赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🏯 🌸 越中守山城の城主【神保氏張】とその妻【織田信長の妹】!!

2021-04-11 | 富山県高岡市









「富山県の歴史街道とも云われる小矢部川周辺」


■富山県の小矢部川沿いに守山城が有った。この城は、南北朝時代に桃井直常の「獅子頭城」、斯波義将の居城の「守山城」となり、室町時代には室町幕府管領の畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣の神保氏が「守山城」に入城した。神保氏の最後の城主となった神保氏張は享禄元年(1528年)に能登の七尾城主畠山義たの二男として生まれ、守山城の神保氏純の養子となり、織田備後守信秀(織田信長の父)の娘(信長の妹)を妻にした。
上杉謙信の動静を書いた「北越太平記」(※「北越軍談」)にこのいきさつが詳しく記載されている。上杉謙信44歳、天正元年の記事に「この年、信長の妹を以て越中の神保安芸守に嫁す。是(神保氏張)は上杉謙信の姪の婿、上杉弥五郎義春が兄なり。共に能登畠山修理大夫義則が弟なり。信長は謙信へは入魂の体を顕すと云えども内には野心を持つ。神保氏張を妹婿として越中へ手入れあるに付き、謙信腹立して越中、加賀、越前までも手遣りあり。」と有り。天正二年三月、織田信長は謙信の疑いを晴らす為に「洛中洛外図屏風、源氏物語屏風の各一双」を謙信に贈った。何れも狩野永徳の筆になる。しかし、信長が色々な手立てで上杉領内に手出しをしてくる事を責め、信長に手切れを告げた。信長は誰が讒言したかと陳謝した。しかし、謙信はそれを信ぜず、三万の兵を率いて越中の神保安芸守の籠る「木舟城」を攻め立て、ついで能登七尾城、加賀松任城を攻め、松任城城主蕪木右衛門の首を織田信長に送り付けた。この時に朝倉義景の残党の下間和泉が反乱を起こし、織田信長は三万の兵を率いて敦賀を攻めた。この頃、北陸各地は戦乱が続いたと云う。
(※この時に「赤丸浅井城に下間和泉居城せりと言う。」と「越中志徴」に記載されている。)
『※注; [北越太平記] では「神保安芸守長純」 と記載しているが、織田信長の妹が嫁いだのは守山城の「神保安芸守氏張」であり、「神保長住」は越中守である。頼山陽の著作「日本外史」でも木舟城に「神保安芸守長住」を攻めたとされているが、明らかに是は「神保安芸守氏張」の間違いである。』


この系図では「長純=氏張」としているが、静岡県立図書館の徳川幕臣「神保氏系図」では以下の内容であり、「氏張は氏純の養子」である。

■『※「氏純(童名太郎 神保越中守):越中守山城主 當此時越中守護畠山義則衰武威國人不随其号令国中大乱氏純出張而振威欲領越中時上杉謙信感其武威厚為誓約故属謙信尽軍功 、女 佐々内蔵助成政室 信長封成政而越中守護 」→「氏張(少名清十郎 神保安藝守 實能登畠山義隆二男 越中守山城主):始属上杉謙信 謙信没後信長公封越中半国廿六万石為北国押云々 佐々成政入国氏張住熊本成政家蒙勘初死云々 天正十七年巳丑大神君於濱松城被 名出賜下総国香取郡之内二千石地列交代寄合 慶長五年庚子関原之役依 釣名留守江戸城 後年於江戸没時六十五歳 法名玄皈居士」→長男「氏則(少名清十郎 神保主馬介):室佐々成政女 天正二年甲戌十二月属伯父能登国守畠山義則之幕下」・二男「氏長(神保五郎兵衛):母信長公妹 継父家督領二千石奉仕 台徳公時代為寄合之列 大阪冬夏両御陣供奉有軍功 寛永二年乙丑四月五日没時五十一歳 法名宗英居士」→「氏長の子 氏勝・氏房」→「氏勝の子 氏信」→「氏寿」 と続いた。』






