経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

福沢諭吉と渋沢栄一(1)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2020-01-06 12:39:11 | Weblog
福沢諭吉と渋沢栄一(1)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(大隈重信)
この章では福沢・渋沢両名の造った企業と企業人の生涯を10名に渡り叙述しもって明治大正年間の経済活動の推移を考えてみます。福沢が中心になります。渋沢の活動は茫漠として掴み切れません。彼が関係していない企業はないと言われます。また彼のような、民間と官界、民間と民間を取り持ち資金情報人脈に渡って企業を援助仲介斡旋する人物を財界周旋人と言いますが、この仕事は郷誠之助や井上準一郎に引き継がれます。このような仕事は裏仕事で実態は確実には判明しません。従って渋沢関係では山辺武夫と高峰譲吉の二人のみを取り上げます。またここで断らなければならない事は、本来第29章「西郷隆盛」が先なのですが、パソコンの都合でこの章は修理中なので最終章である「福沢諭吉と渋沢栄一」を先行して記載します。最後に日本経済史の紅一点(ほんとは二点ですが)津田梅子の伝記で締めくくりたいと思います。
大隈重信は1838年(天保9年)に肥前佐賀に、鍋島藩砲術指南大隈信保の長男として産まれています。父親の禄は400石ですから、堂々とした上士の階層に属します。幼名は八太郎、小さい時は母親が心配するほど、おとなしい泣虫の子でしたが、長じるに従い腕白坊主になります。13歳時、父死去。藩校の弘道館に入ります。学制改革を企て、義祭同盟を結成します。蘭学を志し、長崎遊学。ここでオランダ人フルベッキからオランダ語とともに、英語も教授されます。佐賀に帰り、進言した藩営国際貿易の意見が入れられ、貿易方を担当し、長崎や大阪に商会を作ります。軍制改革も企てました。また副島種臣とともに、脱藩して徳川慶喜に大政返上を具申します。もっとも意見を聞いてくれたのは幕臣の一人でしたが。藩からは謹慎閉門を仰せ付けられます。この時副島も江藤新平も大木喬任も処罰されています。奇しき偶然でしょうか、この四人はすべて明治政府の閣僚になっています。
 明治維新になります。徴士になり、外国事務判事に任命されます。徴士とは、各藩がまだ人材の整わない政府が、各藩から人材を引き抜いて勤務させる制度です。新政府官僚のはしりです。
当時キリスト教徒の処分問題で、政府は外国特にイギリスともめていました。維新になっても日本は未だキリスト教は禁止だったのです。大隈は、日の出の勢いにあったイギリスの公使、傲慢で辣腕のパ-クスとやりあいます。単に宗教問題だけでなく、政府は外債返済の問題も抱えていました。1870年大蔵大輔に任命されます。財政担当者として最大の問題は幣制統一でした。幕末維新の動乱期、幕府も諸藩も新政府も金が要ります。諸藩の債務、諸藩が作った贋金、品質の悪い金銀貨、そして政府発行の太政官札などなど、が入り乱れます。明治政府は銀貨を正貨としましたが、このような乱雑な貨幣制度ではまともな経済政策は営めません。外国からは債務返還を催促されますし、贋金や劣悪な硬貨の正貨への引き換えも要求されます。放っておいたらどこかの土地を取られかねません。
(維新政府は政権をとりましたが、お金がありません。そこで由利公正の提案で太政官札を発行します。政府が出した紙幣です。信用がないので銀貨の半分以下の価値でしか通用しません。)
 明治維新の初期3年間の混乱を収拾するためには、より強い政権が必要です。維新回天に功績のあった、薩長二藩が主軸となり、それに土佐と肥前佐賀を加えて、各藩有力者を出し合い、政府を作ります、これを有司専制といいますが、実際は薩長連合政権であり西郷木戸連立政権といえるものでした。この体制下で、廃藩置県、地租改正、そして秩禄処分が断行されます。こういう情勢下で大隈は若干33歳で明治政府の財政責任者になりました。
 大隈はまず政府債務の整理から始めます。債務総額は、内債が3485万円、外債が280万円です。当時明治5年の政府総収入は2214万円でした。この内債の内、
