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大阪弁で何故ですか?という意味です。

国家の品格を読んで思うこと

2006-05-25 11:34:20 | 読書
藤原氏は30歳ごろに数年間アメリカの大学で数学の教鞭をとっていた。そのため、アメリカでは誰もが自分の意見をはっきり言って、議論で物事を決めるのが当たり前で、ぎろんに負けても勝っても根に持たないという点が、日本の情緒的な社会と比べて、爽快に思えたらしく、アメリカかぶれになったとのこと。その後、日本に帰って、アメリカ的な論理を通し自己主張すことだけでは上手くいかず、日本的な情緒や形というものの意義を見直すようになった。その後、40代前半でイギリスのケンブリッジ大学で過ごすことなり、イギリスでは論理などよりも、慣習や伝統、個人的には誠実さやユーモアのほうが重んじられることを経験した。その後、日本に帰り、アメリカ的な論理一本で通すやり方に批判的になると同時に、日本的な情緒即ち懐かしさとかもののあわれとか、武士道精神から来る来る行動基準である形を大きく思うようになった。バブル経済の崩壊後市場原理やアメリカ化による経済改革が進み、社会、文化、国民性までとどまるなく影響するようになり、昨今の金銭至上主義の品のないすさんだ世の中になってしまった。世界はすべてアメリカの論理と合理をベースにした世の中になってしまっている。日本はこのような世界の中にあって、孤高の日本を取り戻す、世界に範を垂れるようにならなければならないと、著者は提言しています。
藤原氏は若い頃にアメリカにかぶれ、その後、40代で英国での経験から米国に批判的になる。近現代の世界は欧米の合理主義にしてやられた。先進国は犯罪、家庭崩壊、教育崩壊が進み荒廃としている。西欧的な論理、近代的合理主義が破綻したに他ならないと結論付けている。昔の武士道精神の良さが世界を救うとの結論に至ります。自由、平等、民主主義を疑い、市場原理主義には否定的で、荒廃した世界を救うには、武士道精神しかないかのごとき独論を述べています。冒頭で、自分ひとりが正しくて、他のすべての人が間違っている。藤原氏の最も身近にいる奥さんは、夫の話の半分は誤りと勘違いし、残りの半分は誇張と大風呂敷とおっしゃっているそうだが、奥さんはよく見ているかもしれません。藤原氏の論理の中になんとも釈然と出来ない部分が散見され、論理の矛盾が感じられたのが、正直小生の読書感ででした。                               

欧米にしてやられた近代.                        
イギリスでルネッサンス、宗教革命、化学革命 産業革命が起こり、その後を引き継いだ米国に世界は侵略された。そのため、世界の子供が泣きながら英語の勉強をしていると。日本が世界を侵略していたら、今頃世界の子供は泣きながら日本語を勉強をしていることだろうと。                      
産業革命のお陰で世界は豊かになったことは否めない事実であると思うが、世界的観点からすれば、英語であろうがスペイン語であろうが、いずれにしろ必要に迫られて外国の言葉を学ぶことが必要であるし、世界の人がみんな英語ばかりを勉強しているわけではない。中国の首相もフランス人の首相もロシアのプーチンも英語の勉強などしていない筈だ。                         
                                     
欧米は野蛮だった                             
10世紀以前はヨーロッパは小さな土地を奪い合う無知と貧困と戦いに明け暮れていた。蛮族の集まりであった。高尚な文明など育っていなかった。       
日本は優れた文学が育っていた。                      
日本もアジアも世界中が争いに明け暮れていたし、ヨーロッパも第2次大戦が終わるまで争いが続いていた。世界中がやっとまとまりだしたのは、最近であると思う。日本が特に野蛮でなかったとは言えないのではなかろうか。何を言おうとしているのかも一つ理解できない。                       
                                     
数学のレベルも低かった                         
ヨーロッパの数学は中世ごろは中近東や中国より遅れていた。それでも近代になって初めてヨーロッパに論理や合理精神が生まれ、いち早く先進国になった。その結果、世界は欧米に支配されてきたが、ついに欧米支配のほころびが、終にやってきた。                                   と著者は喜んでおり、日本のチャンスが来たといわんばかりである。     
欧米の合理主義がどうも気に入らないのであろうか、何を言わんとしているのかも一つ分からない。                             確かに世界にはいろいろと問題があるのは分かるが、だから言って、日本の武士道が救えると飛躍するのはどうかと思う。                                                        徹底した実力主義も間違い                         もちろん年功序列だけでは問題でしょう。日本でも優秀な人は何階級特進や特別待遇があったが、基本は年功序列とか終身雇用のような実力主義にすべきででしょうと、著者は言ってるがこれも論理の矛盾がある。                                                    年功序列と実力主義は両立しません。終身雇用はあってもよいでしょう。事実実力主義が普通のアメリカでも終身同じ会社に勤めるケースは普通です。しかし、年を取って能力が下がると給料や地位は下ないと其れこそ不公平です。 

