山本為三郎
今回の列伝の主人公、山本為三郎は今までの経済人とはかなり毛色の変った人物、あるいはそういう生き方をした人物です。山本為三郎といえばアサヒビ-ルとなりますが、かといってこの会社を彼が作ったというわけでもありません。作ったと言えばそうとも言え、そうでないと言えば、そうでもないのです。為三郎は岩崎弥太郎や豊田佐吉のように、ゼロから出発し、苦労して、名を成したとも言えません。苦労したのでしょうが、少なくとも表面からは解りません。大阪でも有名な 実業家の一人息子として生まれ、殿様教育を受け、若くして家業を継ぎ、父親譲りの豊富な資金力に恵まれ、お茶屋通いは日常茶飯、ロータリ-クラブとホテルが趣味、諸種の文化事業を行い、云々の人生です。外面的にはなんの苦労も無くといいたいのですが、しかしこの人物は経済人列伝にとって欠かせない魅力を持っています。彼の魅力は何かと問えば、それは大局的見地に立っての調整能力、それも抜群の調整能力といえるでしょう。為三郎はアサヒビ-ルの初代社長ですが、彼は自分の会社の為よりも、ビ-ル業界全体の為に損得を捨てて業界を調整したと言えます。後で述べますが、その結果アサヒビ-ルはライヴァルのキリンビ-ルにそのシェアで大きく差をつけられます。
山本家は商人としては新兵衛が大阪日本橋で油屋を開いたのに始まります。2代新助の時放蕩で家業が傾きます。新助の娘ヨネに養子を取ります。この養子が3代為蔵、為三郎の父親になります。為蔵は積極的な人で、他の商店に奉公に出、やがて当時の新産業であるガラス製造販売に進みます。為蔵が作った山為ガラスは、大阪でガラス業界を二分するほどの会社でした。為蔵の長男として、為三郎は明治26年に生まれます。ボンボンのガキ大将として育ち、大阪第一の進学校北野中学に進みます。普通ならここから旧制高校さらに大学へと進むのですが、為三郎は4年生17歳の時、大阪商人の伝統に従い結婚し、同時に家業の山為ガラスを継ぎます。在学中から父親について、得意先を廻り、お茶屋にも出入りしていました。以後の教育はすべての面に渡って、大学教授の出向による家庭での教育です。典型的な殿様教育、当時こんな教育を受けていたのは皇族と華族のごく一部の方だけでしょう。山為ガラスはビン製造が本業です。ここから関連産業であるビ-ル製造に為三郎は進みます。ではどのようにして?ここからはビ-ル業界全体の動きを解説して、叙述した方がいいでしょう。
日本のビ-ル製造には大きく4つの系統があります。まずノルウェイ人コブランドがドイツ方式の製造法を始めます。彼は技術を公開します。コブランドは早々に引き上げますが、ここからスプリング・ヴァレ-・ブリュワリ-、そしてジャパン・ブリュワリ-と続き、やがてキリンビ-ルに引き継がれます。北海道開拓使はビール製造を北海道発展のための重要産業に指定し、米人T・アンチセルそして中川清兵衛の技術指導の下に、ビ-ル醸造を始めます。この工場はやがて民間に払い下げられて、後年のサッポロビ-ルになります。大阪では渋谷庄三郎が米人技師フルストを招きビ-ル醸造を始めます。この企ては失敗します。渋谷の遺産を受け継いで、松本重太郎や鳥井駒吉が大阪ビ-ルを創業します。東京には桂二郎や馬越恭平による日本ビ-ルがありました。他に名古屋の丸三ビ-ルなどもあり、明治末年頃には日本のビ-ル業界は過当競争に突入していました。4社のうちキリンを除く、札幌、日本、大阪ビ-ルの3社は明治39年、時の農商務大臣北浦圭吾の斡旋下に合同し、大日本麦酒(ビ-ル)になります。ビール産業の合同は国産技術推進、過当競争防止、海外進出の旗の下に行われました。ビ-ルは本来外国の酒です。それに当時のアジアはその殆んどが西欧の植民地であり、白人が多く居住していたので、得意先になりえたのでしょう。
