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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📚📃 数々の戦乱の舞台に成った【越中般若野庄】と【相国寺庄園越中五位庄】!!

2021-04-12 | 富山県高岡市
●「徳大寺家領般若野庄」について、(2017,06,11.富山史壇会特別講演会)






「解文」


■それに拠ると、「源平盛衰記」等にも登場する「般若野庄」は室町時代には砺利波郡と射水郡にかけて広がっており、東寺百合文書ヌ函330「越州棟別注進案」を引用されて「射水郡の内」としながらも「五位庄の東庄」が同時に記載されており、室町時代には「般若野庄」は「利波郡五位庄の東五位庄と射水郡」を含んでいたと指摘された。
応永12年、「足利義満」は室の日野業子の追膳料として「越中五位庄を相国寺に寄進」された。(※「万山編年精要」





■応永20年には「五位庄」は「福野町の野尻郷」迄広がっていたとされる。(※「東寺百合文書ヌ函250 やなた某書状案」)
応永22年、「足利義持」は「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進している。(※「等持院常住記録」)






■年別は不明だが、「東寺百合文書 ヌ函330」に拠れば、「射水郡般若野庄」の記載の中に「五位庄の東庄」の記載が在り、羽曳野資料叢書「畠山文書」に拠ると、「足利義満」の時代に「五位庄」は般若野庄(高岡市中田~砺波市)を含み、伏木港から福野町野尻郷迄広がっていた事が記載される。
(※「東寺百合文書 やなた某書状案」に「五位庄」の記載が在る。)

🔽「越中絵図」(※「畠山家文書」大阪府羽曳野市資料叢書)
➡室町幕府管領畠山満家は越中を八郡に分けて、それぞれに畠山一族、国人領主達を配置した。


⇒「五位庄利波郡赤丸村」の「赤丸浅井城」には、越中守護「畠山持国」の記載が在る。

▼五位庄の長さが福野町野尻郷迄広がっていたなら当然、その幅も庄川流域の高岡市中田辺り迄広がっていた事は充分に考えられる。現代の東五位 と西五位の位置は高岡市立野辺りと高岡市土屋辺りになるが、東五位庄と西五位庄と範囲は室町時代には庄川流域迄も広がっていたと見られる。又、この文書に拠れば、室町幕府政所の伊勢氏や小川氏(※役職?)の統治した領域が「多く在った」としている。砺波市と高岡市の中間に「伊勢領」や「醍醐」等の地名が在り、この地域は「伊勢神宮の領地」とされるが、この頃には「下地中分」として「領家」と「地頭」が半分づつ権利を保有していたとされており、或いは「伊勢平氏」の流れを汲む室町幕府政所の伊勢氏の所領では無かったのか?
又、「富山県の歴史」(※山川出版社)に掲載される絵図に拠ると、室町時代には利波郡と射水郡の郡界が高岡市の二上山の近く迄動き、「五位庄の範囲」は二上山の麓から福野町の野尻郷迄の範囲で在り、「五位庄の東部分」(高岡市佐野、砺波市伊勢領辺り?)は「徳大寺家領般若野庄」に含まれていたとされる事から、庄川の古い流れの跡の千保川の西側迄が「西五位庄」の範囲で在ったか?
(※「庄川」は明治迄、下流では「小矢部川」と合流して伏木港に流れ込んでおり、その河口の分離は明治以降の事で在る。)





「小矢部川・庄川の河口分離工事図面」(※「射水郡紀要」)


■何れにしろ、室町時代に入ると、地頭の力が強くなっており、東寺百合文書に拠ると守護畠山家、政所伊勢氏、新川郡・利波郡を治めたとされる「越中蜷川氏」や小矢部市蟹谷郷の「遊佐氏」がその勢力を誇示して、広大な「五位庄」も東と西地域に分かれていた様だ。「足利義持」の時に、「東寺百合文書」には【「五位庄」を領した「等持院」と「等持寺」】 との表現が在り、この「五位庄」は更に二つに分かれて各々、両寺の庄園に成っていたと見られる。

🌸 大相撲「野見宿禰」・「菅原道真」の子孫「加賀藩前田利家」 ⇔ 越中の神々を祀る『金沢尾山神社』!!

2021-04-12 | 富山県高岡市
■「金沢市尾山神社」



(写真提供者 金沢市)


■「北野天満宮・美作管家党の梅紋(六曜紋)」


「加賀藩金沢本家の剣梅鉢紋」



■菅公(※菅原道真)の末裔と云う「前田利家」の家系は、尾張国海部郡前田に興り、尾張荒子に城を持っていた。「菅原道真」は、「天穂日命」(アメノホヒノミコト)(天照大神の二子、出雲国造の祖) の子孫で、大相撲の祖『野見宿禰』(ノミノスクネ)を祖とする「土師氏」(ハジシ)の子孫であり、平安時代初期に大和国菅原邑に住んだ事から「菅原氏」を名乗った。物部氏も「天穂日命」の子孫で、前田氏とは祖先を同じくする事から、越中の守山城近くの「物部神社」と氷見阿尾城に在った菊池氏の神社「榊葉神明社」を合祀して金沢城近くに「尾山神社」として祀り、加賀藩前田家の氏神として祀っている。

【前田・物部略系図】
1.「天穂日命」━→ 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→宇摩志麻遅命(ウマシマチノミコト)→ 物部氏→物部守屋
2.「天穂日命」━→野見宿禰(ノミノスクネ)━━→土師氏(ハジシ)━━→菅原氏━━→美作管家党(ミマサキカンケトウ)━→前田氏
(※一般的に知られる加賀藩前田家系図→別に藤原氏とする意見も有る。)

■『前田利家の祖の野見宿禰』とは??
相撲神事で有名な『野見宿禰』は加賀藩前田利家の祖の「土師氏」の先祖とされる。出雲国の相撲の勇士『野見宿禰ノミノスクネ 別名襲髄命カネスネノミコト』は「天穂日命」の14世の子孫で第12代の出雲国造の鵜濡渟(宇迦都久怒ウガツクヌ)の子とされる「第13代出雲国造」であった。垂仁天皇の命により「当麻蹴速タエマノケハヤ」と角力(スモウ)の為に出雲国から召喚され、蹴速と互いに激闘して勝ち、蹴速の大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えたと云う。又、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)の葬儀の時に殉死の風習を止め埴輪の制を提案して「土師臣」(ハジノオミ)と賜姓され、以後、土師氏が代々の天皇の葬儀を司った。
※愛知県一宮市に「延喜式内社野見神社」がある。
[祭神]野見宿禰命、天穂日命、天照大御神
上記3柱を主祭神に宇迦之御魂命と須佐之男命を合祀する。
神社名から「土師氏」の祖神である「野見宿禰命」、又は「天穂日命」と見られる。愛知県には、「物部神社」や「野見神社」等の神社があり、「熱田神宮」には「菅原天神社」も併設されており、特に「物部氏」の系統の神社が各所にあり、庄園もあった事から「前田氏」等の物部氏の子孫が住んだ様だ。



【尾山神社と菅原道真⇒加賀藩前田家の祖先と信仰!】
金沢市の著名な「尾山神社」は元々、富山県氷見市の「榊葉神社」と高岡市海老坂の「物部八幡社」を合祀したもので、加賀藩の氏神として崇敬された神社である。


◆【先代旧事記】には、越中新川郡の「大新河命」は【物部連公の姓を賜った】とされる。



●富山県氷見市の元菊池氏の居城の「榊葉神明社」は、元々大伴家持が創建されたと伝承される古い神社で、菊池が九州の肥後国から越中に来た時に、途中、伊勢神宮に参詣してそこから榊の木を持ち帰った事から 「榊葉神社」と呼んだと云う。祭神は「天照皇大神・ 菊理比神・ 底筒男命・中筒男命・表筒男命」で、「天照皇大神」は「伊勢神宮」の祭神、「菊理比神」は石川県白山市鶴来町の「白山比神社シラヤマヒメ」の「菊理媛尊ククリヒメノミコト=白山比売大神」と同一神とされる。又、「底筒男命・中筒男命・表筒男命)は大阪市の「住吉大社」の祭神で、「日本書紀」にこの住吉三神が神功皇后の三韓征討に際して皇后に神託を下した事が記載される。 又、この三神は神功皇后が三韓征伐に自ら赴かれた時に大いに助けられた神とされる。この事から、元が押し寄せた「元寇」の時に九州肥後国の前線で戦った菊池氏の末裔であった阿尾城の菊池氏が、外敵調伏の願いを込めてこの住吉三神を祀ったものと見られる。

この「住吉三神」については国産みの有名な神話がある。

■「伊邪那岐尊 (イザナギノミコト) と伊邪那美命 (イザナミノミコト) は国生みの神として大八島(オオヤシマ)を生み、又、様々な神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(ヨミノクニ)(*死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうと黄泉国に向い、黄泉国 の扉を開けた所、そこにはウジが沸いた恐ろしい姿になった 伊邪那美命 を見る。伊邪那美命は「帰って下さい」と言って 伊邪那岐尊 に我が身の恐ろしい姿を見られた為に扉の中に隠れてしまった。 伊邪那岐尊は思いを果たせず止むなく帰られた。 伊邪那岐尊は黄泉国からの帰途、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢(ケガレ)を洗い清める禊(ミソギ)を行った。この時に、瀬の深い所で底筒男命(ソコツツオノミコト)が、瀬の流れの中間で中筒男命(ナカツツオノミコト)が、水表で表筒男命(ウワツツオノミコト)が、それぞれ生まれ出たとされる。」「筒」は「土」を指す。この事から、自然の中の表、中、底のあらゆる所に坐します神々を祀っているとされる。引いては「大和の国の国土の神々」を指す。
『※「本地垂迹説」では 薬師如来(底筒男命)、阿弥陀如来(中筒男命)、大日如来(表筒男命)とする。 』

■「榊葉神社」は 久米郡美咲町打穴西634 に在る古い神社で、岡山県神社庁の説明文では「創建は景行天皇の御代と云われ下打穴数村の大産土神である。天正年間、原田貞佐が造営した。安政3年卜部良煕から榊葉八頭大明神の下し文を受けた。明治6年7月郷社に列格。」とある。祭神は「天兒屋根命、須佐之男命、大地主神、菅原神 」である。この「久米」という土地の名は、大和朝廷の軍事氏族で大伴氏と共に戦った「久米氏」に関係があると見られる。此処の祭神は加賀藩前田家の氏神の「菅原神」とされている。前田氏は、その祖先に「美作管家党」があり、「美作国」はこの久米郡も含む岡山県であり、この地が美作管家党の勢力圏であった。その為、表向きは阿尾城の菊池氏の氏神の「榊葉明神社」を祀ったとしているが、これは菊池氏を前田家に臣従させる為の口実で、実際は美作管家党を祀る「美作国榊葉神社」を金沢の尾山神社に合祀していたものと見られる。
美作管家党は岡山県勝田郡奈義町中島周辺を本拠とし、菅原道真から12代目目後には作用菅太知季、原田次郎兼知、有元三郎仲頼の子供があり、この原田次郎兼知の子孫が加賀前田氏の先祖とされる。 原田次郎兼知の系統は美作国久米郡稲岡庄原田を領有したとされ、この「榊葉神社」は紛れも無く、加賀藩前田家の祖先の原田氏の領地に在る神社を勧請したものである事が判る。

●結局、表向きの由緒に隠れて、金沢市の「尾山神社」には、加賀藩前田家の祖先の「美作管家党の先祖の菅原道真」と、先祖を同じくする物部氏を祀る「物部八幡社」(高岡市東海老坂字川田1068)を合祀して、更に、表向きは「物部(八幡)社」に武人の神とされる「八幡神」が祀られているとして、「加賀藩」の守り神とした事にしたものと見られる。ここでは敢えてこの神社が「物部氏」を祀っている事を伏せたのは、浄土真宗の牙城、加賀一向宗の持てる国とも云われた加賀、越中を領地とする加賀藩としては、かつて「物部守屋」が聖徳太子に滅ぼされた「佛敵 物部氏」の子孫である事を伏せたものと見られる。豊臣秀吉が越中の佐々成政と対峙した時に、先ず、浄土真宗、一向一揆の牙城の井波瑞泉寺に「領地の安堵状」を出して懐柔した事を見ても、如何に外部からの侵略者の前田家が地元勢の「一向宗対策」に腐心していたかが推測できる。浄土真宗では通常、「親鸞上人の絵像」か「南無阿弥陀仏」の名号を掛けるが、井波瑞泉寺では「聖徳太子像」を飾り、毎年、「太子伝会」が開かれて、佛敵の物部守屋と対抗した聖徳太子信仰の熱心さが現在も伝わっている。


■■「越中の一向一揆の牙城の井波瑞泉寺には豊臣秀吉が安堵状を出して懐柔した様子が判る。」

■「井波瑞泉寺」の客殿にある【富山県指定文化財木造釈迦如来立像】は、富山県高岡市福岡町赤丸村にあった【門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺】の本尊。(※「福岡町史」)
◆「釈迦如来立像」の遍歴
「川人山鞍馬寺」は室町時代に浄土真宗「法莚寺」に改宗して高岡市福岡町一歩二歩に移った。その為に、鞍馬寺の一坊の「西宝院」はその後継寺院として「川人山鞍馬寺」を赤丸村旧地で興した。「法莚寺」は、この時に元々の鞍馬寺の本尊「釈迦如来立像」を持参したが、鞍馬寺を開いた白山修験道の「泰澄」が開いたと伝わる「鞍馬寺」の本尊であったこの仏像は、時代を経て傷みが激しかった為に長い間、法莚寺の長櫃で眠っていたが、やがて、金戸専徳寺に売り渡されて、これを小矢部市の椎茸栽培業の山口氏が自費で修復して「室町時代の後小松天皇ゆかりの仏像」として、火災に逢って全てが燃えたとされる城端別院へ寄贈された。この仏像は城端別院では、「土の中から掘り起こされた仏像」と伝えられているが、実は「越中五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進された為に、臨済宗以外の寺院が赤丸村から追われた為に、「法莚寺」も赤丸村を去ったとされる。「越中五位庄」は南北朝時代迄は、上皇の庄園「越中吉岡庄」であったが、室町時代になると、五位庄赤丸村の「赤丸浅井城」は、「室町幕府越中守護畠山持国」の居城となった為に、赤丸村から臨済宗以外の寺院が追われたと伝わる。
(※「相国考記」、「畠山文書」羽曳野市)

〇【延喜式内社赤丸浅井神社】の別当は【聖護院派川人山鞍馬寺】






🔴【加賀藩記録「三壺聞書」】 加賀藩に伝わった高岡市の【高岡命名】の記録!!

