goo blog サービス終了のお知らせ 

makoto's daily handmades

日々暮らすだけの生き方
写真の二次使用は許可しませんので悪しからず

ハクモクレンほころび始める

2020-02-26 18:22:17 | 散歩
出先からの帰りに寄り道した公園のハクモクレン。
もう暗くなり始めていた上に曇りで逆光なので暗くて分かりにくいけれど。

ここのハクモクレンはいつも3月になってからほころび始めて、満開が3月7日か8日という木です。
今年は暖冬だからかちょっと早くて、早すぎるよう…。
今年の桜前線は、東京が3月15日とのことですが、ハクモクレンもこんなに早いのだからそうね、やっぱりソメイヨシノもそのくらい早くなっちゃうよね、と1人納得しました。

先日MIFさんが通勤でマスクをしている人が少し減ったと言っていました。
私も今日は電車に乗りましたが、7割がマスク着用でした。
今日は小雨で低温、風は弱めなのでスギ花粉対策というよりは新型コロナウイルス対策でしょうね。

金融機関や公共機関の窓口や係員は100%マスク着用でした。
私が勤務していた指定管理者制度の文化施設はマスク着用禁止だったのですが、それは指定管理者の方針でした。
もう事業所としては閉鎖なのですが、あもし閉鎖になっていなかったら、この事態でもマスク禁止だったのだろうな、と思います。
冬のインフルエンザが流行中でもスタッフはマスク禁止。
その状況から離れた今は、そう簡単にウイルス感染してたまるものか、と思っています。

そして今の感染予防対策が、各人で毎年してくれれば、流行性のインフルエンザにかかる方ももっと減るでしょうね。
そうなるとお医者さまやら、製薬会社が儲からないけれど。




今日の桜 20200219

2020-02-19 13:40:15 | 散歩
伊豆の河津町では河津桜が満開なのに、観光客が少ないとの報道をみました。
この時期は河津桜とつるし雛をセットにしたバス旅行が人気なのに、これもチャイナリスク&新型ウイルスリスクなのかと驚くばかりです。

今日、駅前に行ったついでに近くの河津桜を見てきました。
トップ写真はその河津桜。

枝によっては少し散っていました。




ここから少し二ケ領用水の上流に行きました。

上流にも2本の河津桜がありますが、トップ写真の木よりもかなり小さいです。






このすぐ近くに今井神社があるので行ってみました。

境内にはブランコなどの遊具があって、ちょっとした公園のようになっています。



逆光気味ですが、写真が撮れる位置に限りがあって諦めました。
ここの狛犬ちゃんは昨秋の台風19号で被災して、狛犬ちゃんも手水舎も鳥居も無残な姿になりました。
ここの狛犬ちゃんは、既に風化で台座の文字が肉眼では読めなくなっていました(間接法の拓本ならもう少し読めるとは思いました)。
今回、被災後初めて伺いましたがさらに台座の文字が風化(復旧時にはがれた?)したみたいです。

ここの狛犬ちゃんは、とても筋肉質な姿で、背中に筋肉の盛り上がった波打つようなボコボコした模様があります。
こう言う波打つ筋肉表現の狛犬ちゃんは、だいたい戦前のモノに多いです。
※現代も筋肉の表現はありますが、実際の犬の筋肉の付き方を研究した成果によるものです。時代を遡るほど想像上の筋肉の付き方を表現しているので犬の筋肉の付き方とは少し違っています。


境内の隅に寄せてあった切り株。
木肌からケヤキだと思います。
境内にはケヤキが何本かありますが、台風による倒木で、被災した様子が分かりました。
切り分けても処分できずに置いてあるのかな?
幹をみると、内部が腐食していたように思いました。
これから先、地元の小さな寺社仏閣の維持管理の担い手が減ってくるのに、境内の植物は育っていくし、倒木が増えるのでは?と感じてしまいました。

狛犬ちゃんの写真の背景にトラックが写っていますが、まだ復旧作業中で、たまたま昼休み中だったので写真を撮ることができました。

神社は鎮守の杜(ちんじゅのもり)と呼ばれる木々に囲まれていることが多く、今後の台風被害で倒木が増えることがないことを願うばかりです。

各地観光地のでは中国からの観光客が少ないことで深刻だとの報道もあります。
それを逆手に、京都では静かな観光地をPR材料にしているそうです。
でもそれは大観光地だからできることです。
河津町のような小さな町にも波及効果があれはいいのに、と思ってしまいます。





神奈川県川崎市・武蔵溝ノ口辺りをウロウロする

2020-02-17 16:58:36 | 散歩
ハローワークに行ったら、手続きに2時間半もかかり、しかもその前にトラブルもあってゲンナリしました。

ちょっと気晴らしにJR武蔵溝ノ口駅周辺をウロウロしました。
ちなみに、東急田園都市線は「溝の口駅」、住所表記は「溝口」で「みぞのくち」と言います。
周辺住民は「のくち」と呼びます。
田園都市線も「でんと」と呼びます。

さてまずは久本神社(ひさもとじんしゃ)に行きました。



手水舎の彫り物が素敵でした。
これは龍の彫り物だけを梁にはめ込んでいるように見えました。


狛犬ちゃんのすぐ下の台座だけ新しく見えました。
台座には明治29年の文字がありましたが、狛犬ちゃんのデザインは昭和後半に思えました。
当地は溝口の隣町で、溝口の石工と言えば、内藤雲慶のモノと思っていたのに、これは明らかに違うデザイン。
ちょっと首を傾げました。

この神社は4年前にハローワークを通っていた頃にも来たことがあります。
その時から変わりないように思います。

ここから末長杉山神社(すえながすぎやまじんじゃ)に向かいました。
もう20年ほど前に同僚だったSさんから杉山神社の不思議を教えてもらいました。
Sさんから「杉山神社はほぼ横浜と川崎のみにしか存在しないんだよ」と教えていただきました。
そこで私が「へー、南武三郡(なんぶさんぐん)ですか、やっぱり南武三郡は武蔵国の中では異質なんですね」と口走ったことで、Sさんから「南武三郡って何?」と逆に尋ねられたのです。

南武三郡は「武蔵国の南部にある橘樹郡(たちばなぐん)、都筑郡(つづきぐん)、久良岐郡(くらきぐん)の3つの郡」のことです。
埼玉県辺りにお住まいの方には忘れられがちな武蔵国です。
この南武三郡は、武蔵国の中心部からは外れていて常に相模国の国境争いの地です。
たぶん武蔵国の中心部からすれば、多摩川が防衛ラインで、国境地帯の南武三郡はいつでも切り離せる地域(緩衝地帯)だったと言えます。
だって映画「シン・ゴジラ」でも多摩川が防衛ラインでしたから。
結局、舌状台地ばかりの多摩丘陵は谷戸田ばかりでコメの収穫量が不安定だったから仕方がありません。

