経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝。中部謙吉

2011-01-03 03:37:53 | Weblog
     中部謙吉

 中部謙吉は日本水産業界のトップ、大洋漁業(マルハ)の三代目社長です。謙吉を語る時、父親幾次郎と兄兼市を除外することはできません。マルハ、大洋漁業は幾次郎と兼市・謙吉の兄弟、計三人のトリオで形成され大をなしました。正直創業者である幾次郎の貢献は大きいものです。兄弟二人は父親の事業を継承し発展させます。父親の起業者としての大胆さと切れ味の良さを多分に持っているのは、弟の謙吉の方でしょう。中部家の祖先は兵庫県明石の近傍の林村で漁師をしていました。幾次郎の4代前に明石に移住して、魚商を営みます。近海で獲れた魚を明石へ運び、そこから大市場である大阪へ運搬します。明石では屋号を林屋といい代々の当主が兼松を襲名する事が多かったので、通称を「林兼」と言います。
 幾次郎という人は、極めて積極的で大胆で、斬新なアイデアに富む、優れた起業家でした。まだ手漕ぎの舟で漁をしていた時代、幾次郎は独得の天気予報で同業者に信頼されていました。それも単なる勘でなく、例えば雨が降ればそれを桶で受け止め、現在風に言えば、雨量を測定するなど、実証に基づく予報でした。明石から大阪の市場まで鮮魚を運ばなければなりません。難関は明石海峡です。大阪湾が満潮になれば水は西に流れます。このとき手漕ぎの舟では潮は乗り切れません。しかし海流をよく観察していると、必ず細い反流があります。幾次郎はこの潮目を把握していて、同僚より早く有利に魚を運びました。林兼は四国から北九州方面に進出して、鮮魚を買い付けるようになります。同業他社の中では群を抜きつつありました。こういう父親の次男として謙吉は1893年(明治26年)に明石に出生します。
 幾次郎は魚運搬船にエンジンを取り付けることを考えます。大阪市内の川を運行する船のエンジンを候補にします。それが明治37年に完成します。12t、8馬力、6ノット、幅3m、長さ14m、新生丸と名づけられます。これで明石海峡の満潮も克服できます。新生丸は日本で最初のエンジン付き漁船でした。林兼は明治40年には朝鮮海岸に進出し、そこを主な漁場とします。1910年(明治43年)謙吉は高等小学校を15歳で卒業します。父親は上級の学校への進学を許しましたが、謙吉自身の希望で林兼の下関支店に勤務します。大正2年、本店は明石から下関に移ります。多くの逸話があります。ハモが朝鮮沿岸で大漁しました。下関に運ぶ途中、台風に会います。沈没は免れましたが、ハモのほとんどは水槽から海中に逃げ出します。多くの乗組員は下関に回航して船の修理を進めますが、まだ20歳に足らない謙吉は朝鮮沿岸に引き返すことを決断します。大漁でした。そして台風のため品薄になった大阪の市場にハモを運び、大儲けします。また鯖漁の漁船に対して、一匹一匹鯖を数えて買うのではなく、大体の見当で船ごと買う方式を提案します。船頭の言う数に妥協して買うのですが、鮮度は保証され、結果はこれも大儲けでした。この辺のことになると、仕事や成果は幾次郎のものか、謙吉のものか解りません。ごっちゃになりますが、親子共同の作業として読んでください。板底一枚地獄と言われる大海で仕事をする漁船のこと、他の業種に比べると逸話は多いのです。
 朝鮮沿岸で大漁となり、本土に引き返す直前、朝鮮ではコレラが大流行しました。挑戦で獲れた魚の本土搬入は禁止されます。林兼の乗組員にも患者が出ます。林兼のみ朝鮮沿岸に踏みとどまりました。幾次郎は徹底的な予防対策をほどこします。手足の洗浄は各個人の責任になります。命が大事ならしっかり洗え、ということです。飯はおひつに移さず、釜から直接盛ります。副食は梅干だけです。どんなことがあっても手を口元にはもって行かないよう、厳命されます。こうしてコレラを乗り切り、競争相手のいない海で存分に魚を取り、品不足の本土に持ち帰ります。災い転じて福となります。林兼という企業にはこの種の逆転劇が多いのです。
 林兼は機械船で巾着網漁法を考案しました。巾着とは財布のことです。二隻の和船が網の両端を取り、絞りながら、網の中に魚を追い込みます。これを機械船つまりエンジン・スクリュウ付きの舟でします。機械船は和船に比べて早いので巾着網漁法できないと、思われていました。そこで網の降ろし方を研究し、何度も実験し訓練して、ついに片手回しテ-ブル式漁法なるものを考案します。そうなると速度に優り大きい機械船はより大量の魚を捕獲できます。
