経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(17)、元禄時代

2014-09-05 13:57:37 | Weblog
(17)元禄時代
 好景気で華やかな元禄時代。町人が富み力をつけ文化が咲き誇る大きな転換期。室町戦国時代は経済の活発な時代、海外貿易も盛況、明国で銅貨が枯渇するほど日本の貨幣需要は大きい。16世紀日本国内で金銀が大量に産出。銀生産量は大きく、新大陸、日本そして他地域で生産量を三分。当時の決済通貨は銀、主要交易国はシナ、輸出品は金銀銅鉄、輸入品は高級生糸と陶磁器。余談。銀生産地新大陸は白人に征服され、原住民は虐殺されるか奴隷に。日本に武士階層がいなければ日本はどうなっていたか。
 幕府が正式通貨を作る、金銀銅の三貨体制。金1に対し銀が7から8、金一両に銅4貫(1貫は3.75kg)。大阪西国は銀通貨圏、江戸東国は金通貨圏。幕府は全国の主要鉱山を押さえ金銀銅の貨幣を大量に発行。幕府の通貨はシナの貨幣を駆逐。大判小判寛永通宝などの貨幣、和同開珎皇朝十二銭以後始めて日本で正式に作られた貨幣。銀は重量で換算。大体金一両(金含有量16gr)は銀50-60モンメ(1モンメは3.75gr)。正式通貨の発行、日本経済の自立。シナとの交易では銀と生糸の交換。日本では生糸絹織物生産技術が発達し、シナは日本銀の流通により経済を活性化。交易で共に栄える。
 大量の通貨発行、通貨流通量は増大。インフレ気味、作れば売れる経済。農民は金になる商品作物を栽培。木綿、菜種、煙草、酒米、藍、紅花、櫨、麻、桑、塩、砂糖。付加価値を付けやすく、米より高く売れる。商品作物の栽培、農村加工業の発展。幕府の大名窮乏化政策が加わる。参勤交代、武士の都市集住、需要増大。大名は経費捻出に苦労。武士層から農民町人層への富の移転。
商品作物の加工販売、庶民は豊かに。幕初には七公三民の年貢率、元禄期には三公七民。米の収穫は把握できる、商品作物の栽培加工は把握しにくい。農民は堂々と脱税。当時の日本海側では鰯や鰊が大量に取れた。鰯や鰊の大部分は肥料に、金肥。商品作物は肥料を食う。金肥で大量の作物栽培が可能に。藩内で一揆を起こされては統治能力なしで取り潰される。大名は農民に過酷な要求はできない。大名も農民の経済行動に同調、商品作物の栽培加工でえられる利益を吸い上げる。
 農民の階層分化。景気がよくなる、有力百姓に従属していた農民が自立。核家族単位で農業経営が可能に。新興自作農の出現。農村の繫栄は町人の富裕化と併行。加工製品は都市で消費され、農村の購買力も上がる。特権商人に代り、新興商人が台頭。富裕になった町人農民相手の商売。代表が三井財閥の家祖三井高利、1673年江戸で呉服店越後屋を開く、店頭販売、切売可能、現金決済、掛け値なし、庶民相手の商売。
 農民町人は富裕になり武士は相対的に貧困に。武士の俸給は米払い。米以外の商品を諸色という。庶民は諸色を作り売買、諸色の値が上がっても支障なし、俸給を米で規定される武士の生活はついてゆけない。経済の繁栄、富裕な生活とは、主食以外の商品である諸色の生産流通が増えること。農民町人は裕福に、武士は貧困化。
 元禄時代、徳川綱吉の治世は大きな転換期。幕府や諸藩は財政危機。幕府の金蔵は四代家綱の時空っぽ、五代綱吉の治世の実態は財政問題への対応。彼は財政を最重要課題と明言。財政専管の勝手方老中を置き、この職を老中筆頭、首相にあてる。勘定奉行の下に勘定吟味役4-5名を置く。彼らの役目は徴税の厳格化。代官は土地の有力者の請負で徴税は緩く代官が租税を着服。綱吉政権は代官の不正に厳しく対処、代官の直接任命を遂行。財政問題が重視され吟味役が置かれる、勘定方は低い地位の武士の昇進経路に。
