経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人の為の政治思想史(11) 評定衆と貞永式目 

2014-07-19 19:09:45 | Weblog
(11)評定衆と貞永式目
1221年の承久の変後しばらくして幕府の主宰者である北条義時は死去します。義時死後一族の内紛を乗り切った泰時は幕府の意思決定機関として評定衆という機構を作ります。それまでは創業の主頼朝、政子そして義時というカリスマ達の指導で幕府は運営されていました。泰時は承久の変後の政権運営を安定させるために評定衆を作りました。政権の運営を主導するのは北条一族です。北条氏の事実上の権力掌握を認めさせた上で、泰時は評定衆という合議機関を作ります。評定衆は最初13名で構成されます。北条一族と千葉三浦など他氏の有力名主、そして大江三善氏などの事務官僚が機構の成員です。泰時はこの機関の指導者として執権になり、次席を連署として北条一族を当てます。同時に京都の摂関家から空席になっていた将軍に就く人物を迎えます。承久の変は三代将軍源実朝が暗殺され空席になっていた将軍職に皇族をと望んだ北条氏の意向を拒否し、幕府の危機に乗じて後鳥羽上皇が起こした戦乱です。摂関家の一族が将軍になります。ここでも権威と権力の分離が見られます。
 評定衆は幕府の最高意志決定機関でした。評定の最も重要な議題は領地争いの仲裁です。幕府は御家人とご恩と奉公の関係で結ばれています。御家人間には当然領地争いが起こります。上級領主である貴族寺院と下級領主である地頭御家人との間の紛争も起こります。御家人以外の武士勢力と御家人の紛争も絶えません。貴族同志の領地争いも幕府に持ち込まれます。御家人を中心とする領地争いの裁判仲裁が評定衆の最大の仕事でした。裁判の実務は一格下の引付衆が行ないます。時としてこの引付も評定に参加します。引付は4から5局、1局3人ですから、引付を加えれば約30人近い構成員による会議になります。評定衆という機構は以後武家政治の基本となります。領主大名の政治、以後の二つの幕府の政治運営もこの評定衆を範例として行われます。評定衆の基本的態度はまず御家人の所領安堵、次に武士の上に立つ荘園領主層の権益の擁護です。特に幕府は御家人層に属さない新興の雑多な武力、いわゆる悪党を警戒しました。しかし鎌倉幕府はこの悪党層を政治に取り込めず滅亡します。
 評定衆設置の10年後泰時は幕府運営上の憲法ともいえる成文法、貞永式目を作成します。それまで日本には法律として貴族が制定した律令とその細則や変化した内容である格式がありました。時代は変り政治の主導権を武士が握ると、武士による武士のための武士の法律が必要になります。慣例でやってきた政治運営を成文化します。新たな法律貞永式目が出現します。成立時の貞永式目は全部で51か条からなります。51という数字は聖徳太子の17条の憲法の3倍です。この数字から解るように泰時は日本法制の生みの親聖徳太子を範例にとりました。
 貞永式目の第一条は、深く神仏を敬え、です。泰時は聖徳太子が仏教の精神で衆議和合してゆこう呼びかけた立場を継承します。幕府は朝廷にならって鎌倉周辺に多くの寺院を作りそれを幕府の守護神とすると同時に御家人の啓蒙に務めます。この法律が重要事項として強調したことは、ご恩所領安堵には忠誠軍役提供で報いよ、ということです。貞永式目はこの時代の最重要な問題である土地所有とそれに基づくご恩と奉公の関係を明快に宣言します。貞永式目は評定衆設置と併行して定められました。
 面白い比較をしてみます。貞永式目と評定衆は何と併行するのでしょうか?イギリスのマグナカルタと議会制です。貞永式目制定の20年前にマグナカルタができました。当時のイギリス王ジョンの失政に貴族達が抗議し、王と貴族の間に結ばれた協定がマグナカルタです。マグナカルタの内容は王による人民の、実際には貴族達の、土地所有の侵害を防ぐことです。具体的には王が課税する時には貴族の同意を必要とすることが確認されました。マグナカルタの成立を主導した大貴族は40名弱です。大貴族のこの連合体がやがてイギリスの議会に発展します。マグナカルタ成立には領主といわれる階層の多くが参加しますが、主導したのは大貴族です。やがて中小貴族は議会の中で別個のグル-プを作るようになり、こうして大貴族中心の上院と中小貴族が主体となる下院ができます。あえて日英の比較を続けますと、日本にとっての下院は地方領主大名における衆議性でしょう。地方領主はその運営方法を幕府のそれから学びました。地方の領主の家政運営において行なわれていた方法を、公的で全国的規模のものとして幕府が採用したとも言えます。
