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みち草・・・・神経系

2013-03-08 09:00:00 | colloidナノ
Johann Ludwig Wilhelm Thudichumルドヴィッヒ・ヨハネス・ヴィルヘルム・トウデイクム1829-1901は、1829年に、ブーデインゲンという静かなヘッセ州の町で生まれた。

彼の父、ゲオルグ・トウデイクムは、その町の指導的なルーテル派の牧師で、また、その町の高等学校、つまりギムナジウムの校長であった。
ゲオルグ・トウデイクムはすぐれたギリシャ学者で、Sophoklésソフォクレスの翻訳で有名であった。彼は自分の息子に古典についてのすぐれた教育を与えたが、それはルドヴィッヒの多数の研究発表の正確で上品な言語から明らかである。

ルドヴィッヒは、輝かしい知性によって早くから有望であることを示していた。

医学の勉強はずばぬけていて、また歌手とピアニストとしても高い才能があった。
彼は医学の教育をギーセンで、後にハイデルベルクで受けた。彼の先生の中には、グメーリン、リービッヒ、ヘレンがまじっていた。
実際リービッヒは、トウデイクム一家の友人で、おそらく、ルドヴィッヒの医化学への鋭い眼識を燃えたたせたのは彼の影響であろう。

ハイデルベルグの医学生として、羊膜液中の尿素についての論文でルドヴィッヒは受賞した。
彼はギーセンで医学博士を受けた。

1850-51年の間のデンマークの戦争の間、彼はシュレスヴィッヒ=ホルシュタインの軍隊の志願外科医として従軍した。

学生であったが当時一般的だった革命的な運動への明白な共感のために、ドイツでの民間の医学上の地位への任命に妨げられた。

彼に対するこの差別に失望して、1854年にロンドンに移住したが、ここでは、彼の婚約者で遠いいとこのシャルロッテ・デユプレが数年前にフランクフルト=アム=マインから移ってきていた。

結婚後、ルドヴィッヒとシャルロッテは、19世紀のイギリスの自由な雰囲気に心をひかれて、ロンドンに永住することにした。
その後、ルドヴィッヒ・トウデイクムは教養があり尊敬されたヴィクトリア朝の医師としての生活を送った。

医化学へのすべての分野に対するトウデイクムの関心は、絶えることなしに続いていたが、しかし、臨床医学自体への興味もそうであった。

事実、全生涯を通して、医師と外科医として実際に活動をつづけた。彼の学識と独創的な業績の普遍性は、多芸多才の人たちの時代においてさえ、まったく例外的なものであった。

彼の臨床的な地位には、セント・パンクラスの施療院の医師、ブラムトンのクイーンズ・ジュビリー病院の派遣医師の地位が含まれていた。

耳鼻医としては彼は第1級であった。彼は鼻鏡を発明し、鼻の外科に電気焼灼を導入した。

彼は1860年に、王立内科医学会の一員になり、1878年にその特別会員に選出された。

同時に、彼は医化学の問題を引きつけられ、この問題でもいくつかの地位についた。
彼はグロスヴナー・プレース医学校の化学の教授で、その後、セント・トマス病院の講師になり、化学と病理学研究室の最初の部長になった。

後に、臨床上の業務にもっと時間をさき、こうして自分の研究の費用をまかなうことができるようにとセント・トマスでの地位を辞した。





みち草・・・・神経系

2013-03-07 09:00:00 | colloidナノ
脳の化学的組成

原子理論の確立と物質の分子組成の発見は、ただちに、生物学者と医師との関心をひいた。これらの新しい概念は広く適用され、他の組織からのものと同様に脳の抽出物も、やがて化学的方法によって体系的に検討された。

A.F.フルクロアは、脳の化学を研究した最初の人たちの1人であった。

彼は脳を水で抽出して、生じた溶液は、卵白と同じように加熱すると凝固し黄色になることを観察した。さらに、脳のアルコールによる抽出液から脂肪に似た物質を分離した。
彼は、この物質を「濃い油」と同種のものと考え、それは脳に特有で、針状の結晶と小板をつくることができる。