さて気軽に行くつもりが意外と高台にありました。
そうかここは舌状台地だったっけ。



参道を振り返るとかなり意外と遠くまで見えました。

写真中央のビル群は武蔵小杉方面。
意外と見えるモノだと感心しました。



ここの狛犬ちゃんは、内藤雲慶作。
そうよねぇ、この感じ。


逆光でハレーションだらけ。
ここの特色は赤い柵でぐるっと囲われていること。
これは戦後社殿が焼失していることに起因しています。
この辺りは案内板でもゴニョゴニョと明記していません。
そういえば元同僚のSさんに教えてもらったなぁ、(遠い目)。


戦没者の慰霊碑。

昭和48年の伊勢神宮参拝記念樹碑。
とても驚いたのは、昭和48年になっても伊勢神宮参拝で記念碑があること。
この地域の氏子さん達の信仰の厚さを感じました。

御神木と思われるカシノキ。
切り株からひこばえが伸びていました。

杉山神社はたぶん現存するよりももっと多かったはずです。
私の実家の近くの神社も、明治時代に村社として村内にあった3つの神社を合祀したのですが、その1つが杉山神社でした。
いまやその痕跡は、社殿の彫り物に残るだけでその記録もネット情報では出てきません。
合祀には合理的な役割がありましたが、遡れない歴史になっていくのだろうな、と思うことがあります。

さて、ここから隣にある明鏡寺(みょうきょうじ)に向かいました。



今日は障子の張り替え作業をしているようで、ちょっと恥ずかしくて遠くから眺めるだけにしました。

水子供養地蔵。

供養塔とは表記されていました。
見ていると江戸時代の元号が彫られていました。
こちらも水子供養なのかな?と思いました。

逆光でシルエットだけ(苦笑)。
これも個人の供養塔。
木造でスゴいな、という印象でした。

さて明鏡寺にもちょっと分からないことがあります。
私の実家は同じ市内にあります。
実家周辺の農家では、半分は地元のお寺さんにお墓がありますが、残りの半分はこの明鏡寺にお墓があると聞きます。
私の実家周辺からみて、明鏡寺は隣町、隣村という位置づけではなく、電車やバスで乗り継いで来るような場所です。
多摩丘陵の同じ尾根筋や谷戸筋でも無く、水系でもありません。
いくつかの舌状台地を越えて到着するような場所にどうしてお墓があるのだろうか?と思ってしまうのです。

以前、元同僚のSさんにこの話をしたことがあります。
Sさんのご実家のお墓が明鏡寺にあると聞いたからです。
でもSさんもその理由はご存じ無かったようです。

さて元同僚のSさんとはもうお会いすることもないでしょう。
でもSさんとの出会いはかけがえの無いものです。
私は日本史の近世とそれに関わる事柄しかあまり興味が持てなかったのですが、Sさんとの出会いで古代、神社の歴史、民俗学に興味を持てるようになりました。
興味の広がりによって、為政者によって歴史が改ざんされるということにも興味が向いたのです。
この点において大学の授業よりも、Sさんとの会話は楽しかったんだな、と思うのです。

さてここまで来たら、田園都市線梶が谷駅の方が近いかもしれません。
でも来た道を戻って、最後に公園に向かいました。

4年前にもこの風景を見上げました。
武蔵溝ノ口駅前の丸井です。

ここは久本薬医門公園。
この門は、岡家の門でした。
以前このすぐ近くに親戚が住んでいてこの門が目印でした。
親戚の方は「岡さんちの門前を左に入って…」等と説明していたりしました。
岡家は当地で代々お医者様の家系でいまはその後に門と蔵が残ります。


公園のロウバイ。

門はくぐれませんが、公園の敷地内から内側を望みました。





枝垂れ梅。とてもいい香りでした。
トップ写真もこの公園の梅です。

1時間くらい歩き回りましたが、ハローワークで足が冷えたのでしょう。
久しぶりに左足首が痺れて痛みが出てきました。

初めて訪れた末長杉山神社と明鏡寺はとても静かな住宅街と近くに畑もありました。
この住環境は、私が住む地域とは随分ちがうのだな、と今さらながら気がつきました。






今日の桜 20200131

2020-01-31 13:24:59 | 散歩
駅前にまで行ったついでに毎年見ている河津桜(かわづさくら)の様子を見てきました。

このブログでも何度も出てきている二ケ領用水(にかりょうようすい、多摩川水系)にはたくさんの桜があります。
この河津桜は私が知る限りでは1番大きな木です。
今年は暖冬なので、さぞかし満開かと思ったら、トップ写真のとおり。
一分咲きくらいだと思います。

ここはJR南武線の高架脇です。
二ケ領用水は場所によりますが、たくさんの桜の品種があり、また桃の花、梅等も植わっているので、春はとてもキレイな散歩道になります。
今日はここから桜探しをしました。

これは川崎市医師会館裏側の桜。
ここの桜は十月桜(じゅうがつざくら)だと思いますが、この時期に咲いてるものだったか?四季咲きのほかの品種か?とちょっと不安。

バイク置き場の子福桜(こぶくさくら)。

暖冬だからといって、桜の種類が増えたわけではないか…と当たり前のことを思いながら、近くても行ったことが無いお寺さんが近くにあるので行ってみました。

大乗院(だいじょういん)の参道と山門。
奥に本堂が見えます。
武蔵小杉周辺は、元々東海道だった中原街道(なかはらかいどう)があるので、小杉宿がありました。
そのせいか、お寺さんが多いように思います。
お寺さんを支える檀家さんの数も多いのでしょうね。
同じ市内でも私の実家辺りだとお寺さん同士はとても離れているからなぁ。
山門に掲げられていた額。
読み下しチャレンジしてみました。
(縦書きを横書きで表現することは大目にみてください)
「第九番
今井山大乗院
昔より
ちかひ変わぬ
今井てら
御法すゞしき
玉川の関」

