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みち草・・・・神経系

2013-02-26 09:00:00 | colloidナノ
彼は、記憶に値する以下の記述のように、灰白質と白質との機能を区別していた。

しかし、もっと完成された動物では、すべての回転は2重の物質でできている。
つまり皮質と髄質である。

その理由は、一方は動物精気の形成の役を果たし、他方はその活動と配分の役を果たしているよに思われる。というのは、動物精気は、すべてもしくは大部分が脳の皮質の部分でつくり出されると考えてもよいからである。
というのは、これは血流をさえぎり、そこからただちにもっとも精妙な液体をうけとっているからで、それに揮発性の塩を吹きこみ、きわめて純粋な精気へと高める。

動脈が脳の皮質に多数に枝分かれをして入りこみ、精気を含んだ液にしみこませることは、誰にとっても明白である。
血液の流出、余計なことだがくりかえすと静脈は、同じようなやり方で皮質に入り、吸い取って、運び去る。その間に、より精妙な部分は自由になり、精気になってゆく。


このようにウィリスは、最初に、神経細胞の成分の合成について灰白質の支配的な作用を直視したのであり、また目立って数の多い動脈供給による皮質の栄養の重要性を強調した最初の人である。

彼のもっとも意義の大きく独創的な前身は、脳皮質の機能についての考えである。
ここで、ふたたび彼自身の言葉にたちもどってみよう。

そこで、同一の精気の揺動が脳の皮質にいちばん外側の層でぶつかると、感知でき物体の像や特徴をこれにしるしつづけ、後になって反射されたり、曲げ返されたりすると、同じ物体の記憶を浮き上がらせる。また、ある感知できるものの印象が、・・・・脳の皮質自体にぶつかって、・・・・このようにして、空想についての記憶をひき起す。


構造についてのウィリスの知識は、デカルトの誤った考えを捨てさせることになった。

「想像、記憶、およびその他の高度な魂の能力をほとんどまったく欠いているように思われる動物も、この腺または核仁を、それも大きくかつ十分立派なものおを持っている」という言葉で、松果腺が想像、記憶および思考の場であるという考えを否定した。さらに彼は、神経には静脈や動脈のような空腔がなく、神経の実質は「しっかりしていて詰まっている」ことを強調している。
しかし、液体が神経にしみ込むというデカルトの考えに執着している。



ウィルスは、あるあいまいさと素朴さの点で避難されている。

彼の書いたもののあるものは、たしかに不明瞭である。
しかし、これはデカルトの誤った明確さよりもすぐれている。
ウィリスは17世紀半ばに書いていて、脳皮質の重要性を認識したのは、彼の時代から200年も先に進んでいたことだが、彼は、彼の同時代人の医学上の口調で完全に教えこまれていたことを想像するべきであろう。

以下の文のような考えが、この時期でもっとも博識な学者の中でさえまだ一般的であった。

「きわめて活動的な脳をもったある天才的な人を知っているが、彼はブドウ酒を十分に飲んだ後では、もっとも暗い夜でもはっきりと読むことができると確言してる。このことから、酒の燃焼のように、血液の到着がどのようなしくみで増大させられまたは強くすることができるかということが考えられる」

このような議論が、ウィリスの著作に出てくるのはまれではないが、これを、マイケル・フォスターは、生理学の歴史の講演できびしく批判した。
フォスターは、ウィリスの名誉を汚すうえで最善をつくし、ウィリスが知識を得ていた解剖は、実際にはリチャード・ローワーが遂行していたのだという考えに熱心に賛意を示している。
この点はそうかもしれないとして、思考が脳皮質で起こるというまったく独創的な考えを進めるために、これらの解剖結果を賢明に利用したのはウィリスだけである。

フォスター(ケンブリッジの生理学者)が、もう一つの大学の250年前の解剖学者にアレルギーでもあるかのように、不当に毛嫌いしていたと考えるのは公平ではないかもしれない。
しかし、フォスターは先に述べたように、構造の研究と機能の研究の間の離婚というもっとも不幸なあの時代の最初の頃にめぐり合わせていた。

ウィリスは、神経学の進歩にとって基本的な重要性のある三つのことを提案している。

①脳の皮質が思考と記憶の発起点である。
②皮質には十分な血液が供給されている。
③皮質は栄養物質を神経を通して分配し、神経を通して思考を行動に変える。

彼の主な誤りは、神経への栄養物質の供給と神経による伝達とをとり違えたことである。
灰白質が脳代謝の主要な合成の場であるという彼のすぐれた考えは、200年後に、アウグストス・ワラーの研究によってみごとに証拠だてられた。
ウィリスは、実際、天才の幸運な予見を発揮したのである。





みち草・・・・神経系

2013-02-25 09:00:00 | colloidナノ
大脳皮質

トマス・ウィリスThomas Willis、1621-75は、大脳半球の皮質の重要性を評価した最初の人で、ウィルトシャーに生まれた。
クライストチャーチで教育を受けたあとで、オックスフォードで医学博士をうけ、後に、そこで自然哲学のセドライアン教授になった。

学者としての活動的な生涯を通じて、ウィリスはロンドンの多忙な流行の医師であった。しかし、彼は決しておべっか者ではなかった。

ヨーク公ジェームズの子息を診るように呼ばれたときに、その子の容体について悲観的でおせじのない意見を述べた。これを彼は「悪しき生命力」という言葉で要約している。

当然のことながら、彼は、二度と宮廷から相談をうけることはなかった。
彼は、糖尿病患者の尿が甘い味だと気づいた最初の人で、尿が甘い型の糖尿病を一群に区別した。
事実、彼は最初の臨床生化学者の1人である。

