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サクラだ!⑥

2012-04-07 08:16:12 | colloidナノ
 1904年(明治37)2月10日「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられ、日露戦争がはじまった。
開戦論をとなえつづけ、政府を叱咤激励してきた東京帝国大学法科大学教授、戸水寛人はこれに大感激した。
「征露ノ壮挙タル我歴史アッテ以来ノ大事業ナリ我国民タル者須ラク非常ノ決心ヲ以テ当ラザルベカラズ・・・宜シク此際ヲ利用シ非常ノ発奮ヲ以テ我民族膨張ノ基礎ヲ確立スベシ」(電報新聞)

 その前年には、あの“七博士事件”があった、その年には夏目漱石が帰朝し東京帝国大学の教壇に立っていたのだ。


              散歩道にて

 桜田一郎は1904年正月元旦に京都市に生まれた。2歳上の姉との二人姉弟であった。
父の桜田文吾;1863-1922は明治・大正期に活躍したジャーナリストであった。文吾は苦学して東京法学院(後の中央大学)に学んだ後、陸 羯南が経営する日本新聞社に入社し、東京や大阪の貧民街の取材をしたり、日清戦争、北清事変、日露戦争に記者として従軍した。
正岡子規とは同じ社の記者仲間であった。
 その後京都に移り、広告会社の京華社、京都通信社を設立し、市会議員も務めた。

 桜田が化学者でありながら膨大な著作を通して披露した文才は、ジャーナリストであった父の影響によるところが大きかったと思われる。
少年時代の一郎は文学をやりたかったようであるが、母親のまさは「物書きになると飯が食えない」と忠告した。新聞記者という夫の不安定な生活を好ましく思わなかったまさは、息子に腰を落ち着けてできる職として技術畑に進むことを強く進めた。

 1920年(大正9)に京都府立代中学校を卒業すると、第三高等学校の理科甲に入学した。
彼の手記によれば、在学中、化学の実験で見た“真紅の金のコロイド溶液は、特に強い印象を与えた”。
 当時、コロイド化学は隆盛を迎えていた時期であり、三高の教師も化学の授業にコロイドを採り入れ熱を入れて講義をしていた。その頃から、将来の分野として「化学、しかもコロイド化学をやる」と周りの友人たちに漏らしていたという。
 化学を選んだ消極的な理由としては、ひとつには工科の中でも苦手な製図の負担の一番少ないのが化学系だったこと、もうひとつは遠藤(又従兄)に化学者の木村健二郎;1896-1980がいたことであったという。
 木村は地球化学者・柴田雄二;1882-1980の弟子であり、1922年(大正11)に東京大学理学部化学科の助教授になった。当時横浜に住んでいて、時々会う機会があった。
彼からは、「化学は幅の広い学問です。化学を選んでも、数学が好きなら数学的なことを、物理が好きなら物理的なことを、また本来の化学が好きなら化学をやればよいわけです」
という話を聞かされていたという。

 親元を離れたいがために東京帝国大学工学部の応用化学科への進学を考えていたが、卒業の直前に父が突然脳出血で他界したため、京都帝国大学の工業化学に入学した。
当時の工業化学科は、第一講座(窯業、固形燃料)を吉岡藤作;1889-1961、第二講座(電気化学、無機化学工業)を中澤良夫;1883-1966、第三講座(繊維、染料、製紙)を福島郁三;1882-1951、第四講座(発酵、石炭ガス)を松本均;1873-1950、第五講座(油脂、石油)を喜多源逸、第六講座(写真化学、工業薬品)を宮田道雄;1886-1984の各教官が担当していた。

 工業化学教室には毎月一回夕方に「工化会」と呼ばれる集まりがあり、教官が研究の話をした。
入学後の最初の「工化会」で、酢酸セルローズに関する喜多源逸の話に魅了された。欧米留学から戻ったばっかりの喜多は当時40歳で、研究者として油の乗り切った時期であった。
桜田は次のように述懐している。
 「(喜多先生は)多数の大きいビラを用意され、酢酸価、銅価、粘度など、赤黒のインキで書きわけ、トツトツと、しかし熱を持って話された。その口調、ジェスチャーなど今でも目に浮かんでくる。入学したての私には、その内容はほとんど理解できなかったが、研究の面白さというものにはじめて触れることができた。喜多先生の下で、繊維素(セルロース)の研究をやり、高分子の道へ入ったのもこれが動機である。」

 三回生になった時、桜田は迷わず喜多研究室の門を叩いた。そして、酢酸よりずっと高級な脂肪酸のセルロース・エステルの合成を卒業論文としてとりあげたいと考え、喜多に相談した。喜多がそれを許可し直ちにドイツとフランスの雑誌に掲載された二編の論文の別刷りを渡したことから察すると、喜多自身にも既にそのテーマが視座に入っていたと思われる。

 セルロース分子の基本単位であるglucoseグルコース基のは3個の水酸基が含まれていることが知られていたのだが、それらの論文では2個、あるいは2個と3個の間までしかエステル化されていなかった。
卒業研究では、直接木綿を原料にして3個の水酸基をほぼ完全にエステル化することに成功した。
 結果は、創刊されたばかりの雑誌「繊維素工業」に掲載された。こうして桜田は、セルロースの化学反応およびそれによってできる誘導体の研究を進めることになる。
                                                              「①教育-セルロースの世界へ-」古川安




1924年(大正14)
日本では:繊維素協会創立/日本生化学会創立  仁田勇「有機化合物結晶のX線による構造研究」
世界では:ノーベル化学賞はRichard Adolf Zsigmondy「コロイド溶液の不均一性に関する研究および現代コロイド化学における基礎的方法の創始」
Theodor Svedberg;1884-1971スヴェードベリ「超遠心機で高分子化合物の分子量測定」→1926年ノーベル化学賞「分散系に関する研究業績」

サクラだ!⑤

2012-04-06 07:06:07 | colloidナノ
喜多源逸(1883-1952)が東京帝大の工科大学応用化学科に入学した1903年から同校を卒業した1906年とは、日露戦争(1904-1905)を挟む期間となる。

卒業時の指導教官は河喜多能達(1849-1925)であった。

東北帝大に臨時の理化学研究所が設立された1906年には、東京帝大を辞して京都帝大に移った。その背景には河喜多能達との教育観の齟齬があったとされている。

児玉信次郎「当時東京大学応用化学科の学生が理学部の講義を聴講したいと申し出たところ、教授から自分のところで技術者として必要なことは皆教えてあるからそんなものは聞きに行く必要はないといってしかられたということを筆者は喜多先生から直接聞いたことがある」


あの沢柳事件の余波治まらぬ頃に、同級生の中澤良夫が京都帝大へ招聘された。
その中澤が上京した折に悶々としていた喜多の様子を見て余りに気の毒に思い、京都に来ないかと勧めてみた。すると「直ぐにでも行く」と即答した。

こうして1916年(大正5)6月、留学中の福島(郁三)の第3講座の補充という名目で採用された。

こ のように、沢柳事件、組織変更の結果生じた空席、さらに畏友中澤の存在が、喜多の京都招聘に繋がったのである。
そして、東京帝大の応用化学科に比べまだ伝統もなく、混沌とした中から生まれたばかりの京都帝大の工業化学科であったからこそ、喜多がそこで自己の教育理念に基づく学風を植えつけることが可能となったといえる。

第一次世界大戦も終わり、国際連盟の常任理事国として活躍が期待されていた頃に、アメリカ・そしてフランスに留学した。
マサチューセッツ工科大学ではArthur Amos Noyes;1866-1936に師事した。ノイズはライプチッヒ大学のWilhelm Ostwald;1853-1932のもとに留学し博士号を取得し、帰国後アメリかに新興の物理化学を導入した。後半の1年間は、パスツール研究所でGabriel Bertrand;1867-1962のもとで研究した。そこでは酵素に関するものであった。(リパーゼとか清酒、醤油などの発酵に関わる研究をしてきた)

喜多は留学中に京都帝大に提出した「リパーゼに関する研究」を種論文とする学位請求論文が認められ、留学中の1919年6月、工学博士号を与えられた。

帰朝して1年後、喜多は14人の主任研究員のうちの一人として、京都帝大の中に理研喜多研究室が発足した。喜多は、自分の弟子たちを理研研究生、助手、あるいは嘱託として採用し、理研の資金で給与を支給し、京都での研究活動を展開した。

桜田一郎、児玉信次郎、小田良平、宍戸圭一、新宮春男はいずれも若き日に理研の研究生ないし嘱託を経験している。

桜田は1926年、卒業後直ちに理研喜多研究室の研究生になった。彼はある座談会で、「あの時、理研がなければ、僕達も学校へ置いてもらえなかった。理研の大きな功績だね」と当時を回顧している。

