彼は、記憶に値する以下の記述のように、灰白質と白質との機能を区別していた。
しかし、もっと完成された動物では、すべての回転は2重の物質でできている。
つまり皮質と髄質である。
その理由は、一方は動物精気の形成の役を果たし、他方はその活動と配分の役を果たしているよに思われる。というのは、動物精気は、すべてもしくは大部分が脳の皮質の部分でつくり出されると考えてもよいからである。
というのは、これは血流をさえぎり、そこからただちにもっとも精妙な液体をうけとっているからで、それに揮発性の塩を吹きこみ、きわめて純粋な精気へと高める。
動脈が脳の皮質に多数に枝分かれをして入りこみ、精気を含んだ液にしみこませることは、誰にとっても明白である。
血液の流出、余計なことだがくりかえすと静脈は、同じようなやり方で皮質に入り、吸い取って、運び去る。その間に、より精妙な部分は自由になり、精気になってゆく。
このようにウィリスは、最初に、神経細胞の成分の合成について灰白質の支配的な作用を直視したのであり、また目立って数の多い動脈供給による皮質の栄養の重要性を強調した最初の人である。
彼のもっとも意義の大きく独創的な前身は、脳皮質の機能についての考えである。
ここで、ふたたび彼自身の言葉にたちもどってみよう。
そこで、同一の精気の揺動が脳の皮質にいちばん外側の層でぶつかると、感知でき物体の像や特徴をこれにしるしつづけ、後になって反射されたり、曲げ返されたりすると、同じ物体の記憶を浮き上がらせる。また、ある感知できるものの印象が、・・・・脳の皮質自体にぶつかって、・・・・このようにして、空想についての記憶をひき起す。
構造についてのウィリスの知識は、デカルトの誤った考えを捨てさせることになった。
「想像、記憶、およびその他の高度な魂の能力をほとんどまったく欠いているように思われる動物も、この腺または核仁を、それも大きくかつ十分立派なものおを持っている」という言葉で、松果腺が想像、記憶および思考の場であるという考えを否定した。さらに彼は、神経には静脈や動脈のような空腔がなく、神経の実質は「しっかりしていて詰まっている」ことを強調している。
しかし、液体が神経にしみ込むというデカルトの考えに執着している。
ウィルスは、あるあいまいさと素朴さの点で避難されている。
彼の書いたもののあるものは、たしかに不明瞭である。
しかし、これはデカルトの誤った明確さよりもすぐれている。
ウィリスは17世紀半ばに書いていて、脳皮質の重要性を認識したのは、彼の時代から200年も先に進んでいたことだが、彼は、彼の同時代人の医学上の口調で完全に教えこまれていたことを想像するべきであろう。
以下の文のような考えが、この時期でもっとも博識な学者の中でさえまだ一般的であった。
「きわめて活動的な脳をもったある天才的な人を知っているが、彼はブドウ酒を十分に飲んだ後では、もっとも暗い夜でもはっきりと読むことができると確言してる。このことから、酒の燃焼のように、血液の到着がどのようなしくみで増大させられまたは強くすることができるかということが考えられる」
このような議論が、ウィリスの著作に出てくるのはまれではないが、これを、マイケル・フォスターは、生理学の歴史の講演できびしく批判した。
フォスターは、ウィリスの名誉を汚すうえで最善をつくし、ウィリスが知識を得ていた解剖は、実際にはリチャード・ローワーが遂行していたのだという考えに熱心に賛意を示している。
この点はそうかもしれないとして、思考が脳皮質で起こるというまったく独創的な考えを進めるために、これらの解剖結果を賢明に利用したのはウィリスだけである。
フォスター(ケンブリッジの生理学者)が、もう一つの大学の250年前の解剖学者にアレルギーでもあるかのように、不当に毛嫌いしていたと考えるのは公平ではないかもしれない。
しかし、フォスターは先に述べたように、構造の研究と機能の研究の間の離婚というもっとも不幸なあの時代の最初の頃にめぐり合わせていた。
ウィリスは、神経学の進歩にとって基本的な重要性のある三つのことを提案している。
①脳の皮質が思考と記憶の発起点である。
②皮質には十分な血液が供給されている。
③皮質は栄養物質を神経を通して分配し、神経を通して思考を行動に変える。
彼の主な誤りは、神経への栄養物質の供給と神経による伝達とをとり違えたことである。
灰白質が脳代謝の主要な合成の場であるという彼のすぐれた考えは、200年後に、アウグストス・ワラーの研究によってみごとに証拠だてられた。