少し読みづらいのは、以下のかなでしょうか。
か=可
し=志
き=起
の=能
この4つは現代かな文字では使いません。
とくに「の(能)」は、額の白文字が少しかすれているように見えます。
私は最初「に(尓)」かと思いましたが、「玉川に関」では意味が通じませんので、よく見て「の(能)」と気がつきました。
私は文学的センスはかなり怪しいのですが、意味を考えてみました。
「当寺は当地において清らかな仏の教えを守り、昔から一切衆生を救済する誓いは変わりません」
これは私の読み解きなので、大乗院に解釈を求めたモノではありません。
ちかい=誓願
御法=仏の教え
すゞしき=清らか
玉川の関=多摩川の清らかな流れを仏教の教えや誓いに、関は近くの丸子の渡し(多摩川の渡船、当地を代表する往来)にかけている
と、解釈しました。
こういう解釈は私にはとても難しいです。
さて、「第九番」とは何かの札所だったのかと思いネットで調べてみました。
准秩父三十四観音札所の第九番という意味だそうです。

境内にあった花です。
木の皮等をみると、桜のようですし、花も桜にみえましたが、品種がまったく思い当たりません。
梅なのかな?と観察しても分からず。
でもとても綺麗でしたので、鑑賞して帰路につきました。
とても静かな環境で、こんなステキなお寺さんが近くにあったことに驚きました。
今日もいい散歩になりました。



神奈川県松田町・寒田神社やニノキン先生像を見て回る

2020-01-19 19:38:40 | 散歩

前回の続きです。

南足柄市の大雄山駅から県道を歩いて小田急線新松田駅に向かいました。
今回も長文、写真多めなのでお暇な時にご覧ください。

大雄山駅。
この駅に到るまですでに5キロ歩いています。
新松田駅までも5キロくらいで行けるだろうと予想しました。
当地にはイマイチ土地勘がないことと、途中の開成町(かいせいまち)の碁盤の目のような道(見分けがつかない)がとても不安です。
でも県道をどこかで曲がれば、酒匂川(さかわがわ)の十文字橋に行けばいいはず。
そこからなら新松田駅までは分かるので、十文字橋を目指しました。
 
途中、とうとう足が痛くなりはじめまして、写真を撮りませんでした。
目印になるのは、松田山ハーブガーデンの白い円筒形の建物です。
それさえ見えれば、新松田駅方面になります。

あ、まちがえた!
新十文字橋でした。
新十文字橋の表示の少し下、山の中腹にある白い建物が松田山ハーブガーデンの建物。
方向は合っていたのだけれど…。

下流側をみると、本来渡りたかった十文字橋が見えます。
ここから戻るのも面倒なので、新十文字橋を渡りました。
 
途中立ち寄りたかった寒田神社に行きました。
この神社は新十文字橋と十文字橋の間にあります。









ここの狛犬ちゃんは、一対の中に親犬2匹、子犬5匹でしかも台座が岩を寄せ集めたモノ。
しかも子犬の狛犬ちゃんが親犬との一体型ではなく、独立型。
これはとても珍しくて、なかなか見かけることができません。

どこへ行っても、忠魂碑。
「希典書」の記名があるので、乃木希典さんの揮毫。
乃木希典さん、いったいいくつの忠魂碑の揮毫をしているのでしょうか。
ご自身も長男、次男のお二人を亡くされ乃木家の後継がいなくなり、日露戦争で失ったモノの大きさを感じます。
なおこの忠魂碑は、関東大震災で倒壊したモノを再建したそうです(石碑裏に書かれていました)。

これは日清戦争の戦没者碑。
日清戦争関連では大きい石碑です。

歯の供養碑。
足柄歯科医師会によるもの。
全国でも珍しい供養碑との説明書きがありました。



かながわ名木100選の「寒田神社のカシ」。
イチイガシだそうで、県内では珍しい木だそうです。

足柄平野あたりも関東大震災では、大変な被害があったので、鳥居、灯籠、狛犬、水舎、石碑は倒壊したんだな、と思いを馳せました。
この看板は神奈川県神社庁が作成していますが、私は初めてこの看板を見ました。
神社によって掲示していないのかな?

寒田神社を出てすぐのところにあった石碑。
「割烹翠松園巌根跡」と書いてありますが、説明板がなく、帰宅してからネットで調べても何のことか分かりませんでした。
ここから本来通りたかった十文字橋に行きました。


酒匂川にかかる十文字橋は、平成19年の台風で橋が落ちてしまいました。
看板の隣に古い橋脚が残されていました。
酒匂川は暴れ川でして、二宮尊徳先生(二宮金次郎の成人後の名前、ニノキン先生)はこの川の氾濫によって一家離散の憂き目に遭い、そこから家計の立て直し、報徳思想に繋がりました。

十文字橋のたもとから箱根外輪山をのぞみました。
今日はあの山の中腹にある大雄山最乗寺から約9キロ歩いてきました。
足の痛みもあり、待ち合わせ時間まで少し早かったので、ここに座って小田急線(写真にはありませんが、写真の左側に鉄橋があります)を眺めていました。
 
小田急線は通常の普通車両もあれば、特急電車のロマンスカーが何種類も通過するので見ているだけでも楽しいです。
しばらく休んでから、二宮金次郎像を探しに行きました。

松田町立松田小学校の二宮金次郎像。
日曜と言えども今どき小学校に入ったら、不審者です。
でも金網越しに撮影すると、盗撮みたいでこれもなぁ…と自問自答したくなります。

「堅牢地神」と書かれた石碑は初めて見ました。

近くの祠。

祠の脇にも石碑がたくさん。
これはお墓では?と思うのですが、よく分かりません。

JR御殿場線の線路です。
1時間1本くらいの路線なので、電車は見かけませんでした。

逆光で分かりづらいのですが、JR御殿場線松田駅。
小田急線新松田駅は歩いて5分くらいの場所にあります。
小田急線のロマンスカーのうち、JR御殿場線に乗り入れている車両は、この駅に停車します。
なお、御殿場線はJR東日本ではなく、JR東海。
駅構内のパンフレットは、JR東海関係でした。
神奈川県内でJR東海のパンフレットが置いてあるのは、新横浜駅(新幹線)、小田原駅(新幹線)、在来線では御殿場線だけなので、ちょっと珍しい光景です。





JR

松田駅は明治22年開業で、昭和初期に丹那トンネル開通までは、東海道線は現在の御殿場線ルートを使っていました。
まだ小田急線は開通していませんでしたから、ニノキン先生の生まれ故郷、小田原市栢山(かやま)の最寄り駅はこの松田駅でした。
 
「栢山道」の石碑は、真珠養殖の御木本幸吉さんが松田駅の敷地に私費で作ったモノ。
御木本幸吉さんが「海の二宮尊徳になる」との目標にしていた方だったからです。
この辺りは、2016年9月に私が尊徳記念館辺りをウロウロした記事に書いたので割愛します。
 