以上の過程の中で山本為三郎はどのように活動したのでしょうか?表面から見る限り、為三郎はこの企業合同の波に乗り、それを推進しつつ、人脈を形成して、ビ-ル業界全体の指導者に成りあがっていった、という印象を受けます。彼が父親から受け継いだ家業は山為ガラスというガラスの製造販売でした。この家業の成績は良好で、販路も大きく、内部留保も充分でした。つまり軍資金には事欠かなかったのです。また当時のガラス製造業は大阪が中心でした。
ビ-ルの生産にはビンの製造が欠かせません。ビール産業における製ビンの占める比重は大きいのです。ビ-ル産業が発展し競争が苛烈になりますと、各社はビンの確保に狂奔します。為三郎はこの状況下に、ビ-ル壜製造を狙い、各種企業と提携し、技術革新を背景に、日本製壜(ビン)という会社を立ち上げ、自分は専務取締役に納まります。この時の肝いり役が、紡績工業の雄である和田豊治です。こうして為三郎は全国的な次元での人脈形成に出発します。それまで人力で作っていたビンを、機械製造に切り替えます。
大阪を本拠とする企業に帝国鉱泉という会社があります。規模は山為ガラスより、大きく三矢サイダ-という全国ブランド、それも非アルコ-ル系飲料では日本最大の会社でした。山為ガラスは作った壜(ビン)をこの会社に納入します。だから帝国鉱泉は山為ガラスの最大の得意先でした。この会社の資金繰りが悪くなります。この時為三郎は帝国鉱泉に資金を融通します。これを機会に両社は名古屋の加富登(カブト)ビ-ルを加えて合同し、日本麦酒鉱泉という会社を作ります。これが大正7年、為三郎は同社の常務取締役になります。つまり為三郎は家業のガラス製造を、その最大の販路であるビ-ルや清涼飲料水の製造業と組み合わせて、企業合同を試み成功したわけです。なお加富登ビールは名古屋の丸三ビ-ルを(東武鉄道を作った)根津嘉一郎が買収したものです。根津も当時の財界の巨頭でした。ここでも為三郎は人脈を広げます。そしてこの日本麦酒鉱泉は大日本ビ-ルと合併します。為三郎は東京に移住します。(昭和9年)
大日本ビ-ルに合併された直後為三郎は一時非常勤になりますが、1年後常務取締役副工務部長(やがて工務部長)になり、会社の中心に帰り咲きます。この時彼がした事の一つが工場の格上げです。それまで工場は当該する支店の管理下にありました。為三郎は工場を支店長の拘束から解放します。つまり工場を営業部長の管理下ではなく工務部長の管理下に起きます。換言すれば開発製造部門の位置を高めたわけです。
時局は戦争に向かって進んでいました。重要産業指定法が作られます。日本の産業を、戦争遂行に効率よく再編成しようと政府は強力に産業界に干渉してきます。そもそも大日本麦酒(ビール)の成立自体が、不況カルテル形成であると同時に、政府の方針への協力でもあります。ビールが戦争遂行にとって必要か否かは意見の分かれるところですが、政府は食糧確保の観点から、ビ-ル製造に圧力をかけてきます。ある時為三郎は呼び出されて、ドイツのビ-ルを示され、ビ-ルの本家のドイツでもこの味だ、もっとビ-ルを薄めろ、と言われます。為三郎は、薄くすればビ-ルではない、酒は一度味を落とすとその信頼はなかなか取り戻せない、ビ-ル製造用n麦が全体に占める割合は知れている、と抵抗します。ビ-ルの品質低下に抵抗する一方、当局の意向を先取りして、自主減産に踏み切ります。ホッブ栽培に圧力をかけられると、自腹を切ってホッブを救います。ホッブが無ければビールではないのですから。戦争も末期になりますと軍も政府も必死です。ビ-ルどころではありません。欲しがりません勝つまではで、すべてが軍需生産に動員されます。ビ-ル工場もその工業施設の提供を求められました。施設をスクラップにして、それで砲弾や銃砲を作ろうというわけです。繊維業などはこの政策のために、その生産施設をほとんど奪われ、終戦時の日本人は木綿の衣類にさえ事欠く有様でした。純綿という言葉がその次第を語っています。為三郎はスクラップ化に必死に抵抗します。