フルクロアは、このように脳のタンパク質と脂肪を発見した。

L.N.ヴォークランは、1812年に公にされた立派な論文で、フルクロアの結果を確認し、脳からアルコールで抽出される物質がリンを含んでいることを示した。

「したがって、脳の物質にリンが存在していることをどうしても認めなければならない」と言っている。
彼はこのリンが脂肪と結合していると結論した。
このように、彼はリン脂質の発見者である。
ヴォークランは、また、延髄と脊髄には灰白質よりも脂肪が多く、タンパク質が少ないことに注目している。


化学のフランス学派によって、さらに発展がつづけられた。

J.P.クールベは1834年に、脳の正常な成分としてコレステロールを認め、1841年に、エドモンド・フレミは白質のほうが灰白質よりも脂質が多いことを確立した。

ゴブリーの研究は、さらに、グリセロリン酸が存在していることを示すとともに、脳のリン脂質と卵黄のものとの類似を示した。
レシチンは、最後にA.A.ストレッカーによって、1868年に分離された。

不幸にも、1864年に、Felix Hoppe-Seylerホッペ=ザイラーの弟子のオスカー・リーブライヒが、脳は、ほとんど全部「プロタゴンprotagon」と呼ばれる単一物質からできていると主張し、その物質は、炭素、水素、酸素のほかに窒素とリンを含むと考えられていた。

脳から分離されたその他のすべての物質は、この特有の祖原的物質の分解産物であると、リーブライヒは明言した。
プロタゴンの神話は、ドイツで、ホッペ=ザイラーによって強く支持され、また、イングランドでも、つまりアーサー・ガムギーとその協力者という、協力な支持を確保した。

事実、この空想は、例えば、シェリダン・リーなどのマイケル・フォスター学派の人たちを含めて、当時の立派な多数の生理学者によって支持された。

この時点で、この空想をあえて粉砕し、その代わりに確実な科学をすえた人----脳の化学者の中で最大の人----つまり、ルドヴィッヒ・トウデイクム(Ludwig Johannes Wilhelm Thudichum、1819-1901)に注意を向けなけらばならない。



みち草・・・・神経系

2013-03-06 09:00:00 | colloidナノ
それから、彼は、神経が通常接続している灰白質と神経繊維との連続を断つように神経を切断するという一連の目ざましい実験を遂行した。
この目的のために、彼は、脊髄神経の前根と後根、頸部の迷走神経の幹部、また脊髄そのものを切断した。

後根は脊髄神経節の上方か下方かで切断され、切断後、刺激を伝達する神経の機能の喪失と、結果として生じた神経と神経節の構造的変性について研究した。

彼は、これらの観察事実から、すべての神経繊維は、細胞体(神経節中の小体)につながった繊維上の細胞突起で、繊維はその細胞体から切断されて分離すると変性するが、たとえ切断されても、生き残っている細胞体に繊維がつながっていると、繊維も生き残ることを確かめた。

脊髄神経節と迷走神経の神経節から生じている繊維の生命に必要な栄養中心が、それの関連している神経節中にある細胞体にあるという考えを述べている。

さらに、切断後の脊髄神経根と幹の神経繊維の挙動は、それらを制御している神経細胞の細胞体の位置の差に応じて異なっていた。
つまり、脊髄の前根と後根の一部とともに脊髄を切断し20日後に、脊髄の後根の白柱は後根神経節との連絡が保持されているので傷つけられないままで残っていた。

同様に、切断された神経根の中で、切断された前根は破壊がおこり粒子状になる(もはや刺激を伝達しない)が、脊髄の前柱(前角)内にあって制御している細胞体とその繊維は連絡が断たれるからで、後根の方では、脊髄とは連絡されていないが、後根神経節に存在している細胞体とその繊維がつながっているので、損傷がみられない。

これらの結果から、細胞体が繊維全体に栄養上の影響を及ぼしているというワラーの輝かしい概念はが導かれた。
「前根の栄養の中心は脊髄の中に位置していて、他方、知覚神経根のそれは脊髄骨間の神経節の中にある。・・・・崩壊している繊維は、脊髄内に・・・存在している神経細胞体と関連していることを認めなければならない」。

このように、感覚性繊維の栄養細胞体は脊髄神経節にあり、他方運動性繊維については、制御している栄養細胞体は脊髄自体の中の前柱(前角)中にあると彼は結論を下した。

細胞体の繊維全体に及ぼす栄養上の影響がこのように明らかにされ、ついに、数フィートの長さの神経細胞の突起は、その細胞体からの必須の栄養物質の通過に絶えず依存していることが理解された。