それと先ほど書いた松田山ハーブガーデンは、1ヶ月も経てば河津桜がとてもキレイに咲きます。
二宮金次郎像の近くにも河津桜がありまして、花芽がずいぶん膨らんで来ていました。
 
さて新松田駅に向かおうか、と思っていたら、MIFさんから電話がありました。
松田駅前にいることを伝えたら、車で迎えに来てくれました。
私の足もだいぶ限界だったので助かりました。
 
今日は全行程10キロほど歩きましたから、帰りの車中では爆睡でした。
MIFさんから「歩いたの?よく歩いたねぇ」と少々呆れられましたが、今回もサポートしてもらってありがとうございました。
とても楽しい散歩になりました。

神奈川県南足柄市・天狗と金太郎ちゃんの町をウロウロする

2020-01-19 18:32:57 | 散歩

MIFさんが用事を済ませている間に神奈川県西部のまち、南足柄市(みなみあしがらし)をうろいてきました。

今回も長文&写真多めですから、お暇なときにご覧ください。

ここは昔から大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ)、通称道了尊(どうりょうそん)、道了さまと呼ばれるお寺さんが有名です。
あとはマサカリ担いだ金太郎の生まれ故郷。
昭和には富士フイルムの工場及びバレーボールチームの練習場があって川合俊一さんブームの際には追っかけがこぞって大雄山線(ローカル線)に乗ってやって来たそうです。
また車でしか行けないような山の上にあるアサヒビール工場見学が人気で、でも個人で行くと飲酒運転になるからバスツアーが人気らしいです。
私はスポーツは苦手、思いっきり下戸なので、後者2つは興味が湧かず、道了さまに行って来ました。
 
私は6歳と18歳の時に行ったことがあるとは言え、スッカリ忘れているお寺さんでした。
MIFさんに「大雄山駅から道了さまって、歩いて行けるらしいけど、行ったことある?」と訪ねました。
MIFさん曰く、そもそも大雄山線に乗ったことも無ければ、地元のヤツはバスなんて乗らねーよ、だそうです。
そういえば県西部は車社会でしたね。
私が今住む地域は、県内でも自家用車保有台数が1世帯あたり1台以下。
県西部は1世帯あたり2台以上の地域です。
 
行きはMIFさんに道了さまの駐車場まで送ってもらいました。
東名高速道路大井松田ICから県道を通って道なりほぼ1本道で行けます。
こんなに分かりやすかったんだ…と少し驚きました。
当初は新松田駅からバス2本乗り継ぐか、小田原駅線と大雄山線に乗り換えて大雄山駅から歩くか、など様々なルートを考慮していたのですが案外近かったです。
そして道了さまと言えば、天狗です。



天狗とカラス天狗の像をみて思い出しました。
私が生まれて初めて出会った天狗はここだったな、と。
天狗のお面は見たことがありましたが、カラス天狗は初めて出会い、何しろ不気味で怖かったです。
記憶の中ではいろいろな場所に像があったように思いましたが、今回はこの2体のみを発見しました。
 

子どもの頃に来たときは、この下駄の上に乗って記念写真を撮ったのですが、今はダメなんですね。
しか2本歯の下駄が多く奉納されていましたが、子どもの頃は1本歯の下駄が多くてバランスが難しかったのを覚えています。
しかも錆びた下駄が多かったのに、今は錆びたモノがほぼありません。
ステンレス製でピカピカしているモノが多いです。
もう40年ほど前の記憶とはいえ、天狗の下駄を履くのが面白かったんだよな、と思い出しました。
 


参道にはたくさんの記念碑がある中で、神鳶之碑が目にとまりました。
道了さまは昔から職人さん達から信仰を集めているのは知っていましたが、鳶職の方の慰霊碑があるとは知りませんでした。
東京タワー建設は鳶職人さん達が労災で亡くなることが亡かった金字塔でもあると聞いたことがあります。
鳶職人さん達にとっては、無事に工場に携わることが大切ですが、このような慰霊碑があることを今日まで私は知りませんでした。
 



開山から620年ほど経過していますので、見るモノたくさんでした。
前日の雨のせいで、参道と階段の一部が凍結していたので、ほんの少しですが歩行に難がある私は恐る恐る歩くところがありました。
地形的には、箱根外輪山の東外斜面です。
朝日が早くから射すはずですが、スギ林に遮られてなかなかの寒さでした。



さて帰りはバスで大雄山駅に向かう予定でしたが、「てんぐのこみち」という遊歩道を歩いてみました。


車道の脇の杉並木を歩くのですが、この舗装の多くは、アスファルトではなく、舗装なのだけれどふかふかした感触でした。
足に負担が少なくてとても歩きやすかったです。
箱根の旧東海道の杉並木も歩いたことがありますが、コケで滑りやすかったり、未舗装で地面がぬかるんでいたり、歩きにくい印象でした。
ここは、杉並木を楽しみながら歩きやすかったのがとても良かったです。
 
そして歩きながら思ったのは、今の私は多少の段差や長距離を歩くことは出来ます。
でも車椅子や歩行や腕に障害があると、このお寺さんに参拝が出来ないんだな、と。
寺社仏閣を参拝したくても、限界がくる日はいつか来ることをよくよく心に留めて置こうとおもいました。
 






下りのてんぐのこみちが終わると、仁王門がありました。





この門の辺りから、足柄平野の扇頂部(扇状地の一番高い部分)がよく見えました。

ちょっと分かりにくいのですが、奥の山の麓に白いラインがあり、それが東名高速道路です。
今日はその近くまで歩いて行きます。
 

清左衛門地獄湧水の案内板。
こんな看板を見つけたら行くしかありません。

みかん畑が点在する丘から足柄平野を望みました。

清左衛門地獄池の真ん中に狩野厳島神社がありました。
神社の存在は知らずに来ました。

右から左に文字が書かれていますが便宜的に左から右に書き直します。
「福寿弁財天
狩埜厳島神社」
と書かれています。
埜は野の異体字で、この地名が狩野なので推察できます。
島の文字が読みにくいですが、巌は比較的読みやすいことと、湧水なので水に関することで厳島神社と推察できます。
日本各地に厳島神社があり、海、海運、水、水運に関連すると覚えると比較的読めます(学生時代の先生の受け売りです)。
 



湧水ですから、水がキレイです。
でも魚釣り禁止の看板があったので、魚がいることを知りました。

ここは南足柄エリアのジオサイトの1つだそうです。
この湧水は、箱根外輪山の明神ヶ岳の降水によるものだそうです。

水量が多いため、元々は農業用水でしたが現在は富士フイルム足柄工場の工業用水に使われているそうです。
ああそうか、南足柄市は富士フイルムの企業城下町だったな、と思い出しました。
高校時代の同級生が南足柄市に住んでいましたが「小中学校のクラスの半分は、親が富士フイルム関連に勤めている、残りは小田原市か開成町で働いている」って言っていました。
彼女の親は小田原のかまぼこ屋さん勤務でした。
 