医学の学生はすべて、今日まで、彼を脳の動脈配分(ウィリス環)の最初の記述によって知っている。
また、脳神経(ウィリス神経)の正確な記述を与えた最初の人でもある。

1664年に、ウィリスの最も有名な著書「脳の解剖学、付 神経の描写とその働き」がロンドンで出版された。

この本は神経学の歴史上の里程標の1つである。その英語への翻訳は、ウィリスの他の業績とともに、彼の死後6年たって、1681年に出版された。
この翻訳は1巻にまとめられ、「かの有名にして名高き医師トマス・ウィリスの医学遺稿集」という題がつけられた。
この本の第Ⅳ部が「脳の解剖学」の翻訳で、この部分は、Of the anatomy of the brainの題で、そこには、その一部をわれわれがここで考察しなければならない特別に知識豊かな記述がある。

ウィリスは、思考の場についてはまったく自信をもっていた。
彼は、「真実、脳の実体の中で、すべての考え、概念、さらに、理性的および感受性豊かな魂のありとあらゆる力と能力がつくり出され、そこで種の形を得た後、行動に変えられる」と述べ、このようにヴェサリウスとデカルトの考えに賛成している。

彼は次に、大脳半球の巻きこまれた表面について考察している。

この屈曲や回転が脳にとってどのような利点があるかを考えてみると、・・・・脳の表面、つまり皮質はしわや屈曲部で不均一ででこぼこしている・・・・、というのは、曲がりくねって屈曲した脳は、あらゆるところに隠れ場や曲り角、鉱脈中の粘土層yはモグラ塚のある土地に似ていて、脳の表面が平で一様な場合よりも、ずっと大きな広がりをもっているからである。

想像と記憶のいろいろな活動のために、動物精気が一定のまたは特定の限られたまたは境界づけられた場所の中で動かされるべきであり、また、同一の管や経路を通してこの動きがくりかえされたり、やり直されたりすることが多いからである。

この理由のために、脳のこれらのさまざまな転回や折れ込みは、動物精気のいろいろな種類の命令のために必要で、すなわちこれらの巻き縮められたおれたたみは、ヒトでは他のどの生物よりずっと多くまたはげしく、すなわち、高度の能力の多様で多方面にわたる活動のためなのである。

ウィリスは、このように、脳の回転を、思考、想像、および記憶に関係した領域を増大させるために効果的な構造と考え、他方、動物精気の活動と運動はこれらの活性の動力と考えていた。

みち草・・・・神経系

2013-02-24 09:00:00 | colloidナノ
機械としての脳、自動機械としての身体

ルネ・デカルト(Rene Descartes、1596-1650)はヴェサリウスの考えをさらに発展させた。

デカルトは、もっとも卓越した哲学者で数学者の1人である。
彼は、存在が思考に依存しているという彼のすぐれた考えによって、われわれみなによく知られている。われわれの現在の問題について彼の功績は、第2義的にしか重要でない。

しかし中枢神経系のからくりについての彼の考えは、ほとんど思弁的でしかないものだが、きわめて天才的で、またひじょうに明確に述べられているので、ここで簡単に考察しておかなければならない。

デカルトは、脳の血液による栄養補給および神経の作用を通して、脳が身体に支配的影響を及ぼすというヴェサリウスの考えに賛成していた。
脳についての彼の最初の本は「情念論」は、エリザベト王女の個人的な目的のために1647年に書かれ、1650年に出版された。

このすぐれた本には、血液から物質が脳へ入ることについて、正確な描写がみられる。
これは、拡散についての最初の記述の一つであった。

また、反射運動の図解的な記述がある。
このために、なぐりかかるようなふりをされたときに危険を感じて、目を閉じる例を引いている。
このなぐりかかった人が友人で、起こりそうなどんな害からもわれわれを守ってくれるであろうと知っていても、それでも同じように、眼を閉じないでいようとするのがきわめて困難であるという点を強調している。

眼に向けられた手の運動が、脳の中にもう1つの運動をひき起し、眼の筋肉が無意識に収縮して、まぶたを閉じるようにと、われわれの身体のからくりがつくり上げらてりるのだと考えた。
この運動が自動的で無意識的であることを強調している。

これらの考えは、彼の死後1664年にパリで出版された本「人間論」に詳しく述べられている。

この大著の中で、血液の一部が脳の中へ入って栄養を与えて脳を維持し、ここで、「ある種のきわめてかすかな息、または、動物精気と呼ばれているきわめて活性高く純粋な炎とでもいうべきもの」をつくり出すという考えを述べている。

動物精気は、主として脳の中心にある松果腺でつくり出され、そこから神経の中の同様な穴を通り、最終的に、筋肉まで伝えられる。
彼は、身体の運動は、王宮の庭の噴水と同じように制御されていると描写した。ここで、水が噴水口からほとばしり出るときの力だけで、いろいろな機械を動かすに十分であり、水を送る導管の設計に従って楽器を演奏したり言葉を話したりさえさせるに十分である。