桜田はその後、喜多の計らいで理研在外研究員としてドイツに2年半留学し、その留学体験から、高分子化学のわが国への導入に重要な役割を果たすことになる。

 1918年(大正7)6月に喜多のために第5講座が新設されると、彼はその担任として油脂、石油、繊維素に関する研究を進めた。
また、これまでの工業化学科において有機合成化学の基盤が弱いことを憂いて、プラハ・ドイツ工科大学講師であった有機化学者Karl Lauer;1897-1968を1934年(昭和9)9月、専任講師として招聘した。小田良平はその助手として薫陶を受け、後に第3講座の担当教授となり、工学部に有機合成化学の伝統をつくった。

 喜多は工業化学の教室に理学部の出身者も採用した。淵野桂六1909-1974もその一人であった。
喜多は桜田にX線技術の習得を指示する一方、京都帝大で物理出身の淵野を理研喜多研究室の研究生として待機させ、桜田が帰国したら直ぐにでも研究できるようにX線装置まで準備していた。淵野とのX線図による研究は、桜田の帰国後の高分子化学研究で重要な役割を果たすことになったのである。


 喜多は、これからの工業化学には数学や物理学が必要だということを感じていた。
大阪高等学校在学中の福井謙一が、「数学が得意なら化学をやりなさい」という喜多の当時としては一風変わったアドバイスに応じて京都帝大工業化学科に入学した話はよく知られている。

福井は喜多を“終生の師”と仰ぎ、喜多が京大に育んだこうした学問風土を“類い稀な自由な学風”と呼んでいる。

児玉信次郎は次のように書いている。
「・・・先生は極めて口数の少ない人であった。まして心にもないお世辞をいったり、人の機嫌を取るというようなことは一さいされなかった。しかし必要な場合は自分の正しいと思うことを直言してはばかられなかった。そして人を説く必要ある時は自分の信念を何の飾り気もなくとつとつと話された。であるから人は皆喜多先生の言われることを信用した。」

 大学院生時代の福井謙一を直接指導したのは教授の児玉信次郎であった。
児玉は喜多イズムの忠実な継承者であった。若き日に理研在外研究員として2年間ドイツに留学する機会を与えられた。留学中はできるだけ基礎の勉強をしたいと考え、喜多の計らいでカイザー・ウィルヘルム電気化学・物理化学研究所のMichael Planyi;1891-1976に師事した。ポラニーに初めて会った日、量子力学を知らない者はこの研究室には入れないから勉強するようにと言われ、ショックを受けて発憤し、猛勉強したというエピソードが残っている。

 後に児玉が喜多に工業化学科に量子力学者を招聘することを提案したのもこうした体験からきたものであった。喜多は直ちに賛同し人事を進めた。
そして理学部物理学科の湯川秀樹1907-1981に相談の結果、理研の研究生であった荒木源太郎1912-1980を新設の工業化学第九講座に専任教官として招聘することにした。
 荒木は数学概論(必修科目)と応用物理学(内容は量子力学;選択科目)の講座科目を担当した。

 喜多が工業専門学校の優秀な卒業生を雇いとして採用したことも喜多イズムの一つといえる。
彼らはきわめて立派な研究成果を出し、トップの仕事を支えた。
 例えば、桜田と李のビニロンの開発は川上博1919-2004の協力なしには語れないし、児玉の鉄触媒の研究は村田義夫1916-1996、堀尾正雄の名を国際的に有名にした羊毛の捲縮についての研究の成果は近土隆1916- 、同じく堀尾の広葉樹のパルプ化の研究は福田祐作1916-2006なしには考えられないのである。
 この人たちはすべて学士号を持たなかった工専卒であり、喜多研究室の雇いから出発し、その研究業績により京都帝大より学位を得た。

喜多は、当時のわが国の状況を鑑みて、アウタルキー(自給自足体制)のための研究を促進するの工業化学者としての使命と考えた。
京都帝大ではこれまでの発酵や油脂から、繊維(化学繊維と合成繊維)、人造石油、合成ゴムへと研究の重心を移して行った。彼が手掛けたこれらの研究プロジェクトは、戦前・戦中を通じて、国防上重要な物質であり、そのプロジェクトは当時言われていた“国策科学”の路線に沿ったものであった。
 オーストラリアの羊毛不買政策(1937)、商工務商の人造石油事業振興計画(1937)による大規模な合成石油の国家的製造計画、アメリカによる石油の対日“モラル・エンバーゴ;道義的禁輸令”(1939)、商工省の代用品開発振興策(1939)などの時局に即した研究テーマであった。


研究開発には多額の資金を要したが、喜多自らが調達の労を執った。
理研からの資金だけでなく、関西の財界・実業界との深い関わりを持っていた喜多は、彼らの資金援助をもとに研究活動を拡大した。
例えば、1936年(昭和11)に京都帝大内に伊藤萬助1875-1963の寄付金20万円をもとに財団法人日本化学繊維研究所を、1941年(昭和16)には東洋紡績からの寄付金をもとに有機合成化学研究所を創設し、その実質的な指導者として活躍した。


他方、アメリカにおける合成繊維Nylonナイロンの出現の結果、1941年に産官学を挙げて誕生した日本合成繊維研究協会では副理事長を務め、桜田一郎と李升基らによる合成一号(後のビニロン)の研究を促進させた。
合成繊維、人造石油、合成ゴムのいずれも工業化のための中間試験に企業の技術者も多数参加している。喜多は基礎研究を重視するだけでなく、それらの研究を工業化研究に繋げることに最大の努力を払った。それには産業界の支援なしにはなし得なかったことである。
→京都帝大に採用されたのが1916年6月、第一次世界大戦の終結直後から、第二次世界大戦も半ば天下分け目の天王山となった頃の1943年4月には定年退官する。

卒業生に贈る言葉として次のように記している。
「今日の戦争に於いて科学技術は直接間接に最重要な位置を占めて居る。我々は国家の為其躍進を計らねばならぬ。それには多数の智識を綜合する必要があるが、各人の努力が根本問題である。各人の努力を最有効に綜合するには一定の指導方針の下で協力する必要がある。そのためには道義の念が高揚されなければならなぬ。」


 工業化学における京都学派の門下生を記しておく。
桜田一郎、堀尾正雄、李升基、小田良平、児玉信次郎、宍戸圭一、古川淳ニ、新宮春男、福井謙一、鶴田禎二、野崎一、野依良治そして、あの岡村誠三・稲垣等であろう。


 







サクラだ!④

2012-04-05 07:09:40 | colloidナノ
 おのれを語る

 「其の頃にとべ いなぞう新渡戸先生が国際連盟の仕事でジュネーブに行かれたので、東大の植民地政策の講座の担当が空くことになりました。それで、東大経済学部では先生の後任を色々探したのですが、やないはら ただお矢内原を引出してはどうだろう、あれは新渡戸先生の弟子でもあるし、あれはどうだろうという事になりました。
 今頃、大学の教授になろうとするには、大した苦労でしょう。論文を書いたりなんかしてね。
私の時は論文なんかない。3年間鉱山に入っておったのですからね。植民地政策なんか勉強していたわけではないけれども、あれは新渡戸先生の弟子だし、何か書いたものがあるだろう、というんですが、私はあまり勉強しなかったものだから書いたものが無いんです。それじゃ手紙があるだろう。それで私が友人に送った手紙を見て、まあこれなら良いだろう、なんていって・・・・・これは本当の打明け話なんです。・・・・・東京大学助教授に手紙一本の審査でなれたんです。」

 同時期に、大蔵省をやめてやはり助教授になった大内兵衛が、次のような思い出を書いている。
「講義がはじまると、学生は矢内原先生の学説の新味と重厚さにおどろいた。そして『殖民政策』は直ちに東大経済学部の名物となった。事実、彼は毎日朝から晩まで研究室に立てこもって熱心に講義案を作ったばかりでなく、実に多くの専門の論文を次々に発表した。彼の『植民及植民政策』『殖民政策の新基調』『人口問題』はこの数年間の彼の努力を記念するものであるが、いずれも格調の高い名著である」

 植民地行政をきびしく批判したので、矢内原は日本の各植民地行政当局から警戒され、現地に視察に行こうものなら、たちまち密偵につきまとわれた。東大の矢内原の授業にまで、密偵が入りこみ、特に、植民地からの留学生で矢内原の授業に出ている者は厳しくチェックされたという。そのあたりは、また後に譲ることにして、・・・・

 この雑誌がそもそもどのようにしてはじまったのかというと、昭和7年9月、矢内原が満州事変後の満州を視察に行ったとき、乗っていた満鉄の列車が、新京とハルピンの間で匪賊の襲撃を受けたが、危機一髪のところを奇跡的に助かるという事件が起きた。この事件は日本の新聞にも報じられ、矢内原行方不明という大きな記事がでたため、多数の知人が、心配して問い合わせをしてきた。それにいちいち返事を書くのが大変なので、印刷物にしてしまえということで作ったのが、「通信」第一号なのである。

 これ以後の矢内原の人生は、ここにある「自分の公に言うべきことは言う」ために費やされたといってよい。しかし、満洲事変以後、急速に言論の自由は失われつつある日本で、言うべきことは言うのは、そうたやすいことではなかった。しかみ、矢内原が考えていた「言うべきこと」とは、経済学部における「満州問題」講義でなした程度の遠まわしの国家政策批判ではなく、もっとストレートに、満州事変以後の日本の国家政策が根本的に誤っているとする主張だった。それも単に政策上の誤りを批判するという程度の話ではなく、日本という国家が、神の前に不義とされるような存在になってしまっているということをはっきり糾弾すべしと考えていたのである。

