赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴天皇家庄園【越中吉岡庄】の鎮守社【延喜式内社赤丸浅井神社】の由緒を伝える「森田柿園著」の【越中志徴】!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




◆「後白河上皇」の時代から南北朝の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として続いた「越中吉岡庄」は、南北朝時代末期に室町幕府の御料所「越中五位庄」と成り、「第三代将軍足利義満」は室の「日野業子ナリコの追前供養」として「相国寺」(※塔頭寺院「鹿苑寺金閣」)の庄園として寄進した。その後も「越中五位庄」は「足利義持」等によって足利家菩提寺「等持院」、「等持寺」に寄進された。






(※寺社の祭礼、行事等は各年のスケジュール等の都合により変更されている場合があります。)










●「越中志徴」(※加賀藩士「森田柿園」著)に記載される「赤丸村」の「吉岡庄」、「吉岡谷」、「吉岡御所跡」、「五位庄」、「川合駅」、「浅井神社」、「川人明神」、「川人権現」、「浅井城」、「宇多刀工」、「親王屋敷」、「親王塚」等の記載。







■石川県立図書館の「森田柿園文庫」には、「赤丸浅井神社」周辺の古跡を描いた古絵図が保管され、柿園の著作「越中志徴」には「赤丸村周辺」の多くの古跡について説明されている。

その中で、「森田柿園」は、「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒について記載して、この神社が、嘗ては「川人権現」、「川人明神」として崇敬を集めて居た事が記されている。「川人権現」は「川人山鞍馬寺三社権現記」に記される様に、「川人山鞍馬寺」の下に「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を持つ「三社権現方式」の形態をしていた事を示している。「後白河上皇」から南北朝の「後醍醐天皇」迄は「越中吉岡庄」と言う皇室庄園で、一時期、「下鴨神社」の庄園で在ったが、その後、「五位庄」に改名され、「日本国王」と名乗って権力を誇示した室町時代の第三代将軍「足利義満」の時に京都「相国寺」に寄進されて以来、足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園と成り、戦国末期迄、守護の能登畠山氏の影響下に在った。この間にも、門跡寺院「聖護院」の末寺として威容を誇ったが、豊臣と徳川が開戦した理由と成った「方広寺」が「聖護院」の別院で在ったことから、徳川幕府と結託した「吉田神道派」の「高岡関野神社」や「石堤浅井神社」等の圧迫を受ける事に成った。しかし、加賀藩は「豊臣恩顧」の大名として、秘かに豊臣と密接で在った「聖護院派」を庇護して、寺社奉行は「石堤浅井神社」の反乱に対しても、「赤丸浅井神社」の主張を是として判決している。(※「皆月家文書」金沢市立図書館所蔵の判決記録)
又、加賀藩の時代には「赤丸浅井神社」が別名「川人明神」とも呼ばれて崇敬され、加賀藩の江戸下屋敷(※板橋)の庭には、加賀藩が信仰した「上市大岩不動尊」と共に、「赤丸山」と言う築山迄造って居た事が「下屋敷絵図」で見られる。又、現在、「赤丸浅井神社」の本殿に掛けられた掲額は「加賀藩第十三代前田斎泰」の記毫によるものだ。
しかし、薩長主導の明治維新では、「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」が目標にされた「天皇親政」を目指した為に、「唯一神道」を掲げた吉田神道が暗躍して、「廃仏毀釈」の運動が激化して、遂には「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」も「両部神道」から「神道」に改宗せざるを得なかった。「吉田神道」の「高岡関野神社」は、この時とばかりに配下の石堤浅井神社の神官を焚き付けて「石堤浅井神社が延喜式内社・五位庄総社」で有ると名乗り、神社の簒奪を図ったが、「南朝の牙城」で在った「赤丸浅井神社」には手を出せずに、維新政府が行き過ぎを指摘して過激な廃仏毀釈を規制したと云う。しかし、この時に破却された仏像は野に打ち捨てられ、寺院は売却されたりして、嘗ては勢力を誇った両部神道寺院は、「天台宗」か「真言宗」に編成変えされた。これ等の歴史有る寺院はこの時に「寺の由緒」を改変し、又は隠して、新たな出発をした寺院が多いと言う。高岡市の「関野神社」を初めとする「吉田神道」は、「前田利長」を祭神として関野神社の権威を背景に、「加賀藩主前田斎泰」が庇護してその「掲額」を本殿に掲げる「延喜式内社赤丸浅井神社」を廃棄する事は出来なかった。更に、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で 【南朝を正統とする決議】を行い、社会的に南朝正統論が展開された為に、「南朝の牙城の赤丸村」に在り、元、南朝の「後醍醐天皇」の庄園「吉岡庄」の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の正当性は守られた。



