経済(学)あれこれ

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  経済人列伝  佐吉と喜一郎(一部付加)

2020-01-04 16:40:07 | Weblog
経済人列伝  佐吉と喜一郎(一部付加)

 豊田佐吉は1867年、幕末維新変革の年に、静岡県吉津村(現在湖西市)で生まれました。父親は若干の農地を持つ農民であり大工でした。当時小中学校など制度としてはありません。父親の後をついで大工になります。そのはずでした。生来の傾向なのか、次第に新しい機械製作に興味を持つようになります。佐吉の故郷遠州(静岡県西部)は三河木綿の延長上にあり紡績織物業の盛んな土地でした。開国と同時に優れた製品が輸入されます。日本には関税自主権はありません。在来の企業は優秀な外国産品に押されて四苦八苦します。佐吉は紡織機械の製作を志します。1885年高橋是清などの努力で専売特許条例が制定されます。政府は新しい技術の開発を奨励します。佐吉の志望にとってこれは追い風です。そのために二度家出しています。父親の懇請で故郷に帰りますが、仕事の傍ら機械の発明に没頭します。佐吉が成功したからいいようなものの、失敗していたら単なる極道親不幸もいいところでしょう。父親の心配はよく解ります。
 24歳、木製力織機を製作します。初めての発明です。さらに改良・発明を重ねて東京に出て機械製作の工場を経営しつつ製作改良に取り組みます。経営と発明の二足のわらじを履きます。26歳結婚、翌年長男喜一郎誕生、しかし最初の妻には逃げられます。佐吉が発明に没頭して家を返り見なかったからです。30歳再婚。二度目の妻の浅子は賢婦人でした。佐吉の片腕になり、工場の庶務総務一切を切り盛りします。金銭に恬淡として経営の念に乏しい佐吉を助けます。30歳長女愛子誕生。佐吉の創業を助けた一族は妻の浅子、長男の喜一郎、愛子の夫利三郎、そして佐吉の弟の佐助です。
 ちょうどこの頃つまり明治30年代は、日清戦争に勝った勢いで日本は第一次産業革命に入り、紡績織布業は躍進します。1897年日本の綿生産額が初めて輸入額を超えます。この追い風に乗って豊田商店も発展しますが、その実際は発明と改良の試行錯誤でした。外国製品に比べた時、日本製品の安さが魅力でした。前者の力織機は800-400円、後者は100-80円です。小規模企業は当然後者を選びます。こういう中で豊田式力織機は少しづつ前進します。
 1899年、豊田式力織機の利点に目をつけた三井物産が、井桁商会を共同で作ります。それは豊田式織機会社に発展します。佐吉は技師長に就任します。飛躍のチャンスですが、彼は営利か発明かの間で悩みます。当時の日本の機械器具製作技術は欧米のそれに比べて貧弱なものでした。佐吉はアメリカ人技師を高給で招聘しますが、社長はいい顔をしません。やむなく給料の半分は佐吉自身の負担になります。また佐吉は会社とは別個に自費で試験場を作ります。あれこれする中経営不振の理由で技師長を辞任させられます。(1910年)取締役としては残っていました。この間1908年初めて鉄製力織機の製作に成功します。また1905年、英米の織布機械と日本のそれとが展示され比較されます。比較可能な水準まで向上したわけです。この時最良とされたのはイギリスのプラット式力織機でした。
 
