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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🏯 【高岡史料】越中高岡の歴史書に見られる越中高岡市の「古寺 衆徳山総持寺」の由緒!!

2021-02-14 | 富山県高岡市
●【高岡史料】(※高岡市教育委員会編纂)に見られる「高岡市開町」の資料絵図。

・「高岡古城図」


■【高岡】の古名は通説に言われた「関野」では無く、【高野】と記されている。




■高岡の旧市街地は「千保川」で削られた「河川段丘」の上に在る。往古は水郷に囲まれた地域で、河川の物流に適して居た。

前田利長菩提寺の「瑞龍寺」の敷地は、「天景寺」等の寺院群を移転させて確保された。



■【衆徳山総持寺 由緒】 には、「本尊の千手観音は那古海より上り給う」と記されている。室町時代になると、足利幕府御料所の「五位庄」が「足利義満」によって「相国寺」へ寄進された為に、「総持寺」は赤丸村から海沿いの「六渡寺村」に動き【浜総持寺】に改名されて居たと言う。「浜総持寺」では、越中守護「畠山満家」の三回忌法要が営まれた。(※「名古屋大須観音」(真言宗真福寺)の古文書に記された記録と合致する。)

■「相国寺」の記録「蔭涼軒日録」の長禄三年十月の項には、「越中五位庄」に在った「越中国総持寺」の所領が安堵された事が載っている。
(※「能登総持寺」は別に「能登国総持寺」と記載されている。)




(※室町時代には「六渡寺村」は「利波郡」に成って居た。那古海は日本海の事で富山湾の伏木港に面して小矢部川河口に突き出した地域が「六渡(動)寺村」⇒「畠山文書」羽曳野資料叢書)






💠🏯【石堤村西光寺縁起に見られる藤原氏の「井口氏末裔」】と『 足利季世記』(畠山記)⇒越中国放生津に落ち延びた「室町幕府第十代将軍足利義稙」!!

2021-02-14 | 富山県高岡市





■越中国は室町幕府にとって重要な国で在り、管領畠山氏の領国で在り、「第三代将軍足利義満」は「越中国五位庄」を室の日野業子の追善料として自ら創建した「相国寺」に寄進している。「足利義満」の母の「紀良子」は富山市の蜷川郷に蜷川城を構えた「越中蜷川氏」の血を引き、当時、越中国の射水郡と砺波郡はこの蜷川氏が政所代として統治したと云う。蜷川氏は足利義満の近臣蜷川新右衛門を輩出し、蜷川新右衛門は連歌の「宗祇」の高弟で在った為に宗祇は越中に来たり、「五位庄」には「宗祇塚」と称される場所も在る。又、この連歌の形を遺す「舞句」の文化が現在も尚、福岡地域・赤丸村に遺されている。




(※「越中蜷川系図」参照)

■この時期に砺波郡は現在の高岡市国吉村から南砺市福野町の「野尻郷」迄を含んだ広大な地域で在った。又、新川郡も魚津市から富山市迄の広大なもので、実際は富山県の大半が越中蜷川氏の統治下に在ったと云える。
(※「東寺百合文書 やなた某書状案」、「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)

★「畠山文書」に掲載される室町時代初期の「越中絵図」!
越中は八郡に分かれており、その内の「足利幕府御粮所」で在った「五位庄」はほぼ砺波郡全域に近く、その中には「福野町野尻」も含み、高岡市中田から砺波市にかけての「般若野庄」には「五位の東庄」も含まれた。又、北は伏木港にも及び、ほぼ、小矢部川の流域を含む広大なエリアに成っていた。
(※「東寺百合文書」)

◆「御粮所」;(兵粮料所)
室町幕府が兵粮米(※軍事用食糧)の徴収を目的として武士に与えた土地で、元々は寺社や公家の庄園で、武士の領地では無く兵粮米の徴収権利だけを与えたものだったが、後に、領主と武家が土地を折半し,半分を庄園領主の寺社や公家に残し、半分を武家の領地とした。これを、半済給分 (ハンゼイキュウブン) と呼ぶ。「畠山文書」の「越中統治絵図」では、砺波郡(※利波郡)各所の武士の領地を記載している。五位庄の「赤丸浅井城」の周辺は畠山一族の「畠山持国」の所領として記載される。

■【砺波郡は「蓮間郡」(※五位庄西庄の一部)と「利波郡」(※五位庄西庄・東庄)に分かれており、「五位庄」は富山湾伏木港から福野町野尻辺り迄の広範囲な範囲で在った事が分かる。小矢部市の蓮沼城を拠点としたとされる「遊佐氏」はこの越中絵図では、高岡市福岡町木船の「木船城」辺りに記載される。
「遊佐氏」は元々、「越中吉岡庄や奥州五庄等の全国に庄園を所有した藤原摂関家長者藤原頼長の庄園」の「奥州遊佐庄」の庄官を勤めて室町時代には越中、能登に進出している。
又、「利波郡」を知行されたと伝わる「越中蜷川氏」の所領はこの絵図には無く、「赤丸浅井城」に記載される「室町幕府越中守護畠山持国」の守護代を勤めたものと見られる。「蜷川家文書」には、氷見郡に守護代神保氏を配置して、蜷川氏が「室町幕府政所代」として 「氷見郡阿怒庄」を支配していた記録が残る。】












■室町幕府第十代将軍足利義稙は長享3年(1489年)に9代将軍の足利義尚と、続いて死去した伯父の足利義政の後継者として上洛して第10代将軍に就任した。その後、管領・細川政元と対立して明応2年(1493年)将軍職を追われて幽閉され(明応の政変)たが、脱出して越中守護代神保長誠を頼って放生津城に落ち延びた。次いで越前国へ逃れて、諸大名に号令して将軍に復職する事を目指しながら逃亡生活を送った。周防国大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都へ入り将軍職に復帰した。しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領細川高国(政元の養子)と対立して大永元年(1521年)に細川晴元・細川持隆を頼って京都を出奔して将軍職を奪われたが、終には大永3年(1523年)逃亡先の阿波国で死去した。

(足利義稙(※「越中公方」);初名は義材(ヨシキ)。将軍職を追われて逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(ヨシタダ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)に義稙(ヨシタネ)と改名している。越中国放生津では越中神保氏の支援を得て臨時政権を立てたものの再び越前に逃れた。 )

【足利家記】(※「羽曳野市資料叢書」)


【足利季世記】(※「畠山記」明治16年写本)



















■高岡市石堤村の「西光寺」には室町幕府将軍足利義稙との逸話が遺されている。
◎「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

📒📑 足利将軍近臣の越中蜷川氏「蜷川新右衛門親元」の記録に見られる「越中氷見阿努庄」⇒ 藤原氏庄園から足利幕府御糧所となった山里、越中防衛の要所!!

2021-02-14 | 富山県高岡市


🔽「室町幕府越中統治絵図」




■越中、能登、河内等の守護を歴任した「畠山氏」は、「蜷川氏」、「神保氏」、「遊佐氏」等を「守護」、「守護代」、「代官」として配置している。(※「畠山文書」大阪府羽曳野市資料叢書、「羽曳野市史」)
南北朝を統一した「足利義満」は、富山県高岡市福岡町を中心として、南は南砺市、北は伏木港、西は石川県境の西山、東は高岡市中田地区に在った「般若野庄」の手前迄を含んだ「利波郡越中五位庄」を、当初は幕府の兵粮を賄う「御粮所」としていたが、その後、義満の妻の「業子」が亡くなると、その菩提を弔う為に「臨済宗相国寺」の庄園として寄進した。この時に「足利義満」は「室町幕府管領」の【畠山満家】に委ね、「赤丸浅井城」にはその子供の「畠山持国」を「越中守護」として配置していた。当時、「守護」は在国しなかったとされる事から、「蜷川氏」や「神保氏」等に守護代として統治に当たらせていたと見られる。同様に「室町幕府御粮所」に成っていた氷見郡の「阿怒庄」には「神保氏」を守護代に任じて「幕府政所代」の「越中蜷川氏」が支配していた記録が在る。「阿怒庄」では、「神保氏」の怠慢に怒り、「越中蜷川氏」の「蜷川新右衛門親元」が「神保氏」に代わりに直接統治した。



