永田雅一
昭和20年代から30年代にかけて、映画界で一世を風靡した映画人永田雅一は、明治39年京都市中京区油小路三条に生れています。父親は染料と友禅を扱う問屋でした。しかし雅一がまだ物心がつくかつかない頃から家業は衰え、7歳時家を売却して移住しています。父親は家業に力を入れることなく、酒びたりのまま、雅一が14歳の時、47歳で死去します。母親は身延に毎年参詣するほどの、熱心な日蓮門徒でした。家業の没落に際して、母親は雅一に熱心に日蓮の教えを説くとともに、家運の再興を彼に託すべく励ましました。日蓮への帰依を、雅一は母親から受けつぎ共有しています。
高等小学校を卒業した雅一は、母方の伯父を頼って、上京します。伯父の勧めで大倉商業学校に通いますが、家運再興を願う雅一には、通学生活がものたらなく感じられ、中退し家出します。しばらく文房具の行商をし、その間に早稲田の聴講生として講義に連なります。早稲田で聴講するうちに、政治に関心を示すようになり、かなり左傾化します。大震災で京都に帰ります。ぶらぶらしいて母親と衝突し再び家出します。友人のつてで、貨物の荷揚げ人足(仲仕)の元締めをしている、千本組の棟梁の家でごろごろするようになります。小バクチを打ったり、小遣い稼ぎ程度の仕事をしたりして、ごろんぼう生活を送ります。ここではったりとかけひきの交渉術を覚えたかも知れません。雅一が下宿していた、食堂の経営者の夫が、日活の京都撮影所長池永浩久でした。池永のつてで大正14年、雅一は撮影所に入ります。19歳でした。最初は庶務見習い、つまり走り使いの雑用掛でした。ごろんぼう時代の性根を入れ替えて、まじめに出勤し、陰日なたなく働きます。加えて天性の社交好き話好き、皆から「マアチャン、マアチャン」と可愛がられます。そういう性向を見込まれて、池永所長から、撮影所見学者のガイド役に抜擢されます。雅一にとっては適役です。訪問客や見物者には政治家やジャ-ナリストが多く、そこに目をつけた雅一は、彼らに誠心誠意サ-ヴィスをし、そして取り入ります。
昭和7年26歳時、雅一が飛躍する絶好の機会が訪れます。日活に争議が持ち上がります。当時つまり昭和初年ころ、映画界は一大変革期にさしかかっていました。無声映画からト-キ-への変化です。ト-キ-は無声映画に比べて、はるかに大きな資本を必要とします。雑音が入らないようにするためには、厳重に管理された大きな撮影所が必要です。弁士の語りという補助なく、映像のみで表現するのですから、この映像には写実性が(無声映画に比し)はるかに多く要求されます。フィルムは映像機能のみならず、声や音の録音機能も持たねばなりません。この変革期にあって多くの中小映画会社は潰れました。最初の映画会社であると言ってもいい日活(日本活動写真KK)も変革を消化できたとは言えません。加えて当時は一大不況期です。日活は多くの負債を抱えていました。197名が解雇の通知を受けます。争議が持ち上がりました。ここで雅一が見込まれて、争議団の代表として会社と交渉することになります。雅一は知人の無産党系の代議士に相談し、解雇通知を突っ返させます。とにかく解雇を撤回しろ、と会社に迫り、その前提で話し合おうと提案します。解雇を撤回してくれるのなら、会社が生み出す毎月の赤字13万円程度なら、なんとかできると、言います。これははったりです。しかし時にははったりも必要です。雅一のこの提案により、労使は交渉する気になりました。雅一は一定の退職金を出させるという条件で、自主退職者を募ります。希望者はなんと250名、解雇予定者を上回りました。
裏があるようです。当時の映画会社の給与体系はかなりいい加減なもので、所長の請負制に近い形でした。つまり撮影所長が、人件費、資材やその他の必要経費一切を会社に対して請負い、できた映画を所長が会社に売りつける形の経営でした。だから給与は所長の腹一つできまります。従業員の立場によっては、小遣い銭程度の給与もありました。こういう場合必ず所長を始めとする上級職員によるピンハネがあります。つまり給与は全体とすれば低く不安定です。そいう状況ならちゃんと給料と退職金が出るなら、辞めようかという人達も多かったのです。ですから雅一の提案には給与体系の明確化という意味も見られます。つまり中間搾取をある程度吐き出させてそれを解雇に必要な資金の一部にあてるという事です。こういう現実の機微を見抜くしたたかさを雅一は持っていました。
争議解決の功績が認められて、中谷専務の信頼を勝ち得ます。総務、脚本、政策三部門の部長を兼ね、撮影所長補佐を兼任します。映画製作の実権を握りました。退職した穴を埋めるために、他社の監督俳優引き抜きに辣腕を振るい、日活に永田ありと恐れられるようになります。中谷専務の意を受けて、横田社長の引退勧告の使者になり、社内ク-デタを行います。