 「昭和8年3月26日朝日講堂で内村先生第3周年記念講演会が開かれ、塚本(虎二)、畦上(賢造)、三谷(隆信)及び私の4人が講演した。・・・
私は伝道者でないといふこと、後輩であるといふこと、気が進まないこと等を理由として固辞したが、どうしても許されなかった。私が固辞した最も深い理由は、私が此の際壇に立てば、言うべき言はたった1つしかなかった。しかもそれは非常に明瞭に私に与えられていた。
私はこの言葉を言ふのがおそろしかったのである。それは私の社会的地位は勿論、場合によっては身体の自由をも賭さなければならぬ一言であった」

 「この『一言』とは、天皇を絶対とする国家至上主義によって推進されている満州事変以来のわが国の政策が虚位にもとづいている、ということであった。・・・忠雄は『悲哀の人』と題して20分語った。20分間心血を絞って彼は右の『一言』を語ったのである。このときの講演を回顧して彼は書いている。・・・・私は『悲哀の人』と題して満州事変以後神の前に罪を犯しつつある日本のために泣いた。それは私に覚悟を要した講演であったが、家に帰った後で家内が聴講の感想を語るには、『一瞬身が引きしまる思ひがしましたが、家のことはどうなってもよいと決心して、一生懸命神様にお祈りしました」と。
本当によく言ってくれた。私は後を顧みないで面をエルサレムに向け、急速にファッショ化のはげしくなって行く時局に抗して立つことが出来たのである」

 日本では、日露戦争のときに非戦論をとなえ、売国者、国賊とののしられた内村鑑三が悲哀の人の典型である。

 「思うに日本思想の精髄は其の国家観念にあるであろう。ここに日本思想の最美点があるであろう。しかも最美点のある処、最大の罪悪も亦伴うのである。・・・」
 
 要するに、満州事変は、国家が利欲にかられて犯した最大の罪悪だといっているのである。しかもその利欲でしたことを正義の名の下になしたかのごとく仮装するという罪の極致を犯しているというのだ。

 さらにいうなら、この講演会の直前に、「理想」という雑誌(昭和8年1月号)に寄稿した、「日本精神の懐古的と前進的」という論文で、矢内原は日本的国家主義について、もっと激しいことをいっていた。

 難解な論文だから、ここでは詳しくは論じられないが、そのエッセンスは、なんといっても、天皇の神性の問題である。キリスト教信者である矢内原にとって、天皇の神性をキリスト教の神の神性と同列に置くことだけはどうぢてもできなかった。天皇に神性ありとしても、それはキリスト教の神の全知全能でかつ宇宙のすべてを造った造物主であるという意味での神性とは別の神性であるということを矢内原は論証しようとした。


 矢内原忠雄追い落としの中心となった土方成美教授(経済学部長)であり、それと手を組んだ本位田祥男、田辺忠男などの教授連だた。
彼らはそれから間もなく「革新」(創刊昭和13年10月)という雑誌を作るが、その創刊号巻頭の「革新社の使命」という論文が、彼らの主張のエッセンスになっている。

 要するに、現在進行中の戦争とこれから予想される列強との戦争にそなえるために、これまでの私利私欲に支配されてきた経済システム、国家システムを、国家中心に全部組みかえていって、国家中心の全体主義体制をつくらねばならないということだ。

 ここで注意してもらわないことは、認識の違いである。
現代社会においては、“ファシズム”“ナチズム”“全体主義”というと、すべてがネガテイブ・イメージのかたまりになってしまうが、当時は全くそうではなかったということである。むしろそれらはいずれも、新しい時代の方向を示すポジテイブなイメージに包まれていた。

 昭和12年7月の盧溝橋事件にはじまる、日支事変(日華事変)は、すぐに中国との間の本格的な全面戦争に発展していった。その8月に国民精神総動員運動が開始され、翌年には国家総動員法が成立して、日本の社会はあらゆる意味で戦時体制になっていった。


 当時の大学においては、軍事(兵器)研究も重要な研究と教育の領域だったからである。
たとえば、造船学科には、軍艦設計学の講座があった。長輿の次の総長で、経済学部の騒動では平賀粛学と呼ばれる最終決着をつけた総長平賀譲は日本の軍艦設計の第一人者で、戦艦長門、陸奥、大和、武蔵など、数々の有名軍艦を手がけ、“軍艦の神様”とまでいわれた人である。長輿が総長のとき、平賀は工学部長をしており、二人はいっしょに、軍艦の進水式に招かれたりしている。
                       シブヤン海海戦で第一番砲塔に直撃弾を受ける大和(1944年10月26日


 帝国大学新聞は、(矢内原の最終講義)その内容をかなり詳細に伝え、その最終場面をこう書いた。
「全教室は今はただ頭を下げているだけだ、静まり返った中にかすかにすすり泣きが聞こえ始めた。・・・私が去った後で大学がファッショ化することを極力恐れる。大学が・・・流れのまにまに外部の動く通りに動くことを、私は大学殊に経済学部のために衷心恐れる。もしそういうことであるなら、学問は当然滅びるでろう。・・・・私は大学と研究室と仲間と学生と別れて、外に出る。しかし私自身はこのことを何とも思っていない。私は身体を滅して魂を滅することのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、憎みも恨みもしない。ただし身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように・・・・」

 この矢内原教授の授業から、わずか2週間もたたないうちに、労農派の全国一斉検挙が行われた。(第一次人民戦線事件

 「ところが右翼と連絡のある教授達は、矢内原君を葬ったら、次はOかKかと云っていた。Oとは大内兵衛氏,Kは河合栄次郎氏のことですね。これからO,Kの問題が進展したわけです。

 その朝の9時に僕(安藤)は高木君と一緒に青山新坂町の木戸邸をたずね、大内氏の人格学識を説明して、今度の新聞記事の真偽を質し、もし左様なことが事実起こるとすれば、その際に極力尽力してくれるようにと懇望したものです。
 きど こういち
木戸氏はこれに対して、事実無根として内務省に釈放を求めることは不可能であり、また文部省が処分を請合うことをすれば、文部省が大学を圧迫するという悪前例を作ることになるから、それも出来ないと云って、我々の申し出を婉曲に拒絶したものなのです。
ただ一般的な尽力はしようと漠然と答えたに過ぎなかった。その際のことだが木戸氏が、『どうも大学内部と警察当局との間にパイプが通じているから困ったものだ』と云ったのを記憶する」
この最後のくだりは、衆目の一致するところ、橋爪(明男)助教授のことをさしていた。








サクラだ!③

2012-04-04 08:33:47 | colloidナノ
「天皇と東大」(大日本帝国の生と死)を紐解く、立花隆に触れておきたい。

「沢柳・京大総長の7教授クビ切り事件」の前に置かれた「山川健次郎と超能力者・千里眼事件」の末尾には、「岡村教授の「家族制度全否定論」」が置かれている。

 明治44年には、岡村司教授の譴責事件というのが起きた。
民法の教授であった岡村が岐阜県教育総会で、知事、小学校教員を前にして「親族と家族」と題する講演を行ったが、その内容が不穏当だとして、文部当局から譴責処分をくらったのである。

 「過日地方官会議の際内務大臣の為したる訓示のに、「某家を重んぜよ、門閥を重んぜよ」とあり其意味は即ち家と門閥を重んぜよ祖先を崇めよと云う事になる、八公熊公が矢鱈に門閥を担いで居る・・・日本の民法には家が認めてあるが西洋には無い。
 家は人間の雨宿りでこんなものを法律で認むる必要はない家族制度も不必要で西洋の如く個人主義で結構なり、日本の法律には私生児というものを認めて居るが生まれた子供に何の罪あって私生児の名を被せるか・・・・生んだ親に制裁を加えずして生まれた子供に罪を被せるとは間違ひも亦甚だし、要するに日本の民法は根底より間違って居る云々」(東京朝日新聞;明治44年6月6日)

 教員らといっしょに聴講していた県知事(当時は内務省官僚)は、その内容にびっくり仰天し、「新聞社には講演については書かないように、小学校長には講演をきかなかったこといしてくれと頼みこみ、他方警察には博士を社会主義者で、家族制度を破壊しようとするものとして、大騒ぎになった」(向坂逸郎編著「嵐のなかの百年」)

 家というのは、日本の国体である天皇制の根幹をなすイデオロギーだったのである。
日本という国は、天皇を家長とする家族国家であると考えられていた。忠孝一本というスローガンがあったが、天皇制と家族制度は、家族制度を支える親孝行という道徳原理と、天皇への忠義心とが一体化して、体制を支える基本原理となっていたのである。

 そのあたりは、戦前、文部省が全国に配布して全国民に読ませた「国体の本義」に詳しく解説されている。

⇒今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。
 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。昭和十二年五月三十一日発行