■足利将軍近臣の「蜷川新右衛門親元」の文書(※「蜷川家文書」大日本古文書 家わけ第21)に見られる越中氷見郡阿努庄の記録!!
「阿努庄」は加賀藩時代には高岡市、大門町、小杉町、氷見市等を広範に管轄した射水郡奉行管轄で在った。
(※「阿怒庄」とも記載される。「蜷川新右衛門」の菩提寺は富山県富山市蜷川の「曹洞宗最勝寺」➡元は臨済宗。室町時代に最勝寺創建の僧「亀阜豊樹」は「赤丸浅井神社、「川人山鞍馬寺」で法要を営んだ記録が「富山県史中世」に在る。蜷川氏は室町時代に政所代として「利波郡」を統治した。)

◆「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園の「越中吉岡庄」(富山県高岡市福岡町赤丸)は、南北朝を合一した「足利義満」の時に「室町幕府御粮所越中五位庄」に改名されて、「足利義満」は「室の日野業子」が亡くなると、自らが創建した「相国寺」に「業子」の菩提を弔う為に「五位庄」を寄進した。その後も、この庄園は足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」の庄園として存続した。「畠山文書」(※羽曳野叢書)に拠ると、「五位庄」と改名された「利波郡」の「福光城」、「木舟城」には「石黒氏」が、小矢部川以西の「蓮間郡」の隣接地の「赤丸浅井城」に守護畠山氏の一族の「畠山持国」の記載等が見られる。しかし、「東海和尚法語録」(※「富山県史中世」)に史上初めて見られる赤丸村の記録では、「五位庄利波郡赤丸村住藤原直家」と在り、赤丸村は「利波郡」に属して居た事も記載される。











■「越中阿努庄」は古くから藤原氏の庄園だったが、室町時代には足利幕府の直轄御粮所に成り、幕府政所代の蜷川新右衛門親元が直務した。
「蜷川家文書」には「親当」の子供の「親元」の発給文書が在る。「親元」は当初、越中の神保氏を代官にしていたが神保氏の横領が続き、遂には代官を罷免して蜷川新右衛門親元が直轄管理した事が「蜷川家文書」に見られる。(※蜷川家では、代々「新右衛門」を名乗っている。)



🔽この阿努庄(阿怒庄)は古くは氷見の屋代(八代)氏が地頭を勤め、「藤原摂関家長者九条兼実」が創建した「東福寺」の庄園だったが、「承久の乱」後に度々、戦乱に巻き込まれて、遂には足利氏の直轄庄園になった様だ。この頃、隣接の「越中吉岡庄」は「五位庄」になっていた(※「東寺百合文書 やなた文書」斯波義将の統治)が、「五位庄」もその後、足利義満の妻の菩提を弔う為に義満創建の「相国寺」に寄進され、守護畠山氏、政所伊勢氏、政所代蜷川氏が統治していた様だ。(※「蜷川の郷土史」)


■■「足利義満」の死後の文永18年(1411年12月11日)に義満の母の「紀良子」は、「五位庄」の隣接の「氷見阿怒荘」を孫の仁和寺法尊に譲渡している。1413年紀良子死去。
(※「大日本古文書 蜷川家文書」東京大学資料編纂所、「富山県史 中世」、「角川日本地名大辞典)


🔻『伊勢平氏系図』に見る「平清盛」、「北条氏」、「織田氏」等



🔽伊勢平氏「伊勢氏」は室町時代には「足利義満」の母「月海夫人」の一族の「越中蜷川氏」 と婚姻して、代々、室町幕府の「政所執事」、「将軍の養育係」を歴任して、「政所代」の「越中蜷川氏」と共に幕府の要職を歴任した。
その後、「貞興」の時に明知光秀と共に「本能寺の変」に加わり、遂には山崎の戦いで殺害された。
伊勢氏は、徳川時代には三代将軍家光に認められて、有職故実を伝える高家として幕末迄続いた。






■加賀藩統治時代には、元禄の頃の射水郡奉行の記録に「あぬの庄」として見え、射水郡に含まれていた様だ。
江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」は射水郡南條保仏生寺村に生まれ、若くして貧困にあえぐ山村から高岡の商家にでっち奉公に出て文字を学び、遂には江戸に出て剣豪と呼ばれる迄になっている。







■【江戸時代の射水郡奉行の管轄】
(※「射水郡誌」)
「倉垣庄;小杉、願海寺他〆37村」、「法内庄;青井谷、浄土寺他〆8村」、「大袋庄;小杉、姫野、放生津他〆31村」、「東條郷;水戸田、高木他〆31村」、「浅井郷;小泉、島村他〆5村」、「半村庄;松木、中曽根他〆8村」 、「二上庄;蓮華寺、赤祖父、大門、佐野、十二町分、横田、長慶寺、上関、能町、六渡寺他〆67村」、「二上の庄下西條;渡り、二上、守山、五十里他〆20村」、「南條保;柳田、仏生寺、神代他〆37村」、「あぬの庄;鞍川、余川、池田新他〆14.村」、「上の庄;池田、熊無、池田他〆24村」、「八代庄;大境、吉岡、国見、阿尾、吉滝他〆30村」

■若き頃、氷見市の仏生寺村から高岡市の商家にでっち奉公をして苦学して、遂には江戸で剣豪として名を成した「斉藤弥九郎」。この家は加賀富樫氏の末裔とも言われ、古くから現在に至る迄、数度に亘り赤丸村の柴野城城主寺島牛介一族の子孫とされる寺島家とも縁組している。





🔘「越中吉岡庄」石堤村の『西光寺縁起』に見られる「越中井口氏」と「足利幕府足利義材」の放生津滞在。

2021-02-14 | 富山県高岡市
■「越中吉岡庄」は南北朝時代末期に「五位庄」と改名された。(※「宝永誌」、「東寺百合文書」)室町幕府第三代将軍「足利義満」は、「五位庄」を自ら創建した「相国寺」の庄園として寄進して、その後も足利家菩提寺「等持院」、「等持寺」の庄園として続いており、「越中統治絵図」(※「畠山文書」羽曳野叢書)では、赤丸浅井城周辺は室町幕府の能登畠山氏「畠山持国」の所領で在ったとされる。









■赤丸村隣地の高岡市石堤に在る「西光寺縁起」に、「井口氏」と越中吉岡庄地域との関わりを示す痕跡が見受けられる。「西光寺」は赤丸浅井神社の至近距離に在る。北陸の藤原氏の頭領の【加賀林氏系図】には【井口氏】が見られる。越中の井口村には井口氏の古城跡が残る。「保元の乱」以前は、赤丸村周辺の「越中吉岡庄」は「藤原氏長者・左大臣 藤原頼長」の庄園で在ったが、加賀林氏は「藤原頼長」の配下で在ったと云う。この井口氏と赤丸浅井城、木舟城の城主の石黒氏は同族で在り、加賀林氏と縁組して越中西部を統治していた。
《※「加賀林氏」北国新聞刊、「兵範記」(※別名「人車記」近衛家所蔵)平信範著、「石黒氏の歴史の研究」石黒秀雄著》


◎「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

【※「応安」は南北朝時代の元号の一つで北朝方にて使用された。1368年から1374年迄。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。足利義満により越中吉岡庄は京都の相国寺(金閣寺)に寄進されている。西光寺は当初、南朝側として戦ったが、足利氏が支配するに及び北朝側になったと云う。】

■足利義材の越中滞在
・明応2年7月 越中正光寺、放生津へ
明応2年(1493年)神保長誠は前将軍の足利義材を放生津の正光寺に招き、御座所とした。
・明応7年9月 越前一乗谷へ入る
(※「大乗院寺社雑事記」; 明応2年8月11日条⇒【将軍御所は越中に御座 七月一日江州に御下向 自其越中御下向也 近習者七十人計は………】 とあり、一旦は近江へ向かったが再び越中に戻ったとされる。越中在住は僅か5年間で在った。付き従う者は70名と云うから、僅かの手勢しか従っていなかった。 )



🔴高岡市福岡歴史民俗資料館の【越中刀工 宇多】特別展。(2017年)

2021-02-14 | 富山県高岡市
北日本新聞(2017年10月12日朝刊)で紹介され、御家族連れも増えた。最近は「刀剣女子」と言われる女性フアンも増えており、「近くで実物が見られるので嬉しい」との御意見も聞かれる。

リンク👇クリック
福岡地域の刀工集団紹介 歴史民俗資料館「宇多派の世界」展 |北日本新聞ウェブ[webun ウェブン]