1929年イギリスのプラット社は豊田から10万ポンドで力織機の特許譲渡に応じます。力織機では世界一だった同社を抜いたことになります。1930年死去、享年64歳、酒とたばこが唯一の趣味であったといわれています。彼豊田佐吉の生活信条は日蓮主義と報徳会でした。報徳会とは二宮尊徳の思想を中心として形成された協会です。尊徳は何かといえば道徳の模範のように固く捉えられがちですが、幕末にあって経済的合理主義を宣揚した人です。ちなみに尊徳も初めの妻にはすぐ逃げられています。理由は佐吉を同じ、仕事中毒です。佐吉の研究態度は独特です。問題の解決に行き詰まると、本や他人の知識に頼らず、じっくり自分の頭で考える事に徹しました。
 喜一郎は佐吉の長男として、1894年に生まれました。出生にはいささかの事情があります。喜一郎の実母たみは佐吉と結婚し、しばらくして家を出ています。一説では終日研究に没頭する佐吉に愛想をつかした、のだとも言われます。実母の事は喜一郎には一切知らされません。喜一郎3歳時、佐吉は浅子と結婚します。浅子は良妻賢母を絵に描いたような人物でした。経営の下手な発明狂佐吉が事業に成功する裏には妻浅子の献身的な努力があります。しかし喜一郎にとって慈母であったかどうかといえば、多分そうではないでしょう。賢い人ですが、勝気で多忙な毎日を送る浅子に、賢母である以上の関心を喜一郎に注ぐ余裕はなかったと思います。そのせいか喜一郎はおとなしい無口な少年でした。
 喜一郎は尋常小学校に通います。当時だれでもが行く平凡な教育コ-スです。特に成績が良いとはいえません。4年生の時、継母浅子の計らいで、名古屋師範付属高等小学校に転校します。父佐吉は喜一郎の教育にそう熱心でもなかったようです。喜一郎は中学校に進みます。佐吉は教育はこの程度でよかろうと、思っていたのですが、再び浅子の強い要請で、仙台の第二高等学校に進学し、そこから東京大学工学部機械学科に進みます。この過程でできた人脈は後年の喜一郎の事業にとって大きな資産になりました。
 浅子には佐吉との間に愛子という女児がいました。喜一郎にとっては唯一の兄弟であり、仲が良かったと伝えられています。愛子は児玉利三郎と結婚し、利三郎は豊田家の養子になります。児玉家については若干の説明が要るでしょう。佐吉の苦闘時代、資金と智恵の両面で、佐吉を応援した人物の一人が、三井物産名古屋支店長の児玉一造でした。利三郎は一造の長男です。利三郎は神戸高商を卒業して、伊藤忠商事のマニラ支配人になっていました。まだ地方企業でしかなかった豊田紡績などに転職する気はなかったのですが、愛子の美貌に一目ぼれして養子縁組を承諾したといわれています。佐吉なき後の豊田は喜一郎と義弟(といっても10歳以上年上ですが)の利三郎が協同で経営する事になります。喜一郎が技術担当、利三郎が経営担当です。もしこの利三郎という人物がいなければ、今日のトヨタはなかったでしょう。ともすれば技術向上一筋に走りがちな喜一郎を適当に押さえ、周囲の反対をなだめて、喜一郎の道楽と言われても仕方のない、自動車製造を後援したのはこの利三郎です。彼は喜一郎に遅れること数ヵ月後に死去しています。また児玉一造に養われて育ち、利三郎の義弟格の人物に石田退三がいます。この人物も喜一郎の事業との関係では無視できない人です。
 1921年27歳時、喜一郎は豊田紡績に入社します。父親佐吉の指示で現場に廻されます。大企業出身の技師連に苛められます。利三郎夫妻と共に欧米旅行します。この時喜一郎は、当時世界一の紡織機械製造会社であるイギリスのプラット社を訪問し、2ヶ月そこに滞在し、この会社の設備等の精細な観察を行い、膨大な資料を持ち帰ります。喜一郎は無口でおとなしい性格でしたが、後年になればなるほど父親佐吉の一徹で頑固な研究開発一本の傾向が顕著になってきます。ある幹部の手記には、二代続けて発明狂はいらないとぼやかれています。佐吉は喜一郎に紡織機製作を指示したことはありません。ある日喜一郎が密かに書いていた設計図を佐吉がふと見て、ウ-ンとうなり声を挙げました。感嘆したのです。喜一郎が機械製作者つまり発明家になってもいい、という佐吉の認可であったとも思われます。佐吉は発明などは才能のある人間にのみ出来る事であって、自分の子といえども才能の有無は解らないから、喜一郎をほっておいたのでしょう。