2021-04-12 | 富山県高岡市
「能登末森城の戦いに出陣する前田利家」















■加賀藩の歴史家「森田柿園」の所蔵文書「三壺聞書」(※石川県立図書館)に、「高岡城」の地鎮祭の時に「波着寺」、「愛宕明王院」のに2法印が地鎮祭を執り行い、この時に「関野を改めて高岡とぞ申しける。」と記載される。

■この「波着寺」は元々、越前朝倉遺跡の近く「一乗谷」に在った寺院で、その後、金沢市小立野の「天徳院前」に移りった。
この「波着寺」の僧は「能登攻めの時に前田利家が全山殺害して破却した」と伝わる富山県と石川県に跨がる「後白河上皇」の祈願寺の「石動山」の僧に任命されて、その復興を担当したと言われる。
又、この時に持ち出された大量の「お経」に付いては、前田利長の妻の「永姫」が再興したという「高岡市柴野三光寺」へもたらされて、この寺院でお経の整備が行われているという。



🔻「三光寺」は「前田利長」の菩提寺「繁久寺」の末寺で、この寺の現在の建物は、利長の妻で「織田信長」の四女の「永姫」が建立した。「永姫」は出家して「玉泉院」と称す。
高岡市の「守山城城主神保氏張」の妻は、「織田信長」の妹で在り、後に「守山城」へ入った「前田利長」の菩提寺として利常が建立した「瑞龍寺」には「織田信長の分骨廟」が祀られている。

■この書は、家臣の「山田四郎右衛門」が「三つの壺」に書き溜めた加賀藩の歴史を森田柿園が編纂したというもので、歴代の加賀藩の藩主にも読み継がれたという。
又、この書は「金沢城」の古文書解読グループが近年、再度、整理刊行している。



🔻江戸時代中期に、加賀・能登・越中の名将や勇士の記録した 「三壺聞書」 は、加賀藩最初の通史といえるもので、中心になるのは 織豊時代 の成立と、それに関わる加賀藩初代利家公の武功、さらに前田家の興隆を記述したもので、5代藩主綱紀公の宝暦年間( 1751 ~ 1763 )に成立したものと思われるもので、 切米34俵(17石) の 割場宰領足軽 であった 山田四郎右衛門 の著作といわれています。
「波着寺」は「泰澄大師」が福井県一乗谷に創建し、白山信仰の寺として栄えた。前田利家の金沢入城とともに、現在の兼六園の梅林付近に寺地を与えたという。
(wikipedia)


🔴🌄 『越中五位庄』に在った「東大寺庄園杵名蛭庄」⇒富山県高岡市立野地区に比定される奈良時代の庄園!!

2021-04-12 | 富山県高岡市
●富山県には東大寺の庄園4000町の内、30%以上が在ったりとされ、その庄園は庄川と小矢部川流域に集中しており、高岡市には『須加庄』、『クボタ庄』、『鳴戸庄』、『鹿田庄』、『杵名蛭庄』が在ったとされており、その中の「杵名蛭庄」に付いては、従来、高岡市 伊勢領、狼、市野瀬、市野瀬新辺りに比定されていたが、古代の小矢部川は西山の麓を流れていた事や、絵図に見られる「速川」や「荊原里」等の記載を検証すると、実際にはこの庄園は小矢部川沿いのもっと下流に当たる「高岡市立野・池田・高田島」辺りに比定される事を検証して「国立歴史民俗博物館」に調査確認を依頼した所、平成29年6月には『日本の庄園データーベース』の記載に正式に「高岡市立野地区」が比定地として追加された。









●「東大寺庄園杵名蛭庄」⇒平成29年6月21日、「国立歴史民俗博物館」はこの庄園の比定地に「高岡市立野地区」を追加して「庄園データーベース」に記載した。(※HPから閲覧可能)
この庄園図は「東大寺正倉院」に所蔵されており、砺波郡の発祥の元に成っている越中国司「利波臣志留志」のサインが在る。「国立文化財機構」では東大寺庄園図のカラー版を発刊している。「高岡市万葉歴史館の図書館(B1F)」には東京大学資料編纂所が精密写真から作図した大判の「東大寺庄園図」が在り、閲覧できる。






■この庄園は千保川(杵名蛭川)と祖父川 (速川)に挟まれた地域に立地しており、速川はソフ川⇒祖父川 と名前が変化している。
祖父川の下流の高岡市早川地区には「延喜式内社 速川神社」が在り、この絵図に記載される「荊原里」の辺りには「延喜式内社荊原神社」(「延喜式神名帳」には「うばらのやぶなみ」と記載されている。)が立地しており、この絵図には「石黒上里」、「石黒上里」の記載が在り、「利波臣志留志」の末裔とされる「越中石黒氏」との関連が窺われる。

・越中利波郡郡司「利波臣志留志」は、聖武天皇が東大寺大仏を造営された時に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して従五位下員外介に序せられて大伴家持の後に国司待遇に成っている。高岡市高田島地区に在る「五位庄神社」(※赤丸浅井神社の奉仕)は『聖武天皇の勅願所』の由緒を持ち、「延喜式内社赤丸浅井神社」は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」の創建と伝えられる。








🔷🔴🔹【東大寺庄園越中杵名蛭庄】 「延喜式神名帳」と越中の「荊原神社」⇒「越中石黒氏」との関係?!

2021-04-12 | 富山県高岡市








■「延喜式神名帳」:延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧。
「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

■「延喜式神名帳」(※寛政時代木版)


■延喜式内社については、河川の流れの変化等で時期によって移動したり、又は分社が行われたりして旧地が分からず争論になっているケースもある。しかし、「延喜式内社」が「官社」としての性格を持ち、時の醍醐天皇の意向を受けた国立の神社で在る事を基準に考えればある程度の判別ができる筈である。「延喜式」は平安時代の「律令制度」に基づき、律・令・格の施行細則を集成した法典で在り、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。五十巻(三千数百条のし条文)は律令官制の二官八省の役所で配分・配列されており、その内の巻一~巻十が「神祇」関係になっており、 その中の巻九・十が「神名帳」で在る。これは当時の官社の一覧表で在り、祈年祭等の時に朝廷の勅使や国司が奉幣使を派遣された神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)が国郡別に記載されている。いわば「式内社」とは平安時代には「官社」とされていた神社である。
その点を考慮すると、先ずはその神社の「祭神」が朝廷と関係が深い祭神である事が前提で在る。しかし、この祭神も直接的に大和朝廷と関係の深い祭神だけではなく、時には、古代の神々(人皇以前の神々)や、大和朝廷以前の出雲政権の神々が祭神とされている場合が在る。越中砺波郡では「越中国一宮高瀬神社」の祭神の「大巳貴命」( 一般的には大国主命と呼ばれ、出雲国の主神であり、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子又は六世の孫とも言われる。)がその代表格である。大和朝廷が大彦命を北陸道将軍として北陸の鎮圧に出向いた時に、北陸の出雲勢力は戦わずして大和朝廷を迎えたとされる事から、大和朝廷も北陸統治の為に、出雲の神々を神社の祭神として尊重した事が見受けられる。「赤丸浅井神社」の祭神も、やはり大国主の子の妻の「八河江比売神 ヤガワエヒメノカミ」で在り、元々は出雲系の祭神を持つ神社である。
問題は「延喜式」には「神社名」は記載されるが「祭神」が記載されていない事である。それが各所でいくつかの神社で争論になっている原因にもなっている。

■平安時代に国立の神社で在ったという事は、朝廷にとっては天皇の先祖神か、国作りに多大な功績を挙げた神々で在った筈である。日本の天皇は、「神代の天皇」と「人皇」と言われた「神武天皇を初代」とする世代に分けられる。神代の天皇については明確に記載されたものが少いが、第七代の孝霊天皇の74年(紀元前217年)に来日して大和朝廷に帰化した秦の「徐福」が現した原本を元にして、1921年(大正十年)に「神皇記」として発行された書籍がある。
それに拠ると、国の初めの神々として「天峰火夫神 アメノホホヲノカミ」を初代とする「第一神朝七代」がある。この世代の第四代は古事記に出てくる「高木神」であり、「天照大神」と同列の神である。(この神は時に「高御産霊日神 タカミムスヒノカミ」として出てくる。「神々の親神」「神々を地上に遣わされた指令神」である。)
更に、「天之御中主神 アメノミナカヌシノカミ」を初代とする「第二神朝十五代」には、「第二代高皇産穂男神」や神農の「第五代天常立比古神」や第十五代には「右守大神として高皇産霊神タカミムスビノカミ 」「左守大神として神皇産霊神 カミムスビノカミ」が列記される。「高皇産霊神」は「天皇の主要な神」であり、「大伴氏の祖先神」とされる。「赤丸浅井神社」には大きな水の江の神として「琵琶湖」にも祀られる「八河江比女神」と、もう一柱「高皇産霊神」が祀られている。これは、当時、小矢部川(女神川)と庄川(雄神川)が赤丸浅井神社の前で合流して、大河となっていた事と、赤丸浅井神社の創建が「元正天皇二宮(文武天皇二宮)」とされる事からこの二柱が祀られている。



■次いで高皇産霊神の子の一代「国常立命 クニトコタチノミコト」を初代とする七柱の神々は第三神朝とされ、以下、鉄剣を作り出した二代「国狭槌命 クニサッチノミコト」、第五代「大戸道命 オオトノジノミコト」は農作の神となり、その第一子は租税の徴収を担当した「大巳貴命 オオナムチ」である。多くの国法を定め衣服を整え、政の制度、階級を定められた七代「伊弉諾命 イザナギノミコト」の子は第四神朝一代目の天照大神となる。「大巳貴命 オオナムチ」は第二代となる。この神朝には「須佐之男命」があり、軍勢を率いて高天原を攻め、それに怒った天照大神は岩屋に閉じ籠る。大巳貴命は軍勢を連れて手力男命に助けられて「須佐之男命」を捕縛し、高祖の高皇産霊神以来の歴史を説き改心させられた。須佐之男命は出雲国に至り斎戒して鉱物を堀り、大蛇、大狼、大熊迄も鎮めて四海は治まり国は豊になった。この神朝には他に「事代主命 コトシロヌシノミコト」や「伊弉諾命」の妻の「白山比売」、「月読神」、「恵比寿大国天」、「大山祇神」等が在った。
第四神朝には第三代「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」やその后の「木花咲夜比売」、第五代には「鸕鷀草葺不合尊 ウガヤフキアワスノミコト」が在り、「鸕鷀草葺不合尊」の後は「ウガヤ朝」は51代続いたと云う。鸕鷀草葺不合の神皇第51代「弥真都男王命 ヤマトオミコ」の時に大乱が在り、「禍津亘理命 マガツワタリノミコト」は皇胤の「真佐勝彦」を奉じて新羅人「長髄彦 ナガスネヒコ」を軍指令として密かに新羅国からの援軍と国内の賊将61将が反乱を興した。これに対して、皇族軍は4軍に分けて鎮圧に当たり、一軍に稲飯王命、二軍に三毛野入野王命を軍指令として、三軍には皇子佐野王を指令に任じて「中臣氏」、「道臣命」を初め八将を従えて軍勢二千人、軍船十二船で海上から安藝国に至り、この国の「阿尾彦命」の舘に入られた。第四軍には皇太子五瀬王命を指令として、「太玉砺波王命」を初めとした諸将が従い、その他第五軍、第六軍に別れて全国的に鎮圧されたと云う。(※「日本古代文書の謎」鈴木貞一著)

