1904年(明治37)2月10日「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられ、日露戦争がはじまった。
開戦論をとなえつづけ、政府を叱咤激励してきた東京帝国大学法科大学教授、戸水寛人はこれに大感激した。
「征露ノ壮挙タル我歴史アッテ以来ノ大事業ナリ我国民タル者須ラク非常ノ決心ヲ以テ当ラザルベカラズ・・・宜シク此際ヲ利用シ非常ノ発奮ヲ以テ我民族膨張ノ基礎ヲ確立スベシ」(電報新聞)
その前年には、あの“七博士事件”があった、その年には夏目漱石が帰朝し東京帝国大学の教壇に立っていたのだ。
散歩道にて
桜田一郎は1904年正月元旦に京都市に生まれた。2歳上の姉との二人姉弟であった。
父の桜田文吾;1863-1922は明治・大正期に活躍したジャーナリストであった。文吾は苦学して東京法学院(後の中央大学)に学んだ後、陸 羯南が経営する日本新聞社に入社し、東京や大阪の貧民街の取材をしたり、日清戦争、北清事変、日露戦争に記者として従軍した。
正岡子規とは同じ社の記者仲間であった。
その後京都に移り、広告会社の京華社、京都通信社を設立し、市会議員も務めた。
桜田が化学者でありながら膨大な著作を通して披露した文才は、ジャーナリストであった父の影響によるところが大きかったと思われる。
少年時代の一郎は文学をやりたかったようであるが、母親のまさは「物書きになると飯が食えない」と忠告した。新聞記者という夫の不安定な生活を好ましく思わなかったまさは、息子に腰を落ち着けてできる職として技術畑に進むことを強く進めた。
1920年(大正9)に京都府立代中学校を卒業すると、第三高等学校の理科甲に入学した。
彼の手記によれば、在学中、化学の実験で見た“真紅の金のコロイド溶液は、特に強い印象を与えた”。
当時、コロイド化学は隆盛を迎えていた時期であり、三高の教師も化学の授業にコロイドを採り入れ熱を入れて講義をしていた。その頃から、将来の分野として「化学、しかもコロイド化学をやる」と周りの友人たちに漏らしていたという。
化学を選んだ消極的な理由としては、ひとつには工科の中でも苦手な製図の負担の一番少ないのが化学系だったこと、もうひとつは遠藤(又従兄)に化学者の木村健二郎;1896-1980がいたことであったという。
木村は地球化学者・柴田雄二;1882-1980の弟子であり、1922年(大正11)に東京大学理学部化学科の助教授になった。当時横浜に住んでいて、時々会う機会があった。
彼からは、「化学は幅の広い学問です。化学を選んでも、数学が好きなら数学的なことを、物理が好きなら物理的なことを、また本来の化学が好きなら化学をやればよいわけです」
という話を聞かされていたという。
親元を離れたいがために東京帝国大学工学部の応用化学科への進学を考えていたが、卒業の直前に父が突然脳出血で他界したため、京都帝国大学の工業化学に入学した。
当時の工業化学科は、第一講座(窯業、固形燃料)を吉岡藤作;1889-1961、第二講座(電気化学、無機化学工業)を中澤良夫;1883-1966、第三講座(繊維、染料、製紙)を福島郁三;1882-1951、第四講座(発酵、石炭ガス)を松本均;1873-1950、第五講座(油脂、石油)を喜多源逸、第六講座(写真化学、工業薬品)を宮田道雄;1886-1984の各教官が担当していた。
工業化学教室には毎月一回夕方に「工化会」と呼ばれる集まりがあり、教官が研究の話をした。
入学後の最初の「工化会」で、酢酸セルローズに関する喜多源逸の話に魅了された。欧米留学から戻ったばっかりの喜多は当時40歳で、研究者として油の乗り切った時期であった。
桜田は次のように述懐している。
「(喜多先生は)多数の大きいビラを用意され、酢酸価、銅価、粘度など、赤黒のインキで書きわけ、トツトツと、しかし熱を持って話された。その口調、ジェスチャーなど今でも目に浮かんでくる。入学したての私には、その内容はほとんど理解できなかったが、研究の面白さというものにはじめて触れることができた。喜多先生の下で、繊維素(セルロース)の研究をやり、高分子の道へ入ったのもこれが動機である。」
三回生になった時、桜田は迷わず喜多研究室の門を叩いた。そして、酢酸よりずっと高級な脂肪酸のセルロース・エステルの合成を卒業論文としてとりあげたいと考え、喜多に相談した。喜多がそれを許可し直ちにドイツとフランスの雑誌に掲載された二編の論文の別刷りを渡したことから察すると、喜多自身にも既にそのテーマが視座に入っていたと思われる。
セルロース分子の基本単位であるglucoseグルコース基のは3個の水酸基が含まれていることが知られていたのだが、それらの論文では2個、あるいは2個と3個の間までしかエステル化されていなかった。
卒業研究では、直接木綿を原料にして3個の水酸基をほぼ完全にエステル化することに成功した。
結果は、創刊されたばかりの雑誌「繊維素工業」に掲載された。こうして桜田は、セルロースの化学反応およびそれによってできる誘導体の研究を進めることになる。
「①教育-セルロースの世界へ-」古川安
1924年(大正14)
日本では:繊維素協会創立/日本生化学会創立 仁田勇「有機化合物結晶のX線による構造研究」
世界では:ノーベル化学賞はRichard Adolf Zsigmondy「コロイド溶液の不均一性に関する研究および現代コロイド化学における基礎的方法の創始」