しばらくして(昭和9年)日活をやめます。雅一に追随してくる多くの人材とともに、第一映画社を設立します。この時雅一は若干28歳でした。酒席で中谷社長にこっぴどく叱責されたのが動機とかいいますが、裏があります。松竹で映画部門を担当していた、白井信太郎(松次郎の末弟で彼の養子)が資金を出します。白井の話では、人材引き抜きの脅威を防止し、雅一を自陣営に取り込んで安心したいという話しですが、それだけではありますまい。松竹は東宝と並ぶ大資本でしたから、苦境の日活(映画界の老舗で配給館の多い)を松竹資本の傘下に取り込むことが、白井の狙いだったのでしょう。第一映画社時代には、溝口健二監督、山田五十鈴主演の「浪華悲歌(エレジ-)」「祇園の姉妹」という名作を残しています。
昭和11年第一映画社を解散、雅一自身は松竹系の新興キネマの京都撮影所長になります。新興キネマは白井松次郎が手に入れて面倒を見ていた会社ですが、白井ももてあましていました。それほど無配と赤字続きで、松竹の内部からも手放すあるいは廃止するという声が盛んに上がっていました。雅一はこのボロ会社を更正させます。方針は娯楽的要素を重視し、かつ人件費を抑制する、ということです。そこでトリックを使った怪奇物を作ります。皮切りが「児雷也」、そしてヴァンプ型の美人女優鈴木澄子に「佐賀怪猫伝」で化け猫役をやらせます。これは当たりました。シリ-ズが続きます。この種の怪奇物では「四谷怪談」が有名です。また当時人気のあった浪曲の題材を映画化します。広沢虎蔵の出し物「佐渡情話」や「森の石松」などです。雅一はロマンも捨てません。源氏物語を「紫式部」という名で映画化します。ところが皇室内部に話しが及ぶとかいうことで、フィルムは800m削除されます。源氏物語に関しては、戦後もう一度映画化を試み成功します。
1940年(昭和16年)8月、開戦の4ヶ月前、映画界は一大ショックに襲われます。情報局が「映画にまわすフィルムは無い」と宣言します。戦時体制に備えて、軍部中心に資材が統制されていました。大手五社、つまり松竹、東宝、日活、新興キネマ、大都の幹部が相談を重ねますがショックで結論が出ません。ここで雅一が前面に出て指揮を執ります。雅一には情報局の腹が読めていました。情報局はまず映画会社に雷を落とし、それに会社がどう答えてくるかを、見ているんだと読みます。情報局の腹は、映画界の自主規制です。そこで雅一はまず、重要産業統制令の精神を尊重しそれに準拠する形で、映画統制会のようなものを作り、情報局の反応を待つことにします。映画統制会の下に各映画会社が従属し、統制会の会長は映画界外の人望ある知名人をもってあてるとし、その旨情報局に提案します。
情報局はすぐ反応します。映画を内容によって、演劇、文化、ニュースの三部門に分けます。演劇部門では映画社は二社として、総計月に4本の製作を許す、とします。演劇部門は年間50本弱の製作を許されたことになります。50本といえば当時一社でそれ以上製作していました。極めて大幅な減量です。余剰人員は失業者になります。雅一は二社案を三社案にすべく交渉し頑張ります。三社にすれば製作本数は1・5倍になります。それだけではありません。二社なら最強力な松竹と東宝がそれを押さえ、日活も新興キネマもその中で従属的な位置に置かれかねません。三社なら残りの一社に松竹東宝以外が、連合して組み込まれ、各社は比較的独立した経営ができます。結果は三社案でした。
日活、新興キネマ、大都の三社が連合して一社を組むことになります。しかし老舗の日活が大きすぎます。そこで日活の製作部門と配給部門を切り離し、後者を日活の名で残し、前者つまり日活製作部門とキネマ、大都が合体して、大日本映画株式会社、略して大映を作ります。昭和17年、彼36歳の時のことです。
もう少し資本の内容を詳しく話しますと、まず資本金1万円で大日本映画KKを作り、その下に新興キネマ(資本金475万円)、大都(同70万円)が入ります。日活の製作部門の資本を315万円と評価し、うち215万円は現物供与、残り100万円は雅一個人の借り入れとしてこれを手形で支払います。従って大日本映画KKの公称資本は750万円になります。会社には当分社長を置かず、雅一が筆頭専務になります。資本はあっても現金がありません。長瀬徳太郎という大阪の商人が100万円融資してくれます。大映の役員が手分けして40万円かき集め、これを基礎に住友・安田などの銀行から200万円借ります。総計340万円の運転資金をもって映画作成に挑みます。
