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しんかがく 65

2012-09-06 09:00:00 | colloidナノ
「いごっそう寅彦の教え」須藤靖

 今回の東日本大震災ほど「天災は忘れた頃にやって来る」という有名な言葉を思い知らされたことはない。

 寅彦本人が書いた文章のなかで、それにもっとも近い記述は以下であるとされている。
文明が進むほど天災による損害も累積する傾向があるという事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないので、・・・

 たとえばやや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがだめになるというような事は、初めから明らかにわかっているが、また不思議に皆がいつでも忘れている事実である。

 夕刊を見ながら私は断水の不平よりはむしろ修繕工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。

 私が断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだん探って行くと、どうしても今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるという事に帰着して行くような気がする。このような障害の根を絶つためには、一般の世間が平素から科学知識の水準をずっと高めてニセ物と本物を鑑別する目を肥やしそして本物を尊重しニセ物を排斥するような風習を養うのがいちばん近道で有効ではないかと思ってみた。


 今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、大阪、神戸、岡山、広島から福岡へんまで一度に襲われたら、その時はいったいわが日本の国はどういうことになるのであろう。そういうことがないとは何人も保証はできない。・・・


 富士の噴火は近いところで1511、1560、1700から8、最後に1792年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし16世紀にも18世紀にも活動したものが20世紀の千九百何十年かにまた活動を始めないと保証しうる学者もないであろう。

 昔シナに妙な苦労性の男がいて、天が落ちてくると言ってたいそう心配し、とうとう神経衰弱にったとかいう話を聞いた。この話は事によるとちょうど自分のような人間の悪口をいうために作られてのかもしれない。この話をして笑う人の真意は、天が落ないというのではなくて、天は落ちるかもしれないが、しかし「いつ」かがわからないからというのであろう。


 しかし「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。

 多くの場合に、責任者に対する咎め立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という題目が忘れらるのが通例のようである。これではまるで責任というものの概念がどこかへ迷子になってしまうようである。



 著者の言葉も記しておこう。
我々のすぐ目の前にたちはだかっている未来に生かすべき「いごっそう」寅彦の教えは決して少なくない。
といっても高知県民以外の方々に「いごっそう」の意味を正確に理解していただくのは難しかろう。
 「理屈っぽく、人と違うことをやりたがる頑固者」と評されることもある。しかし「当たり前とされていることでも一度は疑ってみる。みんなが言っているから、ではなく自分自身の頭で納得するまで信じない」と表現するほうがよりぴったりするような気がする。」とすれば、これ自身、実は立派な科学的態度であるように思えてくる。
 寅彦は時流におもねることなく、独創的な研究を縦横無尽に展開した。ずっと後になって初めて、その先駆性が評価されたことのほうが多い。これらの事例については本書においても他の方々が様々な角度から紹介されている。・・・






しんかがく 64

2012-09-05 09:00:00 | colloidナノ
「道の手帖」を拾い読んでいる


 寺田の「科学者とあたま」には、直感が大事であると書かれていますね。
直感や違和感みたいなものは、科学の世界から馬鹿にされる傾向にあるのではないですか?」

「科学者とあたま」では、科学者は頭がいいことも必要だけど、悪いことも必要であると。

「金平糖は本当に不思議ですね。あの角の数が揃うのはなぜか、今はもう解明されているのですか?」

「烏瓜の花と蛾」をあらためて読み直しましたが、枚数制限がなかったら、どこまでも連想が展開してしてしまい、どこまでも続いていきそうな感じですね。」

「寺田は奥さんを2人を次々と病気で亡くしてしまうんですね。」

「音楽を聞きはじめたのも、最初の奥さんが亡くなったあとですね。寺田は寂しがり屋でしたから、科学という存在はとても大きかったんだろうと思います。」


「蛆の効用」という随筆に、嫌われ者の蛆虫には人間や自然がつくった汚い物を浄化する力があると書かれていますが、これを読んだ時、寺田のいった発想の転換が、・・・」


(「銀座アルプス」において、「20世紀の終わりか21世紀の初め頃までには、もう一度関東大地震が襲来するはずである」と書いています。」)
「津波と人間」にも「自然ほど伝統に忠実なものはない」

「あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えを、もう一辺ひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものである・・・」


「原発事故はなぜくりかえすのか」を読んでいると、即刻停止を声高に要求しているわけではに。自然の法則に逆らって人間が非常に巨大な能動的な装置を持ち込み、自然界を制御する方法はいずれ古くなる。近い将来収束していかなくてはいけない。」

「電車の混雑について」で、すぐに乗る人と満員電車を乗り過ごす人など性格の違いがあると書いていましたけれど、科学というのは“待ちの姿勢”で、一歩引いたところで見るのがいいのかな・・・。」


「母なる土地であると同時に、厳父としての役割・・・。宗教学者の山折哲雄さんが、「日本人の自然観」を受けて、日本人とは自然の不安定感から、無常観を自分の中に刻みつけてきた民族ではにいかと仰っておましたね。」

「地震研究とは噂や文学なども含まれる、すごく可能性のあるすそ野の広い世界ですね。」



 ここに残されているのは女性の言葉である。
その表題は「本当は怖い寺田寅彦」(八代嘉美)
「好きなもの イチゴ珈琲 花 美人 懐手して宇宙見物  物理学者・寺田寅彦が詠んだというこの句を見ると、得もいわれぬ浮遊感に襲われる。・・・以下には「寺田の“宇宙”と複雑系」さらには「物質と生命をつなぐもの」「世界は部品に分けられるか」「還元主義は旧いのか?」そして「寺田が見ていた世界とは」

 その最後には著者の希いが見え隠れしている。
「きっと寺田は待っている。私たち世界の、私たちのなかに居座る常識がひっくり返るその時を、その時に、鬼が出るか蛇が出るか。あとは見てのお慰み。そう嗤う寺田の姿が、なんだか目に浮かぶ。


「寺田寅彦の懐疑と情熱と」(内田麻理香)
「寺田の姿が立体的に映るようになった契機は、彼と三人の妻たちとの関わりを知ったときだ。寺田が最初に所帯を持ったのは、20歳のときである。

 最初の妻である夏子とは5年という短い婚姻期間であった。結婚当初、寺田は熊本、夏子は地元の高知と離れて暮らし始めた。寺田が東京帝国大学に入学したのちに同居を始めたが、間もなく夏子は結核を発病し、地元に引き取られた。夫婦が共に暮らすことができたのはわずか1年。しかし、この結婚は互いに愛情を持ち、一女をもうけるという深い縁を見せた。結核に冒された夏子は、寺田を残してこの世を去る。

 二人目の妻、寛子と一緒になったのは、夏子の死の三年後である。寛子との間には2男2女に恵まれた。そして寺田もこの間、研究者として脂ののった時期であり、物理学会の最高峰を極めた。しかし寛子も11年余ののち、病没してしまう。


 三度目の正直か、今度は妻に先立たれるという悲劇に見舞われることはなかった。しかし、別の意味で運命の女神の挑戦を受けることになる。・・・その一部には既に触れた




「才能を活かしきった人 寺田寅彦のあれこれ」米沢富美子

 「寺田寅彦の没後半世紀を経た一九八〇年代に、「複雑系の科学」が一躍世界的な注目を浴びた。
複雑系に対する厳密な定義はないが、要素に分解できないもの、分解することで本質から離れてしまうものなどを研究対象とする。生命、気象、経済、言語などが、複雑系研究で取り上げられている。

 複雑系モデルから引き出された結果が従来の“いわゆる単純系”から得られるものと違う点は、“要素”や“相互作用”のみからは予想もされなかった質的な変化が生ずることである。「質的変化の積み重ねが質的変化を生む」という部分は、唯物論的弁証法を彷彿とさせる。・・・

 複雑系の対象である気象や生命や経済については今でも十分に予測したり説明したりできないが、これはコンピューターにかけるべき“要素”や“相互作用”や“条件”
が十分につきとめられていないのが原因である。