彼は、さらに、神経をこれらの噴水の導管に、筋肉と腱をこれらの器具を動かすいろいろな機構やバネに、そして動物精気を流れでる水そのものに比較してもよいだろうと提案している。

外界の対象が、このような人間の神経機械に及ぼす効果をいきいきと描写している。
それぞれの刺激は、特定の応答をひき起こすが、それはちょうど、想像の池庭に入ってきた訪問者が、「水浴するダイアナの方へ進もうとしたときに、彼女がただちにアシの中に身をかくすように、また彼女を追いかけようとしたら、三つまたのほこで脅かすネプチューンを自分たちの方へ引きつけるようにと配列された敷石の上を歩くように」しむけられているようである、と想像している。

デカルトは、思考する心がこの機械の中にあるなら、それは脳の主要な場所を占め、そこで、噴水の監督者のように、結果として生じてくる身体の活動を強くしたり、阻止したり、修正したりできるのだと結論している。
デカルトにとっては、脳は、自動機械とみなしていた人間の中心となる指導的な機構であった。

デカルトの精神についての描写はすばらしいのだが、それは、空想にもとづいたはかない城であった。
彼の主な誤りは、想像、常識、記憶を松果腺の中に収めたことだった。

しかし、脳の栄養、反射、記憶についての彼の考えは、近代性の不思議な香気を発散している。脳の最高の機能の場を松果腺とした作り話は、やがて同時代の偉大なトマス・ウィリスの業績によって反対された。

みち草・・・・神経学

2013-02-23 09:00:00 | colloidナノ
「脳が身体を支配し、血液によって養われている」

アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514-64)はフランドル生まれの偉大な解剖学者、外科医で、神経学における的確な考えのいくつかをはっきりと述べた最初の人である。
彼はブリュッセルに生まれ、彼の父は皇帝チャールズ5世の宮廷薬剤師であった。

15歳でアンドレアスはルーヴェン大学に入った。その後パリで勉学したが、ルーヴェンへもどり、そこで、記憶されるべき彼の最初の人体の解剖が行われた。

1537年までに、彼が解剖学者として卓越していることが広く認められ、パドヴァ大学で試験をうけて、この大学は彼に「医学博士」の称号を授与し、ただちに外科学と解剖学の教授に任命した。
その後パドヴァの職を辞し、皇帝チャールズ5世の宮廷医師となった-----医学上の人物が学者としての生活から職業的奉仕へと誘惑された古い例である。

この変化を彼は後になって後悔したかもしれないが、それは、やがて、チャールズの子供で後継者のスペイン王フィリップ2世のもとにおもむいたからである。
マドリードでは、当時宗教裁判のまっさい中で、ヴェサリウスは「解剖を行なうどころか、乾いた頭蓋骨に手をおくことさえできなかった」といわれている。
しかし、若いころに、ベルギーとイタリアで、人間の身体の解剖と動物での実験から重要な発見と結論を得ていたので、彼はずっと、解剖学と生理学双方の分野でのもっとも有名な先駆者とされてきた。

彼の偉大な著書「人体の構造についての7つの書」は、1534年にバーゼルで出版された。

この本は、ヴェサリウスが愛情と尊敬を抱いていたチャールズ5世に捧げられた。
優美な挿絵の豊富なこの大著の第7巻は、「精神的な能力と感覚器官の場である脳」にあてられている。

この本の中で、彼は(動脈によって脳に運ばれた)生(命精)気(vital spirit)は脳での利用に適していて、脳の活動によってこの生気から動物(精神)精気(animal-mental-spirit)がつくり出される。
大部分の動物精気は、脳室を通り、さらに脊髄にひろがり、この構造から生じている神経に入りこむと信じていた。また、動物精気は、神経を通って、感覚器官や随意運動の器官に達すると考えていた。

みごとに表現された文書の一つでは、この活性ある精気は、神経にある穴の通路を通るか、または青空を光が通るのと同じように、神経の側を通るように指図をうけているのだという、才気豊な推論を与えている。

生きている動物の解剖を通して追求できたかぎりで、いずれにしても、脳の力は神経の連続性によって身体のいろいろな部分へ到達すると最終的に結論している。

実際、彼の実験で、動物の筋肉は、それを支配している神経を切断すると、もはや意のままには収縮しないことが示されている。

ヴェサリウスは、このように、脳が意志と運動の発起点であり、かつ感覚を相互に連関づける主な場であると信じていた。
彼は、脳が血液から栄養を受け、脳から筋肉への伝言を神経を通して分散させると提案した。
筋肉への神経を切断すると、筋肉は、直接刺激されると収縮できるが、意のままには収縮することができなくなることを示した。
事実、身体の他の部分に対する脳の支配的な影響をヴェサリウスは明確に理解していた。

16世紀の終わりまでには、ヴェサリウスのこれらの考えは一般に広まっていた。その頃までに、知識ある人たちの意見は、次の結論に達していた。

a)意志の力と思考の場所は脳であり、そして、b)脳は血液から栄養を受けとっている。
事実、このような概念は、当時の通常の文学にまで浸透していた。

つまり、ウィリアム・シェークスピアは、ヘンリー王子の口を通して、父ジョン王に死について、生き生きとした名人のような臨床的記述を述べている。

ああ、手おくれだ!陛下の活力は、
毒におかされて腐りかけている。
(魂のもろい住み家といわれている)頭脳も、
それがひきおこす讒言で、
生の終末を予告している。
                  (「ジョン王」Ⅴ、Ⅶ、北川悌二訳) 