大映の強みは日活の誇る有名時代劇俳優である、片岡智恵蔵、坂東妻三郎、嵐寛十郎、市川右太右衛門などを抱えていることです。彼らを使った「伊賀の月影」「新雪」「歌う狸御殿」「三代の盃」「富士に立つ影」などヒット作品になります。この間警察に連行され50日間拘留という経験もします。このような事件の背後はわからないことが多いのですが、若造である雅一が映画界の前面に出て活躍したことへの妬みも原因していたようです。この事に懲りて雅一は自らが社長に就くことなく、有名な作家であり、文芸春秋を立ち上げた、菊池寛に社長に就任してもらいます。経営は順調に進展します。昭和20年の時点で大映は松竹と東宝に総計70万円の援助をしています。大映は黒字、後二社は赤字でした。戦時統制経済のきまりで、儲かった会社は欠損の出た会社に援助金を出す義務を負わされていたのです。このような状況を見て、松竹の白井松次郎は「合併三社の、紙屑のような株券を、天下に立派に通用する黄金に仕上げた腕前には、恐れ入るほかない」と論評しています。
永田雅一が一番冴えたのはこの時期でしょう。日活に永田ありと男が上がったその時、日活から松竹へと鮮やかな転進をします。松竹がもてあましていたボロ会社新興キネマを、松竹の白井がこの会社によほどの未練を抱いている・だから簡単には潰すまい、と読んで引き受けます。情報局を相手に、他の映画人がしり込みし恐れる中、戦時経済というものを見通して当局の腹を読み、一定の方針を持ち、持ち前の雄弁と度胸、はったりと読みの深さ、駆け引きと妥協の上手さ、そしてひとなつっこさで、官僚から一定の譲歩を引き出し、同時に映画界の指導的立場にのし上がります。映画も時代劇中心にし、また国策に沿う内容を盛り込み、あくまで大作主義で名作・ヒット作を飛ばし続けます。雅一の人生の頂点は戦後の20年代から30年代にかけてですが、この時期はむしろ大映創設当時の延長のようにも思えます。彼の映画製作者としての能力は高いものですが、やはり彼を押し上げる事になったのは、争議事件と情報局との対決です。こと政治とか駆け引きが入ってくると、雅一の行動は冴えてきます。かって左翼に傾いた事も、資本家経営者としての現実の読みをより深くしているかも知れません。また日蓮門徒である事、母親の影響も無視できないでしょう。日蓮門徒は、信じると一路前進します。
戦後になります。雅一は菊池寛に代わり、昭和22年41歳で大映の社長に就任します。戦争直後、時代劇はGHQからすごく弾圧されました。ちゃんばらは暴力、敵討ちや切腹は残酷、主君への忠誠を描くものは封建的、などなどと散々で放映禁止になります。時代劇路線を歩んできた大映には不利です。雅一は素早く視点を変えます。例えば片岡千恵蔵には、多羅尾伴内という探偵役をあてがい、この名探偵シリ-ズで当てます。有名時代劇俳優にもなるべく刀を持たせない役に就かせます。
大映が戦後映画界でその勢力を伸張させる上で有利な事情がありました。映画界の両雄の一つ東宝の争議が長引きます。東宝、読売そして東芝の三大争議の一つです。仕事ができないので、監督や俳優が他社特に大映に移籍してきます。黒澤明監督もその一人でした。大映でも争議が持ち上がりますが、雅一は上手く納めます。雅一の労組対策は、向こうの言い分以上の条件を出すことです。雅一も追放に会います。しかし解除も速やかに行われました。
こういう有利な条件を彼は生かします。大映の三大路線は、長谷川一夫の時代劇、京マチ子のお色気、そして三益愛子の母物、でした。直営館をやめ、製作と配給のみに会社機能を絞り、製作本数を増やします。どんどん映画を作るわけです。同時に大作、精選された作品の製作も狙います。アメリカから新しい技術を輸入します。色彩映画の技術他、カメラ、録音機、テ-プレコ-ダ-、マイクロフォンなども新しいものに切り替えます。昭和24年訪米した時あちらの映画製作技術の進歩に一驚したのが大きなきっかけですが、雅一の積極性も寄与しています。
昭和26年「羅生門」がヴェニスの映画祭でグランプリを獲得し、世界的な話題になりました。芥川龍之介原作、黒澤明監督で三船敏郎、京マチ子、森雅之らが出演しました。日本では始めぱっとした人気は無かったのですが、外国で大評判になり、興行収入はうなぎのぼり、諸外国へも輸出されます。当時としては、湯川英樹のノ-ヴェル賞受賞、古河広之進の水泳金メダルと並ぶ快挙で、日本文化が世界に認められたと、言われました。これを機に日本映画を世界に輸出しようとして、雅一は「映画産業合理化促進」を目的に団体を結成し、官庁と掛け合います。これが彼の政界との接触の始まりです。この試みは映画産業の社会的地位の向上をも目指しました。映画は娯楽でしかないとみなされ、その社会的評価は低く、従って銀行融資でも差別されてきました。東南アジア映画祭を催し、海外合作映画にも取り組みます。こうして彼の政界との縁は深くなってゆきますが、結果としてはそれが雅一の命取りになります。