 ドイツの物理学者マックス・プランクが量子仮説を提唱し、量子力学への第一歩を踏み出したのは1900年。
寺田が東大の物理学科を卒業したのは、その三年後の1903年だった。
 寺田はそのあと大学院に進み、「尺八の音響学的研究」で理学博士となり、1909年に東大助教授に就任。ドイツに留学し、その後ヨーロッパ各国およびアメリカを訪問して、1911年に帰国した。
 寺田は翌年からX線の結晶透過の実験に着手し、その研究結果を1913年に英国と日本の学術雑誌に発表した。この論文では、一般に「ブラック条件」と呼ばれるものに相当する結果が導かれていた。・・・・
 ブラッグ父子はこの業績に対して、1915年にノーベル物理学賞を受けた。


 デンマークの物理学者ニールス・ボーアが原子構造に関するモデルを提案したのが1913年、量子力学構築への足固めが進んでいた。アインシュタインが一般性相対性理論を出したのが1915年で、日食観測による裏づけもなされつつあった。


 私の仲間の物理学者がこれを読んで、笑いながら私に言った。「いやあ、あなたがあのように彼のために切なく思う必要はないのですよ。寺田寅彦は彼なりに自分の選択を肯定し、自分の人生に満足していたのですから」この指摘はおそらく正しい。・・・・






⑦「寺田寅彦 妻たちの歳月」山田一郎(岩波書店)


 三人の妻----肺病で一児を遺して夭逝した夏子、四児をもうけ寅彦が科学者として大成するのを支えるも、一夜にして肺炎で急逝した寛子、そして悪妻と一説には言われていた紳との歳月を、多くの資料をもとに辿り、知られざる寅彦の内面までを鮮明に照射した評伝。・・・紳は寅彦を看取った後、日記にはこう書いている。「生真面目一方の人であったが、後年大いに飄逸洒脱になったのは私のおしこみによるものだ」









しんかがく 63

2012-09-04 09:00:00 | colloidナノ
 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、寅彦は上野の東京美術館にて遭遇した。

 「続冬彦集」の序文に「大正十二年に漸く健康を回復して、自分の専門の仕事に手を付けはじめたところへ、あの関東大震災が襲って来て、目覚めかかった自分の活力に新しい刺激を与えた」

 九月一日は土曜日で、二科展の初日の招待日であった。
朝は低気圧模様で時どき豪雨が襲ってきた。九時過ぎ小雨になったので、麹町の家を出て十時半ごろ美術館に着いた。安井曾太郎の絵などをひとわたり見て、約束していた親友の津田青楓に会った。紅茶を飲みながら津田の出品作「出雲崎の女」の裸体画のモデルの話などをしていると地震がやってきた。

 「なかなか大きいなと思って見ていた。会場の屋根が波のように揺れるのが見えた」「急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足のうらを下から木槌で急速に乱打するように感じた。」「そのうち本当の主要動が急激に襲って来た。自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。子供の時、何度か母上から聞かされていた土佐の安政地震の話を思い出した」

 気がつくと食堂は野分が吹き荒れた跡のようにテーブル、椅子は散乱し、客はみんな逃げ出して一人もいない。津田青楓はとっくに逃げている。壁面の油絵の額は大部分が落ちたり引っかかたりしている。
 外に様子を見に出た寅彦は金を払うため帰ってくると、逃げ出していたボーイが戻ってきていた。紅茶代を出すとびっくりして寅彦の顔を見た。預けてあった洋傘をもらって上野公園へ入ると、東照宮の石灯籠が全部将棋倒しに北の方へ倒れていた。大きな桜の下に早くも避難した人が集まっている。上野の山下から根津へ抜けるのは危ないと思って、団子坂から千駄木へ向かい、曙町まで帰ってきた。


 隣家の境の大谷石の石垣が半分倒壊していたが、家は無事であった。
玄関に入ると志んがこぼれた壁土を掃除していた。壁に亀裂が入っていて、瓦が2,3枚堕ち、居間の唐紙は全部倒れたが、家全体には異常はなく怪我人もなかった。
 下町の方の空を見ると、火事の煙が渦を巻いて見る見る積雲になって湧き上がる。写真で見る桜島の噴火のようだ。大学の西田助手、藤田助手が来て図書館、法文科、山上集会所が全焼、理学部の数学教室も焼けているという。夜になって大学の赤門から入って行くと物理教室がまだ燃えていて、理学士が二人、バケツで水をかけていた。消防士は全く見えない。十一時過ぎ帰る。「電車通りは避難者の露宿で一杯であった。・・・・真赤な雲の上に蒼い月が照らしていた」


2日(日)曇。
 朝大学へ行く。
焼け跡を見て、本郷通りから湯島天神、松住町まで行くと浅草、下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と炎の海である。浅草茅町の志んの実家を見に行こうと思ったが到底行けそうにもない。お茶の水、駿河台、神保町、九段上、神楽坂、飯田橋、安藤坂と歩いて、地震と火事の惨状を詳しく見た。科学者と文学者の目と足である。
 帰ってみると、志んの叔父酒井米次郎一家が避難して来ていた。父の酒井清兵衛と娘の亭子も来た。何一つ持ち出す暇もなく、昨夜は上野公園で露宿したという。曙町一帯も火事に備えて立ち退きの用意を始め、国沢健雄の家からは寺田へ荷物を運び込んで来る。東一と正二も手伝った。寅彦は何も持ち出すものはないが、自分の描いた絵だけは少し惜しい気がした。往来は縄張りをして辻つじに見張りが立ち、鳶口や棒を持った人々が巡回し、流言が飛びかっていた。「とまった人は13人」

 寅彦一家は母の亀はじめ女中を入れて10人、避難の13人を入れて、総計23人が幾つもの部屋で雑魚寝をして、不安な一夜を明かした。志んの妹の健子は行方不明である。
コの字型の地震に強く、部屋数の多い家を造った寅彦の深慮がものをいった。

 「大震災は私(森貞子)が結婚する前の年でしたが、母はいかにも江戸っ子らしくテキパキとよく働きましたよ。おばあさん(亀)やあ私たちにも気を使って、20人以上のお食事の仕度やお洗濯やらで、働きづめでした。父も母をやさしくいたわっていましたよ」

 3日の朝、寅彦は大学へ出かける前に、東一に板橋へ行かせた。地主の白井辰五郎に頼んで白米や野菜、塩などを調達するためである。大学の帰り、寅彦はミルクや煎餅、ビスケットを買ったが、すでに食糧難が起きているのを見て、志んたちに片栗粉、鰹節、梅干、缶詰などを買わせる。「20余人の分だからこの準備はやむおえない」

 4時、白井が米、さつま芋、大根、茄子、醤油、砂糖などを車で持ってきた。隣家の高木、田丸教授宅などへお裾分けした。
酒井家出入りの植木屋が来て、志んの妹大谷健子が避難の途中、御成街道で行方不明になったという。

 「昂宿スバルが輝き秋風が吹き夜中は冷涼」

5日
 寅彦も健子の詮議に行く。彼女は妊娠9ヶ月で脚気だという。上野桜木町の交番、赤十字出張所、区役所出張所、上野警察署などを訪ねたが分からない。正二が白山の佐野病院に行って、看護婦に2日に上野で健子に会ったという話を聞いてきた。同時に今福忍夫妻が中新田の家で圧死したことが分かった。
 健子は無事、東京府庁に収容されていたが、今福夫妻の死は志んに大きな衝撃を与えた。夫人の琴子は志んの叔母だったのである。


大晦日の日記
 朝第9シンフォニーをかける。
銀座へ出て、十字屋で指揮棒を買う。日記の末尾に「大正十三年の主な事」を書く。

 メモで二十五件列記している。理科学研所員になったこと。中谷宇吉郎を助手に採用。地震研究所の設立、気象学講義をやめ実験だけ担当、海軍航空船爆発事件の究明などの他、小宮豊隆の帰朝、東一の一高入学、貞子の結婚、冬彦集、藪柑子集の再版、入れ歯の治療、栄養がよくなり元気回復、神経過敏が少なくなったなどの記述の後に次のように書いている。