■この頃の神皇時代の神々が延喜式内社の祭神とされている様である。
この視点から各延喜式内社の主祭神を見ると、砺波郡で争論のある「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」の主祭神は、其々「第二神朝十五代高皇産霊神」と「水路の神の水波能女命」となっている。「赤丸浅井神社」の祭神は皇室の主要な神であり、ここでは比較にもならない位に
「高皇産霊神」が延喜式内社の格式に合致している事は争う迄もない。
砺波郡では、他にも三社を数える「荊原神社」で争論が在る。その一は高岡市和田に在る「荊原神社」だが、この主祭神は第四神朝第三代「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」 で在る。その二には砺波市池原に在り、その主祭神は「利波臣志留志」の祖先神とされる「日子刺肩別命」で在る。第三には、南砺市福光町に在る「荊原神社」で在る。この祭神は石黒郷の石黒氏の祖先の「利波臣志留志」の祖先の「日子刺肩別命」となっている。こうして見ると、砺波市と南砺市の「荊原神社」は何れもが石黒氏の祖先の「利波臣志留志」の祖先の「日子刺肩別命」を祭神としているのに比して、高岡市和田(旧福田郷)の「荊原神社」のみが「瓊瓊杵尊」を主祭神としている事が解る。又、高岡市内の神社では国司館が在った二上山鎮座の「二上射水神社」の祭神は「瓊瓊杵尊」である。二上射水神社の祭神については争論がなく、神代の祭神を祀っている事からすれば、高岡市和田の「荊原神社」が延喜式内社としては妥当だろう。「利波臣志留志」は聖武天皇[天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)没]の時代であり、「延喜式」は925年完成で有り、その間200年足らず、しかも延喜式の神社の祭神は殆どが「神世」の国造りの神々で有り、氏族の正統ではなかったとも思われる「志留志」が「利波臣」の代表者とされる事も無く、仮にその先祖の「彦刺肩別命」を祭神としても他の式内社の神々よりも後代の神で、しかもマイナーな神である。「利波臣志留志」だけが「国司の員外介」で在ったとしても、国司の最高位の「守」でも無い。従って、延喜式に「国神」として祀られた神は 、高岡市和田の 「荊原神社」の 「瓊瓊杵尊」が主祭神としてはふさわしい事が解る。

【「高岡市史」はこれを否定して「この神社は比叡山妙法院領の時に比叡七社のうちの十禅師社を勘請したもので延喜式内社とするのはどうか?」と疑問を挟んでいる。しかし、この事は南北朝の頃の話しで、それ以前に「瓊瓊杵尊」を主祭神とした神社が在った事の否定の根拠にはならない。こうして見るとこの「荊原神社」の争論は祭神を「利波臣志留志」とするか否かと言う事である。「利波臣」は人皇七代孝霊天皇の子が「高志の利波臣」で在った事から、皇族では在るが、神代の神々ではなく、位階も「志留志」の時に外従五位下になっている。他の延喜式内社の祭神が皇室の主要な神々である事からすると、この神は後世に神格化された祭神だと云う事が解る。従って、「荊原神社」の争論については「瓊瓊杵尊」を祭神とする高岡市和田の「荊原神社」が該当すると思われる。】


■しかも、この判断にはもう一つの理由が在る。
奈良の国立博物館が刊行した「東大寺庄園図」の中に「杵名蛭庄」の絵図が在る。その絵図を最近ネットで公開された富山県内で最も古い地図とされる小矢部市図書館保管の巨大な地図と照合して見ると、 面白い事に、この庄園は高岡市福田、池田、立野、高田島地区に合致する。(※国立博物館のこの書籍ではこの庄園は高岡市戸出辺りに比定されている)
この絵図に在る「速川」は別の古地図では「ソフ川」となり、現在は「祖父川」になっている。しかも、この川の下流の小矢部川との合流地点は現在も「高岡市早川」という地名が残されている。(※速川→早川→ソフ川→祖父川に転化したと見られる。)しかも、この東大寺庄園図には隣接地が「荊原里」である事と、この庄園には「石黒上里」「石黒中里」と記載されており、この絵図には「利波臣志留志」がサインしているのだ。
(※延喜式神名帳には「ウバラノヤブナミ」と記載されており、「荊原里 ウバラノサト」の「荊原神社 ヤブナミジンジャ」と解釈できる。)
「利波臣志留志」がサインしている東大寺庄園図はこれだけではないが、福光町に伝わる石黒氏の発祥由緒については「黒い石が在ったから石黒と名乗った」とか言われており、伝承しか無いようだし、石黒系図に拠れば、石黒荘の開発に当たったのは中央から派遣された藤原氏とされている。石黒氏の祖先の「利波臣志留志」が富山県に全体の30%以上も在った東大寺庄園の開発に積極的に当たり、奈良の大仏造営に米五千碩セキ(※「東大寺要録」・※「続日本紀」では米三千石と庄園100町歩を寄進したとされる。)を寄進して、その一族が砺波郡、射水郡の語源にもなっていると言う富山県の名族でありながら、富山県の歴史研究はこの様な地域の伝承に頼っている。この「杵名蛭庄」を調査してみると、石黒氏の発祥は寧ろ、この高岡市の福田地区ではなかったかとも思われ、東大寺大仏造営の時に聖武天皇が宇佐八幡宮を東大寺に勘請された事も考慮すると、「東大寺庄園杵名蛭庄」と推定される、この立野、池田、高田島地区に東大寺の守り神の「八幡社」が多いのに気付く。又、赤丸浅井神社の川人神官が護持してきた高田島地区に在る「五位庄神社」の由緒には、「聖武天皇の祈願社」である事が記載されている。福光町の「吉江村史」に拠れば、この赤丸村領高田島地区は古くは石黒氏の家臣の「高田次郎兵衛」が治めていたとされる。(高岡市の鴨島地区は石黒一族の鴨島七郎の領地だったと「高岡市料」に記載されており、この一帯は後には石黒氏が統治した地域の様である。) 赤丸浅井城に利波臣志留志の末裔が拠点を構えていたという古書の記載や、東大寺造営の時代に聖武天皇、大伴家持、利波臣志留志、浅井神社創建の元正天皇二宮が同時期に活躍していた事を示す「続日本紀」の記載から、寧ろ石黒庄の古い時代は高岡市の立野地区であり、小矢部川と庄川の水運の便利なこの地域を中心にしてその西山には赤丸浅井城、その石川県側に木舟城を構えて防衛していたものとも考えられる。この「杵名蛭庄図」に見られるもう一本の河川は「黒石川」と記載されており、この河川の上流には、かつて石黒氏の「木舟城」が立地していたのだ。現在、地域を知らない学会の人達はこの調査の結果には見向きもしていない。しかし、今後、この「杵名蛭庄」の研究が進めば、必ず富山県の歴史研究が根本から変えられる事態になると思われる。


🔴【吉田神道高岡関野神社】によって歪曲された高岡市の歴史⇒【財政破綻】に繋がる高岡市の偏向した歴史観!!

2021-04-12 | 富山県高岡市


●加賀藩記録「三壷聞書」と「高岡命名の由来」!!
・高岡市では観光の目玉として【高岡古城跡】を売り出している。
・「加賀藩」に伝わる【三壷聞書】には「加賀藩の詳細の歴史」が記載されているが、高岡市では全く異なる歴史が吹聴されている。

🔽加賀藩記録「三壺聞書」に見られる城郭の変遷
⇒「豊臣秀吉から聚楽弟受領」⇒「金沢尾山城」⇒「富山城」⇒(「魚津城」)⇒「高岡城」

【「三壺聞書」は加賀藩士山田四郎右衛門が3つの壺に書き貯めた記録を纏めたものと言われ、「前田綱紀」も関心を持って調査したと言われる。】

■この記録には、豊臣秀吉から聚楽第を拝領して江戸に差し廻されていた聚楽第の解体材料を金沢に運び、尾山城の築城に利用した様に記載されており、その城が火災で焼けた為に富山城に移ったが、慶長14年3月18日に富山城も焼けた為に、越中関野に城を建てる為に一時期、魚津に移り、その間に金沢の【愛宕波着寺】の僧「空照」を招聘して地鎮祭を行って「関野」を【高岡】と命名し、慶長14年8月16日には竣工の祝いを盛大に行ったと云う。



■この記載では、聚楽第の材料が高岡城や菩提寺の建設に用いられたとか伝わる内容とは異なる様で、「材料が運ばれたのは金沢で在り、尾山城に使用されたものの火災に会ったとされる。その後も更に、富山城も焼けて城の材料は飛騨から運んだとされている。又、高岡市の「曳き山」は「利家拝領の聚楽第屋敷から高岡へ移され、七台が市民に下げ渡された」とされるが、高岡市末広町の関善道所蔵の高岡市指定古文書の慶長年間の「高岡御車山文書二通」には、「御車山を作る際に屋形を加えた方が良い」とするものと「完成後のお褒めの言葉」が残る事から、この伝承も異なる様だ。
【高岡市の「越中宮極楽寺由緒」には「二輪車」の「二番町の山車」は「後醍醐天皇の皇子宗良親王」が使用された御車であると伝えている。他は後世に造られた「御神輿」である。】

■「高岡市」の元の名前が平安時代の地誌の「和名類聚抄巻 二」に記載されており、古くは「越中国第百 射水郡」の内に、【塞口】と在り、「越登賀三州史」には「関野ケ原 在射水郡関野、又、志貴野とも旧記にあり今の旧号成り」とし、「越中旧記」には「今ノ高岡ハ塞野 狭野 サルヲ関野ト書キタルハ寿永ノ頃ナリ 其ノ後 上関カミセキ 下関シモセキ 狭野ト分レタリ 塞野ト云ハ此辺ハ和名抄ニ出タル塞口ノ郷ニアル野ナル故 名ツケタル者也 」と記す。又、旧記には「関野を高岳と被改 後改 高岡」と在り、当初は「高岳」と称したと云う。

■加賀藩士「富田景周」は「越登賀三州史」の中で、又、「森田柿園」は「越中志徴」の中で
「初名 高岳、再改 高岡 号高岡は昔、徳の高い姫がおられ、鳳凰鳴高岡の韓(漢)詩から引用されて名付けられたとか、又、三壺記、習練抄等には加賀藩の臣下の三休が名付けたとするのは恐らく間違いだろう。この名前は既に古い記録の「治乱記」、「北越太平記」、「北越軍談」等に在り、後世にこれ等の由緒が作り上げられたものだろう」としており、この「高岳」(高岡)と言う地名は古くから在った名前だとして、「鳳凰鳴高岡」の詩経の一節からきているとする説を否定している。
(※「高岡史料」高岡市役所 昭和47年編)
(※吉田神道の高岡関野神社の神官関氏はあらゆる高岡市の歴史を偽造して高岡市内の有力町民と共にデタラメの歴史を唱えている。「三壷聞書」は加賀藩の前田家にも伝えられた史書で在り、加賀藩士で歴史家の富田景州、森田柿園は何れも「三壷聞書」に拠って、「総持寺」の住職が詩教の「鳳凰鳴けり高き岡に」から名付けたと言う説を否定している。加賀藩の藩主や藩士が否定的で在るにも関わらず、高岡町民は関野神社の関神官の妄言を今も信じており、この誤った「高岡市の歴史」を高岡市役所自らが発信し続けている。⇒昭和47年に高岡市役所が発行した「高岡史料」は比較的公正に事実を指摘しているが、近年の高岡市役所の不勉強な幹部は「高岡市に1600年以前の歴史は無い」と嘯き、「高岡は前田利家によって初めて開かれた」と主張したいらしい。「関野」と呼ばれた頃には石黒氏の鴨島七郎等が現在の高岡市の地域を所有した事や、高岡開町以前には既に現在の瑞龍寺の敷地等には幾つかの寺院が在った事も「高岡史料」は指摘している。)

▼通説では、高岡市関町の「真言宗高野山派総持寺住職」が「高岡城の地鎮祭を行った」とされているが、「三壺聞書」では、「前田利長」が福井県の「真言宗 愛宕波着寺 法印 (※空照)」を呼び寄せて地鎮祭を行ったとされる。(※「空照」については「波着寺縁起」参照)



・【波着寺縁起】「越の国三十三番札所案内(札所参拝のしおり)」<昭和49年>では、『足羽郡誌によると天正年間長谷川藤五郎秀一愛宕坂へ移せりとあり、調査の所現在の鯰の堂と五岳楼との間にあった・・・』また、『金沢市に波着寺なるものあり調査の処山号泰澄山波着寺と読んでいる。開祖は安養坊空照。越前足羽郡波着寺に居た頃前田利家の祈祷所であったので金沢に召寄られ広坂の地に寺地を賜りたが元和五年現在の所に移転せしめられた。寺封十一石五斗とある。』
(※「波着寺」の「空照」は、この後に「前田利家」が全山焼き払い、全山の僧や民衆を殺害した「石動山」の住職に任命されており、石動山の復興を目指した。⇒《※「石川県史」》)