 貞永式目とマグナカルタ、評定衆と議会、この二つの事象はそれぞれ酷似しています。目的内容、構成員の数、さらに成立年代もほぼ同じです。マグナカルタと議会は民主制の発端です。私が言いたいことはそれとほぼ同等のものが同じ時期の日本にもあったということです。鎌倉幕府の政治を民主主義の発端とは言いませんし、またその必要もありませんが、私が言いたいことは似たようなものはあったし、それを基礎として以後日本独自の民意形成の制度が作られていくということです。なお評定衆と議会の成立事情にも似た点があります。評定衆はカリスマである頼朝の死後二代目の頼家が父親同様に独裁的に政治を運営しようとした時御家人が結集して反対したことが発端です。イギリスではジョン王の数代前ノルマン人によりイギリスは征服されています。そういう独裁政権への臣下の反抗の事跡が評定衆貞永式目であり、議会マグナカルタです。
 日本とイギリスの違いを考えて見ましょう。鎌倉幕府が作られたといってもあくまで日本という同じ民族の内部においてです。ですから鎌倉幕府によって作られた封建制度は以後温存され、武士と農民、商人と職人も含みます、が比較的仲良く共存したまま江戸時代を経て維新まで続きます。この間武士は官僚化します。反対にイギリスはノルマンに征服されました。ノルマン人はそれまでのイギリス人とは異なる民族です。征服者はフランス語を話し、被征服者は英語を話します。征服王朝の支配ですから、貴族農民間の対立は非常に大きく農民は農奴と言われました。階層格差は非常に大きい。イギリスではこの格差を抱えたまま社会は地主制に移行します。反対に日本では地主制はあまり展開されていません。イギリスの地主の連合体そしてその意見表出の場が議会であり民主制というものです。民主制とは所詮その程度のものでしかありません。民主制はその原点に厳しい対立を抱えています。もう少し民主制というものを批判的に考えてみましょう。民主制の発端は古代ギリシャ特にアテネの政治制度にあります。アテネの民主制は完全に展開されました。しかしアテネの民主制は奴隷制とそれに密接に関係する戦時体制を基礎としています。古代のギリシャは常時戦争状態にあり、戦争の結果征服された側の民衆は奴隷にされました。イギリスの地主制そしてギリシャの奴隷制を考えた時私の頭の中に浮かぶ構図は、民主制とは勝った側の支配と抑圧の合理化の機構ではないのかということです。民主制とは潜在的に奴隷制を基礎としているのではないのかという疑問です。
 貞永式目と評定衆を起点として、イギリスのマグナカルタと議会との類似点を指摘し、同時に両者の差異を検討して西欧の民主制を極めて批判的に考察しました。私が言いたいことはあまり欧米の制度を過大評価するなということです。1200年代前半を出発点として日本はイギリスと異なる道をたどります。日本では武士が農民から常に再生産されて武士は官僚化し、農民の耕作権は確立してゆきます。農民と武士の間の格差は大きくなく全体として中産階級を構成し続けていったのです。武家政治は民主性なるものより優れていたのではないでしょうか。
 評定衆には前史があります。衆議はなにも評定衆のみで行なわれたのではありません。古代の律令制では大納言以上の約4-5名の大氏族の長による合議により政治的意志が決定されました。摂関政治の確立と併行して合議する人数は増え、陣の定という合議が行なわれています。この合議を主導し、結果を天皇に取り次ぐのが摂関です。摂関政治の出現により衆議はより盛んになりました。評定衆はそういう日本の政治の衆議性の伝統の延長上に出現します。評定衆の意義は下からの意見をくみ上げる衆議性を明示化した点にあります。鎌倉幕府は武士達の協賛と合意でできました。頼朝が奥州藤原氏を征討する時朝廷からの許可がなかなか下りず、業をにやした武士達の発言で征討が開始されました。軍中令辞を知らず、ただ将軍の命あるのみ、との発言です
評定衆と貞永式目の設置制定は衆議性、日本的民意集約方法の確立を意味します。非常に柔らかい民意集約方法です。