みち草・・・・神経学

2013-02-22 09:00:00 | colloidナノ
何故か大急ぎで駆け抜けてきたのが、ここ第4章 「神経学の発展におけるいくつかの生化学的発見」    ケンダル・デイクソン

浮気心の芽はどこに、
胸の底にか首にか?
どうして吹いた、どうし伸びた?(「The Merchant of Veniceヴェニスの商人」Ⅲ、、14、福田 恆存訳)


バサーニオが鉛の小箱をうまく選んだときにも、人々を悩ませたこの問題に彼はほとんど答えることができなかった。

人類の思考と人類の本性の起源は、思考する人類の存在が始まって以来、数々の思索の源となってきた。
知識が連続的に発展してゆくにもかかわらず人間の心が、自分で満足するという限られた程度でさえ、心の中の働きのごく一部をいつか理解できるというのは、まさに起こりそうにない。

そのうえ、心とその棲み家としての脳についてのこの不完全な概念は、人類の精神のしくみに内在する制約によって、つねに限定されゆがめられることであろう。


しかしながら、脳と心についてのわれわれの知識は、過去400年の間にいちじるしく発展してきた。

人類の歴史のいろいろな時点で、時々によって変わるいろいろな種類の科学と哲学の流れによって、知識の進展がみられ、これからも発展してゆくであろう。

現在の時点では、生物の構造的特徴と化学的な特徴の間の区別、急速に意味が失われていっている。

生物学の進歩を長い間妨げていた、構造と機能の間の概念上の障害または限界設定は、生命が生体高分子の配置と低分子物質に起こる代謝の事象の形で説明できるようになると、やがて消失してゆくであろう。

だから人間の進歩のこの段階で、生化学と呼ばれている形の表現は、脳での事象の研究手段としてとくに適切でまた有益である。

この方法によって、脳における分子の相互作用と動的な変化を十分に理解する道が開かれたときには、疑いなく、まったく新しい分析方法が必要となるようなこみ入った別の問題が見つけ出されるだろう。

しかし、現在でもこの問題への生化学的な取り上げ方は、特別有効なものに思われる。

現在までに、生化学的な考えが、心、その場所と連続性の理解についてどの程度まで役に立ってきたのであろうか?
神経学の歴史の中の、みちしるべのいくつかを、この講演で考えてみることにしよう。



みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-17 09:00:00 | colloidナノ


20世紀の前半の微生物学の研究は、1945年、ロンドンの一般微生物学会の開会式で、化学的微生物の分野の先駆者であったステイーブンソンによって要約されている。

彼女は、その分野全体の歴史か、その分野の特定の問題の発展のいずれが考察されているかに関係なしに研究上の5つの段階が区別できることを指摘している。

最初の段階Aは、初期の探求の時期で、自然環境の中で混ざり合った集団の培養が研究される。

次の段階Bでは、パスツールとコッホが始めたように、実験室の培養基中での純粋な培養の活性と属性が研究される。

医学微生物学の偉大な発展は、この段階で達成されたもので、微生物と病気の特異的な関係が確認されて、その結果、病原菌が単離され、分類され、病気との関係が詳細に研究された活発な活動の時期へと移行したのである。

微生物の単離、確認、分類は活発につづいている。
今日、どの微生物がどの病気の原因となるかについてよりも、どの特定の菌株や変異株がある病気の特定の発生をひきおこすか、とか、同様に、ある生物の特定の菌株が特別な化学反応を遂行するかに関心が払われている。

単純な培地で増殖している純粋な培養でさえ、細胞の素材の産生のために環境の利用に関係して、莫大な種類の反応を遂行しているのであるから、この二つの段階の研究では、記述された結果が生じてくるしくみを明らかにすることはできない。

研究のもう一つ進んだ段階は、生化学的な系の単純化と環境に対する細胞の反応の変化に関するものである。
最初の単純化はステイーヴンソン、クワステルとその協同研究者によって1920年に紹介されたもので、細菌の中には、遠心して培養から菌を集め、洗浄して、「休息状態(増殖していない状態)の洗った細胞の懸濁液」にし、それで培養中の細胞の活性の多くを保持しているものがあることをこの人たちが示したのである。

このような懸濁液での物質の分解は、細胞の増殖のない単純な条件のもとで研究でき、この段階Cでの研究は、たとえば、細菌や酵母の発酵と酸化に関する知識を与えてくれる。

毒物や固定剤の利用から、全体の反応の中での中間段階について一部分を理解することができる。
細胞内物質の生合成のために利用される反応径路についての知識は、化学的に明確に指定された培地で、純粋培養を増殖させる栄養実験の段階Dから得られて、分解について得られた知識を補うことになる。

1890年に、ウィノグラートスキイはある種の微生物、自家栄養性のものは、純粋に無機物質でできた培地で増殖できるが、これに反して、他のもの、他家栄養性のものは有機性の栄養物質、ときには、きわめて複雑な性質のものを必要とすることを示している。

他家栄養性の生物はの増殖に必要な物質の研究は、フィールズ、ナイト、およびその協同研究者によって1930年に始められ、その後ずっとつづけられた。
ある種の他家栄養の細菌は、無機のイオン、窒素源としてのアンモニア、炭素とエネルギー源としてのグルコースをふくむ単純な培地で増殖できることを見出した。