■「富山県大百科辞典」(※富山新聞社刊)には、「高岡」は元々、「総持寺」の山号「高岡山」が「瑞龍寺」を建設された時に加賀藩に召し上げられ「瑞龍寺」は「高岡山」と名付けられたと言う。この由来からすると、「高岡」は元々、高岡開町以前からの地に在った「高岡山総持寺」の「山号」の「高岡」を採ったものであり、高岡開町の時に名付けられたと言う「高岳」は、本来、「立山」等の高山を意味する言葉で在り、「高岡」と改名されたのは「瑞龍寺」が建立された時で在り、その為に、《総持寺の住職が提案した》とされたのではないか?
「鳳凰」と言う言葉は「皇帝」や「天皇」を指す言葉で在り、この「鳳凰」を前田家に例える等の高岡市の伝承等は、正に朝廷を軽視する暴論で在り、高岡市の「御車山祭り」を、「後陽成天皇の聚楽第行幸の時の牛車を拝領した行事」として吹聴する等、前田家の格式を上げる為に高岡の有力町民がでっち上げたものと見られる。「天皇」の専用の乗り物は「鳳輦」と言う【「鳳凰」を飾った輿】で在り、それに対して、「御車山祭り」で使用されているのは四輪の「御神輿」で在る。
唯一、二輪車の「二番町の山車」は、「越中宮極楽寺由緒」によれば、「極楽寺や総持寺が元々、在った赤丸村は後醍醐天皇の庄園で在ったが、南北朝争乱の時に後醍醐天皇第八皇子宗良親王が越中に入られた時に使用された與車で在る」と記されており、この車両は他の町内の山車とは由来を異にしており、元々はこの祭りのルーツも「越中宮極楽寺」所縁の祭礼で在ったと見られる。

■高岡市関町の「総持寺」に祀られる「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には「越中吉岡庄」の庄園領主の「後鳥羽上皇」の法名が記載されており、「鳳凰鳴高岡」は「法皇 泣けり 高き岡に」の意味だと見られる。
(※「衆徳山総持寺」や「越中宮極楽寺」等は元々、皇室庄園「越中吉岡庄」(高岡市福岡町)の赤丸村に在った寺院で在り、この庄園は「後白河上皇」から「後鳥羽上皇」~南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の上皇庄園で在り、「後鳥羽上皇」は鎌倉時代の「承久の乱」で敗れて隠岐島に流罪に成り、生涯、幕府を怨みながら赦される事無く、隠岐島で亡くなった。この「泣けり」はこの法皇の気持ちをこの漢詩に込めて説明したものと見られる。)

■【高岡史料】の抜粋







■高岡市の歴史的な偏向の事例
赤丸村の「延喜式内社浅井神社」は京都の門跡寺院「聖護院」の末寺「川人山鞍馬寺」の三社権現の一つで在り、700年代の元正天皇の時に再建された越中でも古い歴史を誇る。この別当の「聖護院」は幕末の「孝明天皇」が皇居にもされた皇室所縁の寺院であり天皇家と最も近い寺院で在った。
「吉田神道高岡関野神社」の関神官が唱え、手先の「石堤浅井神社」に命じて「赤丸浅井神社」の「五位庄惣社 延喜式内社」の格式を簒奪する為に様々な企みを行い、現在も「石堤浅井神社」が「五位庄惣社 延喜式内社」であると称している。「高岡市」は「高岡市史」や教育委員会の広報等で「石堤浅井神社」を「浅井神社の論社」として同格の扱いで広報している。「吉田神道」は各地で両部神道の神社の簒奪を企み、高岡市では「二上射水神社」を簒奪して高岡古城公園内に移設する事に成功して、引続き、南朝の後醍醐天皇所縁の高岡市熊野町の「先宮熊野社」や「延喜式内社赤丸浅井神社」の簒奪を企んだ。
加賀藩寺社奉行はこの企みを否定して「関野神社の敗訴」を決定しており、この裁判記録の全文が現在も金沢市に遺されている。
しかし、高岡市は現在も「石堤浅井神社」を「延喜式内社浅井神社」の【論社】等とアピールして、吉田神道がでっち上げた歴史を吹聴し続けている。





(※「前田利家」は豊臣恩顧の大名として豊臣秀吉が「聖護院」の隠居寺「方広寺」の築造や京都大仏の造営等にも多額の寄進をしている。この「聖護院」関係の神社を簒奪する事は加賀藩としても黙認できなかったと見られる。しかし、吉田神道の「高岡関野神社」の暴走は止まる事を知らず、「高岡市」の有力町民達の間では、「加賀藩」や「前田家」をダシにして利用し、「加賀藩」とは全く異なる歴史観を吹聴している。これは「加賀藩の歴史」でも何でも無い。高岡市はこのデタラメを吹聴して「歴史の町造り」を標榜して各地に「観光地」や「文化財」、「●●遺産」等を創出し続けている。その為に、高岡市の財政は破綻して、多額の歳入欠陥が生じて、各地の公共施設は閉鎖に追い込まれた。創出された歴史には何処にも根拠と成る「古文書」や「由緒」等は無く、先ず、「高岡市」の名前の由来すら【偽造】の疑いが濃厚だ。)





📚📚【デタラメな「高岡市史」が真実を隠す】 「和名類聚抄」に見られる【荊ナミエノキ】と富山県砺波郡の「延喜式内社荊波神社」論争!!

2021-04-12 | 富山県高岡市







■「和名類聚抄」(※平安時代中期の辞書)には【荊】は「ナミエノキ」と記され、もう1つの【蔓荊】には「ミハヒ」と記されている。
同じ文字を使用しているが、「ミハヒ」はツルの形の「野バラ」等を指し、「ナミエノキ」とはトゲのある別物の木で在った。
砺波山や河川敷には古くから「野生のグミの木」が繁茂していた事が古書に記されている。近年では大山町の河川敷に野生グミの群生が見られるが、この木はグミの実を食用にできる他、昔は囲炉裏の燃料としても使用された様だ。
(中国では「荊」の杖で打つ刑を「徒刑 ズケイ」と云い、その為に「徒刑」を「荊刑」と呼んだものか? 「徒」は元々、「ト」と呼ぶ所から「荊刑」を「トケイ」と呼んだか?)

■富山県内では「延喜式内社荊波神社」についての論争が在る。特に、高岡市福田と砺波市池原の二ヵ所はその主張が対立しているが、高岡市福田の神社は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神とし、砺波市池原は越中石黒氏の祖先神「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」を祭神としている。延喜式内社とは国家の神であり、国から「幣帛」を贈られた神社で在り、地方では国司が拝礼した神社の事で、「瓊瓊杵尊ニニギノミコト」は天皇の祖先神だが、「彦刺肩別命ヒコサシカタワケノミコト」は地方豪族越中石黒氏の祖先神で在り、「延喜式内社」としては祭神から見ると、皇室の祖先神「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」。)を祭る高岡市福田の「藪波神社」が該当する。高岡市福田の隣接地の高岡市立野近辺に在ったと見られる「東大寺庄園杵名蛭庄」の絵図には「石黒上里」、「石黒中里」と記載される集落が在り、「石黒川」とも記載され、この庄園が「越中石黒氏」と密接な庄園で在ったと見られる。(※この庄園が「越中石黒氏発祥の地」とも見られ、後考を待つ。)
これらの事実から、「延喜式神名帳巻10、利波郡藪波神社」は高岡市福田の神社が該当する。
(※「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」は天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。『日本書紀』では高皇産霊神の子の天火明命の子とする。→「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は「正一位 高皇産霊神」と言う皇室の最高神。「延喜式内社二上射水神社」の祭神は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」。)





■「高岡市史」は高岡市福田の祭神が「ヒコサシカタワケノミコト」と指摘して砺波市池原説を採り、福田説を否定してお、「高岡市万葉歴史館」も砺波市池原説を採って、悉く福田説を否定している。
「荊波神社」を「ウバラ神社」と呼んでいるが、これは「やぶなみ」、「となみ」と読める。「荊」を「ウ」と読めば「ウナミ」と読める。一方、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と振りかながして在り、振りかなからすると「ウバラに在るヤブナミ神社」と書かれている。



■「東大寺庄園杵名蛭庄図」には、「速川」(※速川→ソウ川→祖父川→早川と変化した。)や「杵名蛭川」(※千保川)等が記載されており、位置関係を確認すると間違いなく高岡市立野、池田地区に在ったと見られ、この「杵名蛭庄」に隣接して「荊原里 ウバラノサト」と記載されている。正にこの位置は現在の高岡市福田地区に該当し、「福田荊波神社」が延喜式内社で在る事が立証できる。
又、現在の高岡市の「祖父川」の下流の「高岡市早川地域」に、「延喜式内社早川神社」が在り、これは元々、「速川」の治水の為に祭られたものと見られる。
恐らく「荊波神社」をウバラと読ませたのは、この「神名帳」の部分を採ったもので、実際は「ヤブナミ」と読むしのが正しい様だ。
和名では「荊」をナミエノキと読ませている事から起こった混乱と見られるが、この字を「ト」と読めちば、この字は「トナミ」と読め、これが「利波臣 トナミノオミ」の祖先神とされたものだろうか?
「高岡市史」の様に、「神社由緒」を調べるのにその祭神も調べずに勝手に別物の祭神を挙げる等は全く論外だが、「延喜式神名帳」に記載される神社がそこらの適当な神社と考える「歴史家」や「学者」の無知加減にも驚きを隠せない。
庄川町に在ったとされ、「赤丸浅井神社」の神田が在った事を記している「東大寺庄園石粟庄図」の欄外に「荊波」の記載が在る道路名が記されている事から砺波市池原説を高岡市は採っているが、「荊波」と言う名前が県内一円に繁茂していたナミエノキやミハヒから由来していたならば、県内の何処にでも「荊波」が在っても不思議では無く、神社の格式は「その神社の祭神」によってこそ決められている事こそ重視すべきだ。「神社」を論じるのに「祭神」を抜きに考える事こそ在ってはならない事だ。





🔽「越中の東大寺庄園杵名蛭庄」の詳細を作図して記すので参照されたい。
(※東京大学資料編纂所が拡大出版した「東大寺庄園図」を元に現実の高岡市立野とも比較して見た。この写の拡大版は高岡市伏木の「高岡市立万葉歴史館」の地下の図書館にも在り、無料で閲覧できる。この中の杵名蛭庄の隣接地には「荊原」と言う集落が在ったと記載される。現在の高岡市立野の隣接地の高岡市福田には、通称「ウバラ神社」と称する「延喜式内社藪波神社」が在り、ここでは何故か「藪波」を「ウバラ」と呼んでいる。古い延喜式神名帳には「ウバラノヤブナミ」のフリカナが付けられ、この神社は「ウバラの里」の「ヤブナミ神社」で在る事が注記されている。従って、この神社が現在の高岡市福田に在る「藪波神社」で在ると見て間違い無い。誰も「延喜式神名帳」の現物を読まずに民衆の間で「ウバラ神社」として伝えられたと見られ、公の「高岡市史」が、「祭神」や「延喜式神名帳巻10」を確認せずにこの神社を「延喜式内社ウバラ神社」として決め付けた事が歴史の真実を誤って伝える一因と見られる。)







(注記)現状を調査して「東大寺庄園杵名蛭庄」が「高岡市立野辺り」で在る事を申入れ、「国立歴史民俗博物館」は「杵名蛭庄」の比定地に「高岡市立野辺り」と追記した。従来は、「この庄園の古代に置ける位置」から「砺波市」に比定されていたが、現状の調査結果から、この位置は「速川」の下流の「高岡市立野辺り」が該当する。現在の「祖父川」は加賀藩時代の古絵図では「ソフ川」と記載され、その川はその後「祖父川 と変化している。又、その下流には「高岡市早川地区」が在る。
決め手は、「延喜式内社早川神社」の立地と、「藪波神社」が高岡市立野の隣接地の福田地区にある事だ。又、「東大寺庄園杵名蛭庄図」 には、「社地」として「神社跡地」が三箇所記載されており、現在も「東大寺」と関連する「八幡社」等の古社が三箇所在り、この他にも、高岡市立野地区には何故か「福田神社」が在る。
聖武天皇は東大寺大仏造営の時に、九州の「宇佐八幡宮」の協力を求められ、造営後には東大寺大仏敷地に「宇佐八幡宮」を勘請された。高岡市内で、かつて高岡インター周辺一帯を開発した旧家で在る高岡市細池の「池田市衛門家」の庭には、「野ばら」の花がちりばめられた「地蔵尊」の「板光拝」が在り、これはかつての池田家領地から移設されたものと伝えられている。又、旧地区の写真も遺されている。(※「石堤村史料」高岡市立図書館)
かつての「両部神道」では、「神道」の祭神の「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を仏教では「地蔵菩薩」が姿を変えたものとして信仰されており、「福田藪波神社」の歴史でもかつて、本尊を「地蔵菩薩」としていた事から、この「石造の板光拝」が「福田藪波神社」の「本尊地蔵菩薩」の「光拝」で在ったと見て間違い無いと見られる。「福田藪波神社」は、かつて、「区画整理」の時に管理してきた池田家に無断で移動させられ、一時期、行方不明で在ったが、その後、「福田藪波神社」として現在地に再び祭られたが、この「板光拝」はその神社跡地から先祖が引き取り、庭先に祭られたものと伝えられている。おそらくは、明治維新の時に吹き荒れた「廃仏毀釈運動」を主道した「吉田神道高岡関野神社」が両部神道の「福田藪波神社」を廃棄したが、その後、神社だけは再興されたが、ここの本尊の「地蔵菩薩」は行方不明に成ったものと見られる。