 1843年(天保14年)以前の藩債は返済せず
 1844年から1867年(明治元年)までの債権は無利子50年年賦で返済
 1868年から1873年(明治5年)の債権は4分利3ヵ年据置25年年賦で返済する事になります。この内まともな返済は第3の条項だけです。無利子50年年賦などは、実際上返済しない、といっているようなものです。鴻池などはこれでひどい目にあっています。まあありてい言えば、事実上の借金踏み倒しです。反対に外債は、あくどい条件のものを除外して、85%は返済されています。
 次が財政健全化、幣制の整理です。その前に。政府の収入と支出の構造を変えなければなりません。まず秩禄処分です。旧幕時代、幕臣藩士は主君から米で給料をもらっていました。その分も明治政府は廃藩置県で背負い込みます。武士への給付のみで1700万円、政府の年間収入の35%を占めます。政府は支払いを債権化します。各石高に応じて金録公債を発行し、その利子だけ士族に支払うようにします。もちろん一定の期間だけですが。こうして士族は一種の年金生活者になりました。しかし実際の給付は本来の録米の価値に比べたら、小さく、給付は1/5以下になりました。秩禄処分とは武士のリストラです。士族は困窮しましたが、従来言われているような程度ではなかったようです。各自なんとか生計の道を見つけます。膨大な軍隊のリストラがかくもスム-スに行ったのは世界史上の奇跡ではあります。
 (随所に円が出てきます。円と両の関係は次の通りです。維新時、一両を一円に改名しました。ただそれだけです)
 出る方を削減したら、入る方を増加させねばなりません。地租改正を行います。旧幕時代は各田畑の収穫に応じて、米(厳密には石代納で金納に近い)で年貢を徴収していました。明治政府は、土地に値段をつけ、地券を発行します。その値段の3%を地租として徴収します。総収入は4400万円にのぼり、旧幕時代の徴収額の倍近くになりました。増税です。農民は怒り一揆になり、地租は2.5%に減らされます(この数字は新しい研究では異なり実際は減税になているようです)。
 金録公債、地券ともに単なる財政政策を超えた意義を持ちます。武士の給付も農地も債権化されました。つまりいつでも貨幣としてあるいはその代理として交換可能、蓄積可能なものになります。地租改正と共に田畑売買は自由になりました。田畑が自由売買になると、農業経営に熱心な農民が土地を買って集積し、大規模な経営を行うようになります。日本で始めて厳密な意味での地主が誕生します。事実彼らは当時のインフレの波に乗り、高価格の農産物を売って富裕になります。金録公債も地券もそのまま銀行資本になります。これらを担保にすればいいわけですから。特に旧大名家の公債を資本(1782万円)にしてできた第十五銀行は有名です。前田、島津、徳川、毛利、黒田、山内、池田など名が前がづらりと並んでいます。こうして資本主義的生産は加速されます。また財貨の債権化と銀行の発展は、政府による徴税を容易にまた公正なものにします。いざとなると銀行口座を調べればいいのですから。
 廃藩置県、秩禄処分、地租改正は明治政府の三大事業です。財政の基礎はこうして整います。これらの事業を大隈重信が一人でやったというのではありません。しかしこれらの事業が行われた明治4年から10年にかけての間、財政の主務者としてさらには参議筆頭として、大隈重信が政治を了導した事は事実です。
 明治6年征韓論による政変が起こります。大隈は財政の立場から征韓論に反対します。明治7年台湾征討、これは実行されます。この時の経費が直接の軍事費だけで350万円、関連経費を合わせると700万円になりました。
明治9年西南戦争。2700万円の太政官札を発行し、さらに1500万円の借金を政府は負います。当然インフレになります。インフレになると、輸入が増え、輸出が減ります。大隈財政に非難の声が上げられます。ここで大隈と租税頭(税務の主務者)である松方正義が対立します。大隈の意見は正貨が足りないのだから、輸入を抑えて輸出を増やせばいい、と言う考えです。これはこれで正しいのでしょうが、成果が上がるためには時間がかかります。輸入したいものはたんとありますが、輸出の増加はおいそれとは行きません。松方は流通貨幣量が多すぎると主張します。最も正当な対策は、流通から貨幣(正貨以外の)を引き上げる事です。大隈は正貨不足を補うために1500万円分の外資導入を提案します。この財政問題に、国会開設に関する意見の相違、北海道官物払い下げ不正事件などが絡み、明治14年大隈は参議を辞任させられます。44歳の時でした。伊藤、井上、松方など薩長藩閥政府から追い出されます。以後松方財政の時代になります。