足下を見ると、金太郎ちゃんのマンホール蓋。

天狗煎餅を買おうと思ったら定休日でした。
じつは昨年11月に小田原城総構を散歩した帰りに小田原駅で買って帰りました。
美味しかったのでまた買おうかと思ったのですが、また今度の機会に買うことにします。

大雄山駅に到着。
道了さまから寄り道、凍結路に用心しながらの歩き方、道に迷いながら歩いたので、1時間半以上かかりました。

大雄山駅構内の木造金太郎ちゃん。
熊がのっぺらぼうです。

金太郎ちゃんの銅像。
大雄山駅の隣、関本バス停(大雄山駅前のバスターミナル)の端にあります。
 

これは箱根ジオパーク南足柄エリアの案内板。
箱根ジオパークはエリアがいくつかに分かれていて、エリアごとにパンフレットもあります。
大雄山駅のチラシコーナーにも置かれています。
 
当初はここからバスに乗って小田急線新松田駅に行こうと思っていました。
思ったよりも元気だったのと、MIFさんとの待ち合わせ時間まで余裕があったので、歩いて向かうことにしました。
ここまでてだいたい5キロ歩いていました。
新松田駅までも約5キロです。
新松田駅までの行程は次回ご紹介します。
 
 


 



 
 

おしゃもじさまを見てくる

2020-01-02 16:26:38 | 散歩
お参りに行ったついでに「おしゃもじさま」を見てきました。
本当は良くないとは聞きますが、初詣は何か所かハシゴしました。
そのうちの1つ、中丸子神明神社のご神木は「おしゃもじさま」と呼ばれています。
ただし、道路拡張で境内の池が涸れたことで、ご神木も昭和40年代初めに枯れたそうです。
トップ写真は、おしゃもじさまの石碑。
「お志やもじ」と表記されていて、「志」は現代かなの「し」に当たります。
詳しくは「川崎の民間信仰」(2004年、川崎市市民ミュージアム/編)に記載があります。
川崎市立図書館なら読むことができますが、市民ミュージアムは台風被害で臨時休館が続いていますから、現地に行っても読むことはできないと思います。
私が知るおしゃもじさまは、主婦業の引き継ぎを大晦日に行う行事と認識していました。
しかし、ここのおしゃもじさまは、ご神木の名称です。
子どもの病気平癒、縁遠き女人の結願等に霊験明らかなり、とのことです。
昭和40年代初めは信仰があったそうですが、前述の本では「現在はまったく見られなくなった」と言い切られています。

他にも今日は、昨秋に台風被害で水没した(ボランティアさん達が入った)地域の近くも歩きました。
いまだ「災害ごみ」と表示があって驚きましたが、表面的には全然被災地とは思えませんでした。

私には何度か歩いている地域でも、MIFさんは初めて歩いたところもあったみたいです。
私も正社員の仕事を退職するまでは、ほんの少し先の路地も歩いて行ったことがありません。
MIFさんは私以上に路地を歩かないから、知らない道が多くて当たり前です。
今年も散歩を楽しめることに感謝したいです。


ご近所散歩 20191113

2019-11-13 18:18:31 | 散歩
今日は駅前で用事を済ませてから街路樹を見上げると、意外と紅葉が進んでいることに気が付きました。
トップ写真は、ご近所の御衣黄桜(ぎょいこうさくら、緑色の桜)の根元です。
紅葉が進んで色とりどりの葉でキレイでした。
今回も写真多め、長文ですから、お暇なときにお読みください。

まだ緑色の葉もあるので、色づいたらすぐに落ちます。
同じ木なのに、撮り方や上の方と、下の方によって感じが違います。

台風19号から1か月。
この木の本の2メートルくらいの所まで冠水した場所です。
武蔵小杉のタワーマンションが被災したことは報道でも大々的に扱われました。
でも死亡者はいなかったので、今では報道されていません。
それは新聞の地方版を読んでも、やはり犠牲者があった地区はいまだ報道があることで、熱量の違いを感じます。
じつはこの桜の木がある場所の近くは、いまだ再開していないカフェ、レストラン、コンビニエンスストアがあり、かつビジネスビルも2棟は閉まりっぱなし、うち1棟はテナントが出ていったり、地下施設が稼働していないビルもあります。
もう道路には、土砂はきれいに無くなっています。
でも公開空地の植栽に目をやる

と、表面の葉はその後の雨で洗い流されていますが、植栽をかき分けると白い細かな砂(シルト)がまだまだ残っています。

また私自身、マンション住まいなことと、戸建が少なめなせいか、散歩中にふと眺めた戸建の屋根にシートがかかっていることに今日気が付きました。
屋根にはブルーシートがかかるもの、と勝手に思っていたので、それ以外の色のシートがかかっていることにずっと気が付きませんでした。
ああ、この家は駅前のタワーマンション群のせいで、屋根がビル風に負けてしまったのか…と心が暗くなりました。

気を取り直して久しぶりに中原平和公園に向かいました。

川崎市平和館にシートがかかっています。
外観の補修のようですが、先週近くを通ったときには見かけなかったような…。
川崎市平和館のFacebookにはなにも表記がないので、計画補修なのか、臨時補修かは分かりません。


「和」。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏作。
昨日、中原区役所前で見た像と同じ作者です。
圓鍔さんは、中原区にお住まいだったので、川崎市内には作品がたくさんあります。
ただ、屋外銅像の宿命ですが、緑青で目から涙を流しているような姿になっていまして、それは作者が意図しているのかな?と思うことがあります。

この川崎市平和館は中原平和公園の一角あります。
公園に向かいます。
ここにも屋外彫刻物(主に石像と銅像)がたくさんあります。
その中で一番私が好きな像をご紹介します。
「亜空の環」。岡本敦生(おかもとあつお)氏作。
表示板がある方向から望みました。
奥の白い土は、県立住吉高校の野球場です。

看板と反対側から見ました。
※奥でキャンプ?をしている若者たちがいたので避けて撮っているので真裏ではありません。

作品を真横から見ました。
初めてこの作品を見たのはもう20年近く前ですが、私の目がどうかしたのかと思って焦りました。
意外と薄べったい作品です。

新しい植栽があるぞ、と思い見ると今年10月26日に植樹祭があって、照手桃(てるてもも)が5本植えられたそうです。
しかも現職市長のお名前もあったので、市長がいらっしゃったのでしょう。
知らなかった…。
照手桃は、昨日の散歩記事でも書きましたが、神奈川県作出の花桃。
そして中原区の木が花桃です。

