経済(学)あれこれ

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文化としての天皇  補遺 公卿の家格

2021-01-15 14:54:17 | Weblog
 文化としての天皇  補遺 公卿の家格

(公卿の家格)
 律令制の官位制度は律令制の弛緩崩壊とともに形骸化し固定されます。平安中期摂関時代には出世昇進への登竜門は頭中将と頭の弁でした。前者は武官で蔵人頭と近衛中将を兼任します。後者は蔵人頭と左右大弁を兼任します。文官です。ともに位階は四位、このどちらかの職をこなせば参議、中納言からさらに上が望めます。藤原道長の時代になると摂関家の子弟はこの両職を飛び越えて一気に大臣さらに摂関に進めます。ですから頭中将と頭の弁は公卿貴族たるものの最低の基準になります。
 江戸時代の公卿はその出身により五つの家格に固定されました。頂点は五摂家です。近衛、鷹司、一条、二条、九条家の五つから成ります。彼らは大納言を経て、すぐ大臣、太政大臣そして摂政関白になります。次の家格が清華家で極官は可能性としては太政大臣になれます。次が大臣家で最終的には大臣になれます。その下が羽林家で近衛中将などの武官職を経て、大納言まで昇進できます。もう一つが名家で弁官職などの文官事務職を経て大納言まで進みます。大体の家格はそういうところですが、摂家、清華、大臣家の差はいつ大臣に成れるかの違いです。摂家の子弟は10歳代で大臣になれます。清華、大臣と家格が下がるにつけ大臣になる年齢が遅くなります。また途中で参議を経るか否かも家格に関係します。家格が低ければ参議を経なければなりません。つまり建前として実務をこなさなければなりません。もちろん摂政関白は摂家のみの独占です。羽林、名家は大納言どまりです。羽林・名家ともに実務官僚です。もちろん実務と言っても実際の政治に関与しないのですから形式的なものですが。このような家格意識は明治以後も生きていて、西園寺公望が近衛文麿に政治上で遠慮したのも、前者は清華家、後者は摂家出身であったからです。
 江戸時代の朝廷への給付は天皇家には3万石、朝廷全体では10万石くらいでした。五摂家の筆頭近衛家は3000石くらい、羽林・名家クラスとなると100石くらいの給付でした。岩倉具視などはこのクラスで、家計が苦しく、治外法権を利用して賭博場を家の中で行わせテラ銭を稼いでいました。
 公卿の収入は以上の通りですが、公卿には軍事奉仕の義務がないので、家臣の選択は比較的自由でした。京都の町人などを形式的に抱え使いました。町人の方でも公卿の家臣・使用人になることは名誉なので、ただで働いても割はあったと言われます。室町戦国時代に入って朝廷公卿が政治の実権を失うにつれて、公卿は京都の町人(町衆)との交流を深めます。公卿は教養があってそれを売り物にし、町人は金があって教養に憧れました。先に述べた後水尾天皇の寛永文化は朝廷公卿と町衆町人の共同により作られたといえます。伊藤仁斎は町人です。こうして朝廷公卿の文化は民間に浸透してゆきます。
 幕府がどうしても朝廷に頭が上がらなかった事は婚姻と礼儀作法です。将軍は臣下である大名家から正妻を娶る事はできません。家格が違う事と、政治に容喙されることを警戒したからです。従って将軍の正妻を出す家柄は京都の公卿になります。将軍の正妻は原則として摂関家の子女でした。内親王を将軍の正妻とすることは例外中の例外でした。唯一の例は第14代将軍家茂に孝明天皇の妹和宮内親王が降嫁した事のみです。江戸時代までの日本の歴史において皇女の降嫁はこれが唯一です。
 儀礼は政治にとって非常に重要です。荻生徂徠の章で述べたように刑政と礼容は相補的関係にあります。儀礼を欠いては政治の秩序が護れません。徳川将軍家は最初三河以来の独自の礼儀作法を採用してきました。それを主宰したのが譜代筆頭の酒井家でした。酒井忠清の失脚と併行して、幕府は旧大名の名門(吉良、今川、一色氏など)の子弟を京都に送り、朝廷の儀礼を学ばせました。彼らを高家と言います。実権がなくしかも地位が高い朝廷の存在は幕府の婚姻政策にとっても好都合でした。このように朝廷は実権を喪失してもいろいろなところで幕府と結びついていました。要するに幕府は朝廷の存在を必要としていたということです。
前記した酒井忠清は酒井家の当主でした。(ちなみに酒井家は三つに分流します)そもそも酒井家は三河時代譜代筆頭とはいうものも、松平氏(徳川氏)とほぼ同格でした。そしてこの酒井家が幕府の礼容を主宰します。もともと徳川家は在地土豪の連合体でした。ですから酒井家の礼容主宰は幕府にとっては潜在的に危険な事態ではあります。酒井忠清の親王将軍担ぎ出し事件云々は、この危険が顕在化した事態であったのかも知れません。5代綱吉が将軍になって朱子学を奨励し、殿中の礼儀作法に朝廷の様式を取り入れたのも、かかる事態の反映かも知れません。
 公卿は上記五つの家格に固定されましたが、摂家以外の公卿は分担して古典文化の伝統維持に務めます。のみならず公卿は各文化の家元的存在になり、町人に家芸を教え教授料を取りました。町人の側でも公卿の保有する文化への需要は大きかったのです。私は公卿の頂点である五摂家の価格は復活されるべきものと思います。

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