経済(学)あれこれ

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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch7勅撰和歌集 注5 

2022-02-22 15:23:39 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch7勅撰和歌集 注5


① 和泉式部
和泉式部は大江匡致の娘として970年ころ生まれます。生没年・本名ともに解りません。大江氏は学者の家系です。ちなみにこのころ平安女流文学で活躍した紫式部、清少納言も学者の娘です。父親が奉公している昌子内親王(冷泉天皇后)の縁で冷泉天皇の第三皇子為尊親王と出会い恋に落ちます。この親王が亡くなり、喪も明けるか明けないうちに故親王の実弟である敦道親王が橘の花を送ってプロポ-ズします。これに式部が答えた歌が、
 「薫る香によそうるよりはほととぎす、聞かばやおなじ声をしたると」
です。つまり式部は即OKです。こうして二人の恋愛が始まります。この過程を和歌の応酬を主内容として描いた日記が「和泉式部日記」です。「和泉式部物語」とも言われます。なおそれより以前式部は橘道貞と結婚しており、敦道親王との恋愛が進行している最中も結婚は解消されていない状態でした。和泉式部の「和泉」は道貞が和泉守であったところからきています。親王の訪れを待ちつつ過ごすある五月雨の一夜、式部が詠んだ歌が、
 「夜もすがらなにごとかは思いつる、窓うつ雨の音をききつつ」
これに答えて敦道親王は
 「われもさぞ思ひやりつる雨の音を、させるつま(夫)なき宿はいかにと」
と返します。
二人の愛は昂じて式部は親王の邸に入ります。親王の奥方は怒って実家に帰ります。親王と式部はうちそろって葵祭に出かけます。その時式部が車から出した衣の裾は都で非常な評判を呼びました。公然たるゴシップです。二人の恋は4年間続き、親王の死で終わります。敦道親王もまた優れた歌人でした。式部は親王により歌人として育てられとも言えます。和泉式部はやがて一条天皇の中宮彰子(実質的には藤原道長)に女房として使えます。紫式部や赤染衛門は同僚でした。和泉式部が多情多淫えあったことは事実です。敦道親王としても、式部が自分を愛している事は解っていても、言い寄られると断り切れない式部の性格を危うんでいました。式部に子供ができると同僚の女房から、誰の子、などと聴かれます。道長からは、浮かれ女、と言われました。和泉式部日記は恋愛歌の応酬ですが、似たようなものが200年後の欧州にあります。アベラ-ルとエロイ-ズの往復書簡です。式部の日記と比べれば彼我の文化の差に気づかされます。式部の代表的な和歌を挙げてみます。前項との重複はあります。
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」
「もの思えば沢の蛍はわが身より、あくがれいずる魂とかは見る」
「黒髪のみだれもしらずうちふせば、まずかきやりし人ぞ恋しき」
「人も見ぬ宿に桜をうえたれば、花もてやつす身とぞなりぬる」
「わが宿の桜はかひもなかりけり、あるじからこそ人も見にくれ」
「ありとてもたのむべきかは世の中を、しらするものは朝顔の花」
「人の身も恋にはかえつ夏虫の、あらはにもゆと見えぬばかりぞ」
「今はただそよそのことと思ひいでて、わするばかりのうきこともがな」
「捨てはてむと思ふさえこそかなしけれ、君に馴れにし我が身と思へば」
「なき人のくる夜ときけど君もなし、わが住む宿やたまなきの里」
「あらざらんこの世のほかの思ひでに、いまひとたびのあふこともがな」
「白露も夢もこの世もまぼろしも、たとえていえば久しかりけり」
② 式子内親王