終戦。今度は占領軍からビールの製造禁止命令が発せられます。敗戦国民である日本人がビ-ルなどを飲むのはけしからん、という次第です。GHQ(連合軍最高司令部)は日本の工業を絶滅する方針でしたから、こういう意見も当然でしょう。為三郎はつてを通して、この政策を回避します。一方GHQの方針である独占禁止法施行を見抜いて、先手を打ち、大日本麦酒を、サッポロビールとアサヒビ-ルの二社に分割します。GHQはキリンビ-ルも解体する方針でしたが、為三郎はこの企てからキリンを救います。昭和24年為三郎はアサヒビ-ルの社長に就任します。このような行動は為三郎が自社のみでなく、ビ-ル産業全体に対して公平な態度で接した事を表しています。ただその結果はサッポロ・アサヒにとって非常に悪い条件を作りました。サッポロは東日本、アサヒは西日本を販売の中心とします。だから両社が伸びるためには、相互に食い合いしなければなりません。この間隙にキリンが付け込みます。大日本麦酒の分割時、キリンのシェア-は25%でした。それがぐんぐん伸び、昭和50年代には60%のシェア-まで近づきました。この情勢を苦慮した為三郎は再び二社の合同を試みますが果たせず、昭和41年急死します。享年73歳でした。
アサヒビ-ル時代に為三郎がした事を二三取り上げます。まず昭和32年アサヒゴ-ルドを発売しました。戦後不味くなったビ-ルを美味しくする試みです。アメリカの食品会社と提携して、バヤリ-スオレンジを発売します。これは当時の果汁飲料水として代表的なものです。私も若い頃愛飲しました。美味しかった。こうして果汁飲料水の時代が開かれます。ニッカウィスキ-の竹鶴政孝を援助して、サントリ-に負けない、ハイニッカとブラックニッカという上質なウィスキ-を発売させます。
山本為三郎という人は外貌や育ちにもかかわらず、製造技術革新に強い関心を持っていました。日本製壜(ビン)を作った時に、人力製造から機械製造に切り替えた事、そして戦後屋外発酵貯酒タンクを作り、製造工程を大規模にし、同時に労働環境を改善した事が挙げられます。
為三郎はなによりも文化人でした。遊び人とも言えます。彼は古美術と建築を愛しハイフェッツやストロ-クなどの外国人音楽家を招聘し、民芸運動を後援し、ロ-タリ-クラブで活動します。なによりお茶屋遊びが好きでした。これらの多彩多岐な行動はすべて、彼の人脈を形成しています。人と付き合うのが好きなんでしょう。世話好きで協調共栄をモット-としハイカラ趣味でした。このような性格と行動は彼をして抜群の紛争調停役にしています。
山本為三郎はかなり多くの著書を出しています。その一冊に「上方、今と昔」という本があります。私は、子供時代に父親の書棚に見つけて、読みました。その中から面白かった話を二つします。まず関東と大阪の料理の違いです。関東ではマグロやイワシをよく食べ、大阪ではタイを好みます。前者の調理法では捨てる部分が多いのに対して、タイは全身すべて調理の対象になります。焼いても煮てもまた生でもタイは美味しい。骨はあぶってそこに付いた身を食べます。障子という名の料理です。頭は酒蒸しにすればこれがまた美味。眼のゼラチンとそのすぐ下にある筋肉が美味い。タイの皮は軽く焼いて、和え物にします。そしてアラ炊き。こういう風にその本には載っていました。私の家もかなりの美食でしたので、為三郎氏のご意見に全く同調できました。氏は、大阪の調理法を語る中で、大阪商人の合理性、捨てるところ無く利用する合理性を強調していました。タイの調理法を通して、為三郎は彼の経営感覚、協調と共栄を物語っているようです。