 要するに今年は数年来眠っていた活力が眼をさまして来たような気がする。いつも元気で気持ちが明るかった。学校の食堂でもいつも愉快に人と話ができた。人の悪口などが気にならならなくなった。・・・

文献  「寺田寅彦 妻たちの歳月」山田一郎(岩波書店)


しんかがく 62

2012-09-03 09:00:00 | colloidナノ
 「もう7ヶ月を過ぎたというのに、地震と津波と原発事故に見舞われた3月11日の衝撃が念頭を去らない。山積する復興のための課題を前にして、たいしたこと何もできない自分を歯がゆく思っている。
 こんなときは寺田寅彦に相談するに限る。
彼の時代にも、浅間山が火山爆発を繰り返し、東京が関東地震に襲われ、三陸沖地震による津波で多数の死者を出すという天才が頻出した。彼はその1つ1つを点検しながら、「地震雑感」「津波と人間」「天災と国防」「災難雑考」など数々の文章によって警告を発してきた。・・・

 「地震雑感」において、「ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと云う人があらば、それはまた全く別の問題になる」と記し、「この問題に対する国民や為政者の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を伺わしむる目標である」として文章を終えている。・・・・」(池内了)




晩年における寺田もシニカルになって、「いつ災難が来てもいいように防衛の出来ているような種類の人間だけが災難を生き残る」・・・


「何かしら尤もらしい不可抗力に因ったかのうようにい付会してしまって、そしてその問題を打ち切りにしてしまう」(「災難雑考」)


 「天災は忘れた頃にやって来る」防災への警句としてあまりにも有名な言葉。
実際にはこの通りの記述は残っておらず、随筆「天災と国防」の一節を弟子の中谷宇吉郎が要約したとされる。
 寅彦は大正十二年の関東大震災時には震災予防調査会の震災特別委員として被災地を視察、その後も三陸地方を襲った大津波(昭和八年)や静岡地震(昭和十年)では現地の視察を行う等、自然災害に対して人がどのような意識をもつべきかを実地で学び、火災論の講義や防災に関する執筆を通じて警鐘を鳴らし続けた。


 「柿の種」にある「崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た」・・・担当編集者の小宮豊隆宛の手紙には「夜ねると眼の前に焼け跡の光景ばかり浮かんで焼死者や水死者の姿が見えて仕方がない」


 浅間山の噴火を書いた「小爆発二件」のなかで「正当に怖がること」・・・


 「銀座アルプス」において、「20世紀の終わりか21世紀の初め頃までには、もう一度関東大地震が襲来するはずである」・・・

「津波と人間」にも「自然ほど伝統に忠実なものはない」・・・

「災難雑考」「あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらかでも軽減しうるものだという考えをもういっぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものである・・・」


 「日本人の自然観」「日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保有する「母なる大地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭を揮って吾々のとかく遊惰に流れやすい心を引き堅める「厳父」としての役割をも勤めているのである」

文献  kawade「道の手帖」『寺田寅彦』いまを照らす科学者のことば

しんかがく 61

2012-09-01 09:00:00 | colloidナノ
まねかれてのオフ会に備え、道後村の事項を整理してみようと思ったものだ。

その象徴である道後温泉本館が完成した翌年、1895年に夏目金之助が着任した。
 日清戦争さ中の事である。        




 「当時にしてみればバリバリの学士で、大学でも評判のよかったという人が、何も苦しんで松山くんだりまで中学教師として都落ちをしなければならないわけはなかったらしいのです」と「漱石の思い出」にはある。


 小説「坊ちゃん」は、こう始まる。

「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る・・」

「どうせ嫌なものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛かったら生徒募集の広告が出て居たから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐに入学の手続きをして仕舞った。今考えると是れも親譲りの無鉄砲から起こった失策だ。・・・」


 卒業してから8日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出かけて行ったら、四国辺りのある中学校で数学の教師が入る。月給は40円だが、行ってはどうだと云う相談である。
 おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。尤も教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、此相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。是も親譲りの無鉄砲が祟ったのである。



 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに癇癪に障らなくなった。
学校へ出て見ると、生徒も出ている。なんだか訳が分からない。それから3日ばかりは無事であったが、4日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。
此住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと10分ばかり、歩いて30分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれの這いった団子屋は遊郭の入口にあって、大変うまいと云う評判だから、温泉に行った帰りがけに一寸食ってみた。・・・



 団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭いと云うのが評判になった。何の事だと思ったら、詰まらない来歴だ。・・・


 まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣かして、流しをつけて8銭で済む。其の上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這いった。すると40円の月給で毎日上等へ這いるのは贅沢だと云いだした。余計なお世話だ。
 まだある。湯壷は花崗岩を畳み上げて、15畳敷き位の広さに仕切ってある。大抵は13,4人漬かっているがたまたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺りまであるから、運動の為に、湯の中を泳ぐのは中々愉快だ。・・・


 学校へ出て見ると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるのには驚いた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思われた。

くさくさした。・・・                                                        


                       

 さて、それにしても漱石自身の松山行は最大の謎だとされている。その謎解きは公案にあったらしい。



 円覚寺塔頭、帰源院に参禅したのは前年末からの15日間。つまり1894年12月も末からの15日間とされている。


 『父母未生以前の本来の面目如何』
禅問答の第一課題は己事究明、つまり自己とは何か?から始まるらしい。


 1895年1月7日の漱石を彷彿とさせる、それが「門」の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸の人であった。つまり山門までたっどりつきはしたが、その山門の閂は誰も開けてはくれないしそれを自ら開けるだけの知恵も持ち合わせてはいないとしったのだ。



 そんなことがあっての3ヶ月後に松山への赴任となるのには、菅虎雄の斡旋によったのだが。




 今境内には、「仏性は白き桔梗にこそあらめ  漱石」の碑が建立されている。  


 本堂には額装された漱石直筆の書簡と文人画がある。
その由来について富沢宗純住職は、漱石と帰原院の因縁について語る。「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」を読んだ親父が、漱石先生に手紙を送ったんです。


 宗純住職の父、珪堂(敬道)氏は兵庫県生まれ。
神戸の祥福寺で修行時代、手紙をきっかけに招待されるほどの仲になった。もっともそのきっかけをは鬼村元成が1914年4月に送った手紙から始まったのだが。
 1916年の10月に名古屋で行われた「雲水の修行会」の参加の機会を捉えて東京まで足を伸ばしたのである、漱石宅にて1週間過ごした。
 その頃の漱石は「明暗」の執筆と南画等を日課としていたのだが、あの『則天去私』もまたこの頃の作である。
 それから10年ほど後に、親父は帰源院の住職に就きましたが、漱石先生の参禅は全く知らなかったようです。

 玄侑宗久は、公案について「善悪、美醜、尊卑そして異同というような二元論を超えた絶対的自由の地」と説く。


 「渋柿」は『夏目漱石追悼号』(1917年2月)は発行した。
そこに寺田寅彦は14首の歌を詠んでいる。

或時は空間論に時間論に生まれぬ先の我を論じき


 寅彦は漱石への哀悼の気持ちを表す歌のひとつに、2年前、相対性理論について語り合った思い出を詠みこんだのである。
そして奇しくも、アインシュタインが「アナーレン・デル・フィジーク」に「一般相対性理論の基礎」を発表したのは、漱石が亡くなる1916年の事であった。


 参考記事  「愛媛新聞」2006年1月15日(21面)「坊ちゃん」百年


サクラだ!⑪

2012-04-17 09:10:59 | colloidナノ
 


 梶谷 浩一私のふるさとは、愛媛県佐田岬半島の突端の町であったが、昨年の3町村合併で原発の伊方町にのみ込まれた。結果、青色発光ダイオードの製造方法などの発明者として知られる中村修二氏(旧瀬戸町)と同じ町内出身者となってしまった。
この仕事を通じて出会った愛媛県人は100人以上、愛媛県南予地方出身者も20人に達する。同郷というだけで、百年の知己のごとく話ができるのは「田舎者」の特権である。
                                                    「合成1号」ビニロンの工業化 —先駆的な産学連携事業—


