■「金沢市尾山神社」
(写真提供者 金沢市)
■「北野天満宮・美作管家党の梅紋(六曜紋)」
「加賀藩金沢本家の剣梅鉢紋」
■菅公(※菅原道真)の末裔と云う「前田利家」の家系は、尾張国海部郡前田に興り、尾張荒子に城を持っていた。「菅原道真」は、「天穂日命」(アメノホヒノミコト)(天照大神の二子、出雲国造の祖) の子孫で、大相撲の祖『野見宿禰』(ノミノスクネ)を祖とする「土師氏」(ハジシ)の子孫であり、平安時代初期に大和国菅原邑に住んだ事から「菅原氏」を名乗った。物部氏も「天穂日命」の子孫で、前田氏とは祖先を同じくする事から、越中の守山城近くの「物部神社」と氷見阿尾城に在った菊池氏の神社「榊葉神明社」を合祀して金沢城近くに「尾山神社」として祀り、加賀藩前田家の氏神として祀っている。
【前田・物部略系図】
1.「天穂日命」━→ 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→宇摩志麻遅命(ウマシマチノミコト)→ 物部氏→物部守屋
2.「天穂日命」━→野見宿禰(ノミノスクネ)━━→土師氏(ハジシ)━━→菅原氏━━→美作管家党(ミマサキカンケトウ)━→前田氏
(※一般的に知られる加賀藩前田家系図→別に藤原氏とする意見も有る。)
■『前田利家の祖の野見宿禰』とは??
相撲神事で有名な『野見宿禰』は加賀藩前田利家の祖の「土師氏」の先祖とされる。出雲国の相撲の勇士『野見宿禰ノミノスクネ 別名襲髄命カネスネノミコト』は「天穂日命」の14世の子孫で第12代の出雲国造の鵜濡渟(宇迦都久怒ウガツクヌ)の子とされる「第13代出雲国造」であった。垂仁天皇の命により「当麻蹴速タエマノケハヤ」と角力(スモウ)の為に出雲国から召喚され、蹴速と互いに激闘して勝ち、蹴速の大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えたと云う。又、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)の葬儀の時に殉死の風習を止め埴輪の制を提案して「土師臣」(ハジノオミ)と賜姓され、以後、土師氏が代々の天皇の葬儀を司った。
※愛知県一宮市に「延喜式内社野見神社」がある。
[祭神]野見宿禰命、天穂日命、天照大御神
上記3柱を主祭神に宇迦之御魂命と須佐之男命を合祀する。
神社名から「土師氏」の祖神である「野見宿禰命」、又は「天穂日命」と見られる。愛知県には、「物部神社」や「野見神社」等の神社があり、「熱田神宮」には「菅原天神社」も併設されており、特に「物部氏」の系統の神社が各所にあり、庄園もあった事から「前田氏」等の物部氏の子孫が住んだ様だ。
【尾山神社と菅原道真⇒加賀藩前田家の祖先と信仰!】
金沢市の著名な「尾山神社」は元々、富山県氷見市の「榊葉神社」と高岡市海老坂の「物部八幡社」を合祀したもので、加賀藩の氏神として崇敬された神社である。
◆【先代旧事記】には、越中新川郡の「大新河命」は【物部連公の姓を賜った】とされる。
●富山県氷見市の元菊池氏の居城の「榊葉神明社」は、元々大伴家持が創建されたと伝承される古い神社で、菊池が九州の肥後国から越中に来た時に、途中、伊勢神宮に参詣してそこから榊の木を持ち帰った事から 「榊葉神社」と呼んだと云う。祭神は「天照皇大神・ 菊理比神・ 底筒男命・中筒男命・表筒男命」で、「天照皇大神」は「伊勢神宮」の祭神、「菊理比神」は石川県白山市鶴来町の「白山比神社シラヤマヒメ」の「菊理媛尊ククリヒメノミコト=白山比売大神」と同一神とされる。又、「底筒男命・中筒男命・表筒男命)は大阪市の「住吉大社」の祭神で、「日本書紀」にこの住吉三神が神功皇后の三韓征討に際して皇后に神託を下した事が記載される。 又、この三神は神功皇后が三韓征伐に自ら赴かれた時に大いに助けられた神とされる。この事から、元が押し寄せた「元寇」の時に九州肥後国の前線で戦った菊池氏の末裔であった阿尾城の菊池氏が、外敵調伏の願いを込めてこの住吉三神を祀ったものと見られる。