(※「越中吉岡庄」は白河上皇の時に「京都上賀茂神社」の庄園と成り、その後、奥州等全国に庄園を持った「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園となったが、「崇徳上皇」と「後白河上皇」が争った「保元の乱」で崇徳上皇に就いた頼長が敗れて、以後、「後白河上皇の後院領」と呼ばれた天皇家庄園に成り、以後、後鳥羽上皇、後宇多上皇、後醍醐天皇に伝領して、「後醍醐天皇」の庄園時代には「南朝の牙城」として「延喜式内社赤丸浅井神社」に隣接する「浅井城」には「越中石黒氏」の軍旗や南朝の旗標の「赤丸の御旗」がたなびいていた様だ。その後、一時期には「京都下鴨神社」の庄園と成り、室町時代に入ると「足利義満」がこの庄園を「相国寺」(※塔頭 鹿苑寺金閣)に寄進した。
その後も足利家菩提寺の「等持院」・「等持院」の庄園に成った。
室町時代からは「五位庄」となり、鎌倉~室町時代には大きな戦乱がこの地域で展開された為に何度も焼き払われると言う惨事にも見舞われた。応仁の乱以降、戦国時代に入ると、畠山、上杉、織田、武田の勢力がぶつかり、絶えず戦乱に巻き込まれた。鎌倉・南北朝時代に、大和国宇陀郡から越中吉岡庄(※赤丸村領内鍛冶屋町島)の赤丸城ケ平山の麓に移り住んだ「宇多刀工」は江戸時代迄、長く越中各所で作刀していたと伝わる。
高岡市関町の瑞龍寺後ろには、赤丸村から動いた「刀工の神様 槌の宮」が現在も鎮座している。)





📕📖加賀藩の税政【村御印】⇒重税に苦しんだ加賀藩の属国「越中国」!!

2021-02-10 | 富山県高岡市
●加賀藩に占領された【越中国】への酷税
能登国の領主「前田利家」は越中国の「佐々成政」と戦い、勝利すると越中国は属国として酷税を課せられ搾取された。小矢部川から西部では生き残る事さえ困難な、61~75%もの税金を課せられ、その他にも川魚漁には「川役」、山林の枝葉の採取には「山役」という課税を課けて、森林の伐採等も厳しく規制して、あらゆる名目をつけて搾り取った。
越中国や能登国は属国扱いを受けて搾り取られた為に海や川へ身を投げ、又は女、子供は売られて行った。
富山県西部の山裾に「頭川村」という小さい集落がある。
この村は61%もの税金を課けられて重税に苦しんだ村だが、最近、この村の旧家からこの村の「村御印」という課税命令書の写しが発見された。



_______________________________
越中砺波郡頭川村村御印(写)寛文十年(一六七〇)九月七日付

【釈文】


越中砺波郡頭川村物成之事

壱ヶ村草高 内拾弐石、百姓方ゟ上ルニ付、無検地極
一、五百六拾壱石
   免六ツ弐歩 内五歩明暦弐年ゟ上ル
              弐歩万治元年ゟ上ル
右免付之通、新升を以可納所、夫銀定納百石ニ付
百四拾目充、口米石ニ壱斗壱升弐合充可出也
    同村小物成之事
一、五百九拾目   山役
一、七匁     蝋役
本米弐拾五石
一、五石    敷借利足
右小物成之分者十村見図之上ニ而指引於有之者
其通可出者也


  九月七日   頭川村 百姓中
                    


------------------------------------------------


    覚
一、五拾〆四百七十八文、壱〆文
 内壱〆文 間違引
  三十四〆三百五文、八月十五日文

右飯料方江慥ニ
其請取申候、已上
未五月十五日 杉木中村□
      次平(花押)
頭川村組合頭
  七郎兵衛様
-----------------------------------------------

(前欠)
 右細池村源蔵御年貢入不足仕候ニ付、頭川村ニ而
 懸作山之内、切山仕貴殿江永代相渡代銀
 見届、入不足米相済申所相違無之ニ付、
 奥書仕申候、以上
        頭川村組合頭
         久 三 郎(印)
          同
         清  六(印)
        細池村肝煎
         小右衛門(印)
        同村組合頭
         庄  助(印)




【読み下し】




一ヶ 二十五、二年よりるに付き、検地無くめ
一、千二石
   内一ツ八歩上る
明暦三年、寛文七年新田高
一、二十五石
   免五ツ弐歩
右の通り、を以てすべし、百石に付き、百四十て、
に一斗一升二合充て、これを出すべし、並びに・村肝煎
誰々によらず、何かと申す事候とも、この印面の他一円承引仕りまじく候也
    同村の事
一、五十五匁  山役
一、六匁    野役
一、二匁    鮎川役
右小物成、もし差し引きこれ有るにおいては、断わりに及ぶべし、印
改めざるうちは、この通り出すべき也、小物成の分は・
有るべきの、十村又は取立人に吟味いたさせ、あい極めるべし、
米、共に明暦二年より免許せしむるもの也
寛文十年
 九月七日(印「満」)
      三日市村
百姓
大瀧村太左衛門十村役申付状〔宝永二年(一七〇五)五月八日付〕

【翻刻】

其方義、親猪之助為代
十村申付候条、猪之助代官
帳面并定小物成共、宮丸村
清左衛門、内嶋村孫六、沢川村
田畑兵衛、十日市十左衛門方ゟ
請取去、収納米払方等
令才許可遂勘定者也

 五月八日 御算用場(印「算用場」)

   大瀧村太左衛門


【読み下し】

その方義、親(の)代わりとして、
申し付け候条、猪之助代官
帳面並びに小物成とも、宮丸村
清左衛門、内嶋村孫六、沢川村
田畑、十日市十左衛門方より
請け取り去り、収納米払方等
せしめ勘定(を)遂ぐべき者也
 酉五月八日 (印「算用場」)

      大瀧村太左衛門
砺波郡渕ヶ谷村検地打渡状  慶長十年(一六〇五)十二月四日付

【翻刻】

利波郡之内、渕ヶ谷村御検地之事

一、七町壱段六拾壱歩 田畠・屋敷共
  畠ハ上中下折合テ
  分米百六石七斗五升五合
  右江川溝堀道、引捨打渡所、如件
  
    十二月四日 寺西若狭守(花押)
          安原隼人佐(花押)
          芝山権兵衛(花押)
          佐垣九兵衛(花押)
          靏久左 門(花押)
        渕ヶ谷村
           百姓中

【読み下し】

郡の内、渕ヶ谷村御検地の事

一、七町壱段六拾壱歩 ・屋敷とも
  畠は上中下折り合わせて
  百六石七斗五升五合
 右、江・川・溝・堀・道、引き捨て打ち渡すところ、件の如し
  慶長十年
    十二月四日 寺西若狭守(花押)
          安原隼人佐(花押)
          芝山権兵衛(花押)
          佐垣九兵衛(花押)
          靏久左 門(花押)
        渕ヶ谷村
           百姓中

《◆解読文は高岡市立博物館仁ヶ竹学芸員》

🔷💢 【真実の加賀藩の歴史】 ⇒【本当の高岡命名由来】は加賀藩主にも伝えられた『三壷記』に記載されている。⇒ 『高岡市の歴史』に真実は有るのか?

2021-02-09 | 富山県高岡市
■高岡市が広報している【高岡命名の由来】



■「高岡」命名については、佐々成政の末森城攻撃について前田家に知らせ、倶利伽羅「長楽寺」、金沢「金沢寺」、高岡「総持寺」、富山「富山寺」の住職になった福野「安居寺」の修行僧「秀雅」が名付けたとか、前田家の御伽衆「岡本三休」が提言したとか諸説がある。
しかし、高岡市は前田家の家臣が唱えたで有ろう「前田利長が命名した」とする都市伝説を、高岡市の正式の公告に使用している。
教育委員会に確認した所、根拠になる古文書も発見されていないと云う。只、有るのは総持寺の住職がその由緒で語った言葉を引用した「高岡史料」の記載だけで有る。(※「高岡史料」でもその他の異論についても触れている。)しかも、この古文書自体も何処に有るのか回答は無かった。

⇒▼しかし、加賀藩主にも伝えられていた『加賀藩史料 三壷聞書』には、その根拠や命名の時期について明確に記載されている。


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🔳加賀藩記録【三壷聞書】に記載される「高岡城の地鎮祭・高岡命名の由来」!!