◆砺波市では、「東大寺庄園杵名蛭庄」は富山県南砺市の高瀬神社周辺に在る古代庄園跡「高瀬庄」で在るとされていたが、近年、この見方は否定されている。
「東京大学資料編纂所」のhpの報告では、【東大寺庄園杵名蛭庄】は、中の東大寺庄園の中では比較的新しく、【足利尊氏】が寄進した庄園で在るとしている。
しかし、「東大寺庄園図」の高名な研究者の「砺波市砺波散居村研究所」の所長は、【「東大寺庄園杵名蛭庄」は庄川下流の「利波郡と射水郡の郡界近く」】とされており、当方が主張した位置より上流の「砺波市北部から高岡市中田地区辺り」とされており、国立歴史民俗博物館はこれを【両論併記】にしている。しかし、「砺波市説」では「速川」が「速川→ソフ川→祖父川」と変化している事や、【祖父川」の下流地域に「延喜式内社速川神社」が現在も鎮座している事】についての考察は無く、三箇所の社地についての記載は考察されていない。又、越中に遺る「東大寺庄園跡地」を調べると、「八幡社」が立地している事すら「所管している神官」さえも知らない。この事は越中に遺る「東大寺庄園」についての無関心と、「東大寺」と「宇佐八幡宮」との関係を知らない学者の怠慢と見られる。【富山県高岡市の歴史研究】はかくもお粗末なもので、「高岡市立万葉歴史館」すらも多額の公費を費やして居ながら、「東大寺」と「八幡社」には目もくれず「万葉集」の言葉遊びに終始している。越中国司「大伴家持」と「東大寺」、「東大寺」と「八幡社」、の関係も調査せずに、又、越中の「東大寺庄園図」にサインが遺り、「大伴家持」の後に「員外介越中国司」に就任した「利波臣志留志」が【東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進して寄進者筆頭に記載されて、現在も東大寺では、毎年の「お水取り行事」で東大寺大仏造営の貢献者として「東大寺大仏修院過去帳」が読みあげられる。】事も知られていない。この「利波臣志留志」は最近迄、富山県に在った「砺波郡」の名前の元で在り、「孝霊天皇」の末裔とされる「利波臣」は、長く「利波郡の郡司を勤めた古代氏族」で、「石黒氏の歴史の研究」では、「越中石黒氏の祖先」とする系図が遺されている。越中国には東大寺庄園4000町歩の内の三割が在ったとされ、孝霊天皇の末裔とされる「越中石黒氏」の祖先とされる「利波臣」は、「東大寺」や「聖武天皇」とも密接で在った。高岡市立野の隣接地の「越中国赤丸村領高田島村」に遺る「五位荘神社」の由緒には、「聖武天皇勅願所」と記載されており、この地域が東大寺大仏造営を祈願された「聖武天皇」と密接な地域で在った事を伝えている。
⇒【東大寺大仏】は越中から寄進された米が主な財源として使用された事を伝えている。(※「続日本紀」では「利波臣志留志」が米三千石と庄園100町歩を寄進したと記載され、「東大寺要録」には、「米五千石寄進の利波臣志留志」と記載される。)
又、「高田島村」は、「越中石黒氏の一族の高田孫兵衛」の領地で在った事を、富山県福光町の【吉江村の昔むかし】と言う地域誌は伝えている。この地域に、「越中石黒氏」、「利波臣」、「聖武天皇」遺る繋がりを窺わせる歴史的な事実が此処に在る。



💠🔹「越中蜷川氏」の新川郡、利波郡の統治⇒【蜷川新右衛門親当】と【一休さん】!!

2021-04-11 | 富山県高岡市


●【一休さん】に登場する「蜷川新右衛門」は室町幕府第三代将軍「足利義満」の母方の縁者として幕府政所代に就任して越中の「新川郡」と「利波郡」を統治したと云う。蜷川氏は歴代「新右衛門」を名乗っている。
「新川郡」の「蜷川郷」 (※富山市蜷川村)を本拠として「蜷川城」や「滑川城」を居城にしたと云う。現在の富山市の「最勝寺」は、嘗ての「蜷川城」の跡と云う。







■「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には、室町幕府政所代「蜷川親元」が氷見郡阿努庄の守護代の「神保氏」に宛てた文書が遺されている。



◆「蜷川親当」の嫡子は「蜷川新右衛門親元」⇒『新右衛門さん』として「一休さん」にも登場する。「一休さん」の「足利義満」の側近で寺社奉行「蜷川新右衛門親当」は架空で在り、「蜷川親当(智蘊)」は実際には「足利義教」に仕えている。又、室町幕府には「寺社奉行」も無い。「一休宗純」と「蜷川新右衛門親当」が師弟関係に成ったのは、「蜷川親当」が出家して「智蘊」と名乗ってからの事と言われる。「智蘊」は相国寺の僧で、連歌の「宗祇」の高弟で、「足利義満」が「越中五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した事も有ってか、「宗祇」も「越中五位庄」を訪問して滞在している。

◆【里の名は こんかけくけこ 五位庄】宗祇法師



◆「畠山文書」の「越中絵図」によれば、その位置は小矢部川と庄川に挟まれた【五位の東庄】がその「利波郡」になる。
【五位の東庄】の「利波郡」には、「木舟城」、「福満城」が在り、「石黒氏」の記載が在り、【五位の西庄】には「赤丸浅井城」が記載され、その城は守護「畠山氏」の一族の「畠山持国」の城で在った事が記載されている。








🌋🌻【応仁別記の開一族】[ ブログバトン]に見られる 九州と富山県に残る【開一族】⇒【西郷隆盛】と同じ【肥後菊池氏】の末裔(※「続群書類従」)?

2021-04-11 | 富山県高岡市
■【応仁別記】に登場する越中と肥後に展開した「開一族」。
【※群書類従20、応仁別記】






●「富山県」と九州地区に殆どが残る【開一族】のルーツ?
南北朝時代に南朝の忠臣として戦った肥後菊池氏の末裔は、越中の氷見阿尾城を拠点とし、その末裔の菊池氏は加賀藩に重臣として仕えた。氷見阿尾城に在った「榊葉神社」は「前田利家」によって金沢に勘請されて、高岡市海老坂に在った「物部神社」と共に金沢市の「尾山神社」に祀られている。
南北朝時代に、越中でも南朝の支援勢力の強かった越中西部の地域は、不思議にも、同じく南朝支援勢力で在った大阪府、兵庫県等の近畿圏や九州の肥後熊本と歴史的に密接な関係が在り、特に、全国的に見ても、この三ツの地域にはほぼ大半の【開 ヒラキ】と名乗る一族が住み着いている。特に九州と越中には多くの「開姓」が住み付いている。
「ブログバトン」には、興味深いやり取りが在る。



・南北朝時代末期に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」に改名されたと云う。(※「宝永誌」、「東寺百合文書」)


■鎌倉時代に、九州の「肥後人吉荘」の地頭を勤めた『相良頼俊(※沙弥迎蓮)』は、天皇家庄園で【京都蓮華王院三十三間堂】の庄園に成っていた【越中吉岡庄】(※富山県高岡市福岡町赤丸周辺)の統治を行っていた。
(※「東大寺文書」・「相良家文書」・「岐阜県史」)







■戦国時代には、肥後の名族で藤原氏の【菊池氏】は、同族争いの結果、越中国氷見郡に逃れ、氷見阿尾城を構えた。阿尾城の菊池氏は「前田利家」との争いの時に「佐々成政」を裏切り、利家と内通し、後にはその養子の菊池大学は加賀藩に仕えた。又、越中半国を知行されていた「佐々成政」は「豊臣秀吉」に越中から肥後への転封を命ぜられた。この時に、佐々成政に味方した高岡市守山城の「神保氏張」は、成政と共に肥後に赴いた。この時に成政に従った越中の諸将も肥後に同行したと見られる。







■南北朝時代末期に、「後いの庄」(正確には「越中吉岡庄」。※後院領を意味している)で戦闘の結果、亡く成ったと云う足利一族の「桃井直常」の孫の「幸若丸」が編み出した「幸若舞」は、明治維新迄「赤丸村」に伝わった。全国の武将に広まっていた「幸若舞」は、明治維新で保護した大名が無くなった為に断絶して、唯一、福岡県みやま市のみに伝わっていた。「幸若舞」は「織田信長」が愛唱した「敦盛」で有名だ。「織田信長」の妹は高岡市の「守山城城主 神保氏張」の妻と成っている。
この様に九州の「菊池市周辺」と越中国の「吉岡庄」との関係も深く、氷見阿尾城の肥後菊池氏末裔は「一時期、赤丸村を占領した」と「越中志徴」(※加賀藩士森田柿園著)に記されており、何と、この「菊池氏」の一族?とも見られる越中の「開一族」が、この福岡県みやま市や阿蘇市に住み着いたらしいと云う。この姓は富山県と九州地区南部にその殆どが住み着いており、最近、九州の「開姓」の方々から、「開一族は元々は肥後菊池氏の一族か家臣で、南北朝の時に活躍した菊池千本槍の中に著名な槍の名手がおり、阿蘇の某神社に祀られてその掛軸も在ると云う。」と御連絡を頂いている。







■では、何故九州と越中にしか「開姓」が無いのか?
この一族は、一度は、南朝の忠臣の菊池氏に従って肥後から越中に入り、その後、再び、佐々氏に従って越中から九州に向かった事が推定できる。現在の氷見市と隣接した「越中吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を郷社とした富山県高岡市福岡町赤丸村周辺の天皇家庄園)は南北朝時代迄、皇室庄園で在り、南北朝時代には【後醍醐天皇】の庄園で在り、皇子の【宗良親王】も「赤丸浅井城」に進駐されたと伝わる「南朝の牙城」で在った。



■南朝で使用された「金地に赤丸」の軍配


■「南朝の牙城」の「越中吉岡庄」⇒後に「五位庄赤丸村」(※「東寺百合文書」)


■「越中絵図」(※「畠山文書」)の「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」の記載がある。
「応仁別記」(※「群書類従20」)には、「応仁の乱」の時に、畠山一族の相続に絡んで畠山持国の子供の畠山政長と畠山義就が争い、畠山義就には「山名氏」が、畠山政長には「管領細川氏」が支援に入り、天下を二分した大乱になった。
「応仁別記」には畠山政長の味方の「細川成之」の側には「開一族」が就いていた事が記載される。
一時期、越中は畠山義就に知行されたが、その後、畠山政長に知行され、畠山義就は追われて河内国に引きこもっている。

「畠山持国」の子供の「畠山義就」の兄弟に「畠山政長」がおり、相続を巡る争いから【応仁の乱】が起こる。









「越中国利波郡五位庄赤丸村の初見」

※命日の一致から、「藤原直家」は「畠山義就」の子供の「畠山修羅法師」の子供と見られる。
(※「大乗院寺社雑事記」)

◆【後醍醐天皇】が目指された「天皇親政」を実現すべく、「明治維新」が進められた。幕末に活躍した【西郷隆盛】の一族「西郷氏」は、【肥後菊池氏系図】(※「続群書類従」)では、この菊池氏に見られる。



■【菊池系図】(※「続群書類従」)