他の種では、アミノ酸かB群のビタミンの1種で補ってやらなければ、このような単純な培地では増殖することはできなかった。
もっと別のもの、とくに化学的に複雑な環境から見出されたものは、アミノ酸をいくつかとビタミンのいくつかを要求して、それらを加えなければ増殖できなかった。

栄養問題は、問題にしている生物の生合成能力の欠陥を反映するものであるとフィールズと協同研究者は考えた。
つまり増殖のために特定のアミノ酸を要求する生物は、その生物の進化の過程において、そのアミノ酸を合成する能力を失ったが、それでも、そのアミノ酸は細胞内物質の不可欠な部分をなしているのだと考えた。
この仮説は栄養要求の研究が、生合成の段階を研究するために利用できることを意味している。


段階CとDの研究から、細菌細胞の内部で進んでいる代謝的過程への指標が得られる。

次の段階Eでは、生化学者がとって代わって、細胞を破砕し、(菌体を含まない)無細胞系について研究し、関係している酵素を分画、精製し、それらが代謝過程に果たしている役割のからくりをさらけ出してみせる。

これは、ステーヴンソンが1945年に明示した最後の段階である。
しかし、1940年に、テータム、ビードルとその協同研究者によって、その先の段階がすでに手がつけられていて、微生物をX線が紫外部の光で処理すると、突然変異の頻度が高くなって、多数の変異株が分離でき、それらが必要としている物質を明確にすることができることを明らかにした。

こうして、同一の生物の変異株について栄養学的に研究できるようになった。それぞれの変異株は、一つの酵素の活性を失ってしまっていることが見出され、また、変異の範囲がすべての反応段階を整理し、つづいて、段階Eで、これらの反応段階を触媒している酵素の性質を研究しはじめることができるようになった。

この点からさらに進んで、変異によって、酵素活性が失われるという事実から、酵素の合成と活性の制御の本性について研究する道が開かれた。

こうして、単細胞生物の遺伝学が現代の生物学の発展に寄与したすべての意義をふくめて、次の段階Fが始まった。




すべての段階の経験が今や、次の研究段階と考えられる「統一と制御」の前奏曲としての細胞構造の組織立てと分子生物学の立場からの生命現象の説明へと変わっていっている。






余滴
まったく思いもしない現象に気がついたのは本人ではなく、パートナーであった。
オデコに触ると熱があるらしい。それからの2日間不眠に襲われて気がついてみるとその初めは左頭骨が関係していたらしい。

ともかく相談相手が欲しいところ、専門外ではあるが、近所の医者を尋ねた。

よく話をきいてもらい、念のために血液検査をして戴く事とした。

検査の結果を拝見して今更ながら驚いた。

総蛋白質(TP)を始めとしてアルブミン、総コレステロール、尿素窒素、ナトリウム、カリウム、無機リン、マグネシウム、鉄、等などの全ては化学物質、より正確にはコロイド状態のその分析といってよい。

紺屋の白袴でもあるかと苦笑したものだが、驚いたことにはあの発熱現象も今では消えているとも知れたのだ。

そこから気がついた事は、細胞の活性化にはミネラル、ことに亜鉛とかヨードなどが大切であると意識させられ、早速頂いたのが牡蠣フライ。
今日は今治産のヒジキなどをいただく。








みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-16 09:00:00 | colloidナノ
病原体論

発酵桶の中の微生物の観察から、微生物が発酵をひきおこすと考える人たちと、それらは偶然そこに存在したか、発酵の産物だと考える人たちとの間で論争が生じたように、病気の動物や植物中の微生物の観察は、微生物が病気の原因であると考える人たちと、それは偶然かそれとも病気になった組織の産物であると主張する人たちの間の論争を招いた。




この時期に、パスツールは発酵の分野での研究を始めかけていて、ブドウ酒の異質な微生物による効果に「病気maladie」という言葉を用いていることからわかるように、微生物が病気の原因となる可能性には明らかに関心を払っていたが、初めは腐敗過程について仕事はしていなかった。
発酵と微生物との間の関係にみられる特異性を彼が例証したことから、特定の細菌が特定の病気の原因となるという考えが起こったことはたしかである。
しかし、パスツールの考えが最初に医学の分野に実際に適用されたのは、ロンドンの外科医のリスターによるもので、彼には傷の化膿は、傷の中での微生物の存在にもとづくものでることがわかっていた。略


微生物と病気の間の特異性を確認するためには、細菌を純粋な培養として手に入れる方法を考え出す必要がある。
種として植えたものには一個の細胞しか含まれず、したがって、当然、その全体の培養が純粋なものと考えてよいように思われる程度にまで菌液を十分に希釈するやり方で、パスツールは、発酵物の純粋な培養と考えていたものを手に入れていた。
しかし、現在、パスツールが、発酵生物の真に純粋な培養をこの方法でつくり出すことができたかどうか疑わしいものに見うけられる。略

細菌を純粋な培養として単離する方法を最初に提示したのはコッホ(Koch、1843-1910)の成果である。

コッホは、ゼラチンで固めた培養基の表面に生物を増殖させるという方法を考え出した。
このことから、菌液を(寒天で固めた)固型培地の上に塗りつけていくと、やがて、菌液が少なくなって1つ1つの菌がばらばらになり、それから寒天ゲルの表面に集落(コロニー)にまで増殖してくるようにする現代の方法が可能となった。略