★ここには【「関野」を改めて「高岡」と申す】と 記載されており、藩主の「利長」が「申す」と表現するのは考えられない。この表現では、【地鎮祭を行った二法印が利長に対して「申し上げた」】と云う意味と見られる。

■【三壷聞書 】(※森田柿園所蔵・14巻本・巻六)には、『加州利長公御隠居之事』として「高岡城地鎮祭は福井より呼んだ波着寺法印と明王院法童(※愛宕法印)の二人が執り行い、この時に関野を高岡と名付けた」と記載されている。
(※ここには、現在、高岡市が高岡市の命名由来について、【詩経の「鳳凰鳴けり高き岡に」から高岡市関町の総持寺住職が利長に「高岡」と提案した】と説明している内容は何処にも出て来ない。)

▼金沢市小立野の前田利常の妻「珠姫」の菩提寺「天徳院」近くの【波着寺】













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■【高岡山コーコーサン】は元々、『総持寺』(※高岡市関町)の山号で在ったが、瑞龍寺建立の時に加賀藩に取り上げられて「瑞龍寺」を「高岡山瑞龍寺」と名付けたと「富山県大百科辞典」(※富山新聞社)には記載される。



■近年では、衛星測量の技術が進歩して誰でも手軽にその地域の「標高」が確認できる。国土交通省やGoogle、マピオン等でも簡単に測定値を知る事ができる。
富山新聞社が刊行した「富山県大百科辞典」には、「高岡は元々の総持寺の山号を取り上げたもの」と記載されている。
封建領主の前田利長が総持寺の山号「高岡山総持寺」から取り上げて、その名は瑞龍寺の「高岡山瑞龍寺」に付けられたと云う。

■実際に検証して見ると、高岡市街地は「標高10m」だが、元々、《赤丸村舞谷》の小山に元々在ったと総持寺の千手観音像の国宝指定の時に国が発行した「国宝概説」にも記載されている様に、「高岡山総持寺」(※観音寺遺跡)の跡地を確認すると、その標高は「70m」で在る。
詩経の一節とされる「鳳凰鳴けり 高き岡に」の「高岡」とはたかだか標高10mの高岡市街地の事を指したのか、はた又、標高70mの小山を指したものかは歴然としている。

■又、「鳳凰鳴けり」とは、総持寺の千手観音像の胎内に「金剛位理卿」と言う「後鳥羽上皇の法名」が記載されているからだ。「承久の乱」に敗れて隠岐に流され、終生、幕府は京への帰還を赦さず、白骨となって本土の土を踏んだ後鳥羽法王の「無念の涙」を「鳳凰鳴けり」と言う一節に総持寺住職は込めたと見られる。従って、この詩経の一節は、総持寺に河内金剛寺から伝えられた「千手観音像の由緒」を伝えるもので有り、それを利長が取り上げたと云う事だ。
高岡市教育委員会には再三に亘り、この総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の精細な調査を相談したが、教育委員会からは「貴方がそこまで調べたのなら、何も調べる必要は無い。再調査するとしても貴方が学会でその意見を認められたら考える。」と回答して、飽くまでもこの都市伝説を守ろうとして見苦しい回答を文書で送りつけて来た。
再調査をすれば、高岡市の由緒が明らかになるのが困るのか? 何故、高岡市には歴史を紡ぐ明確な根拠資料が無いのか?
コレが高岡市の「歴史の都市づくり」の原点に在る。

▼「金沢市」でも、家臣の森田柿園等が「金沢の由来」については「金沢古蹟史 34巻」等で、詳しく記載しているが、その由来は「藤原利仁将軍の末裔で富樫氏の祖の芋堀藤五郎の伝説」や「金洗沢霊泉」の伝説等に有るとして、「前田●●が命名した」等の説明は一切無い。寧ろ、第十三代前田齋泰は、わざわざこの由来を石碑に彫り込ませてこの「金洗沢霊泉」に設置させている。この泉は現在、兼六園内に在るが、この泉自体は相当古くから在ったもので、前田家とは関係無い事も記載している。この辺りが、同じ加賀藩でも、金沢市と高岡市の歴史認識の違いと言える。

■前田家家臣達が高岡市の由来を伝えたのか、高岡の有力商人達が誇張して「前田利家」を「鳳凰」に迄 比して伝えたものかは明らかでは無い。何処の高潔な大名でも封建領主が「天皇(鳳凰)」に比喩されている国は日本国中、聞いた事が無い。天皇の象徴の「鳳凰像」をあちこちに飾る高岡市では、「令和」の新天皇が即位された日にも、「鳳凰」を喧伝してきた高岡市内の商店街には、御祝いの「国旗」を掲揚している家も見られなかった。「日本国の象徴」で在る天皇をそこまで貶しめている馬鹿げた都市は全国何処にも無い。その恥ずべき伝説を現在も「高岡市教育委員会」や観光課等が公然とHPで広報しているのだから全国に「歴史都市」等と大口を叩けるのか? その「厚顔無恥」ぶりに、市民はどの面下げて「高岡市の歴史」を説明しているのだろう。
中国の古代では「鳳凰」は「天」が認めた「皇帝」を指し、「鳳凰はまずい竹の実を食べた」事から、正に「皇帝」は国民の模範でもあった。
ところが、加賀藩では武士達は贅沢の限りを尽くし、庶民を75%もの殺人的な税金で搾り尽くし、借金まみれにして女子供を売り買いしてサイドビジネスに励んだ者達もいたと云う。その象徴が現在も遺る「金沢東郭」、「金沢西郭」の跡地で在る。金沢市民達は、その圧政を知ってか知らずかその「郭跡地」を自慢げに観光地として全国に喧伝している。藩政時代に、此処でどれだけの女達が売り買いされ、「血の涙」を流したかも知らずにで有る。しかも、役に立たなくなった女達は能登の農家に売られ、終生、村落の共有農奴として牛馬の如くに使役されたと言う。
かつて、「金沢市の長期ビジョン」を策定する時の分科会座長を勤めた時に、金沢市民から「郭の街」を金沢市の「標語」にすべきだと云う意見が出てその無神経さに驚いたものだが、現在では、誰もがその意味も知らずに「郭の街」は金沢市の観光地になっている。
その悪玉達の親玉が加賀藩の殿様だったと云うのだから、この何処が「鳳凰」と云われるのか?  (※「加賀藩の光と影」浅香年木)

高岡市の歴史は、有力な商人等が伝えた事が「歴史」を構成している様で、具体的な古文書等には立脚しない「お伽話」の域を越えていない。「高岡市史」でも「独断と偏見」を交えた「物語」が展開されており、「高岡市史」にはどこの「市史」にも必ず有る「資料編」も無いお粗末なもので個人の意見だけで構成された歴史書としては異例のものだ。

■教育委員会は学問、教育の総本山で有り、強大な権力を持つ行政組織だ。しかし、現在の高岡市の実態はかくも悲惨な状況に在り、子供達の教育を委ねられる機関とはほど遠い。教育には「真実の追求」が学問の根底に有るべきでは無いのか?


















🔴🔴【衆徳山総持寺 国指定重要文化財木造千手観音座像】の一日限りの特別御開帳 [2019.11.15 11時~]

2021-02-09 | 富山県高岡市
■富山県高岡市関町(あいの風鉄道高岡駅南口下車)の「衆徳山総持寺」の皇室ゆかりの【千手観音座像】の一年に一度の特別御開帳!!
(拝観無料)

◆「総持寺」は、「観音寺」と呼び慣わされて西暦1000年頃に富山県高岡市福岡町赤丸の舞谷に勘請されたと伝わる越中でも屈指の古刹で、南北朝時代に「南朝軍の牙城」と呼ばれた「皇室領 越中吉岡庄(赤丸村)」に、「南朝」の皇居として使用された「河内国」の女人高野としても名高い「金剛寺」より伝来したと伝わる鎌倉時代の千手観音座像。
この古刹は、室町幕府にも崇敬されて、「越中五位庄」が「足利義満」によって京都の「臨済宗相国寺」に寄進された時に、「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要がこの寺で執り行われ、室町幕府から「所領安堵」の「安堵状」を受けている。















🔷📙📖 越中砺波郡「陽知郷」とは? ⇒ 五位庄の国学者「五十嵐篤好」の「郷庄考」と「源順」(ミナモトノシタゴウ)の『和名類聚抄』!!

