度のことが見出されてきていた。
酵素全体の分子の化学構造を完全に決定するのは、きわめて困難なことで、ごく最近になってやっと達成できたのだが、それも、リボヌクレアーゼ、キモトリプシン、リゾチームなどのごく少数の酵素で果たされただけである。
そのためには、ケンブリッジのサンガー(Sanger、1952)が発展させた、ポリペプチド鎖上のいろいろのアミノ酸の配列の順序を決定するための方法を忍耐強く利用する必要がある。
しかし、これでも不十分である。化学構造自体では、酵素の触媒としての性質の理由を明らかにすることができない。
そのためには、ポリペプチド鎖が、基質に適合して活性化するよにと、原子団が正しく配置した活性中心をつくり出すのに、分子内でどのように折れ曲がっているかを決定する必要がある。
これは、X線回折によってはじめて達成できることで、ただ一つの酵素、リゾチームについてだけ解析がすんでいる。
1966年にフィリップスその他(Phillips et al、1966)は、Lysozymeリゾチーム分子の完全な三次元構造をつくり上げ、活性中心の構造と気質分子との結合の起こり方を正確に示し、触媒として働く原因へのヒントを与えた。
これは酵素化学の発展のうえで真に重大な一里塚である。
参考記事
リゾチームの研究を楽しんで42年 井本泰治
「YAKUGAKU ZASSHI 123(6) 377―386 (2003) 驂 2003 The Pharmaceutical Society of Japan」
筆者はPhillips 博士と共著でThe Enzyme に1972 年までのリゾチーム研究の成果を総説した.1)
変性タンパク質は疎水面が表面に露出しており,そのため会合して沈殿しやすく,タンパク質の再生はアグリゲーションとの戦いである.
最もよく使われるのは無限大希釈で会合を抑える方法である.
しかしこれはあまり効率的方法ではない.そこで高濃度で再生するために,再生タンパク質の総電荷を多くして,可溶化,反発により会合を抑えたり,17) 安定化,可溶化のための添加剤を種々検討した.18)
ここで偶然が顔を出した.・・・・・・
酵素の本性は長い間あいまいなままであった。
1877年にトラウベ(M.Traube、1826-94)は、発酵、細胞酸化、腐敗なども含めた酵素作用の一般理論、つまり、酵素はタンパク質に類縁の物質で、高等な生物でも下等な生物でも、生命に必要なすべての化学反応の原因となるもので、それでいて酵素自体は変化をうけないでいるものであると提唱した。
この主題の歴史の中で、この正しい意見が、これほど初期に提案されたことは興味深いが、酵素がタンパク質性であることについてはほとんど証拠がなく、トラウベの思いつきは、その後半世紀の間は容認されなかった。
多数の酵素が純粋な状態で得られるまでは、それ以上進歩といえるものが起こることは不可能であった。略
動物の酵素についての真剣な企ては、おそらく、1924-8年のわれわれ自身によるキサンチン・オキシダーゼの部分的精製であった。
現在から考えると、われわれの最善の試料は、約3分の1の純度で、当時としてはかなり高い程度の精製であるように思われる。
この種の研究は、当時、はげしい反対と批判にさらされた。
この研究は「非生理的で」あり、調整された試料は破損した細胞から生じた産物で、無傷の細胞についての研究だけが意味があるものだと言われた。精製した試料は、「生きている細胞とはまったく違う挙動を示す沈殿」とされた。
今日、重点の置き方が全く逆になって、結晶化された純粋な酵素について研究することが、何か身分を象徴するものであるかのようになった。
略
タンパク質は、きわめて複雑な構造をもつものである。
平均的な酵素は、10万程度の分子量で、構造を決定する目的で特別の方法が開発されるまでは、分子の主要な構造を決定するために何もすることができず、この方法はごく最近になってやっと出現した。
しかしながら一方、触媒としての活性に影響がある二種類の観察事実、つまり作用の特異性と化学的な試薬による直接的な手段から、活性中心の構造についていくつかの推論を下すことができた。
19世紀の終わり近くになって、エミル・フィッシャー(Emil Fischer、1852-1919)は、炭水化物とタンパク質の構造についての知識を大きく進展させたが、これらの物質の多くは、いろいろの酵素の基質である。
