『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:01織田信長黒印状(元亀四年二月廿三日)

2017-01-15 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

 細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳し

 間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

 通じない可能性のある部分に純野が追記

 した文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記

 ・兵部大輔→兵部

 ・岩成友通→成友通

 ・島田秀満→田秀満

 などはなるべく原文のままとしました。


01織田信長黒印状(元亀四年二月廿三日)

<封書墨書き>

「細川兵部太輔殿 信長」

<本文>

公義(足利義昭)の御逆心に重ねて以下の

内容をお伝えすること(お読みいただければ)

祝着至極である。

一、塙直政が(公義に)道理を申し上げた

ところ、(公義は)上意として(塙に種々)

申し下した。(塙は)一つ残らずお請けした。

そして塙が(返答の)書状を差し上げようと

したところ眼病にかかったため(松井)友閑

と嶋田(秀満=秀順)に代りに申上させ、

質物を進上はしたのだが、(公義には)京都

の雑説をしずめ、果たして(信長のことを)

疎んじないように思し召す余地はあるの

だろうか。

一、摂州方面のことについては、荒木(村重)

が信長に対し二つとない忠節を相励む旨で

あるがもっともなことである。

一、(父惟政の憤死後進む方向が定まらぬ)

和田(惟長)については、先日こちらへ(信長

殿を)粗略に扱うつもりはないことを申して

きた。若者でもあり(お手許に)引き付けられ、

ご意見(ご指導)を専一にお願いしたい。

一、伊丹(親興)については、敵方へ(内密に)

肩入れする由とのことである。このことにつき

(藤孝殿が)和田(惟長)に意見させたのは

神妙なことであった。(伊丹親興については)

当方に味方するよう調略してしかるべきかと

思う。

一、石成(友通)については、本来は表裏の

無い御仁であると(藤孝殿から)聞き及んで

いたが、今はありえない別の事情があるの

だろうか、よくよく(藤孝殿の方から)相談

して頂きたいと思う。

一、(藤孝殿が)無事に敵を破ったならば、

(まず)敵の領地を功績のあった者皆にあて

がい(有能な武士として手許に)引き付けて

おくことが肝要である。

一、遠江・三河方面については、(武田)信玄

が(三河)野田地域から去る(二月)十七日

に引き退いた。また、(近江の)志賀方面に

ついては、一揆などが少々蜂起したため蜂谷

(頼隆)・柴田(勝家)・丹羽(長秀)に軍勢

を出すよう申し付けたところである。おそらく

(琵琶)湖を渡ることになるだろう。成敗に

手間はかからないだろうと思われるので、

(畿内の)世情を調べるよう(藤孝殿に)申し

伝えたいので、近日(当方が近江の)佐和山

へ向かう時に(藤孝殿の方から途中まで)

出迎えに来られればありがたい。(わざわざ)

意図することもなく上洛を遂げられたなら、

畿内のことを押しなべて相静める手段が案中

にある。これまで同様魂を入れて等閑(なお

ざり)でない姿勢で(現在の世情を)相見て

いきたい。いよいよ(藤孝殿の)機知を持って

ご油断無きように願う。恐々謹言、

 元亀四年二月廿三日 信長(黒印)

 ※元亀四年=1573年


**純野のつぶやき**

信長の軍はこのころ丁度石山(今堅田)を攻撃

する直前であり、「湖を渡るだろう」という予定

を含め、書状の内容は極めて正確であることが

わかります。しかし信長公も様々な世情に対して

細かいですね、特に人間関係についてはすごく

マメに調整しようとしている
気がします。もし

血液型があったなら、確実にA型人間だったん

でしょうね!



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