紅葉した桜の葉がキレイでした。

ここには長崎市の花「アジサイ」と広島市の花「夾竹桃」があります。
どちらも毒性が高い植物なので、私自身は子どもが多く集う公園には向かないと思っています。
でもアジサイと夾竹桃には罪が無いし、なによりもその花が選定された背景を思うと、やはりこの花が選ばれて当然と思います。

やはり緑の中の紅葉は色が引き立っていいです。
この公園は綱島街道(県道2号線)を挟んで向かい側に関東労災病院があります。
そのため救急車のサイレンがよく聞こえるので静かな公園とはなりません。
でも柔らかな秋の陽射しがあって穏やかな気持ちにはなります。

核廃絶平和都市宣言の記念碑。
私が中学生の時、この宣言がありまして、各学校に大きなポスターが壁一面に張り出されました。
あれから30年以上経ちましたが、今もあるのかなあ?
私が卒業した中学校に進学した親戚は一人もいないので、その後の様子を聞くことができません。

中原平和公園内から武蔵小杉のタワーマンション群を望みました。
右側の茶色い壁の建物は、県立住吉高校。
もっと酷い被災地域があることは報道で知っているのですが、わが町でも生活の再建が難しい方々も多いし、戸建の屋根に被害があったことも今日になって知りました。
自分の「物事を知ろうとする力」が低いことを自覚せざるを得ない状況です。
そして改めて、テレビや新聞の被災地報道なんて、ほんの表面のことだけであって、すべてをカバーできないことを改めて知りました。
被災されたみなさまが少しでも早く生活再建ができますように、と願う散歩でした。


川崎市高津区・パンを買いに行くまでの迷い道も楽しむ

2019-11-12 17:22:12 | 散歩
MIFさんの朝食はパンのことが多く、たいてい自分で会社帰りに買ってきます。
でも今夜はちょっと帰りが遅いと聞いたので、私が購入することになりました。
今日はトップ写真のふく福さんに初めて行くことにしました。

先月祖母からもらったパンがおいしい買ったのですが宮前区土橋のお店で、同じ市内でもうちからはちょっと遠い…。
でも系列店(ふく福)が高津区子母口(しぼくち)にあるとのこと。
子母口ならだいたい徒歩40分くらいです。
散歩にちょうどいいし、足が疲れたらバスに乗って帰ることもできるし、ちょっと行ってみるか、と思い立ちました。

今回も写真たっぷり、長文ばかり、お暇なときにご覧ください。

まず駅前で用事を済ませて、中原区役所に向かいました。
区役所の敷地内の「平和の絆」像。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏作。
もうお亡くなりになっていますが、圓鍔さんの作品は川崎市内ではたくさん見られます。


その隣のタイムカプセル。

今日は区役所前の花壇でボランティアさんによる植栽替えの日でした。
寄せ植えは先に作業をして置いたみたいです。
葉ボタン、パンジー、ビオラの寄せ植えがとてもよかったです。
ちなみに、パンジーは中原区の花です。


中原区役所名物、公衆電話のデュエットフォンがある電話ボックス。
1台で受話器が2つあり、相手と3人で話せる珍しい公衆電話ですが、使っている人をいまだに見たことがありません。

中原区役所前の木は、中原区の木、花桃(はなもも)で区内市ノ坪(いちのつぼ)周辺が以前は
花桃産地だったことにちなみます。
そしてこの花桃の品種は照手桃(てるてもも)です。
神奈川県作出の品種で、神奈川県藤沢市の伝説「栗判官と照手姫伝説」にちなみます。
ここから二ケ領用水の十月桜(じゅうがつざくら)を見に行きました。
十月桜の秋の開花は意外と長い期間で3週間くらいは咲いているかな?まだもう少し楽しめそうでした。
場所は小杉御殿町交差点の車販売店裏あたりです。

ここから全龍寺(ぜんりゅうじ)方面に進みます。
自動車では一方通行を逆走になるので、徒歩でしか進めない道になります。
ここから暫くはほぼ真っ直ぐで閑静な住宅街ですが、裏道として使われているせいか、意外と交通量が多いので、散歩道としてはちょっと不適切かもしれません。

途中で安楽寺(あんらくじ)に立ち寄りました。
1月16日と8月16日に地獄の釜の蓋が開く日に、地獄絵図をご開帳しているそうです。

看板がボロボロですが、ここは、時習学校(じしゅうがっこう)という川崎初の私立中学校があった場所です。
ここからまた暫く進むと、中原区の花、パンジーの直売所があります。
畑の奥にパンジー。
ちょっと見えにくいので角度を変えた位置から。
ここはお花畑ではなくて、直売所の商品陳列畑。

中原区の伝統的なパンジー栽培では、地掘物(じぼりもの)という方法で栽培します。
みなさんがよく見かけるのはポット栽培でしょうか?
ここは自分でスコップを使って、好みの苗を掘り上げて、お会計をします。
この園は、ナシ園も経営されているので一年中忙しいのでしょうね。
ちなみにこうやってお花の掘り取りをさせてくれる園は珍しく、私はこの園しか知りません。
※価格等の情報は2019年11月現在です。

この園の向かい側にある全龍寺に立ち寄りました。
小径ですが、雰囲気があって好きな参道です。
ちょっと紅葉も楽しめました。

ちょっと見づらいのですが「かながわ名産100選」小田中のパンジーの記念碑です。
先ほどご紹介したパンジー畑があるのは下小田中(しもこだなか)で、小田中(こだなか)地区の名産です。
私が今日歩いてきた道沿いにも、シクラメンやポインセチア等の花鉢物を栽培している場所がありました。
他にも葉ボタンも栽培されています。

この塔の説明書きがありませんが、おそらくは花供養塔だと思われます。
これまでに家畜供養祭や植木供養祭は市内で行われているのは知っていましたが、花供養塔は初めて見たので驚きました。

全龍寺です。
境内にたくさんの植栽があることと、かなり手の込んだ造りであることに驚きました。
やはり周辺が造園、花卉栽培が盛んなので、檀家さん達もそう言った職業の方が多いことの影響でしょうか?
四季を通じて植栽を楽しめる印象です。