たいぎゃくじけん大逆事件で幸徳秋水ら12名が死刑なったのは、この年のことである。大逆事件に政府当局者は驚愕し、それから一挙に、反国家的言動、天皇制への批判的言動、社会主義を支持する言動などに対する取締りがきびしくなった。

 家族制度を破壊しようとする言動に政府が神経質になったのも、このような流れにおいてなのである。

 時代の流れがこうなってくると、京都帝国大学に対する風当たりが強くなってくる。
もともと国家と一体化していた東京帝国大学には、国家のあり方を公然と批判する教授はほとんどいなかったが、もともと野党的体質を持っていた京都帝国大学法科大学には、平然と国家を批判する教授連中が少なからずいたからである。

 京都帝国大学では、後に沢柳事件、滝川事件などの形で文部省との大衝突事件が次々に火を噴いていくのだが、そうなる空気は、すでにこのころから醸成されていたのである。
岡村教授譴責事件は、そのような空気を一層あおるもので、教授や学生の中には、これ以上ことが深刻化するようだったら(たとえば懲戒免職など)博士と進退をともにして、政府と一戦まじえざるべからずととなえる向きもあったという。

(「大阪毎日新聞」明治44年7月19日)この新聞記事がまた、政府当局にショックを与えた。・・・ショックを受けたのは、政府当局者だけでなく、岡田良平のあとをうけて京都帝国大学総長になっていた菊池大麓(元東京帝国大学総長・元文部大臣)もだった。山川健次郎とちがって、胎ができていない菊池は、この記事に狼狽して、辞表まで提出してしまうのである。

「沢柳・京大総長の7教授クビ切り事件」
 沢柳の子息、沢柳礼次郎の「吾父さわやなぎ まさたろう沢柳政太郎」によると、当時沢柳が書き残したメモには、次のような記述があるという。「大学の改善は目下帝国の急務なり/我国学問の程度尚極めて低し/我国の富強の基礎を固くする為にも大学の大改革を要する/一流の学者なきは単なる他国に対する面目を保つ所以にあらざるのみならず国民の指導者なき点に於いて一大欠陥なり/故に大学の改善を図るは目下の急務なり」

 大学教官の研究業績が十分にあがっていないのではないかと感じていたのである。
こういう考えをもって京都にやってきた沢柳は、早速に行動を開始し、就任早々、一挙に7人(後に1名加わって8名になる)の教授のクビを切ってしまったのである。それがもとで起きた紛糾が沢柳事件である。紛糾は半年あまりにわたってつづき、結局、沢柳は就任後1年もしないうちに、辞職の止むなきに至る。

 勇退教授は、理工科大学から多く出て、文科大学と医科大学からも出たが、法科大学からは1人も出なかった。

 しかし、一人も犠牲者を出さなかった法科大学の教授会が奮然として立ち上がり、この処置に異をとなえた。
大学教授の任免は、教授会の議を経た上でなされるべきであって、今回のように総長の一存でそれがなされては、学問の独立と自由が保てなくなるという主張である。

 戸水事件以後、教授の人事権は大学側にあることをはっきりさせようという動きがあり、その流れとして、総長も教授の選挙によって選ぶべきだとする考えが、東京でも京都でも出てきていた。
 京都では、法科大学の学長(今の法学部長)を教授会において教授の互選で選ぶことが既に慣行して成立していた。そういう流れの中で、天下り総長が教授のクビを勝手に切ったのだから騒動になるはずである。

 しかし法制上は、帝国大学総長の人事権はあくまで文部大臣にある、だからこそ、戸水事件の山川健次郎辞任のあとただちに松井直吉が総長に任命され、教授たちから総スカンを受けてわずか12日間で辞任するという事件も起きたのだし、京都帝国大学では、岡田良平につづいて、沢柳政次郎と、次官級の文部官僚が次々と天下ってくるということも起こったのである。あるいは「4帝大総長総更迭」というような今では考えられないような乱暴な人事ができたのである。
 文部大臣の人事権は法制上は、総長はもとより、教授が選挙で選んでいたということのほうがむしろ異例なのである。

 京都帝国大学vs.文部省の権力関係において、文部省は形式上の権力上位関係に立ちながら実質上は大学側に押しまくられてきた。

 ここらで誰かが本当の権力者かガツンと見せつけておかないと、大学と文部省の権力関係は逆転してしまう。そこで、教授のクビ切り一挙7人断行という過激な手段でそれを見せつけたというのが、ありていにいってしまうと、この事件の背景に横たわる本質的構造ではないだろうか。

 文部省のロジックの基盤にあるのは、天皇大権論であり、大学側の論理の基礎にあるのは、アカデミック・フリーダム(学問の自由)論である。
天皇大権はどこまでアカデミック・フリーダムをおさえつけることができるか、アカデミック・フリーダムはどこまで天皇大権に抵抗できるか、この主題による変奏曲が演奏者を変えつつ何度も繰り返されたのが、戦前の大学の自治問題の歴史と総括できるだろうが、その最初の本格的対決が沢柳事件であったということができる。


 「沢柳総長の態度も堂々たるものであった。さきにあげたとおり、佐々木惣一先生が20年後に起こった私の事件が終わったのち、沢柳事件を回想された「秋の感慨」のなかで、沢柳総長の人柄のりっぱなこと、鋭い論理をそなえテいる人であることを、口をきわめて賞賛されていることから考えると、沢柳総長には、私たち学生の知らないえらいところが、教授側、とくに教授側の理論指導者であったと想像される年少教授・佐々木惣一先生の脳裏に強い印象をきざみつけたのであろう。『沢柳さんはえらかった』ということばを、私は佐々木先生から『耳にタコができる』ということわざどおり、いくたびかきいた」

サクラだ!②

2012-04-03 07:16:43 | colloidナノ
こうした不安な情勢の中で新しい昭和の世代が始まったが、本学では大正8(1919)年以来久しく中絶していた学部学生の卒業式を復活することとなり、その第一回が昭和2年(1927)年3月30日に挙行された。

奥丹後地方に激震があったのはその少し前、同じ昭和2年の3月7日で、本学からも救護班が派遣され、罹災者の救護に活躍したが、この年はそのころから再び金融恐慌に見舞われ、その責を負って若槻礼次郎内閣は総辞職した。しかし代わった政友会の田中儀一内閣も、軍部と手を結んで居留民保護を名目に山東省に出兵し、また翌3年(1928)6月には奉天郊外で張作霖を爆死させるいわゆる満州某重大事件を起こすなど、その中国に対する積極外交ははげしい非難を浴び、ついに退陣するに至った。
しかし大勢は軍部や右翼の急進派による大陸進攻とファシズムに向かって急速に進みつつあった。

一方日本共産党は大正11(1922)年の結党以来、きびしい弾圧にもかかわらず、昭和3(1928)年2月の第一回普通選挙では無産政党から8名の議員を当選させ、学生運動も底流として急奔していた。
このような情勢のなかで、同年3月15日、共産党に対する徹底的検挙が行われ、本学学生のうち社会科学研究会に属する20余名がまたも検挙された。いわゆる3・15事件である。

そして時を同じくして4月16日総長から経済学部教授かわかみ はじめ河上肇に対して辞職が勧告された。
                          ふさいの墓


新城新蔵の総長任期はこのように財政が緊縮され、学生思想問題の紛糾したときであったが、それは歴史的には満州事変が発生し、また血盟団事件や5・15事件が起こって、軍部・右翼の急進派によるファシズムの傾向がしだいに強化されて行く激動の時代であり、学問の自由と大学の自治は大きな危機に曝されていた。
きょうだいじけん京大事件(いわゆる瀧川事件)の発端となった法学部教授瀧川幸辰の刑法学説もすでにそのとき一部で問題にされていた。


結果として、法学部が非常に大きな犠牲を払うことになったのはまことに遺憾であり、学内関係者の事態に対する認識がその立場に従って已むをえず相違する場合のあったことも不幸な結果を招く一因であったかも知れない。
しかし歴史的に昭和8年(1933)という時点を顧みるとき、それは、学問の自由と本学が沢柳事件以来獲得してきた大学自治の輝かしい伝統を、ファシズムの狂奔に抗していかにして守るかという全学の苦悩の姿であったといえよう。

総長松井元興の任期は昭和12年(1937)6月30日までであった。その間京大事件のあと、昭和10年(1935)には美濃部達吉の天皇機関説が議会で問題とされ、政府は国体明徴の声明を行ったが、これを契機として言論に対する抑圧はいっそうはげしくなった。
翌年2月にはににろくじけん2・26事件が起こり、

                       降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男

⇒午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』と強い意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を繰り返した。
本学でも28日に「今般ノ東京ニ於ケル事変ニ付キテハ、各自厳ニ言動ヲ慎マレタシ」という告示が、学生生徒一般に対し出されたが、こうして軍部によるファシズムへの道はさらに推進され、ついに松井が任期を終えた直後、12年(1937)7月7日のろこうきょうじけん盧溝橋事件をきっかけとして日華事変が勃発した。
第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察した後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連(中隊)に対して周到な戦闘準備を整えるように要求し、日本軍がわが陣地100メートル以内に進入した場合は射撃してよく、敵兵がわが軍の火網から逃れないようにすることを指示した。7月7日、保定に常駐している第37師長の馮治安は急遽北平に帰還し、何基灃と協議のうえ、対日応戦準備の手配をした。