昭和27年、「源氏物語」が作成され放映されます。大映創立十周年記念作品です。光源氏は長谷川一夫、藤壺が小暮実千代、明石上が京マチ子、紫の上が乙羽信子です。この映画は業界再興の収益を上げました。同年大映の株式配当は60%です。
昭和29年イ-ストマンカラ-で撮った「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリを獲得します。アカデミ-賞も二つ受賞、特にその色彩の美しさが評価されます。
この時期、昭和30年前後からしばらくが雅一の絶頂期です。次第に経営に影がさしてきます。映画の観客動員数は昭和35年をピ-クとして落ち始めます。新しい娯楽であるTVが徐々に映画を押しのけてゆきます。東宝が復活し、多くの人材が東宝に復帰します。新しい東映というライヴァルも頭をもたげてきます。確かに大映の映画は大作や問題作が多く、話題を呼びました。東映は徹底的に娯楽時代劇に徹します。同じ時代劇を見ても大映と東映では明らかに格が違います。大映には名作といわれる映画はたくさんありますが、東映映画にはほとんどありません。しかし少年期から思春期にかけて映画を楽しんだ私としては、この東映の時代劇は無条件におもしろかったのです。
雅一は成功するにつれて、段々独裁的になります。もともとその下地は充分あります。役員が、部課長が知っている情報を知らないことなどしょっちゅうでした。重役会議では雅一が一方的にしゃべり、他の意見を聴こうとはしません。加えて政界への関心です。岸信介、河野一郎、池田勇人、大野伴睦などの政界有力者と盛んに交流し、政界の裏にまで顔を突っ込みます。その分本業への関心は減ります。こうなると自分を超大物と錯覚しがちになります。俳優との衝突も多くなります。山本富士子は雅一が売り出した女優です。山本が大映で出演する本数を減らし、他社の映画にも出させて欲しいと言ったとき、雅一はこの願いを一蹴しています。新興キネマの時代、東宝へ移籍希望の山田五十鈴を、暖かく送り出してやった雅一とは大違いです。加えて盟友といっていい溝口健二が死去します。昭和36年、武州鉄道汚職事件で逮捕されます。不起訴になりますが、この辺から雅一の命運は下降し始めます。例によってこの種の事件の真偽のほどは解りませんが、雅一が政治に顔を突っ込んでいなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう。
私個人として忘れられない事件があります。昭和35年(?)雅一がオ-ナ-である野球チ-ム、大毎オリオンズがパリ-グで優勝し、セリ-グの覇者大洋ホエ-ルズと対戦します。この日本シリ-ズは4連勝で大洋が勝ちます。この時雅一は大毎の監督西本幸雄の作戦に一々口を出し、怒った西本監督は辞任します。雅一の経営はこんな風でもあったのでしょう。大映はその後10年持ちます。1971年(昭和46年)衰勢に勝てず、破産宣告します。以後徳間書店、さらに角川書店が旧大映を踏襲する形で、映画製作を行って今日に至っています。
永田雅一は一代の風雲児です。彼の能力が最も冴え切れ味が鋭かったのは、情報局相手に渡り合い、映画の危機を救い、同時に大映を立ち上げた数年でしょう。以後の成功はこの延長上にあります。雅一は、良いと信じたら直線的に突っ走る熱血漢です。義理人情に篤い、人情家です。雄弁で陽気な社交家です。交渉ごとが好きで、仲介の労を取らせたら絶妙です。この資質は情報局や労組相手に遺憾なく発揮されます。仇名がラディオのラッパ、一方的にしゃべる、です。この性向は裏を返せば独善的独裁的にもなります。彼の政治好きは、この傾向に拍車をかけました。政界や外国を飛びまわっている間に、映画産業の斜陽化は忍び寄ってきます。早く気がつけば彼の才能なら手を打てたかも、いや攻め一本の彼の性向では守りは無理だったかもしれません。彼の経済人としての経歴を見たとき、二人の人物を思い出します。一人は同じく「ダイエ-」の中内功、もう一人は既に列伝で取り上げた、鈴木商店の金子直吉です。三者とも攻め一方で、その成功はものすごいものです。しかし不況や産業衰退期にも、攻めに徹し破産しています。人は二つの時代には生きられないのかも知れません。1985年(昭和60年)死去、享年79歳。昭和63年野球殿堂入り。
大映の主な映画作品は以下のようなものです。羅生門、源氏物語、地獄門、雨月物語、新平家物語、婦系図・湯島の白梅、夜の河、赤線地帯、残菊物語、釈迦、破戒、悪名、座頭市、眠狂四郎、氷点、華岡青州の妻、細雪
参考文献 永田雅一 時事通信社