これらの結果、いくつかの酵素について、その作用の範囲、つまり「特異性(specificity)」、とくにサッカラーゼ型のもののそれを研究できたのである。
彼は純粋な酵素を用いて研究することはできなかったのでが、酵素はそれに独自の特定の基質に対して、きわめて高度の特異性を具えていることを明らかにした。
このことから、1894年に、ある酵素が作用する基質とこの酵素は、鍵と鍵穴のようにお互いにぴったり合うようにできているという考えを述べた。
その後、この考えは、彼には予想もできなかった程度で正しいことが示された。
化学的な構造だけではなく、基質分子の形態も重要である。
これらの観察事実は、基質と構造的によく似た物質についての研究で、いちじるしく拡大された。
これらの物質の多くは、基質ときわめてよく似ているで、酵素による反応は起こらないが、酵素の活性中心と結合できることがある。
その場合、これらの物質は、基質が活性中心に接近するのを妨げることで、その酵素の基質に対する作用を阻害し、そしてその結果、基質とこの活性中心を奪いあって競いあうもので、これらは「拮抗的阻害剤」と呼ばれている。
これらの物質の構造に対する化学的な修飾が活性中心への親和性に及ぼす影響を決定することで、どの原子団がその結合に関係しているかを考えて、対応する結合部位の活性中心のほうの構造を推論できることが多い。
タンパク質中の特定の残基に特異的に作用する化学試薬がいくつか利用できるが、問題にしている酵素の活性中心にそのような残基があると、この試薬で酵素は失活されてしまう。
このような試薬の中でもっともよく知られているものは、チオール(SH)基に作用するもので、この試薬を利用して多くの(しかし決してすべてではない)酵素の活性はこの残基に依存していることが示されてきた。
大多数の場合、酵素の活性中心は、特別の成分を何も含んでいないで、単に基質の分子に適合した形にアミノ酸残基の配置があるだけである。
しかし、他の多くの場合、通常のタンパク質には見られないような他の物質、つまり、フラビン、ピリドキサル、ヘムなどが活性中心に含まれている。
また、活性中心に金属イオンを含む酵素も少なくない。
このようにして、タンパク質の化学構造が決定できるようになる以前でさえ、活性中心の構造についてある程度のことが見出されてきていた。
酵素全体の分子の化学構造を完全に決定するのは、きわめて困難なことで、ごく最近になってやっと達成できたのだが、それも、リボヌクレアーゼ、キモトリプシン、リゾチームなどのごく少数の酵素で果たされただけである。
そのためには、ケンブリッジのサンガー(Sanger、1952)が発展させた、ポリペプチド鎖上のいろいろのアミノ酸の配列の順序を決定するための方法を忍耐強く利用する必要がある。
しかし、これでも不十分である。化学構造自体では、酵素の触媒としての性質の理由を明らかにすることができない。
そのためには、ポリペプチド鎖が、基質に適合して活性化するよにと、原子団が正しく配置した活性中心をつくり出すのに、分子内でどのように折れ曲がっているかを決定する必要がある。
これは、X線回折によってはじめて達成できることで、ただ一つの酵素、リゾチームについてだけ解析がすんでいる。
1966年にフィリップスその他(Phillips et al、1966)は、Lysozymeリゾチーム分子の完全な三次元構造をつくり上げ、活性中心の構造と気質分子との結合の起こり方を正確に示し、触媒として働く原因へのヒントを与えた。
これは酵素化学の発展のうえで真に重大な一里塚である。
参考記事
リゾチームの研究を楽しんで42年 井本泰治
「YAKUGAKU ZASSHI 123(6) 377―386 (2003) 驂 2003 The Pharmaceutical Society of Japan」
筆者はPhillips 博士と共著でThe Enzyme に1972 年までのリゾチーム研究の成果を総説した.1)
変性タンパク質は疎水面が表面に露出しており,そのため会合して沈殿しやすく,タンパク質の再生はアグリゲーションとの戦いである.
最もよく使われるのは無限大希釈で会合を抑える方法である.
しかしこれはあまり効率的方法ではない.そこで高濃度で再生するために,再生タンパク質の総電荷を多くして,可溶化,反発により会合を抑えたり,17) 安定化,可溶化のための添加剤を種々検討した.18)
ここで偶然が顔を出した.・・・・・・