ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

国家指導者論

2008年04月09日 | 日記・紀行

国家指導者論

まだ断片的にしか読み始めてはいなけれども、ただ樋口陽一氏らの憲法学者の思想を読んでいて感じることは、一言で言うと樋口氏ら憲法学者や法律家の思想があまりにも悟性的であるということだろうか。

「悟性的」とはどういうことであるか。このことを考えるのに、それとは対概念でもある「理性的」という概念と比べてみればいいと思う。ここでは比喩的にしか言えないが、「理性的」であることとは、その思想を衣装にたとえれば、縫い目の見られない天衣無縫の天女の着ている着物であると言えようか。論理が必然的で円環的かつ体系的である。それに対して「悟性的」とは、つぎはぎだらけにその破れを繕った、三流役者の舞台衣装のようなものだと言うべきか。

要するに、悟性的な三文学者の思想には、有機体としての生命感や完全性を感じられないのである。たしかに、彼らの衣装の一部は派手で、思想の一部は真実を語っているにはちがいない。しかし、それは、どうしても部分的な真実にしか過ぎないものである。だからその主張はどこか偏頗で、いつかその弊害や副作用が現れてくるような印象を受けるものである。

樋口陽一氏たちの憲法学は、ヘーゲルの『法哲学』などを十分に解釈研究した上で構築された理論だろうか。現在のところは直感的ではあるが、とてもそうであるようには思えないのである。そして、そのことは樋口陽一氏らの憲法学流派の致命的な欠陥となっているようにも思える。また、そうであるなら、その結果として、彼らの憲法観が国家としての日本や日本社会や国民に及ぼすその文化的な悪影響の側面は、事実として少なくないように思われるのである。少なくとも、マルクスなどは、その試みが成功したか否かはとにかく、ヘーゲル哲学をアウフヘーベンしなければ近代以降の哲学や憲法は成立しないという意識を持っていた。

国民の税金で運営されている国立大学程度の教授であるならば、少なくともそれくらいの見識はもっていただきたいものである。プラトンはその『国家論』のなかで、国家の指導者たるものは「弁証法の能力を教養として体得しているべきである」と語っている。それと同じように、近代国家の指導者であろうとするものは、最小限でもヘーゲル哲学、とくにその「法哲学」くらいは、教養として身につけていなければならないだろう。大学や大学院がせめてその責任を果たすべきである。

今日の日本社会の低迷の根本的な原因には、この憲法学者の樋口陽一氏をはじめとする大学教授たちが、少なくとも日本国のエリートたるべき人材の育成について、国民に対して十分にその責任を果たしてゆく能力を持ち得ていないということがあるのではないだろうか。

プラトンではないけれども、国家に対して指導的な人材を育成するような大学においては、少なくともヘーゲル哲学を中心とする、『弁証法の能力』を確立させるということを自覚的な教育目標として追求してゆくべきである。政治家をはじめとして、現代の日本の国家的指導者の資質、能力はあまりにもお粗末である。

どれくらいに時間を要するかは分からないけれど、引き続き日本国憲法などの問題点については検討してゆきたいと考えている。

(短歌日誌)

夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて


夕暮れて  桜雲     薄墨に染まりゆきし    

                      棚引きて中空に流れ行く
 


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