もう一つ。彼の語るところに拠れば、大阪の花柳界の芸者衆は「半助」という料理を好みました。大正期の大阪では鰻の頭を一盛50銭で売っており、彼らはこれをダシにして鍋物や雑炊を作ります。一円硬貨を円助と言ったので、この料理に半助と名がついたそうです。美味かろうなあ、と想像します。これも大阪料理の合理性を物語る話ですが、同時に為三郎が花柳界に如何に通じていたか、が解ります。なお同じ本に「ヤジキタ寿司」というのがありました。どんなものかは皆さんの方で調べて下さい。
最後に現今でのビ-ル業界の趨勢について。20数年前にアサヒス-パ-ドライが発売されて、これが爆発的な売れ行きとなり、現在ではアサヒビ-ルがシェア-のトップを占め、キリンが必死に巻き返そうとしているところです。私はキリンのラガ-ビ-ルを愛飲していましたが、ドライ発売と同時にそちらに切り替えました。今ではビ-ルを卒業して冷酒と焼酎です。大阪の美酒を二つ紹介しておきましょう。一つは大黒正宗の「天乃梅樹」。素晴らしく美味しい、甘露です。少し値を下げれば、大関酒造の「大阪屋長兵衛」、これなら毎日飲むのにそう差し支えはないでしょう。食べる・飲むというのは楽しいものです。快楽は人間を豊に寛容にします。山本為三郎という人格の中に、この快楽の持つ寛容性が表現されており、それが氏の魅力の根源であるようです。
参考文献 山本為三郎翁傳 非売品、大阪市立図書館蔵
今回の列伝の主人公、山本為三郎は今までの経済人とはかなり毛色の変った人物、あるいはそういう生き方をした人物です。山本為三郎といえばアサヒビ-ルとなりますが、かといってこの会社を彼が作ったというわけでもありません。作ったと言えばそうとも言え、そうでないと言えば、そうでもないのです。為三郎は岩崎弥太郎や豊田佐吉のように、ゼロから出発し、苦労して、名を成したとも言えません。苦労したのでしょうが、少なくとも表面からは解りません。大阪でも有名な 実業家の一人息子として生まれ、殿様教育を受け、若くして家業を継ぎ、父親譲りの豊富な資金力に恵まれ、お茶屋通いは日常茶飯、ロータリ-クラブとホテルが趣味、諸種の文化事業を行い、云々の人生です。外面的にはなんの苦労も無くといいたいのですが、しかしこの人物は経済人列伝にとって欠かせない魅力を持っています。彼の魅力は何かと問えば、それは大局的見地に立っての調整能力、それも抜群の調整能力といえるでしょう。為三郎はアサヒビ-ルの初代社長ですが、彼は自分の会社の為よりも、ビ-ル業界全体の為に損得を捨てて業界を調整したと言えます。後で述べますが、その結果アサヒビ-ルはライヴァルのキリンビ-ルにそのシェアで大きく差をつけられます。
山本家は商人としては新兵衛が大阪日本橋で油屋を開いたのに始まります。2代新助の時放蕩で家業が傾きます。新助の娘ヨネに養子を取ります。この養子が3代為蔵、為三郎の父親になります。為蔵は積極的な人で、他の商店に奉公に出、やがて当時の新産業であるガラス製造販売に進みます。為蔵が作った山為ガラスは、大阪でガラス業界を二分するほどの会社でした。為蔵の長男として、為三郎は明治26年に生まれます。ボンボンのガキ大将として育ち、大阪第一の進学校北野中学に進みます。