ここから、中原街道(県道45号線、丸子茅ヶ崎線)に進みます。
巌川橋(いわかわばし)跡。
この辺りで中原区から高津区に入りました。
ここはせせらぎ遊歩道と交差する場所で、明治時代には岩川村(いわかわむら)がありました。
※江戸時代は巌川が正式な村名だったのですが、岩川と当て字にしていたのが明治時代になって正式になったらしいです。

千年(ちとせ)交差点。
ここを左折すると目的のパン屋さんがありますが、ここからはす向かいにある脇道を進みます。

ここまではずっと平地(本当はとても緩やかな上り坂)でしたが、ここからはかなりガチ坂です。
地形的には多摩丘陵特有の舌状台地の連続です。
そしてほぼ初めて歩く道なのに「たちばなの散歩道の看板くらいあるだろう」といういい加減なボヤッとした情報だけで散歩します。
したがってかなり迷いながら生活道路をウロウロ(右往左往とも言います)しました。
※たちばなの散歩道…川崎市が案内している散歩道の1つ。スタートは東急田園都市線梶が谷駅~子母口富士見公園までの約5キロのコース。

私が歩いているのは右側の道。
左側の道は、拡張工事中。
私が小学2年生の時、叔母の結婚式会場に向かう途中の車内で父が「この道、拡張することになったんだって」と話していたのを覚えています。
ちょうどこの辺りは八百屋さんとか商店や住宅が何軒もあって、どうやって拡張するのか驚いたのです。
あれから40年近く経つけれど、まだ拡張工事中です。
この先でとりあえず右側の道に進みました。

お手製の地図が民家に掲げられていました。
おお、分かりやすい!

傾いていましたが「たちばなの散歩道」の案内板を発見。
この先の目印にしようっと。
まずはたちばな古代の丘緑地を目指します。
思ったのと違ーうっ!
大部分がフェンスで囲われていました。
ちょうど昨日から発掘調査が始まって、全然立ち入れないとは…。
ここで間違いないのに。
こんな立派な看板も新設されているのか。
この緑地は橘樹郡衙(たちばなぐんが)跡地です。
橘樹郡は、当地の地名でもあり、古代から昭和13年まで存在した郡名です。
郡衙は簡単に言うと地方の行政機関。
川崎市では、この橘樹郡衙跡群が初めて国指定史跡です(2017年3月指定)。
これまでこの辺りに郡衙跡があるらしいとまでは分かっていましたが、発掘調査が行われるまでに時間と労力がかかったと言えます。

ここから橘樹郡衙跡群の1つ、影向寺(ようごうじ)に向かおうと思いつつも、いつもどおり勘だけで歩く散歩魂(散歩根性)を発揮して、道に迷いました。
ここ…影向寺ではないよね…。
裏の墓地から迷い込んだら、能満寺(のうまんじ)に入り込んでしまいました。
墓地の墓標を拝見したら、地元の名士の方々のお名前がズラリ。
てっきり影向寺だと思ってしまったけれど、よく考えたら、影向寺ではないよね…。
もと来た道を戻って、でもとっても狭い道や急坂を上ってウロウロしました。
気が付いたら、宮前区野川本町(のがわほんちょう)の住所表記を見かけました。
今年10月15日から使われるようになった住所表記で、以前は宮前区野川でした。
影向寺前の記念碑。
影向寺薬師堂。
太子堂。
乳イチョウ。
宝物殿なのかな?
ふだん非公開の薬師如来坐像が有名です。

お寺さんの向かい側にあった石碑。逆光で見えませんね。
「征清記念碑」と書かれていました。
建立は明治29年12月。
私が川崎市内で征清記念碑を見たのは2つ目です。
しかもこの記念碑は旧橘樹郡宮前村の物で、石工は内藤慶雲。
驚きポイントは、日清戦争関連単独にしては大きな石碑であること、一般的に忠魂碑等の戦争関連碑は神社系に多いこと、日清講和条約(下関条約)から1年7か月しか経過していないこと、石工が内藤慶雲さんであることの点です。
とくに内藤慶雲さんは私が狛犬好きになるきっかけとなった石工さんです。
いままでつい狛犬ちゃんにしか目が行きませんでしたが、こういった記念碑も作っていたのか、と驚きました。

それとこの辺りを歩いていると気になるのは車の走行音です。
すぐ近くに第三京浜(自動車専用道路)が通っているからです。
もしこの道路の計画が少しルートが違ったら、このお寺さんも橘樹郡衙跡も無くなっていたのかも…と思いました。
そのくらいすぐそばに第三京浜があります。

ここから中原街道方面に戻って、横断歩道を渡り、高津区子母口の富士見台公園を目指します。
案内板があってよかった!
でも初っぱなからこんな急坂。
心臓破りの坂とでも言いたいです。
この辺りから左足首が痛くなりました。
富士見公園到着。
公園内の殆どはこんもりとした高まりで、富士見古墳と呼ばれています。
高まりの上から富士山方面を望みましたが、住宅で富士山見えず。
昔は見えたんだろうな、富士山。

続いて橘樹神社(たちばなじんしゃ)に向かいます。
思ったよりもこぢんまりとしていました。
ここは、日本書紀縁の地でもあります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻(下世話にいうと現地妻)の一人、弟橘媛(おとたちばなひめ)は、現在の走水(はしりみず、神奈川県三浦半島)で海が荒れるのを鎮めようと身投げをします。
その衣が流れ着いたのが、千葉県袖ヶ浦市。
当地には櫛が流れ着いたと言われています。
先の富士見古墳はこの櫛をもって御陵ではないかと言われていますが、調査結果は判然としていません。
神社の祭神は日本武尊と弟橘媛です。
ちなみによく関東地方を東国と言いますが、これは「あづま」に基づきます。
「あづま」は、日本武尊が東国平定が終わり、都へと戻る際、碓氷峠から振り返って「あづまはや(わが妻はいないのか)」と感嘆した言葉が語源と言われています。

さてこの神社は狛犬ちゃんがちょっと独特です。

尻尾かくるりんとして長いのです。
遠くから見ると狐のようにもみえます。


境内の一角にある狛犬ちゃん。たぶん古くなって作り直す前の狛犬ちゃんなのでしょう。

全然読めないけれど日本武尊の歌碑。
こちらは山岡鉄舟による歌碑。
幕臣の山岡鉄舟さんとはどんな繋がりがあるのだろうか?と思いつつ、説明文には記載がありませんでした。
上記2つの歌碑は表面の掘りが浅くて説明文がないとなかなか内容が読めませんでした。