 1926年それまでのごたごたを解消して、豊田自動織機製作所が設立されます。社長は利三郎、副社長が喜一郎です。佐吉は第一線を退きました。この前後豊田自動織機の特許がプラット社へ10万ポンドで売られました。日本円で100万円、佐吉はこの金で自動車会社を作れと、喜一郎に言ったという話もあります。伝説かも知れません。喜一郎は密かに自動車製造の研究を続けていたようです。始めはスミスモ-タ-という自転車に小型のモ-タ-を取り付けたものを分解して観察していました。この間喜一郎の自動車製造への取り組みは進みます。段々公然化します。1933年研究室を作り、併行して豊田自動織機製作所に自動車部門を設立します。利三郎の内諾を得ていたので公然とはいえないものの、重役会議ではどの役員も賛成ではありませんでした。すでにその段階で数百万円に昇る研究開発資金が投下され、それはすべて自動織機の売り上げと紡績会社の利益で補填されていましたから、重役の反対は当然です。彼らは、御曹司の道楽にも困ったものだ、と思っていました。事実喜一郎の行動には充分その傾向があります。なお1933年、トヨタのライヴァルである日産自動車が鮎川義介により設立されています。当時としてはトヨタと日産では、日産の方がはるかに大きな存在でした。
 1935年第一号車が完成します。伝説があります。社長の利三郎が担当社員に「どうだい、うちの車は動くかい?」ときいたそうです。また喜一郎は展示会に「動かなくても並べろ」といいました。こんな具合ですから第一号車の性能は散々で、すぐ動かなくなる、車軸が折れるなどのトラブル続きです。新聞は「トヨタまた路上で座禅」などと書きたてます。このような不備は徹底したアフタ-ケア-でなんとか乗りこえました。よく乗り越えたなと思います。修理箇所は600箇所に上りました。不備なところはすぐ現場に赴いて、そこで徹底的に調べるのがトヨタの方針です。この間欧米から工作機械を仕入れ、人材を技術と販売の両面において、既成の会社から引き抜きます。トヨタにきたら給料が半分になったと言われるほど当時のトヨタの給料は低いものでしたから、よく人材が集まったと思いますよ。国産車を作るという夢ゆえに人が集まったのでしょうか、解らないところがあります。最初は赤字でした。出費を作業の合理化で補います。これが有名な、just in time あるいはカンバン方式と言われるものの淵源です。在庫を極力減らし、必要な物を必要なだけ現場に供給するのがこの方式のモット-です。
戦争の雲行きになるにつれ米国からの工作機械の輸入は不可能になります。国内産の部品がまだ劣悪であったので、部品を内製化しようと試みます。陸軍の指令も転々とします。陸軍からトラック増産を命じられて、乗用車製造を夢みる喜一郎は滅入ります。資源配分が少なく操業短縮という事態も出現します。本家の豊田紡績の方は自動車会社に合併されます。結果的にはこの事が、トヨタが戦後生き残れた一因になります。なお喜一郎が湯水のように自動車製造に資金を投入できたのは、紡績業の成功にあります。昭和恐慌を脱して以後日本の経済は発展しますが、この発展の資金は軽工業が負担しました。トヨタでも同じです。
 喜一郎は戦後数ヶ月して自動車製造を開始します。工作機械をなんとかし、航空機産業(GHQに禁止されました)から技術者を引き抜きます。しかしこれはと思う作品はできません。この間の資金は合併した紡績業の方が担います。戦後綿布は純綿といって貴重品でした。こちらの方は飛ぶように売れます。喜一郎の自動車製造への熱情はともかくとして、結局トヨタは大赤字になりました。復活再生のためには10億円の資本投下が必要でした。普通なら倒産です。しかし潰すには大きすぎました。潰せば関連会社300社も連鎖倒産で名古屋界隈に限らず、日本全体が恐慌になりかねません。ドッジラインという超緊縮財政の追い討ちが重なります。1600人の解雇が必要になります。大争議が持ち上がります。日銀名古屋支店長の高梨壮夫が各銀行の名古屋支店長を集め、融資団を作り資金融通を図ろうとします。しかし争議が収まらなければ融資は実行されません。非難の中喜一郎は辞職します。後任の社長が豊田自動織機を預かる石田退三です。喜一郎と利三郎の推挙ですが、背後には銀行団の強い圧力がありました。銀行団は喜一郎の技術優先に危惧感を抱き、販売部門出身で経営の実績もあり、すでに自分の部門での争議を解決していた石田の就任を歓迎していたのです。喜一郎は1952年3月持病の高血圧が悪化し脳溢血で死去します、享年57歳。利三郎もその後を追うように同年6月68歳で死去します。