・「肥後菊池系図」に見られる「西郷」


・菊池一族は「後醍醐天皇の女御」を輩出している。


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🔷🔷【ブログバトン「開姓」】より

●九州の福岡に開駅があります。開関連。(※) http://ekinavi.jp/s/fukuoka/
2011/6/3(金) 午前 7:16
●開一族の痕跡が有る開発地には「〇〇新開」「〇〇開」と名前が付けられている。
「開発地にちなんだ姓」と苗字辞典にかれていた。古文書でも有ればルーツがもっとハッキリするんですが------
2013/10/10(木) 午後 11:52
●名古屋市在住の開です!両親も名古屋在住ですが出身は熊本県阿蘇郡です
2014/3/17(月) 午前 7:21
●私の旧姓も開です。京都に住んでいましたが、田舎は富山です。祖父の代
まで土地持ちだった様です。土地を開いたからこう言う名字だと聞いたきがします。
2014/8/9(土) 午後 9:07
●現在は九州の「みやま市」に合併された「開村」が有ったようです。「開村史」参照
2014/8/10(日) 午後 0:34
●東京に実家をもつ開です。
ご先祖様が富山県から明治維新の頃に東京に来たと聞いています。
ウチの親戚だけで東京に3軒あります。
他人様では、東京で二人の開さんとお会いしました。お一方は九州出身といってましたね。
2015/3/11(水) 午後 9:56
● 私は、熊本県菊池市に名前の由来を表す一族のものです。この開の苗字はさかのぼる事600余年南北朝の戦いに、菊池一族の家臣で、槍の使い手として、絵巻物に登場していますが、私もかなり歳を重ねて来ましたので、記憶が途切れてきましたが、ある菊池の小さなお堂にその絵巻物が、飾られていた様に思います。私は現在は阿蘇郡に在住しています。
2015/6/3(水) 午前 1:57
●菊地氏は富山県の氷見市に在った阿尾城の城主で九州の菊地氏の末裔と聞きます。能登畠山氏に従いましたが、その後、前田利家の家臣に成り金沢に移ります。この氷見市近くの高岡市に圧倒的に開姓が多く、上杉謙信、佐々成政に従ってついには佐々成政と九州に動いたという話が有ります。みやま市に昔、開村が在ったと聞き「開村誌」も入手しましたがはっきり分かりません。上杉謙信の下で500石を受けて富山県常願寺の治水に当たり、工事区域に神社を建てて門の中に鳥居を書く「開姓」を賜ったとも聞きます。上杉家臣名簿にも無く、「みやま市」に手掛かりが無いかな?と思います。越中の吉岡庄も一時期、氷見の菊地氏の所領でしたが、この庄園は後醍醐天皇の庄園で後醍醐天皇の冠の太陽から「赤丸村」と呼ばれた南朝の牙城の村が現在も有ります。この辺りに「開」が多く、富山と高岡市、それと州にしか「開」は有りません。更に御教示下さい。
2015/11/3(火) 午後 10:49
●菊池氏の子孫は越中の氷見市に在った「阿尾城」の城主で、一時期、高岡市の一部も所領にしていました。氷見の興福寺庄園の地頭八代氏を頼って菊池市から越中に来たとされ、佐々成政に従い、その後は加賀藩前田利家に城と神社を引渡し家臣になりました。金沢の尾山神社はその神社を祀っています。その子孫の菊池大学は加賀藩で活躍しました。この菊池氏は赤丸村に在った浅井城に在城された南朝の宗良親王の家臣と思われます。開姓が九州の菊池市をルーツにしているとすれば大変な発見です。ぜひその神社探したいものです。
2016/1/2(土) 午前 11:38
●自分の苗字も開です。東京在住で今まで同じ苗字の方にお会いしたことがなかったので、全国にこんなにたくさん同じ苗字の方がいること、開姓に詳しい方々がいることに驚きます。祖父は四国の土地持ちでしたが、もともとは武士と聞いております。
2016/5/2(月) 午前 10:05
●私が結婚する前に、当時福岡県に住んでいたときの話でしたが、その後仕事の関係で熊本は阿蘇に在住していますので、平成28年4月14日~16日の熊本地震で被災しましたが、現在元気なうちにもう一度開家のルーツの示された絵巻の在る小さなお堂を探して写真を撮っておきたいと思います。
2017/1/13(金) 午後 9:57
● 熊本地震で被災され大変御苦労されている事と存じます。改めて御見舞い申し上げます。開姓は越中と肥後に多いのですが、佐々成政は越中から肥後へ転封され、鎌倉時代には人吉の相良氏が越中吉岡庄を頼朝から与えられ地頭に成ります。菊池氏の菊池武勝は流浪して越中氷見に阿尾城を構え、ついには織田、前田に仕えています。肥後と越中はどういう訳か何回も交流が有ります。高岡市の越中吉岡庄(五位庄)は一時期、菊池氏の所領に成っています。是非、伝説の巻物に在る武将開氏について知りたいものです。因みに富山県高岡市の「吉岡庄」は菊池市と同様に南朝勢力で後醍醐天皇の庄園でした。
2017/4/29(土) 午後 9:35

🏯 🌸 越中守山城の城主【神保氏張】とその妻【織田信長の妹】!!

2021-04-11 | 富山県高岡市









「富山県の歴史街道とも云われる小矢部川周辺」


■富山県の小矢部川沿いに守山城が有った。この城は、南北朝時代に桃井直常の「獅子頭城」、斯波義将の居城の「守山城」となり、室町時代には室町幕府管領の畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣の神保氏が「守山城」に入城した。神保氏の最後の城主となった神保氏張は享禄元年(1528年)に能登の七尾城主畠山義たの二男として生まれ、守山城の神保氏純の養子となり、織田備後守信秀(織田信長の父)の娘(信長の妹)を妻にした。
上杉謙信の動静を書いた「北越太平記」(※「北越軍談」)にこのいきさつが詳しく記載されている。上杉謙信44歳、天正元年の記事に「この年、信長の妹を以て越中の神保安芸守に嫁す。是(神保氏張)は上杉謙信の姪の婿、上杉弥五郎義春が兄なり。共に能登畠山修理大夫義則が弟なり。信長は謙信へは入魂の体を顕すと云えども内には野心を持つ。神保氏張を妹婿として越中へ手入れあるに付き、謙信腹立して越中、加賀、越前までも手遣りあり。」と有り。天正二年三月、織田信長は謙信の疑いを晴らす為に「洛中洛外図屏風、源氏物語屏風の各一双」を謙信に贈った。何れも狩野永徳の筆になる。しかし、信長が色々な手立てで上杉領内に手出しをしてくる事を責め、信長に手切れを告げた。信長は誰が讒言したかと陳謝した。しかし、謙信はそれを信ぜず、三万の兵を率いて越中の神保安芸守の籠る「木舟城」を攻め立て、ついで能登七尾城、加賀松任城を攻め、松任城城主蕪木右衛門の首を織田信長に送り付けた。この時に朝倉義景の残党の下間和泉が反乱を起こし、織田信長は三万の兵を率いて敦賀を攻めた。この頃、北陸各地は戦乱が続いたと云う。
(※この時に「赤丸浅井城に下間和泉居城せりと言う。」と「越中志徴」に記載されている。)
『※注; [北越太平記] では「神保安芸守長純」 と記載しているが、織田信長の妹が嫁いだのは守山城の「神保安芸守氏張」であり、「神保長住」は越中守である。頼山陽の著作「日本外史」でも木舟城に「神保安芸守長住」を攻めたとされているが、明らかに是は「神保安芸守氏張」の間違いである。』


この系図では「長純=氏張」としているが、静岡県立図書館の徳川幕臣「神保氏系図」では以下の内容であり、「氏張は氏純の養子」である。

■『※「氏純(童名太郎 神保越中守):越中守山城主 當此時越中守護畠山義則衰武威國人不随其号令国中大乱氏純出張而振威欲領越中時上杉謙信感其武威厚為誓約故属謙信尽軍功 、女 佐々内蔵助成政室 信長封成政而越中守護 」→「氏張(少名清十郎 神保安藝守 實能登畠山義隆二男 越中守山城主):始属上杉謙信 謙信没後信長公封越中半国廿六万石為北国押云々 佐々成政入国氏張住熊本成政家蒙勘初死云々 天正十七年巳丑大神君於濱松城被 名出賜下総国香取郡之内二千石地列交代寄合 慶長五年庚子関原之役依 釣名留守江戸城 後年於江戸没時六十五歳 法名玄皈居士」→長男「氏則(少名清十郎 神保主馬介):室佐々成政女 天正二年甲戌十二月属伯父能登国守畠山義則之幕下」・二男「氏長(神保五郎兵衛):母信長公妹 継父家督領二千石奉仕 台徳公時代為寄合之列 大阪冬夏両御陣供奉有軍功 寛永二年乙丑四月五日没時五十一歳 法名宗英居士」→「氏長の子 氏勝・氏房」→「氏勝の子 氏信」→「氏寿」 と続いた。』






■「神保氏張」は当初、上杉謙信に対抗したが、後には上杉謙信に従い、更に織田信長に従い配下の佐々成政に従い能登攻めに参戦。配下の五位庄柴野城主「寺島牛之助」や赤丸城・浅井城主の「中山直治」と共に石川県押水町(現在は宝達志水町)の末森城に「前田利家」を攻めた。氷見阿尾城の「菊池武勝」の裏切りや五位庄沢川村の「田端兵衛」の計略等も有り、天正13年(1585年)「前田利長」が守山城に入場する。「豊臣秀吉」が越中呉羽山に布陣するに及び、成政は秀吉に恭順の意向を示し、佐々成政と神保氏張は富山城に移り、天正15年(1587年)佐々成政の転封に従って、九州肥後国(熊本県)に移った。しかし、国人一揆の責めを負い佐々成政は自害。神保氏張は浪人となり、天正17年(1589年)「徳川家康」に見いだされて三河に移る。文禄元年(1592年)徳川家康から下総国(千葉県)で2000石を与えられ、文禄元年(1592年)8月5日、65歳で没したと云う。墓所は所領の千葉県成田市の宝応寺。嫡子氏興は佐々成政の婿となり、成政に殉じ、二男の氏長が二代目となる。(氏長の母は信長の妹。)その後、三代氏勝、四代氏信、五代氏寿、六代氏秀と続き、幕末まで神保氏は徳川家旗本として存続した。
(※神保家三代、四代、六代は何れも「市右衛門」と名乗っている。)

▼「群書類従」の系図「群書系図部集」には「織田信長」の姉として「神保氏張の妻」の記載が有る。


■高岡市に有る「衆徳山総持寺」の門徒総代で高岡インター周辺・石堤村や赤丸村の各地を開発した「市右エ門」(*池田) との関係が有るか? 神保氏の家紋は「丸に二つ引き」で池田市右衛門は「丸にエ」であり良く似ている。市右衛門家も代々市右衛門を名乗り、元は赤丸村に広範囲に所領を持ち、浅井城下の浅井神社前に居館を構え、後には守山城近くの国吉名に住まいする。この池田氏の先祖は朝香年木氏に拠ると、源平時代から続く国人領主と推定され、能越道高岡インター周辺の池田、氷見の池田、小矢部市今石動(旧池田)等を開発したと推定されている。又、総持寺の赤丸村の旧地周辺も池田島と呼ぶ。 国吉は神保氏張家臣の寺嶋牛介の領地だった。寺嶋牛介は佐々成政が転封後、前田家に仕官し当初は伏木勝興寺隣接地に兄弟の小島甚助と共に屋敷を構えて、高岡城に勤務していた居た様だ。(※「高岡史料」参照)
(※寺嶋牛介の子孫は高岡町奉行を勤めた寺嶋蔵人。)

《※国吉には現在も「織田木瓜紋」を使用している家系が残る。「越中志徴」には【赤丸の喜田氏が信長に通ず】と記載されており、赤丸村に織田信長縁故の者が住んでいた可能性がある。》


■「神保氏張」の妻(織田信長の妹・名前・生年月日不詳)は天正三年(1575年)氏長を産む。氏張(大永八年1528年生まれ)は能登畠山家から神保氏の養子に入り、守山城城主となっていたが天正4年(1576年)上杉謙信に攻められ激怒した信長により妻は離縁させられ京都に流浪。信長の妹がいつ頃どの様な背景で氏張に嫁いだかは、「北越太平記」と云う古書に記載されているが、上杉謙信が神保氏張の兄(※能登畠山義隆の子)を姪の婿としていた為に、織田信長は謙信の怒りを静める為に、その弟の氏張に自分の妹を戦略として嫁がせたとされている。
「信長公記」の初見は天正六年四月に氏張は信長と会見している。同年、天正六年(1578年4月19日)に上杉謙信死去。氏張はこの年、佐々成政の与力として信長により越中守山城城主・越中半国二十六万石領主に封じられて越中に派遣されるが、天正九年佐々成政が富山城主となり氏張は天正十年失脚して肥後熊本に流浪する。信長は天正十年(1582年6月21日)本能寺の変で死去。天正十二年(1584年)佐々成政に従って、柴野城の寺嶋牛介、赤丸の中山直治と共に能登末森城の前田利家と戦う。佐々成政は敗れて豊臣秀吉が越中に侵攻すると降伏し、しばらく新川を領有した後、天正十五年(1587年)熊本に転封されると氏張もこれに従う。天正十六年(1588年)佐々成政が秀吉に切腹させられると天正十七年には徳川家康に仕官して以後代々徳川幕府の旗本として存続した。氏張は文禄元年(1592年8月5日)江戸で死去。

■(※神保氏張の妻で信長の妹は、神保氏張が上杉謙信に敗れて寺島牛介と共に上杉謙信の家臣となった時には実家に戻ったと見られ、やがて美濃の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁して男子三人、女子二人を産み、娘の一人は織田信長の子息の三吉郎信秀に嫁いだと云う。→「織田信長総合辞典」雄山閣 、「上杉家臣名簿」参照)
(※稲葉系図によれば、この信長の妹の母[信秀の妻]は稲葉貞通の娘の玉雲院であったが、信長により離婚させられてからは祖父の稲葉貞通の後妻になっている。 )

▼「神保氏系図」静岡県立図書館蔵 に拠れば氏張の義父氏純の妹は佐々成政の室となり、氏張の子の氏則の正室は成政の女であり叔父の能登国主畠山義則に仕えている。
※「神保氏系図」静岡県立図書館蔵に拠ると、神保氏張は「少名清十郎 神保安藝守 実能登畠山義隆二男 越中守山城主」義父は「畠山氏純 童名 太郎 神保越中守 越中守山城主」とある。