 林兼は定置網漁法にも進出します。既に朝鮮沿岸のめぼしい漁場には定置網が張られていました。林兼は不利な漁場に進出します。しかし沿岸に近い定置網周辺は汚れやすく、魚は移動します。少し時間を待っていれば林兼の網にも魚が寄ってくるのです。さらにこの定置網を利用して夏鰤を飼育し油の乗った寒鰤にして市場に出します。
 林兼すなはち幾次郎親子は何事にも新しい考案をほどこします。漁法だけではありません。経営も積極的に拡大します。商事部門を作り、傘下の(林兼に魚を売ってくれる)漁師に漁労用資材や食料・酒・タバコを安く売ります。さらに漁師に漁具や資金を前貸しします。前貸しは単に漁師へのサ-ヴィスとは思えません。漁師や漁船を借金漬けにしてその行動を縛ることもできます。また商事部は石油の取引にも乗り出します。始めは自社船用の石油確保が目的で各地に重油タンクを作っていましたが、次第に石油の取引にも進出するようになります。大正末年の時点で林兼は以下のような部門を擁していました。
鮮魚部(魚の運搬)、漁業部、水産物冷蔵庫部、冷凍・干乾物部、練製品部、製材製罐部、船具魚網部、石油販売部、缶詰工場、精米精塩部、肥料部、農事部、です。これらの部局から子会社が派生してゆき、林兼は次第に水産物コンツエルンになってゆきます。農事部とは朝鮮沿岸で作業する従業員の食糧確保のための部局です。林兼は2000町の未開墾地を購入し水田を造りました。この時点で保有する船舶は、漁運搬船60隻、3600t、漁船180隻、7000t以上、です。この間大正13年、林兼商店は株式会社になり、持株会社である林兼商店KK、と林兼漁業KK、林兼冷蔵KKの三つに分かれます。
 昭和に入って林兼は北洋漁場にも進出を企てます。蟹工船とサケマス漁が狙いです。経営は順調に行きましたが、当時の風潮である国策としての企業合併に抗しきれず、北洋漁業の先輩である、日魯漁業の膝下に屈し、単独営業を諦めます。北洋漁業の利権を売却して得た130万円のうちの50万円を使って南氷洋捕鯨に進出します。これは謙吉の担当でした。林兼は政治との接触を嫌いましたが、統制経済の中では、政府との接触は欠かせません。謙吉は常務として東京在住になります。最初の捕鯨船団は2万トン級の母船1隻、捕鯨船8隻からなります。総工費は750万円でした。川造船が積極的に造船を引き受けます。林兼の経営は信用を得ていたので、融資はスム-スに行きました。捕鯨船のエンジンをディ-ゼルにするかスティ-ムで行くかの問題が出てきます。後者なら速度とスクリュ-の回転を容易に調節でき、その分鯨を追跡しやすくなります。ディ-ゼルだと消費する重油の量はスティ-ムの1/3ですみます。林兼はディ-ゼル方式を採用し、シリンダ-の中に圧縮空気を逆噴射して入れることで、スクリュウ-回転の急停止を可能にします。こうして昭和11年母船日新丸以下の捕鯨船団が南氷洋に派遣されます。途中船団長の急死という不慮の事件がありましたが、捕鯨船団は1116頭の鯨を捕殺し、15280トンの鯨油と187トンの鯨肉を持ち帰ります。大成功でした。林兼は同規模の船団をもう一つ作ります。この船団は出航する前後に、母船が陸軍の上陸作戦で上陸用舟艇運搬に徴用され、30日以上遅れたために十分な成果が得られませんでした。
 戦争になります。二隻の母船はタンカ-として徴用され、米軍の爆撃で撃沈されます。他に多くの舟が徴用され、多くの設備が供出されました。そして敗戦、戦時補償は打ち切られ、林兼の本拠地であった朝鮮の施設はすべて失います。
 昭和20年幾次郎が死去します。長男兼市が社長に就任し、次男の謙吉は副社長になります。戦後すぐ林兼は立ち上がります。何もありませんが、培った技術と信用はあります。トロ-ル船、マグロ船など総計216隻を建造します。この点では占領軍の協力を得られました。当時は深刻な食糧不足でした。魚を取れば売れます。また戦後の虚脱状態の中でも工業資本はかなり残っていました。ただ戦争被害と戦後の混乱の中で、これらの資本は遊んでいたのです。だから林兼に資本がなくても、船団を作ることは可能であったのです。林兼は急いでいたので造船会社に分散発注します。また林兼は戦争中の統制経済に極力反対し、供出した資本のかなりの部分を売却ではなく貸与という形にしていました。敗戦で国家統制が解体すると、他の会社、日魯漁業や日本水産と違い、貸した物を返してもらえばよかったのです。この点で林兼は有利でした。