式子内親王は1153年に出生、1201年死去と推定されています。いずれも藤原定家の日記「明月記」が資料です。1159年(平治元年)6歳で加茂神社の齋院に卜定されています。齋院とは伊勢斎宮と同じように、未婚の内親王を神への神事を主宰するために選定された女性です。平安遷都より朝廷は、神格第一位を皇室の祖先神である伊勢神宮に、第二位を都の地の守護神である上下の加茂神社に置きました。加茂齋院は13世紀に廃止されましたが、伊勢斎宮は現在でも続けられています。ただし元内親王で降嫁された女性が斎宮の任務につかれています。式子内親王の齋院卜定が6歳で童女とは異例です。式子内親王の父親は御白河天皇(上皇、法皇)、母親は大納言藤原季成の娘高倉三位です。時代が時代ですので式子内親王の血統は非主流でした。齋院卜定から1169年退下までは平氏の上昇期、そして退下の二年前の1167年には清盛の妻時子(二位の尼)の妹滋子が御白河法皇に入内し建春門院となり、御白河院政と平氏は提携し平氏全盛時代を迎えていました。ですから平家と無縁の式子内親王の一門は不遇でした。同福の兄弟の一人は下源平内乱のきっかけを作った高倉宮以仁王です。齋院退下が16歳と思われますからその後の生活はどうなのか解りませんが、当時の内親王は未婚を強いられており、また法皇には八条院領など莫大な荘園がありましたから、内親王を養う事など易しい事だったでしょう。特記すべきことは新古今集の編者の一人藤原定家(及び父親の俊成)が家司として式子内親王に仕えていることです。中納言まで昇進した貴族を奉公させるほどですから内親王の経済と処遇はまずまずというところです。そういう事情で紫式部や清少納言、和泉式部のような女房奉公の経験も(こういう経験をすると現実的もしくはすれっからしになります)なくまして男を知っているとは言えない女性が詠んだ和歌にはなんと恋歌が多いのです。恋にあこがれているようでもあり、恋を避けているようでもある、清澄明哲まるで白珠を転がすような和歌が多いのです。そしてこの恋歌がそのまま叙景歌にもなっているようにおもわれます。多くの人は内親王の歌の主題は「忍の恋」と言います。それを否定はしませんが、内親王の歌にはそれを超えるものがあります。例示します。解説はしません。
「山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水」
 これは内親王の絶唱です。彼女の作品中最高の傑作です。抒情的であり、叙景的でもあります。
「忘れてはうち嘆かかる夕べかな、我のみ知りて過ごす月日を」
「見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕に浮かぶまぼろしの仲」
「桐の葉も踏み分けがたくなりにけり、必ず人を待つとなけれど」 
「八重にほふ軒端の桜うつろいぬ、風よりさきにとふ人もがな」
「はかなしや枕さだめぬうたかたの、心は馴れて行き返れども」
「忘れてはうち嘆かる夕べかな、我のみ知りて過ぐる月日を」
「玉の緒よ絶えなばたえねながらえば、忍ぶることの弱りもぞする」
「しづかなる暁ごとに見渡せば、まだ深き夜の夢ぞ悲しき」
「浮雲を風にまかする大空の、行くへも知らぬ果ぞ悲しき」
「ながめつる今日は昔になりぬとも、軒端の梅は我を忘るな」
「静かなる暁ごとに見渡せば、まだ深き夜の夢ぞ悲しき」
「はかなしや枕定めぬうたたねに、ほのかにかよふ夢の通い路」
「ながむればころもですずしひさかたの、天の川原の秋の夕暮れ」
③ 建礼門院右京太夫
彼女は高倉天皇の中宮建礼門院徳子(平清盛の娘)に仕えた女房で平家全盛期、源平の争乱そして平家滅亡後の時代を生きた歌人です。彼女は二人の恋人を持ちました。一人は平家物語に出てくる(特に車争いで)平資盛、もう一人は日本絵画史上有名な画人藤原隆信です。前者は彼女より年下、後者は年上、二人の男に言い寄られ苦しむ(楽しむ?)女の胸中を回想風に描いた歌集(同時に日記あるいは見様によっては物語)が建礼門院右京大夫集です。彼女の父親は藤原行成(書道で名高い世尊時流の創始者、三蹟の一人)の子孫世尊時伊行、母親は伶人大神((おおみわ)基政の娘夕霧です。書道と笛という芸術家を両親に持ち加えて藤原俊成の後見があり(女房名右京太夫は俊成の官職からきています、という事は俊成従って定家とも縁戚関係にあることの可能性を意味します)宮廷での女房奉公には最適の人物でした。建礼門院右京太夫集はそのような時代背景を持ち、宮廷文化の中で二人の恋人との関係を主軸として書かれました。周知のように資盛は壇ノ浦の戦いで戦死しています。歌を列挙してみます。早々に言うのもなんですが、式子内親王の歌に比べるとやや平面的で緊張感に欠けるきらいがあります。しかし栄華・戦乱・平家敗亡という、つまり武家勢力の角逐の中での記録であるがゆえに記載内容は迫力を持ちます。
「われならでたれかあはれと水茎の、跡もし末の世に伝わらば」