 確かなことは忘れたけれども、桜田一郎先生を偲んでの企画、その座談会において筏義人先生が先輩を差し置いて、桜田先生のいきかたに対して反論をした箇所が蘇る。」
それは目的遂行型の一直線な道程であったという趣旨の発言であった。

「化学者たちのセレンディピティー―ノーベル賞への道のり」吉原 賢二 (著) への挑戦でもあるかのように映る。である。その詳細を記すのが目的でもないけれども少しだけ触れておく。

 近頃話題になるセレンディピティー(幸福な偶然)とはなにか。
化学者たちの生涯と業績の中にそれを探る。読者は忘れかかった過去の光景の中に知的な興奮を見いだすことであろう。しあわせだった大正リベラリズムの中の科学の発展、その後軍国主義に傾き、戦争に突入してすべてを失った中で立ち直る化学者群像、そしてノーベル賞に輝く福井を生み出す過程、これらはまさに一編の叙事詩のようなものである。

 その最終章には「ビニロン、日本で開発された繊維と桜田一郎」
高分子化学という日本語(訳語)を作り出した桜田一郎・・・
①木村健二郎の勧め「化学は幅の広い学問です。化学を選んでも数学が好きならより数学的なことを、物理が好きならより物理的なことを、また本来の化学が好きならば化学をやればよいわけです」
②喜多源逸が送り出したヘスの研究室は一杯であり、ライプチッヒのオストワルドを紹介された。 
③友成九十九 「唯一の盟友」と称される出会いは、ヘス研究室であった。
⑤ナイロンショック(後述参照) 
⑥伊藤らとの産官学連携
⑦水セルローズとか岡村らの知見
⑧李升基(大日本帝国)
・・・低分子観から高分子観など

 わたしの気を引いたのは別のところのあった。
その生い立ちも可笑しくもあり愉快ではある。桜田一郎は明治37年1月1日、京都に生まれた。父は仙台藩士の流れで、日本新聞の記者として日清・日露の戦争に従軍したこともあった。記者仲間には俳人の正岡子規もいた。
 桜田は父の影響を受けてか、はじめは文学をやりたかったというが、父が亡くなり、母の勧めによって理工系に進んだ。

 他方、その第1章において、おがわ まさたか小川正孝は元治2年1月26日、当時の江戸、芝の三田、松平藩邸中屋敷で生まれた。
 父正弘は伊予松山の松平藩の下級武士であった。
やがて世は明治維新となり、廃藩置県の近代化が始まり、一家は郷里松山に帰った。不運にも父は早く亡くなったので、正孝はたいへん苦労して勉学したらしい。
 松山中学校に入学、通学の途中、近道の陸軍練兵場を横切って歩哨にとがめられ、口論したこともある。向っ気の強い少年であった。
当時の松山中学校には草間時福トキヨシという名校長がいて、人材も多く出た。俳人の正岡子規や日本海海戦の名参謀の秋山眞之もこの学校の出身であった。 


 あのナイロンショックに関する記事を付記しておく

 ドイツの化学者ヘルマン・スタウディンガーは、1920年に「ポリマーは、端と端が鎖状に繋がった小さな単位でできており、それぞれが一つの鎖のように構成された大きな分子だ」と仮説を立て た。それに対し「まだ未解明の化学的力によって単にひと固まりになっている小さな分子の集合体」という説もあった。

 その1928年に、その証明に果敢に挑んだのだ。ウォーレス・ヒューム・カロザース

 1930年4月17日を記念日たらしめる発見はもうひとつある。
コリンズの弾むポ リマー騒ぎが一段落した頃、コリンズの同僚ジュリアン・ヒルはエステルを重合する 作業を続けていた。
 長いチェーンをもったポリエステルの繊維を作ろうというのだ。そして 、ついにヒルはポリエステルのスーパーポリマー第一号を作り出すこ とに成功する。
驚くべきことに、同じ日に同じ研究室で、ポリマーに関するスタウディンガ ー理論の証拠が二つも揃ってしまった
参照すべき記事は「カローザースとナイロン : 伝説再考(ヘッドライン:化学史研究の現在と化学教育)」;古川安:化学と教育 化学と教育 55(6), 274-277, 2007-06-20 社団法人日本化学会





 かくして、日米の比較から漏れ出してくるものが、われわれの文化を背景とした文明でもあるか、と思案をしていたら「坂の上の雲」が頭をよぎった。

                    『坂の上』産学のくも山笑う

サクラだ!⑩

2012-04-11 08:41:23 | colloidナノ

割愛抜粋しておく事とする。  



桜田を待っていたもう一人の研究者は工業化学科を卒業した李升基(イスンギ;りしょうき;1905-1995)であり、主として高級分子溶液の透電率の研究を担当することになった。
桜田より1才下の李は、朝鮮全羅南道に生まれた。1910年(明治43)の日韓併合条約以来、(朝鮮)韓国は日本に統治されていた。李は京城の中央高等普通学校を卒業後日本に渡り、1928年(昭和3)に23歳で松山高等学校卒業し、京都帝大工業化学科で喜多の指導を受けた。



喜多は李の非凡な才能を認め、卒業後も大学に残って研究を続けられるよう取り計らった。卒業直後の1931年(昭和6)5月から工学部中央実験所の研究嘱託となり、翌年3月から京都帝大附置化学研究所(化研)喜多研究室の研究員の身分が与えられた。



桜田によれば、李は「初対面の時からかしこそうではあるが、ひ弱い感を与えた。目をかがやかせて、私の話す研究の説明に聞き入った」
温厚で謙虚な篤学家であった彼は周囲の仲間たちから慕われた。研究発表や論文での日本語は上手かったが、普段の会話はやや訛りがあり聞き取りにくいところもあたという。



桜田の下で合成繊維の研究に取り組むことになるのは李升基と川上博;1919-2004であった。
李は桜田の推薦により1938年(昭和13)7月に助教授に昇進し、化研所員を兼任した。川上は岡山県立工業学校応用化学科を卒業し、1937年(昭和12)から京都帝大化研に入所し、李の弟子として研究を助けた。


研究室で李や川上と親しかった同僚に近土隆;1916-2010がいる。
彼は1935年(昭和10)に川上と同じ岡山県立応用化学科を卒業後、翌年9月から京都帝大の“小使兼職工”という身分で化研喜多研究室に雇用された。1938年(昭和13)9月に応召し、中国(北支)戦線に砲兵二等兵として出兵し、1940年(昭和15)8月に上等兵となって帰還し復職した。

1939年川上は近土に手紙で李升基の学位取得を伝えた。
研究室の李、隅田〔武彦〕両先生をはじめ大塚〔良子〕はん、中西〔壽子〕はんに至る総ての銃後の研究員は健康です。毎日自分の職場努力していますから御安心下さいませ。李先生も一昨日(14年1月17日)愈々博士です。規定の事実で驚く可き事でわありませんが何分にも嬉しいにニュースであると思いますし然して助教授は大分前からです。




近土隆 兄  
拝復 本日御手紙有難く拝見しました。過分の御祝詞を戴き有難う存じます。・・・・研究室は昔と同じですが例の工場の酢酸人絹は宮川毛織(伊藤氏)で今春から工業化する事になりました。先ず楽しい結果の一つです。・・・・小生の研究は相変わらずです。米国で今頃石炭と空気から純合成繊維Nylonなるものを発表し我国の絹をノックアウトし様と云うのです。・・・ 3月13日 李升基 生



桜田のグループはビニル系統の合成繊維の研究を進めることになった。後者のテーマは、李升基がそれまでポリ酢酸ビニルの均一系におけるケン化機構の基礎研究を行っていたことが契機になった。

実験は李と川上が紡糸を含む主要な部分を担当し、岡村誠三らが原料の重合反応を担当した。


新聞は李を合成一号の発明者として一斉に報道した。大阪朝日新聞は「ナイロン顔負け 戦時下『新繊維』に凱歌!半島出身学徒が発明」という見出しでこのニュースを報じた。1939年9月29日



上記発表報文では、「本研究は喜多、桜田両先生の御指導のもとに行ったのであって此処に厚く感謝致します。尚実験に協力された塚原、川上、吉増〔欽太〕、中西諸君にも心より感謝する次第であります」という謝辞を入れている。