2021-02-08 | 富山県高岡市







■「和名類聚抄」の「陽知郷」については富山県砺波郡で数ヵ所の比定地が在り、小矢部市の蟹谷郷や小矢部市の宮島郷等の候補が出ているが、「富山県神社誌」の高岡市柴野 「八幡社由緒」には、この神社は古代の「陽知郷」の中心神社で在ったと記載されている。
高岡市東五位小学校の敷地になっている土地を屋敷にしていた五位庄の十村役で国学者で在った「五十嵐篤」はその著書「郷庄考」で、この「陽知郷」は小矢部市の蟹谷郷だと記載している。
高岡市の西山にはいくつも「ヤチ」と呼ばれる地域が在り、確かにこの「八幡社」の建つ柴野地区も谷間の入口で在り、その奥には集落が在るが、赤丸浅井神社から花尾村に向けて入ると、そこも「谷内」と書いて「ヤチ」と呼ぶ。「ヤチ」とはアイヌ語で谷間を指すとも云うが、赤丸浅井神社から舞谷村にかけての谷間は「寺谷内」と呼ばれて嘗ては浅井神社48坊と云われた寺院が建ち並んでいたと云う。「陽知」=「谷内」なら該当地区はこの西山沿いに福光町迄の間に数ヵ所も遺されている。
果して本当の「陽知郷」はどれか分からない。
高岡市柴野村の「陽知郷」は位置的に「東大寺庄園 須加庄」に比定される位置に近い。
国吉郷24ケ村は古くは「越中吉岡庄」の内に含まれていたと伝わり、「寧楽遺文」には、桓武天皇の姪に当たる「五百位女王」がこの辺りに庄園を持っていたが、伯父の「佐良親王」が藤原種継の乱で犯人とされて憤死した後に、その庄園を東大寺に寄進した事が記載されている。佐賀野、岩坪、細池と言う地域には古くから「役所」や宿泊施設、寺社等が在り、「源平盛衰記」や「平家物語」でも有名な平家の武将「越中前司盛俊」が屋敷を構えて能登、越中を統治したと云う。(※「国吉小史」)又、鎌倉時代には「承久の乱」で戦功が在った越後の五十嵐氏にこの「国吉名」が与えられ、北条朝時と争いに成った事が「吾妻鏡」に載っている。
従って、この辺りは古い時代に相当の文化が発展していたものと見られる。















🏯🌄 越中国「二上荘」の高岡市(關野)と石黒氏 ! !

2021-02-08 | 富山県高岡市


















■「高岡開町之図」(※「高岡史料」)



■総持寺や瑞龍寺の一画は、五位庄赤丸村の代々池田市衛門と名乗る「市衛門家が寄進したもの」と伝わる。この一画には赤丸村から移転した「総持寺」「天景寺」や宇多刀鍛冶の氏神の「鎚の宮」、國吉村(細池村)からは「光慶寺」が移転している。恐らく、瑞龍寺の敷地にも赤丸村から移った寺が在ったので、この一帯は全て「市衛門家」の領地で在ったものと考えられる。前田家は能登末森城で利家と戦った赤丸勢の池田氏の用地を占領して、意図的に赤丸村から動いた寺院を強制的に移転させたものと見られる。赤丸村の肝煎池田氏は加賀藩から難癖をつけられて「所払い」になり、國吉村の四十九村に動き、更に現在地の細池村に動いたと云う。赤丸村の領地や財産は全て弟の五右衛門が継ぎ、肝煎を務めたが、納税額を記した「村御印」と云う命令書を紛失したとして「手鎖の上入牢」の罰を受けて、結局身体を壊して亡くなった事が「高岡市福岡町民俗資料館」の「杉野家文書」に記録されている。
尚、この細池村には、現在、赤丸村から移った「市衛門屋敷」がある。
【註】「瑞龍寺」は金沢から移った「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」、「雲龍寺」、「広乾寺」、「宗圓寺」、「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院が在ったがこれ等を強制的に移動させて建立されたものだ。従って、この寺はこの一帯を占領した前田家が「みせしめ」の為に造られたと言う背景が在った様だ。
⇒「天景寺」、「雲龍寺」、「宗圓寺」は五位庄赤丸村、加茂村からこの地に動いたが、加賀藩は元々在った五つの寺院を強制的に移動させて、その跡地に瑞龍寺を建立した。「宗圓寺」はその「寺院由緒」で「赤丸村から移った。」と記載し、「瑞龍寺を建立した時に移転させられた事」を記載している。ここには、前田家の宗教政策、占領政策が垣間見られるのだ。これ等の各寺社は、その由緒で「瑞龍院様より用地を賜って移転した」と記載しているが、実際は狭い敷地に追放されていたのだ。事情を知らない市民や高岡市は、後世、この事を「加賀藩の善政」として伝え、破れた佐々成政は「愛妾の小百合姫を嫉妬に駈られて惨殺した」とする「小百合伝説」を流布したものだ。現在も高岡市の伝説としてこの物語が高岡市の文書に見られる。「高岡市の歴史」は「加賀藩の歴史」であり、「曳山祭り」や「銅器産業の歴史」が語られる時には必ず「前田家の善政」として 誇張や時には笑止な嘘を交えて語られる。従って、高岡市の歴史は表向きの、嘘も交えたこの歴史しかあり得ないのだ。

■現在の高岡市は「射水郡」と「礪波郡」の各一部を含み、何れも「武内宿彌」の末裔「射水臣」「利波臣」の開いた地区とされる。(※「福井県史」中世)



■「越中石黒系図」に拠れば藤原利仁系の藤原氏を祖とすると言い、別系図では孝霊天皇系の「日子刺方別命」の子孫とされる。石黒氏は、諸系図を合わせ検討すると、石黒荘の荘官として派遣された藤原利仁系藤原氏を祖とし、傍流の福満五郎の系統の「石黒光久」は加賀富樫氏同族の藤原利仁系の加賀林氏と縁組して「加賀林氏」(石浦氏)を引き継ぎ、併せて越中の皇室系古代氏族の「利波臣」の名跡を継いで、藤原系、利波臣系両方を継いだ。この系統は織田信長に本家筋が暗殺された後も、前田利家に従い加賀藩士として存続した。一方、本家の系統は先祖を藤原氏と名乗り、一向宗門徒と争い福光城で滅亡している。又、越中に後醍醐天皇の皇子宗良親王を御迎えした石黒重之の系統は宗良親王に従い尾張に逃れて長谷川大炊助重行と名乗り、現在の名古屋市北区に「如意郷」を開いて「如意城」を居城として、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に臣従した様だ。「如意城」の跡には「瑞應寺」が建っている。又、すぐ近くには佐々成政の故城の「比良城」の跡がある。(※「浪合記」参照)
安土城古図には「長谷川屋敷」が見られ、織田信長の重臣だった様だ。又、長谷川氏は兄弟で織田信長に仕え、信長が弟の信行を討った時にも長谷川氏が手を下したらしい。
守山城の神保氏張の家臣として魚津で上杉軍と戦い、後に加賀藩に士官した石黒釆女の子孫は秋田県角館に逃れて、その系統は現在も存続している。)
※石黒諸系図を統一したものは無く諸説がある。


平成28年金沢市の古書店で発見した「石黒釆女」の知行記録。金沢の大衆免村(現在の元町。肝煎本岡三郎右衛門)で石黒釆女は加賀藩から60俵の加増を受けている。


■高岡市の二上山山麓の二上射水神社に祀られている「二上神」の祭神「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」は「射水国造」の祖神とされる。
現在は高岡市の古城公園の一画に「射水神社」が有り、二上山の地には「二上射水神社」が鎮座する。