生化学におけるもう一つの基本的な概念もワラーによるもので、それは、分解と合成の均衡である。

これはカエルの切断された神経のいろいろな温度での崩壊の速度についての彼の研究から得られた。

低温に保存された動物の切断された神経では、崩壊と機能の喪失が遅かった。崩壊の過程のこの遅れは、低温では化学反応の遅いことによると彼は考えた。
事実、彼は分解と合成の間の均衡について生き生きした心像をいだいていた。

その考えは、記憶に値する次の文に示されている。
「動物の身体は、絶えず分解されまた再生されている部分からできていて、・・・これらは、この二つの相反する作用の間に存在している均衡に由来している」

切断された神経では、合成のほうは停止しているが、分解は進行していると考え、温度の低下によって分解が遅くなり、崩壊が遅れてくるという考えを提示した。

こうして彼は、合成と分解の間の絶え間ない神経細胞内の均衡を描き出した。

彼は、細胞体の活性に依存して、神経細胞の物質の連続的な再生の必要性を仮定した。
神経節細胞の繊維への影響が存続しているかぎりは、この均衡が保たれている。

しかし、一度細胞体との連絡が断たれると、ただちに再生は停止する。この再生がなければ繊維は死んでしまうが、温度の低下は、分解の速度を遅くすることで、死と崩壊の始まりを遅らせることができる。

細胞体の存在場所であり、全神経系を細胞によって統合するものとしての灰白質の基本的性質は、ワラーの発見に固有のものである。
灰白質の機能に関するワラーの考えは、実際、確実な実験的根拠によってついに証拠立てられたのである。

科学の歴史のこの時代において、ワラーの眼識は、その正確さにおいてまれにみるものであった。

細胞体の支配的な合成活性と灰白質の細胞の基本的な意義は、このようにして、ヴィクトリア期のこの真に輝かしい思考案によって、明晰な明確さで例証されたのである。


みち草・・・・神経系

2013-03-05 09:00:00 | colloidナノ
代謝の単位としての神経細胞

アウグストス・ヴォルネー・ワラー1816-70は、ケント州のファヴァーシャムに生まれた。彼の父のブドウ酒の取引きとの関係から、彼はその青春の大部分をフランスで過ごした。

このことのために彼は2カ国語を自由に書くことができた。
彼のフランス語での論文は、事実、すみやかに海外の科学者に伝達され真価が認められ、ワラーの研究は、自国でよりも、この人たちの間でのほうが高く認められていた。

英国の生理学者は、神経細胞の代謝の知識に対する彼の基本的な功績を無視しがちであり、フランス人が「ワラーの法則」と呼んでいる神経細胞の統一性についての彼の偉大な原理に言及することはほとんどなかった。

ワラーは1840年にパリで医学博士を受け、1年後に、ロンドンの開業医協会で開業資格者になった。
それから十年の間一般医としてケンジントンで働いた。その後、彼は短期間、バーミンガムのクイーンズ・カレッジで生理学の教授になり、医師としてその市の病院で業務もしていたが、主に海外で生活した。

彼は1851年にロイヤル・ソサエテイ会員になった。
この時までに、彼はすでに、炎症のときの多型白血球の移動を発見していて、神経細胞の細胞的な統一性についての彼の偉大な概念にまったく新しい展望を開いたうえに、交感神経系の血管収縮作用をも発見していた。
これらの発見のどの一つをとっても、いつまでも、彼を医学の先駆者として評価して正当であろう。

1850年に、「ヒキガエルの舌咽および舌下神経の切断実験とその繊維の構造変化の観察」という題の有名な論文が、ロンドンのロイヤル・ソサエテイの「哲学紀要」に発表された。

この論文で、彼が神経の変質の研究のために考案したすばらしい技法を記述した。舌咽神経か舌下神経の一方を片側で切断し、後になって、舌の一方の側の切断された神経から分岐している末梢部と、反対側の傷のついていない神経からの繊維とくらべた。
このようにして彼は、同一の動物で、変性している神経を、反対側のもとのままのもの----対照づきの実験として理想的な系----と対比した。