李升基は、1944年(昭和19)5月に京都帝大教授に昇格した。しかし1945年(昭和20)の終戦直前、突然憲兵隊により抑留される事件が起きた。


桜田「7月のある日、李先生が憲兵につれていかれたという通知を受けて驚いていた・・・李君は高槻の工事場の飯場にひそかに出入りして、不穏な画策をしているということがばれたというような話であった。研究室ではそのような話を信じるものはいなかった。李君がつれて行かれた憲兵隊は、驚いたことに大阪の淀屋橋にある、日本化学繊維研究所の創立者の伊藤萬商店の立派なビルを接収して使っている。・・・・
 終戦の日であったと思うが、李君は解放されて、夜おそく・・・健康状態も幾分回復しているように見える3人は、待望の朝鮮の独立に対して、彼らのなすべきことについていろいろなことを考えているようであった。・・・

川上はその後すぐに李を岡山県にある彼の郷里に招き、そこでしばらく静養してもらったが、一刻でも早く帰国して祖国の再建に力を貸したいと愛国の情を吐露していたという。
李は11月3日、京都駅を出発して帰国の途についた。帰国した彼は、ソウル大学の工科大学教授、学長の職についてが、1950年(昭和25)朝鮮戦争勃発後、家族ともども北朝鮮に渡り、ポリビニルアルコールの工業化技術の確立を指導した。
その結果、1956年(昭和31)5月に成興・本宮に「ビナロン(ビニロン)」短繊維年産2万トンの工場が完成した。李は朝鮮人民共和国の科学院の要職に就き、同国の科学の英雄になった。


李の回想録が在日朝鮮人科学者協会翻訳委員会によってその邦訳がされ『ある朝鮮人科学者の手記』と題して出版されたのは1969年(昭和44)11月のことであった。



“こうした苦しい日々がつづいていたころ、わたしは卒業論文の指導にあたってくれた指導教授によばれた。
「卒業もまじかになったが、李君はどうするつもりだね。ちかごろは不景気で就職もむずかしいね。もちろん君は優秀な学生にはちがいないんだが・・・」と言葉をにごしながら喜多教授はため息をついた。
 しかしわたしは、そのつぎにつづくはずであった教授のことばがなんであるか分かっていた。それは「一優秀な学生にはちがいないんだが、朝鮮人であるという罪のため、採用してくれる所がない・・・”という内容であることにはまちがいなかった。

わたしはこのときほど、植民地インテリのあわれな身上について深刻に考えたことはなかった。・・「先生、わたしはお金なんかいりません。一日ニ食でもけっこうですから、先生の研究室にのこしていただきたいのです」
このひとことをのべて、わたしは教授の部屋を出た。
日本人の学生たちは卒業を前にして、希望に胸をふくらませていた。しかし祖国のないわたしは卒業を前にして、星のない闇夜に砂漠をさまようようなものだった。ああ祖国、祖国、祖国!・・・2月をすぎてなんの音さたもなかった。3月もすでに中旬をすぎた。それでも喜多教授からの連絡はなかった。

 わたしはおもいきって、もういちど教授をたずねてみることにした。
「うまくいったよ、君もずいぶん心配したことだろう。あちこちの民間委託の研究対象をさがしてみたんだが、大阪の工栄社のアスファルトの研究をたのんできたから、君にはこれをやってもらうことにしたよ」
わたしは、地獄で仏にあったようなおもいで教授のことばをきいた。わたしは不覚にも涙をながした。もちろん、アスファルトの研究は、わたしの希望にそうテーマではなかったが、わたしは教授の親切なあっせんをそのまま受けないわけにはゆかなかった。”



高槻の化学研究所に移ってから合成一号の発明に至るまでの心情が次のように表現されている。

 “わたしは、はじめて一人で使えるひとつの大きな部屋と、一人の助手をもつようになった。それというのも、1938年にアメリカがナイロンの研究成果を発表したからである。・・繊維関係の研究者がいっせいに合成繊維の研究にとりかかかった。
かれらは急に、わたしの研究に配慮をしめすかのようによそおいだした。
一年後の1939年10月ついに私の研究は成功して、合成一号が世に出る運びとなった。実験室からかちどきがあがるや、日本は全世界に向けて、新しい合成繊維を宣伝しはじめた。これはもちろん、アメリカへの経済的、政治的な反撃となり、全世界への日本化学の示威ともなった。実験室でわたしの手に繊維がにぎられた時、科学者として、創造者としての本能的な喜びがわたしの胸をうった。
しかし、そのよろこびもつかの間、わたしは、かてない空虚と孤独、自嘲のまじった衝撃のなかで煩悶していた。”

東京のラジオは、世界へ向けて豪語した、「大日本」の繊維化学は断然世界の先端をきている、と。
わたしは、朝鮮人、リスンギ(李升基)だ、だが、朝鮮の存在はひとかけらもない、ただ「大日本」だけが存在している。いったい、私と「大日本」とどんなかかわりがあるというのか?とどのつまり、わたしは「大日本」の化学の名をかがやかしめるのに利用されてのだ。このおろか者めが、ああ、朝鮮はいずこにあるのか、朝鮮、朝鮮!わたしは涙をこらえて家に帰った。

妻がわたしの成功を祝って出迎えた、が、わたしの両頬につたう涙をみた妻は、すぐ首をうなだれた。妻も泣き、わたしも声を上げて泣いた。
それより数年前のことだったと思うが、オリンピックのマラソンでわが朝鮮選手が1位と3位をかちとって世界をあっといわせたことがあった。しかし、そのとき、競技場に掲揚されたのは朝鮮の旗ではなく、おく面もない「日の丸」であった。

「東亜日報」と「中央日報」は、わが選手の走る姿を報道し、その胸に付けられた「日の丸」を黒く抹消してしまった。
しかし、それがもとで、2紙は停刊処分を受けた。わたしは、このことをある出版物をつうじて知り、涙をおさえることができなかった。だがわずか数年後にわたし自身が、まさにかれらが流した涙を流す羽目になった。夜になった、しとしとと降る雨がもの悲しかった。私はタタミをむしりながら、ひと晩中泣きあかした。
朝鮮よ、朝鮮よ、どこへいったのか朝鮮よ!祖国よ、聞こえるか、遠い異国でお前の息子が泣いているこの声を・・・

全編を通して、日本帝国主義、アメリカ帝国主義、韓国政権への非難と、金日成への賛辞など、政治的アピールに満ちているこの伝記が、李の本当の肉声を伝えているかは大いに疑問が残るところである。
けれども、植民地出身の化学者には、国策的プロジェクト組織の一員として研究を遂行するに当たって、桜田をはじめとする日本人の化学者たちとは全く異なる意識や苦悩があったことを私たちに気づかせる。
 すでに見たように、日本の新聞は合成一号を朝鮮半島出身の化学者による発明として報じていた。しかし、それは結局日本の繊維国策に奉仕する植民地化学者の快挙として賞賛していたのであった。

             かたきギョイコウ御衣黄



井本立也;1917-2004は、戦後公式に李と面会することが許された数少ない日本人の一人である。
井本は朝鮮対外科学技術交流委員会(1965設立)の招きで1967年(昭和42)4月に訪朝し、平譲と咸興に計3週間滞在したが、咸興でビナロン工場を視察した際に李と面談することができた。
 そのとき李は、「ぜひ日本に行きたい。そして桜田先生やたくさんの旧知の方々にお目にかかりたい。とくに恩師である喜多源逸先生のお墓に詣でたい」と心を込めて井本に語ったという。
その言葉からは、上記の手記や噂の内容との隔たりを感じ取ることができる。



「⑤高分子説の受容と『高分子』という言葉」「⑥ドイツ仕込の気鋭の化学者」「⑦合成繊維ナイロンの出現とその意味」「⑧合成一号と李升基」「⑨繊維化学科、日本合成繊維研究協会、『大阪・中之島の陣』」「おわりに」などを割愛した。