ウィリスは、実際、天才の幸運な予見を発揮したのである。
しかし、もっと完成された動物では、すべての回転は2重の物質でできている。
つまり皮質と髄質である。
その理由は、一方は動物精気の形成の役を果たし、他方はその活動と配分の役を果たしているよに思われる。というのは、動物精気は、すべてもしくは大部分が脳の皮質の部分でつくり出されると考えてもよいからである。
というのは、これは血流をさえぎり、そこからただちにもっとも精妙な液体をうけとっているからで、それに揮発性の塩を吹きこみ、きわめて純粋な精気へと高める。
動脈が脳の皮質に多数に枝分かれをして入りこみ、精気を含んだ液にしみこませることは、誰にとっても明白である。
血液の流出、余計なことだがくりかえすと静脈は、同じようなやり方で皮質に入り、吸い取って、運び去る。その間に、より精妙な部分は自由になり、精気になってゆく。
このようにウィリスは、最初に、神経細胞の成分の合成について灰白質の支配的な作用を直視したのであり、また目立って数の多い動脈供給による皮質の栄養の重要性を強調した最初の人である。
彼のもっとも意義の大きく独創的な前身は、脳皮質の機能についての考えである。
ここで、ふたたび彼自身の言葉にたちもどってみよう。
そこで、同一の精気の揺動が脳の皮質にいちばん外側の層でぶつかると、感知でき物体の像や特徴をこれにしるしつづけ、後になって反射されたり、曲げ返されたりすると、同じ物体の記憶を浮き上がらせる。また、ある感知できるものの印象が、・・・・脳の皮質自体にぶつかって、・・・・このようにして、空想についての記憶をひき起す。
構造についてのウィリスの知識は、デカルトの誤った考えを捨てさせることになった。
「想像、記憶、およびその他の高度な魂の能力をほとんどまったく欠いているように思われる動物も、この腺または核仁を、それも大きくかつ十分立派なものおを持っている」という言葉で、松果腺が想像、記憶および思考の場であるという考えを否定した。さらに彼は、神経には静脈や動脈のような空腔がなく、神経の実質は「しっかりしていて詰まっている」ことを強調している。
しかし、液体が神経にしみ込むというデカルトの考えに執着している。
ウィルスは、あるあいまいさと素朴さの点で避難されている。
彼の書いたもののあるものは、たしかに不明瞭である。
しかし、これはデカルトの誤った明確さよりもすぐれている。
ウィリスは17世紀半ばに書いていて、脳皮質の重要性を認識したのは、彼の時代から200年も先に進んでいたことだが、彼は、彼の同時代人の医学上の口調で完全に教えこまれていたことを想像するべきであろう。
以下の文のような考えが、この時期でもっとも博識な学者の中でさえまだ一般的であった。
「きわめて活動的な脳をもったある天才的な人を知っているが、彼はブドウ酒を十分に飲んだ後では、もっとも暗い夜でもはっきりと読むことができると確言してる。このことから、酒の燃焼のように、血液の到着がどのようなしくみで増大させられまたは強くすることができるかということが考えられる」
このような議論が、ウィリスの著作に出てくるのはまれではないが、これを、マイケル・フォスターは、生理学の歴史の講演できびしく批判した。
フォスターは、ウィリスの名誉を汚すうえで最善をつくし、ウィリスが知識を得ていた解剖は、実際にはリチャード・ローワーが遂行していたのだという考えに熱心に賛意を示している。
この点はそうかもしれないとして、思考が脳皮質で起こるというまったく独創的な考えを進めるために、これらの解剖結果を賢明に利用したのはウィリスだけである。
フォスター(ケンブリッジの生理学者)が、もう一つの大学の250年前の解剖学者にアレルギーでもあるかのように、不当に毛嫌いしていたと考えるのは公平ではないかもしれない。
しかし、フォスターは先に述べたように、構造の研究と機能の研究の間の離婚というもっとも不幸なあの時代の最初の頃にめぐり合わせていた。
ウィリスは、神経学の進歩にとって基本的な重要性のある三つのことを提案している。
①脳の皮質が思考と記憶の発起点である。
②皮質には十分な血液が供給されている。
③皮質は栄養物質を神経を通して分配し、神経を通して思考を行動に変える。
彼の主な誤りは、神経への栄養物質の供給と神経による伝達とをとり違えたことである。
灰白質が脳代謝の主要な合成の場であるという彼のすぐれた考えは、200年後に、アウグストス・ワラーの研究によってみごとに証拠だてられた。
ウィリスは、実際、天才の幸運な予見を発揮したのである。