『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:50-1織田信長朱印状 天正十年四月廿四日

2023-02-12 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

50-1織田信長朱印状 天正十年四月廿四日
 
中国進発については来たる秋のことと考えて
いたが、この度(敵勢の)小早川隆景が備前
児嶋を敗北させ、備中高山(高松城)にたて
こもったとのこと。羽柴藤吉郎が出陣して
(城を)取巻く由の注進があった。重ねて便
りが届いているため(当方も)出勢すること
にした。(そちらの丹後・伯耆方面でも)油
断なく用意を専一にしていただきたい。なお
(詳しくは)惟任日向守(光秀)が申上する
であろう。謹言。

天正十年四月廿四日 信長(朱印)
一色五郎(義有)殿
 長岡兵部大輔(藤孝)殿
    ※天正十年=1582年

**純野のつぶやき**
信長公は、信濃征伐から戻り4月21日に安土
に着いていますので、この書状は安土に着い
て戦後処理でバタバタしている中で到着した
長岡藤孝の手紙に対して、城中で書かれたも
のと思われます。信長公が安土に帰城するタ
イミングを見計らって、丹後国から安土にち
ょうど手紙が届くように送る長岡藤孝も芸が
細かいですが、数日のうちに返書を送りだす
信長公も実にまめですね!現代の電子空間で
の連絡が“インターネット・メール”ならば、
信長公と藤孝が作り上げたのは“レターネッ
ト”と呼んでもいいかもしれません!戦国時
代に実現可能な限りで最速の通信システムを
構築していたわけです。なおこの手紙は、備
中高松城が小早川の軍に攻陥され、攻囲戦に
のぞむ羽柴藤吉郎から何度も援軍要請が信長
公に届いたため、秋口の中国進発を早めるこ
とになったのを一色義有と長岡藤孝に伝えた
ものです。
 一色義有とは1581年に殺害された一色満
信の後継者で、1582年2月信長信濃出馬の条
々書き出しの中で、長岡藤孝は丹波の警護を、
長岡忠興・一色義有に出陣を命じています。
今回の手紙は、おそらく信長公が備中方面に
向けて出馬したことが小早川側に知られれば、
備中から退くと見せかけて伯耆国から丹後・
丹波国の日本海側を急襲するリスクが高くな
ることを考えてのことで、信長公の細かい気
配りが見えるようです。

**あとがき**
そしてこの書状が、吉川弘文館刊「永青文庫
叢書細川家文書中世編」に掲載されている書
状の中で、信長公(あるいは信忠)から細川
藤孝(あるいは忠興)あてに日付がわかる最
後の書状となります。この天正十年四月廿四
日の書状から一カ月と十日後の6月2日、信長
公は京都本能寺にて家臣明智十兵衛光秀の軍
に弑逆されることとなります。

以上

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