このプレート法は、特定の病気に関連のある微生物を真に純粋な培養として単離することを可能にした。



ある細菌を特定の病気に関連づけるために満足させなければならない三つの条件を1840年にヘレンが断言していたが、この三つの条件は、<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%9B" target="_blank">Heinrich Hermann Robert Kochコッホの脾脱疽の研究で、はじめて満たされた。

「コッホの条件」として知られるていることの多い、これらの条件は、①特定の病気のどの例にも、つねに、特定の細菌が存在しなければならない。、②この細菌を単離し純粋な状態で培養できなければならない、③このようにして得られた純粋な微生物の培養を、感染をうけていない動物に接種して、その病気をつくり出すことができなければならない、というものである。




最後に付記されている事は大切な視点である。

実験から結論を導くうえでの誤ちを見きわめるうえで大切な役を演じたのもパスツールであった。

この細菌は異常に熱に弱いが、めんどりのほうは異常に体温の高い動物で、それで、パスツールは、めんどりの体温は、脾脱疽菌が組織内で増殖し、病気の原因になるためにはあまりにも高すぎるのだろうと考えた。
それで、とりをもってきて冷水の中にひたした。接種後、冷却されためんどりは脾脱疽をおこして死んだ。対照は、冷却したが接種しなかっためんどりで、これらは生きていた。


みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-15 09:00:00 | colloidナノ
第3章「微生物学の発展」

微生物は病気をひき起こすことがあるので、人間には大きな衝撃となっている。
病気が、目にみえない生物によって起こされるのかもしれないという可能性は、1546年、パドヴァ大学で教えていた頃のフラカストーロによって最初に述べられた考えである。

あの有名なレーウェンフックは参照記事を見て欲しい。Antoni van Leeuwenhoek

レーウェンフックの頃までに、ライオンからハチ、埃からシラミ、泥からウナギが生じるといった、大きな生物が自然に発生するという以前からあった考えは、たいてい葬り去られてしまっていた。しかし、レーウェンフックによる微生物の観察とそれが広く分布しているという点から、生物が自然に生じるという可能性の議論に再び火をつけることになった。
近代の滅菌技術は、主として、細菌の自然発生を証明したり、そうでないことを証明しようとして考案された実験から発達してきたものである。



パスツールと同時代のフランクランドは、1898年に、「パスツールは真理を求めることに満足していた召使であっただけでなく、どんな問題ででも自分自身を確信させるという困難な仕事に成功したときには、自分の信念を世界中に押しつけようとほとんど狂信的なほどの情熱にとらえられて、不信への堡塁がすべて手に入るまで、すべての敵対者が殺されるか転向するまでは剣を収めなかった」



清浄な空気には細菌が存在しないという事実は、空気中の塵埃の存在を示したチンダル現象の方法を利用して、チンダルによって確認された。
これらの実験では、加熱して減菌した尿を入れた試験管を箱の底に置いて、光束がその試験管の空気を通過するように調整されていた。
通常の条件では、尿はすみやかに細菌で汚染され、微生物が濃く増殖した培養が得られる。

しかし、空気が「光学的に透明」になったと光束が示すようになるまで、箱をそっとしておいたあとで、減菌した尿を置くと、尿は試験管の上の空気が乱されないでいるかぎりでは、透明なままであった。
いったんこの箱の戸を開けて「光学的に汚れた」空気を入れてやると、試験管が汚染され、尿中に菌が培養されてくる。




高い温度に加熱しすぎると傷つけられたり、破壊されたりする成分を含んだ培地を減菌するためにこの「チンダル化」の処置が役立つことがわかった。
たとえば、100°に加熱すると変性をうけてしまう牛乳や血液を含んだ培地は連続3日間チンダル処置をかけることでうまく減菌することができる。


アルコール発酵の生物学的性質は、1836年から1837年の間に、カニャール・ド・ラトウール、シュヴァン、キュチングの三人の人の研究で確立された。
この三人ともビール桶の中の酵母がいることを観察し、細胞は生きていて、発酵は、生きている細胞の存在に依存している生活(バイタル)上の活性であることを確立した。




これらの考えは、当時の化学的な思考に反対するもので、その立場では、アルコール形成過程も酢酸形成過程も、単純な反応式で表現できる化学反応で、その過程の間に生じてくる澱や濁りは、偶然の事故かそれともおそらく非生物的な触媒であると主張されていた。

発酵用の桶に見出された生物についての詳細な記述は、化学者の間に嘲笑をまきおこし、それは1839年のリービッヒの「化学年報」に見られる匿名論評にも見受けられる。



パスツールは、自分の乳酸発酵の本性についての研究とともに、1857年に発酵の分野に入りこんできた。略

この論文には、パスツールの研究に行きわたっている正しい結論に対する興味深い論評を見ることができる。
「もし私の結論が事実として確立された範囲を越えていると誰かが言うとしたら、自分の立場を理念の秩序におくという点でいかなる制約もしなかったが、厳密にいって、その理念を論破できないような形では例証できないという点で、私はその意見に同意する」

化学者は、アルコール発酵は、簡単で直接的な化学反応であり、糖がアルコールと炭酸ガスに変わるのだと信じていた。
もし酵母がその過程の一部であるとしても、それは化学的な分解を促進するタンパク質性の触媒を産生するうえで役に立っているというかぎりで必要なだけである。略