◆【二上山】は奈良の都にも同名の史跡が在る。

■昭和47年発行の「高岡史料」に拠れば、「上古、塞口ノ郷と称し、中古に關野又は關野ケ原等と称し、[二上ノ荘]の一部たりしなり」とし、「越登賀三州志](※富田景周 著)には「關野ケ原 在射水郡關野 又 志貴野 トモ舊記ニアリ 今ノ高岡ノ舊號ナリ」とし、「郷庄考」には「狭野なるべし 狭き事を古言 セキ といへり 」として「狭い野原」の事と云う。
これから、「上關」、「下關」、「狭野」と分かれ、石黒一族の鴨島七郎の所領の「鴨島町」、庄川支流の千保川周辺の「川原町」等が残っていると云う。
注目すべきは、高岡市が「射水郡」の「二上ノ庄」の一画でありながら、「射水臣」の同族「利波臣」末裔とされる石黒一族が地頭として繁栄した事だ。
射水臣は氷見方面で松原氏やその一族の小浦氏等が残っているが、氷見は八代氏(屋代)や肥後の菊池氏の末裔が繁栄し、中央では射水氏の三善為康の子孫が鎌倉幕府評定衆として活躍しているものの、越中では石黒氏が海岸線の牧野、二上、關野等の小矢部川、庄川の水運や海運の拠点を地頭として押さえていた。→千保川沿川の「鴨島地内」には寿永年間(1182年~1183年)に石黒氏同族鴨島七郎の所領が在ったと云う。その隣地の「關町」は源平盛衰記に登場する五位庄赤丸村の国人池田氏の所領で在ったと見られる。⇒総持寺用地は池田氏の寄進と云う。池田氏は古代氏族「利波臣」の同族の紀氏から出たと云う。(※「治承寿永の内乱序説」浅香年木) ⇒古来、「赤丸浅井神社」の周辺にはこの池田一族と石川一族が住み、浅井神社の神域には墓地もある。赤丸浅井神社の創建は石川朝臣広成と云われ、「続日本紀」には、文武天皇の「嬪」で在った蘇我氏の「石川刀自娘」と紀氏の「紀竈娘」は藤原不比等の陰謀で廃されて息子の石川朝臣広成も追放されている。石川朝臣広成は元正天皇の配慮で親王として恭仁京で「内舎人」となり、後に「高円朝臣」と賜姓されている。
又、「高岡」命名について「越登賀三州志]は、【諸説があり、通説の「鳳凰鳴けり高き岡に]から来ているとする説も、「何是證哉」(証拠が無い)】としている。加賀藩の歴史学者が述べた意見は真摯に検討する必要があるだろう。

※【三善為康】永承4年~保延5年(1049‐1139)平安後期の文人官吏。本姓は越中国の射水氏。上京し算博士の三善為長に師事して三善家の養子となった。少内記,算博士,諸陵頭などを歴任している。

■【「高岡史料」記載の石黒氏】
「越登賀三州志」;越中の士…加茂嶋七郎…井口三郎光義ハ越中ニテ中古諸氏ノ祖 其ノ先斎藤氏ヨリ出ズ 石黒、高楯、野尻、福満、向田、泉、水巻、中村、福田、吉田、鴨嶋、宮崎、南保、入膳、皆是井口氏の庶流。

■「越中舊記」;鴨嶋七郎ハ礪波郡福光ノ城主石黒太郎ノ別レニシテ 此ノ所ノ地頭トナリテ 在住ス 今ノ高岡鴨島町ノ後ロニ 其第跡アリ

⇒關野の原は戦国時代、即ち、永祿より元龜、天正の間において幾度か上杉謙信の馬蹄に蹂躙せられ、越中郷土の軍兵能く之と對陣し、一勝一敗の戦場たりしことありしと傳う。

■石黒氏の傍流として射水郡二上庄(鎌倉期、庄域に二墓保[二塚保 フタツカホ ]を含む )の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした石黒弥三郎の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。

■【二上荘の記載】(角川日本地名大辞典)
『※「関東御教書」寛元二年十二月二十四日 ⇒ 当荘雑掌より申し出された問注について幕府は、当荘預所と石黒弥三郎との参決を命じている。(久能木文書/大日本史料)』
『※「室町幕府奉行人連署奉書案」寛正六年三月二日 ⇒ 「土御門三位有季申 越中国二上荘領家職御譲位以下要脚段銭之事」と有り、幕府は当荘を菅掌している土御門有季の言上を受け入れ、御料所である当荘の段銭を免除している。(土御門文書/県史 中世)』
『※「土御門有宣言上状案」文明十八年四月 #戦国期 ⇒ 「越中国二上庄年貢運送之時、去 文明十六年十二月仁本願寺門徒於賀州号国質、無謂押置之、干今不渡之条言語道断次第也」
…運送途中の当荘年貢が加賀一向宗門徒に押領され、かつ波多野因幡守らが荘内請口の地子(利息)を滞納するなどで、有宣の知行分収納賀困難になってきた事が知らされる。』


■又、石黒氏の「牧野太郎二」が後醍醐天皇の皇子「宗良親王」を射水郡の牧野に迎えたと云われ(※「射水郡史」⇒「東弘寺 舊記」)、隣接の「二上荘」の鴨島は石黒一族の「鴨島七郎」の所領であり(※「高岡史料」)、高岡市(五位庄)高田島地区は同族の「高田孫兵衛」の所領であったと伝わる所から(※「吉江村の昔」福光町)、鎌倉時代には海岸から高岡にかけての射水郡も石黒氏の勢力下にあったものと見られる。
しかも、古く立野、高田島辺りも「東大寺杵名蛭村荘園図」を精査するとこの辺りに比定され、この図面の中には「石黒上里・石黒中里」という地名が記載れており、古くからこの辺りに石黒氏が展開していた事が推定される。
(※「東大寺庄園杵名蛭庄図」・「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)

■【加賀藩統治下の二上庄】
加賀藩士富田景周(平の景周)の著書の「越登賀三州志」(※「圖譜村籍巻之三」)に拠れば、加賀藩時代に「二上庄」は以下の範囲で在った。



■「二上庄六十五村曁オヨビ垣内二十七處 外無家。十二町分・二塚新村」

三ケ新、六渡寺、中伏木、六渡寺新、吉久、吉久新、下牧野、上牧野、宮袋、高木、川口、大門、田町、大門新町、東廣上、西廣上新、西廣上、上伏間江、下伏間江、深澤、赤祖父、大野、井口本江、出来田、百米木、枇杷首、川原町、蓮花寺、三女子野、上野下田、野村新、石瀬、上石瀬、角、新田、能町、橋場、来島、上来島、鷲北新、北村、荻布、江尻、掛開発、向野、湶分アワラブン、高湶、中川、端、下田町關、鴨島、上關、京田、下黒田、上黒田、林新、東藤平蔵、林、二塚、三木松 鎧 三屋、十二町島、北蔵新、西藤平蔵、紅屋 龜島、佐野、上佐野 雙川佐野ソウカワサノ 西佐野、木津、東村、羽廣、出村、北島、早川、島、横田、新田、内免新、四屋川原、長慶寺、河野、波岡、長江新、大屋、高岡町、木町、土器町、

■「二上庄内下四條二十村曁垣内九處」


■五十里、道重 百橋 板屋、須田、西海老坂、東海老坂、守山町、渡、下八ケ新、守護町、守護町新、二上、上二上 谷内、二上新、城光寺、矢田、谷内手、矢田新、串岡、矢田串岡新、古府、石坂、伏木、定塚、國分、一宮、新村

⇒この中には「福田・立野地区」は含まれていない。現在、旧立野村の町中の地域に「福田神社」がある事から、古くは「立野村」と「福田村」は密接で、立野村が村立される前には「福田郷」の一画で在ったと見られる。高岡市佐野は古くから開けていた地域で、福田地区も「福田郷」として古くから開けていた地域の様だ。










🔷💠🔹 「天冠山 三光寺」(※高岡市柴野)由緒に見られる「石動山天平寺」の宝物【大般若教六百巻】の由来!!

2021-02-02 | 富山県高岡市
●南北朝時代から江戸時代迄続いた【宇多派刀工】の菩提寺「三光寺」は、加賀藩時代に織田信長の四女「永姫」(※「玉泉院」)が再建した曹洞宗寺院である。この寺院は、高岡市柴野に在る所から、元、柴野城主「寺嶋牛介」の所縁の「高岡市文化財 柴野観音像」の護持をしている寺院でもある。





■この寺の開基は臨済宗の僧「三光国師」とされ、「三光国師」が能登の曹洞宗祖院「永光寺」で修行された関係で、当初は氷見市に建立されたと云われ、この寺には石川県と富山県境に在った「石動山天平寺」に伝えられたと云われる元禄時代の「大般若教六百巻」を伝えている。
この「大般若教」は、江戸時代から明治時代にかけても逐次、修復されてきたが、平成30年には、六百巻の内の二百五十巻の修復を終えている。



■「三光国師」は「後醍醐天皇」から「国済国師」の称号を授けられ、後に「後村上天皇」から「三光国師」の称号を授けられた南朝に所縁の深い僧で在った。その後、「永姫」は「臨済宗三光寺」を「高岡守山城」の麓の高岡市柴野十日市に再興したと云われる。
(※「高岡守山城」には、嘗て叔母に当たる織田信長の妹が「神保氏張」の妻として嫁ぎ、その後もその息子がこの城に居たと云う。柴野十日市からは、朝夕にこの城を望む事ができ、嘗て、守山城には前田利家も入城していた時期も在る。)

