大原孫三郎
生家は600町歩(ヘクタ-ル)の大地主、若様としてなに不自由なく、同時に孤独感を抱きつつ育ち、放蕩と倹約、進歩と旧弊、強さと弱さを併存させ、自らいうように靴と下駄をはいた人生を送ります。多くの社会事業を起こし、一方父親から譲られた倉敷紡績を発展させ、周囲により大規模な関連事業を起こします。魅力はあるが、見方を変えればかなり危うい人ではあります。
孫三郎は1980年(明治13年)岡山県倉敷村(現倉敷市)に大地主の若様として生まれました。600町歩の田畑は当時で約6000石(一石は150kg)の収入を地主にもたらします。現在米価は一石30000円から40000円くらいです。大原家の年収は現在の貨幣価値に換算すれば2億円はくだらなかったことになります。実際の富裕感は当時では現在の比ではないでしょう。地元の人にとって大原家は殿様のようなものです。私も多くの経済人の生涯を読んできましたが、これほどの金持ちはいません。
大原家は祖父も父も養子でした。男系に恵まれません。孫三郎はそういう状況の中、父親が40歳台で生まれた一人息子です。孫三郎は父母によりかなり自由に、やや奔放に育てられます。強情で傲慢なところはあります。金持ちには金持ちの苦労があります。少しばかりの金持ちならまだしも、大原家くらいになると、周囲は大原家を雲上人扱いにします。金持ちに対する嫉妬と面従腹背は当然です。こういうネガティヴな面はえてして子供に向けられます。孫三郎は学校で友達ができなかったようです。少なくとも親友という存在は思春期までは経験していません。高等小学校をでて、入った閑谷コウでは苛められます。布団蒸しに会ったとか言われています。孫三郎は、教師に誉められる奴なんかろくなものがいない、とよく言いました。この気持ち私には解ります。この学校を退学した孫三郎は、上京し東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。放蕩を重ね、悪友にたかられ、高利貸の鴨になり、できた借金が15000円です。三井銀行の初任給が30円くらいでしたから、この金額の大きさを想像して下さい。借金対策に奔走する義兄は心労と疲労で頓死します。孫三郎は義兄と姉への深刻な 贖罪感をもって倉敷に帰ります。以後彼の人生は倉敷中心に展開されます。
こういう中、岡山孤児院院長の石井十次に出会います。石井は医師出身ですが、キリスト教に入信し、孤児の救済事業に邁進していました。孤児救済のためには、自分も家族の困窮も健康も省みない、利他主義に徹した、カリスマでした。石井の事業を支えたものは主として寄付であったようです。同時に、労働は神聖、として孤児達になんらかの労働をさせます。労働技能を高めるために教育もします。孫三郎は石井を知って、自己の事業の方針に目覚めます。石井の事業には多額の寄付をしました。石井につぎ込んだ金額は10万円を超えます。1906年(明治39年)27歳時、倉敷紡績の社長になります。倉敷紡績は地元の素封家が集まって作った会社で、孫三郎の父孝四郎が社長をしていました。明治17年の創設です。孫三郎は石井の影響を深く受けましたが、次第に距離をとるようになります。少なくとも石井のような救済道楽、自己破滅型の人生を送ろうとはしません。一方石井の人生に現されている社会事業や社会改革には深い理解を示します。大金持ちの経営者がなんのために事業をするのかという疑問を抱き、自己同一性の危機に悩まされていた孫三郎に、生きる意義を石井が与えたことは事実でしょう。孫三郎にとって石井は人生で始めて得た親友でした。孫三郎は、主張のない仕事はするな、主張のない生活は送るな、を座右の銘にして生きます。別に主張がなくても勤労はできます。日々の飲食に感謝しておれば、それはそれで自動的に他者の利益になるという一面を勤労という行為は持っているのですが、孫三郎にはもっと強い刺激が必要であったのでしょう。孫三郎はキリスト教に近づきます。聖書はあまり読書をしない彼の愛読書でした。