昭和20年代から30年代にかけて、映画界で一世を風靡した映画人永田雅一は、明治39年京都市中京区油小路三条に生れています。父親は染料と友禅を扱う問屋でした。しかし雅一がまだ物心がつくかつかない頃から家業は衰え、7歳時家を売却して移住しています。父親は家業に力を入れることなく、酒びたりのまま、雅一が14歳の時、47歳で死去します。母親は身延に毎年参詣するほどの、熱心な日蓮門徒でした。家業の没落に際して、母親は雅一に熱心に日蓮の教えを説くとともに、家運の再興を彼に託すべく励ましました。日蓮への帰依を、雅一は母親から受けつぎ共有しています。
高等小学校を卒業した雅一は、母方の伯父を頼って、上京します。伯父の勧めで大倉商業学校に通いますが、家運再興を願う雅一には、通学生活がものたらなく感じられ、中退し家出します。しばらく文房具の行商をし、その間に早稲田の聴講生として講義に連なります。早稲田で聴講するうちに、政治に関心を示すようになり、かなり左傾化します。大震災で京都に帰ります。ぶらぶらしいて母親と衝突し再び家出します。友人のつてで、貨物の荷揚げ人足(仲仕)の元締めをしている、千本組の棟梁の家でごろごろするようになります。小バクチを打ったり、小遣い稼ぎ程度の仕事をしたりして、ごろんぼう生活を送ります。ここではったりとかけひきの交渉術を覚えたかも知れません。雅一が下宿していた、食堂の経営者の夫が、日活の京都撮影所長池永浩久でした。池永のつてで大正14年、雅一は撮影所に入ります。19歳でした。最初は庶務見習い、つまり走り使いの雑用掛でした。ごろんぼう時代の性根を入れ替えて、まじめに出勤し、陰日なたなく働きます。加えて天性の社交好き話好き、皆から「マアチャン、マアチャン」と可愛がられます。そういう性向を見込まれて、池永所長から、撮影所見学者のガイド役に抜擢されます。雅一にとっては適役です。訪問客や見物者には政治家やジャ-ナリストが多く、そこに目をつけた雅一は、彼らに誠心誠意サ-ヴィスをし、そして取り入ります。
昭和7年26歳時、雅一が飛躍する絶好の機会が訪れます。日活に争議が持ち上がります。当時つまり昭和初年ころ、映画界は一大変革期にさしかかっていました。無声映画からト-キ-への変化です。ト-キ-は無声映画に比べて、はるかに大きな資本を必要とします。雑音が入らないようにするためには、厳重に管理された大きな撮影所が必要です。弁士の語りという補助なく、映像のみで表現するのですから、この映像には写実性が(無声映画に比し)はるかに多く要求されます。フィルムは映像機能のみならず、声や音の録音機能も持たねばなりません。この変革期にあって多くの中小映画会社は潰れました。最初の映画会社であると言ってもいい日活(日本活動写真KK)も変革を消化できたとは言えません。加えて当時は一大不況期です。日活は多くの負債を抱えていました。197名が解雇の通知を受けます。争議が持ち上がりました。ここで雅一が見込まれて、争議団の代表として会社と交渉することになります。雅一は知人の無産党系の代議士に相談し、解雇通知を突っ返させます。とにかく解雇を撤回しろ、と会社に迫り、その前提で話し合おうと提案します。解雇を撤回してくれるのなら、会社が生み出す毎月の赤字13万円程度なら、なんとかできると、言います。これははったりです。しかし時にははったりも必要です。雅一のこの提案により、労使は交渉する気になりました。雅一は一定の退職金を出させるという条件で、自主退職者を募ります。希望者はなんと250名、解雇予定者を上回りました。
裏があるようです。当時の映画会社の給与体系はかなりいい加減なもので、所長の請負制に近い形でした。つまり撮影所長が、人件費、資材やその他の必要経費一切を会社に対して請負い、できた映画を所長が会社に売りつける形の経営でした。だから給与は所長の腹一つできまります。従業員の立場によっては、小遣い銭程度の給与もありました。こういう場合必ず所長を始めとする上級職員によるピンハネがあります。つまり給与は全体とすれば低く不安定です。そいう状況ならちゃんと給料と退職金が出るなら、辞めようかという人達も多かったのです。ですから雅一の提案には給与体系の明確化という意味も見られます。つまり中間搾取をある程度吐き出させてそれを解雇に必要な資金の一部にあてるという事です。こういう現実の機微を見抜くしたたかさを雅一は持っていました。
争議解決の功績が認められて、中谷専務の信頼を勝ち得ます。総務、脚本、政策三部門の部長を兼ね、撮影所長補佐を兼任します。映画製作の実権を握りました。退職した穴を埋めるために、他社の監督俳優引き抜きに辣腕を振るい、日活に永田ありと恐れられるようになります。中谷専務の意を受けて、横田社長の引退勧告の使者になり、社内ク-デタを行います。