※「神保氏張寄進状」
【奉寄進氷見金橋山千手寺永領之事、阿怒庄加納村之内、 月成公用参貫三百文、并拾疋之北市町屋口路橋之義者、如法経令寄付候、 依之、老親一道同拙夫逆修毎年法華之如法経弐部、 至来、可遶給旨、現当珍重不可過之者乎、永代於子孫、不可(有)違乱、 然者先年寺島・名中両代、彼地就致寄進、長職寺内十一ヶ条之掟、 殊彼加納之公用、北市町屋口路橋等重而書載、五ヶ条之禁制判形之上者、 長久無侘之妨、全可有御知行者也、仍後証之状如件、
   永禄九年六月十二日    神保宗五郎 氏張判
  金橋山千手寺慧遍法印参】
(『氷見市史』資料編4(通巻6)民俗・神社・寺院)
⇒「神保宗五郎」は系図には無く、氏張の子の「氏長」は「神保五郎兵衛 母 信長公妹」とありこの文書との真偽は解らない。一部の識者は神保氏張と神保長住を同一視しているが、この系図に拠ると全くの別人である。
(※宗五郎は「通称」として氏張の事だとする意見もある。)

■「越中志徴」に「赤丸の喜田氏信長に通ず」とある。神保氏張の実の父七尾城主畠山義隆は上杉謙信に内通した長続連等に暗殺されたとも云われ、上杉謙信が七尾城を攻略すると義隆の妻は謙信の家臣の北条高広に与えられ、その子は謙信の子にされたと云う。北条高広は謙信亡き後、景虎に従って御舘の乱で破れると武田勝頼に走る。武田亡き後は織田信長の家臣の滝川一益に仕え、後に北条氏、更に上杉に帰参した変幻自在の人物で、法名を「安芸入道芳林」と云う。別名を毛利高広、喜多条高広、弥五郎 と云う。官名は丹後守、安藝守。この北条(キタジョウ)は大江氏の一族で、北条氏と区別して「喜多条」と呼ばれた。神保氏張は喜多条高広と同じ「安藝守」と名乗り、上杉謙信の家臣名簿にも載る武将でありながら、おそらく義父の喜多条高広が織田信長の家臣の滝川一益に従った事から信長に内通していたものではないか? 「赤丸の喜田氏」とは義父の「喜多条」の名前から神保氏張を差したものかも知れない。畠山義隆の長男春王丸は家臣に担がれて畠山当主になるが幼くして病没したと云う。義隆の二男少名清十郎(※平姓神保氏系図)が上杉謙信の子とされて二宮氏末裔の守山城神保氏の後継者として送り込まれていたとすれば、この「喜田氏」は氏張の可能性が高い。義父の北条高広が織田家臣の滝川一益に仕えており、密かに通じて、後にはその縁で信長の妹が嫁いだ可能性がある。「北越太平記」に拠ると、氏張の弟が上杉謙信の養子になっていた為に、織田信長は上杉謙信のご機嫌を取る為に妹を氏張に嫁がせたとされている。氷見市史の「老親一道同拙」は義父の北条高広か養父の神保氏純か?

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒を伝える「赤丸古代帳」と言う記録が赤丸村初代村長を勤めた家に保存されている。
その中に【「北越地理志稿 延寶年中 ※1673年~1681年迄」赤丸気多大明神國府南四里式内帳所載浅井神社 中略 礪波郡一宮也 社領弐百石別当鞍馬寺山號川人 以下略】の記載が在り、赤丸浅井神社が気多大明神とされていた事が記載される事から、「赤丸の喜田氏」とは「赤丸村の浅井神社の神官を勤めた山伏西宝院」の事とも考えられる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は、古くは「川人大明神」と呼ばれた記録が在り、喜田氏とはこの神社を指したものか?

🎈【玄米食の薦め】「NHK あさイチ」が報じた【亜鉛不足】⇒【たんぱく質の糖化】による【新型栄養失調症】で、国民は【不妊】・【少子化】に苦しんでいる。

2021-04-10 | 富山県高岡市
あなたは大丈夫!?女性の新型栄養失調|NHKあさイチ
リンク
https://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180704/1.html

●【根本的な少子高齢化対策】

NHKの【あさイチ】では「新型栄養失調症」を取り上げ、【亜鉛不足】による「味覚障害」や【たんぱく質の糖化】によって【不妊】が起こると云う。【亜鉛】が不足するとインスリンの出が悪く成り、子宮表面に「糖化たんぱく質」が脂肪と共に大量に付着してバリヤーを作り、受精を阻止すると云う。糖や飲酒は肥満を生むとは聞いていたが現在の「少子化」の一因が【糖の摂り過ぎ】だったとは!!
微量元素不足による【糖の摂りすぎ】で、子宮内膜症等の内膜異常が進んでいるとすれば、政府は少子化担当大臣にモット広報をさせなければならない。高額な不妊治療費を保険補助する事を希望する若い夫婦は多い。高額な不妊治療に数百万円もかける夫婦もいる。不妊治療は時には手術を伴い、夫婦の苦痛は永く、続く。
この【亜鉛不足】・【インスリン不足】・【糖化】は、近年、【米】の摂取が減った事も一因の様だ。実例でも、人工受精や不妊治療を18年も続けた夫婦が【微量元素の摂取が少ない】事に気づいて【マグネシュウム】を含む【玄米】を食べ始め、一年以内に突然、子宝が授かったケースがある。又、この事を子宝に恵まれない知人に教えた所、その夫婦も男女の双子を授かったと云う。コレがNHKが報道した【マグネシュウム不足⇒インスリン不足⇒子宮内膜の糖化⇒受精の阻害】と言う仕組み対策の結果で在った事は驚きで在り、単に【米を食べたくない】と言う趣向の問題では無い。外国の圧力で長い間、国民に小麦やパン等をアピールしてきた政府の政治責任でもある。【政治の無策】で国民は【肥満】や【不妊症】に成り、結果、国家としても【少子高齢化】に苦しんでいる。
《某衛生管理者の呟き》

■富山県西部の【越中吉岡庄・五位庄】からは、古代から「天皇家」や「足利義満」の庄園に成り、京都の「賀茂御祖神社」、「門跡寺院聖護院」等に良質の米が寄進され続けた。




富山県西部の高岡市福岡町赤丸村の周辺は、平安時代の「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~南北朝の「後醍醐天皇」に至る迄続いた【上皇の庄園(後院領)、天皇領】として続いた【越中吉岡庄】と呼ばれ、室町時代になると、「五位庄」と改名されて、幕府直轄領の「室町幕府御料所」に成り、「室町幕府第三代将軍足利義満」は室の業子の菩提を弔う為にこの庄園を自らが創建した京都の「相国寺」(金閣寺)へ寄進した。

◆平成18年10月の北日本新聞には富山県の「赤丸米」と「氷見のはざがけ米」、「新潟魚沼米」を食べ比べたところ、1位 「赤丸米」、2位 「氷見のはざがけ米」、3位 「新潟魚沼米」の順だったとの報道が有りました。
富山県農業改良普及センターの職員や五つ星お米マイスター等15名が食べ比べてこのような結果でした。赤丸米は小矢部川流域のきれいな水に育まれています。

🔽「赤丸米」は富山県高岡市福岡町赤丸の「農事法人赤丸農産」の登録商標です。(赤丸地内には他に「赤丸産米コシヒカリ」等の名称で販売されている商品もあります。)赤丸地内にはこの特産の「赤丸米」が食べられる【赤丸ちゃん】と云う食堂もオープンしています。



📕📖 「加賀藩士 小瀬甫庵」の著作「太閤記」⇒付録「太閤素性記」、「祖父物語」、「秀吉公遺物於加賀大納言利家卿被下覚如帳面寫之」

2021-02-14 | 富山県高岡市
●加賀藩士【小瀬甫庵】の著作「太閤記」⇒金沢市東山には甫庵一族の墓が遺る。!!





■【小瀬甫庵】尾張国春日井郡上野の人で美濃守護「土岐氏」の支流であると言われ、坂井下総守の養子となった。医学と経史を学んで織田家家臣の「池田恒興」に医者として仕え、その後、「豊臣秀次」に仕え、秀次死後、文禄4年(1595)は「宇喜多秀家」、関ヶ原の戦い以後には出雲の「堀尾吉晴」に仕え、慶長16年(1611年)頃には友人の「太田牛一」のものを基として『信長記』を刊行している。「堀尾吉晴」の没後に浪人となり、寛永元年(1624)には息子の「小瀬素庵」が「前田利常公」に仕えた縁から加賀藩で知行を貰い、後に諸書の著述に専念医書などを刊行した。寛永10年代(1634年~)に『太閤記』を刊行した。

(※寛永元年[1624年]に子の「小瀬素庵」が「前田利常」に仕えた縁で加賀藩で知行250石を貰い、藩主の世子「前田光高」の兵学の師となり、諸書の著述に専念。医書などを刊行した。慶長16年(1611年)頃には「太田牛一」が著した『信長公記』を元に『信長記』(「甫庵信長記」)、寛永10年代には『太閤記』(「甫庵太閤記」)、他に『童蒙先習』『太閤軍記』『天正軍記』をそれぞれ刊行。寛永17年(1640年)、死去。)





■【小瀬甫庵】は加賀藩の碌を得た為に、「太閤記」では「前田利家」の事績について詳しく記載しており、豊臣恩顧の大名としての記載が多い。この書には、「豊臣秀吉」や父・祖父の素性、秀吉亡き後の遺品を家臣たちに分配した「目録」も掲載されており、その中には、越中の刀工「宇多国光」・「宇多國宗」・「佐伯則重」等の刀剣目録も記載されている。
(※「宇多派刀工」は大和国宇陀郡から越中吉岡庄赤丸村領三日市に住み、南北朝時代から江戸時代迄続いたと云う。赤丸村には鍛冶師が工房を構えた「鍛冶屋町島」が在り、江戸時代にも「盛阿弥」が住まいしたと云う。鍛冶屋でも、「鋳物師」等は「鍛冶師」と云い、「刀工」は「小鍛冶」と呼ばれた。)


















📚📃【華頂要略】に記される【越中福田庄】 ➡「国立歴史民俗博物館」の『庄園データーベース』に記載される鎌倉時代の『慈円』の庄園「福田庄」(※高岡市福田)の記録!!

2021-02-14 | 富山県高岡市


富山県高岡市福岡町赤丸を中心に広がっていた「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」の庄園【越中吉岡庄】に接して展開していた【越中福田庄】の記録!!




●「華頂要略」に記されている「越中福田庄」




■『越中西部』には藤原氏の庄園が広がっていた。
「慈円」【久寿2年4月15日(1155年5月17日)~ 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)】は、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台の僧で『愚管抄』を著した事で有名だ。諡号は慈鎮和尚(ジチンカショウ)、通称は吉水僧正(ヨシナガソウジョウ)と呼ばれる。父は「越中吉岡庄」を所有していた「藤原頼長」の兄の摂政関白「藤原忠通」、母は藤原仲光の女加賀、摂政関白の「九条兼実」は「慈円」の同母兄に当たる。
(※浄土真宗の親鸞は関白九条兼実の息女・玉日姫と結婚している。)



■「慈円」は若くして青蓮院に入り仁安2年(1167年)には天台座主の明雲について受戒し建久3年(1192年)には38歳で天台座主になる。後に、「慈円」の天台座主就任は4度にも及んだ。兄の「九条兼実」の孫の「九条(藤原)道家」の後見人を務め、「藤原道家」の子の「藤原頼経」は鎌倉幕府将軍として鎌倉に下向した。「後鳥羽上皇」の「承久の乱」では反対して『愚管抄』を書いたとされるが、「承久の乱」で「後鳥羽上皇」が隠岐島に配流されて九条兼実の曾孫の「仲恭天皇」(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願っていたと言う。









■「藤原道家」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の神域でも在った小矢部市の「宮島郷」を庄園としていたが後には幕府に返納している。(※「鎌倉遺文」)

■又、「九条兼実」の娘は「越中吉岡庄の領主の後鳥羽上皇」の中宮「任子」で在った。
高野山下の女人高野と呼ばれた「河内金剛寺」から、元々赤丸村に在った総持寺に国宝にもなった「木造千手観音座像」が伝えられて、その観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名『金剛位理卿』が記載されている。







🔷🔶🔹【幕末の剣豪 斎藤弥九郎】⇒氷見市~高岡市~江戸への流転の果てに掴んだ剣豪への道!!