「切断によって脳との連続性が妨げられると」、その神経の切断された末梢部のミエリンは混ざってきて3日か4日の間に凝固し、5日か6日以内に「別々の粒にこごってしまう」ことを確立した。
さらに、水の中に浸すと、健全な神経管は膨潤するが、切断された神経の末梢部の神経管は、水の中に入れたとき膨潤するこの能力を失ってしまっていることを見出した。
これは、おそらく、傷つけられたり死にかけている細胞で、半透性が失われることについての最初の記述であろう。

変性中の神経繊維についてのワラーの例示は、とくべつ正確なものであった。写真2には、舌咽神経の切断6日後のカエルの舌の変性中の乳頭神経が示されている。

この段階では、中空のミエリンの2重膜からできた、卵状の接近しあった小球で、繊維が置きかえられている。写真3では、もっと後の変性の様子が、切断22日後の同じような乳頭神経について示されている。
卵状の小球は、ここでは、数列の不定形の粒子に変形されている。

このようにして、ワラーは、脊髄とのつながりが切断されると軸索もミエリン鞘も完全に崩壊することを見出した。
この変性の過程の彼の記述は、現代の細胞化学的な技法を利用して行われた観察に完全に一致している。

ワラーの次の一歩は、切断され神経が後で再生するという、フォンタナによって以前に発見されていたことを確証することであった。
しかし、ワラーはさらに、再生する繊維の生長は、切断点に向かって中心の方から進むので、末梢の方からその点へ向かうのはないことも明らかにした。

この概念で、ワラーは、「卓越した現代の科学者でさえ途方にくれるような謎にみちた分野で、苦もなく自分の方向を定めて、問題の真の解決を明確に示すことができた」のである。
切断点より上方が細胞とつながっていることが生存を保証し、切断された繊維の細胞側の末端から新しく延長されて芽を出してゆくのを可能にしているとワラーは結論した。


みち草・・・・神経系

2013-03-04 09:00:00 | colloidナノ
構造と組成の解明(1850-1900年)

19世紀中葉までに、やっと基礎の準備が整備された。
化学と生物学の知識は、これらの科学の方法が神経系にうまく適用できる段階にまで発達してきていたが、他方、神経解剖学と神経病理学における発達から、前の節で述べたように、脳のすべての種類の思考と統合された人間活動の動的な中枢であることがついに確立されていた。
幸いなことに、この接合点で、神経学と神経生化学は、この時代の最もすぐれた知性を、その研究に引きつけていた。急速で目ざましい進歩がつづいた。


神経系の細胞性

ヴィクトリア時代の初めころまでに、植物と動物の構造が細胞からできていることが確立されていた。
この概念は、その以前の二世紀の間になされた一連の観察によって徐々に到達されてきたもので、それらは最終的にテオドル・シュヴァン1810-82の複合的な理論の形に融合された。

シュヴァンの研究は、1838年にパリで科学アカデミーに報告され、1839年に最初に出版された。王立外科医学会会員のヘンリー・スミスによる立派な英語訳が1847年に出された。

この本の中で、シュヴァンは脳の灰色質と脊髄の中に、核と核小体を含む神経節の小球を記載した。これらの細胞体は数年前にレマクとヴァレンタンによって観察されていた。

しかし、灰白質と白質の一般的な細胞像は、最初にシュヴァンによって強調されたもので、彼はまた白い繊維の鞘をつくっている2重の輪郭のある白い物質を記述している。
シュヴァンは、白い繊維の鞘の中の物質は脂肪に似た性質のもので、「裸眼で検査したとき」の繊維の白い色の原因となっているという点をさえ理解していた。

後に、プルキニェ、ローゼンタールおよびフォン・ケーリカーによる研究によって、この繊維は細胞体から放射されている突起であると示された。
1867年に、フォン・ケーリーカーは新鮮な神経繊維のミエリン鞘について、濃い油のように、「完全に均一で粘度が大きい」と記述している。

彼は神経と白質のつやのある外観は、神経鞘のこの物質の性質によるものだと考えた。
アウグストス・ワラーが研究を始めるころまでに、神経系の細胞性は、少なくとも部分的には明らかにされていた。