普通ならここから旧制高校さらに大学へと進むのですが、為三郎は4年生17歳の時、大阪商人の伝統に従い結婚し、同時に家業の山為ガラスを継ぎます。在学中から父親について、得意先を廻り、お茶屋にも出入りしていました。以後の教育はすべての面に渡って、大学教授の出向による家庭での教育です。典型的な殿様教育、当時こんな教育を受けていたのは皇族と華族のごく一部の方だけでしょう。山為ガラスはビン製造が本業です。ここから関連産業であるビ-ル製造に為三郎は進みます。ではどのようにして?ここからはビ-ル業界全体の動きを解説して、叙述した方がいいでしょう。
日本のビ-ル製造には大きく4つの系統があります。まずノルウェイ人コブランドがドイツ方式の製造法を始めます。彼は技術を公開します。コブランドは早々に引き上げますが、ここからスプリング・ヴァレ-・ブリュワリ-、そしてジャパン・ブリュワリ-と続き、やがてキリンビ-ルに引き継がれます。北海道開拓使はビール製造を北海道発展のための重要産業に指定し、米人T・アンチセルそして中川清兵衛の技術指導の下に、ビ-ル醸造を始めます。この工場はやがて民間に払い下げられて、後年のサッポロビ-ルになります。大阪では渋谷庄三郎が米人技師フルストを招きビ-ル醸造を始めます。この企ては失敗します。渋谷の遺産を受け継いで、松本重太郎や鳥井駒吉が大阪ビ-ルを創業します。東京には桂二郎や馬越恭平による日本ビ-ルがありました。他に名古屋の丸三ビ-ルなどもあり、明治末年頃には日本のビ-ル業界は過当競争に突入していました。4社のうちキリンを除く、札幌、日本、大阪ビ-ルの3社は明治39年、時の農商務大臣北浦圭吾の斡旋下に合同し、大日本麦酒(ビ-ル)になります。ビール産業の合同は国産技術推進、過当競争防止、海外進出の旗の下に行われました。ビ-ルは本来外国の酒です。それに当時のアジアはその殆んどが西欧の植民地であり、白人が多く居住していたので、得意先になりえたのでしょう。
以上の過程の中で山本為三郎はどのように活動したのでしょうか?表面から見る限り、為三郎はこの企業合同の波に乗り、それを推進しつつ、人脈を形成して、ビ-ル業界全体の指導者に成りあがっていった、という印象を受けます。彼が父親から受け継いだ家業は山為ガラスというガラスの製造販売でした。この家業の成績は良好で、販路も大きく、内部留保も充分でした。つまり軍資金には事欠かなかったのです。また当時のガラス製造業は大阪が中心でした。
ビ-ルの生産にはビンの製造が欠かせません。ビール産業における製ビンの占める比重は大きいのです。ビ-ル産業が発展し競争が苛烈になりますと、各社はビンの確保に狂奔します。為三郎はこの状況下に、ビ-ル壜製造を狙い、各種企業と提携し、技術革新を背景に、日本製壜(ビン)という会社を立ち上げ、自分は専務取締役に納まります。この時の肝いり役が、紡績工業の雄である和田豊治です。こうして為三郎は全国的な次元での人脈形成に出発します。それまで人力で作っていたビンを、機械製造に切り替えます。
大阪を本拠とする企業に帝国鉱泉という会社があります。規模は山為ガラスより、大きく三矢サイダ-という全国ブランド、それも非アルコ-ル系飲料では日本最大の会社でした。山為ガラスは作った壜(ビン)をこの会社に納入します。だから帝国鉱泉は山為ガラスの最大の得意先でした。この会社の資金繰りが悪くなります。この時為三郎は帝国鉱泉に資金を融通します。これを機会に両社は名古屋の加富登(カブト)ビ-ルを加えて合同し、日本麦酒鉱泉という会社を作ります。これが大正7年、為三郎は同社の常務取締役になります。つまり為三郎は家業のガラス製造を、その最大の販路であるビ-ルや清涼飲料水の製造業と組み合わせて、企業合同を試み成功したわけです。なお加富登ビールは名古屋の丸三ビ-ルを(東武鉄道を作った)根津嘉一郎が買収したものです。根津も当時の財界の巨頭でした。ここでも為三郎は人脈を広げます。そしてこの日本麦酒鉱泉は大日本ビ-ルと合併します。為三郎は東京に移住します。(昭和9年)