 小笠原捕鯨も再開します。南氷捕鯨への助走です。余っていた無用の長物である軍艦を旧海軍省にかけあい、貸してもらい、捕鯨船や母船に改造します。母船は2000tでした。昭和21年、南氷洋捕鯨が再開されます。潜水艦を捕鯨船に改造し、タンカ-を母船に転用します。戦争中は逆に母船をタンカ-として海軍に貸していました。この時代肉は極めて貴重品でした。餓死者が1000万人は出ると予想された当時(実際はほぼゼロ)鯨肉は重要な栄養源でした。私も給食で食べた記憶があります。本来鯨肉は美味なのですが、一度冷凍したものを解凍する際にでるある種の脂肪酸のために臭みがあり、あまり美味しいものではありませんでした。しかし南氷洋からもたらされる、鯨油と鯨肉は戦後の国民の重要な栄養源になりました。だから獲れば売れるのです。
 ここまでは林兼と占領軍は友好関係にありました。昭和22年、林兼の役員の大部分が追放になります。理由は多くの傘下子会社を抱え、小規模ながら財閥の体をなしていた事と、日魯、日水と並んで業界ではBIG3の一つ、つまり寡占状態をなしていたからです。占領軍も狡猾です。戦後の混乱期には旧経営陣を利用し、一応混乱が収まると彼らを追放します。理由はなんとでもつきます。林兼は国家統制に反対し自由主義経済を主張しましたが、戦時中のことですから、なんらかの形で戦争遂行に協力はさせられます。3年間徹底した追放解除への嘆願が繰り返されます。昭和25年、兼市、謙吉を含む全役員は追放解除になります。昭和28年(1953年)兼市が死去し、謙吉が社長に就任します。
 昭和27年サンフランシスコ講和条約締結、しばらくしてソ連とも国交が回復されます。北洋漁業が再開されます。今度は国家統制がないので、大洋漁業もオホ-ツク海に進出し好成績を挙げます。とかくソ連がうるさく、沿岸では漁業しにくいので遠洋の流し網でサケマスを獲ります。流し網漁法は大洋漁業の独壇場でした。昭和30年代春4月ともなると、ソ連との漁業交渉が難航し、北海道で交渉妥結を待つ漁船団の姿が新聞に載りました。春の風物詩でした。南氷洋の捕鯨そして北洋でのサケマス漁業の双方で活躍するこの時期、昭和25年から40年は大洋漁業の絶頂期でした。以後は経済水域の設定で遠洋漁業が制限され、規模を縮小します。2006年に宿敵日魯漁業と合併し、マルハ・ニチロ水産になっています。合併当時の資本金は150億円、売上高は2735億円、総資産は1638億円となっています。
 社名について述べますと、本来は林兼商店KKです。昭和11年の南氷洋捕鯨船団結成に際し、捕鯨部門を独立させて、大洋捕鯨KKを作ります。昭和20年敗戦を期に、全漁業部門を大洋漁業KKに統括させます。戦後は大洋漁業あるいはマルハのマ-クでおなじみです。なおこの間昭和24年本社を下関から東京に移転させています。昭和35年現在で大洋漁業の資本金は100億円、日本最大の水産コンツエルンです。
 中部謙吉、1977年(昭和52年)死去、明石名誉市民。謙吉の生涯を振り返ると父親幾次郎の偉大さがいやでも応でも解らされます。ですから謙吉の生涯は父と兄とのトリオでしか語れません。謙吉は兄より父親に似た経営法をとったようです。果敢で大胆なところは父親そっくりです。謙吉が父親から離れて仕事をするのは、国家統制が強化される昭和10年前後、東京に赴任して、東京駐在マルハ大使として、官憲と交渉し、その延長上に南氷洋捕鯨の事実上の総責任者になってかからです。そして昭和28年社長に就任し、南氷洋と北洋の両面で活躍し、さらに諸所に遠洋漁業をを展開し、自ら曰く、世界の中部なる時期が彼の絶頂期でしょう。この絶頂期に大洋漁業は「大洋ホエ-ルズ」という球団を作っています。昭和35年(だったと思います)この球団は、三原脩監督に率いられて日本シリ-ズで優勝し全国制覇をしています。当時私は大学生でしたが、中部社長と三原監督が握手する姿を新聞でみました。
 大洋漁業は幾次郎、兼市、謙吉の親子兄弟の固い団結の下に発展しました。この事情を反映し大洋漁業KKは徹底した同族経営です。昭和32年現在、総株式の 68%を中部一族が握っています。

  参考文献 中部謙吉 時事通信社