参考文献 「化学史研究」第39巻第一号2012年(通巻第138号)pp1~40論文「繊維化学から高分子化学へ-桜田一郎と京都学派の展開-  古川安
      化学史学会The Japanese Society for the History of Chemistry;化学史にご関心のある方は、どなたでも会員になることができます。



                               オットー・グローテヴォールらと談笑する金日成1956年

亡命女性研究者の証言(2002年6月)「North Korea Today」
抜粋
Q:101、206、304研究所、およびその他の寧辺にある施設の機能、所属および主な人物について述べてください。
A:平安北道寧辺郡分江地区のすべての重要設備と研究所の建物、対象物、原子炉はソ連の資材、ソ連の設備によりソ連の監督下で、彼らが駐在しながら建てたものである。
 キム・イルソン、김일성金日成が政権を握った後、核兵器を開発する目的で1950年の戦争の時、朝鮮の二重共和国偵察英雄の李学文に命じ、李升基博士、都ウォンソン博士、都相禄研究員などを南朝鮮から拉致してきた。
 その後、咸興にあった原子力科学委員会を1950年の後半から平安北道寧辺郡分江地区に拡大した。咸興のものは分院として李升基博士が主体となって設立し、分江地区は基本研究基地として、都ウォンソン(都ウォンソプとも読める)、金ドゥスルが中心となって組織した。

サクラだ!⑨

2012-04-10 07:14:42 | colloidナノ


 野津龍三郎は桜田が帰国する2年前の1929年(昭和4)6月に帰朝していた。
1930年初め、京都の雑誌「我等の化学」に論説「高級分子有機化合物とスタウデインガー教授」を寄稿し、その中で旧師の高分子説を好意的に紹介した。しかし、それ以上同説の普及に身を投じることはしなかった。
小松茂の後任教授として有機化学の講座を担当した彼は、高分子化学に心惹かれながらも、積極的にその分野に入ることに踏ん切りがつかなかったという。

 日本における高分子化学の導入と普及に主要な役割を果たすのは、皮肉なことに低分子派の総帥に師事した桜田の方であった。
とはいえ、帰国後しばらくの間、彼はヘスの忠実な弟子としてシュタウデインガーと論争を続け、高分子説を全面的に受け入れようとしんかった。本節では、その変化の過程を検討する。

 帰国後の桜田は理研助手として、野津のいる理学部化学科の建物に隣接する工学部工業化学科の建物にある喜多研究室に復帰した。
帰国後2ヶ月に満たない6月9日、桜田はある談話会で「繊維素分子の大さ及構造」と題する講演を行い、その原稿は「我等の化学」の7月号に掲載された。この講演の中で、“問題の中心となって居るのは、繊維素分子の大きさが例えば“6105”又はC12H20O10と云うような小さいものであるか、或いは“6105”が100も1000も集まったおおきいものであるか否かであると云う事であります」として、既存文献の詳細なレビューを行っている。
 彼はここで、分子量の高い化合物を「高級分子量化合物」あるいは「高級分子た体」と呼び、シュタウデンガーらの説を「高級分子説」、ヘスらの説を「低級分子説」という言葉で紹介した。前者はセルロース分子は“6105”が1000からなると考え、後者はセルロースの真の分子が“6105”が数個集まってできたもので、それが会合体を作っていると考えた。

 桜田は、シュタウデインガーが天然のセルロースやゴムのモデル物質として使ったポリスチロール、ポリオキシメチレンなどの合成重合物を直鎖状の分子式で示し、それらが「高級分子体」であることを認めている。しかし、シュタウデンガーは「ただ繊維素は高級分子体であると頭から考えて、合成的高級分子体と比較して居るに過ぎません」「ここで注意すべき事は、多かれ、少なかれ不純物を有して居る事の確かな天然の物質に向かって、彼が合成した物質で見つけた法則『粘度則』Staudinger's formulaを其の儘適用して居る事であります」
 つまり、合成高級分子体をモデルにして天然物の構造を論ずることはできないと主張する。後半部では次のように論じた。
「普通の軽い処理を受けた繊維素の銅アンモン液の場合或いは硝化繊維素の有機溶液の場合、其の粘度、Diffusion〔拡散〕速度、Osmotische Duruck〔浸透圧〕、SvedbergのUltracentrifug〔超遠心分離〕の方法論より、大体の見当〔ママ〕C6が500か1000位集まったものだと云えると思います。勿論其の繊維素の前処理で其の大きさはいくらも変わります。其の粒子の状態はこれ等が、すべてC6が一直線にならんだものか、枝のあるものか、袋につまったものか等は今処不明と云うより仕方がありません」

 そう述べながらも、「結論として云いたいことは、繊維素分子の構造其の大きさ等はMeyer、Mark、Studinger、Freudenberg、Bergmann、u.s.w.が考えるように高級分子量化合物と決定したわけではありません」として、低級分子説の立場で今も孤軍奮闘する師ヘスの研究姿勢を情調的なまでに賞賛して結んでいる。

 このように、この時期の桜田には、一方でシュタウデインガー説の幾つかの論拠を批判しながらも、他方では逆にそれを支持する実験事実や解釈は認めるといった論調が見られる。前年のフランクフルトの学会で、「自分のこの講演は、何もセルロース分子中のC6の数がが非常に多いという主張に反対することを目的としたものではない」としながらも、シュタウデインガー説を認めようとしなかった師ヘスの頑ななスタンスを共有していたように思われる。

 桜田のこうした姿勢はその後も数年間、基本的に変わらなかった。
例えば、1933年(昭和8)に雑誌「科学」の特集附録「最近に於ける膠質化学の進歩」に寄稿した「高級分子量化合物のコロイド化学的研究」と題する総説の中で、彼は、大方の研究者により、繊維素、蛋白質、ゴム、澱粉などが大きな分子からなることが確定されているかにあることを認めながらも、次のように書いている。
“しかし乍らK.Hess及び其門下の最近の主として繊維素に関する詳細、精密な研究から明な如く所詮高級分子量化合物が真に主価で結合した非常に大きい(長い9分子から構成されて居るか否かの点に関しては尚多大の疑問がある。ただ是等のゲルがミセル構造を有して居ると云う事はX線並に他の種々の方法で明にせられた疑問の余地のない事実である。”

 このように、マイヤー、マルクのミセル概念を容認する一方、主原子価で結合した巨大分子からなるという考えには疑義を呈している。そして、「高級分子量化合物が果たして真に分子量の非常に大きい物質であるか?それとも仮面を剥げば低級分子化合物に過ぎないか?・・・我々の前にはまだ解決されるべき幾多の根本問題が残されて居る」という言葉で結んでいる。

 ドイツから帰国後の桜田には、やりたい研究が山ほどあった。
当時も「研究はすべて喜多先生と相談し、その指示を受けて行った」が、基本的には「喜多先生の下にあって、基礎的な研究を行う自由を与えられて」いたという。その基礎的研究の第一は、高級分子化合物のX線図的な研究であった。第二は、セルロースなどの高級分子化合物が溶液中で起こす反応を研究することであり、第三は、高級分子溶液の透電率を測定し、分子の双極子能率を求め、分子の溶液状態を研究することであった。

 喜多の配慮で、京都帝大を卒業したばかり二人の研究者が、桜田の帰りを待ち受けていた。
一人は前述の物理出身の淵野桂六で、理研の研究生として採用され、X線図的研究に従事することになっていた。桜田によれば、彼のX線図的の8割は淵野が手掛けたという。喜多研究室では、富久力松;1898-1988をはじめ一連の門下生がヴィスコースの研究に携わっていたが、この分野では「喜多研究室が当時世界でも指折りのものであり、それを背景にX線図的研究をやれば、りっぱな成果が得られるであろう」と考えた。
 こうして、セルロースのキサントゲン化の反応をX線図によって追跡する研究から始まり、日本的な材料としてこんにゃく(糖)、絹フィブロイン、米飯(でんぷん)の構造、そしてセルロースの結晶水の研究などに及んだ。
 1932年(昭和7)から10年間に、この方面の研究で桜田らは66報の論文を発表している。
                                  「④帰国後の研究とシュタウデインガーとの論争」その一古川安