しばらくして(昭和9年)日活をやめます。雅一に追随してくる多くの人材とともに、第一映画社を設立します。この時雅一は若干28歳でした。酒席で中谷社長にこっぴどく叱責されたのが動機とかいいますが、裏があります。松竹で映画部門を担当していた、白井信太郎(松次郎の末弟で彼の養子)が資金を出します。白井の話では、人材引き抜きの脅威を防止し、雅一を自陣営に取り込んで安心したいという話しですが、それだけではありますまい。松竹は東宝と並ぶ大資本でしたから、苦境の日活(映画界の老舗で配給館の多い)を松竹資本の傘下に取り込むことが、白井の狙いだったのでしょう。第一映画社時代には、溝口健二監督、山田五十鈴主演の「浪華悲歌(エレジ-)」「祇園の姉妹」という名作を残しています。
昭和11年第一映画社を解散、雅一自身は松竹系の新興キネマの京都撮影所長になります。新興キネマは白井松次郎が手に入れて面倒を見ていた会社ですが、白井ももてあましていました。それほど無配と赤字続きで、松竹の内部からも手放すあるいは廃止するという声が盛んに上がっていました。雅一はこのボロ会社を更正させます。方針は娯楽的要素を重視し、かつ人件費を抑制する、ということです。そこでトリックを使った怪奇物を作ります。皮切りが「児雷也」、そしてヴァンプ型の美人女優鈴木澄子に「佐賀怪猫伝」で化け猫役をやらせます。これは当たりました。シリ-ズが続きます。この種の怪奇物では「四谷怪談」が有名です。また当時人気のあった浪曲の題材を映画化します。広沢虎蔵の出し物「佐渡情話」や「森の石松」などです。雅一はロマンも捨てません。源氏物語を「紫式部」という名で映画化します。ところが皇室内部に話しが及ぶとかいうことで、フィルムは800m削除されます。源氏物語に関しては、戦後もう一度映画化を試み成功します。
1940年(昭和16年)8月、開戦の4ヶ月前、映画界は一大ショックに襲われます。情報局が「映画にまわすフィルムは無い」と宣言します。戦時体制に備えて、軍部中心に資材が統制されていました。大手五社、つまり松竹、東宝、日活、新興キネマ、大都の幹部が相談を重ねますがショックで結論が出ません。ここで雅一が前面に出て指揮を執ります。雅一には情報局の腹が読めていました。情報局はまず映画会社に雷を落とし、それに会社がどう答えてくるかを、見ているんだと読みます。情報局の腹は、映画界の自主規制です。そこで雅一はまず、重要産業統制令の精神を尊重しそれに準拠する形で、映画統制会のようなものを作り、情報局の反応を待つことにします。映画統制会の下に各映画会社が従属し、統制会の会長は映画界外の人望ある知名人をもってあてるとし、その旨情報局に提案します。
情報局はすぐ反応します。映画を内容によって、演劇、文化、ニュースの三部門に分けます。演劇部門では映画社は二社として、総計月に4本の製作を許す、とします。演劇部門は年間50本弱の製作を許されたことになります。50本といえば当時一社でそれ以上製作していました。極めて大幅な減量です。余剰人員は失業者になります。雅一は二社案を三社案にすべく交渉し頑張ります。三社にすれば製作本数は1・5倍になります。それだけではありません。二社なら最強力な松竹と東宝がそれを押さえ、日活も新興キネマもその中で従属的な位置に置かれかねません。三社なら残りの一社に松竹東宝以外が、連合して組み込まれ、各社は比較的独立した経営ができます。結果は三社案でした。
日活、新興キネマ、大都の三社が連合して一社を組むことになります。しかし老舗の日活が大きすぎます。そこで日活の製作部門と配給部門を切り離し、後者を日活の名で残し、前者つまり日活製作部門とキネマ、大都が合体して、大日本映画株式会社、略して大映を作ります。昭和17年、彼36歳の時のことです。
もう少し資本の内容を詳しく話しますと、まず資本金1万円で大日本映画KKを作り、その下に新興キネマ(資本金475万円)、大都(同70万円)が入ります。日活の製作部門の資本を315万円と評価し、うち215万円は現物供与、残り100万円は雅一個人の借り入れとしてこれを手形で支払います。従って大日本映画KKの公称資本は750万円になります。会社には当分社長を置かず、雅一が筆頭専務になります。資本はあっても現金がありません。長瀬徳太郎という大阪の商人が100万円融資してくれます。大映の役員が手分けして40万円かき集め、これを基礎に住友・安田などの銀行から200万円借ります。総計340万円の運転資金をもって映画作成に挑みます。