 幕府財政問題改善のためのもう一つの手。金銀貨の中に含まれる金銀の実際量を減らし、金銀貨の数を増やす。勘定奉行荻原重秀の発案。幕府財政は改善、好景気インフレ。農村の発展。経済拡張は流通貨幣量の増大を要請、でないと商品は売れない作れない。荻原の政策は平凡な儒教道徳からみると一種の詐欺。次代の家宣の政治顧問新井白石は荻原を非難し、貨幣の金銀含有量を元にもどす。猛烈なデフレ、武士庶民は困窮。荻原と白石の貨幣をめぐる論争は、政治とは何かという問題に触れる論争。白石は貨幣の価値は含まれる貴金属の量で決まると、自然価値説の立場を主張。荻原は貨幣の価値は政府が決めるものと、法定価値説に立つ。荻原の説の方が斬新で革新的。荻原の説に従えば政府が積極的に財政や経済に関与できる。八代吉宗以後の幕府当局者はなんらかの意味で試行錯誤を繰り返しつつ経済に介入。荻生徂徠も荻原の考えを肯定。綱吉の治世以後財政危機に直面した武士は経済と真剣に取り組み始める。
 綱吉の時代はもう一つの転機。開幕以来100年後、経済を支える技術、灌漑開墾や商品作物の栽培技術が一つの頂点に。技術上の隘路との格闘は幕末まで続く。対処の一つが蘭学の解禁。八代吉宗は蘭学解禁に着手、特に医学農学等自然科学関係のオランダ語の書籍を解禁。成果の一つが青木昆陽によるサツマイモ栽培の提唱。ドイツのジャガイモ同様サツマイモは飢饉に際し多くの命を救う。生産技術の隘路克服という点では田沼意次がずばぬけて熱心だった。
 湯島聖堂の設置。綱吉は武士に学問を普及すべく努める。綱吉は僧形を強いられていた儒者に束髪を許す。儒者は武士と同質同等の身分に、儒学は武士一般に開放。徹底した文治政治。経済財政を重視する政策は武士を商人化させ武士の吟持を失わせかねない。それに歯止めをかけ武士が治者としての自覚を深めるために綱吉は学問を奨励。学問愛好の風潮は農民町人の間にも急速に広がる。伊藤仁斎、石田梅岩、山片バン桃、中江藤樹、本居宣長、二宮尊徳そして大阪の懐徳堂など。湯島聖堂は後松平定信の時昌平坂学問所として幕府官吏の養成機関となり、維新後は東京大学に。
 綱吉は社会福祉政策の開始者。捨て子の保護。牛馬の斃死を見るにしのびず動物も保護。生類憐れみの令、路上で喧嘩して食い合いする犬の野蛮な光景、特に捨て子を犬が食う光景を彼が嫌悪して定めた法令。家格で俸給を決めず、高位に就いた分の給料を足し上げる足高制は綱吉に始まり吉宗に受け継がれる。農地の質入を禁止して農民の耕作権を保護。勘定吟味役の職務の一つは、村の有力者から農民を護り自作農を育て税収を確保する事だった。国絵図を作り貞享暦を採用。綱吉は文治主義の名の下に幕府政治機構の中央有権化を推進。綱吉の時代は幕府政治の危機転換期。彼はこの危機を克服すべく幕府権力でもって直接財政経済や土地制度に介入し福祉政策を推し進める。
江戸時代初期商品作物の栽培加工が盛んになり富は武士層から庶民層に移転。庶民は裕福になり武士は相対的に貧困化。幕府は経済に直接介入。貨幣改鋳、耕作権の保護、教育の重視、福祉政策など政府の中央集権化、大きな政府へ。

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