みち草・・・・神経系

2013-03-03 09:00:00 | colloidナノ
脳の全般的虚血

脳への血液の供給の妨害は、局所的な血管の閉塞による場合と同じように全体の循環の欠乏によっても同じように生じてくる。

ウィリアム・ストークス1804-78は,有名なアイルランドの医師で、ダブリンのトリニティ・カレッジの物理学の欽定講座担当教授であったが、心臓の欠陥自体のために脳の活動を妨げるほどに脳への新鮮血が欠乏してしまうことがあることを、もっとも明確な形で強調した。

彼の同僚のロバート・アダムズは、1827年に、心臓の疾患のために脈拍がひどく遅いある患者についての記録を発表したが、この人は、一時的な記憶喪失のあとで、失神の発作にくりかえし悩まされていた。
後になって、ストークスは、1854年に出版された彼の「心臓と大動脈の疾患」という大著の中で、この種の発作に悩んでいる数人の患者について述べていて、この病気は現在ストークス-アダムス発作と呼ばれている。

心の乱れにつづくかその前に起こるこれらの突然の昏睡の発作が、心臓の欠陥にもとづく脳への血液供給の不足のためであることをストークスは理解していた。
彼は、それぞれの発作から回復した後で1時間ほどは「自分のもっとも親しい友人をみわけることができず、自分の妻を母と間違えたりさえする」ほど混乱している患者についていきいきと記述している。

このような患者の死後、彼らの心臓が脂肪変性によっていちじるしく損なわれていることが見出された。

ストークスは、精神の混乱、記憶の喪失、および昏睡は、一時的な循環の減退のために生じた、脳への血液供給の妨害の結果であると結論した。
脳の機能の一時的な喪失は、脳への栄養の一時的な停止の結果だろうという、きわめて重要な概念も、彼の言い出したものである。

脳の機能が循環血液によって供給される酸素に依存していることは、最終的には、シャルル=エドアル・ブラウン=セカール1817-78による、もっとも洞察力のある一連の研究によって証明された。

ブラウン=セカールの実験的研究の大部分はパリで行われた。後に、彼はハーヴァード大学の生理学と神経病理学の教授となり、最後に、1878年にパリにもどって、コレージュ・ド・フランスの実験医学の教授としてクロード・ベルナールの後を継いだ。

ブラウン=セカールは、循環の停止による脳と神経の機能の一時的喪失が、酸素を含んだ血液の灌流によって回復されうることを確かめた。
このやり方で、首を切ったイヌの頚動脈と脊髄動脈を灌流することによって、(明らかに脳による制御のもとにある)顔と眼の調整のとれた動きを回復させることができた。この回復の能力の持続時間は、脳がもっとも短く、脊髄、神経、筋肉に順に長くなっていると結論した。

彼は、「脳が、完全に機能と生きているという性質を失った後で、酸素を充満させた血液の影響のもとに回復できる」ことを強調した。
また、すべての器官の中で脳が酸素の欠乏によってもっとも傷つけられやすいことを十分に評価していた。


みち草・・・・神経系

2013-03-02 09:00:00 | colloidナノ
脳の局部的虚血

脳組織の栄養についての概念で、その次に得られた基本的な進歩は、パリの有名な医師のレオン・ロスタン1790-1866の観察からもたらされたもので、彼は、初めて、血液の供給を局部的に妨害すると脳の活動を妨げることができるという考えを述べた。

ロスタンの「脳軟化症に関する研究」という本は、1823年にパリで出版された。
この本には、臨床上の観察と病理的観察の間のもっともはっきりした相関関係とともに、脳の病気の経過の巧みな記述がもられる。

ロスタンは、脳の軟化は脳への動脈の供給の欠陥によって起こるかもしれないという意見を述べている。
彼は、脳の赤い硬塞を写実的に記述し、それをみかけ上ブドウ酒のかすにたとえている、軟化の原因について考察して、彼は「脳内でのこの変化は、老人の壊疽に非常によく似ていて、老化による変性であることが多いように見受けられる。
壊疽と同じように、脳の軟化は変性の一種で、障害をうけた器官に血液と生命をもたらすようになっていた血管が、・・・老化の過程で・・・硬化した変性と思われる」と言っている。

ロスタンは、脳の軟化は脳皮質に限られているようにみえ、この病変は記憶の喪失、意思運動の欠失、発狂、老人性の痴呆、そしてついてには完全な昏睡を伴っていると指摘している。
皮質の病気が脳の機能をそれほどいちじるしく妨げることがあるというこの基本的な考えの提示は、精神活動において皮質が何なもまして重要であるというウィリスの考えへの注目に値する復帰である。