この「住吉三神」については国産みの有名な神話がある。
■「伊邪那岐尊 (イザナギノミコト) と伊邪那美命 (イザナミノミコト) は国生みの神として大八島(オオヤシマ)を生み、又、様々な神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(ヨミノクニ)(*死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうと黄泉国に向い、黄泉国 の扉を開けた所、そこにはウジが沸いた恐ろしい姿になった 伊邪那美命 を見る。伊邪那美命は「帰って下さい」と言って 伊邪那岐尊 に我が身の恐ろしい姿を見られた為に扉の中に隠れてしまった。 伊邪那岐尊は思いを果たせず止むなく帰られた。 伊邪那岐尊は黄泉国からの帰途、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢(ケガレ)を洗い清める禊(ミソギ)を行った。この時に、瀬の深い所で底筒男命(ソコツツオノミコト)が、瀬の流れの中間で中筒男命(ナカツツオノミコト)が、水表で表筒男命(ウワツツオノミコト)が、それぞれ生まれ出たとされる。」「筒」は「土」を指す。この事から、自然の中の表、中、底のあらゆる所に坐します神々を祀っているとされる。引いては「大和の国の国土の神々」を指す。
『※「本地垂迹説」では 薬師如来(底筒男命)、阿弥陀如来(中筒男命)、大日如来(表筒男命)とする。 』
■「榊葉神社」は 久米郡美咲町打穴西634 に在る古い神社で、岡山県神社庁の説明文では「創建は景行天皇の御代と云われ下打穴数村の大産土神である。天正年間、原田貞佐が造営した。安政3年卜部良煕から榊葉八頭大明神の下し文を受けた。明治6年7月郷社に列格。」とある。祭神は「天兒屋根命、須佐之男命、大地主神、菅原神 」である。この「久米」という土地の名は、大和朝廷の軍事氏族で大伴氏と共に戦った「久米氏」に関係があると見られる。此処の祭神は加賀藩前田家の氏神の「菅原神」とされている。前田氏は、その祖先に「美作管家党」があり、「美作国」はこの久米郡も含む岡山県であり、この地が美作管家党の勢力圏であった。その為、表向きは阿尾城の菊池氏の氏神の「榊葉明神社」を祀ったとしているが、これは菊池氏を前田家に臣従させる為の口実で、実際は美作管家党を祀る「美作国榊葉神社」を金沢の尾山神社に合祀していたものと見られる。
美作管家党は岡山県勝田郡奈義町中島周辺を本拠とし、菅原道真から12代目目後には作用菅太知季、原田次郎兼知、有元三郎仲頼の子供があり、この原田次郎兼知の子孫が加賀前田氏の先祖とされる。 原田次郎兼知の系統は美作国久米郡稲岡庄原田を領有したとされ、この「榊葉神社」は紛れも無く、加賀藩前田家の祖先の原田氏の領地に在る神社を勧請したものである事が判る。
