赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【富山県の源頼朝の統治】⇒【毛利家文書】に記載されている高岡市内島村。➡「源頼朝側近 大江広元」と「越中吉岡庄」(室町時代には五位庄)!!

2021-04-10 | 越中国吉岡庄・五位庄
■鎌倉幕府の正史とも言われる【吾妻鏡】には、源頼朝の「越中吉岡庄」に関わる文書も遺される。















■【富山県高岡市内島村」は、南北朝時代の【毛利家文書(※「萩藩閥閲録」)】に記録が残っている。
「内島村」は後に、隣接の「国吉村」、「石堤村」の一部に編入されている。





▼【長井姓】;垣武天皇の第一皇子(五十一代)「平城天皇」の皇子阿保親王の子孫「長井時広」を祖とする。

■戦国大名の「毛利家」は鎌倉幕府「源頼朝」の家臣として重きを為した「大江広元」の子孫に当たる。隣接の「天皇家庄園 越中吉岡庄」には、「源頼朝」が「成佐」と云う地頭を配置していた事が「吾妻鏡」に記されている。「越中国内島村」が代々、毛利一族の「長井家」に知行されていたと云う事は、毛利家の先祖の鎌倉幕府「大江広元」が知行されていたと云う事か?




🔽南北朝(後醍醐天皇)時代に「大江広元」の子孫は「毛利」と改名して、又、一族の先祖は「長井姓」を使用している。(※「本朝武家評林」)
⇒この当時は、富山県唯一の皇室庄園「越中吉岡庄」が富山県高岡市福岡町赤丸周辺に設定されており、「後醍醐天皇」の領地で在った。



■富山県南砺市の「高瀬遺跡」は、「足利尊氏」が東大寺八幡宮領に寄進した庄園で在った事が「足利義教」の時代の記録に残されている。




🔽「足利義教」が寺領を寄進したとされる愛知県一宮市の「臨済宗別格本山 妙興寺」に遺る【足利義教 像】
「足利義教」は「播磨、備前、美作守護赤松満祐」に暗殺され、赤松氏はその報復で壊滅した。後に「三種の神器」を後南朝勢力から奪った孫に当たる「赤松政則」は「加賀半国守護」(石川県石川郡、河北郡)を与えられた。
その後、加賀前田家の藩士には、赤松一族が士官しており、石川県の「雲龍寺」(旧五位庄、高岡市福岡町加茂村創建)や高岡市の「天景寺」(旧五位庄、高岡市福岡町赤丸村舞谷創建、源氏の笹竜胆紋)は赤松一族の菩提寺とされる。

🔻越中西部の中心地区で在った「越中吉岡庄」、「越中五位庄」!!
「越中五位庄内島村」の隣接地の「五位庄赤丸村」は、「平安時代~鎌倉時代」に「天皇家庄園越中吉岡庄」と呼ばれていた。この庄園は「国吉名」、「赤丸村」、「小矢部市宮嶋郷」を含み、「郷社赤丸浅井神社」はこれらの近郷を統括した「五位庄53ヶ村総社」で在った。
この庄園は、「足利義満」が将軍になった頃には「五位庄」と成り、足利幕府御粮所と成って、後には、「臨済宗相国寺」の庄園として寄進されている。「五位庄」は、室町時代になると小矢部川流域の福野、福光から高岡市中田、伏木河口の六渡寺村辺り迄包含した広大な庄園に拡げられた。
(※「東寺百合文書」、「畠山文書⇒大阪府羽曳野市資料叢書」、「越中絵図」畠山文書)












⇒【越中吉岡庄】の記録(※「兵範記(人車記)」・「吾妻鏡」)


🔽「源頼朝」は「源義経」探索を口実に全国に「地頭」を配置して、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」には、「地頭成佐」を配置したが、「後白河上皇」から「地頭が不法を働く為、直ちにやめさせる様に」との綸旨が出されている。(※「吾妻鏡」)









■■【承久の乱】と「後鳥羽上皇」の「後院領 越中吉岡庄」!
鎌倉幕府の「源實朝将軍」が暗殺されて、比較的良好な関係だった「越中吉岡庄の庄園領主後鳥羽上皇」は、愛妾の亀菊の庄園での地頭の振舞いに怒り、地頭の廃止を要求した。しかし、幕府は政権の基盤になっていた「地頭の廃止」についてはにべもなく拒否した。幕て府の態度に怒った「後鳥羽上皇」は「元能登守藤原秀康」等の北面、西面の武士団に勅書を下して幕府追討を命じた。幕府側は「源頼朝」の血筋で、「後鳥羽上皇」の中宮の九条家の系統でもある「九条頼経」を将軍として、朝廷との関係を保とうとしたが、「後鳥羽上皇」の幕府に対する怒りは強く、是に対して幕府側は妻の「北条政子」を先頭として徹底抗戦を命令して「承久の乱」が勃発した。
この頃、越中には「後鳥羽上皇」の直轄庄園「後院領 吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を地主神とする53ケ村から成る古い庄園で、初見は白河天皇の時に京都上賀茂神社として見られる。)があり、この戦いでは、元々、越中砺波郡の豪族であった「石黒一族」を初めとして、越中の諸将は「後鳥羽上皇側」として参戦した。加賀藩の時に新川郡で「鳥見役」を勤めた石黒一族の記録では、「承久の乱」の時に越中の諸将は京へ攻め登り、石黒氏の一族は京に残った者、越前に残った者、越中に戻った者がおり、この内、越前に残った石黒一族は越前朝倉氏に仕えたとされる。
前田家本[承久記]に拠ると、この時の木舟城の『石黒三郎』は砺波山(倶利伽羅山)の戦いで多勢に無勢で幕府に降伏したとされる。この時、加賀の林一族の同族の「富樫氏」は幕府側で戦い、一族での死闘も起ったと言う。
この戦いでは、鎌倉幕府15000余騎に対して越中の「後鳥羽上皇方」は加賀・越中の林、仁科、宮崎、井出、石見、安原、石黒三郎、近藤等の兵3000余騎。宮方は砺波山に3手に分かれて陣を張ったが、幕府方は新潟から攻めて来た「五十嵐党」を先頭として砺波山を越え、粕屋は討死し、仁科、宮崎は一戦もせずに落ち延びて行った。加賀の林次郎、越中の石黒三郎、近藤四郎、五郎等はこの様子を見て不利を悟り、幕府方に降伏した。





⇒この「五十嵐党」はこの戦いの恩賞として砺波郡の「國吉名」を幕府から与えられた。「吾妻鏡」にこの記事が見られる。この時、「國吉名」は「越中吉岡庄」の「延喜式内社 惣社 赤丸浅井神社の神域で在り、この「國吉名」は24ケ村からなっていた様だ。(※「名 みょう」の責任者は「名主」と呼ばれた。)
(※「國吉村誌」・「赤丸浅井神社由緒」→富山県立公文書館「皆月文書」)








■かつての天皇家庄園【越中吉岡庄】が在った「赤丸村」は、南北朝時代に「後醍醐天皇」の庄園となり、南朝の武将の「楠木正成」が活躍した「河内国」の「金剛寺」から、戦乱を逃れて「後鳥羽上皇」の祈願仏の「千手観音像」が【総持寺】(現在、高岡市関町)に伝えられた。この「国指定重要文化財千手観音像」の胎内には「後鳥羽上皇」の法名【金剛位理卿】の名前と「本願聖人」の記載が在る。














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