赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔶🔹【幕末の剣豪 斎藤弥九郎】⇒氷見市~高岡市~江戸への流転の果てに掴んだ剣豪への道!!

2021-02-14 | 富山県高岡市




■斎藤家は藤原氏の頭領「加賀林氏」の一族で、一向一揆で敗れて自害した「富樫一族」の末裔とも云う。
(※藤原氏で斎宮守に任じられた一族は「斎藤」と名乗った。)

■富山県氷見市仏生寺生まれの「斎藤弥九郎」は寛政十年(1798年)に生まれ、十三歳の時に高岡へ出て油屋の小僧に成った。雪の中を荷車を引いていた時に車がぬかるみに嵌まった。その時に向こうから加賀藩の殿様の行列がやって来て、先触れの若い侍が「片寄れ!」とムチで殴りつけた。他の若衆が慌てて雪道から車を引き上げてくれたが、弥九郎は雪の中に平伏して悔し涙を落として行列の過ぎ去るのを待った。その時に「武士で無ければ人間扱いもされない」と痛感したと言う。武士になるには文武の修業をしなければならないと思い立った弥九郎はその日に油屋を辞めて木舟町の薬種問屋の小僧に成った。薬種問屋は劇薬も使う為に小僧にも文字を教えたからだ。そこで一年余り働いて銀一歩を貯め、十五歳の時に江戸に出て高岡近くの生まれの土屋清五郎と言う徳川御三卿の清水家家臣の下男に成った。熱心な性格に感心した土屋は幕臣の能勢祐之丞の若党に推薦してくれた。この時から弥九郎は先祖の姓の「斎藤」を名乗った。斎藤家は金沢の富樫家の末裔と言われ、藤原氏の名門の加賀林氏の一族で在り、藤原氏から斎藤氏が出ている。
能勢家の若党を三年ばかり勤めた後に、主家の能勢は 弥九郎の猛勉強と布団に寝る事も無く努力する性格を認めて弥九郎を神道無念流の岡田十松の撃剣館に入塾させた。二十三歳の時に師範代に成ったが、文政三年、岡田十松が亡くなり、文政八年には堀和兵衛の娘を妻に貰って翌年、江戸南飯田町に兵法全般を学ぶ練兵館道場を開く。天保六年(1835年)には伊豆韮山代官江川太郎左衛門に仕えて、代官所の与力用人として四人扶持を受ける。伊豆は貧しい漁村で博徒が多く大親分が二人も居て手を焼いていたからだと言う。
嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して、幕府は品川沖に砲台を築く事に成り、江川太郎左衛門に命じて、その監督は弥九郎が担当した。弥九郎は先ず伊豆の博徒の親分に掛け合い数百人を台場にかりあつめて砲台建設の人夫にして、その他にも関東各地から人夫を集めて1年足らずで五ケ所の海上砲台を築いたと言う。この時に、長州の「桂小五郎」(後の木戸孝允)も練兵館の塾生として弥九郎の従者として付き添ったと言う。
斎藤弥九郎は後に維新政府に仕えて明治四年(1871年)に74歳で病没した。


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