1859年までに、パスツールは、いろいろな型の発酵の原因となっている生物を分離する方法を考案し、「純粋」培養と選別的な培地で研究できるよになっていた。
これらの培養と培地を用いて、思いのままの型の発酵をつくり出すことができた。
このようにして、乳酸発酵、酒石酸発酵、酪酸発酵をつくり出して研究し、それぞれの型の発酵に特別な生物の培養を手に入れた。

酪酸発酵に関係している生物は、顕微鏡下で調べてみると、運動性だが、この運動性はカバーガラスのふちのところで停止してしまった。

このことと平行して、酪酸発酵は酸素の存在で停止することを観察し、こうして、生命は酸素のない状況でも存在可能で、微生物の中には嫌気性の生活を送ることができるものもあることが発見された。

このような生物は、自然の情況のもとでは、他の好気性生物の存在のために生じた嫌気性環境に見出される。

パスツールはアルコール発酵は酵母の嫌気性生活と関係していることを見出し、また、発酵は、酸素の存在しないところで生活を可能にしている手段であり、そのような条件下では、酸化は発酵される物質の消費を伴って遂行されると結論した。

発酵過程の特異性についてのパスツールの経験から彼は、異なった生物が、異なった化学反応を遂行していることが理解できるようになっていった。

その後、ブドウ酒の「病気」と呼ばれているものを研究するよにと要請され、ブドウ酒にすっぱさ、酸味、苦味、粘着性がおこることなど、ブドウ酒製造工業が苦労していることの多くは、ブドウ酒中に他の生物が混入していることにもとづくことを見出したのだが、そのときにこの経験は大きく役立った。



このように、19世紀中葉の生物学者の研究で、自然界の物質の発酵や、その他の型の分解が微生物にもとづくという現代のわれわれの理解の基礎が固められた。
それは、生物と、生じてくる反応の性質との間の特異性を例示する実験的根拠を与え、また、この特異性の確立が次の段階でもっと重要なことであるとわかった。
つまり、病気と、それにひき起こす微生物との間の特異性の確立である。


発酵が生物の増殖によるものであり、タンパク質の触媒によるものでないことを証明しようとして、パスツールがあれほど多くの時間と才能を費やし、これとは反対に、20世紀初期の生化学者は、発酵の過程は、細胞から抽出できる一連の酵素タンパク質によってもたらされるを証明することに懸命であったことを、今日思いかえしてみるのは興味深い。略




ここで語られるべき多くは、先に詳しく触れた、あのトラウベ等との関係で案内したリービッヒ、パスツール論争を参考にして欲しい。割愛する。




みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-14 09:00:00 | colloidナノ
「生体酸化の研究」
生体酸化と呼吸で重要な役割を演じている水素の運送体について述べたが、この主題についての初期の歴史にもどってみることにしよう。

まず、メーヨー(1674年)  
プリーストリーそれからラボアジエ

シェーンバイン(1840年)によるオゾンの発見が詳しく紹介されている。「オゾンへの熱狂」の後には、反オゾンがひろくうけいれらた。

反オゾンは水と結合して、酸素のもう一つの活性型の過酸化水素となる。この考え方から「過酸化物時代(peroxide era)」が起こり、有機化合物と酸素分子が直接的に結合して生じたいろいろな種類の過酸化物、有機過酸化物などが関係した一連の理論が提案されて、1920年まで生体酸化の主題として優位にあった。

少し後になって、過酸化物が関係していない生体酸化の理論が二つ提案された。クラウジウス(1860年頃)そしてホッペ=ザイラー(1878年)

1903年バッハ(A.Bach、1857-1946)とチョダトが古典的な論文を発表したが、それは、ほぼ1920年までこの分野に強く支配的であったが、しかしながら、実際には、いくつかの点では誤った考えへと導くものであることがわかった。

当時、酸素に関心が集中されていたために、ある物質の酸化で自動的に他の物質の還元が起こり、酸化反応の酵素はまた還元反応の酵素であることが、明確には理解されていなかったように思われる。

今まで述べたいずれの理論も、現在、正しいとは考えられていないが・・・

酸素活性化説の最後のものは、ベルリンにいたO.ワールブルク(O.Warburg、1883-1970)が1920年から1930年にかけて発展させたもので、その考えは、特別のヘムタンパク質、「呼吸発酵素」中の鉄原子と結合して、酸素分子が活性化されるというものである。

この呼吸発酵素は、その後、ケイリンによって、チトクロムの一種であると確認されている。


これまで述べたすべての理論は、本質的には、酸素の活性化に関する理論で、つまり、不活性の酸素分子を活性化して何らかのやり方で酸化力のある形に変えるという可能性についての機構に関するものであった。

1920年ごろに、水素の活性化に関するウィーランド(H.Wielland、1877-1957)の理論といわれているものとともに、考え方のうえで完全な革命が起こった。

この考えは簡単にいうと、活性化される必要があるのは、酸素のほうではなくて、むしろ酸化をうける有機化合物のほうであるというのである。
これらの分子は、分子状の酸素やその他の弱い酸化剤に対しては反応性がないが、この分子中の二原子の水素原子の結合が弱くなり、酸化剤に渡されやすくなるように、この分子がある種の触媒によって活性化されることを示す証拠が多数提出された。

