丸顔おばさんのブログ

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ハンサムとヒョットコの流儀から見るあいつら

2020-08-19 07:31:54 | あいつら(裏側から見る社会のシステム)
ここのところ、権力闘争とか工作員だとかの話が続いたからね、今日はちょっとハンサムな人の話。

白洲次郎さん。吉田茂首相の右腕として活躍し、GHQにはっきりものを言えた唯一の日本人とかって認識されている。
NHKでドラマ化された。見た人もいるかな?


でもNHKがわざわざ取り上げたということは・・・・・

プロパガンダである可能性がある。というか、そうに違いないと、おばさんは思っているw

本当は悪いヤツだという情報もちらほら見られる。

そしてその出自が怪しい。ちょっと、日本人離れした、ハーフっぽい容貌。

「白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]。 」

ということになっているが、たぶんウソだな。

悪い人という人の意見を見てみると・・・
〈↑こちらから拝借〉
サンフランシスコ講和条約を元の英文から日本語に訳すときに、白洲次郎が英文のニュアンスを変えたとおっしゃっている。
元の英文は「あくまでアメリカの一つの州として自治権を認めるのであって、独立した一つの国としての権利を認めるわけではない」という内容だったとか。
ところがあとで吉田茂全権大使が読み上げた日本語の独立宣言文は、英文の微妙なニュアンスはカットされ完全な独立国家として認められた内容となっていた、ということだ。

赤、おばさん追記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。
外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした[15]という。
白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した
原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[16]。
しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[17]。
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うーん。確かに。。。なんか隠してるっぽい。

さらに、その数時間後、
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当条約(いわゆる旧日米安保条約(きゅうにちべいあんぽじょうやく)と呼ばれるものであり、1951年(昭和26年)9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。 )の署名のさい、主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名したという[1]。
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こちらのブログでは、
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そして同じ日、旧安保条約が町はずれの米軍施設内で、こっそりと調印されました。
日本とアメリカの開戦前、外務省アメリカ局長であった寺崎太郎氏はこう言っています。
「安保条約の調印は、華麗なオペラハウスではなく、米第六軍司令部の士官クラブだった。これはいかにも印象的ではないか。
下司官クラブで安保条約の調印式をあげたことは、吉田一行と日本国民に敗戦国としての身の程を知らせるにはうってつけの会場だと考えたら、思い過ごしだろうか
ところで安保条約に対する疑問は、これが平和条約のその日にわずか数時間後
吉田首相一人で調印
されていることである。
という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、言葉を変えて言えば手足の自由を半ば縛られた日本政府を相手に、したがって当然極めて秘密裡にすっかり取り決められているのである。いいかえれば決して独立国の条件ではない。」 
寺崎氏の言葉の米第六軍司令部とは、日本を占領した部隊の一つです。
寺崎太郎氏は、昭和天皇の御用掛、寺崎英成の兄です。

この協定は誰も知らないところで結ばれました
注目する日本人は誰もいなかったのです。
この寺崎という人は、アメリカ隷属の吉田茂と衝突し、辞任し日本のアメリカ隷属に
早くから警鐘を鳴らしていた人です。
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こんなふうにサンフランシスコ講和条約を日本語訳でごまかし発表した数時間後、
吉田茂は、米軍が日本に駐留するという内容の旧安保条約を一人こっそり署名してきたそうだ。
よっぽどおおっぴらにできなかったんだな。

こうやって日本が敗戦国として、植民地奴隷となる条約が結ばれた。

昔はあからさまに植民地支配していたけれど、このころは、もうバレないように支配する方針に変わっていたのだ。国民には独立国で自由ということにしておいて、少数民族やマイノリティを支配者にして、植民地支配させる間接統治のほうが反抗されなくてすむし楽だわ!と気づいたんだな、あいつら。少数民族やマイノリティの人たちは国内で差別されて恨みを持っていたり、愛国心がなかったりするから、優遇すると売国行為も喜んでしてくれる。こういう方針だ。

さらにその半年後、

「日米行政協定が結ばれたのは、1952年2月28日です。
この日米行政協定は、なぜか東京の外務省庁舎の中でひっそりと結ばれました。」

この日米行政協定というのは、例の日米地位協定の前身だ。
安保条約に付随しているものだ。
日米地位協定をどう運用するか、今もしょっちゅう例のホテルで官僚があいつらと秘密会議で協議している↓。

この件も日米地位協定が関わっている。在日米軍が日本国内で起こす犯罪なども。


そして、その後、この件は岸信介に引き継がれ、改正することになり、安保闘争に繋がっていくわけだ。

なぜ、このような売国奴的役割を吉田茂が果たすことになったのか。
吉田茂は 、、、
こちらのブログより引用。赤、リンク、画像、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。*******************************
すでに記述したように、吉田茂は公職追放リストに掲載されていた
1927年の東方会議に出席し、日本の対中国侵略に深く関与したことが問われた。