「日本作物學會紀事」 Vol.7 , No.2(1935)pp.149-153
『米のX線圖に就いて : 豫報』 : 昭和十年四月七日受理 岡村 保 大原農業研究所⇒岡山大学資源植物科学研究所


→あのSponslerは諸種の天然澱粉の結晶系を調べるために初めてX線を応用した。・・・・Katz及びその一派の人々は(澱粉を分類して米群と馬鈴薯群)の他にマランタ群のある事を述べてスペクトルを3群に分かち米澱粉はAスペクトルに属するとした。
然るに桜田氏は米澱粉はCスペクトルに属するとして。
 著者の場合にも確かに干渉輪1の存在を認めたからして米澱粉はCスペクトルに属するものと思う。

尚、100年前の貯蔵籾を分析した結果報告によれば、著しく劣化して食にも発芽にも適用しがたい結果を得ている。備蓄には工夫が不可欠という事らしい。

サクラだ!⑧

2012-04-09 06:47:50 | colloidナノ
 桜田は、有機液体中における酢酸セルローズの膨潤溶解性を、種々の単一液体や、二成分系液体中で測定し、これを液体の極性の見地から検討する研究を与えられた。
彼はこの時初めて同大学の物理学者ベーター・デバイPeter Joseph William Debye;1884-1966が提起した双極子能率の理論について学び、それを自分の研究に活用した。
この研究はオストワルド一門の「コロイド系における誘電率、分極、双極子能率の演じる役割に関する知見」というシリーズ中の4報の論文として「コロイド学会誌」に掲載され(1929)、さらに桜田が帰国直後に京都帝大へ詠出することとなる、ドイツ語の学位論文「繊維素とその誘導体に関する研究」(1931)の主要部分を構成する。

  1929年春、桜田は予定通りベルリンに移り、ヘスの下で研究を開始した。ヘスは40歳を越えたばかりの、研究者として脂の乗り切った時期で、“満身研究に対するファイトにであふれていた”。
ヘスは桜田が日本を出発する直前に大著「セルロースとその誘導体の化学」を出したが、そこにはセルロースが低分子からなることを主張する思想が貫かれていた。したがって当時は、研究室の学生たちを低分子説の擁護と、シュタウデンガーの高分子説への反証のための実験研究に動員していた。

 桜田が最初に与えられたテーマは、セルロースを結晶させる研究であった。もしそれができれば、セルロースの正体は通常の結晶質の物質と同じ低分子であり、ある特定の物理的状態によってコロイド性を示すに過ぎないことになることを意味した。
 ヘスはこの研究にかなりの希望をもっていたようであるが、3ヶ月経っても上手く行かず、“間もなく、先生のほうから、この研究は、この辺でうち切ったらよかろうといい出された。私も喜んで、それにしたがった”と、桜田は述懐している。

 次に与えられたテーマは、セルロースの精製度と、溶解粘度および溶解度との関係の研究であった。1年間にわたるこの研究で、精製度が進むにつれて溶解性は増大し、粘度が低下することを明らかにした。このメカニズムを、セルロースの精製に伴う不純物被膜の除去から説明した。不純物と粘度には不可分の関係があるが、シュタウデンガーはこうした不純物の存在を考慮しないで粘度を論じている。そしてドイツ化学会誌に論文を発表し、「セルロースの構造のほんとうのことを知るためには、セルロースの精製法についてもっと実験的に研究しなければならない」ことを論じた。

 2年間の年限の1930年9月を前にして、桜田は喜多に研究継続のため留学期間延長の願いを申し入れた。ヘスからそのための依頼状も書いて貰った。喜多は理研の大河内に事情を伝えた結果、11月末までの延長が認められた。
 喜多が大河内に宛てた書簡には、“フランクフルトの大会”に桜田が出席することが書かれている。
それは1930年9月にフランクフルトで開催されたコロイド学会の年会であった。主題は「有機化学とコロイド化学」でオストワルドの司会の下で開かれた。
シュタウデンガーはゴム、セルロースなどの天然物、ポリスチレン、ポリオキシメチレンなどの合成物を材料にして、粘度と分子量の間に比例関係が成り立つことを認め、所詮“シュタウデンガーの粘度則”を発表した。“新ミセル説”の立場に立つクルト・マイヤーKurt Hans Meyer;1883-1952、ヘルマン・マルクHerman Francis Mark;1895-1992らの講演も高分子論に与していた。
 ヘスは唯一の低分子論者として“熱を帯びた堂々たる”発表をしたが、劣勢であることは講演内容や会場の雰囲気からも感じ取ることができたという。


桜田は留学期間を再延長し1931年の春、ヘスの研究室を去ったが、その時ヘスは桜田に、次のように語った。
「いま自分がこの研究を投げ打ったならば、世間ではセルロースの高分子説はドイツの学者によって確定せられたというであろう。しかし、事実は彼らの考えるごとく簡単ではない。まだ為すべき幾多の仕事が残っている。自分はカラーPaul Karrer;1889-1971、ベルグマンMax Bergmann;1866-1944のごとくこの問題から逃避せず、徹底的にこの研究を今までの立場から続けようと思う。」

留学期間も残り少なくなった頃、喜多は桜田に、X線回折の技術を習得して帰るようにと指示をした。当時までにドイツではレギナルド・ヘルツオークReginald O.Herzog;1878-1935、マイアー、マルクらにより、繊維の分子構造をX線によって分析する方法が確立しつつある、喜多はそうした物理化学的手法を用いた新潮流を論文から知っていたものと思われる。
そこで桜田は帰国前の3ヶ月間、毎日、研究室の勤務時間外の2時間を研修に充て、ヘスがX線研究のために招いていたカール・トローグスCarl Trogusから習得した。喜多に先見の明があったといえるのは、そのX線が帰国後の桜田の高分子化学研究できわめて重要なツールになたからである。
喜多は桜田にX線技術の習得を指示する一方、研究室にX線装置を準備し、京都帝大理学部物理学科の吉田卯三郎;1887-1948研究室出身の淵野桂六;1909-1974を待機させ、桜田が帰国したら直ぐにでもセルロース繊維の研究が開始できるように手筈を整えていたのである。

1930年7月から倉敷絹織の友成九十九;1902-1957がヘスの研究室に入った。友成は、東北帝大の機械工学科を卒業した後、同社に入り、繊維化学を学ぶためにヘスの下に留学した。桜田は、この勤勉で親しみやすい人柄の同胞と意気投合した。
「これから二人共同して、大いに繊維のためにやろうじゃないか、そういったふうな話を酒を飲みながらさかんにやったもんです」と、桜田は後年語っている。
実際二人の絆は後にビニロンの開発研究と工業化において大きな役割を果たすことになる。その年の10月には喜多のもう一人の愛弟子、児玉信次郎;1906-1996が、同じベルリンのダーレムにあるカイザー・ウィルヘルム電気化学・物理化学研究所のマイケル・ポラニーMichael Polanyi;1891-1976の下に留学にやってきた。後に京都帝大で桜田の同僚教授として人造石油やポリエチレンの研究開発の指導者となる人物である。
桜田は彼らを週末にベルリンの老舗ワイン・レストランに連れて行った。母国に想いを馳せながらそこで議論に花を咲かせたであろうことは、三人が喜多に宛てて書いた絵はがきから察することができる。

桜田は1930年11月末までドイツで研究した後にアメリカ経由で帰国する予定であったが、結局その費用を充当して翌1931年3月末までドイツ滞在を延ばし、シベリア鉄道を使って4月18日に帰朝した。2年4ヶ月に及ぶドイツでの鮮烈な体験を経て帰国した時は27歳であった。
                                       「③若きセルロース化学者のドイツー低分子派のもとにー古川安」


 セルロースの結晶構造に関する史的な経緯を付記しておく。それがマイヤーとマークを嚆矢とした1928年の報告とされている。
その当時明らかとなりつつあった高分子の概念を取り入れた単位胞は長い分子の一部であるとしたのだ。
 しかし1913年のNishikawa、Onoによる木材、大麻、竹のX線ラウエ写真はおくとしても、1926年のSponslerなどが、セルロースのX線解析結果の詳細な解析からセルロースはブドウ糖の主原子価による高重合体の鎖状巨大分子であることを結論していた。(「Colloid Sym.Monograpy、4、174」)
 それはあのHE R M A N N S T A U D I N G E R「 Macromolecular chemistry」 Nobel Lecture, December 11, 1953 においても引用されている。
→furthermore Sponsler and Dore4I demonstrated that the results of X-ray studies are consistent with the chain structure of cellulose.
 