生体酸化の大部分は、事実、酸素原子の結合ではなくて、脱水素反応であることが指摘された。
1920年に、トウーンベリが動植物の組織内に、ちょうどこの機能を果たしている一群の酵素(デヒドロゲナーゼ)を発見したとき、このことの生物学的な重要性が認められた。
現在、これらの酵素は、生体酸化の反応系で、もっとも重要な部分であることが知られていて、その重要性は、現在までに、150以上ものいろいろなデヒドロゲナーゼが、いろいろな物質を活性化するとして知られていることからも推測できよう。

したがって、当時、一方で極端な立場として、酸素の活性化あり、逆の方の立場に水素の活性化(もっと正確には、基質の活性化)の二つがあった。

次の段階では、中間の反応物質が多数発見され、それらはその中の他のもので還元されて、また別のもので参加されるというようにして順に酸素と水素(基質)とを結びつけるような中間物質である。
このような水素運送体の考えが最初に提案されたのは、おそらく、1921年に、ちょうどその頃見出された硫黄を含むトリペプチドのグルタチオンに関連づけて、ホプキンズによって述べられたものであろう。

発展の歴史のうえできわめて重要な区切りは、1925年の分光学的な方法による、ケイリン(D.Keilin、1887-1963)のチトクロムの発見である。



これらの酸化の反応系が細胞内の小さな顆粒、ミトコンドリアに局在していて、生細胞内の溶液の形で存在しているのではないという点である。



教科書では、「第3節 好気呼吸」啓林館

ウィーラントとワールブルクの論争 細胞呼吸のしくみをめぐって,1910年代から30年代にかけて大論争が起こった。

 ドイツの生化学者ウィーラント(Heinrich Wieland1877~1957)は,脱水素酵素の作用で基質から水素が奪われることが呼吸の重要過程であると述べた(1912年)。

 これに対して,同じドイツの生化学者ワールブルクは,鉄を含む酸化酵素が,酸素を用いて基質を酸化することが大切だと主張した(1921年)。

 両者が激しく論争している間に,イギリスの生物学者ケイリン(David Keilin1887~1963年)がシトクロムとよぶ一群の呼吸色素を発見した(1926年)。


みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-02-13 09:00:00 | colloidナノ
「酵素系」
酵素の発見と分離は、今でもきわめて活発に進められているが、最近では、逆の方向への動きがますます重要なものとなってきた。
つまり、精製された酵素を一緒にして、生物的な系を再構成することである。

これは、複雑な系を部分に分け、それぞれの部分を検討し、それからこれらを一緒にしてみて、どのように協力しあっているかを試し、最後に、全体の系を再構成してみるという、どの複雑な系を研究するうえでも当然のやり方である。

生化学的な研究から、代謝は、継起して起こる一連の多くの酵素反応系からできていて、これらの多酵素系のいくつかを、精製した酵素と補酵素とから再構成できることが示されている。
このことは、酵素の働きに対する洞察に非常に大きく役立った。


通常、このような酵素系を再構成するだけでは不十分で、ある酵素と他の酵素との間を機能的に結合するために、補酵素も必要である。

補酵素の大部分は、分子量1000以下だがかなり複雑な化学構造の特定の物質で、ある酵素で触媒される反応において特定の原子団を渡して、その原子団の運送体(carrier)として作用する能力がある。

酵素反応の大部分は転移反応で、酵素の作用によって、ある原子団が一つの分子との結合から別の分子との結合へと転移される。略


最初に見出された転移媒介体の補酵素は、生体内酸化での水素の運送体である。

「補酵素(cofermentまたはcoenzyme)」という名は、1897年にベルトランが言い出したものだが、最初に明確にされたのは、酵母抽出液の酵素から限界濾過で低分子物質を除くことができ、そうすると酵素の作用を示さなくなること、また濾液を加えると発酵を触媒する能力を回復するという、ハーデン(A.Harden、1865-1940)とヤングが1906年に示した事実である。

しかしながら、彼らの「コチマーゼ(cozymase)」は実際には、いくつかの補酵素の混合物であったようで、これらは分別もされなかったし、その機構も理解されていなかった。

1915年ごろ、バテリとスターンが、動物組織から「呼吸のコチマーゼ」を抽出し、それに「プネイン(pnein)」と名をつけた。このものが数年の間関心を集めたが、おそらく、ハーデンとヤングの場合のように補酵素と基質の同じような混合物であったのであろう。

呼吸に関与している主な水素原子の運送体の発見は、1921年で、次の節でとりあげることにするが、他にもいろいろな他の原子団を運ぶ特異的な補酵素がある。

たとえば、リン酸基の運送体:アデノシン三リン酸(ATP、1929年に発見)、アチル基の運送体:コエンザイムA(CoA、1947年)、フォルムアルデヒドまたはフォルミル基の運送体:テトラヒドロ葉酸(1947年)、メチル基の運送体:ビタミンB12、カルボキシル基の運送体:ビオチン(1959年)、アセトアルデヒドの運送体:チアミン・ピロリン酸(1937年)、アミノ酸の運送体:ピリドキサル・リン酸(1944年)などである。
これらすべての補酵素は、酵素どうしを機能的に結びつけ、現在知られている多数の系列の代謝を触媒するように酵素系をつくり上げるのを可能にしている。


備考
1929年ノーベル化学賞は「糖類の発酵とこれに与える諸酵素の研究」ハーデンとオイラーケルビン。これは発酵にはリン酸が深く関わっていることの指摘となった。