●結局、表向きの由緒に隠れて、金沢市の「尾山神社」には、加賀藩前田家の祖先の「美作管家党の先祖の菅原道真」と、先祖を同じくする物部氏を祀る「物部八幡社」(高岡市東海老坂字川田1068)を合祀して、更に、表向きは「物部(八幡)社」に武人の神とされる「八幡神」が祀られているとして、「加賀藩」の守り神とした事にしたものと見られる。ここでは敢えてこの神社が「物部氏」を祀っている事を伏せたのは、浄土真宗の牙城、加賀一向宗の持てる国とも云われた加賀、越中を領地とする加賀藩としては、かつて「物部守屋」が聖徳太子に滅ぼされた「佛敵 物部氏」の子孫である事を伏せたものと見られる。豊臣秀吉が越中の佐々成政と対峙した時に、先ず、浄土真宗、一向一揆の牙城の井波瑞泉寺に「領地の安堵状」を出して懐柔した事を見ても、如何に外部からの侵略者の前田家が地元勢の「一向宗対策」に腐心していたかが推測できる。浄土真宗では通常、「親鸞上人の絵像」か「南無阿弥陀仏」の名号を掛けるが、井波瑞泉寺では「聖徳太子像」を飾り、毎年、「太子伝会」が開かれて、佛敵の物部守屋と対抗した聖徳太子信仰の熱心さが現在も伝わっている。
■■「越中の一向一揆の牙城の井波瑞泉寺には豊臣秀吉が安堵状を出して懐柔した様子が判る。」
■「井波瑞泉寺」の客殿にある【富山県指定文化財木造釈迦如来立像】は、富山県高岡市福岡町赤丸村にあった【門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺】の本尊。(※「福岡町史」)
◆「釈迦如来立像」の遍歴
「川人山鞍馬寺」は室町時代に浄土真宗「法莚寺」に改宗して高岡市福岡町一歩二歩に移った。その為に、鞍馬寺の一坊の「西宝院」はその後継寺院として「川人山鞍馬寺」を赤丸村旧地で興した。「法莚寺」は、この時に元々の鞍馬寺の本尊「釈迦如来立像」を持参したが、鞍馬寺を開いた白山修験道の「泰澄」が開いたと伝わる「鞍馬寺」の本尊であったこの仏像は、時代を経て傷みが激しかった為に長い間、法莚寺の長櫃で眠っていたが、やがて、金戸専徳寺に売り渡されて、これを小矢部市の椎茸栽培業の山口氏が自費で修復して「室町時代の後小松天皇ゆかりの仏像」として、火災に逢って全てが燃えたとされる城端別院へ寄贈された。この仏像は城端別院では、「土の中から掘り起こされた仏像」と伝えられているが、実は「越中五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進された為に、臨済宗以外の寺院が赤丸村から追われた為に、「法莚寺」も赤丸村を去ったとされる。「越中五位庄」は南北朝時代迄は、上皇の庄園「越中吉岡庄」であったが、室町時代になると、五位庄赤丸村の「赤丸浅井城」は、「室町幕府越中守護畠山持国」の居城となった為に、赤丸村から臨済宗以外の寺院が追われたと伝わる。
(※「相国考記」、「畠山文書」羽曳野市)
〇【延喜式内社赤丸浅井神社】の別当は【聖護院派川人山鞍馬寺】
(写真提供者 金沢市)
■「北野天満宮・美作管家党の梅紋(六曜紋)」
「加賀藩金沢本家の剣梅鉢紋」
■菅公(※菅原道真)の末裔と云う「前田利家」の家系は、尾張国海部郡前田に興り、尾張荒子に城を持っていた。「菅原道真」は、「天穂日命」(アメノホヒノミコト)(天照大神の二子、出雲国造の祖) の子孫で、大相撲の祖『野見宿禰』(ノミノスクネ)を祖とする「土師氏」(ハジシ)の子孫であり、平安時代初期に大和国菅原邑に住んだ事から「菅原氏」を名乗った。物部氏も「天穂日命」の子孫で、前田氏とは祖先を同じくする事から、越中の守山城近くの「物部神社」と氷見阿尾城に在った菊池氏の神社「榊葉神明社」を合祀して金沢城近くに「尾山神社」として祀り、加賀藩前田家の氏神として祀っている。
【前田・物部略系図】
1.「天穂日命」━→ 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)→宇摩志麻遅命(ウマシマチノミコト)→ 物部氏→物部守屋
2.「天穂日命」━→野見宿禰(ノミノスクネ)━━→土師氏(ハジシ)━━→菅原氏━━→美作管家党(ミマサキカンケトウ)━→前田氏
(※一般的に知られる加賀藩前田家系図→別に藤原氏とする意見も有る。)
■『前田利家の祖の野見宿禰』とは??