2021-02-14 | 富山県高岡市




■斎藤家は藤原氏の頭領「加賀林氏」の一族で、一向一揆で敗れて自害した「富樫一族」の末裔とも云う。
(※藤原氏で斎宮守に任じられた一族は「斎藤」と名乗った。)

■富山県氷見市仏生寺生まれの「斎藤弥九郎」は寛政十年(1798年)に生まれ、十三歳の時に高岡へ出て油屋の小僧に成った。雪の中を荷車を引いていた時に車がぬかるみに嵌まった。その時に向こうから加賀藩の殿様の行列がやって来て、先触れの若い侍が「片寄れ!」とムチで殴りつけた。他の若衆が慌てて雪道から車を引き上げてくれたが、弥九郎は雪の中に平伏して悔し涙を落として行列の過ぎ去るのを待った。その時に「武士で無ければ人間扱いもされない」と痛感したと言う。武士になるには文武の修業をしなければならないと思い立った弥九郎はその日に油屋を辞めて木舟町の薬種問屋の小僧に成った。薬種問屋は劇薬も使う為に小僧にも文字を教えたからだ。そこで一年余り働いて銀一歩を貯め、十五歳の時に江戸に出て高岡近くの生まれの土屋清五郎と言う徳川御三卿の清水家家臣の下男に成った。熱心な性格に感心した土屋は幕臣の能勢祐之丞の若党に推薦してくれた。この時から弥九郎は先祖の姓の「斎藤」を名乗った。斎藤家は金沢の富樫家の末裔と言われ、藤原氏の名門の加賀林氏の一族で在り、藤原氏から斎藤氏が出ている。
能勢家の若党を三年ばかり勤めた後に、主家の能勢は 弥九郎の猛勉強と布団に寝る事も無く努力する性格を認めて弥九郎を神道無念流の岡田十松の撃剣館に入塾させた。二十三歳の時に師範代に成ったが、文政三年、岡田十松が亡くなり、文政八年には堀和兵衛の娘を妻に貰って翌年、江戸南飯田町に兵法全般を学ぶ練兵館道場を開く。天保六年(1835年)には伊豆韮山代官江川太郎左衛門に仕えて、代官所の与力用人として四人扶持を受ける。伊豆は貧しい漁村で博徒が多く大親分が二人も居て手を焼いていたからだと言う。
嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して、幕府は品川沖に砲台を築く事に成り、江川太郎左衛門に命じて、その監督は弥九郎が担当した。弥九郎は先ず伊豆の博徒の親分に掛け合い数百人を台場にかりあつめて砲台建設の人夫にして、その他にも関東各地から人夫を集めて1年足らずで五ケ所の海上砲台を築いたと言う。この時に、長州の「桂小五郎」(後の木戸孝允)も練兵館の塾生として弥九郎の従者として付き添ったと言う。
斎藤弥九郎は後に維新政府に仕えて明治四年(1871年)に74歳で病没した。

🌸📖📜 【 越中国射水郡 東大寺庄園須加庄】 平安時代の「桓武天皇」・「早良親王」の姪「五百井女王」庄園⇒【越中國 國吉名】の古代庄園の秘密 !!

2021-02-14 | 富山県高岡市
■東大寺の古代庄園【越中須加庄】は、越中西部の「利波郡」の高岡市頭川と言う地域に在ったとも云われるが、「国指定重要文化財東大寺庄園図」には「射水郡」と記載にされている。時代によっては射水郡と利波郡の郡界が動いた時期も在り、その判断は明確ではない。
因みに、室町時代には現在とは全く異なる行政区域で、越中国は八郡に別れており、室町時代の[利波郡]は小矢部川と庄川の間で在り、「現代」の「礪波郡」は高岡市の赤丸を含む福岡町や福光町が「西礪波郡」に入っていた。又、室町時代以前の「射水郡」は国吉村辺り迄の南部の一部が含まれていた可能性は高い。又、【小矢部川の流れは古くは西山の麓に沿って流れ、「赤丸浅井神社」の前で、「小矢部川」と「庄川」が合流していた】と赤丸浅井神社の別当で皇室縁の門跡寺院聖護院の末寺「川人山鞍馬寺三社誌」に記載されている。

🔽「越中絵図」(室町時代の「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
この絵図には、「利波郡」の「赤丸浅井城」に【室町幕府 越中守護畠山持国】の名前が見られる。












■「東大寺庄園須加庄」は、桓武天皇・早良親王の姪の「五百井女王」が東大寺華厳院に寄進された庄園で在った事を示す文書。



「東大寺須加庄」は高岡市の國吉地内に比定され、その位置も四ヶ所が想定されている。この遺跡を縦断して「能越自動車道」が計画され、一帯は史跡調査が行われた。その結果、一帯からは古代の農耕史跡や中世の陶器の破片等が広範囲に出土した。
今日迄、この庄園の成り立ちも分からず、いろいろ推測されてきた。この庄園だけがかつて西山の山裾を流れていた小矢部川沿いで、西山の山裾沿いに立地していたとされている。この辺りには「頭川温泉」がかつて在った事から、「須加」は後に「頭川」となったと推定されている。
「東大寺」の奈良時代の古代庄園の開発には越中の古代氏族の「利波臣志留志」が広範囲に関わっていた。「越中利波郡郡司利波臣」の記録に就いては、滋賀県の石山寺の古文書の中に「越中国官倉納穀交替帳」と呼ばれる「砺波郡に在った官の穀倉の記録」が在る。その中には当時の国司や郡司等の役人の氏名が細部にわたり記されている。その中には唯一、東大寺大仏造営の為に米五千石を寄進して国司待遇を受けた「利波臣志留志」の一族の「利波臣」が郡司として数多く記載されている。

「東大寺庄園須加庄」の記録は「平安遺文 古文書編 第一巻」に記載されており、更に、「東大寺庄園杵名蛭庄の庄長船木弟虫」の名前や、越中国から東大寺への寄進状等が記載されており、「能登内親王」やその娘の「五百井王」が「般若寺」に地代や米を寄進した事も記載されている。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木-伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇-同郡耳利神社祠官)、船木臣、船木宿祢(舟木、堀内-伊勢国一志郡人。乙部、中村-伊勢人)】

又、驚いた事に、その中の「東大寺東南院文書」の中に「須加庄」が「東大寺」(※東大寺の子院華厳院)に寄進された詳細が記載されている。それによると、この庄園(五町歩)は延暦六年三月廿日に「従四位上五百井女王家から東大寺華厳院に寄進された」と記載されている。又、この時の「庄長」は「川邊白麻呂」で有り、事務取扱は「中宮史生高向諸上」で在ったと云う。この庄園は始めから東大寺の為に開発されたものでは無く、貴族からの寄進に拠る庄園で在った事が判明した。

【当時の出来事】
・延暦4年(785年)9月、「長岡京造宮長官藤原種継」が暗殺される。
「早良親王」(※桓武天皇の弟)⇒藤原種継を嫌って暗殺に加担したとされて廃太子となり淡路へ配流の途中食を断って薨去
・延暦6年 桓武天皇の姪の五百井女王から東大寺華厳院に「越中須加庄」(※高岡市国吉)を寄進(※「平安遺文」)
・延暦7年(788年)最澄が比叡山に延暦寺を創建
・延暦13年(794年)10月22日、新京に遷都。征夷大将軍大伴弟麻呂、戦勝を報ずる。
山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と名づける。
・延暦14年(795年)征夷大将軍大伴弟麻呂ら凱旋。この頃大極殿落成。
・延暦15年(796年)隆平永宝鋳造。
・延暦16年(797年)征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷を鎮圧
・蝦夷平定後、陸奥国に胆沢城造営、鎮守府設置
・延暦16年(797年)「続日本紀」完成
・延暦18年(799年)この年に「越中国」で大飢饉発生(※「日本後紀 桓武天皇」)
⇒数回も勅使を派遣して物資を送り、僧三百人、沙彌五十人が禁中、東宮朝堂で大般若教を読経した。
・延暦19年-21年(800-802年)、富士山が噴火(延暦大噴火)
【⇒飢饉や火山噴火は早良親王の祟りとして怖れる。】
・延暦22年(803年)陸奥国に志波城造営
・延暦23年(804年)最澄・空海ら入唐
・延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇崩御

〇 「古事記」に拠ると、「川邊臣」は『蘇我石河宿禰』の一族である。
⇒【此建內宿禰之子】、幷九。男七、女二。『波多八代宿禰』者、波多臣林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次『許勢小柄宿禰&者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次『蘇我石河宿禰』者、蘇我臣川邊臣田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次…『平群都久宿禰』者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次『木角宿禰』者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次『久米能摩伊刀比賣』、次『怒能伊呂比賣』、次『葛城長江曾都毘古』者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又『若子宿禰』、江野財臣之祖。(古事記)


●五百井(イオイ)女王 ; 生年不詳 - 弘仁8年10月10日(817年11月22日))は、平安時代前期の皇族で女官。叔父桓武の朝廷等で高級女官として活躍した。 摂津大夫市原王の子。
母は能登内親王→[母は高野新笠。桓武天皇の同母姉。天智天皇皇玄孫(四世王)の市原王に嫁し、五百井女王、五百枝王(後に春原五百枝)を生む ]
兄弟に春原五百枝(五百枝王)。従二位、尚侍。母は光仁天皇の皇女。天応元年(781年)8月、二世王の待遇として同母兄弟の五百枝王と共に無位から従四位下に叙される。延暦3年(784年)11月には従四位上に昇叙。兄弟の五百枝王は延暦4年(785年)の藤原種継の暗殺事件に連座して伊予国に配流されたが、五百井女王はそのまま宮廷に残ったらしく、延暦13年(794年)平安京に家屋新造のため国稲を賜る。延暦15年(796年)7月に正四位下に昇叙。延暦19年(800年)1月、桓武天皇が五百井女王の庄に行幸。大同元年(806年)、尚縫。大同3年(808年)11月従三位。弘仁4年(813年)1月正三位。弘仁6年(815年)7月従二位に昇る。弘仁8年(817年)、薨去の際の官位は尚侍従二位。
●「般若寺」;般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方に有り、聖武天皇が伽藍を建立されたと伝わる古寺。コスモス寺と呼ばれる。
・「平安遺文 古文書編 三八」『五百井女王家施入状』
尚侍従二位五百井王家 白米肆斛 右故能登内親王去寶龜十一年以品田壹町地子、奉入般若寺佛御供養䉼(=料)、而忘漏、未奉其實、仍今追一箇年之地子代奉入如件、
弘仁六年十月廿五日少書吏大初位下杖部路忌寸「道麿」
●早良親王;桓武天皇、能登内親王の同母弟。延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したとされる。親王は東大寺の良弁等の信頼が厚く、東大寺の運営にも関与した様で、桓武天皇の皇太子となったが天皇にはなっていない。(※『東大寺華厳別供縁起』) 早良親王が亡くなると、様々な不幸が続き「憤死した早良親王の怨霊の仕業」と怖れたと云う。五百井女王 が東大寺華厳院に「須加庄」を寄進したのは、この早良親王と東大寺の親密な関係が有り、怨霊として怖れられた早良親王の供養の為で在ったか?
⇒元、越中国司として赴任していた「大伴家持」は、この「藤原種継暗殺事件」に大伴一族の者が関わっていた事からこの事件の主謀者とみなされて、死亡後で在ったにも関わらずその葬儀も許されず遺体は塩漬けにして放置され、資産は没収された。しかし、後にはその名誉回復が為され、資産も一族に返還されたと云う。



◎高岡市國吉地区の一画にある柴野地区に「八幡神社」が有り、この神社の由緒に「往昔、陽知之郷の中心地であった。 」と記載されている。この「陽知」は奈良時代の初期庄園の名前で有り、この少し小矢部川上流の地域は「砺波郡河合(川人)郷」(赤丸浅井神社周辺)がある。天平15年(743年)に「墾田永年私財法」が発布され、貴族や寺院に拠る大規模開発が進んだ。砺波郡には「河上、八田、河合、拜師、長岡、大岡、高柳、陽知、三野、意悲、大野、小野」が有った。「赤丸浅井神社」は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」(※後に高円朝臣となる)が開いたとされる。
[※ 続日本紀巻第廿二 《天平宝字四年(七六〇年)二月壬寅【壬辰朔十一】》○二月壬寅。従五位下石川朝臣広成賜姓高円朝臣。]

■ 越中の東大寺庄園跡は「八幡神社」が多く勘請されている様だ。之は聖武天皇が東大寺大仏造営の時に宇佐八幡宮が積極的に支援してくれた事に感謝して、東大寺に宇佐八幡宮を勘請した事に始まる。
又、「平安遺文 古文書編第一巻」の「内閣文庫所蔵文書68、69」には「砺波郡大野郷井山庄邊並 宇治虫足之保者」として、「利波臣志留志」が東大寺に寄進した「井山庄100町」は「砺波郡大野郷」に在った事が記載されている。

〇「平安遺文 古文書編第一巻 東南院文書」
『東大寺封戸荘園并寺用帳 天暦四年(951年)』
越中国田七百卅九町七段百八十歩
礪波郡狩城庄田百町 石粟庄田百廿町
射水郡須加庄田五十六町七段二百九十四歩 俣(クラ)田庄田百卅町八段百九十二歩 成(鳴)戸庄田五十九町八段百卌歩 鹿田庄田卅町三段二百歩

⇒「狩城庄」;伊加流伎(いかるぎ)庄--砺波市柳瀬、下中条方面。現在の庄川本流の下も含む。12世紀には狩城庄。現在の砺波インター周辺。近くに比売神社が在る。








(※「古代砺波の地方豪族」米田雄介、「平安遺文 一巻」、「越中石黒系図」等から編集)