後になって、ルドルフ・フィルヒョー1821-1902の研究で、血栓と塞栓が動脈の遮断の通常の原因で、その結果脳を含め多数の器官に虚血性の障害が生じることが確かめられた。しかし、脳の栄養の妨害が精神的活動を停止させ、まして脳に供給している血管の局部での閉塞が、この妨害の原因となることがあるという最初の考えはレオン・ロスタンによるものである。


みち草・・・・神経系

2013-03-01 09:00:00 | colloidナノ
脳の病気

外傷  神経病理学における最初の正当ないくつかの概念は、アルブレヒト・フォン・ハラーAlbercht von Haller、1708-77に起源があるが、彼は、ベルンで生まれたスイスの貴族であった。
フォン・ハラーはテュービンゲンで、後にライデンで医学を学び、ライデンで1727年に医学博士になった。
大陸とイギリスの双方を旅行し勉学した後で、ベルンにもどり、解剖学を教えるとともに開業した。

1736年に、彼は新しく創立されたゲッチンゲン大学の解剖学、外科、植物学の第一教授に任命された。
ハノーヴァーの選帝侯の資格でブリテンのジョージ2世からゲッチンゲンの教授団に加わるようにと招待されたのである。選帝侯は、自分の新しい大学の教授に、ヨーロッパのもっとも有名な学者を任命しょうと尊敬に値する関心を示した。

フォン・ハラーの有名な本「人体生理学要論」は、ローザンヌで出版された。その第1巻は1757年に現れ、神経学にあてられた第4巻は1766年に出た。
この後のほうの巻のLiber X、第7節は「生きている脳の現象」と題されていた。この節は、臨床上の観察に基礎をおいた有能な生理学的推論の手本である。
図3は、その本の中のこのすばらしい考察のある節の原文の一部を示したもので、フォン・ハラーはここで次のように結論している。

このようにして、神経は知覚し、外界の対象の印象を脳にもたらす。
この像はその同じ脳に貯えられ、もしその人が生きながらえるならば、50年もさらに100年でさえも、そこに生き生きとまたはっきりと残っている。・・・・脳に対するいろいろな種類の傷害や病気で、健康な人の脳に存続しつづける観念の永続性が破壊されることがある。
さらに重たい(脳の)傷害では、記憶は完全に失われる。

彼は、また、脳の圧迫で昏睡の状態をひき起こすことがあり、この圧迫が取り除かれると、意識と記憶が回復されることがあると書きとめている。


フォン・ハラーは、18世紀のもっともすぐれた生理学者の一人であった。

彼は筋肉の内在的な刺激感受性の考えを提出した。
神経学では、脳皮質を単に血管のかたまりであると考える誤りを犯した。
白質が唯一の神経中枢で思考の発起点と考えた。しかし、脳内での記憶の存続と脳の病気でのその根絶についての彼の強調は、進歩に対するもっとも重要な貢献であった。


みち草・・・・神経系

2013-02-28 09:00:00 | colloidナノ
脳の解剖学と病理学での中間期の進歩

18世紀と19世紀初期には、脳の内部での現象についての知識に関して、直接的な進歩はほとんどなかったが、脳の解剖学上のいくつかは、脳の機能を評価するうえでいちじるしく役に立った。

つまり、脊髄の前根と後根が運動と感覚の別々の作用をもっていることの発見は、脳が身体の活動を統合するものという考えを強めた。
さらに、脳の障害の正確な観察は、結果として生じる臨床上の症候と関係づけられて、病気によって傷つけられた部分の正常の機能を明らかにすることになった。

これらの進歩のいくつかをこれから簡単に考えてみることにしよう。これらは、いちだんと速くなりもっと目ざましい19世紀後半での進歩の先ぶれとなった。

神経の栄養、運動神経と感覚神経
アレキサンダー・モンロ2世Alexander Monro、1733-1817は、スコットランドの有名な解剖学者で、神経の栄養について、みごとな実験を行った。また、脊髄神経の後根の知覚神経と、脳で脳空間の孔(モンロの孔)を発見した。