相撲神事で有名な『野見宿禰』は加賀藩前田利家の祖の「土師氏」の先祖とされる。出雲国の相撲の勇士『野見宿禰ノミノスクネ 別名襲髄命カネスネノミコト』は「天穂日命」の14世の子孫で第12代の出雲国造の鵜濡渟(宇迦都久怒ウガツクヌ)の子とされる「第13代出雲国造」であった。垂仁天皇の命により「当麻蹴速タエマノケハヤ」と角力(スモウ)の為に出雲国から召喚され、蹴速と互いに激闘して勝ち、蹴速の大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えたと云う。又、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)の葬儀の時に殉死の風習を止め埴輪の制を提案して「土師臣」(ハジノオミ)と賜姓され、以後、土師氏が代々の天皇の葬儀を司った。
※愛知県一宮市に「延喜式内社野見神社」がある。
[祭神]野見宿禰命、天穂日命、天照大御神
上記3柱を主祭神に宇迦之御魂命と須佐之男命を合祀する。
神社名から「土師氏」の祖神である「野見宿禰命」、又は「天穂日命」と見られる。愛知県には、「物部神社」や「野見神社」等の神社があり、「熱田神宮」には「菅原天神社」も併設されており、特に「物部氏」の系統の神社が各所にあり、庄園もあった事から「前田氏」等の物部氏の子孫が住んだ様だ。
【尾山神社と菅原道真⇒加賀藩前田家の祖先と信仰!】
金沢市の著名な「尾山神社」は元々、富山県氷見市の「榊葉神社」と高岡市海老坂の「物部八幡社」を合祀したもので、加賀藩の氏神として崇敬された神社である。
◆【先代旧事記】には、越中新川郡の「大新河命」は【物部連公の姓を賜った】とされる。
●富山県氷見市の元菊池氏の居城の「榊葉神明社」は、元々大伴家持が創建されたと伝承される古い神社で、菊池が九州の肥後国から越中に来た時に、途中、伊勢神宮に参詣してそこから榊の木を持ち帰った事から 「榊葉神社」と呼んだと云う。祭神は「天照皇大神・ 菊理比神・ 底筒男命・中筒男命・表筒男命」で、「天照皇大神」は「伊勢神宮」の祭神、「菊理比神」は石川県白山市鶴来町の「白山比神社シラヤマヒメ」の「菊理媛尊ククリヒメノミコト=白山比売大神」と同一神とされる。又、「底筒男命・中筒男命・表筒男命)は大阪市の「住吉大社」の祭神で、「日本書紀」にこの住吉三神が神功皇后の三韓征討に際して皇后に神託を下した事が記載される。 又、この三神は神功皇后が三韓征伐に自ら赴かれた時に大いに助けられた神とされる。この事から、元が押し寄せた「元寇」の時に九州肥後国の前線で戦った菊池氏の末裔であった阿尾城の菊池氏が、外敵調伏の願いを込めてこの住吉三神を祀ったものと見られる。
この「住吉三神」については国産みの有名な神話がある。
■「伊邪那岐尊 (イザナギノミコト) と伊邪那美命 (イザナミノミコト) は国生みの神として大八島(オオヤシマ)を生み、又、様々な神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(ヨミノクニ)(*死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうと黄泉国に向い、黄泉国 の扉を開けた所、そこにはウジが沸いた恐ろしい姿になった 伊邪那美命 を見る。伊邪那美命は「帰って下さい」と言って 伊邪那岐尊 に我が身の恐ろしい姿を見られた為に扉の中に隠れてしまった。 伊邪那岐尊は思いを果たせず止むなく帰られた。 伊邪那岐尊は黄泉国からの帰途、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢(ケガレ)を洗い清める禊(ミソギ)を行った。この時に、瀬の深い所で底筒男命(ソコツツオノミコト)が、瀬の流れの中間で中筒男命(ナカツツオノミコト)が、水表で表筒男命(ウワツツオノミコト)が、それぞれ生まれ出たとされる。」「筒」は「土」を指す。この事から、自然の中の表、中、底のあらゆる所に坐します神々を祀っているとされる。引いては「大和の国の国土の神々」を指す。
『※「本地垂迹説」では 薬師如来(底筒男命)、阿弥陀如来(中筒男命)、大日如来(表筒男命)とする。 』
