ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

上野千鶴子先生の東大入学式祝辞について昭和のフェミニストから一言(167)深田萌絵

2019年04月18日 | 自由と人権

上野千鶴子先生の東大入学式祝辞について昭和のフェミニストから一言 (167)

※出典
 上野千鶴子先生の東大入学式祝辞について昭和のフェミニストから一言 (167) - 深田萌絵 本人公式ノンポリ★ブログ https://is.gd/d8iSv2

東大入学式における上野千鶴子先生の祝辞が話題となっていますが、私は読んでいて気分が悪くなったので、昭和のフェミニストとして少しコメントを残そうと思います。

 
まず、この祝辞には、「短大が大学に劣っている」という前提がありませんか。
 
人それぞれ、自分の人生に必要だと思う進路があって、高校生なりに自分で考えて進路を選びます。
17歳の時、母は私に四大に行くことを望みましたが、私は自分の意思で「美術短大」を選びました。
 
短大を選んだ理由は、「早く働いて家を出たかったから」です。
そして、美術を選んだ理由は、友達に誘われたから、という単純なモノです。
 
親に勧められても四大を選ばなかったのは、「翼を折られた」からではなくて、「翼を伸ばしたかった」からです。それくらい、十代の女性は「自分の将来に対する思い」や「自分の意思」を持っています。
 
逆に言うと、周囲から少し「女の子なんだし四大行かなくていいんじゃない?」と言われて、「じゃあそうしようかな」と思うということは、「それくらいしか大学に対する価値を感じない」ということだと思います。
 
ティーンのうちから「私は女優になりたい」と決めて、親が強く反対しても事務所に入ったり、有名になりたくてセルフィ―を撮ってSNSに上げる女性もいます。それは、その職業がその人にとって価値があるからです。
 
繰り返しますが、短大は四大に劣っているわけではなくて、単に「二年で十分」だと考える人もいるというだけのことです。
 
皆で一生懸命に授業を受けて、作品を作り、充実した二年間を過ごしましたが、自分はそれを「大学より劣っている」とは思いません。思うことがあるとすれば、「美術短大」よりも「普通の短大」のほうが就職のことを考えたら良かったんだろうなということくらいです。
 
東大の教授が、東大に入った瞬間に東大生であることを自慢し、短大を蔑む意識を植え付けるのは、それは合コンでも「嫌味でモテない人」を生み出すと思います。
 
そもそも、
「東大生だと合コンでモテない」
という発想にも違和感があります。
 
私は、学生時代、合コンに行く時間がないくらい忙しかったので、何故、学業よりも遊びを優先するのか非常に疑問です。しかも、わざわざ祝辞で言及するほどのことなのか。
 
それは、おいておいても。
 
「学歴」と「性的魅力」は別物であり、「学歴に性的魅力を感じる人」と「顔や身体に性的魅力を感じる人」、「話し方やその人の性格に魅力を感じる人」と様々です。
 
そして、私の経験では、男性は「バカでか弱くて可愛い女性」が好きなタイプと、「頭が良くて強くて美しい女性」が好きなタイプ、「とにかく性的欲求を刺激する女性」が好きなタイプに分かれています。
 
自分に自信のない人は「バカでか弱くてかわいい女性」を選びますが、自分に自信がある人は「頭が良くて強く美しい女性」を選ぶ傾向にあったと感じています。
 
これはハッキリしているのですが、「頭がいいだけでモテる」と勘違いしている人は、男女ともに嫌われます。それは、「美人だから、ワガママが許される」と思ってる勘違いオンナと同じレベルです。
 
学校で良い成績を収めるには、「勉強の努力」が必要であり、
人から愛されるには「愛される努力」が別途必要です。
 
東大に入ったから、全てを手に入れられるという優越感こそが、「嫌われる原因」になっているかもしれないのに、愛される努力すら怠って「東大だから愛されない。フェミニズムに反する」というのは、その解釈自体に「ねじれ」があると思います。
 
「でも、男は頭がいいだけでモテますよね」
と、思うかもしれませんが、頭がいいだけで愛される努力を怠る男性は、一瞬モテても愛されません。
 
そもそも愛されるのは、「頭」ではなく最後は「心」です。
 
あと、「がんばっても報われない社会」について。
 
社会は単純に頑張れば報われるという簡単な場所ではありません。
社会に出ると、「褒められる」ということに慣れて、甘え切った自分をまず捨てないといけません。
 
私は社会に出て思うことは、良い大学を出て、良い成績を収めて卒業した男性ほど、「今日、会社でこんなことをしたんだ」と、上司でもなんでもない私に報告にきます。これは、親が褒めすぎて育てたために「褒められる癖」がその人に付いているから、褒められないと満足できない人間になっているからです。
 
私は褒められずに育った子供ですが、結婚してからは東大卒の前夫に「褒めて」育てられました。そして、離婚した後からは誰も褒めてくれない社会に出て「褒めロス」を味わいましたが、自分は「褒められる」というご褒美を常に求める中毒患者のようになっていました。(それでも褒めて育ててくれた夫に感謝です)
人生は「誰にも褒められなくてもやりたいこと」を見つける場所なので、「褒められない」、「報われない」のが正しいのだと私は解釈しています。
 
学校を一歩外に出ると男女共に厳しい社会が待っています。
多くの男性も挫折しています。
 
仮に女性が、「自分は能力があるのに、会社で重用されていない」と思うのであれば、自分で起業すればいいのです。「政治を男が牛耳っていて、それが気に入らない」と思うのであれば、その女性が立候補すればいいのです。
 
それだけの話で、起業も政治も女性を排除していません。
 
「女性役員の数を増やせ」
という運動で、女性の役員の数合わせをするのは発想が「合コン」そのものです。
男性が作った企業で出世できないなら、優秀な女性が起業して「女性が出世できる会社」を作れば済むのだと思います。
 
そもそも、女性は「弱い者」、「弱者」であるという前提を捨てるべきです。
昭和のフェミニズムは「女性は男性と同等かそれ以上に能力があって強い」という前提もありました。
 
ただ、本当に男女平等を求めるなら、強くも弱くもない人間が、自分の人生を歩むために日々努力するように呼び掛けるのがいいのではないでしょうか。
 
フェミニストであれば、「女性が女性を弱いと蔑む」癖を正すところから始めるべきだと思います。
 
あと、「東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。」とのことですが、それくらいのシステム、今どきは、どこの大学にもあります。
 
全文を読みましたが、東大生に東大生である優越感を植え付けつつ、「高学歴女子はモテない」という変な僻みと「女性は被害者だ」という意識も序でに植え付けるという凝った祝辞だなと、率直に感心しました。
 
※出典
 上野千鶴子先生の東大入学式祝辞について昭和のフェミニストから一言 (167) - 深田萌絵 本人公式ノンポリ★ブログ https://is.gd/d8iSv2
 
 
 

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