大日本ビ-ルに合併された直後為三郎は一時非常勤になりますが、1年後常務取締役副工務部長(やがて工務部長)になり、会社の中心に帰り咲きます。この時彼がした事の一つが工場の格上げです。それまで工場は当該する支店の管理下にありました。為三郎は工場を支店長の拘束から解放します。つまり工場を営業部長の管理下ではなく工務部長の管理下に起きます。換言すれば開発製造部門の位置を高めたわけです。
時局は戦争に向かって進んでいました。重要産業指定法が作られます。日本の産業を、戦争遂行に効率よく再編成しようと政府は強力に産業界に干渉してきます。そもそも大日本麦酒(ビール)の成立自体が、不況カルテル形成であると同時に、政府の方針への協力でもあります。ビールが戦争遂行にとって必要か否かは意見の分かれるところですが、政府は食糧確保の観点から、ビ-ル製造に圧力をかけてきます。ある時為三郎は呼び出されて、ドイツのビ-ルを示され、ビ-ルの本家のドイツでもこの味だ、もっとビ-ルを薄めろ、と言われます。為三郎は、薄くすればビ-ルではない、酒は一度味を落とすとその信頼はなかなか取り戻せない、ビ-ル製造用n麦が全体に占める割合は知れている、と抵抗します。ビ-ルの品質低下に抵抗する一方、当局の意向を先取りして、自主減産に踏み切ります。ホッブ栽培に圧力をかけられると、自腹を切ってホッブを救います。ホッブが無ければビールではないのですから。戦争も末期になりますと軍も政府も必死です。ビ-ルどころではありません。欲しがりません勝つまではで、すべてが軍需生産に動員されます。ビ-ル工場もその工業施設の提供を求められました。施設をスクラップにして、それで砲弾や銃砲を作ろうというわけです。繊維業などはこの政策のために、その生産施設をほとんど奪われ、終戦時の日本人は木綿の衣類にさえ事欠く有様でした。純綿という言葉がその次第を語っています。為三郎はスクラップ化に必死に抵抗します。
終戦。今度は占領軍からビールの製造禁止命令が発せられます。敗戦国民である日本人がビ-ルなどを飲むのはけしからん、という次第です。GHQ(連合軍最高司令部)は日本の工業を絶滅する方針でしたから、こういう意見も当然でしょう。為三郎はつてを通して、この政策を回避します。一方GHQの方針である独占禁止法施行を見抜いて、先手を打ち、大日本麦酒を、サッポロビールとアサヒビ-ルの二社に分割します。GHQはキリンビ-ルも解体する方針でしたが、為三郎はこの企てからキリンを救います。昭和24年為三郎はアサヒビ-ルの社長に就任します。このような行動は為三郎が自社のみでなく、ビ-ル産業全体に対して公平な態度で接した事を表しています。ただその結果はサッポロ・アサヒにとって非常に悪い条件を作りました。サッポロは東日本、アサヒは西日本を販売の中心とします。だから両社が伸びるためには、相互に食い合いしなければなりません。この間隙にキリンが付け込みます。大日本麦酒の分割時、キリンのシェア-は25%でした。それがぐんぐん伸び、昭和50年代には60%のシェア-まで近づきました。この情勢を苦慮した為三郎は再び二社の合同を試みますが果たせず、昭和41年急死します。享年73歳でした。