敗戦後、吉田茂は、GHQ参謀2部のウィロビー少将、ポール・ラッシュ中佐、そしてマッカーサー総司令官に取り入り、公職追放リストから外してもらったのだ。
〈おばつぶやき〉
そうだったのか。だいぶ公職追放組とやりあったそうだけど、おまえも本当はそうだったんだな。戦後の政治もまた、改憲をめぐる攻防から始まった
あいつらに取り入って公職追放を解いてもらう代わりに、あいつらのしもべになったんだ。
A級戦犯容疑を解かれ巣鴨プリズンから釈放される代わりに、あいつらのしもべになったヤツラと変わらないな。

(中略)
「“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

 そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

 吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。
〈おばさんつぶやき〉
奥の院。ユダヤ地下政府。サンヘドリン。か。
「ユダヤ地下組織、すなわちサンヘドリンは本当のユダヤ人たちのグループである。紀元70年、エルサレムが崩壊した時にサンヘドリンは地下に潜った。文字どうり彼らは地下を這うようにして世界中をさ迷い続けてきた。ある時はアフリカ、ある時は中東、またある時はヨーロッパにおいてその拠点を築いてきた。自分たちは選民である。そして自分たちこそが世界統治をしなければならないという自負心を持ち続けてきたと思われる。その怨念は非常に激しいものであった。しかし、イルミナティ・フリーメイソンとユダヤ地下政府は分裂せざるを得ない状況になると言われる。そのことは世界政府樹立後の後に起きると思われている。」    (情報元・株式会社 エノク出版2010年5月)


 吉 田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。
 大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。
 養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。
 吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出
〈おばつぶやき〉
マセソン商会はロスチャイルドの会社。長州ファイブが渡航するのを助けたのもマセソン商会。
長州ファイブとともにあいつらに魂を売ったのが、薩摩の大久保利通
https://ameblo.jp/ba5603/entry-12454324448.html 
「京都で1865年に利通(としみち)と名を改め、四侯会議も実現させるが、ここで慶喜とは敵対関係となり倒幕の意を固めることに。 」
このころ、あいつらに魂を売ったと思われる。

ちなみに慶喜といえば、鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡が有名だ。
慶喜も「最後、負けなさい!」と、あらかじめあいつらから言われていたそうだ。
既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えた。 」
「しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、公家の岩倉具視が王政復古の大号令を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変(蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では孝明天皇がいる御所に向かって砲撃をし、孝明天皇から朝敵の宣告を受けていた長州藩藩主・毛利敬親は、明治天皇により朝敵の認定を解除された。 」Wikipedia「戊辰戦争」より
あいつらとの話し合いで決まってたなら戊辰戦争しなくてよかったんじゃないか?と思うが、
戦いの結果、そう決まったのだ、ということにしないと国民が納得しない。
それから、武器の在庫処理をしたかったというのがあいつらの本音だ。
薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。」 Wikipedia「戊辰戦争」より
でたな!シンゾーのご先祖さま。
そういうわけで、薩摩藩(九州)と長州(山口県)とトーマスグラバーの関係が分かると、今の支配者たちの出身地とリンクしているな!と見えてくるのだ。

話を吉田茂に戻す。

 富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男の長女・雪子。
〈おばつぶやき〉
まとめると、
吉田茂の父は、マセソン商会(ロスチャイルドの会社)。
吉田茂自身は公職追放を解かれて、売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」に。
そして、妻はあいつらに魂を売った薩摩藩士、明治政府の重鎮、大久保利通の次男の娘。

 雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。
 このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。アリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。

 吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

 前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。
〈おばつぶやき〉
そういうことだ。吉田茂は麻生太郎氏のおじいちゃん。シンゾーのご先祖のトーマスグラバーも出てきた。古くから、ご先祖たちからしてこんな感じなんだ。
ちなみに麻生太郎氏とシンゾーは親戚関係だからな。


今も、シンゾーは自分の身に何かあったら、後継は麻生さんにやってもらいたいと、言ってるそうだ。これはそういうことなんだ。
「それは、安倍さんと麻生さん(太郎財務相)の会談です。入院の前々日15日、首相は渋谷区の私邸で麻生さんと1時間語らいました。そこで首相は“自分の身に何かあったとき、後は麻生さんにお任せしたい”と伝えたと言われています」 
「安倍さんは2007年に政権を投げ出した後、下野の責任を負うことになった麻生さんに今も恩義を感じている。だからせめて自分の残余期間を、麻生さんに担ってほしいと思っているんです」
古くから、運命をともにしてきた売国奴仲間なんだ。
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ところで、冒頭のハンサム、白洲次郎だけど、
吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた」Wikipedia「白洲次郎」より

吉田茂は、どうしても白洲次郎の英語力、能力、胆力が必要だったのだと思われる。
それは自分があまりにもあいつらのしもべすぎるから、あいつらへの追従と国民へのごまかしと、なんとかバランスをとるために彼の能力が必要だったんだろうとおばさん思っている。