論理の限界                                論理を通しても、其れが本質を突いているかどうか分からない。その例として、米国の学校ではタイプを学ばせるために,英語の単語が書けなくなったり、読めなくなり、海軍の新兵が武器の取り扱い説明書も読めないと。           
                                     これも、論理の飛躍があり間違いがあるように思います。論理が本質を突いていないということを論じるのに、本質を突いた説明になっていない。自ら間違いをおかしている。タイプしか打てなく筆記が出来ない場合、確かにスペルの間違うかもしれない。しかし、読解する出来なくなることはないし、思考したり、自らの考えを文章にしてタイプすることが出来ると思う。本質である読み書きはできるのである。ただ、筆記に手間取るだけである。自筆でお礼の手紙をかけないのはさびしいが、文明の機器が社会的習慣を変えて行くのであるから致し方ない。
                                     小学生に英語
小学生に英語を教えることは、日本を滅ぼす確実の方法である。国際人になるためにはもっと中身の勉強をすべきであり、そのためには日本語をしっかり勉強して、中身を身につけることが大切である。その例として、ケンブリッジ大学である権威ある教授から、夏目漱石のこころの中の先生の自殺を三島由紀夫の自殺とはどう違うのかと質問されたと、英国人はこのような質問をして、ちゃんと答えなければ、その人の文化程度を疑い、相手にしてくれなくなると、したがって、英語を勉強するよりもしっかりと日本語の力をつけて、読書をして中身を増やさなければならならないと、
この考えには反論したくなる。知識を増やすことの重要性は、反対しないが、いくら中身がしっかりしていても、そのことを表現できる英語力がなければ、結果は同じではなかろうか。日本語が出来るかどうか、英語が出来るかどうかと知識が豊富かどうかは関係がない。当然日本語が出来る日本人でも英語が出来る英国人でも、知識のる人とない人はいる分けである。英語の出来ない70歳以上の人が海外へ行ってべらべらとしゃべらないから、この人は胸の底に深いものをもっていると思われる、とか、中身もないのに英語をぺらぺらしゃべる若者は、日本人は中身がないと思われ、日本人のイメージを傷つけるだけだから、内容なし英語べらべらは海外でしゃべるな、とも言っている。この言い分も変だと思いませんか。英語が出来ようが出来なかろうが知識が豊富な人もおり、貧弱な人もいるのです。
英語が出来ようが出来なかろうが、知識は増やしたほうがよい。英語の勉強をしたから知識がつかないというようなことは、単純に結論つけている。
英語は出来たほうがよいし、そのためには出来るだけ若い頃に英語になじむようにするのがよい。日本の英語教育は全く効果が上がらないことは歴然としている。英語教育の方法を改めること、出来るだけ若い頃に始めることが、短時間に効果が上がる方法であろうと思う。                         
大新聞のアンケートで小学校で英語を始めたほうがよいかと聞いたところ、大多数が賛成したとの結果が出ている。ちゃんとした教養をつけないと会話が弾まないと、著者は言う。日本語をいくら勉強しても教養がつくとは限りませんし、英語を勉強したからといって教養が身につかないこともありません。世界はますます狭くなり、世界と交流せざるを得なくなってます。アフリカの人たちも、フランス人も中国人もみんな互いに交流するためには英語が必要です。教養があろうとなかろうと、お腹がすいたら食事をするように、世界の人たちと付き合うには英語が必要になるのです。できれば中国語やスペイン語出来たほうがよいかもしれないが、せめて英語は出来たほうがよい。                                                             藤原氏の論理は全く理解できなくなってきました。そろそろ結論を言いましょう。
古来の日本人は品格があったかもしれないが、古来でなくても現代でも、日本人だけでもなく、彼が言わんとする品格のある人間は、時間や空間をこえて、どこにでもいます。西欧人が野卑であると決め付けてますが、日本人も両面もっています。従い、今の世界の荒廃は日本人だけが救えるというのは、独りよがりの考えであると思う。以上   
          

日本銀行の敗北(石井正幸著)

2006-04-10 12:59:20 | 読書
失われた10年の背信と表紙に印刷されているが、日本のエリートと自認している連中が10年どころか戦後今までの間、日銀という日本の経済を守る立場と役割を果たさずに高給を育んできたのではなかろうかと、日本国民を裏切る最大の背信行為を犯したのではなかろうかと、全く腹正しい気持ちになった次第である。

この本によると、日本経済の重大な局面における失政は下記の通りである。
1.70年代の前半の物不足、狂乱物価:ニクソンショックを契機として激動して  いた国債金融の中で、日銀および政府の為替政策の未熟さと決断力の不足で、  米国主導に依存し、過剰流動性を引き起こし、狂乱物価と物不足に陥り、金融  政策は全く機能しなくなった。
2.80年後半のバブル経済の発生、と拡散:景気の実態を見誤り、金融を引き締  めるべき時に、逆に公定歩合を引き下げて、バブル発生を許し、拡散させた。
  このときの判断も、米国からの圧力で欧米経済への配慮に傾注しすぎた。
3.バブル経済崩壊局面での問題の先送り:中央銀行の役割は金融機関が預かった  国民の金を謝った貸し手に貸していないか常に監視することが重要な役割であ  るが、金融機関の資産内容を厳格に審査せず、甘い検査基準で管理を怠り、抜  本的対策をせずに、問題を先送りした。大手金融機関の破綻を招き、金融破た  ん問題の解決を結局金融  再生機構、金融監督庁に負かさざるを得ないこと  になってしまった。
4.すでに破綻している日債銀、長銀、中小金融機関を闇特融で延命策をはかり、
  傷を広げて、財政負担を激増させた。その後も、信金、信組、拓銀、山一証   券と次々と、誤った判断で再生を目指したために、金融破綻を大きくし、対応  に手間取る結果となった。

以上のように日銀は本来なすべき役割を果たしていないために、金融混乱を引き起こし、平成不況を長引かせてしまったといっても過言ではないであろう。

新日銀法による金融政策の独立性とは、
政府の経済政策との整合性を保ちつつ、国会の同意を得て内閣が任命した3人の正副総裁と6名の審議員からなる9名の政策委員が一人一票の投票権を行使して、多数決で自主的に金融調整手段を決定することに、尽きる。