彼はこの名の三人の医学的人物(父、子、孫)の第二番目の人で、彼らは順にエジンバラの解剖学と外科の教授(1719から1859年まで)を受け継いだ。
彼の「神経系の構造と機能に関する観察」という本は、エジンバラで1783年に出版され、その中には、神経学の実験の新しい方向が記述されている。
彼はカエルの一方の側の座骨神経切断して、傷のついていない反対の側の神経と対照として用いた。
これらの実験から、彼は、別けたところから末梢の方で何の変化もないので、だから栄養分は神経を下のほうへ通ってゆくことはないと誤った結論を下した。

当時利用可能であった顕微鏡を用いては、このような結論も驚くにあたらない。
事実、彼が利用できた光学装置を用いたものとしては、彼の顕微鏡的観察はまことに注目すべきものであった。図2は筋肉へ入りこんでゆく神経繊維を彼が描いたもので、「直径を146倍に拡大できる二重顕微鏡で観察され」ている。

モンロは、神経刺激の伝達には、神経を通しての液体の通過が必要でないことを、驚くべきほど明確に理解していた。
こうして彼はデカルトの理論を捨て去った。

彼は、また、栄養が神経に沿って通ってくるというウィリスやその他の人の考えとも意見を異にしていた。
赤い色素の洋アカネは、血液から若い動物の成長中の骨の中へ通過してゆくが、神経は同じようにはこの色素を血液から吸収することがないことをモンロは示した。
この観察事実と神経の切片についての結果とから、動脈が栄養を直接に準備し分泌するので、神経が栄養補給を果たすのではないと論理的に結論した。
アウグストス・ワラーの複雑なすばらしい研究の結果、この考えが修正されるのは70年後のことである。----結局のところウィリスの考えに立ちもどることになった。

脊髄神経の後根に神経筋をモンロが発見したことによって、彼の友人のスコット・チャールズ・ベルScot Charles Bell1774-1842が、1811年に、その神経節を通らない前根のほうだけが運動作用に関係していることの発見と、フランソア・マジャンデイー1783-1855による後根の知覚作用の最終的な証明への道を開いた。

事実、チャールズ・ベル卿は、1826年の弟への手紙で、「筋肉への二つの神経が必要で、一つは活動をひき起こすためのもの、他方はその活動の知覚を伝達するためのもので・・・・」、一方は「意志を先の方へ伝え・・・・」、他方は「その状況の感覚を内の方へ伝えて・・・・、脳と筋肉との間には循環が確立されていなければならない」と書いている。
19世紀の初めの頃までに、知覚と随意運動を相互に関係づけるうえでの脳の機能は、このように、十分に認められていた。




みち草・・・・神経系

2013-02-27 09:00:00 | colloidナノ
大脳髄質、白質

ニコラウス・ステンゼン(1838-86)はコペンハーゲンに生まれ、そこで教育を受けた。
彼は当時もっとも才能にめぐまれた解剖学者であった。彼は唾液腺からの導管(ステンゼン管)を発見した。彼はまた、神経系を卓抜した技倆と直感で解剖した。

事実、脳の白質の構造と機能についての彼の考えは、100年後でさえ、神経学の指導上の中核をなしていた。

彼のいちじるしい優秀さにもかかわらず、最初に適当な空席が生じたときにも、コペンハーゲンの解剖学の講座の教授に任命されなかった。
そこで、パリへ移住して、そこで1688年に、有名な「神経解剖学叙説」を、M.デヴェノーの家でのある個人的な会合で講演した。

この講演は、ステンゼンの偉大な同国人、ヤコブス=ベニグヌス・ウィンスローによる解剖学の教科書の一部に、それにふさわしい感謝をつけて組み入れられて、やっと1732年になって最初に出版された。

ウィンスローもやはりパリに移住してきていて、解剖学と外科の教授になっていた。
ステンゼンの講演は、ウィンスローの著書の第4巻の一つの章になっていた。この本は何回も版を重ね、英語にも翻訳された。

1672年に、ステンゼンはやっとコペンハーゲンの解剖学の教授に任命された。

しかし、この時までに、彼の興味は大部分地質学のほうに移っていて、彼は実際この学問の最も重要な創始者の1人であった。
1674年に、宗教上の熱誠からフィレンツェへやってきて、そこで、カトリックの司祭になった。
後に、法王によって彼は司教に任命された。
1686年に、北ヨーロッパでのたゆまない伝道活動に疲れ果てて死んだ。----17世紀のもっとも偉大な科学者の1人である。