Theodor Svedberg;1884-1971スヴェードベリ「超遠心機で高分子化合物の分子量測定」→1926年ノーベル化学賞「分散系に関する研究業績」
開戦論をとなえつづけ、政府を叱咤激励してきた東京帝国大学法科大学教授、戸水寛人はこれに大感激した。
「征露ノ壮挙タル我歴史アッテ以来ノ大事業ナリ我国民タル者須ラク非常ノ決心ヲ以テ当ラザルベカラズ・・・宜シク此際ヲ利用シ非常ノ発奮ヲ以テ我民族膨張ノ基礎ヲ確立スベシ」(電報新聞)
その前年には、あの“七博士事件”があった、その年には夏目漱石が帰朝し東京帝国大学の教壇に立っていたのだ。

桜田一郎は1904年正月元旦に京都市に生まれた。2歳上の姉との二人姉弟であった。
父の桜田文吾;1863-1922は明治・大正期に活躍したジャーナリストであった。文吾は苦学して東京法学院(後の中央大学)に学んだ後、陸 羯南が経営する日本新聞社に入社し、東京や大阪の貧民街の取材をしたり、日清戦争、北清事変、日露戦争に記者として従軍した。
正岡子規とは同じ社の記者仲間であった。
その後京都に移り、広告会社の京華社、京都通信社を設立し、市会議員も務めた。
桜田が化学者でありながら膨大な著作を通して披露した文才は、ジャーナリストであった父の影響によるところが大きかったと思われる。
少年時代の一郎は文学をやりたかったようであるが、母親のまさは「物書きになると飯が食えない」と忠告した。新聞記者という夫の不安定な生活を好ましく思わなかったまさは、息子に腰を落ち着けてできる職として技術畑に進むことを強く進めた。
1920年(大正9)に京都府立代中学校を卒業すると、第三高等学校の理科甲に入学した。
彼の手記によれば、在学中、化学の実験で見た“真紅の金のコロイド溶液は、特に強い印象を与えた”。
当時、コロイド化学は隆盛を迎えていた時期であり、三高の教師も化学の授業にコロイドを採り入れ熱を入れて講義をしていた。その頃から、将来の分野として「化学、しかもコロイド化学をやる」と周りの友人たちに漏らしていたという。
化学を選んだ消極的な理由としては、ひとつには工科の中でも苦手な製図の負担の一番少ないのが化学系だったこと、もうひとつは遠藤(又従兄)に化学者の木村健二郎;1896-1980がいたことであったという。
木村は地球化学者・柴田雄二;1882-1980の弟子であり、1922年(大正11)に東京大学理学部化学科の助教授になった。当時横浜に住んでいて、時々会う機会があった。
彼からは、「化学は幅の広い学問です。化学を選んでも、数学が好きなら数学的なことを、物理が好きなら物理的なことを、また本来の化学が好きなら化学をやればよいわけです」
という話を聞かされていたという。
親元を離れたいがために東京帝国大学工学部の応用化学科への進学を考えていたが、卒業の直前に父が突然脳出血で他界したため、京都帝国大学の工業化学に入学した。
当時の工業化学科は、第一講座(窯業、固形燃料)を吉岡藤作;1889-1961、第二講座(電気化学、無機化学工業)を中澤良夫;1883-1966、第三講座(繊維、染料、製紙)を福島郁三;1882-1951、第四講座(発酵、石炭ガス)を松本均;1873-1950、第五講座(油脂、石油)を喜多源逸、第六講座(写真化学、工業薬品)を宮田道雄;1886-1984の各教官が担当していた。
工業化学教室には毎月一回夕方に「工化会」と呼ばれる集まりがあり、教官が研究の話をした。
入学後の最初の「工化会」で、酢酸セルローズに関する喜多源逸の話に魅了された。欧米留学から戻ったばっかりの喜多は当時40歳で、研究者として油の乗り切った時期であった。
桜田は次のように述懐している。
「(喜多先生は)多数の大きいビラを用意され、酢酸価、銅価、粘度など、赤黒のインキで書きわけ、トツトツと、しかし熱を持って話された。その口調、ジェスチャーなど今でも目に浮かんでくる。入学したての私には、その内容はほとんど理解できなかったが、研究の面白さというものにはじめて触れることができた。喜多先生の下で、繊維素(セルロース)の研究をやり、高分子の道へ入ったのもこれが動機である。」
三回生になった時、桜田は迷わず喜多研究室の門を叩いた。そして、酢酸よりずっと高級な脂肪酸のセルロース・エステルの合成を卒業論文としてとりあげたいと考え、喜多に相談した。喜多がそれを許可し直ちにドイツとフランスの雑誌に掲載された二編の論文の別刷りを渡したことから察すると、喜多自身にも既にそのテーマが視座に入っていたと思われる。

卒業研究では、直接木綿を原料にして3個の水酸基をほぼ完全にエステル化することに成功した。
結果は、創刊されたばかりの雑誌「繊維素工業」に掲載された。こうして桜田は、セルロースの化学反応およびそれによってできる誘導体の研究を進めることになる。
「①教育-セルロースの世界へ-」古川安
1924年(大正14)
日本では:繊維素協会創立/日本生化学会創立 仁田勇「有機化合物結晶のX線による構造研究」
世界では:ノーベル化学賞はRichard Adolf Zsigmondy「コロイド溶液の不均一性に関する研究および現代コロイド化学における基礎的方法の創始」
Theodor Svedberg;1884-1971スヴェードベリ「超遠心機で高分子化合物の分子量測定」→1926年ノーベル化学賞「分散系に関する研究業績」