孫三郎は社会事業に邁進します。教育懇話会を立ち上げます。全国の名士をよんで来て講演会を催します。孫三郎は本を読みませんが、こういう知名人との付き合いが多く、彼らの話をよく聞いて耳に入れるので視野は広く教養も充分にありました。世間はこういう彼を、不学の大学者と呼びました。小作農の経営改善のために、農事試験場を作ります。これは大原農業研究所(現岡山大学資源生物科学研究所)になります。倉敷紡績の女工の労働環境の改善を目指します。大部屋に集住していた労働者に散居式の住宅を与えます。会社と労働者の間にあって中間搾取の温床になっていた飯場制度をやめます。これには多くの抵抗がありましたが、孫三郎は徹底します。女工の教育のために彼女達の指導役を作ります。
岡山県出身で児島虎次郎という画家がいました。優秀な画家です。彼がフランスに留学している時、日本の画学生のために欧州の絵画を買ってほしいと孫三郎に頼みます。児島の意図を了解した孫三郎は、エヲカッテヨシ、カネオクル、と電報をうちます。エル・グレコの「受胎告知」他多数の絵が買われました。これが現在の大原美術館の濫觴です。
第一次世界大戦で日本の景気が良くなった時、孫三郎は労働者の賃金を引き上げます。のみならず株式引受権を彼らに与え、また株式配当とは別に労働配当として賃金の10%を加算します。工場衛生研究費、職工組合基金、従業員退職手当賃金などの制度も設けます。労働者に手厚くするので、その分株式配当は低くなりました。
社会から貧乏をなくすための研究機関を作ります。直接のきっかけは米騒動です。大阪に大原社会問題研究所を作りました。はじめ川上肇を所長にと考えますが、断られ高野岩三郎を所長にします。森戸辰夫や大内兵衛などが関係し、マルクスやレーニンの書籍を集めて研究し、次第に左傾化し、当局ににらまれます。この研究所はのちに法政大学に寄贈され、同名の研究所として存続されます。
労働者の疲労測定、健康増進さらに労働能率改善を目的として倉敷労働科学研究所を設立します。これは現在労働科学研究所になっています。
1923年(大正12年)には倉敷中央病院を作りました。京大出身の医師を破格の高級で招きます。当時の医学水準のトップをゆく装備を備えました。この病院は現在でも日本のトップクラスに位置する高い水準の医療を誇り有名です。
孫三郎は社会問題に取り組む一方、会社経営はきちんと行います。のみならずその経営姿勢は極めて積極的です。日露戦争の反動不況時にライヴァルの吉備紡績を買い取ります。さらに工場を増設して、倉敷紡績を拡大します。自己資金で作った倉敷銀行を中心に他の地方銀行を合併せしめて、第一合同銀行を作ります。さらに山陽銀行と合併し中国銀行を作り、孫三郎が初代頭取におさまります。三備電力を作り、倉敷紡績に電力を供給していましたが、やがてそれを周囲の地方電力会社と合併させ、現在の中国電力の基礎を固めます。
人絹製造には特に意欲を示しました。京大に日本人のパテントがあったので、京大から技術陣を招き、京大と共同で人絹製造の開発に努めます。孫三郎は日本人自得の技術を尊重しました。会社は倉敷絹織、そして倉敷レイヨンと名が変わり、現在ではクラレになっています。
1929年(昭和4年)の恐慌では会社は窮地に陥ります。合理化はやむをえません。合理化反対のストに見舞われます。自治制にしていたのが、仇になり自治の指導者達が共産化して、美術館は、労働者の膏血を搾り取った搾取の見本とされます。ある女性活動家は、資本主義社会での階級的矛盾は個人ではどうしようもない鉄則でまわるもの、と言いました。孫三郎の善意はもうけ主義を隠すイチジクの葉だといいます。こういう人達が増えたら、会社は危ない。職場の規律は弛緩し、人間関係は荒廃します。一切の人間の善意は通じないとされるのですから。人間社会はある種の法則にしたがって動いてもいますが、反面人間の意志の総和でもあります。孫三郎は窮地に陥ります。彼を評価していた井上準之助蔵相のはからいで緊急融資を受けて、会社の破産を免れました。孫三郎は金解禁の支持者でした。