他大学と異なり、そのときさしあたって早急に後任総長を選出せねばならぬ苦しい立場に立たされていた本学が、昭和8年(1933)の京大事件の場合よりさらに激しさを加えたファシズムの嵐の中で、各大学と連絡強調しつつ、文部当局と折衝を重ね、極端な国家主義者の主張をよく退けて、大学自治の伝統を実質的に確保したことは、その間主としてその衝に当たった小島祐馬ら関係者の努力とともに大学自治史上銘記すべき一事件であろう。

この年(1938)には国家総動員法が公布され、近衛内閣は東亜新秩序の建設を声明した。

翌14年(1939)3月にはそれまで名目的には随意制であった学校教練を必修化し、週2時間実科・術科を行うことを命じた。

戦時体制がしだいに強化されるにしたがい、その要請に基づいた講座の増設、あるいは付属施設の設置が盛んとなってきた。


備考;工学部だけに限ってみても、昭和14年(1939)3月の「燃料化学」、翌15年(1940)6月「化学機械学」「燃料化学」、12月「物理探鉱学」、16年(1941)4月「繊維化学」「工業化学」「化学機械学」「燃料化学」、11月「航空機力学」、17年(1942)4月「機械工学」「鉱山学(採鉱学)」「冶金学」「工業化学」「化学機械学」「繊維化学」「航空学(航空機力学)」さらに毎年のように増設されてゆく・・・省略。

法学部と農学部を除いた、医学部、文学部、理学部、経済学部においても増設が図られた。


                              
昭和15年(1940)1月18日告示第一号によって本学の学旗・京都大学学歌が制定された。


昭和16年に入ると、つづいてふたつの附置研究所が生まれた。結核研究所と工学研究所である。

工学研究所は、・・・・大正3年(1914)の創設以来多くの業績をあげてきた工学部中央実験室を拡充強化し、工学各分科間に関連する問題の総合的研究をさらに積極的に進めて行くため、附置研究所として独立せしめたもので、所長には中央実験室に引き続いて工学部教授中沢良夫が任ぜられ、建物・設備をはじめ、物理工学・化学工学・構造工学・溶接・航空および防空の5研究部門もそのまま引き継がれた。


昭和16年(1941)は日本の運命を決する年となった。
昭和14年(1939)9月に第二次世界大戦が勃発し、日本はドイツ・イタリアと3国同盟を結び、日華事変の解決をみないままにアメリカ・イギリスと対立するにいたり、国内は完全に戦時体制、とくにアメリカとの決定的破局は刻々と近づきつつあった。
昭和16年は、4月に日ソ中立条約が結ばれ、7月には日本軍が南部仏印に進駐、8月に開始された日米会談も妥協の望みなく、9月には実質上対米開戦が決定され、ついに12月8日を迎えたのであった。

さていよいよ昭和18年(1943)に入る。
日本は緒戦の輝かしい戦果にもかかわらず、このころになると戦況がしだいに不利になり、この年2月には太平洋戦争の転機となったガダルカナル島からの撤退が開始された。
こうしたしだいに苛烈化する戦局の中で、学生は短縮された課程の消化に励むかたわら、さきに結成された報告隊の組織にしたがって府下乙訓郡大枝村の草刈作業に延べ5500名が、同じく船井郡下和知村と南桑田郡保津村・東別院村における薪の運搬作業に延べ1300名が出動した。


このようなとき文部省は9月29日省令第74号をもって「大学院又ハ研究科ノ特別研究生ニ関スル件」を公布し、大学院特別研究生の制度を新たに発足させた。

人物優秀・身体強健にして高度の研究能力を有する者を各大学が選んで文部大臣に推薦すものであるが、・・・・本学からは法学部11名・経済学部4名・文学部12名・理学部11名・工学部21名・農学部10名・医学部10名、合計79名がその選に入った。

                      昭和18年「出陣学徒壮行会」ラジオ放送

かくて11月20日には本学においても出陣学徒の壮行式が農学部運動場において挙行された。


翌年1月以後勤労動員が強化され、3月には春季休業も廃止された。
理科系学生は専攻の技術にしたがって多く工場や病院に配属されたが、法・文・経の文科系学生は単なる労働力として各地に派遣され、諸種の作業に従事せしめられた。

こうしたなかで、昭和19年(1944)5月19日勅令第354号をもって木材研究所官制が公布され、本学に木材研究所が付置されることになった。・・・初代所長には農学部教授梶田茂を迎え、木材物理学・木材化学・木材生物学の3研究部門をもつ木材の総合研究機関として発足した。

サクラだ!①

2012-04-02 07:07:07 | colloidナノ
はいけい!
「京都大学70年史」を紐解き見る、喜多先生。

 さて大正期における本学の充実の最後として掲ぐべきものは、大正15(1926)年10月4日に勅令第313号をもってその管制が公布された化学研究所の設立である。
化学研究所は「化学ニ関スル特殊事情ノ学理及応用ノ研究ヲ掌ル」と規定された本学における最初の附置研究所であるが、その淵源は、第一次世界大戦によって輸入の杜絶したSalvarsanサルバルサンの製造を研究する目的で、大正4(1914)年8月に設置された理科大学付属化学研究所にある。
 以来理学部助教授松宮馨を中心として続けられたサルバルサン類の製造に関する研究も進捗し、砒素化合体の研究成果も挙がったので、この年サルバルサン類製造組織の拡張と毒物に関する各種研究に対し予算を請求したところ、それが認められた。
 
 他方本学においてはかねてから化学に関する総合研究機関の設置が要望されいたので、この拡張予算の成立を契機として、その実現がはかられたのであった。
かくて従来の化学特別研究所は松宮研究室として新しい化学研究所に包括され、2月には初代所長に任じられた。
 同時に工学部教授喜多源逸・同渡辺俊雄、医学部教授前田鼎、農学部教授大杉繁・同近藤金助、理学部教授堀場信吉らが所員に補せられ、また高槻市古曽部に4500坪の敷地を買収して、鉄筋コンクリート造地階付3階建の研究本館の新築が進められ、のち昭和5(1930)年5月に至って開所式が行われた。


眼にとまった背景、第2項「大学自治の苦悩」
 第一次世界大戦は日本に空前の好景気をもたらし、日本資本主義の発達をうながして、一部の資本家をうるおした。しかし一般国民は物価の騰貴に苦しみ、大正7(1918)8月には米騒動が起こって全国に波及した。
 またその年11月大戦が終結すると、海外の需要が激減したため大正9(1920)年3月の株価の大暴落をきっかけとして深刻な戦後恐慌に見舞われ、加えて大正12(1923)年9月には関東大震災が起こった。
 こうしたなかで都市では労働争議が、農村では小作争議が頻発したが、かかる不安な社会状態のなかで民主主義の風潮が急激に高まってきた。それは政治面では政党内閣や護憲運動、あるいは普選運動となって現れたが、その背後にあってこれらを支えたものは吉野作造によって主張された民本主義思想であった。
それはやがて社会主義運動や労働運動と結びついてが、大正7(1918)年12月に吉野の指導のもとに東京帝国大学の学を中心として結成された新人会は当時の学生層に大きな影響を与え、やがて全国的な学生の連合組織を生むに至った。
 一方1917年のロシア革命はこれらの運動に大きな刺激を与え、急速に政治運動に発展して行った。
このような社会情勢に対して政府はそれらの運動に激しい弾圧を加えるとともに、普通選挙法の公布と時を同じくして、大正14(1925)年4月国体を変革し、私有財産を否定しようとする政治活動の鎮圧と、共産主義思想の流入を防ぐという名目で治安維持法を制定し、社会主義運動を厳重に取り締まりはじめた。
 
 こうして前項に述べたような本学の充実をもたらした大正デモクラシーの時代もついに終わりを告げることになるが、それを象徴するがごとき事件が同じ大正14(1925)年に思っている。ひとつは軍事教練の実施であり、他は京大学生事件である。→京都学連事件  

さらなる背景!
 さかのぼり見るのは、明治末期から大正初期にかけて、わが国ではとくに大学自治が論議され、ある程度の成果を獲得した。
そのひとつの契機となり、本学にも関係の深いのが、七博士事件(とみず ひろんど戸水事件)である。

 由来本学は創立以来自由主義の学風を特色とするが、その気風はとくに法科大学において強かった。
東大と異なり政府との因縁を持たぬ本学は、眼中文部省なく、元老なく、剛骨にして平民的、進取的学風を誇り、それ故に当局の危険視するところであった。
さらに戸水事件以来、大学自治の要求は強まっていたし、岡田の官僚的な大学運営に対する不信も加わり、教授の中から総長を選挙し、文部省に上申する希望が生まれ、前総長事務取扱久原を総長にするようにとの陳情が行われていた。
 菊池の起用は、このような状態の中で行われたのである。
 