■「神保氏張」は当初、上杉謙信に対抗したが、後には上杉謙信に従い、更に織田信長に従い配下の佐々成政に従い能登攻めに参戦。配下の五位庄柴野城主「寺島牛之助」や赤丸城・浅井城主の「中山直治」と共に石川県押水町(現在は宝達志水町)の末森城に「前田利家」を攻めた。氷見阿尾城の「菊池武勝」の裏切りや五位庄沢川村の「田端兵衛」の計略等も有り、天正13年(1585年)「前田利長」が守山城に入場する。「豊臣秀吉」が越中呉羽山に布陣するに及び、成政は秀吉に恭順の意向を示し、佐々成政と神保氏張は富山城に移り、天正15年(1587年)佐々成政の転封に従って、九州肥後国(熊本県)に移った。しかし、国人一揆の責めを負い佐々成政は自害。神保氏張は浪人となり、天正17年(1589年)「徳川家康」に見いだされて三河に移る。文禄元年(1592年)徳川家康から下総国(千葉県)で2000石を与えられ、文禄元年(1592年)8月5日、65歳で没したと云う。墓所は所領の千葉県成田市の宝応寺。嫡子氏興は佐々成政の婿となり、成政に殉じ、二男の氏長が二代目となる。(氏長の母は信長の妹。)その後、三代氏勝、四代氏信、五代氏寿、六代氏秀と続き、幕末まで神保氏は徳川家旗本として存続した。
(※神保家三代、四代、六代は何れも「市右衛門」と名乗っている。)

▼「群書類従」の系図「群書系図部集」には「織田信長」の姉として「神保氏張の妻」の記載が有る。


■高岡市に有る「衆徳山総持寺」の門徒総代で高岡インター周辺・石堤村や赤丸村の各地を開発した「市右エ門」(*池田) との関係が有るか? 神保氏の家紋は「丸に二つ引き」で池田市右衛門は「丸にエ」であり良く似ている。市右衛門家も代々市右衛門を名乗り、元は赤丸村に広範囲に所領を持ち、浅井城下の浅井神社前に居館を構え、後には守山城近くの国吉名に住まいする。この池田氏の先祖は朝香年木氏に拠ると、源平時代から続く国人領主と推定され、能越道高岡インター周辺の池田、氷見の池田、小矢部市今石動(旧池田)等を開発したと推定されている。又、総持寺の赤丸村の旧地周辺も池田島と呼ぶ。 国吉は神保氏張家臣の寺嶋牛介の領地だった。寺嶋牛介は佐々成政が転封後、前田家に仕官し当初は伏木勝興寺隣接地に兄弟の小島甚助と共に屋敷を構えて、高岡城に勤務していた居た様だ。(※「高岡史料」参照)
(※寺嶋牛介の子孫は高岡町奉行を勤めた寺嶋蔵人。)

《※国吉には現在も「織田木瓜紋」を使用している家系が残る。「越中志徴」には【赤丸の喜田氏が信長に通ず】と記載されており、赤丸村に織田信長縁故の者が住んでいた可能性がある。》


■「神保氏張」の妻(織田信長の妹・名前・生年月日不詳)は天正三年(1575年)氏長を産む。氏張(大永八年1528年生まれ)は能登畠山家から神保氏の養子に入り、守山城城主となっていたが天正4年(1576年)上杉謙信に攻められ激怒した信長により妻は離縁させられ京都に流浪。信長の妹がいつ頃どの様な背景で氏張に嫁いだかは、「北越太平記」と云う古書に記載されているが、上杉謙信が神保氏張の兄(※能登畠山義隆の子)を姪の婿としていた為に、織田信長は謙信の怒りを静める為に、その弟の氏張に自分の妹を戦略として嫁がせたとされている。
「信長公記」の初見は天正六年四月に氏張は信長と会見している。同年、天正六年(1578年4月19日)に上杉謙信死去。氏張はこの年、佐々成政の与力として信長により越中守山城城主・越中半国二十六万石領主に封じられて越中に派遣されるが、天正九年佐々成政が富山城主となり氏張は天正十年失脚して肥後熊本に流浪する。信長は天正十年(1582年6月21日)本能寺の変で死去。天正十二年(1584年)佐々成政に従って、柴野城の寺嶋牛介、赤丸の中山直治と共に能登末森城の前田利家と戦う。佐々成政は敗れて豊臣秀吉が越中に侵攻すると降伏し、しばらく新川を領有した後、天正十五年(1587年)熊本に転封されると氏張もこれに従う。天正十六年(1588年)佐々成政が秀吉に切腹させられると天正十七年には徳川家康に仕官して以後代々徳川幕府の旗本として存続した。氏張は文禄元年(1592年8月5日)江戸で死去。

■(※神保氏張の妻で信長の妹は、神保氏張が上杉謙信に敗れて寺島牛介と共に上杉謙信の家臣となった時には実家に戻ったと見られ、やがて美濃の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁して男子三人、女子二人を産み、娘の一人は織田信長の子息の三吉郎信秀に嫁いだと云う。→「織田信長総合辞典」雄山閣 、「上杉家臣名簿」参照)
(※稲葉系図によれば、この信長の妹の母[信秀の妻]は稲葉貞通の娘の玉雲院であったが、信長により離婚させられてからは祖父の稲葉貞通の後妻になっている。 )

