marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

『平和を望むなら平和に備えよ!』:平和の中の不都合な真実

2024-09-26 19:30:00 | 日記
 先日、NHKで、ウクライナで、父親が息子にドローンの作り方を教えている映像が放映された。無論、ウクライナ軍に提供する(つまり爆弾を積んで適地を攻撃するため)ものである。

父親はこう語る。ウクライナには、諺となった言葉がある。それは、

『平和を望むなら、戦争にそなえよ!』という言葉である、と。

だから、子供に最終、敵の人命を損傷させるかもしれない武器をつくるのを教えるのは、国家に貢献する行為である、というのである。

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さて、この国では、総理総裁選挙が行われる中。憲法改正の議論もいつも取り沙汰されるけれど、憲法9条の実体は、殆ど閣議決定で、なし崩しの内容となって進んでいる。

国際法などでは、国家は当然、相争うものであるという設定の上での文言が並んでいるのに、僕らは、それらを冒頭から否定する崇高な言葉で語られるこの国の憲法をどう解釈し、戦うべきなのか。

この日本は、もっと議論百出、欧米では、神の存在を想定してきた政治や哲学の上に、多くの犠牲を払いながら成り立って来た、その学びを低学年からする必要があるのではないだろうか。

政治のあり方に、現実を語る言葉を少なくとも国民には教育することを重視しないように見えるこの国は、改めて『人の生態(人間学)』について、教育の上でも親をはじめ、幼小のころから学ぶ必要があるように思う。

自分という人間を自分の言葉で考える。自己否定的な面も現れるが、それを超えて、どんな人も僕らは生きる意味があるのだと。

その学びを終え、つまるところ人と言う生き物は、戦争を行う程にも馬鹿なのである、という結論に行き着く、その根源。そして、その駆逐。

ところが、その学びの過程で、現存する人自身に向かうと、生まれつきであるという、人、民族、風習、因習などに、更に能力の有り無しなどの、評価に行き着き、またもや差別が起こり、人や民族的優位が語られるという不都合な真実に行き着くというわけである。

よって、僕らが生きている意味は、それらの真実を学んでも、個人が自分と戦う(自己肯定する言葉の獲得の為に戦う)言葉を人生から学ぼうとしないといけないということなのである。

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『この国は滅びない』という思いが僕にあるのは、『我、潔ければ、汝らも潔かれ』と宣う、現存する『神』の思いに、現存する肉の人間の不浄を、超えようする修験者、あるいは僧侶が、あるいは宗教家が祈りや、厳しい修行をして来たし、今もいるからなのであろうと、思うのだ。

つまり、人が生き物としてのDNAを引きづる不条理の超克。先に述べた、個々人の不条理、人間の不条理を彼らは、代表として超越しようと心がけているように思われる。

欧米に於いては、イエス・キリストが人類の代表として(肉になった神の子)それを担ったとされる。その精神は、実は古来からこの国にも伝えられていたのである。(そもそも、修験者がそうだろうと・・・)

自己を超えようとする、僕はそれをあえて崇高な精神と呼ぼうか。それは、人の言葉を超えた異次元の世界との繋がりである。

すべては過ぎ去り、新しくなって行く。・・・・


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