 就任に際しては、元総長菊池とも相談し、京大改革案を携えて着任したのである。
就任2ヵ月後の7月12日、総長は天谷千松(医)吉田彦六郎、横堀冶三郎、三輪恒一郎、村岡範為馳、吉川亀次郎(以上理工)、谷本富(文)の七教授に辞表提出を求め、8月5日付で依願免本官が発令された。
                         穂積橋

顛末の結論を記す。
「・・・・是レ余等ノ主張スル所ト全ク同義ニシテ従来紆余曲折シテ為メニ紛糾シタル問題ハ此ノ如クニシテ平易ニ解決セラルルヲ見ルニ至レリ其他ノ問題ニ至リテハ既ニほづみ のぶしげ穂積富井両博士ノ調停アル余等ハ両博士カ万万余等ノ面目ヲ失ハシムルカ如キノ事ナカランコトヲ確信シ又大臣ノ衷情ノ存スル所ヲ察シ一切ノ措置ヲ挙ケテ両博士及大臣ニ信頼スルコトトシ是ニ於テ一同留任スルコトニ決セリ大臣ハ即夜沢柳総長ノ上京ヲ電命シ総長亦解決ノ趣旨ニ異議ナカリシヲ以テ翌夕大臣ハ更ニ官邸ニ於テ総長及余等ヲ召集シ両博士亦合同シテ最後ノ会見ヲ為シ茲ニ全ク事件ノ終局ヲ告クルニ至レリ」
                                                大正三年二月八日 京都帝国大学法科大学  教授助教授一同

サクラだ!

2012-04-01 07:09:53 | colloidナノ
 「化学史研究」を紐解いて見ると、目に飛び込んできたのが、あの映画「さくら、さくら」であった。
映画のタイトル「さくら、さくら」は、このワシントンに見事な桜並木をもたらした高峰(譲吉)の最後の業績にちなんでいる。

 しかし、ここでは「喜多源逸と日本の工業化学」(古川安)に、立ち止まって見ようと思うのだ。

喜多先生は「大学で得る最も大切なことは、アカデミックな雰囲気を味わうことです。これは講義を聞くよりも大切なことです。」と話されました。



 喜多源逸は明治39年、東京帝大工科大学応用化学科を卒業し、講師を経て明治41年に助教授になった。
しかし、当時の応用化学教育が、化学製品の製造法や装置の運転といった既存技術の習得に重きを置いていたことに不満を抱いていた。
喜多は、応用をやるには基礎が必須であること、応用化学者であっても基礎化学者としても一人前に研究できる人材を養成すべきであると考えた。

 大正5年に京都帝大の工業化学科に移ると、こうした理念を実行に移した。

 喜多の京都での活動は理化学研究所に支えられていた。
第三代所長・大河内正敏が大正11年に「研究室制度」を発足させると、喜多は主任研究員に任命され、京都帝大に中に理研喜多研究室を開設した。

 喜多は生涯に91件の特許を取得したが、その大半を理化学研究所員の身分で申請した。喜多が京大にもたらした基礎研究の重視、その産業化という学風は、大河内の「理研精神」に合致していた。

 喜多は、日本の化学工業における最大の欠陥は理論的研究に対し企業としての適否を実験すべき機関が欠如していることと考えていた。
彼は、そうした橋渡し的な「中間工業試験」(パイロット・プラントによるスケール・アップ試験)を、企業に依存できないとして、自ら学内で行うことを企てた。このような試みは大学として稀有のことであった。その遂行を可能にした機関が、京大附置化学研究所(本部は高槻)であった。

 喜多が国策科学の趣旨に沿ったテーマを選んだ理由は、自己の学問観やイデオロギーによるだけでなく、化研という制度的構造とも深い関係があった。化研は理研に倣って研究室制度を採用し、「主宰所員」(理研の主任研究員に相当)が研究室運営に関わる予算や人事などの権限をもっていた。
こうして研究室の自主性は保証されたものの、国立大学の附置研究所であるため、文部省による制約があった。

 喜多のグループが化研で繊維、人造石油、合成ゴムの開発研究を開始したからといって、何もないところからそれらの研究に入ったわけではない。その工業化研究の下地となる基礎的研究は、戦時動員体制が意識されるよりもずっと以前から、喜多の京都帝大工業化学教室で始まっていたのである。


 合成繊維の研究も、それまでの長期にわたる人絹の研究が下地になっている。工業化学科では、福島郁三および喜多が大正10年頃から繊維素に関する研究を本格的に開始していた。


 昭和11年、伊藤萬助の寄付により財団法人日本化学繊維研究所が京都帝大内に設立された。
理事長は京都帝大総長が兼任したが、実質の指導者は喜多であった。そこでの研究から生まれた成果の一つが、SAKURADA Ichiro櫻田一郎のグループによる合成一号の開発であった。


櫻田は昭和3年から2年半、理研在外研究員としてドイツに留学してセルロースの研究を進め、帰国後わが国の高分子化学の草分け的存在になった人物である。昭和13年秋にデユポン社がナイロンの開発を発表後すぐに、櫻田らはポリビニルアルコールの研究に照準を当てて、一年後に日本化学繊維研究所の講演会で李升基がその成果を発表した。
一方において、昭和16年に産官学合同の財団法人・日本合成繊維研究協会が発足すると、合成一号は同協会の化研構内に合成一号の中間試験工場が建設され、工業化試験が行われた。この研究は終戦で絶たれたが、戦後倉敷レーヨンを初めとするビニロンの開発に繋がる事業であった。

 学部との連携のもとに進められた化研の活動は、学部の拡充にも繋がった。
人材養成のための独立した学科の新設がそれである。戦時下の困難な時期に、燃料化学科(昭和14年)、化学機械学科(15年)、繊維化学科(16年)を増設させたのも、これまでの研究事業の流れがあったからである。
 赴任時には工業化学科4講座のみであった工学部化学系は終戦までに、工業化学科9講座、燃料化学科5講座、化学機械科4講座、繊維化学科4講座の計4学科22講座に拡大していた。

 喜多の率いた京都帝大グループは、産業界に支援と政府の指導を受けて合成繊維、人造石油、合成ゴムなどの工業化研究を大規模に展開したが、それらはいずれも本格的生産に入る前に終戦を迎えた。莫大な資金、人材、労力を注いだにもかかわらず、戦争には寄与することなく終わった。
しかし、その技術のあるものは戦後の工業界で開花した。
企業内にR&D(研究開発)が普及して中間工業試験は大学の役目でなくなる一方、工業化学において基礎研究を重視するスタンスは京大工学部の伝統として受け継がれた。結果的に、京大は高分子化学、触媒化学、量子化学といった関連基礎分野の開拓とその人材育成に主導的な役割を果たすことになったのである。

                       第3回化学遺産認定
ビニロンは基礎研究が1939年10月に京都大学桜田一郎教授らにより発表され、国産初の合成繊維として期待された。工業化研究は1941年から高槻中間試験場(大阪府)が設置されて開始され、倉敷絹織(現在の㈱クラレ)、鐘淵紡績(現在のKBセーレン㈱)など民間企業でも研究されたが、いずれも第2次世界大戦の進行により阻まれた。戦後、研究が再開され、1950年11月に倉敷レイヨン㈱により初めて工業化された。現在、京都大学に高槻の紡糸試験機の一部及び1942年に作成された工場計画書が保存され、またクラレ岡山工場に工業化初期の製品が保存されている。さらに京都大学グループの研究を工業化した大日本紡績(現在のユニチカ㈱)坂越工場(兵庫県)に、1947年8月から1950年11月までの高槻、坂越での研究記録とサンプルが大量に保存されている。

夢の神々なの⑱

2012-01-28 08:32:07 | colloidナノ
参考文献「ゲルと生命」(田中豊一英文論文集)2002年12月20日財団法人 東京大学出版会


序・・・・“本当に新しい科学の分野”を拓いた田中豊一

田中豊一博士は、マサチューセッツ工科大学(MIT)物理学教室の教授としての現職のまま2000年5月20日急逝された。享年54歳のあまりにも早い、惜しみても余りある死だった。
この偉大な科学者は、ゲルの物性物理学の体系を確立するという大仕事に正面からチャレンジし、幾多の日本の賞や国際賞を獲得した目覚しい業績をあげながらも、本人の思いからすれば道半ばにして倒れた、彼は科学という大空に彗星のように現れひときわ、輝き、そして、飛び去ってしまった。“神は優れたものを愛でる”のは本当かもしれない。

彼の業績はノーベル賞級の仕事だ。すでに受賞候補者に数えられていたことは間違いなく、もし天使が彼に更なる余命を与えたならば、日本人受賞者の数を増やしていただろう。ここに、その田中博士の輝きとしての業績が纏められ、彼が敬愛していた友人達による解説付きで出版されるのは、研究者の知情意の発露として素晴らしいことである。

論文のそれぞれが第一級の研究成果を示していることはいうまでもない。それにも増してわれわれを魅了し多くの若い研究者を啓発するものは、その田中流とも言える“大河ドラマ的”シナリオに流れる科学的精神である。論文集が持つ追憶の意味もさることながら、後進の研究者に航路を示し輝く燈台としての意義は大きい。

