経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、高峰譲吉

2010-05-16 03:53:53 | Weblog
     高峰譲吉
 高峰家は越中(富山県)高岡で代々医業を営む家でした。譲吉の父親元陸は京都で蘭学を学んでいます。その能力が認められて、加賀前田藩に医師としてまた、化学者(舎密学-セイミガクと言いました)として抱えられます。身分は御典医ですから上級武士の待遇を受けます。元陸はさなぎの死骸と切草を混ぜて発酵させ、火薬の原料である硝石を作りました。この手法は子である譲吉にも受けつがれたようです。
 譲吉は1854年(安政元年)金沢の城下で生まれます。14歳選ばれて、長崎に留学、3年間英語をみっちり教えられます。金沢に帰っている間に、幕府は倒れ新政府ができます。譲吉は京都で兵学塾に学び、さらに大阪医学校そして大阪舎密学校に通います。ここで化学の面白さを体験し、医師になることを放棄します。19歳東京に出て、工部省工学寮に入ります。この施設はやがて東京帝国大学工学部になります。譲吉も20歳で入学し、26歳、卒業します。この間西南戦争が起こります。熊本城にこもった官軍と城外との連絡に軽気球を使う案が起こり、譲吉が試作品を作ったという言い伝えもあります。
 1980年(譲吉27歳)イギリスに留学し、グラスゴ-大学とアンデルソニアン大学で工芸化学と電気応用学を学びます。3年後帰国、農務省工務課に務め、和紙、製藍、日本酒醸造などをテ-マに研究します。
 1884年(31歳)ニュ-リンズの博覧会で、ノ-スカロライナ州から出品されていた燐鉱石が肥料として有効な事を知り、帰国後燐酸肥料製造の要を説いて廻ります。譲吉の努力の結果、渋沢栄一、益田孝、浅野総一郎、大倉喜八郎などの財界大御所を中心に東京人造肥料株式会社が作られ、譲吉は実務責任者として、この会社の経営に携わります。一方自家製薬所を造り、清酒醸造などの研究も行います。32歳特許局次長。また燐鉱石の件でアメリカを走り回っている中、ニュ-オリンズでキャロライン・ヒッチを見初め、婚約し、3年後に結婚します。
 1890年(37歳)高峰元麹改良法で特許を取ります。同年アメリカのアメリカン・ウィスキ-・トラスト社長グリ-ン・ハットから依頼され、渡米してウィスキ-醸造の改良に務めます。譲吉は発芽大麦(モルト)で発酵させていた手法から、日本酒醸造に使う麹(こうじ)を使う方法に切り替えて研究します。約束どおりの結果を出しますが、新しい製法に反対する企業家や職人の反対運動に手を焼きます。研究所が火事にあいます。放火の可能性が濃厚です。研究が成果をあげると、譲吉はすぐ高峰醸造株式会社を作っています。特許を護るためです。この会社はやがてシカゴからニュ-ヨ-クに移り高峰研究所になります。東京人造肥料会社の実質的責任者である彼が渡米する事に、譲吉は後ろめたさを抱いていました。渋沢と益田に相談します。両人は譲吉の渡米に賛成します。渋沢や益田にすれば、譲吉は新興日本の宣伝塔のようなものでしょう。ちなみに益田孝は三井財閥の大番頭でした。益田に関しては後に取り上げます。
 1894年(41歳)強力消化酵素タカ・ジャスタ-ゼの製造に成功し特許を取ります。3年後アメリカの製薬会社バ-ク・デ-ビスからタカ・ジャスタ-ゼが発売され、譲吉は世界的名声を博します。同時にバ-ク・デ-ビスの技術顧問に納まります。契約では、バ-ク・デ-ビスの販路から日本は除かれます。譲吉は日本で三共製薬を作り、その初代社長に納まります。三共製薬は現在日本でも五指に入る代表的な製薬会社です。社名は変更されているかも知れません。この間グリセリン復元の研究も行いますが、部下と契約会社の背信にあい不愉快な目にあいます。特許は高峰のものになります。元特許局次長であり米英での滞在経験が豊富なので、こういう点には抜かりありません。
 譲吉は当時発見されていた内分泌器官、特にその代表である副腎から分泌されている物質の抽出に取り組みます。すでにアメリカとドイツでこの試みは実行され、部分的には成果をあげていました。譲吉は日本から東京帝大から上中啓之を助手として招き、共同で研究します。1901年(47歳)、努力が実って譲吉はこの物質の単離に成功し、翌年ジョンス・ホプキンス大学で発表します。物質はアドレナリンと名づけられます。アドレナリンは血圧を上げ、止血効果があり、当時の手術には欠かせなくなります。またこの物質は単に応用範囲が広いというだけでなく、生体内でも機能は極めて多伎ですから、医学生物学の研究にも欠かせません。アドレナリンは同じくバ-ク・デ-ビス社から発売されます。