ステンゼンの脳の構造についての講演は、明晰な思考、独創性および慎み深さの典型である。

当時の指導的な脳の解剖学者と認められながら、彼は、自分が脳の構造についてほんとうは何も知らないという陳述でその講演を始め、また、脳について多くのことを知っていると考える人たちは、「あたかも脳をつくり出した偉大な造物主のすべての設計を看破したときでも抱くような確信で語る」と述べている。

彼は魂の奇妙な重要さを強調している。
その外界に対する知識に限界がないのに、それ自身についてはほどんど何も知っていない。脳の表面の多様性が驚嘆をかきたてるが、「脳の内部を見通そうとすると、そこにはまったく何も見られない」と言っている。

ステンゼンは、脳が魂の主要な「器官」であると固く信じていた。
彼は脳が二種類の実質、灰白質と白質からできていることを知っていて、身体全体に配分している神経と白質がつながっていると考えた。
彼は白質の性質について深く研究した。彼は、白質をただ均一な物質とみなして、「隠れた構造が何もないもの、ろうのようだとするのは、自然の最も偉大な傑作をあまりにも低く評価するものだ」と言っている。

彼は、もし白質が、どこもかも繊維でできているのなら、「そして、いくつかの場所でそうだと見うけられるのだが、したがって、われわれの思考の運動の多様さのいっさいが依存しているのだから、これらの繊維の配列がみごとな技能で整頓されているにちがいないという点で私の意見に同意していただけるにちがいない」と述べている。

彼はさらにつづける。
われわれは、1つ1つの筋肉については、繊維の複雑な構造を認めているが、脳の中で神経があれほど狭い空間の中に閉じこめられていて、それぞれが紛糾も混乱もなしに作動しているこの複雑さを、どれほど大きく賛嘆しなければならないだろうか。・・・・きわめて特別の試料なしには、この点で成功できようと望むことさえはたして敢てしたかどうかわからないほど、このやり方にはいろいろな難点が満ちているのは真実である。
その実質(白質)はきわめて柔らかく、繊維はきわめてこわれやすいので、それらを傷つけないではほとんど触ることもできないほどである。

この最後の文は、今日も、新鮮な脳の検査に関係しているすべての病理学者から聞かれるであろう。組織の固定は当時知られていなかった。


ステンゼンによる偉大な進歩は、白質の繊維性についての発見で、彼は、それが神経とつながった繊維の束からできていることを示した。
彼は、さらに、すべての思考と運動が、脳の中での神経繊維の整頓と統合に依存していることを理解していた。

彼の主要な誤りは、「皮質に記憶が入っている」と言ったウィリスの考えに反対したことであった。
ステンゼンの評判が偉大で、彼の誠実さが明瞭であったので、皮質の機能についてのウィリスの考えが100年以上もの間、いちじるしく価値の低いものとされてしまったことは不幸である。

たしかに、ステンゼンの批判は、ウィリスのもっと穏当な想定に対すると同じ程度のに、デカルトの乱暴な思弁に対してもあびせかけられた。
ステンゼンにとっては、厳密な考察と細心の観察によって証明されものでなければ、科学においては何ものも十分正しいものではなかった。彼の主な功績は、思考する心の内部的なからくりの一部として、白質の繊細な繊維の複雑な相互の連絡を強調したことである。


このように、17世紀の後期までに、脳が思考の場であり中心であり、また想像と意志の活動に含まれている秩序正しい一連の活動の遂行を、白質の繊維が引き受けていることが、一般に信じられていた。

灰白質の真の性質について無知な状況が引き続いてたために、(脳皮質が記憶の場であり、精神活動の発揮点の中枢であるという)ウィリスの考えは一般に承認されていなかった。

その後の150年は、理性の時代であり、ロック、ニュートン、バークリー、ヒュームの時代で、プリーストリー、ラボアジエ、ドルートンが化学を錬金術から科学に高めた時代であるが、脳のからくりについての人間の知識については、それ以上の発展はほとんど起こらなかった。

事実、神経組織の構造、組成および病気についてもっと多くのことが理解されるいまでは、そのような進歩は不可能であった。