その後の回析技術の進歩は、電子線、放射光X線そして中性子などが現在では活躍している。それらの成果はセルロースのみならず、コラーゲンなどでも注目される成果を生み出している。

サクラだ!⑦

2012-04-08 06:53:08 | colloidナノ
「②喜多研究室とセルロース化学」割愛

喜多は若い弟子の養成に力を注いだ。新しく難しいことは歳をとってからではなかなか勉強できないからと、できるだけ若いうちに先端の学問を学ぶようにやかましく言ったという。
自身が30代半ばという遅い年代で海外留学したことに対する悔いの念もあったであろうが、有能と見抜いた弟子を若い時に外国に留学させるための労を厭わなかった。桜田も喜多の眼に叶った愛弟子の一人であった。

帝国人造絹糸の取締役だった久村清太は、しばしば喜多の研究室を訪れた。時には喜多と一緒に実験室に入ってきて、桜田にもいろいろ話をしていったという。久村は桜田の才を認めたと思われ、喜多に、卒業したら桜田を帝人によこさなかいかという相談をもちかけた。しかし、喜多はその申し出をきっぱりと断った。
桜田は卒業後、喜多の研究室に残り、最初の1年間は理研研修生として、2年目からは理研助手として、セルロース誘導体の合成や溶解性についての研究を続行した。2年経った時喜多から「そのうちに理研からドイツへ留学できそうである。心準備もし、ドイツ語の勉強をしておくように」という話があった。「うれしかったことは、いまさらいうまでもない」と桜田は回想する。
当時帝国大学では、教授になる資格として助教授時代に海外へ留学することが不文律になっていたほど、留学は重要な過程であった。世界最先端の学問の場ドイツへの留学と帝国大学教官という二つの途が、24歳の青年の前に同時に開かれたのである。

理研記念史料室には、桜田一郎の留学に関する書簡と人事記録のファイルが保管されている。その中の喜多が大河内正敏理研所長に宛てた書簡の文面から、喜多が桜田の留学を大河内に推薦し即座に受け入れられたことの経緯を窺い知ることができる。
留学前および留学中に桜田と理研事務官との間に交わされた一連の手紙のやり取りからは、留学前に支度金700円、旅費1600円が支給され、現地到着後は月額360円の留学費に加え、ヨーロッパの他国へ行った際には「見学旅費」がその都度支払われるなど、理研から比較的潤沢な資金が送金されていたことも分かる。実質的には理研の費用で留学したのであるが、喜多の計らいで文部省留学生の名義も与えられた。

喜多は農学部の農芸化学者、武居三吉;1896-1982と相談した結果、ベルリン郊外のダーレムにあるカイザー・ウィルヘルム化学研究所のクルト・ヘスKurt Hess;1888-1961の研究室を留学先として薦められた。武居は1926年(大正15)から2年間ハイデルベルグ大学の有機化学者カール・フロイデンベルクKarl Freudenberg;1886-1983の研究室に留学し帰国して間もなかった。
ヘスはセルロース研究者として名高く、桜田としても異存はなかった。かくして、喜多がヘスに手紙を出し、折り返し快諾の返事が届いた。後述のように、当時ヘスがシュタウデインガーの論敵として高分子説の否定に執念を燃やしていたという事情を、喜多も桜田も知っていたかは疑わしい。

1928年(昭和3)9月13日、日本郵船の諏訪丸で神戸を出航し、マルセイユ経由でベルリンに到着したのが10月28日であった。途中立ち寄ったパリでは、野津龍三郎;1892-1957に迎えられた。野津は京都帝大理学部化学科の助教授で、京都にいる頃から桜田とは顔見知りであった。1926年(大正15)5月から翌年10月まフライブルク大学のシュタウデインガーの研究室に留学し、その後イギリスの有機化学者ロバート・ロビンソンRobert Robinson;1886-1975の研究室に13ヶ月間滞在し、パリのコロイド化学者ジャック・デユクローJacques Eugene Duclaux;1877-1978の下に移って間もない頃であった。
野津は京都帝大の師、小松茂;1883-1947から、これからの有機化学者には結晶しない物質の化学がとくに興味深いであろうとことを教えられ、“ゴムの研究でも教えてもらうつもり”でシュタウデンガー研究室の門を叩いたのであった。野津に案内されたパスツール研究所では、職員から喜多がかってそこに留学中使っていたという机を見せてもらい感慨にふけったという。

シュタウデンガーは一群のコロイド的性質をもつ物質(ゴム、セルロース、澱粉、蛋白質、プラスチックなど、当時からポリマーと呼ばれていた化合物)が巨大な分子(高分子)からなることを主張していた。
第一次世界大戦下の天然ゴム不足から、合成ゴムへの関心が高まった時期、シュタウデンガーが最初に関心を寄せたポリマーはこのゴムであった。天然ゴムと合成ゴムの分子構造の違いを比較検討する中から、彼はゴムが今までの化学の常識では考えられないほど巨大な分子からなり、その独特の性質(弾性やコロイド性)はその巨大な分子からなるという一般論を「ドイツ化学会誌」に発表した。
当時ポリマーは、通常の小さな分子(低分子)どうしが、物理的な力で会合したものであるという説(会合体説=低分子説)が多くの化学者に支持されていたため、シュタウデンガーは、これら学界の主流を占める低分子論者たち(主として有機化学者、コロイド化学者)と激しく論争しながら、自らの高分子説を立証するためにその研究に精力を傾注したのであった。
桜田は、一方の低分子派の牙城に留学し、この論争の中に身を投じることになる。


 桜田はベルリンに着いてヘスに会ったところ、研究室がふさがっていたため、半年間ライプツイッヒ大学のここに名称を入力ヴォルフガング・オストワルドWolfgang Ostwald;1883-1943のところへ行って研究するように指示された。
 オストワルドは物理化学の創始者ヴィルヘルム・オストワルドFriedrich Wilhelm Ostwald;1853-1932の長子で、コロイド化学の組織者であった。コロイドが学説の立場から低分子説を擁護していた彼は、シュタウデンガーの論敵でもあった。          

                                            「③若きセルロース化学者のドイツー低分子派のもとにー古川安




→1928 Graham-Preis der Kolloid-Gesellschaft
Wolfgang-Ostwald-Prize→1975 Bun-ichi-Tamamushi (1898 - 1983), Chemiker, Tokio (Japan)                                           

Leipzig大学でK.Chunに動物学を学ぶ。プランクトンの移動の研究によって学位を得る。その直後1905年にアメリカの生理学者J.Loebの助手となる。1904年以後研究の対象を生物よりコロイドに転じ、ゼラチンの膨潤を研究し、ホフマイスター順位との関係を論じた。
1907年にコロイド溶液は分子分散系と粗粒子分散系との中間に存在する物質の状態であり、いずれの系からも生成し、またいずれの系にも転移するという平衡論的定義を与えた。
1927年の著書「Die Welt der Vernachlassigten Dimensionen」(初版1914)の中で、コロイド科学の語を用い、コロイドが物理化学の古典的法則からはみ出した対象であることを強調した。そのほかカルビン数(1919年)、非ニュートン粘性(1924年)、海底体の法則(1927年)に関する研究がよく知られている。
「Kolloid-Zeitschrift」(1907年創刊)第二巻以後の編集者であり、1910年「Kolloidchemische Beihefte」を創刊、1922年「Kolliod-Gesellchft」を創刊した。
1923年Leipzig大学のコロイド化学教授となり、1926年Graham賞を受賞。音楽的才能も豊かであった。肝臓ガンで死去した。