▼「神保氏系図」静岡県立図書館蔵 に拠れば氏張の義父氏純の妹は佐々成政の室となり、氏張の子の氏則の正室は成政の女であり叔父の能登国主畠山義則に仕えている。
※「神保氏系図」静岡県立図書館蔵に拠ると、神保氏張は「少名清十郎 神保安藝守 実能登畠山義隆二男 越中守山城主」義父は「畠山氏純 童名 太郎 神保越中守 越中守山城主」とある。

※「神保氏張寄進状」
【奉寄進氷見金橋山千手寺永領之事、阿怒庄加納村之内、 月成公用参貫三百文、并拾疋之北市町屋口路橋之義者、如法経令寄付候、 依之、老親一道同拙夫逆修毎年法華之如法経弐部、 至来、可遶給旨、現当珍重不可過之者乎、永代於子孫、不可(有)違乱、 然者先年寺島・名中両代、彼地就致寄進、長職寺内十一ヶ条之掟、 殊彼加納之公用、北市町屋口路橋等重而書載、五ヶ条之禁制判形之上者、 長久無侘之妨、全可有御知行者也、仍後証之状如件、
   永禄九年六月十二日    神保宗五郎 氏張判
  金橋山千手寺慧遍法印参】
(『氷見市史』資料編4(通巻6)民俗・神社・寺院)
⇒「神保宗五郎」は系図には無く、氏張の子の「氏長」は「神保五郎兵衛 母 信長公妹」とありこの文書との真偽は解らない。一部の識者は神保氏張と神保長住を同一視しているが、この系図に拠ると全くの別人である。
(※宗五郎は「通称」として氏張の事だとする意見もある。)

■「越中志徴」に「赤丸の喜田氏信長に通ず」とある。神保氏張の実の父七尾城主畠山義隆は上杉謙信に内通した長続連等に暗殺されたとも云われ、上杉謙信が七尾城を攻略すると義隆の妻は謙信の家臣の北条高広に与えられ、その子は謙信の子にされたと云う。北条高広は謙信亡き後、景虎に従って御舘の乱で破れると武田勝頼に走る。武田亡き後は織田信長の家臣の滝川一益に仕え、後に北条氏、更に上杉に帰参した変幻自在の人物で、法名を「安芸入道芳林」と云う。別名を毛利高広、喜多条高広、弥五郎 と云う。官名は丹後守、安藝守。この北条(キタジョウ)は大江氏の一族で、北条氏と区別して「喜多条」と呼ばれた。神保氏張は喜多条高広と同じ「安藝守」と名乗り、上杉謙信の家臣名簿にも載る武将でありながら、おそらく義父の喜多条高広が織田信長の家臣の滝川一益に従った事から信長に内通していたものではないか? 「赤丸の喜田氏」とは義父の「喜多条」の名前から神保氏張を差したものかも知れない。畠山義隆の長男春王丸は家臣に担がれて畠山当主になるが幼くして病没したと云う。義隆の二男少名清十郎(※平姓神保氏系図)が上杉謙信の子とされて二宮氏末裔の守山城神保氏の後継者として送り込まれていたとすれば、この「喜田氏」は氏張の可能性が高い。義父の北条高広が織田家臣の滝川一益に仕えており、密かに通じて、後にはその縁で信長の妹が嫁いだ可能性がある。「北越太平記」に拠ると、氏張の弟が上杉謙信の養子になっていた為に、織田信長は上杉謙信のご機嫌を取る為に妹を氏張に嫁がせたとされている。氷見市史の「老親一道同拙」は義父の北条高広か養父の神保氏純か?

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒を伝える「赤丸古代帳」と言う記録が赤丸村初代村長を勤めた家に保存されている。
その中に【「北越地理志稿 延寶年中 ※1673年~1681年迄」赤丸気多大明神國府南四里式内帳所載浅井神社 中略 礪波郡一宮也 社領弐百石別当鞍馬寺山號川人 以下略】の記載が在り、赤丸浅井神社が気多大明神とされていた事が記載される事から、「赤丸の喜田氏」とは「赤丸村の浅井神社の神官を勤めた山伏西宝院」の事とも考えられる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は、古くは「川人大明神」と呼ばれた記録が在り、喜田氏とはこの神社を指したものか?


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