 喜一郎のやり方を見ていますと、父親の佐吉にそっくりです。喜一郎の方が視野が広いのは事実ですが、自動織機と自動車の違いこそあれ、これと決めたら一本道、あらゆる手段を使い、本業で稼いだ資金を惜しげもなく投資し、ただ良い作品の出来上がりを期待して日夜努力する。喜一郎が念願したような自動車は彼の生前にはできませんでしたが、彼の遺志は石田退三や従弟の英二、子供の章一郎達に受け継がれ今日に至り、トヨタは世界一の自動車会社になりました。
 佐吉と喜一郎、トヨタという日本を代表するbig companyの創始者ということになりますが、私はこの二人がよくこんな大企業の基礎を築けたなと思います。二人とも発明狂です。販売に無関心であったとはいえませんが、あくまで技術開発優先です。三井との提携後も商社三井の販売優先との葛藤に佐吉は悩みます。佐吉は若い頃二度家出をし、結婚しては妻に逃げられています。残された子供が喜一郎です。佐吉と喜一郎をつなぐ存在が佐吉の後妻である浅子です。この浅子も尋常の人ではありません。佐吉の経営を請負、庶務万端をきりまわし、嫡男である異腹の喜一郎の教育に責任を持ちます。加えて美貌の持ち主です。浅子は佐吉の死後、経営から手を引き、佐吉の等身大の木像を作り、終生この木像と起居を共にしました。浅子にとって佐吉は神でした。
興味あるのが喜一郎と愛子の関係です。私には兄妹の関係を越えた何かを感じます。異腹だからでしょうか。後年喜一郎の後見者的立場にいた児玉利三郎は愛子の美貌を見て当時地方企業でしかなかったトヨタに就職することになります。愛子をはさんで喜一郎と利三郎は三角関係をなします。そこには嫉妬のようなものは見られません。愛子への愛を共有するがゆえに喜一郎と利三郎は共同できたと考えてもいいでしょう。二人の死がほぼ同時期というのもなにか因縁を感じさせます。
 トヨタは豊田家と児玉家の共同作品だとも言われています。現在でも二つの人脈があるそうです。三井物産名古屋支店長児玉一造が佐吉に資金を提供しました。一造の子供が利三郎、トヨタの事実上の経営者です。喜一郎引退後トヨタを引き継ぎ危機を乗り切り以後の発展の基礎を築いたのが、児玉家に養われていた石田退三です。採算を無視して自動車工業に邁進するトヨタの資金は豊田自動織機がまかなっていました。
 佐吉は喜一郎の教育に積極的な関心は示していません。教育は浅子まかせです。後継者の教育は経営の重要な一環ですから、ここでも浅子の貢献は大きいものです。佐吉は天才です。この種の才能は所詮は本人しだい、教えて解るものではないという態度でした。獅子は子供を千尋の谷底に突き落とす、といういわれがあります。そこから這い上がってきたものだけが、生き残れるとされます。佐吉が喜一郎に対してとった態度はこれに近いのです。そして佐吉は喜一郎の才能を認めていたようです。喜一郎の実母と佐吉の結婚は失敗でした。残された子である喜一郎の心境は、自分の誕生は失敗作品というようなものです。これを取り返すために喜一郎は父親のようになり父親を見返してやろうとしたのではないでしょうか?そこを仲介する縁が異母妹愛子の存在です。義母浅子は完全すぎます。愛子は喜一郎にとって実母の代理でもあったのでしょう。大赤字を覚悟で自動車生産に邁進する喜一郎を佐吉は阻止できません。子供は子供、親は親と割り切ることはできますが、結果として実母取り上げた佐吉は喜一郎の道楽に文句は言えないでしょう。自分も同じ事をしてきているんですから。

参考文献 トヨタを作った男、豊田喜一郎  ワック書店
 豊田佐吉---吉川弘文館、
日本産業史---日経文庫
 
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


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