 これは冒頭の宣言です。私が経験した事を後世に伝えたいという意志の表出です。その点では歴史物語の意味をもこの集はもちます。
「さそはれぬ憂さも忘れてひと枝の、花にそみつる雲の上の人」 右京太夫
   「もろともに尋ねてをみよ一枝の、花に心のげにもうつらば」資盛返し
    右京太夫と資盛との相聞歌です。
「ふくる夜のねざめさびしき袖のうえを、音にもぬらす春の雨かな」
「さそひつる風は梢をすぎぬなり、霞ふきとけ余呉の浦風」
 叙景歌ですね。意味深長ですが。
「心ありて見つとはなしにたちばなの、にほひをあやな袖にしめつる」
 橘は求愛の象徴です。業平や和泉式部の歌を想起してください。
「かきくらす夜の雨にも色かはる、袖のしぐれを思ひこそやれ」
 平重盛が死去した時の歌です。1279年内乱勃発の直前です。
「神垣や松のあらしもおとさえて、霜にしもしく冬の夜の月」
「超えぬればくやしかりける逢坂を、なにゆえにかは踏みはじめけむ」
 相手は誰でしょうか。
「思ひかへす道をしらばや恋の山、は山しげ山わけいりし身に」
「跡をだに形見にせむと思ひしを、さてしもいとどかなしさぞそう」
 資盛の故地を訪れた時の歌です。
「こととはむ五月あらでもたち花に、むかしの袖の香にはのこるやと」
 業平の古歌を引き資盛を偲んだ歌です。
④ 西行
西行は保元の乱の時37歳と言われますから逆算して生年は1119年になります。没年は1190年です。院政から武家政権の確立への過渡期、動乱の時期を生きました。俗名は佐藤義清、俵藤太秀郷の嫡流です。武勇の家に生まれ、北面の武士となり、左兵衛尉に任官します。23歳の時突然出家します。以後は吉野や高野に隠れ諸国を転々と旅し無常観にひたりつつ自然を愛し、それを和歌に詠みます。彼の主著といえる「山家集」に載せられた歌はおおよそ3000首近くに登ります。新古今和歌集にも多く採録されています。西行に関しては真偽とりまぜ多くの事績・伝説があります。大峰に登り先達の宗南坊からののしられても随喜の涙を流したこと、ある川の渡し船で定員過剰になり武士に降りよと言われ黙っていたら鞭打たれ頭から血を流したが耐えた事などがあります。有名な文覚(この人も元武士でしたが人妻に恋し出家しています)は西行を憎みました。理由は、僧のくせに歌など詠んで似非道心だと思ったからです。西行は文覚の寺に一夜を乞います。文覚の弟子たちはどうなることかとはらはらしていましたが、文覚は西行の所業振舞いを見て、西行は天下の師であると言いました。鎌倉へも行きます。将軍頼朝に従来からの武家の作法を講義します。褒美にもらった銀製の猫をかえりしなの門前で遊んでいる子供に与えたと言われています。西行は後鳥羽院とも崇徳院とも懇意でした。また待賢門院ともねんごろで、彼女に失恋したのが出家の動機だという話もあります。平清盛とは同年で同じ武士同士ですから交流はあったでしょう。自然を愛し隠者に徹した歌詠み僧ですが、紀州には自分の荘園を持ち、弟に管理させていました。漢土日本を問わず隠者とはそういうものです。財産がないと隠者なんかできません。以下西行の歌を列挙します。
「榊葉に心をかけむゆふしでて、思へば神も仏なりけれ」
伊勢神宮に参拝した時の歌です。
「津の国の難波の春は夢なれや、葦の枯葉に風わたるなり」
「心なき身にもあわれはしられけり、しぎ立つ沢の秋の夕暮れ」
「寂しさに耐えたる人のまたもあれな、庵ならべむ冬の山里」
「年たけてまた超ゆべしと思いひきや、いのちなりけりさ夜の中山」
「梢うつ雨にしをれてちる花の、惜しき心を何にたとえん」
「むすぶ手に涼しきかげをそふるかな、清水にやどる夏の夜の月」
「さりともとなほあふことを頼むかな、死出の山路をこえぬ別れは」
「よしや君昔の玉の床とても、かからむ後は何にかはせむ」
 崇徳院の白峰陵に参拝した時詠んだ歌です。
「こととなく君こひ渡る橋の上に、あらそふものは月の影のみ」
  この歌の返し
「思ひやる心は見えで橋の上の、あらそひけりな月の影のみ」西住
 この二人の歌の贈答は両者の友情というより同性愛的関係を示しています。
「おしむとて惜しまれぬべきこの世かは、身をすててこそ身をもたすけめ」
「願わくは花のもとにて春しなん、その如月の望月のころ」


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