境内の一角にある慰霊碑。
昭和53年に建立された物です。
脇にあった説明文では、戦後33年経て初めて作られたみたいです。
裏に戦没者名が書かれていて、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の3つの戦争ごとに書かれていました。
私も近年やっと近代史に興味を持ったからですが、日本にとっての戦争はその3つだけではないし、太平洋戦争は日中戦争の延長線上のこと。
戦後33年を経て建立したのは、戦争を知らない世代が増えたことと、当地では三十三回忌で法要を止めるケースが多いから(最近はもっと少ないらしい)でしょうか。
ここから子母口貝塚を目指します。
ここは蓮乗院(れんじょういん)です。
こちらも初めて訪れました。
この辺りで、道が分からなくなりました。
キョロキョロして、たちばなの散歩道の看板を探していたら、とても眺めのいい場所に出ました。
中央の白い山が富士山。
手前の青い山脈は丹沢山地です。

子母口貝塚は、子母口公園として整備されています。
私は15年くらい前に来たことがありますか、再整備されていて、当時よりもとてもきれいになっていました。

この看板を見ると、子母口貝塚を1番最初に調査したのは、大山柏氏(おおやまかしわ、大山巌と大山捨松の次男)。
日本の考古学の草分け的存在です。
その後も調査しているのは、日本考古学界の有名な学者ばかりです。
私は学生時代に日本史(近世史)を学びましたが、考古学の授業もいくつか履修しました。
この中で登場した人物ばかりで、クラクラするくらい眩しい人物ばかりです。

あれ?柵があって傾斜地に入れないです。
以前はこの辺りにも入れたし、地面や傾斜地に貝殻がゴロゴロしていて、拾えたのになぁ。
たしかこの一段下の場所には遊具も樹木もあったように思うのに…。
現在では保存、保護のために柵が設けられていました。
以前の方が、貝塚感があったなぁ。
右端の高い建物が武蔵小杉のタワマン群。
左端の鉄塔の少し右に東京都新宿区のビル群(たぶんとても分かりにくいけれど)。
ここは高台で、真ん中中央の赤い看板辺りが麓の薬局。
縄文海進の時代、この麓の辺りは遠浅の海だったことがこれだけで分かります。
貝塚の貝は浅瀬で取れる貝ばかりですから。
ここからまた道を戻ってひたすら坂を下ると、前述の赤い看板の薬局近くに到着しました。

ここは当初行きたかったパン屋さん(トップ写真のパン屋さん)の近くでもあります。
坂を下る間じゅう左足首が痛くて仕方がなかったのに、パン屋さんで美味しそうなパンを選んでいたら、すっかりその痛みを忘れてしまいました。
そのくらいテンションが上がるパン屋さんでした。

そしてつい、バスで帰る予定を忘れてまた歩き始めてしまいました。
でもまた途中で痛くなったものの「いまからバスに乗ったら、負けた気がする」という散歩魂に火が付いて、40分で着くはずの自宅に1時間かけて帰宅しました。

相変わらず意地でも全部歩くのを止めればいいのに…と思いつつ、足が痛くなってもこんなに歩けるのか、とちょっと感動もしています。
迷った時間もかなりありますが、全行程3時間45分の散歩でした。
ちなみに「たちばなの散歩道」は全行程5時間だそうですから、私にはまだ歩けないのだろうな、と諦めています。

また帰宅してから、買ってきたシナモンロールをさっそく食べてみました。
流行りのシナモンロールとはちょっと違って、昔ながらの味わい(シナモン控えめ)で懐かしい感じです。
私は体質で小麦粉はあまり食べられないのですが、おいしいパンに出会えてこれも嬉しいです。


ご近所散歩 20191031

2019-10-31 22:17:09 | 散歩
今日は駅前で用事を済ませてから、いつもの散歩道を散策してきました。
トップ写真は、ご近所のミニばら園のばら。
今年は台風が多かったから、咲かないと思っていたのに、ちゃんと秋ばらシーズン到来を実感しました。

近年は秋ばら見物に行かなくなりましたが、やっぱりばらは良いです。
花の大きさは春ばらには勝てないけれど、可憐ですからね。

ばら園のすぐ近くにある桜の木。
葉っぱを見るとちぎれているのが分かります。
これは先月の台風15号でちぎれました。
その後の台風では、ちぎれる程の強風にはなりませんでした。
いつもならソメイヨシノの葉は紅葉して落葉が始める頃。
今年は台風の影響でどの木も葉っぱが少ないせいか、まだ青々としています。
来年の花芽はできていると思いますが、まともに咲くのかどうか…。
いつものハーブガーデン。
少し秋の気配が感じられるようになりました。
この近くのアンダーパスは、いまだ復旧しません。
たぶん川崎市が設置したモノだし、エレベーター2基も水没したため補正予算だとか、議会承認が必要だろうし、なによりもJR南武線のアンダーパスなので、JRとの兼ね合いもあるのでしょう。
大人はともかくとして、子ども達の通学路でもあるので、早めに復旧してほしいです。

季節が進んできました。

ケイトウだっ!
この花は子どもの頃はあまり好きになれなかったのです。
だって鶏のとさかみたいで、なんかこう、ちょっと、エグい感じというか、鶏に突かれた思い出があるモノですから。
でも高校生の時、修学旅行先で見かけたら、秋の風景になじんでいていいな、って感じました。

パイナップルセージの花。
私が高校生の時に初めて買ったハーブ苗がパイナップルセージでした。
その後実家で何年も花壇にありましたが、いつのまにか刈られていました。
近くにあるサボテンが巨大化したため、サボテンの支柱を作るためだそうです。
※サボテンは、亡くなった祖父の記念樹になりつつあるので、サボテンファーストなのです。

このハーブガーデンも台風19号で冠水しました。
その後も大雨があってだいぶ町の中で冠水被害は表面上では分からなくなってきたなぁ、と感じるようになってきました。
でも公開空地(こうかいくうち)の一角にはまだ、手つかずのような乾いた土を見かけることがあります。
ちょっとひと目に触れないようなところに災害ごみが山積みになっていたりします。
また時々測量の方が機材を持って作業されている姿もチラホラ。

日常の中の非日常の姿なので、災害の爪痕を見かけるとドキッとします。
私はこういう時に自分のストレス耐性の無さを感じてしまいます。
今朝、沖縄県の首里城火災のニュースを見て、気晴らしに散歩をしてみたけれど、やはり胸の奥がギューッと締め付けられる思いです。

文化は、精神性を伴う人の行動のことで、文化財はそれを受け継ぐ手助けするモノです。
文化財が無くなることによって、文化は廃れないけれど、その精神性を次代に繫ぐことが難しくなります。
自然災害が多い日本において、やはり弥栄(いやさか)を寿ぐことができる国であってほしいとつくづく感じる秋の日でした。