〈またまたこちら↑から拝借〉
「ウォーバーグ家(ロスチャイルドと比肩する銀行家(ユダ金イルミナティ)の長男は、後年、アメリカを旅行中、インディオの女性に子ども(次郎)を生ませた。」
とある。

それを白洲家が養子にした。

でも私は、もっとなにか、あるような気がしている。吉田家と白洲家の関係?をもっと掘り下げるとなにか出てくるかもしれない。

1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合うWikipedia「白洲次郎」より

もっとなにか、あるような気がしている。

次郎は、おやじ(吉田茂のこと。そう呼んでたらしい)がたいへんな売国奴的立場であることを分かっていたはずだ。
分かってて、懇願されて、ほっとけなかった・・・。そんな感じがする。

戦時中の話↓
「古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。
外国への留学時代に日本と諸外国との国力差を痛感した白洲は、当初から戦争に反対の立場を貫いていた。」

「死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという」 Wikipedia「白洲次郎」より


白洲次郎。この世の闇を知っていたことは確かだ。

そして、売国奴だけど、なんか、葛藤みたいなものを感じさせる人物だ。

だから、なんだか嫌いになれない。
(注:ハンサムだからではない。わたしはあいつらに屈しない人にしか惚れない

悪い人と断定するのはカンタンだし、それを否定するつもりもない、実際国民からしたらそうだし。
こういう立場に生まれてしまった者の気持ち、わたし、少しわかるんだ。
自分もフランス人貴族に生まれて葛藤した人生を送ったことがあるから。


ところで、ご先祖たちがたぶん少々の罪悪感や葛藤を感じながら、あいつらのしもべをバランスとってやっていた様子と比べて、末裔のヒョットコ氏はどうだろう?

国民などは、だまくらかしてナンボだと思っているように、わたしには見えるのだが?真実を伝える必要など1%もない、というふうに。
この感覚は、つまり、あれだな?→あいつらの思考回路 - 丸顔おばさんのブログ。でも黄色人種は、結局はそのお仲間には入れないぞ。入りたくもないが。

代が進むにつれて、厚かましさがパワーアップしているように見える。

↑自殺者もでている。「シンゾーとヒョットコへ」にタイトル変えたほうがいいな?
この問題でも一蓮托生。運命をともにしている。先祖代々。


赤、おばさん追記************************
吉田茂と麻生財閥の仲を取り持ったのは白洲次郎である。
北康利の「白洲次郎 占領を背負った男」(講談社文庫)には次のように書かれている。

次郎は吉田の妻・雪子にも可愛がられたが、ある日彼女から折り入って頼みごとをされた。
「うちの和子にいいお相手はいないかしら? 次郎ちゃん、さがしてやってちょうだい」
というのである。
和子というのは、吉田が目の中に入れても痛くないほど愛していた三女のこと。吉田には健一(英文学者で評論家、小説家)という長男がいたが、吉田とは性格が正反対だったことから、吉田の愛情はもっぱら男勝りの和子に集まっていた。その相手を探すというのは並たいていのことではないはずだ。
にもかかわらず、次郎は割り箸を割ってくれと頼まれたような気軽さで、
「OK! マミー、任せておいてよ」
とふたつ返事で引き受けると、はりきって帰っていった。
そしてそれからいくらも経たないうちに、
〈欧州出張から帰る船の中でいい男を見つけたから、この男性と結婚するように〉
という命令口調の手紙を和子に送りつけてきた。
その〝いい男〟とは、九州で炭鉱を経営している麻生鉱業社長・麻生太賀吉のこと。たまたま船で一緒になり、サンフランシスコから横浜までの二週間ほどずっと一緒に賭け事をしていてすっかり意気投合したのだ。ギャンブルは上流階級の嗜みの一つ。〝賭け事〟とはいってもたいへんスマートなものだった。あれよあれよという間に話は進んでいき、和子はめでたく太賀吉と結婚することになった。次郎は吉田家にとって縁結びの神でもあったわけだ。
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というわけで、白洲次郎がいなければ、ヒョットコ氏もいなかったのだ。

だから、ヒョットコ氏は白洲次郎に憧れていると思われる。
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麻生太郎副総理のファッションが話題になってるけど、祖母に言わせれば白洲次郎に憧れているに過ぎないってことらしい。確かに写真で見る白洲次郎さんはダンディでかっこいい。晩年はちょっと肥えちゃったけど(^^; 

麻生太郎と白洲次郎は親しい関係で、白洲が大先輩。高級レスロランで麻生が友人と食事をしてたら、凄い美女を伴った白洲が入ってきて麻生を見て「この店も品の無い客を入れるようになったな」と一言。麻生が店を出ようとすると支配人が「支払いはもう白洲様」が。やはり格好の良い話なのでしょうね。 
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おい!ヒョットコ!ファッションや着こなしだけでなくな、
売国奴的流儀も白洲次郎さんのほうが一枚も二枚も上手だと思うぞ。
やっぱりおまえ、生まれながらのおぼっちゃんだから、ちょっとムリなんだろうな。
今度、おまえさんのお母様、和子さんのお話も書いてみようかな?


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