大原孫三郎は石井十次から多大な影響を受けました。石井は晩年、救済から生産へと軸を移して、生産的救済を敢行しようとしました。孫三郎は救済と生産の関係を逆転させて、生産から救済つまり社会福祉に向おうとします。しかし一方では冷徹な経営者としての算盤勘定ははずしません。そして経営の組織を拡大します。彼自身がいうように、靴と下駄をはきながら歩きます。それがたとえイチジクの葉であっても、救済という項目がなければ、孫三郎には事業そのものが耐えられなかったのかも知れません。会社の経営は極めて独裁的でした。1942年(昭和17年)死去、享年64歳。
孫三郎にはやはり一人息子である總一郎がいました。父親似の理想家肌で、やや超然としていますが、父親の眼鏡にかなうような経営者でした。彼の代で人口繊維の事業が躍進します。孫三郎にとってはかけがえのない傑作品です。
孫三郎に関しては鉄道路線にまつわる逸話があります。伯備線(岡山米子間)をどう敷くかで岡山県の大物政治家である犬養毅ともめます。孫三郎は伯備線が倉敷を通ることを頑強に主張し、実現させます。倉敷は岡山に対して対抗意識が非常に強烈です。江戸時代岡山は藩主池田家の城下町でした。そういう意識が岡山にはあります。対して倉敷は天領つまり幕府の直轄領でした。そういう誇りが倉敷にはあります。わざわざ岡山を見に行く人はあまりいないでしょうが、倉敷見物なら多くの人が出かけます。そういう観光地倉敷の焦点が大原美術館です。美術館を中心にして、倉敷の市街を整備したのが孫三郎です。彼は観光資源も開発しました。ちなみに倉敷中央病院と岡山大学病院も対抗意識は強いのです。
参考文献 わしの眼は十年先が見える 新潮文庫
生家は600町歩(ヘクタ-ル)の大地主、若様としてなに不自由なく、同時に孤独感を抱きつつ育ち、放蕩と倹約、進歩と旧弊、強さと弱さを併存させ、自らいうように靴と下駄をはいた人生を送ります。多くの社会事業を起こし、一方父親から譲られた倉敷紡績を発展させ、周囲により大規模な関連事業を起こします。魅力はあるが、見方を変えればかなり危うい人ではあります。
孫三郎は1980年(明治13年)岡山県倉敷村(現倉敷市)に大地主の若様として生まれました。600町歩の田畑は当時で約6000石(一石は150kg)の収入を地主にもたらします。現在米価は一石30000円から40000円くらいです。大原家の年収は現在の貨幣価値に換算すれば2億円はくだらなかったことになります。実際の富裕感は当時では現在の比ではないでしょう。地元の人にとって大原家は殿様のようなものです。私も多くの経済人の生涯を読んできましたが、これほどの金持ちはいません。
大原家は祖父も父も養子でした。男系に恵まれません。孫三郎はそういう状況の中、父親が40歳台で生まれた一人息子です。孫三郎は父母によりかなり自由に、やや奔放に育てられます。強情で傲慢なところはあります。金持ちには金持ちの苦労があります。少しばかりの金持ちならまだしも、大原家くらいになると、周囲は大原家を雲上人扱いにします。金持ちに対する嫉妬と面従腹背は当然です。こういうネガティヴな面はえてして子供に向けられます。孫三郎は学校で友達ができなかったようです。少なくとも親友という存在は思春期までは経験していません。高等小学校をでて、入った閑谷コウでは苛められます。布団蒸しに会ったとか言われています。孫三郎は、教師に誉められる奴なんかろくなものがいない、とよく言いました。この気持ち私には解ります。この学校を退学した孫三郎は、上京し東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。放蕩を重ね、悪友にたかられ、高利貸の鴨になり、できた借金が15000円です。三井銀行の初任給が30円くらいでしたから、この金額の大きさを想像して下さい。借金対策に奔走する義兄は心労と疲労で頓死します。孫三郎は義兄と姉への深刻な 贖罪感をもって倉敷に帰ります。以後彼の人生は倉敷中心に展開されます。