■明治維新で掲げられた「明治維新の精神を伝える賛」と「後醍醐天皇の肖像」
(※大徳寺肖像の写し)







■「後醍醐天皇」は「赤丸の御旗」を作り、親王達は「赤丸の軍扇」を使用された。





■「元正天皇の二宮が創建(中興)された」と云う「赤丸浅井神社」の隣接地 には、古くから「浅井城」が在り、この城には浅井神社を中興された「二宮=文武天皇残された二宮」が在城されたと云われている。(※「越中志徴」・「肯搆泉達録」)
「浅井神社」を中興された「二宮」は、名を「石川朝臣広成」と云い、「続日本紀」には、「文武天皇の嬪ビン」の「石川刀自娘 イシカワトジノイラツメ」 の子で在ったが、権力者の「藤原不比等」の娘の「夫人ブニン 宮子」が産んだ「首皇子 オビトオウジ」を天皇にする為に「妃ヒ 石川刀自娘」と「妃ヒ 紀竃娘キノカマドノイラツメ」は不義を理由に朝廷から追われたと云う。しかし、この時に首皇子(後の聖武天皇)の母代わりをされた「元正天皇」(※故 文武天皇の姉)は「養老 継嗣令」を出して「天皇の兄弟、子供は全て【親王】とせよ」と命じられた。その為に「石川朝臣広成」は「六位」の下級官僚と成り、「恭仁京」に赴任して、「大伴家持」等と共に九人の「内舎人ウドネリ」の役職に成って赴任している。この時に歌った歌が万葉集に掲載されている。「元正天皇」は「首皇子」と「石川朝臣広成」に「東西66ケ国を各々、33ケ国」の統治を委ねられたと「川人山三社記」には記されている。
(※「続日本紀」・「川人山三社記・「福岡町史」)











■「続日本紀」(※岩波書店版)には、嘗て、朝廷と密接な神社を「明神」と呼んだと記載され、地元では霊験灼アラタかな神社を特に「明神」と呼んだと伝えられている。
しかし、元々「明神」とは、天皇が発した「宣命 センミョウ」の形式を決めた公式令の中にある言葉で在り、「明神御宇日本天皇詔旨云々。或聞」等の五つの形式を示す言葉で在った。これは、「明神アキツカミ と 御宇アメノシタシ らしめす日本ヤマト の天皇スメラ が詔旨オホミコトらまと云々。或コトゴト くに聞きたまへ」と読み、宣命の頭に付けられた形式で在ったと云う。これは、「令義解」と言う「養老律令」の解説書にも見えるが、「聖武天皇」の場合は宣命の中で「現神 アキツカミ 八洲所知倭根子天皇詔旨勅命」と告げてより直接的な表現に成っている。「現神 アキツカミ」は「世に現ウツ しく坐イ ます御神」(※「歴朝詔詞解」)=「現し世に姿を現されたかみ」と言う意味で在り、「鬼神 キジン」(※幽)に対する言葉に成っている。
これ等の事から、「現神 アキツカミ」とは、現存する「天皇」を意味し、 「明神 アキツカミ」とは「皇室の先祖神」を指すものと見られ、「川人大明神」とは「皇室の先祖神の【高皇産霊神 タカミウブスナノカミ】を祀る神社」と云う意味に成る。則ち、「川人大明神」は即、「天皇祭祀」を分担する皇室の分社として崇敬されて居た事に成る。「延喜式内社赤丸浅井神社」の前を通過していた「旧北陸街道」では、「赤丸浅井神社」の前では「下馬」して「拝礼」をする決まりが在ったと言う。








■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」の遺品(※赤丸浅井神社所蔵)









■「義経記」には「如意の城」として「赤丸浅井城」が、「二位の渡し」として「赤丸浅井神社」前の舟乗り場が登場する。「勧進帳」では「安宅の関」の場面として登場する。







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