彼は“面白い状態”の変化、そして状態の“面白い変化”としてのゲル物質を、物理の計測と数理という協力極まりない武器を彼一流の巧妙さをもって駆使して余すところなく探求した。そこには強い個性に裏付けられた明確な思想・哲学の躍如があり、本質をズバリと突いた簡明な記述と相俟って、強い説得力をもってわれわれに迫ってくる。

寺田虎彦は、随筆ルクレチウスと科学の中で「今かりに現代科学者が科学者として持つべき要素として三つのものを抽出すると」として、<ルクレチウス的直感的能力>、<数理的分析能力>、<機械的実験によって現象を統計化し帰納する能力>を挙げている。

その三者を備えるひととしてヘルムホルツやケルヴィン卿など、当時の優れた科学者の名前が列挙されている。まさにこの意味で、もし現代の科学者の中で選ぶならば、田中豊一の名はその中に間違いなく入る。

<ルクレチウス的直感的能力>について詳しく説明する余裕はないので、寺田虎彦がその後記で「ルクレチウスの書によってわれわれが学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である」と喝破していることを記して止める。これで判る人には十分であり、判らない人には千万言を費やしても無駄である。


後記
 ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。
もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。またわれわれの科学的想像力の枯渇した場合に啓示の霊水をくむべき不死の泉である。また知識の中毒によって起こった壊血症を治するヴィタミンである。
 現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。
 実際昔も今も、科学の前衛線に立って何か一つの新しき道を開いた第一流の学者たちは、ある意味でルクレチウスの後裔こうえいであった。現在でもニエルス・ボーアやド・ブローリーのごときは明らかにその子孫である。彼らはただ現時の最高のアカデミックの課程を修得したルクレチウスにほかならないのである。・・・省略


田中博士はこの論文集に見られるように、学位論文の対象となった単一の高分子であるα-へリックスの構造転移から研究に入り、その根底にある分子物理を大きく拡大発展させて、高分子が作る編み目、ゲル、の構造転移の体系を完成した。そこからさらに、要素に配列多様性のある高分子であり、シュレーディンガーが名著「生命とは何か」の中でいみじくも“繰り返しのない結晶”と表現した蛋白質の構造・機能の解明にチャレンジしつつあった。
“生命の神秘”を“分子システムの不思議”に移して見る糸口をつかんだばかりだった。この仕事は同業者によって受け継がれ発展してゆくことだろう。

寺田虎彦の愛弟子であった中谷宇吉郎は、その随筆の中で述べる。

「もし生命の分子論的説明ができたとしたら、生命の神秘は消え失せてしまうように考えるのは間違っている。寺田先生の言葉を借りれば、それは“生命の不思議を細胞から原子に移したというのみで原子の不思議は少しも変わりはない”のである。
人間には二つ型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたかと思う人と、物質の神秘が増したと考える人がある。そして科学の仕上仕事は前者の人に」よってできるであろうが、本当に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか。」

我が国をはじめ世界中で、多くの科学者が数多くの優れた業績を上げている。しかし、本当に新しい科学の分野を開く人は稀だ。

この論文集から学ぶべきことは多いが、その最たるものは具体的事象の知識でもなくまたその論理でもない。再度繰り返すが、それは“本当に新しい科学の分野を拓いた”田中豊一の科学的精神なのである。

                                             2002年10月 理化学研究所ゲノム科学総合センター所長  和田昭充



                    読後感想ともいえる事の、その一つは有馬朗人からの質問でした。


「大きなゲルだったらば、不純物をたくさん入れられるよね、小さなゲルだと、どうしてもも不純物をあまり入れられないだろうと。だけども大きなゲルの中に、ある不純物をたくさん入れておいて、相転移を起こせば、不純物の密度をうんと上げることができるよね、ということが、私の田中さんに対する質問であったわけであります。」

珈琲の渦を見てゐる寅彦忌


自然界をゆるがす「臨界点の謎」と題する読み物がある。
そこには“超流動・超伝導・超臨界の臨界点”があり、あの「深海底の熱水噴出孔から噴き出る超臨界水」、それは220気圧、374℃に達すると液体と気体の境界が消える臨界点に達し、超臨界水が誕生する。

超臨界水は電気的性質も普通の水とはまったく違う。この性質を利用して植物や鉱物から特定の物質を抽出したり、廃液の処理に応用するなどの試みも行われている。
常温では水分子は電気を帯びているが、臨界点付近では電気的性質が失われる。そのため、もともと電気的性質をもつ無機物は超臨界水に容易には溶けず、他方、電気的性質をもたない有機物はすぐに溶けるということになる。そこで、水の温度や圧力を変えて普通の水と超臨界水の間を行き来させることにより、有用物質の抽出や有毒物質の分解を行うという新たな可能性が論じられている。

超臨界水が生命を生み出したか?
超臨界水が噴き出している深海底の周辺には、地上の世界とは異なる独自の、それも非常に豊かな生態系が存在するだけでなく、海底熱水噴出孔は、地球生命誕生の候補地ともなっている。
海底から噴出する超臨界水は地殻の中に存在するさまざまな金属や無機物を溶かし込んでいると考えられている。それが周囲の冷たい水と混ざり合ったときには、さきほど見たような理由で地上とは異なる反応が起こるかもしれない。有機物の反応性を高める超臨界水の存在がわれわれの想像を超えた物質を生み、それが生命の材料物質となった可能性もある。


もっとも、超臨界水の中でせっかく反応が起こっても、超臨界水からすみやかにその外側の冷たい海水中に移動しなければ、生命の材料物質はすぐに崩れてしまうおそれがある。

                              
実験では、超臨界状態の中で蛋白質の材料物質であるアミノ酸がいくつも連なることが確かめられている。これは熱水噴出孔の超臨界水が生命誕生の最初のきっかけとなった可能性をも示唆する。


ここに書き記された事は、「相図」として表せるところの関係性にも似た、棲み分けを暗示しているのではないかと、想っているのだ。

夢の神々なの⑰

2012-01-25 09:00:00 | colloidナノ
第12話「壮大な夢」
私の研究室は中国系の人が4人、日本人が5人、トルコ人が1人、米国人が2人、ロシア人が1人で、専門も理論物理学、実験物理学、科学、生物学、医学、原子核工学とさまざまである。
これらの研究仲間と一緒に、いま壮大な科学の夢を追っている。それは、生命の最も基礎的な活動を担っている高分子の働きの基本原理を知りたい、といことだ。生命を理解するには無数のレベルでの理解が必要だが、私は知りたいのは、その最も基礎となる高分子の機能のところである。そこに「生命」と「もの」との一線が画されており、ここを物理的に納得のできるよなスムースに結んでみたいと願っている。この夢がはやく叶えられるようにと願う一方で、いつまでもこの壮大な夢を見続けていたいという気もする。


以上で第1章『ゲルの世界』を読み終えました。これで一先ず終えたいと思いますが、終えるのにも作法があろうと思案していて目にとまった記事、それが『ゲルの研究と古事記新講』です。

数年前、次田先生のことを偶々、しかししみじみと思い出したことがあります。
その偶々を説明するため研究のことを述べますのでしばらくおつきあい下さい。科学者としての私の今の夢は、生命の根本の理解にあります。地球上に現れたすべての生命、その活動を担っているのは蛋白質という細長いちっちゃな高分子ですが、それは20種類のアミノ酸を数百個ほどある配列に繋げてできた紐です。驚くべきことにその紐はある構造を記憶していて、水の中にいれると自然にその形に戻ります。記憶された構造はそのアミノ酸の配列により異なり、あるものは分子を認識したり、あるものは酵素となって分子を切ったり貼ったり、また、あるものは運動を起こしたりする無数の分子マシーンができます。

その配列を4種類の核酸分子を使った4文字からなる暗号にして記したのがDNAという、これも高分子です。現代科学はどうやったらそのような高分子をデザインできるのか、その秘密をしりません。これは生命がどうやって生まれたのか、生命の起源にも関わる大問題です。分子生物学のすばらしい進展にもかかわらず、分子デザインのもとになる情報はいまだにすべて生命体由来の遺伝情報によってしか得られません。
数年前に日本でも大ヒットした映画「ジュラッシック・パーク」では古代の恐竜を蘇らせますが、そのもとは恐竜の血を吸った蚊の化石です。その血の中にある恐竜のDNAがどうしても必要なのです。
クローン羊も親のDNAがないとできません。今のところ人間はどのような配列で文章を書けばタンパク質のような驚くべき機能をもつ高分子ができるのか分かっていないのです。