アサヒビ-ル時代に為三郎がした事を二三取り上げます。まず昭和32年アサヒゴ-ルドを発売しました。戦後不味くなったビ-ルを美味しくする試みです。アメリカの食品会社と提携して、バヤリ-スオレンジを発売します。これは当時の果汁飲料水として代表的なものです。私も若い頃愛飲しました。美味しかった。こうして果汁飲料水の時代が開かれます。ニッカウィスキ-の竹鶴政孝を援助して、サントリ-に負けない、ハイニッカとブラックニッカという上質なウィスキ-を発売させます。
山本為三郎という人は外貌や育ちにもかかわらず、製造技術革新に強い関心を持っていました。日本製壜(ビン)を作った時に、人力製造から機械製造に切り替えた事、そして戦後屋外発酵貯酒タンクを作り、製造工程を大規模にし、同時に労働環境を改善した事が挙げられます。
為三郎はなによりも文化人でした。遊び人とも言えます。彼は古美術と建築を愛しハイフェッツやストロ-クなどの外国人音楽家を招聘し、民芸運動を後援し、ロ-タリ-クラブで活動します。なによりお茶屋遊びが好きでした。これらの多彩多岐な行動はすべて、彼の人脈を形成しています。人と付き合うのが好きなんでしょう。世話好きで協調共栄をモット-としハイカラ趣味でした。このような性格と行動は彼をして抜群の紛争調停役にしています。
山本為三郎はかなり多くの著書を出しています。その一冊に「上方、今と昔」という本があります。私は、子供時代に父親の書棚に見つけて、読みました。その中から面白かった話を二つします。まず関東と大阪の料理の違いです。関東ではマグロやイワシをよく食べ、大阪ではタイを好みます。前者の調理法では捨てる部分が多いのに対して、タイは全身すべて調理の対象になります。焼いても煮てもまた生でもタイは美味しい。骨はあぶってそこに付いた身を食べます。障子という名の料理です。頭は酒蒸しにすればこれがまた美味。眼のゼラチンとそのすぐ下にある筋肉が美味い。タイの皮は軽く焼いて、和え物にします。そしてアラ炊き。こういう風にその本には載っていました。私の家もかなりの美食でしたので、為三郎氏のご意見に全く同調できました。氏は、大阪の調理法を語る中で、大阪商人の合理性、捨てるところ無く利用する合理性を強調していました。タイの調理法を通して、為三郎は彼の経営感覚、協調と共栄を物語っているようです。
もう一つ。彼の語るところに拠れば、大阪の花柳界の芸者衆は「半助」という料理を好みました。大正期の大阪では鰻の頭を一盛50銭で売っており、彼らはこれをダシにして鍋物や雑炊を作ります。一円硬貨を円助と言ったので、この料理に半助と名がついたそうです。美味かろうなあ、と想像します。これも大阪料理の合理性を物語る話ですが、同時に為三郎が花柳界に如何に通じていたか、が解ります。なお同じ本に「ヤジキタ寿司」というのがありました。どんなものかは皆さんの方で調べて下さい。
最後に現今でのビ-ル業界の趨勢について。20数年前にアサヒス-パ-ドライが発売されて、これが爆発的な売れ行きとなり、現在ではアサヒビ-ルがシェア-のトップを占め、キリンが必死に巻き返そうとしているところです。私はキリンのラガ-ビ-ルを愛飲していましたが、ドライ発売と同時にそちらに切り替えました。今ではビ-ルを卒業して冷酒と焼酎です。大阪の美酒を二つ紹介しておきましょう。一つは大黒正宗の「天乃梅樹」。素晴らしく美味しい、甘露です。少し値を下げれば、大関酒造の「大阪屋長兵衛」、これなら毎日飲むのにそう差し支えはないでしょう。食べる・飲むというのは楽しいものです。快楽は人間を豊に寛容にします。山本為三郎という人格の中に、この快楽の持つ寛容性が表現されており、それが氏の魅力の根源であるようです。
参考文献 山本為三郎翁傳 非売品、大阪市立図書館蔵