大隈は福沢と極めて親しい関係にありました。議院早期開催(つまり民権主義)で意見が一致し、福沢門下慶應義塾卒の人材が官庁にたくさん採用されていました。この章で後に述べる中上川彦次郎などが代表です。彼らは手足として政権内部で活動し、大隈辞任とともに下野し、政党活動に従事しています。大隈は岩崎弥太郎の三菱とも近い関係にあり、慶応義塾卒の者は三菱に多く採用されたいます。岩崎の三菱汽船に対抗したのが渋沢率いる共同運輸ですが、大隈の辞任は三菱汽船に不利に働きました。1885年に三菱共同は合併し日本郵船ができます。
 野に下った大隈は翌年の1882年、45歳時、改進党を作ります。憲法制定と国会開設が日程に上った事を踏まえて、政府外から政治に影響を行使しようと思います。改進党はすでにできていた板垣退助の自由党に対抗し、イギリスの立憲政治をモデルにし、都市の中産階級を地盤にしようとしました。参集した主な者は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、小野梓、林有造、大江卓、竹内綱、高田早苗、沼間守一、河野敏鎌、前島密、というところです。
同年、東京専門学校、現在の早稲田大学を開設します。学問の独立は一国の独立、が大隈の看板でした。
1887年伯爵。1888年山県内閣の外務大臣になります。前職の井上馨の鹿鳴館外交の評判が悪く、条約改正の一項に、外人判事の採用というのがあり、不評散々で、井上が大隈を後任に推した、という事です。大隈もやはり、外人判事の一項が仇になり、暴漢に爆弾襲撃されて重傷を負い、辞任します。
1889年憲法制定、そして第一回衆議院選挙。1896年松方内閣外相。1896年、第5回衆議院選挙で自由党は100名、進歩党(改進党の改名)は95名で民党の圧勝になり、第一次大隈内閣が成立します。議院内閣制の濫觴です。大隈は総理兼外務大臣、板垣は内務大臣副総理格、大隈の進歩党と板垣の自由党の連立政権、世に言う隈板(わいばん)内閣です。内閣成立前に、二党は解散し合同して憲政党を作っていました。連立政権はうまくゆかず、やがて内閣は倒れます。憲政党も分裂します。
1914年、第二次大隈内閣成立。山本権兵衛内閣がジ-メンス事件で倒れた後、元老井上馨の推挙でした。その時大隈は77歳でした。対中国21か条要求が行われたのはこの内閣の時でした。
大隈の二回にわたる組閣を見ていますと、主流派が危機に陥った時、救援に借り出され、利用されたような印象を受けます。
1916年侯爵、1922年(大正11年)死去、享年は85歳でした。
大隈重信と言う人は、楽天的で気宇壮大、いささか放言壁、ほら吹きの傾向のある人です。逆に将来を見通す力には鋭いものがあります。エネルギ-に満ちた人ですが、今こうして振り返れば、彼の最も活躍できたのは明治維新から14年の政変まで。31歳で外国事務局判事に任命されてから、44歳で筆頭参議の座を追われるまでの14年間でしょう。財政の専門家というのはなかなかいないものです。明治の財政は、少なくとも30年までは、由利公正、大隈重信、松方正義の3人がリレ-で切り回していたようなものです。そして優秀な財政家で政治家として成功した人もいません。松方正義も高橋是清も政治家としてはもう一つでした。
明治初期の10年間、財政が危機に瀕した時、どうするかといえば、答えは決まっているようです。手法は現在でも変わらないでしょう。債務は切り捨てます、増収(増税)を計ります、そして後はリストラです。明治政府が内債を処理し、地租を改正し、士族の録を事実上取り上げたのを見て、私はそう思います。大胆にして、あまり複雑に考えない方がいいのでしょう。

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