その解決のヒントがゲルの研究から数年ほど前に得られました。それは配列はわれわれが選ぶのでなくて、アミノ酸自身に選んでもらおうというものです。まずアミノ酸を水中で自由に泳がせておこう、そうすると、お互いに好きなもの同士が傍らに寄り添って安定になるだろう、そこで、それらを数珠つなぎにすれば、その高分子は出来たときの構造を覚えているであろう、というのです。もしある分子を認識して吸着するような高分子を作りたければ、そのターゲットになる分子も一緒にスープの中に混ぜておきそこで高分子に繋げれば、そのターゲットを認識できる高分子ができるだろう、というアイデアです。
生まれたてのヒヨコが最初に見た動くものをその母鶏として脳に記憶することがよく知られていますが、あの「刷り込み」が生命の誕生では分子レベルで働いたのではないか、そう考えているのです。何年もその実験的証明に四苦八苦してきてようやくその成果が出てきたところです。

このことを父に話したところ、そのアイデアを以前どこかで見たことがあると言い、ある本を送ってくれました。
それは『古事記新講』で「次に国稚く浮きし脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える時・・・・・塩こをろこをろにき鳴らして引き上げたまふ時、その矛の末より垂れ落つる塩、累なりつもりて島と成りき。」と、この世の創造のさまが書かれていました。
生命の誕生のさまと何と似ていることでしょうか。その『古事記新講』を著された方は、実は次田先生のお父上、次田潤先生でした。あの近寄り難そうで居てとても優しかった次田先生のお父上がこのような研究をされていたことを始めて知り、一体どんな方だったのか何日も想像を廻らせていました。

どうしてもしておきたいことがあるのに、身体も動かず、根気も続かず、一方世間の義理、しがらみに押し流される毎日ですが、50歳を越え人生の終点が見えてきた今、あの不安に満ちた高校生の自分を何としても取り戻したいと願っています。

たなか とよいち、1946年1月4日 - 2000年5月20日

            田中豊一

夢の神々なの⑯

2012-01-24 08:53:23 | colloidナノ
田中の母方の従姉妹鍋島(旧姓石黒)曜子の夫。田中の祖母本間ミイの喜寿の祝いが唯一の接点。田中が漢詩を作って贈ったことが印象に残っているという。鍋島陽一「生物における相転移?集積と飛躍」



聞くところによりますと田中豊一博士の興味はどのようにして、この地球に生命が誕生してきたかという点であった由。
ゲルの相転移の研究から、どうして「生命の起源」の問題にと思われる方も多いと思われますが、非凡な田中博士には閃くものがあったに違いありません。割愛



ゲルの相転移では、おかれた条件の変化が閾値を超えた瞬間にその物性が変わるように理解しておりますが、生物のおける‘集積と飛躍’も現象的には同じに見えます。
閉ざされた場における反応の集積とそれを取り巻く環境の変化がある閾値に達しなければ、一見何も起こっていないように見えますが、ある時点で飛躍が起こり、その連鎖によって原始生命の誕生がもたらされたと推定することは可能ではないでしょうか。進化においても同様です。

田中博士の脳裏には相転移の延長線上にこの姿がどのように映し出されていたのでしょうか。
田中博士は原始生命を司る分子として蛋白質を考えていました。そして、蛋白質を取り巻く条件の変化に合わせて段階的に構造が変化するのではなく、ある範囲内の条件では同一の立体構造をとり、異なる条件下に移行すると、異なる一定の立体構造へと変換すると考えていたのではないでしょうか。

私の意見では田中博士が最初に想定したのは現存するような長鎖蛋白質ではなくて、比較的短いペプチド、およびその集合体ではなかいと考えています。
ある配列を持つペプチドは一定の立体構造をもっており、機能単位(ドメイン)となりえます。複数の異なるペプチドが集合した際にはそれぞれが立体構造、すなわり機能を保持しつつ大きな構造、より複雑な機能を持つ集合体を形作ると推定できます。また、その組み合わせの変化、異なる構造を持つペプチドが加わること、あるいは、あるペプチドが抜けることで、新たな構造と機能を実現したと考えられます。さらに、複数の異なる集合体が相互に作用し、多彩な機能と反応性に富んだ構造体へと発展したのではないでしょうか。
実際、現存する蛋白質の構造と機能の成り立ちから、蛋白質が複数のペプチドから進化してきた足跡を読みとることができます。


田中博士は単一蛋白、および、複数の蛋白を用いた実験とコンピューター・シュミレーションによる解析により多数の素子の集合体である生命誕生の謎に迫ろうとしていたのではないでしょうか。
ただ、伝え聞く話では、田中博士が考えていたことはもっと非凡なものであって、およそ私のような凡人の考え及ぶものでなかった可能性が高く、残念なことですが、これ以上の議論は私にはできません。


しかし、この議論には2つ疑問があります。
その第一は、あとえペプチドといえども、数十のアミノ酸からなっており、その配列はどのようにしてつくられたかについてです。
蛋白質の立体構造に全てのアミノ酸が等価に関わっているわけでもなく骨格を成すアミノ酸以外は比較的フレキシブルであることや、アミノ酸配列が違っていても特定の構造をとりさえすれば機能上は対応できることなど、結構、融通が効くことを考えても疑問は残ります。
田中博士は、この問いについてきわめて斬新なアイデアを持っていた、あるいはすでに相当進んだ結論に達していたと伝え聞いておりますが、そのアイデア、結果をうかがう機会は閉ざされてしまいました。例えうかがう機会があったとしてもあまりに斬新で、私の理解を超えていた可能性が大きいようにも思っております。

第二の疑問は蛋白質と遺伝物質との関係についてです。
蛋白質の集合体から例えばコアセルベートのような原始生命を想定することは可能と考えますが、真の意味での生命体を想定するには遺伝物質の議論が必要になります。なぜなら、生物の基本要素は遺伝物質の複製による自己増殖性と継続性だからです。エンゲルスの時代は蛋白質が遺伝物質であると考えられていました。しかし、現存する生物ではDNAに遺伝情報が蓄えられており、メッセンジャーRNAを経て蛋白質の一次配列情報へと変換されております。生命誕生の過程でどのようにしてDNAの遺伝情報は構築されたのでしょうか。そのヒントは遺伝子構造そのもに秘めたらているようです。

遺伝子はエクソン配列と介在配列からなっています。
エクソン配列はまさにペプチドの配列情報に相当し、複数のエクソン配列が介在配列を介して連結し、複数のペプチドがつながった蛋白質をコードする遺伝子がつくり出されと推定できます。遺伝子も最初は多種類の短い配列であったと推定され、ペプチドと遺伝子配列がどのような相互作用のもとに分子進化を遂げたか、大変興味深いところです。私は遺伝子を研究していることもあり、田中博士に是非とも、この問題について博士の意見をうかがってみたかったと考えておりました。
田中博士は遺伝情報をどのようにとらえていたのでしょうか。例えば、情報はDNA→RNA→蛋白へと一方向に流れたのか、それともペプチドのアミノ酸配列をDNAの配列情報に変換できたのか?そもそも最初からDNAが遺伝情報の担い手だったのか?より反応性の高いRNAが最初の遺伝情報の担い手だった可能性は?このような疑問は当たり前のことで、博士はもっと奇想天外なアイデアを持っていたのかもしれません。もし、田中博士のアイデアをうかがった方がおられましたら、教えていただけないでしょうか。


私はふとしたきっかけでklotho遺伝子を研究することとなり、老化、死を研究対象の一つとしております。
Klothoは生命の誕生に立ち会い、生命の糸を紡ぐ女神の名前です。幸いなことに、私はこの研究を始めたことによって、百二十年のヒトの寿命のこと、ドーキンスの唱えたミームのこと、老いを迎えた人間にとって生きる意義とは何かを問い続けております。生身の生物と日々格闘しながら実験している私は、洗練された理論に基づいて実験をしていた田中博士と接点を持つことはできませんでしたが、生命現象の真髄に触れたいとの思いは共通だったに違いありません。相転移から生命の誕生へと紡がれてきた田中の糸は田中博士の急逝により断たれてしまったかのように見えますが、そのようなことはありません。どのよううな研究も担い手は過去のものとなりますが、優れた事実は歴史を生き続けるのです。そして、受け継がれるのです。
筆者の注:多彩なヒトの老化症状に似た表現型を示す変異マウスの原因遺伝子として同定された遺伝子で一型膜蛋白質、分泌型蛋白質をコードしている。Klotho蛋白質は生体の維持に必須であるカルシウム・リン酸ホメオスタシスの制御を司る重要な因子として機能している。




参考記事抗老化ホルモンKlotho(クロトー)による寿命の延長とその分子機構の解明

老化を抑えて健康に長生きすることは万人の夢です。
その夢の実現のためには、まず老化のメカニズムを正しく理解することが必要です。しかし、老化は非常に複雑な生命現象で、今日でもなお、自然科学上最大の未解決問題の一つです。医学的な見地からは、「老化」は動脈硬化、虚血性心疾患、脳卒中、癌、糖尿病、骨粗鬆症、認知症などあらゆる成人病に共通の、かつ最大の危険因子とみなされています。したがって、老化そのものを抑制・遅延することが、あらゆる成人病に対する最も有効な予防策であることに間違いはありません。研究グループは今回、老化を抑制するホルモン(抗老化ホルモン)の存在を世界で初めて証明し、老化のメカニズムの解明に向けて大きな前進を遂げました。