大映の強みは日活の誇る有名時代劇俳優である、片岡智恵蔵、坂東妻三郎、嵐寛十郎、市川右太右衛門などを抱えていることです。彼らを使った「伊賀の月影」「新雪」「歌う狸御殿」「三代の盃」「富士に立つ影」などヒット作品になります。この間警察に連行され50日間拘留という経験もします。このような事件の背後はわからないことが多いのですが、若造である雅一が映画界の前面に出て活躍したことへの妬みも原因していたようです。この事に懲りて雅一は自らが社長に就くことなく、有名な作家であり、文芸春秋を立ち上げた、菊池寛に社長に就任してもらいます。経営は順調に進展します。昭和20年の時点で大映は松竹と東宝に総計70万円の援助をしています。大映は黒字、後二社は赤字でした。戦時統制経済のきまりで、儲かった会社は欠損の出た会社に援助金を出す義務を負わされていたのです。このような状況を見て、松竹の白井松次郎は「合併三社の、紙屑のような株券を、天下に立派に通用する黄金に仕上げた腕前には、恐れ入るほかない」と論評しています。
永田雅一が一番冴えたのはこの時期でしょう。日活に永田ありと男が上がったその時、日活から松竹へと鮮やかな転進をします。松竹がもてあましていたボロ会社新興キネマを、松竹の白井がこの会社によほどの未練を抱いている・だから簡単には潰すまい、と読んで引き受けます。情報局を相手に、他の映画人がしり込みし恐れる中、戦時経済というものを見通して当局の腹を読み、一定の方針を持ち、持ち前の雄弁と度胸、はったりと読みの深さ、駆け引きと妥協の上手さ、そしてひとなつっこさで、官僚から一定の譲歩を引き出し、同時に映画界の指導的立場にのし上がります。映画も時代劇中心にし、また国策に沿う内容を盛り込み、あくまで大作主義で名作・ヒット作を飛ばし続けます。雅一の人生の頂点は戦後の20年代から30年代にかけてですが、この時期はむしろ大映創設当時の延長のようにも思えます。彼の映画製作者としての能力は高いものですが、やはり彼を押し上げる事になったのは、争議事件と情報局との対決です。こと政治とか駆け引きが入ってくると、雅一の行動は冴えてきます。かって左翼に傾いた事も、資本家経営者としての現実の読みをより深くしているかも知れません。また日蓮門徒である事、母親の影響も無視できないでしょう。日蓮門徒は、信じると一路前進します。
戦後になります。雅一は菊池寛に代わり、昭和22年41歳で大映の社長に就任します。戦争直後、時代劇はGHQからすごく弾圧されました。ちゃんばらは暴力、敵討ちや切腹は残酷、主君への忠誠を描くものは封建的、などなどと散々で放映禁止になります。時代劇路線を歩んできた大映には不利です。雅一は素早く視点を変えます。例えば片岡千恵蔵には、多羅尾伴内という探偵役をあてがい、この名探偵シリ-ズで当てます。有名時代劇俳優にもなるべく刀を持たせない役に就かせます。
大映が戦後映画界でその勢力を伸張させる上で有利な事情がありました。映画界の両雄の一つ東宝の争議が長引きます。東宝、読売そして東芝の三大争議の一つです。仕事ができないので、監督や俳優が他社特に大映に移籍してきます。黒澤明監督もその一人でした。大映でも争議が持ち上がりますが、雅一は上手く納めます。雅一の労組対策は、向こうの言い分以上の条件を出すことです。雅一も追放に会います。しかし解除も速やかに行われました。
こういう有利な条件を彼は生かします。大映の三大路線は、長谷川一夫の時代劇、京マチ子のお色気、そして三益愛子の母物、でした。直営館をやめ、製作と配給のみに会社機能を絞り、製作本数を増やします。どんどん映画を作るわけです。同時に大作、精選された作品の製作も狙います。アメリカから新しい技術を輸入します。色彩映画の技術他、カメラ、録音機、テ-プレコ-ダ-、マイクロフォンなども新しいものに切り替えます。昭和24年訪米した時あちらの映画製作技術の進歩に一驚したのが大きなきっかけですが、雅一の積極性も寄与しています。
昭和26年「羅生門」がヴェニスの映画祭でグランプリを獲得し、世界的な話題になりました。芥川龍之介原作、黒澤明監督で三船敏郎、京マチ子、森雅之らが出演しました。日本では始めぱっとした人気は無かったのですが、外国で大評判になり、興行収入はうなぎのぼり、諸外国へも輸出されます。当時としては、湯川英樹のノ-ヴェル賞受賞、古河広之進の水泳金メダルと並ぶ快挙で、日本文化が世界に認められたと、言われました。これを機に日本映画を世界に輸出しようとして、雅一は「映画産業合理化促進」を目的に団体を結成し、官庁と掛け合います。これが彼の政界との接触の始まりです。この試みは映画産業の社会的地位の向上をも目指しました。映画は娯楽でしかないとみなされ、その社会的評価は低く、従って銀行融資でも差別されてきました。東南アジア映画祭を催し、海外合作映画にも取り組みます。こうして彼の政界との縁は深くなってゆきますが、結果としてはそれが雅一の命取りになります。
