赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴💢加賀藩の暴政ー五位庄赤丸村住民が強制移動させられて高岡市和田新村が開発された。 (-_-#)

2021-04-20 | 富山県高岡市

■加賀藩時代の「越中国」


「加賀藩時代」の【越中五位庄】57ヶ村

五位庄は加賀藩時代に新田が開発され、57ヶ村に成っていた。



●前田家に占領された五位庄赤丸村の住民を強制移動して高岡市和田新村を開発した。
■「和田佐助の和田善宗寺敷地寄進状」(善宗寺所蔵)とその時に加賀藩に浄土真宗城端別院善徳寺が提出した文書(富山県立公文書館所蔵)が遺されている。「朝日山和田善宗寺」は赤丸村の「朝日山長善寺」を分割して和田佐助が用地を寄進して創建され、この時に福岡町の「長安寺」と三カ寺に分割された。







■「和田新村の開町に伴う赤丸村の寺院・住民の移動の歴史!!」
和田新村は1649年、砺波郡佐野村佐助他四名と射水郡北島村二郎三郎が和田野に町立てすることを藩に申請。七十戸の屋敷を設けたが、1699年には87軒となり、その内77件が「頭振」と云われた「小作」であった。1853年には116軒となったが、菅笠、駄賃稼ぎの者が多く一軒当たりの面積の規模も小さい町であった。(※「たかおか歴史との出会い」高岡市発行)
※和田村の町立ての中心の佐野村の佐助は万治三年(1660年)に「隠田の罪」に問われて「磔の刑」で刑死した。和田中町の「神明宮境内」に佐助の碑が有り、毎年十月十五日に佐助の慰霊祭が行われていると云う。 
※和田佐助は浄土真宗の城端別院善徳寺の力を借りて、赤丸村西円の住民を和田に移住させて和田新村を開発し、赤丸村朝日山長善寺を分かち、和田新村に朝日山善宗寺を創建している。
又、赤丸浅井神社の拝殿は和田の住民から乞われて、後に、諏訪社(※地番は高岡市羽広地内)に移設されて現在も使用されている。この拝殿には皇室の「十六菊紋」が建物の各所に彫り込まれており、「延喜式内社赤丸浅井神社」が文武天皇の二宮によって創建された事を示している。

■「赤丸浅井神社」は、醍醐天皇の時に制定された「延喜式」には、毎年、国司が天皇の代理で拝礼した【国幣小社】の記載がある。







(※「元正天皇二宮」とは実は「文武天皇」の第二皇子「石川朝臣広成」を指し、この人物の歌は「万葉集」に三首が載っており、「続日本紀」では後に「高円朝臣広成」と賜姓されている。「聖武天皇」の義弟。)

■南北朝時代迄、【赤丸浅井神社】の神域は【越中吉岡庄】と呼ばれた皇室庄園(後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇)で、国家の神社であった「郷社 53ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」へは「国司」が幣帛を納めた。




・「赤丸浅井神社」の建物には、天皇家の紋章「菊紋」が彫り込まれ、「諏訪社」にも同じ「菊紋」が付けられている。





【諏訪社】(高岡市羽広地内)











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