こういう中、岡山孤児院院長の石井十次に出会います。石井は医師出身ですが、キリスト教に入信し、孤児の救済事業に邁進していました。孤児救済のためには、自分も家族の困窮も健康も省みない、利他主義に徹した、カリスマでした。石井の事業を支えたものは主として寄付であったようです。同時に、労働は神聖、として孤児達になんらかの労働をさせます。労働技能を高めるために教育もします。孫三郎は石井を知って、自己の事業の方針に目覚めます。石井の事業には多額の寄付をしました。石井につぎ込んだ金額は10万円を超えます。1906年(明治39年)27歳時、倉敷紡績の社長になります。倉敷紡績は地元の素封家が集まって作った会社で、孫三郎の父孝四郎が社長をしていました。明治17年の創設です。孫三郎は石井の影響を深く受けましたが、次第に距離をとるようになります。少なくとも石井のような救済道楽、自己破滅型の人生を送ろうとはしません。一方石井の人生に現されている社会事業や社会改革には深い理解を示します。大金持ちの経営者がなんのために事業をするのかという疑問を抱き、自己同一性の危機に悩まされていた孫三郎に、生きる意義を石井が与えたことは事実でしょう。孫三郎にとって石井は人生で始めて得た親友でした。孫三郎は、主張のない仕事はするな、主張のない生活は送るな、を座右の銘にして生きます。別に主張がなくても勤労はできます。日々の飲食に感謝しておれば、それはそれで自動的に他者の利益になるという一面を勤労という行為は持っているのですが、孫三郎にはもっと強い刺激が必要であったのでしょう。孫三郎はキリスト教に近づきます。聖書はあまり読書をしない彼の愛読書でした。
孫三郎は社会事業に邁進します。教育懇話会を立ち上げます。全国の名士をよんで来て講演会を催します。孫三郎は本を読みませんが、こういう知名人との付き合いが多く、彼らの話をよく聞いて耳に入れるので視野は広く教養も充分にありました。世間はこういう彼を、不学の大学者と呼びました。小作農の経営改善のために、農事試験場を作ります。これは大原農業研究所(現岡山大学資源生物科学研究所)になります。倉敷紡績の女工の労働環境の改善を目指します。大部屋に集住していた労働者に散居式の住宅を与えます。会社と労働者の間にあって中間搾取の温床になっていた飯場制度をやめます。これには多くの抵抗がありましたが、孫三郎は徹底します。女工の教育のために彼女達の指導役を作ります。
岡山県出身で児島虎次郎という画家がいました。優秀な画家です。彼がフランスに留学している時、日本の画学生のために欧州の絵画を買ってほしいと孫三郎に頼みます。児島の意図を了解した孫三郎は、エヲカッテヨシ、カネオクル、と電報をうちます。エル・グレコの「受胎告知」他多数の絵が買われました。これが現在の大原美術館の濫觴です。
第一次世界大戦で日本の景気が良くなった時、孫三郎は労働者の賃金を引き上げます。のみならず株式引受権を彼らに与え、また株式配当とは別に労働配当として賃金の10%を加算します。工場衛生研究費、職工組合基金、従業員退職手当賃金などの制度も設けます。労働者に手厚くするので、その分株式配当は低くなりました。
社会から貧乏をなくすための研究機関を作ります。直接のきっかけは米騒動です。大阪に大原社会問題研究所を作りました。はじめ川上肇を所長にと考えますが、断られ高野岩三郎を所長にします。森戸辰夫や大内兵衛などが関係し、マルクスやレーニンの書籍を集めて研究し、次第に左傾化し、当局ににらまれます。この研究所はのちに法政大学に寄贈され、同名の研究所として存続されます。