昭和27年、「源氏物語」が作成され放映されます。大映創立十周年記念作品です。光源氏は長谷川一夫、藤壺が小暮実千代、明石上が京マチ子、紫の上が乙羽信子です。この映画は業界再興の収益を上げました。同年大映の株式配当は60%です。
昭和29年イ-ストマンカラ-で撮った「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリを獲得します。アカデミ-賞も二つ受賞、特にその色彩の美しさが評価されます。
この時期、昭和30年前後からしばらくが雅一の絶頂期です。次第に経営に影がさしてきます。映画の観客動員数は昭和35年をピ-クとして落ち始めます。新しい娯楽であるTVが徐々に映画を押しのけてゆきます。東宝が復活し、多くの人材が東宝に復帰します。新しい東映というライヴァルも頭をもたげてきます。確かに大映の映画は大作や問題作が多く、話題を呼びました。東映は徹底的に娯楽時代劇に徹します。同じ時代劇を見ても大映と東映では明らかに格が違います。大映には名作といわれる映画はたくさんありますが、東映映画にはほとんどありません。しかし少年期から思春期にかけて映画を楽しんだ私としては、この東映の時代劇は無条件におもしろかったのです。
雅一は成功するにつれて、段々独裁的になります。もともとその下地は充分あります。役員が、部課長が知っている情報を知らないことなどしょっちゅうでした。重役会議では雅一が一方的にしゃべり、他の意見を聴こうとはしません。加えて政界への関心です。岸信介、河野一郎、池田勇人、大野伴睦などの政界有力者と盛んに交流し、政界の裏にまで顔を突っ込みます。その分本業への関心は減ります。こうなると自分を超大物と錯覚しがちになります。俳優との衝突も多くなります。山本富士子は雅一が売り出した女優です。山本が大映で出演する本数を減らし、他社の映画にも出させて欲しいと言ったとき、雅一はこの願いを一蹴しています。新興キネマの時代、東宝へ移籍希望の山田五十鈴を、暖かく送り出してやった雅一とは大違いです。加えて盟友といっていい溝口健二が死去します。昭和36年、武州鉄道汚職事件で逮捕されます。不起訴になりますが、この辺から雅一の命運は下降し始めます。例によってこの種の事件の真偽のほどは解りませんが、雅一が政治に顔を突っ込んでいなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう。
私個人として忘れられない事件があります。昭和35年(?)雅一がオ-ナ-である野球チ-ム、大毎オリオンズがパリ-グで優勝し、セリ-グの覇者大洋ホエ-ルズと対戦します。この日本シリ-ズは4連勝で大洋が勝ちます。この時雅一は大毎の監督西本幸雄の作戦に一々口を出し、怒った西本監督は辞任します。雅一の経営はこんな風でもあったのでしょう。大映はその後10年持ちます。1971年(昭和46年)衰勢に勝てず、破産宣告します。以後徳間書店、さらに角川書店が旧大映を踏襲する形で、映画製作を行って今日に至っています。
永田雅一は一代の風雲児です。彼の能力が最も冴え切れ味が鋭かったのは、情報局相手に渡り合い、映画の危機を救い、同時に大映を立ち上げた数年でしょう。以後の成功はこの延長上にあります。雅一は、良いと信じたら直線的に突っ走る熱血漢です。義理人情に篤い、人情家です。雄弁で陽気な社交家です。交渉ごとが好きで、仲介の労を取らせたら絶妙です。この資質は情報局や労組相手に遺憾なく発揮されます。仇名がラディオのラッパ、一方的にしゃべる、です。この性向は裏を返せば独善的独裁的にもなります。彼の政治好きは、この傾向に拍車をかけました。政界や外国を飛びまわっている間に、映画産業の斜陽化は忍び寄ってきます。早く気がつけば彼の才能なら手を打てたかも、いや攻め一本の彼の性向では守りは無理だったかもしれません。彼の経済人としての経歴を見たとき、二人の人物を思い出します。一人は同じく「ダイエ-」の中内功、もう一人は既に列伝で取り上げた、鈴木商店の金子直吉です。三者とも攻め一方で、その成功はものすごいものです。しかし不況や産業衰退期にも、攻めに徹し破産しています。人は二つの時代には生きられないのかも知れません。1985年(昭和60年)死去、享年79歳。昭和63年野球殿堂入り。
大映の主な映画作品は以下のようなものです。羅生門、源氏物語、地獄門、雨月物語、新平家物語、婦系図・湯島の白梅、夜の河、赤線地帯、残菊物語、釈迦、破戒、悪名、座頭市、眠狂四郎、氷点、華岡青州の妻、細雪
参考文献 永田雅一 時事通信社