■「榊葉神社」は 久米郡美咲町打穴西634 に在る古い神社で、岡山県神社庁の説明文では「創建は景行天皇の御代と云われ下打穴数村の大産土神である。天正年間、原田貞佐が造営した。安政3年卜部良煕から榊葉八頭大明神の下し文を受けた。明治6年7月郷社に列格。」とある。祭神は「天兒屋根命、須佐之男命、大地主神、菅原神 」である。この「久米」という土地の名は、大和朝廷の軍事氏族で大伴氏と共に戦った「久米氏」に関係があると見られる。此処の祭神は加賀藩前田家の氏神の「菅原神」とされている。前田氏は、その祖先に「美作管家党」があり、「美作国」はこの久米郡も含む岡山県であり、この地が美作管家党の勢力圏であった。その為、表向きは阿尾城の菊池氏の氏神の「榊葉明神社」を祀ったとしているが、これは菊池氏を前田家に臣従させる為の口実で、実際は美作管家党を祀る「美作国榊葉神社」を金沢の尾山神社に合祀していたものと見られる。
美作管家党は岡山県勝田郡奈義町中島周辺を本拠とし、菅原道真から12代目目後には作用菅太知季、原田次郎兼知、有元三郎仲頼の子供があり、この原田次郎兼知の子孫が加賀前田氏の先祖とされる。 原田次郎兼知の系統は美作国久米郡稲岡庄原田を領有したとされ、この「榊葉神社」は紛れも無く、加賀藩前田家の祖先の原田氏の領地に在る神社を勧請したものである事が判る。
●結局、表向きの由緒に隠れて、金沢市の「尾山神社」には、加賀藩前田家の祖先の「美作管家党の先祖の菅原道真」と、先祖を同じくする物部氏を祀る「物部八幡社」(高岡市東海老坂字川田1068)を合祀して、更に、表向きは「物部(八幡)社」に武人の神とされる「八幡神」が祀られているとして、「加賀藩」の守り神とした事にしたものと見られる。ここでは敢えてこの神社が「物部氏」を祀っている事を伏せたのは、浄土真宗の牙城、加賀一向宗の持てる国とも云われた加賀、越中を領地とする加賀藩としては、かつて「物部守屋」が聖徳太子に滅ぼされた「佛敵 物部氏」の子孫である事を伏せたものと見られる。豊臣秀吉が越中の佐々成政と対峙した時に、先ず、浄土真宗、一向一揆の牙城の井波瑞泉寺に「領地の安堵状」を出して懐柔した事を見ても、如何に外部からの侵略者の前田家が地元勢の「一向宗対策」に腐心していたかが推測できる。浄土真宗では通常、「親鸞上人の絵像」か「南無阿弥陀仏」の名号を掛けるが、井波瑞泉寺では「聖徳太子像」を飾り、毎年、「太子伝会」が開かれて、佛敵の物部守屋と対抗した聖徳太子信仰の熱心さが現在も伝わっている。
■■「越中の一向一揆の牙城の井波瑞泉寺には豊臣秀吉が安堵状を出して懐柔した様子が判る。」
■「井波瑞泉寺」の客殿にある【富山県指定文化財木造釈迦如来立像】は、富山県高岡市福岡町赤丸村にあった【門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺】の本尊。(※「福岡町史」)
◆「釈迦如来立像」の遍歴
「川人山鞍馬寺」は室町時代に浄土真宗「法莚寺」に改宗して高岡市福岡町一歩二歩に移った。その為に、鞍馬寺の一坊の「西宝院」はその後継寺院として「川人山鞍馬寺」を赤丸村旧地で興した。「法莚寺」は、この時に元々の鞍馬寺の本尊「釈迦如来立像」を持参したが、鞍馬寺を開いた白山修験道の「泰澄」が開いたと伝わる「鞍馬寺」の本尊であったこの仏像は、時代を経て傷みが激しかった為に長い間、法莚寺の長櫃で眠っていたが、やがて、金戸専徳寺に売り渡されて、これを小矢部市の椎茸栽培業の山口氏が自費で修復して「室町時代の後小松天皇ゆかりの仏像」として、火災に逢って全てが燃えたとされる城端別院へ寄贈された。この仏像は城端別院では、「土の中から掘り起こされた仏像」と伝えられているが、実は「越中五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進された為に、臨済宗以外の寺院が赤丸村から追われた為に、「法莚寺」も赤丸村を去ったとされる。「越中五位庄」は南北朝時代迄は、上皇の庄園「越中吉岡庄」であったが、室町時代になると、五位庄赤丸村の「赤丸浅井城」は、「室町幕府越中守護畠山持国」の居城となった為に、赤丸村から臨済宗以外の寺院が追われたと伝わる。
(※「相国考記」、「畠山文書」羽曳野市)
〇【延喜式内社赤丸浅井神社】の別当は【聖護院派川人山鞍馬寺】