労働者の疲労測定、健康増進さらに労働能率改善を目的として倉敷労働科学研究所を設立します。これは現在労働科学研究所になっています。
1923年(大正12年)には倉敷中央病院を作りました。京大出身の医師を破格の高級で招きます。当時の医学水準のトップをゆく装備を備えました。この病院は現在でも日本のトップクラスに位置する高い水準の医療を誇り有名です。
孫三郎は社会問題に取り組む一方、会社経営はきちんと行います。のみならずその経営姿勢は極めて積極的です。日露戦争の反動不況時にライヴァルの吉備紡績を買い取ります。さらに工場を増設して、倉敷紡績を拡大します。自己資金で作った倉敷銀行を中心に他の地方銀行を合併せしめて、第一合同銀行を作ります。さらに山陽銀行と合併し中国銀行を作り、孫三郎が初代頭取におさまります。三備電力を作り、倉敷紡績に電力を供給していましたが、やがてそれを周囲の地方電力会社と合併させ、現在の中国電力の基礎を固めます。
人絹製造には特に意欲を示しました。京大に日本人のパテントがあったので、京大から技術陣を招き、京大と共同で人絹製造の開発に努めます。孫三郎は日本人自得の技術を尊重しました。会社は倉敷絹織、そして倉敷レイヨンと名が変わり、現在ではクラレになっています。
1929年(昭和4年)の恐慌では会社は窮地に陥ります。合理化はやむをえません。合理化反対のストに見舞われます。自治制にしていたのが、仇になり自治の指導者達が共産化して、美術館は、労働者の膏血を搾り取った搾取の見本とされます。ある女性活動家は、資本主義社会での階級的矛盾は個人ではどうしようもない鉄則でまわるもの、と言いました。孫三郎の善意はもうけ主義を隠すイチジクの葉だといいます。こういう人達が増えたら、会社は危ない。職場の規律は弛緩し、人間関係は荒廃します。一切の人間の善意は通じないとされるのですから。人間社会はある種の法則にしたがって動いてもいますが、反面人間の意志の総和でもあります。孫三郎は窮地に陥ります。彼を評価していた井上準之助蔵相のはからいで緊急融資を受けて、会社の破産を免れました。孫三郎は金解禁の支持者でした。
大原孫三郎は石井十次から多大な影響を受けました。石井は晩年、救済から生産へと軸を移して、生産的救済を敢行しようとしました。孫三郎は救済と生産の関係を逆転させて、生産から救済つまり社会福祉に向おうとします。しかし一方では冷徹な経営者としての算盤勘定ははずしません。そして経営の組織を拡大します。彼自身がいうように、靴と下駄をはきながら歩きます。それがたとえイチジクの葉であっても、救済という項目がなければ、孫三郎には事業そのものが耐えられなかったのかも知れません。会社の経営は極めて独裁的でした。1942年(昭和17年)死去、享年64歳。
孫三郎にはやはり一人息子である總一郎がいました。父親似の理想家肌で、やや超然としていますが、父親の眼鏡にかなうような経営者でした。彼の代で人口繊維の事業が躍進します。孫三郎にとってはかけがえのない傑作品です。
孫三郎に関しては鉄道路線にまつわる逸話があります。伯備線(岡山米子間)をどう敷くかで岡山県の大物政治家である犬養毅ともめます。孫三郎は伯備線が倉敷を通ることを頑強に主張し、実現させます。倉敷は岡山に対して対抗意識が非常に強烈です。江戸時代岡山は藩主池田家の城下町でした。そういう意識が岡山にはあります。対して倉敷は天領つまり幕府の直轄領でした。そういう誇りが倉敷にはあります。わざわざ岡山を見に行く人はあまりいないでしょうが、倉敷見物なら多くの人が出かけます。そういう観光地倉敷の焦点が大原美術館です。美術館を中心にして、倉敷の市街を整備したのが孫三郎です。彼は観光資源も開発しました。ちなみに倉敷中央病院と岡山大学病院も対抗意識は強いのです。
参考文献 わしの眼は十年先が見える 新潮文庫