(※守山城神保系図)



■「石動山天平寺」は後白河上皇以来の天皇家勅願所で、北陸七ケ国に勧進地を持ち、院坊三百六十余り、宗徒約三千人の規模を持った寺院で在ったが、歴史的に上杉謙信と前田利家によって二度の全山焼き討ちに会っている。理由は判らないが、「大般若教六百巻」はこの寺に伝わったが、現在は「三光寺」の宝物に成っている。



■「前田利家」は能登攻めの時に反抗する「石動山」を全山焼き払い、宗徒一千人余りを老若男女を問わず、寺に寄宿した乞食に至る迄、首を切り三門に吊るしたと云われる虐殺を行った。
その後、前田利家は「高岡城」を築く為に、越前国足羽郡一乗谷の「高野山真言宗波着寺」の住職「空照」を迎えて地鎮祭を行わせ、この時にこの僧が「関野を改め高岡と名付けた」と云う。
(※「加賀藩記録 三壷聞書」)







その後、この僧は金沢に寺院を建立して、焼き払われた「石動山天平寺」の住職に任じられたと云う。(※「石川県史」)
恐らくは、「前田利長」の妻に成った「織田信長 四女」の「永姫」(※「玉泉院殿」)が再興した所縁から、明治の廃仏毀釈の時に潰された「天平寺」の宝物で在った「大般若教六百巻」は「柴野 三光寺」に伝えられたものと見られる。

(※「波着寺」は曹洞宗の開祖「道元」が越前に入った時に初めて寄宿した寺院とも云われ、加賀藩所縁の曹洞宗寺院の「三光寺」に「波着寺住職空照」が住職を兼ねた「石動山天平寺」の宝物「大般若教六百巻」が伝えられたものと見られる。)

・「北國太平記」(※「北陸七国史」)は「前田利家」の石動山での虐殺を伝えている。




■この他の【三光寺宝物】
・「薬師如来像」(※南北朝時代、氷見薮田石使用)
・「前田利長書状」
・「永姫書状」
・「永姫乳母の書状」
⇒これ等の掛軸は、正月に年一度だけ三光寺で掲示される。


(※解読は高岡市立博物館仁ケ竹学芸員)



■【波着寺由緒】越前国足羽郡一乗谷
 当寺は養老年間(717~723年)に泰澄大師により開かれ、もとは小浪山(現在の新保宮山)の麓にあった。
当時、足羽川は我が字の腰を流れていたので、洪水の折りには川波がこの寺の堂下まで打ち寄せ、いつしか波着寺と呼ばれるようになったと思われる。この寺は、本尊として十一面観音を安置し、真言宗に属していたが、平安時代は特に観音の霊場として知られていた。
足羽郡誌には、
●寛元元年(1243年) 永平寺開山の道元禅師が越前に来られたとき、最初に身を寄せられた。
●文明6年(1474年) 波着寺を主戦場とした「波着、岡保の合戦」があり、被害を受けた。
●天文17年(1548年) 朝倉孝景が波着寺に参詣し、その帰途急死した。
●天正2年(1574年) 加賀の一向一揆が越前に侵入し、平泉寺を焼き払い、当 波着寺も兵火で焼失した。


🚃🚃 「あいのかぜ鉄道」の新駅「高岡やぶなみ駅」の命名は何を根拠にしているのか?

2021-02-01 | 富山県高岡市
●「高岡駅」と「西高岡駅」の間に設置される 「あいのかぜ鉄道」の新駅名が2017.2.15に「高岡やぶなみ駅」に決定した。

▼【あいのかぜ】;「越中」では古代から「東風」の事を「アユの風」と呼び、大伴家持は万葉集に『安由能加是アユノカゼ いたくし吹けば 湊には 白波高み』(※「巻十七 4006」)、「東風アユノカゼ いたく吹くらし奈古の海人アマの釣りする小舟漕ぎ隠る見ゆ」(※「巻十七 4017」)等と詠んで、「越俗語 東風を安由能加是アユノカゼと謂う」と註記している。この風は越中では年中吹くが、特に春と夏に多いとされる。この反対に「西風」は秋から春に吹いて来るらしい。
この風は内陸部では「涼しく快適な風」と捉えられるが、沿岸部では「白波を立てる強く荒い不快な風」を指している様で、この呼び名は氷見市では「北東の風」を指して「東風」と区別しており、小矢部川下流と砺波郡ではこれが転じて「間の風 アイノカゼ」と呼び、北と東の間⇒「北東の風」を呼び習わしている。



■「高岡やぶなみ駅」の名前は、アンケートで決まった事になっているが、「万葉集」の「やぶなみの里」から取ったと言う。
確かに、この付近に想定される「東大寺庄園杵名蛭庄」には「荊原里」と記載されて、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と振りカナが 付いており、この神社が神名帳の神社と思われるが、「荊波神社」は「ウバラジンジャ」と呼ばれており、「ヤブナミ」とは何を根拠にしたものか?
この神社は現在、「ヤブナミジンジャ」とは呼ばれておらず、「ウバラジンジャ」と呼ばれている。












■高岡市の「万葉歴史館」はそのホームベージで、大伴家持の万葉集掲載の歌「巻18-4838」
『やぶなみの 里に宿借り 春雨はるさめに 隠こもりつつむと 妹いもに告げつや』
を紹介して
【荊波里(ヤブナミノサト);越中国礪波郡中の地名。『延喜式』の神名帳に記載されている「荊波神社 (※ウバラジンジャ)」のあった所であろうが所在地未詳。現在「荊波神社」と称する神社の所在地は富山県砺波市池原、西礪波郡福光町岩木、高岡市上北島などがある。このうち、神護景雲元年(767)の東大寺領「越中国礪波郡井山村墾田地図」の記載から、荊波の里は井山村近接の砺波市池原とする説が有力である。】と解説している。
一方、「やぶなみ駅」と決まったこの駅の式典には高岡市長も参列して華々しく発表されているが、一体、高岡市の意見はどちらなのか?
ある時には行政は「否定し」、ある時には「肯定する」。何故、学芸員も抱える高岡市は、意思統一できないのか? 虹色の発表で誤魔化し続ける行政の姿勢にも疑問を感じる。こんな時に、歴史的に色々な事に「監修してきた高岡市教育委員会」はどうして「黙秘」しているのか?
(※「高岡市400年記念事業誌」等は教育委員会の監修で、「赤丸村に在った総持寺」と「国宝概説」で記載される部分を、意図的に改変して「石堤村に在った」として作為的に統一意思を発表している。)

■確かに砺波市庄川町に比定される「石粟村墾田地図」には「荊波往還道」の記載が在り、この「石粟村墾田地」は「伊加留伎野墾田地」の隣接地と記載されている。このことは殆どの歴史学者の認める所で在り、その点から「砺波市池原有力説」が在る。

《▲万葉歴史館が【神護景雲元年(767)の東大寺領「越中国礪波郡井山村墾田地図」の記載から、荊波の里は井山村近接の砺波市池原とする説が有力である。】と記載しているのは、【井山村墾田地図の記載から】では無く、【石粟庄図の記載から】とすべきだ。》



■しかし、この「荊波神社」がこの池原に在る神社かと言えば、この神社の祭神は「利波臣志留志」の先祖とされる「彦刺方別命 ヒコサシカタワケノミコト」で在り、延喜式神名帳掲載の神社の祭神が「人皇初代神武天皇」以前の「神代」の人物を祭神としており、砺波郡の延喜式内社は「国弊小社」で在り「官社」で在る。(※「六国史」参照)

■同じ延喜式内社の「二上射水神社」は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神とし、「赤丸浅井神社」は皇室の最高神「高皇産霊神」を祭神としている。何れも皇室の先祖神に位置付けられている神々を祭神としており、「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の為に米五千石を寄進して国司待遇の「員外介」に就任しているが、扱いとしては一地方官で在り、皇室の先祖神となる人物では無い。当時の官職では殿上人の中では最低の「五位」で、装束でも「足袋」等も許されない裸足で在り、これに対して朝廷から「国弊」を捧げられるとはとても思われない。砺波郡の延喜式内社は何れも「国弊小社」で在り、国の官社に列せられている。(※「有職故実」参照)
■「延喜式神名帳」:延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧。

●「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)