 1905年〈52歳〉ニュ-ヨ-クで日本人クラブを作り、初代会長になります。この時譲吉の提案で、個人会員制ではなく法人会員制にしました。外交官、企業駐在員、留学生などが、在米日本人の主なところですが、彼らは期間が過ぎたら日本に帰ります。これでは会員が増えないので、こういう提案をしました。日本人クラブの設立は、彼が日ごろから考えていた非公式外交(民間外交)推進の一部です。譲吉は38歳で渡米してから死去するまでの30年間生活の本拠はアメリカです。時々帰国するくらいで、彼の活躍のほとんどはアメリカでした。ですから彼の存在そのものが日米親善です。譲吉も意図してそうふるまいました。特に日露戦争に際して、金子堅太郎とともに、アメリカの世論を親日に導いた功績は特記するべきでしょう。当時彼は相当な富豪になりつつありましたから、各地でパ-ティ-を催します。そこへ羽織袴ででかけスピ-チします。アメリカは移民の国ですが、露系移民に比し日系移民は少なく、ほっておけば世論はロシアを声援したかもしれません。
 1913年一時帰国し、渋沢達と共同して、国民科学研究所設立を提唱します。科学立国の宣言です。目先の利害効用よりも基礎研究の重要性を説きます。提案は3年後理化学研究所の設立で実現します。皇族を総裁に抱き、渋沢が主宰し、学会の大物である山川健次郎や菊池大ロク、そして三井八郎衛門、岩崎小弥太、安田善次郎などの財界主要人が名前を連ねています。譲吉も理事になります。理化学研究所(通称理研)に関しては大河内正敏の項を見てください。
 1921年、68歳、譲吉はニュ-ヨ-クのレノックス・ヒル病院で死去します。死因は腎臓と心臓の疾患でした。譲吉の死去には、偶然訪れた渋沢栄一が立ち会うことになります。渋沢は人造肥料会社設立以来終生の友人です。譲吉の死を悼んだ記事はかなりありますが、その内からニュ-ヨ-ク・タイムスの記事を一部引用しましょう。記事は譲吉の科学研究への貢献と日米親善に尽くした功績を称揚しつつ、死に立ち会った渋沢にも触れ、「---彼のもとに客として滞在していた渋沢子爵は、そのむかし、わが国から初代駐日公使として赴任したタウンゼント・ハリス氏の身辺を護衛した若き武士であった---」と書いています。
 譲吉が残した遺産は半端なものではありません。当時の米貨で3000万弗、現在の日本円になおすと6兆円になります。まことに、知は財なり、です。この時代自分で研究し、産をなす人は数多いました。エディソン(GEの始祖)しかりフォ-ドしかりです。多分ジ-メンス、クルップ、ダイムラ-もそうでしょう。
 譲吉の研究の方向は一貫しています。基本は清酒醸造法の改良です。彼の故郷金沢は北越にあり、酒どころです。そして明治初期における醸造は日本の代表的な製造業でした。この分野での資本蓄積は当時の日本の資本主義の発展のためには無視できないものでした。譲吉はこの分野の研究を開始し、ウィスキ-醸造から、酵素そのものへの研究に進み、タカ・ジャスタ-ゼを発見し製造します。タカ・ジャスタ-ゼがどの程度単離されたか知りませんが、生体内で化学反応を実際に演じる物質を抽出したことは、科学全体の次元で見ても大きなものです。そして彼はすぐ当時の最新研究の焦点であったアドレナリンに向かいます。酵素抽出の手法を応用したはずです。アドレナリンは酵素に比べて単純な構造を持っています。そして生体内部での機能は極めて重要です。だからアドレナリンは生物学と化学を結合する重要な結節点になります。アドレナリンを単離する事は、アドレナリンの結晶構造を突き詰める事です。当時生体内の反応は少しづつ解明されていましたが、体内で機能する特定の物質を単離することは難しいことでした。他の物質が譲吉以前にこのように明確な形で単離された例を、私は知りません。彼の業績は生命科学にとって画期的なものです。ある重要な機能を持つ物質の単離と同定という点では、同時期にキュリ-夫妻により発見されたラジウムと同じ、科学上の価値を持ちます。
 譲吉の手法は、科学と産業技術の結合です。基礎科学をおろそかにせず、同時にその産業化を常に心がける、のが彼の信条でした。こうして譲吉は偉大な功績と同時に莫大な資産も残しました。私は彼の名もタカ・ジャスタ-ゼも小学校時代から知っています。しかしその割には日本では知名度が低いなと、思います。伝記を読んでいて、人生の後半はすべて在米生活です。なるほどな、と思います。

 参考文献
  高峰譲吉  ポプラ社
  20世紀日本の経済人(1) 日経新聞社