■高岡市福田の「荊波神社 ウハラジンジャ」は祭神は「十禅師」とされているが、元々は両部神道ではその権現の「地蔵菩薩」で在り、それは「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」と同体で在る。
東大寺庄園の中に「杵名蛭庄 キナヒルショウ」と言う庄園が在り、「国立文化財機構」ではこの庄園は高岡市戸出辺りに比定しているが、実際にこの絵図を調べると「速川 ハヤカワ」や「杵名蛭川」、「石黒川」、「石黒上里」、「石黒中里」等の記載が在り、この内の「杵名蛭川」は現在の「千保川」と推定され、「速川」はその後、「ソウ川」、「早川」、「祖父川」として変化しており、小矢部川下流には現在も「高岡市早川」と云う地域も在る。この様に、この「杵名蛭庄図」と照合して見ると、この庄園はもっと下流の砺波と射水郡界に近い、高岡市立野から池田、東石堤、高田島辺りが該当する。古代には小矢部川は西山の麓を流れており、庄川の支流が赤丸浅井神社の前で合流していたと伝わる事から、かつての小矢部川の流れを知らない歴史学者が高岡市戸出辺りに比定した事も仕方の無い事だ。又、この「杵名蛭庄図」にはこの庄園の西側に隣接して「荊原里」と記載されており、この位置が福田の「荊波神社」が在る辺りに該当する様に見られる。従って、「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」と記載されている事については、この神社が【「荊原里 ウバラノサト」に在る「荊波神社 ヤブナミノジンジャ」】で在る事になり、「延喜式神名帳」の記載と合致してくる。




■一方、「荊波神社」を主張している「砺波市池原」では、その根拠を「東大寺庄園図」に置き、砺波市庄川町の庄川沿いに位置したとされる「東大寺庄園伊加留伎野図」の隣接地に在ったと考えられる「石粟庄図」には「従荊波往還道」と記載されており、コレが庄川町に「荊波神社」が在ったとされる根拠とされる。これは「ヤブナミ」とも読めるが古くは「荊刑トケイ」と呼ばれた「むち打ちの刑罰」の「ト」と呼ばれ、従ってこれは「トナミ」と読める。
(※「荊」はトゲの在る細い木で、野バラやグミの木等を指した。古書には石川県と富山県境の砺波山には古くは一帯に「グミの木」が自生していたと言い、野バラは県内の各所に群生している。グミの木は大山町の河川敷に現在も自生している。)
「トナミ」と呼ぶなら、砺波市としては譲れない所だろうが、しかし、砺波市の「ウバラジンジャ」の祭神は古代に砺波郡の郡司をしていた「利波臣」の祖先神の「彦刺肩別命」で在り、福田の神社の祭神は二上射水神社と同じ「ニニギノミコト」で在り、「延喜式内社の祭神」が神代の天皇家の祖先を祀っている事から、延喜式内社の「ウバラジンジャ」は福田の神社が該当すると見られる。
では、何故、この新駅を「ウバラ駅」とせずに「ヤブナミ」としたのか?
従って、この駅は神社の名称を取り入れたなら「ウバラ」が正解だ。
延喜式内社「ウバラジンジャ」を取るか、訓読みの「ヤブナミ」を取って「延喜式内社」を名乗らないか、はた又、この神社の名称自体を「ヤブナミ神社」に改名するかしないと、この駅が「ヤブナミ」と呼ばれる根拠が無い。
(※それとも定説では「ウバラジンジャ」と呼ばれているが、これは【本当は「ウバラの里」に在る「ヤブナミ神社」の事だ】と神社由緒を変えるか?)
この辺は富山県と高岡市、あいのかぜ鉄道は分かった上で命名されたものか?









■こうして解明して見ると、現在、福田の「荊波神社」は「ウバラジンジャ」では無く、「ヤブナミジンジャ」と呼ぶべきで在り、現在の読み名を逆に変更すべきだ。
そうすれば、この新しい新駅に「やぶなみ駅」と命名しても違和感が無いが、万葉集の「やぶなみの里」にこじつけてこの駅を「やぶなみ駅」にする事は恐らく歴史学者の失笑を買う恐れが強い。アンケートで決めたと云うが、誰かが誘導した事は間違いなく、良く命名の意味も分からずに新駅を「やぶなみ駅」とした事は、富山県、高岡市、あいのかぜ鉄道の幹部諸氏の知的レベルを疑われる事にもなるだろう。


■正倉院に保管された「東大寺庄園図 杵名蛭キナヒル庄図」には、具体的な河川や「里」が記載されており、実際に地理的に検討すると、この中の「杵名蛭川」は「千保川」に該当し、「速川」は中世の古図には「ソフ川」と成り現在は「祖父川」と名前が変化している。この祖父川の下流には「延喜式内社速川神社」が在り、この辺りは「高岡市早川」の地名で在る。

又、「荊原里 ウバラノサト」の辺りには「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「荊波神社」(※ヤブナミジンジャと呼ぶのが正しいと見られる。)が在り、この神社の祭神は「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じく「ニニギノミコト」で在る。又、古代には「小矢部川」が西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川支流と合流していたと「赤丸浅井神社」に伝わる事から、この二つの延喜式内社の位置を確認すると、この「杵名蛭庄」は【小矢部川沿いで砺波郡の射水郡との境界辺りになる「高岡市立野、池田、高田田島(旧赤丸村領)辺り」】がその立地場所と推定される。




■平成29年6月に「国立歴史民俗博物館」は、現地と絵図を照合して、この「杵名蛭庄」は「高岡市立野辺り」と比定して、「庄園データーベース」を修正して追記している。


▼「まとめ」
「東大寺庄園石粟庄図」の「荊波往還道」の記載と「荊波神社」とは別物だと思われる。「延喜式神名帳」の「巻十」の写真複製版の巻物現物を何とか入手して確認した所、「延喜式内社荊波神社」には小さく「ウバラノ」とフリカナがつけて在り、「ウバラのヤブナミジンジャ」と読ませている様だ。平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「東大寺庄園杵名蛭庄図」に記載されている「速川」と高岡市早川の「延喜式内社速川神社」との関連等から、この「速川」は「ソウ川」が転じて現在の「祖父川」に成った可能性が在り、又、「杵名蛭庄図」に「荊原里」の記載が在る事から、この庄園を高岡市立野地区に比定して「庄園データー」に記載している。
この事から、高岡市の新駅「やぶなみ駅」が立地する場所は「ヤブナミ」と言う地域では無く、「ウバラ」と言う地域に在る事に成り、「福田荊波神社」を「ウバラジンジャ」では無く、「ヤブナミジンジャ」と読まないと整合性が取れない。本来、「荊波神社」は「ウバラジンジャ」では無く「ヤブナミジンジャ」と読むべきだが、誤って神名帳の「ウバラノ」のフリカナから「ウバラジンジャ」と読む習わしていたものと見られる。
又、これ等の事情と祭神名から「神名帳」記載の「延喜式内社」は、高岡市福田地区の「荊波神社」の事で在り、県内の他の「荊波神社」は越中利波郡の郡司「利波臣」の先祖神「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」を祀っている「利波臣」の氏神を祀る神社の様だ。
「延喜式神名帳」には朝廷が弊帛を納める「国弊大社」や、国司が弊帛を納める「国弊小社」が在り、「荊波神社」は「国弊小社」で在る事から、国司が天皇の代理として郡司の先祖神に弊帛を納める事は考えられない。

▼因に、「延喜式内社赤丸浅井神社」にも「アサイノ」とフリカナが付いているが、浅井神社が建つ場所は「浅井谷」と言う地域で在った事から来ている。その他の神社のフリカナには「ノ」と地域を示す記載は無い。


🆓 高岡市福岡町の鯉(恋?)の里公園

2020-12-18 | 富山県高岡市


















福岡町は鯉養殖が盛んな鯉の里。福岡町の鯉の里公園には何と1.5メーターの黒鯉の「太郎鯉」と呼ばれた巨大な鯉の剥製と魚拓が展示してある。ものすごい大きさ!!!
小矢部市から福岡町赤丸を通り富山湾の伏木港に流れ込む「小矢部川(射水川)」は越中国司大伴家持が和歌に歌い、古代より朝廷に鯉、鮒等の川魚を乾物にして年貢として納めていた伝統的な鯉の里!!
干物にされた川魚は伏木港から福井の敦賀港に船で運ばれ朝廷に陸路、運ばれた様だ。